2023/08/25 - 2023/08/25
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gianiさん
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初期は札幌近郊に集中した屯田兵は、上川道路沿いへシフトして行きます。
美唄は、特化隊が駐屯した唯一の屯田兵村です。
大正~昭和にかけては炭都として名を馳せますが、現在は居心地の良い自然と同居する田園都市です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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美唄駅で下車します。
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まずは、市街の中央公園にある郷土資料館へ。
なかなかの展示内容です。中央公園 公園・植物園
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館内には、原始の風景が。
東部は山地丘陵地帯(写真)、西部は泥炭の多い低湿地帯です。 -
先住民のアイヌは、春は鰊、夏は鱒、秋は鮭を獲り、冬は森で狩猟を行い、蛋白源を得ました。
道内のアイヌは地域性があり、美唄は石狩アイヌに属しました。 -
幕末に松浦武四郎が付近を探検しました。北海道という名称の生みの親です。
写真は、美唄についての記述部分です。 -
開拓前章
1845-58にかけての公儀の探検で彼が作成した測量地図には、川と山の名前ばかり。アイヌは数家族単位で暮らし、少数で疎らに分布しました。ありのままの自然環境を基盤にするライフスタイルでした。 -
石炭
1874(M7)年に開拓使はライマンに道内の地下資源調査を行わせます、2年後のレポート「日本蝦夷地質概要図(写真)」「美貝(びばい)煤田測量報文」では、市域の東部にビバイ煤田(炭田)/サンケビバイ-ナイエ煤田など有望な石炭埋蔵を明らかにしています。石狩炭田の一角を為します。 -
高畑利宜らによる調査/道路建設
1870(M3)年に開拓使大阪出張所入りし、72年開墾係として札幌~旭川一帯の原野/水源の調査を行います。ルート上の美唄も含まれます。
1886(M19)年に開拓使を引き継いだ新制北海道庁の命を受け、上川道路(現在の国道12号線 札幌~旭川)を建設/開通させます。 -
道路建設前の地図
下の破線が官営幌内鉄道。幌内炭田(三笠市)と小樽港を結ぶ産業鉄道で、1882年に開通しています。それ以外の「道」は存在しません。道路は、左斜め下枠外の岩見沢までしか開通していません。
左下~右上へかけて蛇行するのが石狩川、中央部を流れて合流するのが支流の美唄川です。船便は存在せず、和人は住んでいませんでした。 -
上川道路
市来知~忠太別(現:三笠~旭川)88kmの区間。1886年5月に着工し、僅か4か月で全通させた上川仮道路が開通。翌87-90年に本道として完成。こうして、陸の孤島時代を終えます。
驚異的な進行は、囚人を容赦なく使役させ彼らの命と引き換えに為した業。人跡皆無の原野で、害虫/害獣/食糧不足等で大勢の囚人が命を落としました。別名は、赤い道路(囚人服の色)です。写真は、作業風景です。 -
開拓と入植(1886)
北海道庁が1886(M19)年に始めた殖民地選定事業で、測量技師の内田瀞がアイヌの協力で美唄西部の低湿地帯を調査し(写真)、チャシナイ原野/トヰノタップ原野/上ビバイ原野等の詳細な地図と報告書を作成します。
同年に福島磯次郎が美唄川左岸に私設渡船場を設営し、最初の定住者になりました。 -
鉄道建設と村の誕生(1890)
1890(M23)年に、岩見沢~歌志内間の鉄道伸張工事が中間点の美唄川付近で始まり、多くの人が滞在します。そして沼貝村が誕生します。
翌年に鉄道が開業し、沼貝村中心部に美唄駅が開業します。 -
屯田兵の入植(1891-94)
沼貝村誕生は、翌年の屯田兵入植に備えたものです。屯田兵は、原野を開拓しながら北方有事(対ロシア)には兵隊として国防に従事する人たちです。前期は札幌周辺に入植しましたが、中後期は専ら上川道路沿いに入植しました。騎兵/工兵/砲兵の3部隊で構成されます。
沼貝村には、札幌側から順に高志内兵村(砲兵120戸)/美唄兵村(騎兵160戸)/茶志内兵村(工兵120戸)が入植しました。峰延駅 駅
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屯田兵舎はこんな感じで、粗末に見えますが、当時の水準としては上等でした。寝具や鍋までが官給品でした。
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一方で、毎日4時間の軍事教練をこなしつつ、合間に1戸当たり5haの土地を開墾する激務が課されました。
屯田兵は一つの村に一つの兵種が原則ですが、唯一沼貝村は複数の兵種が雑居しました。兵の入植が複数回に渉った点でも無二です。 -
実際の屯田兵屋
1893(M26)年の第三次入植時の家屋を、移設/復元した貴重なものです。主屋は間口9.7m奥行6.37m高さ5.5mで、土間/板の間/畳間(6畳+4.5畳)の間取りの「明治24年型(陸軍省標準型)」です。厩舎が付属します。
※屋根は手割柾(まさ)葺でしたが、建築基準法によりトタンに変更されています。美唄屯田兵屋 名所・史跡
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騎兵隊火薬庫
兵屋以外で現存する珍しい建築物。屯田兵特化隊の各本部には、事務室/医務室/各種倉庫/蹄鉄倉庫等が立ち並びました。屯田騎兵隊火薬庫 名所・史跡
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空知神社
1891年の屯田兵開設時に創祀、94年に騎兵隊らが造営。屯田兵と共に歩んだ神社です。空知神社 寺・神社・教会
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一般入植者
屯田兵村の開設と並行して、本州の旧大名や事業家が出資して北海道を開拓する「会社」が幾つも作られました。現地は小作人が開墾/耕作し、農場と呼ばれました。個人でも移住する人たちもいました。
彼らは、自らの手で住宅(開拓小屋)を建てました。屯田兵村が上川道路沿いの相対的に恵まれた立地なのに対し、一般入植者は条件の悪い土地を開墾しました。美唄市郷土史料館 美術館・博物館
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住宅
入植1年目は、三角形のテントのような開拓小屋です。その後、写真のような住居に建替えました。板はほとんど使われていません。窓や扉がないのも普通でした。屯田兵舎とは比較にならない粗末さです。 -
旧桜井家住宅
1901-33年にかけて建て増しされた住宅です。洋風のエッセンスも織り込まれ、個人的には三段に並んだ屋根の美しさが気に入っています。現在公民館の分館として市民に開放しています。旧桜井家住宅 名所・史跡
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当時の農地を見ると、上川道路から奥へ奥へと広がっています。
美唄駅付近の山吹色は一般入植者、桃色は山形県から来た入植団体、黄色は中村農場、薄い黄色は葵(松平)農場、水色は富樫農場です。 -
植付作物の変遷
当初は自給自足のため、そして農地が広がると時代のニーズに応えた換金作物を栽培することで、家を建てたり農具を買うことができるようになりました。寒冷地ゆえに稲は育ちませんでしたが、入植初期から水の豊かな土地で稲作を試み続け、ようやく実現します。1937年には、農地の半分が水田でした。 -
水害との闘い
石狩川や美唄川には堤防はなく、洪水に悩まされました。とりわけ1898年の石狩川大洪水、1937年の石狩川美唄川大洪水は深刻で、ほとんどの家屋/農地が被害を受けました。1922年には美唄川放水路を開通させるなどの対策が講じられましたが、大規模なものは戦後に行われました。国家プロジェクトの石狩川の直線化では、流路が100kmも短縮されました。茶志内駅 駅
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戦中/戦後
戦争末期の戦災(空襲等)による帰農者、戦後は引揚者と、戦争にまつわる社会移動が際立ち、1955年までに350戸の新規開拓者を迎えました。国からは1戸当たり9haを給付されましたが、開拓小屋の建設から始まる厳しい生活は、19世紀の入植者と変わらない状態でした。もちろん、電気水道は通っていませんでした。
写真は1945-55年までの入植/開墾状況です。 -
土地改良
1954年に国営索道索道事業が始まり(左上)、ロープウェイのゴンドラで運搬した客土で土地改良を行いました。道営軌道(写真下)などでも運搬しました。用水路/排水路の大規模改良も行い、1970年には水田の比率は93.5%まで向上しました。 -
農機具の変遷
~1954/1955~64/1965~の3期に分類されます。
昭和20年代までは人畜が動力でした。一人当たりの耕地面積が広いために農耕馬が普通に活躍したことと、様々な機械が発明/普及して合理化が図られているのが、本州以南と違う点です。
昭和30年代に動力がエンジン/電動化されますが、手押しが主力です。
昭和40年代以降は、機械の大型化と多機能化で効率が大幅にアップします。
現在は、スマート農業へ取り組んでいます。 -
石炭産業
ズバリ、美唄を飛躍させた産業で、炭都と呼ばれました。
1889(M22)年以降、市域の東部で試掘と採炭が始まり、大正期に大規模採炭が始まりました。三菱美唄炭鉱/三井美唄炭鉱が顕著な存在でした。 -
炭鉱開発と鉄道
大規模採掘に鉄道敷設は必須でした。
浅野財閥の石狩石炭から採掘権を引き継いだ三菱鉱業は、1914(T3)年に美唄鉄道線を開業。国鉄美唄駅~常盤台までの10.6kmを結びます。 -
函館本線南美唄支線
第一次世界大戦後の不況で日本石油光珠炭鉱の経営権を引き継いだ三井鉱山は、1931年に国鉄路線を誘致しました。本線美唄駅~南美唄間の3kmです。三井は近所の砂川炭鉱へも、1918年に上砂川支線を国鉄に建設させています。 -
採炭法の進歩
表層部の石炭を掘り尽くすと、深部の石炭層を採掘するために「竪坑(たてこう)」と呼ばれる垂直の穴(全長170m)を掘り、深部に坑内鉄道、地上まではベルトコンベアを敷設して、効率よく採掘できるようにしました。大規模資本ならではの採掘法です。三菱美唄炭鉱立坑巻揚櫓 名所・史跡
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三大坑の出炭量
三菱美唄(右)は、三井(中)の2倍近い量です。市内には三菱茶志内(左)、三井新美唄等が続きました。1914年に10万t未満だった採掘量は、1940年には240万tにまで増えます。 -
閉山まで
戦後の混乱を回収すべく、いち早く手が付いたのが炭鉱でした。炭鉱のおかげで、1950年に美唄は、市制を敷きます。1951年には復興を果たし、以後150万t前後をキープします。1952年には三菱茶志内炭鉱にも、2kmの専用鉄道が開通しました。石油へシフトが進み、1960年には石油に主役を奪われ、国のエネルギー政策の下で1973年には市内のすべての炭鉱が閉山します。写真は、1971年の三菱美唄炭鉱です。三菱美唄記念館 美術館・博物館
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炭鉱の消長と系統
今までの話をまとめると、図のようになります。 -
市の活力源だった石炭産業を語るために、展示室には立派な模擬坑道も設置されています。
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市街地の形成
1890(M23)年に鉄道工事が始まると、美唄川の渡船場付近に旅館等ができ、屯田兵屋建設に伴って各地区にも商店ができ始めましたが(写真)、翌91年の鉄道開通に伴い停車場(駅)付近に小市街地ができました。
上川道路沿いには、樺戸道路との交差点である峰延、戸長役場が置かれた美唄に市街地が形成されます。美唄市街地は村内最大で、1911(M44)年には189戸1138名でした。 -
大正期
炭鉱開発が本格化し、1914年には美唄鉄道終点(常盤台駅)に美唄炭山市街地が誕生し、翌年には美唄市街地(写真左上)に匹敵する規模になります。沿線の我路市街地(右下)も、炭鉱関連で栄えます。南美唄、茶志内(左下)にも炭鉱開業に伴い市街地が形成されます。
写真は何れも1923(T12)撮影、右上は峰延市街です。 -
昭和以降
石炭産業の恩恵で1950年に市制施行、翌51年に人口9万人を突破し、この年が人口のピークでした。1960年の市内における店舗数は835で、40%が美唄市街に集中し、残りは各市街に分散しました。1965年以降は閉山に伴い各市街地が縮小/消滅し、最新の国勢調査では20418名になっています。
写真は、1950年の美唄市街。
1951年には出炭量が200万tを超え、北海道の総出炭量の2割超を占めていました。 -
自動車交通
1923年に乗合自動車が進出します。自動車が普及するのは1970年以降で、それまでは馬車や馬ぞりが交通の主役でした。高速道路は、1987年に道央自動車道が開通します。 -
美唄市街地を中心とした航空写真
国道12号線/JR函館本線が真っ直ぐ伸びています。道路/鉄道共に、日本最長の直線区間です。
三井南美唄炭鉱跡地には、1978年に陸自特化部隊が東千歳から移転し、炭鉱閉山で沈下する地域にテコ入れしています。屯田兵時代に特化部隊が駐屯したこととリンクしているのでしょうか。 -
現在の国道12号線(美唄駅付近)
全長日本一の直線道路(29.2km)です。日本一の直線道路 名所・史跡
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現在の美唄駅
かつて南美唄支線や美唄鉄道線が分岐していたとは思えない、すっきりとした線路配置です。 -
イオンの近くにある公園
柳の木が何とも言えない情緒を生み出します。線路の東側は、素敵な住宅地です。東明公園 公園・植物園
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おまけ
炭鉱では、山の神(大山祇神)を信仰しました。神社には、彼女を描いた絵馬を奉納して、坑内安全を祈願しました。
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