2023/08/26 - 2023/08/26
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gianiさん
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滝川市は、深川/赤平/芦別/歌志内/砂川市等、空知振興局管内北部の自治体の母体となった古い町です。
観光目線では地味な滝川の歴史を辿ってみます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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滝川駅前の国際観光スクエアで情報収集します。
たきかわ観光国際スクエア 名所・史跡
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実は、バスターミナルの居抜き物件でした。
滝川駅 駅
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現在のバス乗り場
北海道中央バス 滝川ターミナル 乗り物
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駅前の大型商業施設跡
元々は西友でしたが、スマイルビルに代わり、現在はゴーストです。 -
駅から離れた文教地区にあるミュージアム
企画展がおすすめです。滝川市美術自然史館 美術館・博物館
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横には子供向け施設も。
意外と学べます。こども科学館 美術館・博物館
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そして超穴場の郷土館。
ここが目的地です。
滝川は、空知川(アイヌ語でソーラプチペッ。滝のある川という意味)に由来します。
札幌~旭川間の都市は、アイヌ語の発音に漢字を当てるのではなく、翻訳しているものが多いです。 -
札幌~旭川間の肝である空知開拓で功の大きかった高畑利宜に関する展示室があります。
開拓使/北海道庁の役人として、退職後は滝川村長を務めた人物です。 -
略年表
生まれは現在の京都市ですが、戊辰戦争に従軍したのを機に、新設された開拓使に奉職し、1872(M5)年の上川探検を行います。1881年の開拓使解散に伴い辞職し、札幌で旅籠と風呂屋を営みますが、翌年に会計検査院へ招聘され、東京勤務になります。 -
東京では、北海道の公共事業がスムーズに進むよう、援護射撃する形で活躍します。
1886(M19)年に新設された北海道庁に招聘され、上川仮道路を開通させます。1889年に道庁を辞して、岩見沢~旭川間で駅逓5か所を営みつつも、様々な事業を起こします。
1896年以降は、駅逓を辞して専ら個人事業主として活動します。滝川村村長を務めた後、1922年に82歳で亡くなります。 -
開拓使時代(1870-81)
大坂の北海道産物会所へ入所し、北海道の物産を大坂で売却する業務に携わります。翌年には北海道入りし、開拓判官岩村通俊の下で様々なプロジェクトに従事します。
1872年には、3か月かけて上川地方の探検に赴きます。札幌から先はアイヌ民族の世界で、開拓使はその実態を全く把握していなかったゆえの任務でした。舟で石狩川を遡り、流域の測量およびアイヌの戸口調査をメインに行い、報告書には写真右下の測図も添えられました。 -
石狩川口ヨリ水源ニ到見取図(1872)
添付された文章には、鉱山や温泉についての記述もあり、地質調査も行われたようです。現地調査に当たっては、幕末の松浦武四郎による探検でもガイドした上川アイヌの長セッカウシを伴いました。
提出書類とは別に、アイヌの生活の様子を克明に記録しています。 -
銭函以北忠別太間測量地図(1874)
後の小樽街道開削事業に先立つ資料。札幌と外港の小樽を結ぶ陸路は確立されておらず、境界の銭函の海岸まで迫る岩壁がネックでした。後の旭川市になる忠別太まで道路を敷設する必要性を説いた資料です。
ほかにも開拓使本庁舎建設に携わり、西南戦争時は、屯田兵の副官として戦闘に参加しました(当時の鹿児島県令が岩村だったことと関係がありそうです)。
記録を保存する習性ゆえに、多くの貴重な史料が郷土館に伝わっています。道立文書館に保存されたものは、国の重文指定を受けています。 -
会計検査院(1882-86)
開拓使解散に伴い、札幌で事業を展開(写真)しますが、会計検査院長だった岩村にスカウトされ、東京へ赴きます。樺戸集治監の地所選定/上川郡開発の調査等に従事します。 -
開拓使時代(1886-89)
新設された北海道庁の初代長官となった岩村に伴って、入庁。彼の内部開発構想を実現するための諸事業に着手。86年に、樺戸/空知集治監の囚人を徴用した上川仮道路(三笠~旭川)を4か月で開通させます。 -
翌年には、仮道路の本格整備に着手します。これにより車馬の通行が可能になります。写真は、深川付近の様子。
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ほかにも天塩方面への留萌道路見込図(写真)や根室への新道建設等も提言しています。
こうした道路建設は、ロシアの南下政策に備える国防措置でした。 -
駅逓経営時代(1889-94)
岩村の退官に伴い職を辞し、駅逓経営に乗り出します。駅逓は北海道独自の制度で、開拓の進展に伴って開設/廃止が繰り返され、1947年まで存続しました。駅逓取扱人は半官半民の身分で、宿泊/人馬継立(運送)/郵便(通信)等の業務を行い、人口希薄地帯のライフラインを守りました。彼が鉱務で使用した印鑑等が展示されています。 -
上川道路沿いに5か所の駅逓を開設し、経営に当たりました。岩見沢/奈井江/空知太(滝川)/音江法華/忠別太(旭川)に「美英舎」の看板で営業します。自身は空知太に居り、残りの4か所には代理人を立てます。
大掛かりな駅逓経営のために、東京と札幌の地所を売却して資金調達しています。高畑は、利益追求よりも空知/上川開発というライフワーク実現を追い求めた選択です。 -
滝川への定住(1889)
上川道路が開通した1889年に、居を空知太駅逓に定めます。石狩川最大支流の空知川との合流点で、後に帯広/釧路/根室方面への分岐点となる交通の要所となります。写真は、1899年の駅逓の様子。 -
滝川村誕生(1890)
駅逓開設により、入殖の基盤が整います。翌90年の地方自治制度施行に伴い、滝川村が誕生します。翌91年に開設された滝川郵便局局長を務めます。それ以前にも、酒造業/牧場経営に乗り出します。
ところが92年に駅逓職員の不正帳簿が発覚し、局長を辞します。一方で、古物商を始めます。 -
駅逓を辞す
写真は1892年に、空知川沿いの土地3万坪の購入を申請した書類です。翌年には、北海道で確立されていなかった稲作にも挑戦します。
※のちに深川で道内初の稲作が確立されます。
味噌醤油製造や養蚕にも取り組み、地域の産業確立と財源確保を目指しますが、駅逓経営に行き詰まり、1894年に手を引きます。 -
1896年には滝川村総代理(村長に相当)に選出されます。
1898年の空知川洪水ですべての財産を失いますが、すぐに運送店を開業し、鉄道貨物も取り扱います。 -
1911年には運送店をたたみ、靴/馬具店を開業します。後に商店へ発展します。1922年に82歳で死去します。
事業のほかにも、学校建設や衛生組合結成等、滝川の町整備に尽力しました。 -
滝川の歴史
先住民アイヌは、自然と共存するライフスタイルを送り、疎らな分布でした。
滝川では、空知川と石狩川の合流点に4,5軒で集落(コタン)を形成し、トックアイヌと呼ばれました。
和人はトックアイヌと交易するために、石狩場所管内に中川番屋を開設しました。請け負った村山家は、不公平な取引内容で彼らを搾取しました。 -
滝川に住むトックアイヌは上川アイヌに属し、セッカウシが長を務めていました。
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和人入植(1889-)
1889年の上川道路の開通に伴い、入植がはじまります。空知川右岸に高畑利宜、左岸には山形県人の三浦米蔵が物資運搬業と旅宿経営を始めます。1889年の空知太集落は、25戸でした。 -
空知太10万人都市計画(1889)
入植と同年に、北海道庁長官岩村通俊は、空知川を東京の隅田川になぞらえた「空知太10万人都市計画」を立ち上げ、巨大市街地を建設しようとします。非現実的な構想は、翌年には姿を消しています。 -
屯田兵村の形成
1889,90年にかけて南滝川/北滝川の屯田兵村に400戸が入植します。士族の授産を目的とした最期の屯田兵でした。
都道府県以外に十津川とあるのは、奈良県十津川村のことです。1889年の十津川大水害の被災民600戸(2489名)が入植前の屯田兵村に避難し、現在の新十津川町へ移住しました。避難民のうち95戸が屯田兵に志願して採用されたという唯一無二の事例を反映しています。
※江部乙は、後に滝川から分離しました。 -
屯田兵
有事は出兵するものの、平時は農業に従事します。戸主は毎日練兵場で軍事教練を行ってから、農業に従事しました。家族は専ら農業で、彼らの就業時間は平均10時間でした。 -
支給品
厳しい生活の対価として、1戸毎に1.5万坪の土地と3年分の食糧、住宅、食器/寝具まで手厚く支給されました。とはいえ裏を介せば、3年で荒れ地を開墾して自給自足体制を整えよ!という厳しい内容でした。 -
屯田兵村
中心に中隊司令部や練兵場があります。兵村は碁盤の目状に配置され、防風林に囲まれています。滝川兵村は、屯田兵村の中でも耕作に適した土地でした。
南側の番外地には、彼らを相手にした商店や役場が並びました。
大隊の司令部は、現在の滝川第二小学校付近にあります。近似スポットを入力しました。炭火焼肉 笑 グルメ・レストラン
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鉄道開通(1892)
北炭鉄道が忠別太まで延長し、札幌と結ばれました。終着駅として滝川は大いに栄えました。6年後に旭川まで延長されると駅前は寂れますが、1913年に富良野まで根室本線が開通すると、沿線の炭鉱都市(赤平/芦別等)と繋がり、再び繁栄をもたらしました。交通/商業の町としての滝川です。 -
交通の要所で物流拠点として機能した滝川へテコ入れしたのは、屯田兵大隊司令部でした。
現在の滝川駅の裏側(徳富川と石狩川の合流点付近の河岸)には河港があり、物流のメインスポットでした。その東側は兵村南端に接した番外地で、御用達の商店/役場等が立ち並ぶ兵村共有地でした。 -
市街地の形成(1897-)
屯田兵大隊司令部は1897年に兵村共有地を市街地にする計画を立て、道路を整備しました。現在の滝川駅周辺の市街地です。翌98年には滝川駅も開業し、1900年には市街地として道庁に認定されます。地図でも、新波止場通りの記述がみられます。
1914年には発電所が建設され、電気も開通します。 -
農地の開拓
20世紀に入ると農地は拡大し、手作業では間に合わなくなります。耕作に馬の力を借りるのが、北海道では主流になりました。 -
写真左の鋤の親玉のような農具はプラウと呼ばれ、土を掘り起こしました。右の碁盤の目状に刃が付いた農具はハローと呼ばれ、プラウで掘り起こした土を細かく砕きました。いずれも馬が曳きました。
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稲作の実現
寒冷な北海道で試作を繰り返された稲作が、遂に軌道に乗り始め、滝川でも水田が拡大しました。稲作でも、田植えから脱穀まで機械化が進みます。写真は、北海道庁推奨の脱穀機。 -
農閑期
農産物の大量生産が実現した一方で、農夫は農閑期(冬季)は出稼ぎで生計を立てる必要がありました。積雪期は、山奥で寝泊まりして木を切り倒して近くの川まで丸太を運び出す厳しい労働に携わりました。 -
道立滝川畜産試験場(1906-)
羊毛の国内需給を果たすべく、農商務省が農場を開設しました。羊を北海道の風土に合うように家畜化し、繁殖させることが目的です。
第一次世界大戦で羊毛は軍需品となり、イギリスは輸出を禁止されたためにニュージーランド産の羊毛が供給停止になります。種蓄牧場として、1918年にメリノ種2000頭を飼育して道内の農家に払い下げ、農家で飼育/繁殖できるようにしました。 -
試験結果は詳細にレポートされ、羊毛生産に適した種類の選別と飼育法等を研究しました。
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緬羊実習生制度(1937-61)
毛織物等の羊毛加工の技法を、道内の女子に伝授することも重要な任務でした。 -
食肉として
羊を食用として普及させれば生産農家が潤うということで、当初から重要なミッションでしたが、北海道以外ではなかなか普及しませんでした。1962年には、羊肉の缶詰加工品を試作しています。
1967年には、食用を重視したサフォーク種の飼育を始めています。地元では、タレ漬けジンギスカンのルーツは滝川種羊場、普及は松尾ジンギスカンと言われています。 -
ジンギスカン鍋
1933年に滝川種羊場に勤務していた中川清吉氏が、針金で枠を作り金網を掛けたもの(写真右上)がルーツです。その後は鋳物へ変わり、縁がだんだんと幅広くなり、戦後になって溝を付けて穴を開けたものとなりました。火力がガスに代わると、穴はなくなります。溝に野菜を敷いて、滴り落ちる肉の油を吸わせるスタイルの完成です。 -
物流拠点としての滝川
釧路方面へ延びる十勝道路(国道38号線)および国鉄根室本線の基点として滝川は繫栄します。様々なサービス業が町を賑やかにしました。 -
写真は、三浦商店の凧です。
滝川から、後の深川市/砂川市が分離します。 -
当時の商店で売られていたもの
ズービではなく、ビーズです。花王のロングセラーです。 -
展示は1975年頃に整備されたものがベースです。
1958年に市制を施行しますが、十勝/釧路へのメインルートが石勝線へシフトした事、第二次産業が育たなかったこと等で、大いに寂れています。 -
おまけ
過去の企画展より
滝川には、国策で日本最大の人造石油工場が存在しました。1938-45年に掛けてです。戦後GHQによって解体され、滝川化学工業として再出発しますが、巨大な工場施設を民間では維持しきれずに1952年に工場は解体されます。 -
跡地に自衛隊を誘致し、陸上自衛隊滝川駐屯地として(1955~)現在に至ります。本部隊舎は、唯一の人造石油工場時代の建物です。
次は、美唄を訪れます。
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