2023/08/25 - 2023/08/25
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gianiさん
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市制詐欺かと思ってしまう人口で、市を名乗る歌志内。全国で最初に1万人を割った自治体です。北海道では、町制へ移行する基準の人口が5,000人なので、村レベルの人口。65歳以上の住民が過半数を占める高齢化都市。石炭フィーバーで凋落した歴史の側面です。
用語:炭坑…炭鉱の個々の坑(出入口)
炭鉱…個々の坑(炭坑)の集合体。地区単位。
炭田…炭鉱の集合体
炭砿…炭鉱(石炭を採掘する鉱山)と同義。石炭は金属ではないので、金偏ではなく石編にする。常用外。採掘会社は、こだわりを持ってこちらで表記する傾向にあった。
炭礦:炭砿の旧字体
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のスタートは函館本線の砂川駅。
駅前に柳の木。パンケ歌志内川が鉄道と国道を横断します。
砂川市の中心です。砂川駅 駅
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なにげに、ここの豚骨ラーメン美味しいです。
なごみ グルメ・レストラン
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石狩川の遊水地を利用した公園。旧石狩川と旧パンケ歌志内川が合流した地点です。
砂川市は1890年に奈江村として発足、1907年に砂川村へ改称。
この地はアイヌ語で「オタウシナイ」と呼ばれ、砂浜についている川という意味です。という訳で砂川と表記されました。砂川オアシスパーク 公園・植物園
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函館本線/国道12号線に沿って開拓が進んでいます。一方で、ペンケウタシナイ川沿いにも、入植を感じさせる地割が。
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産業に見放された砂川市は、「砂川スイートロード」を推しています。
国道12号線沿いには名店揃い。
この店はアップルパイですね。
※道路自体は舐めても甘くないので、お金を用意しましょう。ナカヤ菓子店 グルメ・レストラン
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パンケ歌志内川は洪水対策で砂川市街部分は1998年に地下放水路に切り替わり、地表部分は親水公園になっています。
北海道らしい人工の光景。
なぜ砂川と歌志内を一緒に扱うかというと、歌志内は砂川からの分村だからです。親水公園 流れのプラザ 公園・植物園
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市民のスピリットの要となる砂川神社。1891年創建です。
ここから、砂川市街発のバスに乗って、歌志内市を目指します。砂川神社 寺・神社・教会
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バス停の真ん前にある市営ミュージアムは、見ごたえがあります。
市の公式HPでは前月末の人口が公表され、7月末は2712でしたが、8月末は2704人に減少しています。
歌志内は、アイヌ語のオタウシナイを漢字で当てました。意味を覚えているでしょうか?砂浜についている川(砂川)です。名称にも、両者が表裏一体であることが反映されています。郷土館ゆめつむぎ 美術館・博物館
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一言でいえば、歌志内は石炭の発見で入植し、閉山後は衰退し続ける街。
歴史は明治20年代に遡ります。
でもその前に、北海道内陸部の開発史を、ざっとおさらいします。 -
石炭は、大昔の植物が化石化したものです。
北海道の石炭層は、メタセコイアの木の死骸が積み重なったものです。微生物による分解等を経て1/17の厚さに圧縮されます。
写真は、ビフォアアフター。 -
そのころ、北海道の大地は東部/中央部/西部に分かれていました。炭田は、中央部に集中します。
地殻変動で、3つの塊が互いに歩み寄ります。その過程で木の死骸は浅い海に沈み、生物による分解作用が止まって泥炭化します。
塊同士が衝突した部分は盛り上がり(山脈)、泥炭は地中で熱と圧力を受けて、石炭に変化します。地殻変動や表面の浸食を経て、地中の石炭層が地表に顔を出し、人間に発見されます。 -
江戸時代の松前藩(和人)は、沿岸部のみの進出で、内陸は石狩川流域に進出した位でした。
明治4年の地質調査で中央部に豊富な石炭があることがわかり、小樽港~札幌~岩見沢~幌内炭田を結ぶ幌内鉄道が明治16年(1883年)に全線開通します。炭鉱は、札幌から夕張川を遡った夕張近郊と、岩見沢から石狩川と支流を徐々に遡って開発(空知炭田)されます。 -
1888年の坂市太郎による調査で、砂川で石狩川に合流するペンケ歌志内川上流の上歌志内で鉱脈が見つかります。
1890年に北海道炭礦鉄道が空知炭坑を開坑します。
翌91年には神威坑も開坑し、岩見沢~歌志内間の鉄道も開通します。 -
実は、郷土館は歌志内駅構内跡に建っています。
北海道炭礦鉄道は官営幌内鉄道の路線を譲り受け、1892年の時点で石狩炭田(夕張/空知炭田の総称)~積出港(小樽/室蘭)を結ぶ路線網を形成し、炭鉱および鉄道を経営しました。鉄道国有法で1907年に鉄道部門を買収/国有化され、北炭は炭鉱/海運会社になります。
※歌志内は、幌内/幾春別に次ぐ北海道3番目の炭鉱です。岩見沢/幌内/幾春別の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11852137 -
石炭採掘で歌志内は栄え、1897年に奈江(砂川)村から独立して歌志内村になります。この時点で人口は3,000人を超え、現在よりも栄えています。空知川流域でも炭鉱がが開発され、1900年には芦別村、1922年には赤平村が歌志内村から分離独立します(現在は芦別市/赤平市)。
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各社参入
北炭、地質調査に携わった坂による坂炭礦を始め、多くの企業が開坑します。企業再編も進み、北炭は三井財閥、坂炭礦は1925年に住友石炭鉱業等、石炭産業の最前線になります。各坑の所有者や社名が何度も変わるのは業界の常なので、その点に留意して以降をご覧ください。 -
空中写真は、すべて1960年撮影のものです。まずは1枚目。
赤丸:現在地(資料館/歌志内駅跡)。市役所などが建つ市の中心で本町と呼ばれます。
地図の右方向がペンケ歌志内川の上流、右端が分水嶺(上歌トンネル)で右枠外が空知川流域の赤平市/芦別市になります。
青丸:1890年に開坑した最初の炭坑(当時の名前は北炭空知採炭所)。
黄色:芥川賞作家高橋揆一郎生誕の地(1928年)。
緑色:住友上歌志内炭鉱(1895-1988)。歌志内より上流に位置することから命名。北炭→坂炭礦→住友と変遷。 -
まずは、上歌志内へ。
一応、バス停あります。
右側が住友上歌志内坑、両側に炭鉱施設が林立しましたが、現在は草原が広がるだけの景色。 -
1950年の写真
貯木場の材木は、坑柱などで使されます。
後ろの住友ロゴと安全第一の文字が張ってあるのが、立坑の櫓です。 -
高橋揆一郎(1928-2007)
北海道初の芥川賞作家。『友子(炭鉱夫の子弟制度)』などを発表。 -
作家になるまでの半生
歌志内村字上歌志内無番地で坑夫の息子として炭鉱長屋で生まれます。札幌の大学へ進学するも中退し、住友炭鉱の上歌志内事業所へ就職。帰巣本能でしょうか? -
友子(ともこ)制度
人名ではありません。従弟関係に基づく坑員間の結びつきで、技能養成/相互扶助/自治機能を併せ持ちます。事業者は給与を支払うのみで、新人に技術を教えたり各種保障といった責任は一切負いませんでした。写真は親分からの免状で、炭鉱では最も信頼性の高い書類として、技能証明(給与に反映)身分証としての役目を果たしました。機械化や公的保障の充実に伴い、高度成長期に姿を消しました。 -
上歌志内の炭鉱住宅
現在の道道に面した炭鉱の北斜面は月見町と呼ばれ、炭鉱住宅が建ちます。
北斜面なので南側の眺望が良く、月が良く見える。つじつまが合いますね。 -
悲別ロマン座
上歌志内には、「北の国から」でおなじみ倉本聡脚本のドラマのスポットが。
管理人の本業は赤平駅前食堂で、普段はそちらにいます。赤平市に依存した施設。
元々は住友上歌志内炭鉱の福利厚生施設で、映画館でした幸福の黄色いハンカチでもロケ使用されています。悲別ロマン座 名所・史跡
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1960年代になると、メインロードが舗装されました。
左手前には、上歌郵便局が写り込んでいます。
1953年以降は、トンネル挟んで向かいの住友赤平炭鉱に統合され、1988年に閉山。 -
悲別ロマン座(上歌志内)から下流へ数分歩くと、東光地区の表示が。左折して支流の中の沢川を遡ってみます。
最初の航空写真の白色矢印方向です。 -
矢印の先の部分の航空写真
上部中央が分岐点で、下の沢(または東光2区/3区)。北炭空知砿営業所があります。
中央が中の沢、龍田坑をはじめとする空知砿の施設が揃います。
下の町の部分が上の沢(または東光1区)で、炭鉱住宅郡と舞鶴坑があります。 -
パンケ歌志内川沿いのメインロードには、北炭空知砿営業所がありました。
現在はおしゃれな市営住宅が建ちます。横には市内唯一のセコマ(セイコーマート)もあり、便利です。 -
道路を挟んで向かいには、従来の様式の市営住宅。格差を感じます。
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1939年に撮影した東光1区(上の沢)。
谷底を中心に炭鉱住宅が埋め尽くします。右には、舞鶴坑が。 -
1960年に撮り直したもの。
中央奥に白い巨塔が写っています。1960年に開坑した中の沢立坑です。
高さ30mの塔の下には、深さ250mの立坑が垂直に掘られました。
1995年に閉山し、歌志内で一番最期まで稼働した炭坑です。
北海道炭礦鉄道は1906年の鉄道国有法で鉄道を買収され、北海道炭礦汽船に改変されます(炭鉱と石炭海運業)。そのままの社名で三井傘下になり、1942年には船舶部門を現在の商船三井に譲渡します。空知砿は、子会社の空知炭礦株式会社に移行します。 -
中の沢には、中央の選炭場(1951年築)、奥のズリ山(ボタ山)など、炭鉱らしい光景が繰り広げられます。
北海道炭礦鉄道は1906年の鉄道国有法で鉄道を買収され、北海道炭礦汽船に改変されます(炭鉱と石炭海運業)。そのままの社名で三井傘下になり、1942年には船舶部門を現在の商船三井に譲渡します。1963年に空知炭鉱分社化され、空知炭礦株式会社になります。北海道炭礦汽船は、ロシアの石炭を輸入する商社として健在です。 -
本町地区
市の中心です。大正年間の光景。しっかり市街地です。 -
2023年も現役!!!
閉山というのは坑内炭坑の話。
実1967年に露天掘りが始まり、現在も続いています。事業者は例の空知炭鉱。中の沢を挟んで左右の山を崩して採掘中です。歌志内市は34の石炭層が重なっているからこそ為せる業です。写真は、1976年の航空写真。左下が歌志内駅、右上が新歌トンネルなので、中の沢の右側の様子。地下には空知鉱/上歌志内鉱が広がっています。 -
こちらは中の沢の左側。
地下には空知砿/神威鉱/新歌志内鉱が広がっていました。
現在露天掘りが行われているのは北海道のみで、空知炭鉱の新空知炭鉱、三笠市の砂子炭鉱、美唄市の2箇所、小平町の吉住炭鉱、芦別市の新旭炭鉱です。北電砂川火力発電所に供給しています。 -
写真は1960年頃の歌志内駅前の大通り。
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グラフを見ると、採炭量と人口が呼応していることがわかります。
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現在歴史を感じさせる建物は、つむぎ館向かいの大正館くらいです。
大正館 名所・史跡
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現在は、閑散としています。営業中の店舗がないのが悲しいです。
ちなみに実勢が如実に反映される宅急便の営業所は、隣の赤平市が担当します。 -
向かいは歌志内公園で、歌志内神社もあります。
歌志内公園 公園・植物園
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3枚目の航空写真
中央に市役所が写っています。往時は高校も2校ありましたが、現在は廃校。現在は、小中合同の市立学校が1つあるだけです。左上には、歌神1~3区が写ります。 -
歌神(かしん)地区
炭鉱住宅が、神威(かもい)岳を切り開いて林立します。
現在はスキー場になっています。かもい岳スキー場 スキー場
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4枚目の航空写真
右上に、3枚目の歌神地区が写り込んでいます。
青:北炭神威砿
緑:神威駅。駅の南側には神威市街が広がります。
黄:三浦綾子赴任の地
赤:住友歌志内炭鉱
橙:西歌駅
白(矢印):神威駅の4km南方には、新歌志内炭鉱(1907-53)があり、神威までロープウェイで運ばれました。1937年に住友傘下になります。新歌地区は2000人が生活しましたが、閉山後無人化し住所のみが残ります。道道115号線からアクセスします。 -
神威炭鉱(1891-1970)
最古参の炭鉱です。1891年に北炭空知採掘所が開坑、北炭空知砿の一部という扱いでしたが、産出量の増加に伴い、1939年に北炭神威鉱が新設。1908年に開坑した開北炭鉱を1943年に吸収し、神威鉱北坑として運営。1963年に閉山し、北斗炭鉱が引き継ぐも、1970年に閉山。 -
神威市街(1964年)
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三浦綾子(1922-99)
1939-41年まで、神威高騰尋常小学校で教員として勤務。
1964年に『氷点』で文壇デビュー。 -
教員採用時の履歴書
旭川高等女学校最終学年で16歳の時のもの。結婚前なので、旧姓堀田綾子で提出。 -
神威尋常高等小学校のある美山地区。北炭神威鉱が写っています。1952年撮影。
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住友歌志内鉱(1905-1971)全景
左右に歌志内線が走ります。北側にはズリ山が2つ並び、斜面を廃棄物運搬用ケーブルカーが走っています。
南側の炭鉱住宅地区から1955年に撮影。 -
北側(神威岳)から撮影したもの。1962年撮影。左中央の炭住は、若葉町。
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中村地区
北側の歌志内鉱と南側の炭鉱住宅に挟まれた市街地エリア。1965年撮影。
住友歌志内鉱は、1905年に中村弥六が中村炭鉱を開坑したのが前身です。 -
求人広告
大手に就職する利点追及の内容。1969,71年10月の相次ぐガス爆発が致命傷となり、翌11月に閉山。 -
現在は、道の駅とレストランがあり、スイスのチロル地方に似た環境を売りにしています。
うたしないチロルの湯 道の駅
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歌志内市域では、105年間坑内採炭が行われました。
狸掘りと呼ばれる狸の巣のような原始的な手掘り方法から、時代と共に進歩します。 -
模式図
地表近くの石炭は既に採掘し尽くされ、新たな鉱脈を求めて深層へ進出します。その結果、地下に広大な都市空間が出現します。地表から見えるのは、高さ数十mの立坑櫓くらいです。 -
立坑
近代炭鉱の要となる構造物です。
地表から垂直方向に数百メートル掘り下げたエレベータ坑(重機/資材運搬用)です。籠(写真)が、分速100m以上の速度で高速運行します。
20世紀初頭から三井/住友といった財閥系の炭坑に出現しました。 -
立坑の真上には、高さ数十メートルの櫓が地表に建ちます。立坑を運行するエレベータのワイヤーを支える滑車が設置されます。滑車には、半端ない力が掛かります。
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水平坑道
垂直に地下へ伸びる立坑の先には、水平に走る水平坑道が。炭鉱のメインロードで、坑内は鉄道が走る大口径のトンネルです。
最初に立坑が建設されると、こうした大規模工事が可能になります。 -
水平人車(手前)/蓄電車(奥)
通常は15両編成。蓄電車は人車や炭車を牽引したバッテーリーカー。 -
水平坑道からは、石炭を採掘するための坑道が伸びます。採掘の前線を切羽といいます。採掘方法は後述します。
原炭(採掘物)は、水平坑道のトロッコで輸送し、立坑のエレベータで地表へ運ばれます。
*******
坑内に新鮮な空気を送ることも必須です。立坑とは別に換気口を垂直に掘り、扇風機を設置して、立坑→水平坑道→換気口と空気が循環するようにします。 -
模式図2
最初の図は北炭のもの。
こちらは、さらに規模の大きい住友歌志内鉱のものです。 -
ベルト斜坑
斜め方向へ走る坑。原炭を立坑のエレベータで運搬すると、輸送力が伸び悩みます。そこで、水平坑道から地表へ通じる選炭場まで斜坑(坂道)を開削し、坑内にベルトコンベヤを設置して、原炭を大量輸送します。 -
人車斜坑
採掘に従事する坑夫も大勢が同時作業します。地表と水平坑道を結ぶ専用の人車斜坑も建設します。構内はトロッコ列車で移動します。
******
水平坑道沿いの鉱脈を採掘し尽くすと、さらに深い鉱脈に沿って水平坑道を新規開削します。水平坑道間は斜坑で繋ぎ、模式図のようにどんどん深化します。
初期の坑道とも接続し、古い坑道も効率的な採炭が実現します。 -
残柱式採炭法
鉱脈に沿って左右前方無尽に採掘すると、天井を支える部分がなくなり、重みで落盤します。なので、石炭層の半分以上を天井を支える「壁」として掘り残し、木製の柱で枠付けして環境を保全しました。何とも、もったいない話です。 -
長壁式採炭法
正方形の断面を採炭するのではなく、左から右へ数十メートルの壁一面を一気に採掘する方法です。同時に作業できる面積が格段に増加し、効率がアップします。
肝心の落盤対策ですが、写真のようエの字形の柱構造で、天井の圧力を受け止めます。
採掘面が前進するたびに、鉄柱のねじを緩めて、前面へ移動させます。 -
摩擦鉄柱
作業員が柱列の一本一本を緩めて締め直します。当然、一本ごとに微妙なムラが生じます。 -
実際の光景
右列の柱は固定し、左列は採掘面に合わせて移動します。
写真の鉄柱は、下から下柱/上柱(可動部分)/抜柱器から成り、水圧/のちに油圧の力で上下へ押しました。操作一つで一斉に調整できることと、細かい設定が可能で昭和40年代に登場しました。 -
天井部分
鉄柱の抜柱器は、カッペ(ドイツ語:傘)と呼ばれる水平方向に走る梁を押し上げて、天盤を支えます。カッペは、左右に連結して延長可能です。
カッペと天盤の間には、カッペと交差する方向に皮板を挟みます。材木は弾力があり、凸凹の表面の天盤の圧力を均等に受け止めるうえで大切です。 -
跡山
採掘が終わった部分は、わざと天盤を崩落させて落盤を防止します。回収網で断面を押さえます。 -
サイドダンプ(横開きダンプ)
水平坑道~跡山間の軌道を走行し、15両編成で運行。1両でズリ(選炭過程で弾かれた屑)2立方メートルを積載できます。ズリはズリ山に廃棄されますが、一部は跡山や役割を終えた坑道に補充し、落盤を防ぎます。 -
炭車
1.6立方メートル分を積載できます。水平坑道では35両、斜坑では7両編成で運行されました。 -
広大な地下展示室
見学者は、自分で照明のスイッチを点灯させて見学します。 -
切羽の歴史
江戸時代以降、坑夫が採掘面に鏨(たがね)を当て、ハンマーで叩いて採掘しました。もしくは鶴嘴を振るって採掘します。採炭量は坑夫(holer)の技量に全く依存していました。
コールピック
最初期の機械で、圧縮空気の力で先端のピックを駆動させます。第一次世界大戦後の不況を受けて効率的な採炭が求められたので、全国で相次いで採用されました。写真のように着色して、原炭の中から見つけやすように工夫したりしました。 -
発破法
火薬の爆発力で鉱脈を粉砕する方法です。落盤のリスクが高いので、硬い鉱脈で用います。写真のオーガドリルで1.5~2mの穴を開けます。 -
穴の奥に火薬を押し込みます。
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断面に多くの穴を開けて装填します。
火薬の取り扱い及び発破の影響は複雑なので、専門職が行いました。 -
コールカッター
ブーメランのように突き出た部分がカッター刃になっており、効率的に採炭できます。 -
写真では長壁に接していますが、ドラムカッター登場後は、長壁法を採用できない細い鉱脈や落盤リスクの高い箇所で使用しました。厚さ1.4mの長壁なら、100mを1日で切り崩せました。
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補足:自走枠とドラムカッター
長壁法の効率を上げるために、1960年代にはカッペの代わりに自走枠、コールカッターの代わりにドラムカッターが採用されます。
ドラムカッターは長壁の左端から右端まで(100m以上)自動で移動し、従来の10倍以上の速さで掘削します。カッペは掘削が進むたびに人力で枠を伸ばしましたが、自走枠は自動で枠が移動し、柱の油圧も自動調整でき、時間/人材の節約になりました。 -
保安
坑内で事故が起こると、大量の死者が出る悲惨なものになります。細心の注意を払いました。 -
坑内は火気厳禁。
原炭には揮発性物質(メタンガス等)が含まれ、採掘と同時に坑内へ拡散します。直火はもちろん、火花の出る恐れのあるものや酸化作用で発熱するものの持ち込みはNGです。 -
岩粉車
坑内に堆積した炭塵が浮遊して炭塵爆発を起こさないよう、石灰石の粉を炭塵の上に散布し、自然発火を抑えます。 -
石炭の分布する地層には、大量のメタンガスが滞留する部分が存在し、採掘で周囲の岩盤が薄くなると、一気に噴き出す危険があります。下記の5つの兆候が感じられたら速やかに報告し、対策を講じる必要があります。
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自然発火
石炭が坑内の空気(中の酸素)に触れると酸化し、熱を放出します。温度が上がると、自然発火する恐れがあります。下記の3つの兆候が見られたら、係員に連絡します。 -
注意事項には、こんな内容も。
原炭輸送用のベルトコンベアに乗ってしまう人もいるんですね(笑)。 -
おまけ
ご飯に味噌汁をかけると落盤を連想させるのでNG
坑内で口笛を吹くと、天盤を支える山の神の手が緩むからNG
坑内で食べ残した弁当を持ち帰ると、坑内で事故死した人の霊が取り付くからNG
といったルールがありました。 -
全国の郷土資料館でお馴染みのレコードジャケット集
個人的には、ベルばらとキャッツアイのチョイスがツボにはまりました。
次は、歌志内から分離した芦別/赤平を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11853531
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