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広島滞在二日目<br />広島駅から宮島に向かう広島電鉄宮島線の地御前駅で一旦下車し、地御前神社に向け地御前の街並みを歩く道すがら智秀山西向寺と地御前・大蔵神社に立ち寄ってみました。

智秀山西向寺と地御前・大蔵神社

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2023/03/03 - 2023/03/03

63位(同エリア87件中)

azusa55さん

広島滞在二日目
広島駅から宮島に向かう広島電鉄宮島線の地御前駅で一旦下車し、地御前神社に向け地御前の街並みを歩く道すがら智秀山西向寺と地御前・大蔵神社に立ち寄ってみました。

旅行の満足度
3.0
観光
3.0
交通
3.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
私鉄

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  • 広島滞在二日目、広島電鉄広島駅から宮島に向かう宮島線に乗車し一路宮島を目指す。<br />この電車市内は路面電車として車道を走り、郊外から専用軌道で宮島を結ぶもので、市内の通勤通学の便利な交通手段として利用される。<br />大きな車体に人にしか乗らない車優先の交通手段から、脱炭素の時代にあって路面電車は見直されてもいい存在かも知れない。<br /><br />広島駅から小一時間、宮島を目指す前に地御前駅で一旦降車し地御前の街き、厳島外宮社の地御前神社に立ち寄ることにしました。<br />今回は地御前の町で出逢った智秀山西向寺と地御前・大蔵神社を取り上げます。

    広島滞在二日目、広島電鉄広島駅から宮島に向かう宮島線に乗車し一路宮島を目指す。
    この電車市内は路面電車として車道を走り、郊外から専用軌道で宮島を結ぶもので、市内の通勤通学の便利な交通手段として利用される。
    大きな車体に人にしか乗らない車優先の交通手段から、脱炭素の時代にあって路面電車は見直されてもいい存在かも知れない。

    広島駅から小一時間、宮島を目指す前に地御前駅で一旦降車し地御前の街き、厳島外宮社の地御前神社に立ち寄ることにしました。
    今回は地御前の町で出逢った智秀山西向寺と地御前・大蔵神社を取り上げます。

    広島駅 (JR)

  • 地御前駅から踏切を越え、左手の地御前の街並み方向に向け歩きだす。

    地御前駅から踏切を越え、左手の地御前の街並み方向に向け歩きだす。

  • やはりこの辺りは宮島と牡蠣がシンボルとなる。

    やはりこの辺りは宮島と牡蠣がシンボルとなる。

  • 地御前の町の入口に掲げられた地御前史跡マップ。<br />駅が〇、マップの場所が?。<br />今回の目的地「智秀山西向寺」は☆印の位置になります。<br />因みに駅からこのマップまでの所要時間は2~3分程、ここからマップに従って西向寺までが2~3分程です。

    地御前の町の入口に掲げられた地御前史跡マップ。
    駅が〇、マップの場所が?。
    今回の目的地「智秀山西向寺」は☆印の位置になります。
    因みに駅からこのマップまでの所要時間は2~3分程、ここからマップに従って西向寺までが2~3分程です。

  • 山陽本線の北側にあたるこの通り、どことなく旧街道のような趣のある通りで、狭い道沿いには家々が立ち並び、地御前3丁目あたりで小さな観音堂を見かける。<br />小さな堂ですが古文書にも記され、古くからこの地に鎮座するもので、広島新四国八十八ヶ所霊場の五番札所。

    山陽本線の北側にあたるこの通り、どことなく旧街道のような趣のある通りで、狭い道沿いには家々が立ち並び、地御前3丁目あたりで小さな観音堂を見かける。
    小さな堂ですが古文書にも記され、古くからこの地に鎮座するもので、広島新四国八十八ヶ所霊場の五番札所。

  • 観音堂の斜め向かいに智秀山西向寺の鐘楼門があります。<br />立ち寄る予定はありませんでしたが、門の前を通りがかり、このまま通り過ぎるには惜しい光景が目に入り、かみさんには先に進んでもらい、少しだけ道草してみました。

    観音堂の斜め向かいに智秀山西向寺の鐘楼門があります。
    立ち寄る予定はありませんでしたが、門の前を通りがかり、このまま通り過ぎるには惜しい光景が目に入り、かみさんには先に進んでもらい、少しだけ道草してみました。

  • 智秀山西向寺鐘楼門。<br />この鐘楼門は明治44年(1911)に建立された瓦葺の門で、平成13年(2001)に現在の本瓦葺きに改修された威厳のあるもの。<br /><br />浄土真宗本願寺派の寺院で、伝承では僧玄正が寛永2年(1625)旧大野町東部に開基したのが始まりとされ、当初宗派は違っていたようです。<br />後の四世宗玄が貞享(1684~7)頃に浄土真宗本願寺派に改宗、高取の正傳寺の末寺となり、地御前神社の参道改修に伴い、現在の地に寺基が移転されたようです。<br />現在の伽藍は、鐘楼門、本堂、経蔵が主な伽藍で平成に入り補修の手が入れられたようです。

    智秀山西向寺鐘楼門。
    この鐘楼門は明治44年(1911)に建立された瓦葺の門で、平成13年(2001)に現在の本瓦葺きに改修された威厳のあるもの。

    浄土真宗本願寺派の寺院で、伝承では僧玄正が寛永2年(1625)旧大野町東部に開基したのが始まりとされ、当初宗派は違っていたようです。
    後の四世宗玄が貞享(1684~7)頃に浄土真宗本願寺派に改宗、高取の正傳寺の末寺となり、地御前神社の参道改修に伴い、現在の地に寺基が移転されたようです。
    現在の伽藍は、鐘楼門、本堂、経蔵が主な伽藍で平成に入り補修の手が入れられたようです。

  • さて、通り過ぎるには惜しい光景とは写真にある1本の赤松。<br />「天蓋松」や「蓮華松」と呼ばれるようで、樹齢が260~340年とも云われるようです。<br />どっしりとした太い幹、上は止められていますが、そこから伸びた枝の見事な事。<br />鐘楼門から本堂に続く石畳の参道の上を、まさに天蓋の如く覆うように伸びています。<br />あまりに長い枝振りは、多くの支えがなくては自重を支えきれないほど見事なもの。<br />地御前史跡マップにも一際目に付くように描かれ、地御前のシンボル的な存在なのだろう。

    さて、通り過ぎるには惜しい光景とは写真にある1本の赤松。
    「天蓋松」や「蓮華松」と呼ばれるようで、樹齢が260~340年とも云われるようです。
    どっしりとした太い幹、上は止められていますが、そこから伸びた枝の見事な事。
    鐘楼門から本堂に続く石畳の参道の上を、まさに天蓋の如く覆うように伸びています。
    あまりに長い枝振りは、多くの支えがなくては自重を支えきれないほど見事なもの。
    地御前史跡マップにも一際目に付くように描かれ、地御前のシンボル的な存在なのだろう。

  • 地元の郷土史は「天蓋松」について「晴れの日には木陰を作り、地面に本堂の格天井のような影を落とし、雪が降っても天蓋松につもり、本堂まで雪を踏むことがない」とも書かれています。<br />正に天蓋松は地元の誇るべきシンボルのようです。<br />境内にはもう一つのシンボルとも云える大木が聳えています。<br />山門左に聳える公孫樹がそれで、こちらも上が止められていますが、樹齢は天蓋松より更に半世紀ほど古いとされます。<br /><br />二本の巨木が聳える西光寺、秋は秋で境内が黄色一色に染まる事でしょう、<br />地御前神社を訪れる際には、西向寺の「天蓋松」は一見の価値ありです。<br /><br />智秀山西向寺<br />宗派 / 浄土真宗本願寺派<br />開基 / 寛永2年(1625)<br />本尊 / 不明<br />参拝日 / 2023/03/03<br />所在地 / 広島県廿日市市地御前3-22-23

    地元の郷土史は「天蓋松」について「晴れの日には木陰を作り、地面に本堂の格天井のような影を落とし、雪が降っても天蓋松につもり、本堂まで雪を踏むことがない」とも書かれています。
    正に天蓋松は地元の誇るべきシンボルのようです。
    境内にはもう一つのシンボルとも云える大木が聳えています。
    山門左に聳える公孫樹がそれで、こちらも上が止められていますが、樹齢は天蓋松より更に半世紀ほど古いとされます。

    二本の巨木が聳える西光寺、秋は秋で境内が黄色一色に染まる事でしょう、
    地御前神社を訪れる際には、西向寺の「天蓋松」は一見の価値ありです。

    智秀山西向寺
    宗派 / 浄土真宗本願寺派
    開基 / 寛永2年(1625)
    本尊 / 不明
    参拝日 / 2023/03/03
    所在地 / 広島県廿日市市地御前3-22-23

  • 西光寺の天蓋松に見惚れ自分一人足を止めました。<br />かみさに置いて行かれないよう、急ぎ西向寺を後にかみさんに追いつき地御前神社を目指す。<br />南へ5分程進むと、高台に鎮座する「地御前・大歳神社」に出会い、ここでも再び足を止め立ち寄らせてもらいました。(若干かみさんの目は△になってきたような)

    西光寺の天蓋松に見惚れ自分一人足を止めました。
    かみさに置いて行かれないよう、急ぎ西向寺を後にかみさんに追いつき地御前神社を目指す。
    南へ5分程進むと、高台に鎮座する「地御前・大歳神社」に出会い、ここでも再び足を止め立ち寄らせてもらいました。(若干かみさんの目は△になってきたような)

  • 社頭の目の前に山陽本線と広島電鉄宮島線の線路が続き、更に先の海岸線を国道2号線と三つの動脈が並行して伸びている。<br />その先の海岸からは厳島神社が鎮座する宮島も目と鼻の先。<br />社頭には石の明神鳥居と両脇に石灯籠が連なっています。<br />三段に分け築かれた石垣の中ほどに、境内に続く石段があり、注連縄鳥居の先に拝殿の姿が見れる。

    社頭の目の前に山陽本線と広島電鉄宮島線の線路が続き、更に先の海岸線を国道2号線と三つの動脈が並行して伸びている。
    その先の海岸からは厳島神社が鎮座する宮島も目と鼻の先。
    社頭には石の明神鳥居と両脇に石灯籠が連なっています。
    三段に分け築かれた石垣の中ほどに、境内に続く石段があり、注連縄鳥居の先に拝殿の姿が見れる。

  • かみさんには少し待ってもらい足早に参拝に向かいます。

    かみさんには少し待ってもらい足早に参拝に向かいます。

  • 高台に造成された境内の西側の奥に入母屋瓦葺の拝殿が建てられています。<br />僅かに高いだけの境内ですが、眼下に地御前の町や港を望み、タイミングが良ければ社頭を通り過ぎる電車の姿も見られる。

    高台に造成された境内の西側の奥に入母屋瓦葺の拝殿が建てられています。
    僅かに高いだけの境内ですが、眼下に地御前の町や港を望み、タイミングが良ければ社頭を通り過ぎる電車の姿も見られる。

  • 拝殿右側から幣殿と瓦葺流造の本殿の眺め。<br />何れも木造で、木の温もりを感じる色合いを留めたもので、建物に目立った傷みも見られず綺麗な外観でした。<br />境内をひと回りしましたが、社殿以外に境内社の姿は見当たらなかった。

    拝殿右側から幣殿と瓦葺流造の本殿の眺め。
    何れも木造で、木の温もりを感じる色合いを留めたもので、建物に目立った傷みも見られず綺麗な外観でした。
    境内をひと回りしましたが、社殿以外に境内社の姿は見当たらなかった。

  • 拝殿前を守護する狛犬。<br />燈籠の陰になり、樹々に包まれ見落とすところ。<br />狛犬の外観は風化により劣化し、どちらも毬を持っているようですがもともとの姿はイメージできない。<br />台座の寄進年を探して見ましたがはっきりせず、年代も不明てす。<br />境内に神社の由緒は掲示されておらず、創建など詳細は分からなかった。

    拝殿前を守護する狛犬。
    燈籠の陰になり、樹々に包まれ見落とすところ。
    狛犬の外観は風化により劣化し、どちらも毬を持っているようですがもともとの姿はイメージできない。
    台座の寄進年を探して見ましたがはっきりせず、年代も不明てす。
    境内に神社の由緒は掲示されておらず、創建など詳細は分からなかった。

  • 取り敢えずひと回りを済ませ、参拝させてもらいました。<br />拝殿に掲げられた「神威○○の額」に昭和30年の元号が見える。

    取り敢えずひと回りを済ませ、参拝させてもらいました。
    拝殿に掲げられた「神威○○の額」に昭和30年の元号が見える。

  • 神輿を安置する拝殿から幣殿、随神が守護する本殿方向の眺め。<br />幣殿入口の額は「大歳神社」とある。<br /><br />神社詳細は分からないが広島県神社庁の地御前・大歳神社の紹介は以下となっていた。<br />「祭神は大國魂神を祀る。<br />由緒は明治15年(1882)、佐伯郡地誌編集控によると、寛政元年(1789)の勧請とされ、現在地に鎮座と考えられる。<br /><br />それまでは、地御前村神賀の平原(現在、この地名は使われていない)に鎮座され、『芸藩通志』には、嚴島外宮(地御前神社)鎮座以前、地御前村(現在の廿日市市地御前、地御前北、阿品、阿品台)一村この社を同じく祀るという里人の伝承があるという。<br />例祭(10月第2日曜日)」とある。<br /><br />後日、自宅で調べて見ると、地元の方が郷土を語り継ぐ目的で編纂した地御前郷地史に辿り着き、もう少し詳しい内容が記されていたので以下に紹介します。<br />「地御前地域の守り神で、地御前の氏神さんとして高台に鎮座され、詳細は不明であるが地御前神社と変わらない歴史がある。<br />現在地の前は、田屋地区の奥深い平原(仮称大歳)の地に祀られていた。<br />寂しい谷間に民家も少なく、地御前地区は火災も多く地区を守るためにも町場におろしてくれと、お告げがあったため、江戸時代寛政元年(1789)9月25日に現在の地に鎮座された。<br /><br />氏神様は、各地域の集落の高台に鎮座されており、部落全体を見渡し世の中の景気が良くなれば、祭りも盛り上がり村全体が潤ってくるといわれている。<br />大歳神社の祭神名は、大国魂命(おおくにたまのみこと)である。<br />守り神は、農業から国土経営に協力された神で、大国の御魂といわれる記録が残っている。<br />現在の社殿は、石鳥居をくぐり石段を登った高台にあり、前側が段差4段の桟敷に築かれており、流鏑馬 (馬飛ばし) の観覧席で、海岸の砂浜で馬を(流鏑馬)走らせ、沖側に観客が棒で追いやり水際に追いやるほど豊作といわれた。<br /><br />昭和26年(1951)に社殿の地を1段削り落とし、その砂を村上家の蔵の跡に埋め立て、講堂・青年会館が建築された。<br />よって、現在の社殿は、昭和30年に再建された。<br />大歳神社の境内には、桜の木が植えられ 4月の花見の季節には、地域の方の憩いの場である。<br />秋祭りには、青年会が神輿を担いで年1回の御神幸が行われます。<br /><br />昭和25年(1950)頃までは、急な石段を登り二つ山の上段で祭典が執行されていたが、 現在は今市稲荷神社で御神幸御旅所祭が執行される。<br />秋祭りの前日(ヨゴロと呼ばれています)には、御祓い行事として御獅子が町内を廻ります。<br />秋祭りは、5ヵ町村が合併されるまでは、中の九日の10月18・19日、 今では10月第2土・日曜日に行われている。」<br />と紹介されていました。<br /><br />自分には「奥深い平原(仮称大歳)の地」の場所は特定できませんでしたが、人里離れた北部丘陵地帯から海辺の地御前地区の火災を見るに見かね、自らこの地に遷座を命じたという内容です。<br />遷座が寛政元年(1789)とあるので、創建時期は更に遡る事になり、拝殿の額や社殿が綺麗なのも1950年の再建によるもの。<br />少し気になっていた社頭の石垣が、まさか流鏑馬を見るための桟敷とは思ってもみなかった。

    神輿を安置する拝殿から幣殿、随神が守護する本殿方向の眺め。
    幣殿入口の額は「大歳神社」とある。

    神社詳細は分からないが広島県神社庁の地御前・大歳神社の紹介は以下となっていた。
    「祭神は大國魂神を祀る。
    由緒は明治15年(1882)、佐伯郡地誌編集控によると、寛政元年(1789)の勧請とされ、現在地に鎮座と考えられる。

    それまでは、地御前村神賀の平原(現在、この地名は使われていない)に鎮座され、『芸藩通志』には、嚴島外宮(地御前神社)鎮座以前、地御前村(現在の廿日市市地御前、地御前北、阿品、阿品台)一村この社を同じく祀るという里人の伝承があるという。
    例祭(10月第2日曜日)」とある。

    後日、自宅で調べて見ると、地元の方が郷土を語り継ぐ目的で編纂した地御前郷地史に辿り着き、もう少し詳しい内容が記されていたので以下に紹介します。
    「地御前地域の守り神で、地御前の氏神さんとして高台に鎮座され、詳細は不明であるが地御前神社と変わらない歴史がある。
    現在地の前は、田屋地区の奥深い平原(仮称大歳)の地に祀られていた。
    寂しい谷間に民家も少なく、地御前地区は火災も多く地区を守るためにも町場におろしてくれと、お告げがあったため、江戸時代寛政元年(1789)9月25日に現在の地に鎮座された。

    氏神様は、各地域の集落の高台に鎮座されており、部落全体を見渡し世の中の景気が良くなれば、祭りも盛り上がり村全体が潤ってくるといわれている。
    大歳神社の祭神名は、大国魂命(おおくにたまのみこと)である。
    守り神は、農業から国土経営に協力された神で、大国の御魂といわれる記録が残っている。
    現在の社殿は、石鳥居をくぐり石段を登った高台にあり、前側が段差4段の桟敷に築かれており、流鏑馬 (馬飛ばし) の観覧席で、海岸の砂浜で馬を(流鏑馬)走らせ、沖側に観客が棒で追いやり水際に追いやるほど豊作といわれた。

    昭和26年(1951)に社殿の地を1段削り落とし、その砂を村上家の蔵の跡に埋め立て、講堂・青年会館が建築された。
    よって、現在の社殿は、昭和30年に再建された。
    大歳神社の境内には、桜の木が植えられ 4月の花見の季節には、地域の方の憩いの場である。
    秋祭りには、青年会が神輿を担いで年1回の御神幸が行われます。

    昭和25年(1950)頃までは、急な石段を登り二つ山の上段で祭典が執行されていたが、 現在は今市稲荷神社で御神幸御旅所祭が執行される。
    秋祭りの前日(ヨゴロと呼ばれています)には、御祓い行事として御獅子が町内を廻ります。
    秋祭りは、5ヵ町村が合併されるまでは、中の九日の10月18・19日、 今では10月第2土・日曜日に行われている。」
    と紹介されていました。

    自分には「奥深い平原(仮称大歳)の地」の場所は特定できませんでしたが、人里離れた北部丘陵地帯から海辺の地御前地区の火災を見るに見かね、自らこの地に遷座を命じたという内容です。
    遷座が寛政元年(1789)とあるので、創建時期は更に遡る事になり、拝殿の額や社殿が綺麗なのも1950年の再建によるもの。
    少し気になっていた社頭の石垣が、まさか流鏑馬を見るための桟敷とは思ってもみなかった。

  • 目を見張る社殿ではないかもしれませんが、広い境内は綺麗に手入れされているところを見るに、地御前に住む人々からとても崇敬されているのが伝わってきます。

    目を見張る社殿ではないかもしれませんが、広い境内は綺麗に手入れされているところを見るに、地御前に住む人々からとても崇敬されているのが伝わってきます。

  • 石段から東側の社頭の眺め。<br />社頭の向かいの方形屋根の建物は釈迦堂で、創建時期は不明ですが、地御前神社の神宮寺の本尊で、室町時代に作られた像高が2.9㍍もある釈迦如来坐像を安置するようです。<br />地御前の町を歩いていると、こうした堂が多い事に気付きます。<br /><br />あれ?・・・かみさんの姿が見えない。<br />

    石段から東側の社頭の眺め。
    社頭の向かいの方形屋根の建物は釈迦堂で、創建時期は不明ですが、地御前神社の神宮寺の本尊で、室町時代に作られた像高が2.9㍍もある釈迦如来坐像を安置するようです。
    地御前の町を歩いていると、こうした堂が多い事に気付きます。

    あれ?・・・かみさんの姿が見えない。

  • 目と鼻の先の地御前神社に向かったようだ。<br />地御前・大歳神社<br />創建 / 不明<br />遷座 / 寛政元年(1789)<br />再建 / 昭和30年(1955)<br />祭神 / 大國魂神<br />所在地 / 広島県廿日市市地御前4-12-12

    目と鼻の先の地御前神社に向かったようだ。
    地御前・大歳神社
    創建 / 不明
    遷座 / 寛政元年(1789)
    再建 / 昭和30年(1955)
    祭神 / 大國魂神
    所在地 / 広島県廿日市市地御前4-12-12

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