2023/08/25 - 2023/08/25
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gianiさん
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互いに離れた3つの地方自治体ですが、共通のルーツがあります。いずれも現在の砂川市から分離独立しました。そして石炭採掘で栄え、閉山後に萎んでいる点でも似ています。いずれも滝川駅発の路線バスでアクセスできます。
・奈江村(後の砂川村)から歌志内村が分離
・歌志内村から芦別村/赤平村が分離
・砂川町から上砂川町が分離
- 旅行の満足度
- 5.0
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道道114号線沿いの上歌志内バス停から乗車し、新歌志内トンネルを潜ると赤平市です。国道38号線に合流したら左折して、住友赤平炭鉱を経由して滝川駅へ行きます。
でも、時代順を考慮して、反対側の芦別市を紹介します。滝川~芦別間を走るバスの北大通バス停で下車し、歩いて道の駅を目指します。 -
バス停から空知川を目指して10分ほど歩くと、道の駅があります。
芦別市は、星降る町を標榜しています。 -
こんな公式ポスターも。
ロケ地は、JR芦別駅。 -
リアルな芦別駅
芦別駅 駅
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道の駅横の大橋から眺める空知川。
石狩川最大の支流(全長/流域面積)で、富良野を経由して滝川付近で石狩川に合流する全長195kmの河川です。星の降る里大橋 名所・史跡
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脱線しましたが、道の駅は美味しいものが揃う良い施設です。
道の駅 スタープラザ芦別 道の駅
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道の駅に隣接する市立ミュージアム。
(北海道の)地方にしては珍しく、冷房の効いた快適な展示室が印象的でした。星の降る里百年記念館 美術館・博物館
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野花南堤墓群(3000年前)
北海道独特の形式で、千歳市周辺に多く見つかるが、道央で唯一芦別市でも見つかっています。 -
円形の大きな竪穴を作り、縁は土を盛ります。内部は共同墓地として使用されました。
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先住民
アイヌとして知られる民族は、室町時代の頃に登場します。
写真は、男性アイヌ。
男女とも、耳輪を通します。 -
こちらは女性アイヌ。
結婚前に手に入れ墨を入れます。
眉は、左右を繋げます。 -
和人進出
1856年に幕府の命を受けて蝦夷地を探検した松浦武四郎が、空知川を遡った際に芦別に立ち寄ったのが始まりです。4名のアイヌを案内人に探検を行い、流域の地名を中心にアイヌの言葉を「石狩日誌」に記録しました。 -
「石狩日誌」より空知大滝
芦別は、アイヌ語の立つ川の発音を漢字表記したものとされます。 -
ゴールドラッシュ(砂金)
明治政府の地質調査で空知地方は砂金が取れることが判明し、1889年に大勢の人が砂金目当てに芦別を訪れ、ありとあらゆる沢で砂金探しが始まります。写真のようなもので沢の土砂を掬い、砂金を選別しました。
ペンケ/パンケホロナイ/オチノンべの3河川では、砂金が良く取れました。彼らは目的を果たすと即撤退し、定住には至りませんでした。 -
開基(1893年)
芦別は1890年に設立した砂川村の一部になり、1893年に現在の歌志内市から移住した佐藤伝次郎が常磐地区に定住します。この時点を、芦別開基とします。現在石碑も立っています。
翌94年には、簡易教育所が開設されていることから、急速に人口が増えたと考えられます。1897年には砂川村から分離した歌志内村の一部となり、1900年には芦別村として独立します。人口は1738名まで増えました。 -
芦別の三大産業(農業/林業/石炭)
まずは、林業。市の木に指定されているミズナラは、高級材木として名をはせました。エゾ松/トドマツがメインです。市域の89%が森林で、そのうち9割が国有林です。
1897年に北海道炭礦鉄道の枕木を供給するためにパンケホロナイ川流域を開発します。
1905年には、富士製紙がペンケ川流域を開発、1916年には野花南に森林鉄道を敷設。
1934年に帝室林野局が、国鉄上芦別駅~奥芦別間に森林鉄道を敷設します。
上記の企業は御料(皇室)林で事業を展開しましたが、現在国有林は保護林でアンタッチャブル。林業が軌道に乗るには、現在の5倍の面積の民有林が必要とされます。 -
農業
入植史とイコールで、1900年頃には稲作と畜産が本格化します。
その後は、商品作物も盛んに栽培し、世相を反映して作付内容も変化します。
現在の主力はユリ根、メロンです。 -
石炭鉱業
芦別繁栄の源泉、戦後復興期(石炭採掘ピーク時)は、現在の6倍に当たる7万人の人口を擁しました。
1897年に小規模な採掘は行われましたが、本格化したのは1911年の地質調査後です。ペンケ川上流(国道452号線沿い)に三菱/久原が相次いで開坑します。
三菱坑が再開した翌年には、三菱鉱業芦別鉱業所専用が開通し、5年後には油谷坑まで伸張します。 -
市内の炭鉱
赤:現在地
白:三菱上芦別(1915‐33,48‐64)
青:久原芦別炭鉱(1917-27)→油谷芦別炭鉱(1943-1965)
黄:明治鉱業上芦別炭鉱(1935-63)
紫:芦別高根炭鉱(1938-67)
橙:三井石炭鉱業芦別(1939-92)
緑:芦別鉱業…露天掘り、現在も採掘中。 -
芦別の特徴は、三菱などが結託して、当時北海道でメジャーな北炭の進出を阻んだことです。炭鉱のハブは、上芦別駅周辺です。赤丸の芦別市街は炭鉱とは無関係に開拓発展したために、歌志内/赤平/上砂川等とは違う成り立ちです。
写真は、1938年の防災ポスター。女神とされる山の神が、世相を反映しています。上芦別駅 駅
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三井石炭鉱業(1939-92)
芦別では後発ですが、当時東洋一とされる規模で、平成4年に閉山されました。
上の地図の三角印が第一坑(上芦別坑)、丸印が第二坑(頼城坑)です。第一坑から原炭は索道で上芦別集落まで運ばれ、ここで選炭以降の作業が行われました。
三井芦別鉄道が建設され、国鉄上芦別駅~鉱山事務所~選炭場間が1940年に開業、第二坑の開坑に伴い、1949年に頼城まで伸張されます。旅客営業も行われましたが、1989年に廃止されます。旧三井芦別鉄道炭山川橋梁 名所・史跡
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坑内の炭層は概して斜め方向で、専ら発破法で採掘されました。採掘後はズリの充填が行われます。
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昭和初期の光景
現在の国道38号線。 -
1955年に撮影された芦別駅前。
7万人都市の中心として賑やかです。当時石炭はエネルギー界のエース、数年前の豪雨で国有林が大きな被害を受け、回復プロジェクトのために林業が最盛期だったころです。 -
北大通バス停から乗車し、赤平市を目指します。住友栄町バス停で下車。
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次の住友団地バス停で降りても構いません。
国道沿いには、炭鉱住宅跡に市営住宅が建ちます。
マックスバリュのある交差点を曲がって線路を渡る途中に、住友会館が廃墟として残っています。後述のガイダンスセンターへ行ってから由来を知ったので、写真を撮っていません。 -
住友赤平炭鉱跡
赤平市を代表する炭鉱で、先ほどの娯楽施設を含め多くの施設が遺ります。
こちらは、共同浴場跡。道道227号線沿いにフェンスが建ち、中へ入ることはできません。旧住友赤平炭鉱坑口浴場 名所・史跡
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無料で炭鉱遺産について学べる施設
住友坑ガイドツアー参加者用のガイダンス施設が第一義なので、小ぶりな内容も仕方がありません。赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設 美術館・博物館
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赤平市の歴史
1890年に誕生した砂川村の一部でした。翌91年に開拓者が入植、1897年に砂川村から独立した歌志内村に編入、1922年に歌志内村から分村して赤平村となります。1954年に道内18番目の市となり、1960年には人口59,430人を数えましたが、石炭産業の衰退に伴い現在は9000人を割り込んでいます。 -
大手4炭鉱
茂尻炭鉱(1918-69)
赤平初の大型炭鉱で1918年に開坑。事業者は大倉→三菱→雄別炭鉱と変化。ガス爆発事故の1か月後に閉坑。
豊里炭鉱(1937-67)
昭和肥料(味の素)→豊里鉱業(明治炭鉱)と事業主が変化。
赤間炭鉱(1938-73)
北炭こと北海道炭礦汽船が事業主。1965年からは空知炭鉱。いずれも三井傘下。 -
住友赤平炭鉱(1938-94)
赤平で最期まで操業した坑内炭鉱。1953年には、隣接する上歌志内炭鉱も統合されます。閉山した現在も、多くの施設が産業遺産として遺ります。
現在地は旧事務所跡で、道道227号線を挟んで反対側は、先ほどの鉱員浴場/脱衣場、貯炭場です。 -
立坑跡
1963-94年まで稼働。東洋一の立坑と呼ばれました。事務所の向かいにあります。ヤードには、自走枠が展示されています。高さ43.8mの鉄骨櫓の下に、650mに渉る垂直な坑があります。旧住友赤平炭鉱立坑櫓 名所・史跡
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1950年代には地下350mまでの石炭は掘り尽くされようとしていました。そこで、1959-63年にかけて、地下550mまで一気に下降する垂直坑を建設しました。保安部分を含めると、650mの深さになります。
地下350mで従来の坑道と接続し、550mの地点で新しい水平坑道に接続します。エレベータは、時速43kmで運転されました。 -
地下坑道の模型
血管のように広がっています。
54年間で5000万トン近い石炭を産出しました。51年間操業した茂尻鉱と比べても、3倍の量です。 -
1960年の空中写真
赤線:住友赤平鉱、上枠外:豊里鉱
青線:北炭赤間鉱。選炭場/ズリ山は川向こうの赤平駅付近にありました。
白線:茂尻鉱北炭赤間炭鉱選炭工場跡 名所・史跡
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1960年の空中写真
赤線で囲いきれなかった部分が住友赤平鉱、青線部分が住友上歌志内鉱。
低い山が隔てているだけで、歌志内と赤平が隣り合っていることがわかります。
そして歌志内の炭鉱と比べて赤平鉱の規模がとてつもなく大きな施設だとわかります。 -
住友赤平鉱と北炭赤間鉱と豊里鉱の貯炭場が集まる赤平駅は、1960年に貨物取扱量が大阪梅田貨物駅を抜いて全国1位になりました。
現在は静かな駅です。赤平駅 駅
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赤平駅前から、砂川十字路行のバスに乗り、上砂川町へ移動。
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手作り感満載の看板、、、
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一転、とてもしっかりとした施設でした。
炭鉱館 美術館・博物館
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いざ、見学開始。
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開拓:入植
1899年に山内甚之助が定住しました。これを以て上砂川開基とします。
道庁から借り受けた土地を、出身地に因んで鶉と名づけました。
鶉地区はパンケ歌志内川沿いで、砂川市との境界線に囲まれた里寄りの地域です。 -
林野を切り拓いて田畑にするには20名ほどの労力を要し、地縁血縁を頼りにリクルートしました。最初に大木を伐採/売却して資金を調達し、図面も引いて万全の段どりでした。周辺地域の開拓農場からも移住者が集まり、5年以内で軌道に乗れば借上地を所有(逆に失敗すれば強制返却)できる条件でしたが、わずか2年で成功させました。
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下鶉バス停付近
1994年まで鉄道が通り、下鶉駅がありました。 -
黎明期の炭鉱
赤円:北炭西山坑。町域地図の上枠外は、ペンケウタシナイ川流域で、歌志内村域でした。歌志内から見て西側なので、西山と命名。歌志内は1880年以降北炭(北海道炭礦鉄道)が開発し、翌81年に西山坑も開坑します。採掘に技術を要することから、1924年に三井炭鉱へ譲渡されます。当エリアは、1949年に上砂川町が誕生するまで、歌志内町域でした。
下駄炭礦:山の形が下駄に似ていた。詳細は不明。
青円:文殊炭礦。1890年代末に、上砂川駅裏に第一坑が開坑。3名による共同経営だったので、縁起を担いで文殊と命名。向かいのペンケウタシナイ川流域に第二第三坑を開坑し、歌志内市の炭鉱と認識されます。1923年に三井炭鉱に買収されます。
緑円:今村炭礦。1914年に奥沢地区で試掘するも、すぐに閉山。鉱区所有者の苗字に因む。
黄土:下駄炭礦 -
石炭採掘史
1898年に三井鉱山合名会社が地質調査を行い、鉱業権を設定します。同社の西山正吾が1900年に大掛かりな調査を実行します。西山は、明治4年の地質調査で有名なライマンの直弟子です。
1914年には三井砂川炭鉱が開坑します。 -
三井砂川炭鉱(1914-87)
1914年の第一坑(写真)に続き、奥沢坑と呼ばれる第二坑(北坑/南坑)が1917年、1919年には第一選炭機(写真上)が完成します。 -
鉄道(1918-94)
1918年には、函館本線の砂川~三井炭鉱を結ぶ7.3kmの国鉄路線が開通します(用地と資金は三井が寄付)。当初は三井鉱の貨物専用線でしたが、1926年に旅客営業を開始するにあたり、函館本線の支線に編入されました。国鉄歌志内線とほぼ並行する路線です。 -
炭鉱の手前に設置された旅客駅は「上砂川」と名づけられ、1935年に正式な地名になります。
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輸車路
各坑の出口には、駅へ続く輸車路でつながっていました。写真は、第三坑のある東町付近。 -
第2選炭機(1941年完成)
国鉄上砂川駅の横には、より大規模な第2選炭機が敷設され、原炭を選別しました。製品は鉄道貨物で、廃品はズリ山へ廃棄しました。 -
写真の奥が駅/選炭場で、輸車路が各坑へ向かって伸びています。
1936年には選炭場横に第5坑(文殊坑)、37年には第6坑、39年には第7坑が開坑します。日中戦争以降は国策で増産が課され、1940年には年間161万トンを達成し、終戦に至ります。 -
選炭過程で、熱量の少ない亜炭は炭鉱住宅に配られて、家庭用暖房の熱源になりました。石炭を積んだ馬車が配達しました。
※昭和20年代でも、札幌の中心街では馬車がゴミ収集に従事していました。そんな時代です。 -
砂川町(現砂川市)から分離独立
炭鉱パワーで力を付けた街は、1949年に砂川町から分離独立します。駅名から始まった地名を冠して、上砂川町の誕生です。写真のように、一部歌志内町からも町域を編入しています。砂川町の役場が遠かったことと、坑道が歌志内町域に及ぶことが多かった事情があります。それらを一斉に解決しました。 -
通常は村から始まりますが、いきなり町として独立したことは、いかに人口/財政面で優秀かが伺われます。
人口のピークは、1952年の32,103人です。 -
1950年当時のジオラマ
三井砂川を中心に町が形成されています。
通常、複数の鉱山事業者が参入しますが、上砂川町は三井一社のみ。
それゆえ、「一町一山」と呼ばれます。 -
一町一村
交通/都市開発のみならず、学校/スポーツ/娯楽等のすべてに会社/町政が一心同体で関わっていました。 -
深部開発
戦争中に地表近くの石炭を乱獲したツケが回り、深層部の開発に取り掛かります。
1953年に、第1坑の深部に第一立坑(写真左上)が稼働します。 -
中央立坑
1967年には、中央立坑が稼働します。深度は710m、水平坑道の深度は660mと当時の最先端です。 -
三井砂川の鉱区は、東西14km南北10kmと広大なものでした。
奈井江炭鉱
国鉄奈井江駅東方の炭鉱で、1947年に白山坑開坑、49年に奈井江~白山間6.9kmに専用鉄道敷設。1950年に奥奈井江坑開坑、51年に白山~奥奈井江間3.1kmに専用鉄道敷設。
1963年に大日興産に移行、69年に鉄道廃止、71年に閉山しました。 -
登川坑
夕張市内の炭鉱です。写真は、登川坑の坑内ジオラマ。 -
採炭技術
1914年の開坑時は、専ら人力でした。柔らかい鉱脈はツルハシを振るい、硬い鉱脈はタガネを当ててハンマーを振るいました。しかし第一次世界大戦の好況に伴い、人手不足と産出量の両方を要求され、機械化が始まります。大戦後の不況は、採炭の効率化を求められ、機械化を後押しします。 -
画面を跨ぐ機械が、コールピック。刃先が手元の圧縮空気によって動き、黄色い脚で支えて鉱脈を掘りました。
発破も行われ、写真下のねじの親玉のようなものがオーガドリル。鉱脈奥へ穴を開け、そこへ火薬を詰め込みました。
戦後は、切羽をカッペと呼ばれる金属製の柱/枠で支えられ、安全性が増しました。 -
★水力採炭★
戦後の炭鉱では、刃物の大型化が進みましたが、こちらは水をかけて(消防ポンプの10倍の)水圧で鉱脈を砕く珍しい方式を1964年に採用しました。ソ連で確立された技術です。砂川鉱の炭層は70度に傾斜する事情がかかわっています。三井で発展した水力採炭は、後にカナダへ輸出されます。 -
システム全容
パンケ歌志内川に貯水池を設けて水源とします。ポンプを通して地下の切羽へ送水し、採炭。原炭はベルトコンベアで、排水はポンプを通して選炭場へ運ばれます。原炭を選別し、水に混ざった石炭片や石炭粉を濾過/沈殿させて採取。浄化して川へ戻します。選炭はベルトコンベアで、鉄道貨車へ積み込まれます。 -
採掘の前線(モニター)に数名のスタッフが操作に詰める以外は、採炭/坑内運搬/選炭/坑外運搬もすべて機械化。究極の省力システムでエネルギー革命の波に立ち向かいます。1987年に閉山となります。
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では、資料館から野外へ出ます。
炭鉱事務所や第一坑がありましたが、今は何もない大地です。
遺構は、向こうにズリ山が見えるだけです。 -
1967年完成の中央立坑。
櫓の高さは50mあり、溶接ではなくリベット締めで接合してある建築学的にも価値ある建造物です。櫓にはJAMICと記載。旧三井砂川炭鉱中央立抗 名所・史跡
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地下無重力実験センター跡
地下710mの坑を活用して、10秒間の無重力状態を再現(世界一)できる施設として、再出発。第三セクターで行き詰まり、現在は解散。 -
上砂川駅を目指します。
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1994年に廃止された上砂川駅。
ドラマのロケ地に因んで、悲別駅とも表記。旧上砂川駅 (悲別駅) 名所・史跡
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駅構内。炭鉱が閉山した1987年に無人化されました。
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上砂川市街
この先に町役場があります。 -
役場裏の上砂川神社
次は、砂川市の母体となった滝川市を訪れます↓上砂川神社 寺・神社・教会
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