2023/04/01 - 2023/04/01
24位(同エリア266件中)
Noraさん
この旅行記のスケジュール
2023/04/01
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サンタカタリナ教会
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レストラン.エル.インファンテ(Restaurant El Infante)
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この旅行記スケジュールを元に
3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。
蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。
14日目、この旅も残すところあとわずか。バレンシア2日目の今日は午前中、旧市街を見て、午後は芸術科学都市へ。4月のバレンシアははもう初夏の気配。シカゴと違って眩しいくらいの太陽、そしてカラッと乾いた風が吹き抜けていきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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ホテルの前にあるタクシー乗り場から客待ちのタクシーの一つでレイナ広場(Plaza de la Reina)に直行。ここはバレンシア旧市内の中心部で観光案内書や遊覧バスの発着地点になっている広場である。
レイナ広場 広場・公園
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すぐにバレンシア大聖堂の付属建築物、ミゲレテの塔(El Micalet)が見える。大きなボールペンが逆立ちしているような面白い形。大聖堂の鐘楼で建設開始は1381年で1429年に完成した。その複雑さと長年にわたる建設(約50年)のため、塔は数人の建築責任者に引き継がれたという。
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大聖堂入口階段のオリーブ枝売りの人。ただ物乞いするだけでなくオリーブの枝を売っているというのが印象的だった。
サンタマリア大聖堂 (バレンシア カテドラル) 寺院・教会
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バレンシア大聖堂(La Seu de Valencia)
正式名称はメトロポリタン大聖堂 - バレンシア・聖母の被昇天教会(スペイン語: Iglesia Catedral-Basílica Metropolitana de la Asunción de Nuestra Señora de Valencia)。
13世紀半ばに、モスクの跡に、建設が始まり、完成は14世紀末(そのモスクは西ゴート族の大聖堂の、さらにもっと古くはローマ時代の寺院の上に建てられていた)。その後17世紀から18世紀に大改築・大増築が行われた結果、初期ロマネスク様式、ゴシック、バロック、新古典様式と様々な様式が混在する大聖堂となった。 -
鉄の扉(Puerta de los hierros)
一見このファサードとは無関係のようなこの名称は入り口のアトリウムを囲むバロック様式の鉄のフェンスに由来しているという(画像の下の方に見える部分)。
スペインでは稀に見るイタリアンバロック様式のファサード。ドイツの建築家兼彫刻家であるコンラート. ルドルフ(Konrad Rudolf)の手によって 1703 年に始まるも、スペイン継承戦争の勃発で途中で工事中断。 ベルガラ親子(Ignacio & Francisco Vergara)によって1741年に完成したという経緯がある。コンラート. ルドルフはイタリアでバロック芸術の巨匠と言われるベルニーニのスタイルを習得したといわれている。1931年には重要文化財(BIC)に指定された。
参考:https://arsartisticadventureofmankind.wordpress.com/tag/konrad-rudolf/
https://en.wikipedia.org/wiki/Valencia_Cathedral -
中央にAMの聖母マリアのモノグラムが見える。AMはラテン語のフレーズ、Auspice Mariaからきており、その意味は’聖母マリアのご加護のもとに ’の意味である。
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聖母マリアのモノグラムの横にはコンラート. ルドルフの手になるバレンシアの代表的聖職者の彫刻がある。
左:ビラノバの聖トマス(Santo Tomas de Villanueva)本名トーマス・ガルシア・イ・マルティネスであるが育った地名(ビラノバ,Villanueva)からビラノバの聖トマスと呼ばれる。スペインの聖アウグスティヌス騎士団の修道士、著名な説教者、禁欲主義者、そして宗教作家として知られる。晩年、バレンシア大聖堂の大司教となり、教区の貧しい人々への深い配慮で広く信望を集めた。と同時に動物を含む弱者への攻撃を強く批判し, とりわけ残虐この上ない見世物である闘牛を説教のなかで攻撃したりもした。
参考:https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/thomas-of-villanova
右:聖ペドロ パスクアル(San Pedro Pascual) アルモハド朝下のバレンシアに生まれ、バレンシアがアラゴン王ジェームズ1世によって陥落する直前の1238年にパリ大学に入学した。 後にジェームズ 1 世の息子サンチョの家庭教師として仕え、サンチョがトレドで大司教を務めていた間もサンチョの助手を務めた。 のちに彼は幅広い説教者となり、さまざまな神学論争に関する冊子を執筆した。が、 彼の作とされる多くの作品の信頼性には疑問があり、同名の作家が二人存在した可能性がある。1296年に彼はハエン司教に任命されたが、グラナダ王国(ナスル王朝下)に捕らえられ、グラナダで斬首されるまで3年間捕虜として拘束された。
彼の名は後にローマ殉教者名簿に記載された。
参考:https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Pascual -
大聖堂入場。
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入口で頂いたパンフレットを帰国後スキャンし、日本語を加えたバレンシア大聖堂のフロアプラン。
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1. 聖ペトロの礼拝堂(Capilla de San Pedro)。中央には17世紀に作成された油彩の聖ペトロ画(作者不明)。
その周囲には16 世紀初頭にニコラス ファルコ(Nicolás Falcó )によって描かれた 大きな宗教画6点が配置されている。いづれもイエス キリストの救いの神秘に関連した聖母マリアの生涯中の重要な瞬間を表している。
左上:受胎告知、 右上:主の復活、
左中:イエスの誕生と羊飼いの礼拝、 右中:昇天、
左下:公現と東方の賢者の崇拝。
そして右下はマリアの周りに集まった使徒たちに聖霊が訪れる聖霊降臨(ペンテコステ) -
聖ペトロの礼拝堂の側壁(Side wall Capilla de San Pedro Apóstol)
アントニオ.パロミーノ(Antonio Palomino)のフレスコ画2点(1703年)
右:聖ペテロの磔刑(Crucifixion of St. Peter)
左:上半分が損傷なのか、あるいは修復中なのか消滅しているため、確認不可能。いづれにせよ、アントニオ.パロミーノの作と思われる。 -
2.ボルハの聖フランシスコ 礼拝堂(Capilla de San Francisco de Borja)
祭壇の絵は’イザベル皇后の遺体の前のボルハの聖フランシスコ’(San Francisco de Borja ante el cadáver de la emperatriz Isabel)。1787年のマリアーノ・サルバドール・マエラ(Mariano Salvador Maella)の油絵。この両側にゴヤの聖フランシスコ を描いた宗教画がある(下記の画像)。
サンティアゴ騎士団の騎士の装いをまとった聖フランシスコは、故人の顔と手を覆う布を持ち上げながら、この世の虚栄心を捨てよという神の呼びかけをきいている。この後、彼は地位も身分も捨てイエズス会の修道士として神の道を生きることを選ぶ。
マリアーノ・サルバドール・マエラ(Mariano Salvador Maella)について:https://artsandculture.google.com/entity/m02z6t99?hl=ja
フランシスコ・ボルハについては:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%8F
*ボルジアの始祖はスペインにあり、ボルハはバレンシア語、スペイン語だとボルヒア、イタリア語だとボルジアになる。
そういえば’ああ、あのチェーザレ・ボルジアの、、’と思う向きも多いだろう。そう、あの悪名高きボルジア家の出身なのである。そのボルジア家の血を引きながらも、フランシスコ自身は非常に謙虚で清廉な人柄でありイエズス会総長として当会をスペイン一辺倒から国際色豊かな組織に作り替えたと言われる。1671年、クレメンス10世により列聖。 -
(左)ボルハの聖フランシスコ。スペインロマン主義の巨匠フランシスコ・ゴヤ(Francisco de Goya)の1788年の宗教画。
キリストの道を歩むため、ガンディアの宮殿で家族に別れを告げる聖フランシスコを描いたもの。
(右)’悔悛しない瀕死の病人に付き添う聖フランシスコ・ボルハ’ 同じくゴヤの1788年の宗教画。
悔い改めない死にゆく人を助けようとするイエズス会修道士の聖フランシスコ。 彼の魂を奪おうとする悪魔が枕もとに描かれ、十字架から噴き出すキリストの血が罪人の救いを象徴している。
参考:https://catedraldevalencia.es/arte/recorrido-interior-catedral/capilla-de-san-francisco-de-borja/ -
正面主祭壇と3廊式身廊の中央部分。
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4. 主祭壇(Altar Mayor)
ゴシック、ロココ、バロックが共存する後陣(Aps)と主祭壇(Main Alter)。
正面の祭壇画(Alterpiece)は両開きの扉に表6枚、裏6枚計12の宗教画を描いたもので1507~1510年の間に仕上げられた。 制作にあたったのはレオナルド ダ ヴィンチの弟子であった2 人のスペイン人画家、フェルナンド .ヤニェス .デ .ラ. アルメディナ(Fernando Yáñez de la Almedina)とエルナンド. デ. ロス. リャノス (Hernando de los Llanos)である。なので作風はダ ヴィンチを模倣したものになっている。
参考:https://catedraldevalencia.es/arte/recorrido-interior-catedral/puertas-del-retablo-mayor/ -
扉の正面(外側)の6点の宗教画は上から下に、
左:羊飼いの崇拝、賢者の崇拝、主の復活。
右:主の昇天、聖霊の降臨、聖母の死と被昇天。
扉が閉じているので見えないのだが、扉の裏面(内側)の6点の宗教画は上から下に、
左:聖母の両親である聖ヨアヒムと聖アンナの出会い、聖母の誕生、神殿での聖母の奉献の様子。
右:マリアの聖エリザベス訪問、神殿での幼子イエスの奉献、そしてエジプトへの逃避が描かれている。
参考:https://catedraldevalencia.es/arte/recorrido-interior-catedral/puertas-del-retablo-mayor/
そしてこのドアを開けると内部に16 世紀 (1506 ~ 1510 年) の傑作である銀のルネッサンス祭壇画があった(過去形)。不幸にしてこの銀製の祭壇画はナポレオン ボナパルトとの戦争時、マヨルカ島で鋳造されコインに変貌してしまったので今は見ることが出来ない。(イメージのみは上記のバレンシア大聖堂のウェブサイトで見ることが可能)
現在、中にあるのは聖母子像で、祝祭日のみに扉がオープンし拝観できるようである。 -
5.ドーム(El Cimborrio)
クロッシング部分の8角形ドームは透光性のあるアラバスター(雪花石膏)が使用されており、柔らかい光が聖堂内を包みこむように透過してくる。 -
この天井画をサポートするドーム部分のボールトはもともとシンプルなゴシック様式であったが、17世紀に煌びやかなバロック様式に模様替えされている。
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天井には星空を背景に 12 人の奏楽の天使(12使徒を象徴しているのだろうか?)を描いたルネッサンスフレスコ画。これは300年以上もの長い間人の目に触れることがなかった曰く付きのフレスコである。今から20年前、2004年の大聖堂修復時に、それまで天井と思われた部分の下にこのフレスコ画が描かれた天井があることが偶然に発見されたのである(2重天井)。経緯はこうである。修復チームは17 世紀バロック様式の金庫室の修復に取り掛かった時にそこに穴が開いていること、その穴から鳩が出入りし内部に巣をつくっていることを発見した。巣を除去するため穴からデジタルカメラを差し込んで調査した結果、内部には鳩の巣以上の貴重な発見物があったのである。穴の深さは最深で80cm、最大のところで直径8メートル(26フィート)以上あり、その隙間に映っていたのは天井フレスコ画の一部であった。予期せぬ発見に驚くも、このフレスコ画の背景を調べる作業が始まった。そして大聖堂のアーカイブから1472 年に、スペイン人である教皇特使ロドリゴ. ボルハ(Rodrigo Borja,のちのローマ教皇、アレクサンデル6世 )がルネッサンスの巨匠であるイタリア人画家のフランチェスコ・パガーノ(Francesco Pagano) とパブロ・デ・サン・レオカディオ(Pablo de San Leocadio)の二人に大聖堂の天井画(フレスコ仕上げ)を描かせたとの記録が出てきた。さらなる記録では、1481年に画家たちがフレスコ画を完成したとき、教会関係者はそれを気に入らず、合意された金3,000ドゥカート(現代の貨幣に換算すると3.6億円?)https://coin-walk.site/E024.htmの支払いを拒否したともあった。
処置に困ったものの、とりあえず後の200年間はそのままに保たれたようだ。しかし17世紀にバロック様式へ改装するにあたり、ルネッサンスフレスコの天井があるのはまずい、ではカバーしてしまおうということでこの素晴らしい天井画を覆い隠す決断が下されたようである。つまり『偽の天井』。余談であるが、この時の職人がとんでもないモラルの低い人々であったようで、フレスコの天使の翼にみだらな落書きをしたり、天使の目や口などの標的を狙って、粘着性の石膏の塊を周囲に投げつけ、ルネッサンスの傑作で石膏をはじく精度をテストしたり。。。大聖堂の修復チームは発見の喜びにひたると同時に、こうした17世紀の職人によるバンダリズムの後始末もしなければならなかったのである。何はともあれ、17世紀以降300年以上隠されていた15 世紀ルネッサンスフレスコがこうして我々の前に再び姿を現すとは。。。。。聖杯もこの大聖堂の素晴らしい宝物ではあるが、この再び姿を現した15 世紀のルネッサンスフレスコもそれに劣らず素晴らしい。
参考:
https://www.theguardian.com/world/2012/oct/08/restorers-tackle-graffiti-rediscovered-frescoes
https://en.wikipedia.org/wiki/Francesco_Pagano -
G. 聖ルイス司教の礼拝堂(Capilla de San Luis Obispo)。
トゥールーズ司教であった聖ルイス司教の聖遺物箱(頭蓋骨?)が納められている。
*余談であるが、カリフォルニアにこの司教様の名に因むサンルイスオビスポというカウンティーがある(アメリカでもっともハッピーなカウンティー’と呼ばれている脱工業地域である)。18~19世紀の頃、スペインの植民地であったメキシコは当時ヌエバ.エスパーニャと呼ばれ、そこを起点にしてスペイン人伝道師によって西海岸が開かれていった。彼らは最初に21のミッション(伝道所)を作り先住民族に伝道していくのであるがその5番目のミッションがサンルイスオビスポ(San Luis Obispo de Tolosa)である。今ではフランスワインを凌ぐといわれるカリフォルニアワインもそのもとになるブドウの栽培はスペイン人伝道師によってはじめられたものである。原則的にミッションは自給自足制であり、聖餐式で使う葡萄酒も彼らのブドウ園で収穫したものが使われた。 -
10. 聖ディオニュシウスと聖マーガレットの礼拝堂(Capilla de San Dionisio y Santa Margarita)。15世紀、ビセンテ・フアン・マシップ(Vicente Juan Masip)の画。
聖ディオニュシウスは3世紀のパリの司教で、250年頃に殉教したとされているフランスの守護聖人。ディオニュシウスという名は、「ディオニューソスの召使」という意味である。現在ではフランス語、英語で“Denis”と表記され、日本語では聖ドニ、サン・ドニと呼ばれることが多い。フランスの都市サン・ドニの名前の由来である。多くの人々を改宗させたために異教の僧侶の怒りを買い、ドルイドの聖地であったと思われるパリ近郊の最も高い丘(現在のモンマルトル)で斬首刑に処せられた。現在のモンマルトルという名は、古いフランス語で「殉教者の山」という意味であり、ディオニュシウスらの殉教にちなんで名づけられたものである-部分的にwikipediaより。
聖マーガレットに関しては3 世紀の処女にして殉教者であったという以外、殆ど資料がない。
この礼拝堂は下記の司教、大司教の霊廟でもある。
ドン・ライモン・デスポント司教(Bishop Don Raimón Despont)
ドン・アンドレス・マヨラル大司教(Archbishop Don Andrés Mayoral)
デ・ロス・カメロス大司教(Archbishop De los Cameros)およびヒメネス・デル・リオ大司教(Archbishop Ximénez del Río)
*ビセンテ・フアン・マシップ:スペインに甘美なラファエロの様式を最初に導入した父ビセンテ・マシップVicente Masipに学び,同様式の代表者となった。… -
11. 使徒の門(Puerta de Los Apóstoles)とビルヘン広場(Plaza de la Virgen)につながる翼廊の西側には下記の作品と構造部位がある。
扉の左側:天使によって解放された聖ペテロ(San Pedro liberado por un Ángel)
扉の右側:聖バーソロミューの殉教(El Martirio de san Bartolomé)、
いづれもバレンシアの画家、ビセンテ・イングレス(Vicente Inglés)の1791年の油彩作品。
および下記の使徒の門の扉の上部のバラ窓(Roseton Puerta de Los Apóstoles)。 -
使徒の門の扉の上部のバラ窓(Roseton Puerta de Los Apóstoles)。中央の花のまわ周りにブルーとピンクの花を中に配したダビデの星が見える。14 世紀の作品。
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13, 14. 聖杯の礼拝堂(表示板)。
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聖杯の礼拝堂(Chapel of the Holy Grail)。年間何千人もの観光客を呼び込んでいるバレンシア観光の目玉の一つ、「Santo Cáliz」。瑪瑙で作られた高さ7センチの暗色の杯で、聖ペトロがローマに持ち込み、その後、彼の後継者が使用していたが、3世紀のキリスト教徒迫害を避けるため、聖ロレンソに託され、スペインのウエスカに移された。その後、やはりスペインのアラゴン地方を転々とした後、15世紀にバレンシアに移されたと言われている。考古学的分析によれば確かに2000年前のもので、時代的にも作られた場所的にも合致しているとか。
下の土台部分(ハンドル)は後世に付け足されたものである。
2重ガラスになっており、ロープが張られていて5mくらい離れたところからしか写真が取れない。なので画像の質に問題がある。悪しからず! -
J. 洗礼の礼拝堂(Bautismo)にあるキリストの洗礼(Baptism of Jesus)、ビセンテ・フアン・マシップ(Vicente Juan Masip)の画。
ヨルダン川においてイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面を描いたものである。福音書の中のイエスが洗礼を受けると、天が開いて神の霊が鳩の形でくだり、イエスが神の愛する子であるという声が聞こえたという記述に従って中央には白い鳩が、天上に神の姿が描かれている。
ビセンテ・マシップは16世紀バレンシア派を代表するマニエリスムの画家である。同じく画家で,スペインに甘美なラファエロの様式を最初に導入した父ビセンテ・マシップVicente Masipに学び,同様式の代表者となった。 -
C. 使徒の門(La Puerta de los Apóstoles)。その後ろにクロッシング部分のドームが聳えている。
*大聖堂堂のパンフレットではPuerta Goticaと記載されている. -
使徒の門の画像をややクロースアップしたもの。
ここで毎週木曜日、正午の鐘の音とともに水裁判(ユネスコ無形文化遺産)が執り行われる。
水裁判の背景
8世紀にイスラム教徒の支配下に入ると同時にアラブ式の灌漑(アセキア、acequias)が導入され、バレンシアは豊かな農業地帯として発展した。現在、バ レンシアの沃野 (Huerta de valencia)には一連の主用水路 (Acequias Madres)と その支線・枝線が動脈と静脈の網状組織のように張りめぐらされているという。最初の水裁判が行われたのは西暦 960年、西イスラムの全盛時代のコルドバのカリフ、アプドゥル・ラフマンⅢ世の治政下であったといわれる。(この水裁判の関連記事を読みながらグラナダのアルハンブラ宮殿にある’裁きの門’下で同様の民事裁判が行われていたことを思い出した。)すべて口頭で文書化されない=「口頭主義 (Oralidad)」、迅速、簡素化といった要素をもつこの裁判、極めてアラブ的と思えるのだが。。。、
それから1千年以上も続く水裁判は法衣に似た黒い衣装の男性8人によって執り行われる。彼らはこの地方の農家が選んだ裁判官役の総代である。この農業用水を巡る係争を処理する伝統裁判所「バレンシア平野の水法廷」は、「地中海岸の灌漑法廷」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産代表リストに登録されている。
参考:http://www.asahi.com/special/mukeiisan/TKY201010180248.html -
A.アルモイナ門(La puerta de la Almoina またはLa Puerta del Palau)
*大聖堂のパンフレットではPuerta Romanicaと記載されている。
アルモイナ門は、ロマネスク様式で大聖堂内で最も早く(バレンシアの征服 (1238 年) から数年後の 13 世紀後半)に建設された部位であり、そのためか主にゴシック様式の他の建築部位とは明らかな相違を見せている。
この大聖堂はかつてのモスクの上に建築されたのであるが、現在の大聖堂の翼廊がまさしくモスクがあった部分である。使徒の門はかつてのモスクへの入口であり、アルモイナ(「施し」)はミフラーブの門(つまり最も奥の部分)であった。 これはカトリック教会の入り口は通常西側にあるのだが、かつてのモスクの入口の上に築かれた当時の大聖堂の正面玄関が南東側にあった理由を説明するものであろう。因みにこの門は大司教の宮殿に近いため、別名ポルタ デル パラウ(Porta del Palau、宮殿の門)としても知られる。 -
6つの同心のアーチとそれを支える6つの小さな柱を両側に持つロマネスク様式の門。モディリオン(Modillions)を見ると、この大聖堂の建設を資金的に支援したと思われる7組のカップル(男女14人)の頭部が彫刻されている。
*モディリオン(Modillions)とはコーニスの下の装飾的なブラケット。 -
7組のカップル(男女14人)のIDまたは名称。
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大聖堂のお隣には小さいながらも歴史を感じさせるサンタ.カタリナ聖堂(Iglesia de Santa Catarina)がある。これはその西側ファサード。13 世紀初頭に、かつてのモスクの跡地にゴシック様式で建てられたバレンシアで最も古い聖堂の一つ(それに加えてバレンシアの街で唯一のゴシック様式聖堂)。 内部の大部分は 1548 年の火災後に再建されバロック様式が取り入れられているが、表の入り口は16 世紀の古典主義スタイルになっている。
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サンタ.カタリナ聖堂のファサードに設けられた空洞のニッチ(壁龕)を装飾する美しいバレンシアタイル。トップに聖ボナヴェントゥラ(San Buenaventura)の文字が見える。
下のプレートには
1979年 3月 2日、バレンシア市議会によって修復(RESTAURADO POR EXCMO AYUNTAMIENTO DE VALENCIA 3-2-1979)とある。
*もともとこのニッチ(壁龕)には’平和の聖母’の像が納められていたのだが度々の盗難に遭い、1979年の修復以降は何も置かれなくなった。
参考:http://www.jdiezarnal.com/valenciaiglesiadesantacatalina.html -
ドアの鴨居(-ビーム)上には王冠が刻印された盾があり、盾の中央には殉教者聖カタリナのシンボル(壊れた車輪)の浅浮き彫りが見える。
*ローマ時代、エジプトのアレキサンドリアに生まれた聖カタリナは当時の女性には珍しい高い教育を受けたクリスチャンであった。時のローマ皇帝からの求婚を退けたために処刑罪となり大釘の付いた車輪で轢死させられそうになるが、天から落ちた稲妻が車輪を破壊し助かる。だが結局はキリスト教徒への弾圧により斬首され殉教した聖人。壊れた車輪はこの聖堂の守護聖人、聖カタリナのシンボルである。
参考:http://www.jdiezarnal.com/valenciaiglesiadesantacatalina.html -
サンタカタリナ教会(Iglesia de Santa Catalina) 内部。中央主祭壇。8 つのセクションに分かれたゴシック様式の身廊が 1 つだけある,非常にシンプルで古典的スタイルの教会。これまで見てきたどちらかというと華美なスペインの教会と違い、余分な装飾がなく落ち着いた教会である。ちょうど結婚式のミサが終了したところだった。
参考:
http://arquitectosdevalencia.es/arquitectura/iglesia-de-santa-catalina/
http://www.jdiezarnal.com/valenciaiglesiadesantacatalinaplano01.jpg -
主祭壇と向き合う壁にはバラ窓がある。結婚式の終了後、祭壇の整理、あるいは次の式次第を準備する聖職者。
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レッドカーペットと結婚式のフラワーアレンジメント。背の高いフラワースタンドにアイビーを使って下降するラインを強調している。
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教会入り口のウェディング用フラワーアレンジメント。アンティークなランプやクレート等を配して白い花を引き立たせている。
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塔に登るのはこちら。。のサイン。
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サンタカタリナ聖堂の鐘楼。17世紀にかつてミナレットがあった場所にバロック様式で建てられたもの。六角形の床面で5階建てとなっており、分館や小さな半球天井で仕上げられている。
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サンタカタリナ教会を出てロンハに向かう途中で見つけた小ぎれいなレストラン、エルインファンテ(Restaurant El Infante)でランチとしよう。
シェフ特製のハマスと丸々としたコロッケでランチ。サーバーの人もフレンドリーで料理もトレンディなアレンジメントでおいしかった。 -
メルカド広場(Plaça del Mercat)通りに建つショッキングなトカゲビル。
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ロンハ(絹取引所) 。1996年にユネスコの世界遺産に登録されていて、現在のところバレンシア唯一の世界遺産である。「ロンハ」は取引所、「セダ」は絹で「絹取引所」を意味する。
背景:13世紀後半、バレンシアが地中海交易の中心として発展してくると、それまでのロンハでは商取引とそれに伴う契約処理能力が不十分になってきた。そこで新しく作られたのがこのロンハである。当初はラ.ロンハ.デ.ロス.メルカデレス(La Lonja de los Mercaderes、商品取引所)とよばれていたが、14~18世紀にかけて絹織物産業が発展し、絹の取り扱いが増大したため ラ.ロンハ.デ.ラ.セダ(La Lonja de La Ceda, 絹の取引所)と呼ばれるようになったようである。
建築:イスラム王宮跡に後期ゴシック様式にて15世紀後半に建設された世俗建築であるが、ルネサンス、ムデハルなどの要素も加わっている。ねじり柱や網状ヴォールト(ネット・ヴォールト)といったユニークな装飾が目を引く。そのもとになったのはマジョルカのロンハ(Lonja de Palma de Mallorca)の建築構造といわれる。 バレンシアのエンジニア兼建築家であるペレ・コンプテ(Pere Compte)が、ロンハ建設に関わった主要人物で、ほかにホアン・イバーラ(Johan Yvarra)、ホアン・コルベーラ(Johan Corbera)、ドミンゴ・ウルティアーガ(Domingo Urtiaga)といった石工たちによって全体が建造された。
https://www.worldtravelimages.net/Valencia_Lonja.php
https://es.wikipedia.org/wiki/Lonja_de_Palma_de_Mallorcaバレンシアのラ ロンハ デ ラ セダ 史跡・遺跡
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ゴシック様式の正面入口。
建物は次の4つの部分より構成される。
1.柱の間または契約の間(El salón columnario o La Sala de Contratación)
2. 塔(El Torreón)
3. 海の領事の間(地下室、地上1階の商事調停室、2階の大広間兼商事裁判所よりなる)(El Consolat del Mar o El Pabellón del Consulado)
4.オレンジの木の中庭(Patio Naranja) -
オレンジの木の中庭。
ロンハは商品の取引所として19世紀末まで使用されていたようである。現在でもコンサートや展覧会などの催し、またバレンシア文化協会が置かれるなど、観光スポットとしてだけではなく文化的な活動に利用されているようである。 -
ゴシック様式の入口。
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海の領事の間は地下および地上1,2階で構成されている。これはその1階部分にある裁判に持ち込む前に、申立、調停によって解決可能なケースを取り扱った場所である。
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ゴシック様式のドア。その次の部屋が小さいチャペルで、奥に見えるのが商事調停室である。
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チャペルのステンドグラス。ロンハの中にある唯一のステンドグラスである。
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柱の間または契約の間(El salón columnario o La Sala de Contratación)。ここで絹の商取引,契約が執り行われた。いわば実務の間である。
壁の上部(床から11mくらいの位置)に見える黒いバンドには金のゴシック文字でラテン語碑文が刻まれている。碑文の一部曰く、fellow citizens, how good is commerce that does not carry fraud in its word..とあり、富と繁栄の生活を保証するために正直に取引することを商人にリマインドしている。...ということは正直でない者もいたということである。 -
ヤシの木の広がりを思わせる天上のネットボールト部分。
1407年にバレンシア市議会によってタウラ・デ・カンビス・デポジットまたはただ単にタウラとも(Taula de Canvis i depòsits 、為替および預金デスク、最も初期の公立銀行。) がこの部屋に設置された。中世以降の地中海貿易の増大、それに伴う異国間の通貨両替の必要性がその背景にある。当時、その支払い能力と銀行業務の量でバレンシアのタウラ・デ・カンビス(Taula de Canvis)は高い評価を得ていた。 現在、商業取引が行われたタウラまたはテーブル、およびスペインにおける最初の為替手形は、セルヴェッロ宮殿にあるバレンシア市の公文書館に保管されている。 -
ジオメトリックな色大理石の床。一部、六芒星をデザインしている箇所がある。
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塔への入り口。鉄柵で囲われアクセスできないようになっている。この中に中心軸のないきわめて珍しい螺旋階段(ちょうどカタツムリのような)があるはずなのだが。塔自体は4階建てでその上部構造の中に支払い滞納者を収容する牢獄もあったというが。。。
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塔の部分を外から。。
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海の領事の大広間、サロン(2階)へはこの階段を上っていく。階段の下にある窪みに(向かって左)地下室へのドアがある。
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海の領事の間の地下室。UNESCO世界遺産のサイトではこの地下室はvaulted cellar (アーチ型天井のセラー)と説明されている。なのでおそらく、ワインや商品の保管、あるいは燃料の貯蔵に使用された部分であろう。この地下室の一角に通りをはさんで中央市場(Mercado Central)に通じるドアがあったという(現存するかどうかは不明)。このロンハが繁忙を極めた頃、中央市場は絹商品を売りさばく場所だったのである。
参考:https://whc.unesco.org/en/list/782/ -
16 世紀初頭に建てられた海の領事の間、2階の大広間(サロン)は海の領事の裁判所があった場所である。この商事裁判所は、ロンハが建つよりもずっと前、すなわち1283年からバレンシアの海事・商業上の問題を取り仕切ってきたもので、バレンシアにとって非常に古くからある機関というだけでなく、スペイン初の商事裁判所でもある。この点(スペイン初)が世界遺産の登録の決め手となったようである。
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この部屋は黄金の間とも呼ばれる。その理由は 目を奪うばかりの豪華な金箔仕上げの格天井(coffered ceiling)に由来する。 この天井は、もともとこの部屋のために作成されたものではなく、現在は取り壊されている(19世紀)バレンシア旧市庁舎にあったカンブラ ドゥラーダ (Cambra Dourada 、黄金の間)の天井を再利用したものである。
参考:https://artsandculture.google.com/story/la-lonja-de-la-seda-de-valencia-spain-unesco/6AWBO_nPnKGIaQ?hl=en
天井の装飾部分を支えるcorbel(持ち送り、三角形のブラケット状のもの)に注目。バレンシア旧市庁舎にあった格天井はこの部屋にはサイズ不足であった。フィットさせるためにいくつかの改良が行われている。両サイドの一連のcorbel(持ち送り)の新たな追加、および長さ不足の縦の部分用にビームを数本、それまであったものをコピーして追加しているのである。 -
クロースアップ。フアン・デル・ポヨ(Juan del Poyo)が1418年から1455年に手がけたもので、芸術的な至宝と言うべき出来映えと評されている。バレンシア市の紋章、この地域の植物、動物、空想的人物、古代の神話の題材、その他がめくるめくように広がる。ずっと見ていると眩暈がしてきそうだ。
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たわわに実るレモンとオレンジ、アラブの遺産。
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古城を思わせる商業の殿堂にお別れ!
*宗教と深く結びついたゴシック様式がその対極にある商業施設に用いられる例は非常に珍しいのではないか?スペイン初の商事裁判所であることに加え、この建築物のユニークさも世界遺産に登録された理由のように思えるのだが。。。 -
イエズス会聖心教会(Iglesia del Sagrado Corazón de Jesús)。1886年に建立。
ロンハの背後にある小さな三角形のコンパーニャ広場(Plaza de La Compañía)に立つ教会。最初はローマの寺院だったが、この地を征服したイスラム教徒によってその寺院の上にモスクが建てられた。レコンキスタ後、16~17世紀にイエズス会修道会が同場所にこの教会を含む大規模な複合施設を建設した。が、1767年に国王カール 3 世はイエズス会士をスペインから追放し、彼らの財産は政府によって没収されたのである。その後教会の敷地はさまざまな目的に使用されていた。 1868年の革命中に教会は取り壊されたが、1886 年に建築家ホアキン マリア ベルダ イバニェス(Joaquín María Belda Ibáñez)によって新しい教会が建てられた。 それが現在目にするこの教会である。 -
聖ヨハネ教会(Iglesia de los Santos Juanes)
この教会は、メルカド(市場)の隣にあるので親しみをこめてサン・フアン・デル・メルカド(市場の聖ヨハネ教会)とも呼ばれている。レコンキスタが終わるのとほぼ同時期、13世紀には既に存在していたという最も古い教会のひとつである。しかし多難な教会で2度もの火災に遭ってその都度異なった様式で再建されている。1度目は14世紀の火災後、ゴシック様式で再建。16世紀に再度スペイン市民戦争による火災の被害を受け3~5日間燃え続けたという。その後バロック様式で再建され、この際にビセンテ・ガルシア巨匠の手が入ることになった。円天井部に、アントニオ・パロミーノのフレスコ画が保存されているという。
このあと、大西洋横断、イスタンブール~イベリア半島横断⑭4/1, 14日目#2に続く。
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