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2022年4月2日(土)11時前、明石公園の下の段、武蔵の庭園などがある部分の北側に連なる台地部分にある明石城址部分に移動する。明石城は江戸初期の1619年に信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真が外様大名の多い西国の備えとして、2代将軍秀忠から命じられ築城した城。<br /><br />それまでこの地域を統べる城は船上城で、明石公園の西を流れる明石川の河口に近い右岸、山陽電鉄の明石の一つ西の西新町駅の500mほど西辺りにあった。現在は本丸跡に祠などがあるそうだ。船上城は室町時代の1441年頃に設けられ、安土桃山時代の1585年に高山右近が入城して増改築されていたが、交通の要衝である明石を重視した秀忠の意向で、新城築城の上意が下された。<br /><br />小笠原忠真(当時は忠政)は義父の姫路城主本多忠政(徳川四天王本多忠勝の嫡男)と共に候補地を絞り、最終的にこの赤松山が選定された。赤松山は人丸山とも呼ばれており、万葉の歌人柿本人麻呂を祀る人丸社(月照寺)があった。築城に際して社と寺は東方の丘上に移された(現在の月照寺と柿本神社)。<br /><br />築城には船上城や三木城の石垣や部材が転用され、さらに伏見城より三重櫓や門が移設された。1620年の秋に完成したと云われ、城は「鶴の城」または「錦江城」(城の前の海を錦江湾と呼んでいた)と呼ばれた。<br /><br />小笠原忠真は1632年に豊前小倉に転封となり、その後頻繁に藩主が交代するが、1682年に越前大野藩より入部した松平氏が幕末まで藩主を務めた。1874年(明治7年)、廃城令により廃城。<br /><br />その後、1883年(明治16年)に明石公園として整備されたこともあり、本丸や北東の艮櫓、北西の乾櫓に土塀は取り壊されたが巽櫓と坤櫓は残った。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたが1999年に修復工事が完了、塀も復元された。<br /><br />兜日時計の先、巽櫓の下から右手を登って行く(下の写真1)。石段を登ったところに「松平直明公遺愛お茶の水」の石碑。松平直明は1682年に明石藩に入封した直良系越前松平家2代、徳川家康の曾孫にあたる。福井藩(北荘藩)初代藩主の家康の次男、結城秀康の孫。写真では分かり難いが石碑の左後ろ、説明板との間に直明が城内で催す茶会の水として愛用した井戸がある。<br /><br />メインの道はここからUターンして巽櫓方向に登って行くが、私はそのまま東側に登って行く。原田合浦の句碑がある(下の写真2)。大正時代の俳人で、明石出身。刻まれているのは「落葉降る昔より降る城の道」と云う句で、この句に因む「城の道」という煎餅も販売されている。この辺りから振り替えると桜と2つの櫓が美しい。<br /><br />句碑の先を北に折れて、突き当りを右(東)に折れると東の丸の外側の道を辿り、東の丸の出入口である天ノ門の外枡形に突き当たる。右側も枡形になっており、ここに城外からの出入口の出ノ門があった。桝形を曲がって東に進むと薬研堀(下の写真3)と箱堀(下の写真4)の間を通って城外に出る。薬研堀に箱堀は今は続いてないが、元々は中堀の東堀と続いており、さらに北側の桜堀まで続いていた。箱堀は現在は空堀。<br /><br />折り返して天ノ門跡から東の丸に入る。入るとすぐに北の丸へ通じる万の門跡がある。桝形の石垣しかない。現在は北の丸には兵庫県立図書館や自転車競技場があり、写真の奥に自転車競技場の階段が見える。<br /><br />東の丸は赤松台地の上に作られた城郭の東の部分。台地上には東の丸、二の丸、本丸が並ぶ。築城時には二の丸の一部で、南側の崖下の大曲輪が三の丸(本三の丸)と呼ばれていたが、居屋敷曲輪を整備するために二の丸を東西に分割して東側を三の丸にしたものが後に東の丸になった。<br /><br />二の丸へ進む。二の丸と東の丸の間は石垣ではなく切り違いの土居と方ノ門と云う平門があり、土居の南北隅には礼ノ櫓と貞ノ櫓という二重櫓があった。礼ノ櫓は桜掘を見下ろして北方を守る、貞ノ櫓は三の丸から登城する坂を監視する役割だった。<br /><br />二の丸の南西角には石垣下から上がってきたところに大ノ門と云う櫓門があった(現在は石垣のみ)。東の丸からの方ノ門は通用口ってイメージなのに対し、この大ノ門は本丸へ向かうメインゲート。太鼓門から大石垣を登り、この門を抜けて本丸に向かったのだろう。<br /><br />ここの石垣の角に立つと、東方向に二の丸と東の丸の大石垣があり、さらに向こうには日本標準時子午線上に建つ明石市立天文科学館が見える。何回か行ったことあるが、最後は2006年に息子と行ったわ。<br /><br />本丸に進むが、本丸と二の丸との間には深さ10mほどもある巨大な堀切がある。かなり深い。土橋を渡ったところには番ノ門と云う櫓門があった(今はない)。本丸は東西114.5m、南北116.4mのほぼ正方形で、面積は約1万ha。正方形の曲輪は当時の流行だった。<br /><br />四隅にはそれぞれ三重櫓が建っていた。上述のように北側の艮櫓と乾櫓は取り壊されたが、南側の巽櫓と坤櫓の2基は日本に12基しか現存していない三重櫓のうちの2基で、いずれも国の重要文化財に指定されている。櫓の名前はそれぞれ方向を表している。<br /><br />番ノ門跡を入ると左手に巽櫓があり、その奥(西側)に展望台が造られている。ここからの景色は見事。この日開催されていた明石公園桜まつりの様子がよく見えるのはもちろん、明石駅はホームの様子も分かるし、その向こうには淡路島の山並み、さらにビルの合間からは瀬戸内海も見える。<br /><br />展望台の奥(西側)にあるこんもりと木が茂った丘は人丸塚。元々この本丸の位置には平安時代の初めの811年に弘法大師・空海が創建した湖南山楊柳寺があったが、887年に同寺の僧・覚証が柿本人麻呂の夢を見て、寺の背後の塚を人麻呂塚(人丸塚)と名付けた。この時に楊柳寺は月照寺と改められ、さらに人丸塚は人丸山の由来となった。明石城が築城された時に月照寺と柿本神社は移転させられたが、人丸塚は城の鎮守のためにそのまま残された。<br /><br />塚の前には横山蜃楼(しんろう)句碑が建つ。1885年(明治18年)に明石市樽屋町で生まれた正岡子規門の俳人。30才で倦鳥派の大家となった。1945年(昭和20年)に明石で亡くなり、前に行った旧西国街道沿いの2つの光明寺のうち、北側の通称朝顔光明寺にお墓がある。句碑に刻まれている句は「鵙(もず)の声屈する処無かりけり」。<br /><br />人丸塚の先、本丸の南西隅にはこれも国の重文の坤櫓。城内で最大規模の三重櫓で、後述するが、天守が建てられなかったので天守代用として使われた。桁行6間(10.94m)、梁間5間(9.15m)、高さ7間2尺9寸(13.28m)、340トンで、各階の高さは3m強と巽櫓よりひと回り大きい。<br /><br />本瓦葺、妻部を南北に置く入母屋造りで、西を向いているが、これは明石城には西国大名を監視する役割があったからだと考えられている。1982年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、伏見城からの移築説が裏付けられた。<br /><br />坤櫓の北側には天守台。熊本城天守と同規模の東西25m、南北20m、約152坪ある天守台で、熊本城同様に5層の天守を計画したものと思われるが、ここに天守が建てられることはなく、代わりに三重櫓が4基建造された。<br /><br />天守が建てられなかったはっきりとした理由は不明だが、大分の中津城から天守を移築する計画があったが実現しなかった、築城に神経をとがらせる幕府に配慮した、大砲の技術が進み標的になる建物を建てる必要がなかった、などが考えられている。ここが築城された元和年間(1615年~24年)になると、天守台が築かれても天守は実際には建たなかったといった例は少なくない。<br /><br />本丸の中央部、現在は芝生公園となっている部分には築城当初には本丸御殿があったが、、1631年正月に失火により焼失すると、以後は藩主の居館は三の丸に移ったため再建されなかった。明治維新後は明石神社が創建され、その後も奏楽堂兼休憩所、茶店、飲食店、人形館などが設けられていた。<br /><br />御殿の内部には狩野永徳らと並ぶ絵師、長谷川等伯の弟子の長谷川等仁が描いた障壁画があった。24面の春夏秋冬の四季花鳥図だったと推測されてるが、晩冬から春の前兆を描いた二曲屏風6隻12面の雪景水禽図のみ現存する。元は夏から秋にかけての花鳥山水図が対で存在していたと思われる。<br /><br />雪景水禽図は幕末まで大坂の蔵屋敷で保管され、1883年(明治16年)頃に六曲一双屏風に体裁を変え、その後十二幅対の掛幅となり、最後は小笠原家の家臣であった平井惇麿によって二曲六隻の屏風へと仕立て直された。1959年にバラバラに売却され、その後オークションに掛けられて落札した日本人コレクターが愛媛県美術館に寄託していたが、現在はさらに売却され個人所有となっている。<br /><br />本丸にあった2つの門の一つ、北側の見ノ門跡を出て本丸北エリアに向かう。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.23912192335090799&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />まずは桜堀跡に向かうが、続く

兵庫 明石城跡(Akashi Castel Ruins,Hyogo,Japan)

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2022/04/02 - 2022/04/02

346位(同エリア415件中)

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月2日(土)11時前、明石公園の下の段、武蔵の庭園などがある部分の北側に連なる台地部分にある明石城址部分に移動する。明石城は江戸初期の1619年に信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真が外様大名の多い西国の備えとして、2代将軍秀忠から命じられ築城した城。

それまでこの地域を統べる城は船上城で、明石公園の西を流れる明石川の河口に近い右岸、山陽電鉄の明石の一つ西の西新町駅の500mほど西辺りにあった。現在は本丸跡に祠などがあるそうだ。船上城は室町時代の1441年頃に設けられ、安土桃山時代の1585年に高山右近が入城して増改築されていたが、交通の要衝である明石を重視した秀忠の意向で、新城築城の上意が下された。

小笠原忠真(当時は忠政)は義父の姫路城主本多忠政(徳川四天王本多忠勝の嫡男)と共に候補地を絞り、最終的にこの赤松山が選定された。赤松山は人丸山とも呼ばれており、万葉の歌人柿本人麻呂を祀る人丸社(月照寺)があった。築城に際して社と寺は東方の丘上に移された(現在の月照寺と柿本神社)。

築城には船上城や三木城の石垣や部材が転用され、さらに伏見城より三重櫓や門が移設された。1620年の秋に完成したと云われ、城は「鶴の城」または「錦江城」(城の前の海を錦江湾と呼んでいた)と呼ばれた。

小笠原忠真は1632年に豊前小倉に転封となり、その後頻繁に藩主が交代するが、1682年に越前大野藩より入部した松平氏が幕末まで藩主を務めた。1874年(明治7年)、廃城令により廃城。

その後、1883年(明治16年)に明石公園として整備されたこともあり、本丸や北東の艮櫓、北西の乾櫓に土塀は取り壊されたが巽櫓と坤櫓は残った。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたが1999年に修復工事が完了、塀も復元された。

兜日時計の先、巽櫓の下から右手を登って行く(下の写真1)。石段を登ったところに「松平直明公遺愛お茶の水」の石碑。松平直明は1682年に明石藩に入封した直良系越前松平家2代、徳川家康の曾孫にあたる。福井藩(北荘藩)初代藩主の家康の次男、結城秀康の孫。写真では分かり難いが石碑の左後ろ、説明板との間に直明が城内で催す茶会の水として愛用した井戸がある。

メインの道はここからUターンして巽櫓方向に登って行くが、私はそのまま東側に登って行く。原田合浦の句碑がある(下の写真2)。大正時代の俳人で、明石出身。刻まれているのは「落葉降る昔より降る城の道」と云う句で、この句に因む「城の道」という煎餅も販売されている。この辺りから振り替えると桜と2つの櫓が美しい。

句碑の先を北に折れて、突き当りを右(東)に折れると東の丸の外側の道を辿り、東の丸の出入口である天ノ門の外枡形に突き当たる。右側も枡形になっており、ここに城外からの出入口の出ノ門があった。桝形を曲がって東に進むと薬研堀(下の写真3)と箱堀(下の写真4)の間を通って城外に出る。薬研堀に箱堀は今は続いてないが、元々は中堀の東堀と続いており、さらに北側の桜堀まで続いていた。箱堀は現在は空堀。

折り返して天ノ門跡から東の丸に入る。入るとすぐに北の丸へ通じる万の門跡がある。桝形の石垣しかない。現在は北の丸には兵庫県立図書館や自転車競技場があり、写真の奥に自転車競技場の階段が見える。

東の丸は赤松台地の上に作られた城郭の東の部分。台地上には東の丸、二の丸、本丸が並ぶ。築城時には二の丸の一部で、南側の崖下の大曲輪が三の丸(本三の丸)と呼ばれていたが、居屋敷曲輪を整備するために二の丸を東西に分割して東側を三の丸にしたものが後に東の丸になった。

二の丸へ進む。二の丸と東の丸の間は石垣ではなく切り違いの土居と方ノ門と云う平門があり、土居の南北隅には礼ノ櫓と貞ノ櫓という二重櫓があった。礼ノ櫓は桜掘を見下ろして北方を守る、貞ノ櫓は三の丸から登城する坂を監視する役割だった。

二の丸の南西角には石垣下から上がってきたところに大ノ門と云う櫓門があった(現在は石垣のみ)。東の丸からの方ノ門は通用口ってイメージなのに対し、この大ノ門は本丸へ向かうメインゲート。太鼓門から大石垣を登り、この門を抜けて本丸に向かったのだろう。

ここの石垣の角に立つと、東方向に二の丸と東の丸の大石垣があり、さらに向こうには日本標準時子午線上に建つ明石市立天文科学館が見える。何回か行ったことあるが、最後は2006年に息子と行ったわ。

本丸に進むが、本丸と二の丸との間には深さ10mほどもある巨大な堀切がある。かなり深い。土橋を渡ったところには番ノ門と云う櫓門があった(今はない)。本丸は東西114.5m、南北116.4mのほぼ正方形で、面積は約1万ha。正方形の曲輪は当時の流行だった。

四隅にはそれぞれ三重櫓が建っていた。上述のように北側の艮櫓と乾櫓は取り壊されたが、南側の巽櫓と坤櫓の2基は日本に12基しか現存していない三重櫓のうちの2基で、いずれも国の重要文化財に指定されている。櫓の名前はそれぞれ方向を表している。

番ノ門跡を入ると左手に巽櫓があり、その奥(西側)に展望台が造られている。ここからの景色は見事。この日開催されていた明石公園桜まつりの様子がよく見えるのはもちろん、明石駅はホームの様子も分かるし、その向こうには淡路島の山並み、さらにビルの合間からは瀬戸内海も見える。

展望台の奥(西側)にあるこんもりと木が茂った丘は人丸塚。元々この本丸の位置には平安時代の初めの811年に弘法大師・空海が創建した湖南山楊柳寺があったが、887年に同寺の僧・覚証が柿本人麻呂の夢を見て、寺の背後の塚を人麻呂塚(人丸塚)と名付けた。この時に楊柳寺は月照寺と改められ、さらに人丸塚は人丸山の由来となった。明石城が築城された時に月照寺と柿本神社は移転させられたが、人丸塚は城の鎮守のためにそのまま残された。

塚の前には横山蜃楼(しんろう)句碑が建つ。1885年(明治18年)に明石市樽屋町で生まれた正岡子規門の俳人。30才で倦鳥派の大家となった。1945年(昭和20年)に明石で亡くなり、前に行った旧西国街道沿いの2つの光明寺のうち、北側の通称朝顔光明寺にお墓がある。句碑に刻まれている句は「鵙(もず)の声屈する処無かりけり」。

人丸塚の先、本丸の南西隅にはこれも国の重文の坤櫓。城内で最大規模の三重櫓で、後述するが、天守が建てられなかったので天守代用として使われた。桁行6間(10.94m)、梁間5間(9.15m)、高さ7間2尺9寸(13.28m)、340トンで、各階の高さは3m強と巽櫓よりひと回り大きい。

本瓦葺、妻部を南北に置く入母屋造りで、西を向いているが、これは明石城には西国大名を監視する役割があったからだと考えられている。1982年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、伏見城からの移築説が裏付けられた。

坤櫓の北側には天守台。熊本城天守と同規模の東西25m、南北20m、約152坪ある天守台で、熊本城同様に5層の天守を計画したものと思われるが、ここに天守が建てられることはなく、代わりに三重櫓が4基建造された。

天守が建てられなかったはっきりとした理由は不明だが、大分の中津城から天守を移築する計画があったが実現しなかった、築城に神経をとがらせる幕府に配慮した、大砲の技術が進み標的になる建物を建てる必要がなかった、などが考えられている。ここが築城された元和年間(1615年~24年)になると、天守台が築かれても天守は実際には建たなかったといった例は少なくない。

本丸の中央部、現在は芝生公園となっている部分には築城当初には本丸御殿があったが、、1631年正月に失火により焼失すると、以後は藩主の居館は三の丸に移ったため再建されなかった。明治維新後は明石神社が創建され、その後も奏楽堂兼休憩所、茶店、飲食店、人形館などが設けられていた。

御殿の内部には狩野永徳らと並ぶ絵師、長谷川等伯の弟子の長谷川等仁が描いた障壁画があった。24面の春夏秋冬の四季花鳥図だったと推測されてるが、晩冬から春の前兆を描いた二曲屏風6隻12面の雪景水禽図のみ現存する。元は夏から秋にかけての花鳥山水図が対で存在していたと思われる。

雪景水禽図は幕末まで大坂の蔵屋敷で保管され、1883年(明治16年)頃に六曲一双屏風に体裁を変え、その後十二幅対の掛幅となり、最後は小笠原家の家臣であった平井惇麿によって二曲六隻の屏風へと仕立て直された。1959年にバラバラに売却され、その後オークションに掛けられて落札した日本人コレクターが愛媛県美術館に寄託していたが、現在はさらに売却され個人所有となっている。

本丸にあった2つの門の一つ、北側の見ノ門跡を出て本丸北エリアに向かう。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.23912192335090799&type=1&l=223fe1adec


まずは桜堀跡に向かうが、続く

  • 写真1 巽櫓下

    写真1 巽櫓下

  • 写真2 原田合浦句碑

    写真2 原田合浦句碑

  • 写真3 薬研堀

    写真3 薬研堀

  • 写真4 箱堀

    写真4 箱堀

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