2023/07/09 - 2023/07/15
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ミズ旅撮る人さん
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2023年夏。北海道を周遊しました。
「HOKKAIDO LOVE !割」のお陰で、アクティビティに挑戦したり、滅多に行かないような場所を探検したり。実り多き夏を早くも過ごして来ました。
今回は、「廃墟巡り」です。と言っても、メインは2か所です。
札幌と旭川の中間あたりにある美唄市の沼東小学校は、かつて隆盛を極めた美唄炭鉱の町に建てられたもので、現在は藪の中です。歩いて行くことは出来ないので、ドローンで
撮影しました。植物が生い茂っているので、遠くから外観だけの撮影です。
ついでに美唄炭鉱の竪坑櫓も撮影しました。公園になっていますが閉園していました。
この回のメインは「雄別炭砿病院跡」です。
阿寒湖から釧路方面に南下して行くと、森の中にかつての炭鉱の町が現れます。
炭鉱の建物があちこちに点在していますが、人気のない場所で、見事に廃墟群となっています。廃墟マニアではないのですが、写真でこの病院の美しさを知って、是非とも訪れたいと思いました。実際に使われていた時にはなかった廃墟ならではの美。特に植物が茂る夏ならではの景観は、私の心を捉えて放しませんでした。
特に立入禁止などにはなっていませんが、たいへん危険を伴う恐れがあります。単独では訪れないようにしてください。
おまけで、馬主来(パシクル)沼も紹介しています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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JR函館本線の美唄(びばい)駅です。大雑把に言えば、札幌と旭川の中間にあります。道東道で言うなら砂川ハイウェイオアシスの南と言ったところでしょうか。
最初の目的地は、かつての美唄市立の小学校です。炭鉱の町の中にありました。三菱美唄炭鉱からは美唄に向けて鉄道が敷かれていました。
その名残が東明駅跡に保存されている蒸気機関車です。美唄駅 駅
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美唄鉄道東明駅舎の裏に置かれている4110形式十輪連結タンク機関車2号です。何度か訪れていて、旅行記にも書いているので詳細は割愛します。
美唄鉄道旧東明駅 名所・史跡
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アルテピアッツァ美唄
昭和56年に廃校となった栄小学校跡地に作られた安田侃彫刻美術館です。木造校舎をそのまま美術館にしています。この小学校が美唄炭鉱の町の最後の学校でした。安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 美術館・博物館
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美唄市立沼東(しょうとう)小学校が見えて来ました。
「アルテピアッツァ美唄」から更に山奥へ進むと美唄国設スキー場があります。地元の小さなスキー場ですが、夏の間は訪れる人もありません。
ここのレストハウスはかつては沼東中学校の体育館でした。昭和48年に廃校となっています。
その敷地の脇に小さな川が流れています。その我路の沢川の先に沼東小学校はあります。昭和34年に建設され、49年に廃校となっています。 -
沼東小学校への道は今はありません。
手前に北菱産業埠頭㈱ 北菱美唄炭鉱があり、その敷地を通らないと近付くことが出来ません。北菱産業埠頭は、 三菱セメントや三菱倉庫などを株主に持ち、美唄炭鉱の最後の生き残りです。
現在でも採炭を行っており、火力発電所に燃料を供給しています。
企業の敷地に無断で立ち入る訳には行かないので、徒歩でのアクセスは
不可能です。かつて、我路の沢川から歩いて訪れた人がいたようですが、現在は建物は立入禁止になっています。
ご覧のように周囲はすっぽりと植物に囲まれており、徒歩での接近は危険です。 -
隣の美唄国設スキー場です。かつての中学校の体育館だったレストハウスが見えます。小学校は、中学校と川を隔てて隣り合って建っていました。
美唄国設スキー場 スキー場
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この建物は珍しい円柱形になっています。しかも使われていた当時は2つ並んでいたのだそうです。何故一つだけ残っているのでしょう?
炭鉱が発展して労働者が増えたので、子供もすごい勢いで増えました。
炭鉱に集まって来る人の多さは、長崎の端島(軍艦島)でよくわかります。日本一の超過密都市でした。
北海道には、こうしたかつての炭鉱都市がいくつもあり、そこに敷かれていた鉄道の廃線跡もたくさんあるのです。 -
少し位置をずらして見ると、建物の周りが水で囲まれているのがわかります。
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建物は3階建てで、ここでは2・3階部分が見えています。
建物の縁に張り出し部分があるので、1階と2階の間にある庇ではないかと思われます。 -
学校は水の中に建っているような状態です。
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ぐるりと水に囲まれています。庇の上にも水があって、滴り落ちているのがわかります。建物の足元は何の水かわかりませんが、建物の上にも水が溜まっているのは雨水でしょうね。ここ数日は天気は良かった筈ですが・・・
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先日テレビで、現在も使われている円柱形の小学校の様子を見ました。
建物の中はケーキを切ったのと同じように教室が区画されており、教室の中では建物の中心側に教卓があり、扇形に生徒の机が広がっているので、教師は目が行き届きやすいのだそうです。 -
屋上です。中心に丸い煙突のような物があり、その周りに小さな丸が散りばめられています。
これは明かり取りの窓なのだそうです。遠くから見ているので小さく見えますが、小学校の校舎なのですから、相当な大きさがあると思われます。建物の中心には螺旋階段があって、日々子供たちが昇降していました。
これ以上は樹木があるので近寄れません。建物の側面にも降りられません。上空から俯瞰するだけです。
それでも、この珍しい建物が見られて満足です。昭和初期の建物は、自由な発想で作られていて、奇をてらう訳でもなく、格好いいから好きです。
余談ですが、知り合いに祖母が沼東小学校の卒業生だったという人がいました。昭和49年閉校ですから、当時1年生だったらまだ50代です。いきなり身近になりました。 -
せっかくなので、この先にある「炭鉱メモリアル森林公園」に行きます。
ところが、入口に軽トラックが置かれ、中に入ることが出来ません。
そこで、またまたドローンのお出ましです。炭鉱メモリアル森林公園 公園・植物園
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旧三菱美唄炭鉱跡地を整備して作られた公園で、高さ20mの竪坑櫓がシンボルとなっています。
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櫓の後ろの建物は、この地区の設備機械の電源を管理していた開閉所です。
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右の櫓の後ろには、地上に上げられた石炭を貯蔵していた原炭ポケットがあります。
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大正12年に深さ170mの竪坑がつくられ、巻き上げ機で石炭を運び出したり、坑員を地下に移動させたりしていました。
出炭量は、昭和初期には年間100 万トンを超え、三菱鉱業全炭鉱の中でも第1位となる大炭鉱でした。 -
イチオシ
1923 年建設の北海道で2番目に古い竪坑。排気・入気用の2本の竪坑が並んでいます。
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竪坑櫓は各地にいくつかあります。滝川から根室本線で富良野方面に少し行くと赤平市があります。
「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」では、旧住友赤平炭鉱竪坑櫓のヤード内部などを見学することが出来ます。炭鉱メモリアル森林公園 公園・植物園
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元鉱員のガイドによる見学は、一日2回行われます。
住友赤平炭鉱では、採掘量が55年間で4,860万tあり、
未だに7億5千万tの石炭が埋蔵されていると言われています。
だから美唄でも採掘が続けられているのですね。赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設 美術館・博物館
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アルテピアッツァ美唄の彫刻家安田侃の希望で、
平成30年7月から3点の彫刻作品が公園内に設置されています。
展示された作品は、竪坑櫓前の「妙夢(みょうむ)」、竪坑開閉所内の「意心帰(いしんき)」、原炭ポケット前の「吹雪(ふぶき)」です。
上空からでは、「妙夢」だけしか見えませんでした。
平成19年11月に竪坑櫓と原炭ポケットが経済産業省が指定する近代産業遺産に選定されました。 -
今度は別の日に阿寒湖から「まりも国道(240号)」を南下しています。網走から阿寒湖を経て、釧路まで続く長い国道です。
阿寒町中徹別で道道667号線に入ります。 -
「この先500m 閉鎖ゲート有り」同じ看板が1㎞前地点にもありました。ただ、ゲートがあるというだけで、開いているのか閉まっているのかわかりません。
一般的によく見掛けるのは、降雨時の降水量が規定値を超えた場合に閉鎖されるゲートです。これには条件が明記されていないので、積雪状況によるのでしょうか。 -
ここから先は一気に秘境ムードです。道は直線だったのがくねくねと曲がるようになり、山の中に分け入っていくのがわかります。普段、人が訪れることの極端に少ない地域です。
途中、道路公団の黄色い車とすれ違いました。ゲートが閉鎖されているからと制止されることも無く、すんなりすれ違ったので、ちょっと安心して進んで行きます。 -
小さな橋を渡って、それほど行かずに右手に病院跡がある筈なのですが、一面植物に覆われていて見通しが効きません。左には先程渡った舌辛川が流れています。道路は砂利道になりましたが、よく整備されていてダートと言う程ではありません。
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直線部分を過ぎてカーブを曲がりました。これでは通り過ぎたと思われた時、木々の間に煙突が見えました。
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車を降りて、わずかに辿れる道を入って行きます。
下草は生えていますが、露で濡れる程度で、行く手を阻む程ではありません。但し、当然のことながらヒグマの生息地です。単独での行動は控えて、盛大に熊鈴を鳴らしながら歩きます。これだけチリンチリン鳴らしても、まだ足りないくらい広大な場所です。 -
煙突の足元に来ました。ここまでは草は大したことが無かったのですが、いきなり胸まで埋まりそうな草丈です。下草狩りを途中までしてあったのでしょう。
ボイラー用の煙突という事で、右側に設備のあったらしい出っ張りが見えますが、探検マニアではないので、これ以上は進みません。 -
聳え立つ煙突は、ボイラーを使用していた規模が伺われます。
雄別炭砿は大正10年に生産を開始し、昭和45(1970)年に閉山となりましたが、外観からは顕著な老朽化は見て取れず、近付くと危険という感じはしませんでした。 -
煙突への道の脇には、コンクリート製の建築物があります。
橋脚のように見えます。 -
同じ物がずっと続いているので、何かの運搬に使われたのでしょう。
夏は草が生い茂って、歩ける範囲が狭まりますが、探検したい訳ではない私には、絶好の被写体になっています。 -
付近には、レンガの遺構も見られます。
ちょっと、カンボジアのアンコール遺跡を思い出します。 -
藪の奥の方には、かなり大きなレンガの壁とアーチが見えます。
あれらを見たい人には、夏の時期はお勧めできないですね。
でも、植物が繁茂する景色は本当に綺麗です。
人工的な手を入れていない(炭鉱の町の跡地ではありますが)風景は
澄み切った空気と眩い程の緑の光に満ちていて、畏怖を感じます。 -
目的の病院跡は通り過ぎてしまったのがわかったので、引き返して探します。
煙突の見える場所が、道路から少しだけ膨らんでようやく車が1台止まれるようになっていたので、そういう場所を探してみました。すると、ここにちょっと道路が膨らんだ箇所がありました。他には一切何もありません。案内板や注意看板、柵などは何一つなくて、自然そのものなのですが、ここが入口です。 -
道路から入って行くとすぐに小さなアップダウンがあります。これを乗り越えて行きます。
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乗り越えた先は平坦な草地で、やはりここも歩くところだけ下草刈りがしてあります。
写真は、少し進んだところで道路側を振り返っています。 -
見渡す限り草と蕗に覆われていて、病院の建物らしいものは見えません。緑の原の真ん中で途方に暮れてしまいました。どっちを向いても緑しか見えない・・・
行く手には木々が生え、高くなっているのがわかります。それを目で追って上を見たら、これが見えました。 -
「あ、あった。」それは緑に溶け込んで、人工物であることを忘れたような佇まいをしていました。こんなに大きかったんだ。
てっきり、ここの平地の部分に建っているのだと思っていました。 -
さて、あそこへ行くにはどうすればいいんだろう。
建物の左側に向かって行く、草に覆われた坂道がありました。 -
坂道は病院の建物を過ぎて、カーブを描いて病院の脇にアクセスしています。
-
建物の前にも道がありますが、今は横の入り口から入って見ます。
-
2~3段の階段と手摺があり、出入り口があります。
扉が開いているので、気持ち的に入りやすいです。
道路からここまで、一切案内はなく、かと言って立入禁止の警告もありません。
本当に、存在を忘れられたような場所です。大抵の場所には、何かしらありますが、ここまで何もないというのも、特別な感じがします。 -
入り口から入って、振り返ってみます。入口から真っ直ぐに廊下が続き、両側に部屋があります。2階への階段がありますが、先ずは1階から。
-
右の一番手前の部屋です。暗い部屋の窓から外の木が見えます。
まるで額縁のように見事な一枚を形作っています。 -
その隣は細かく区切られていて、奥の部屋の床には丸い跡があります。
手術室だった?一気に怖さが這い上がって来ました。
でも、この病院にはもう壁と床しかありません。置き去られた設備の破片一つないのです。
普通、廃墟というものは建物や日用品などの残留物が散乱しているものですが、ここには何もありません。 -
廊下を挟んで反対側の部屋は小さめです。個室だったのか、はたまた事務室?窓の外に白い建物が見えます。他にも別棟があるようです。
-
実はこの病院跡は有名な心霊スポットらしいのです。
おどろおどろしく加工した写真や、書き込みがあり、一旦は行くのを止めようと思いました。 -
「車のエンジンがかからなくなる」これは困るなあ。
「行くな」(根拠はわからないけど)説得力あるなあ。
こういう部屋ばかりだったら、何としても行きたいとは思いませんでした。 -
部屋を見て回っているうちに、枠しかなくなった窓から差し込む緑の光に照らされて、怖さを感じなくなりました。
ああ、ここは自然に祝福されている。
それまで、悪霊退散とばかりに、(効果があるとは思えないけど)
熊鈴を鳴らしまくっていましたが、むしろ、ここを使っていた人たちに
「お邪魔します。」「拝見させていただきます。」という気持ちで、
呼び鈴のようにチリン、チリンと鳴らすようになりました。 -
小さな個室は診察室でしょうか。炭鉱の町の病院とはいえ、一般の人たちも来院したでしょうから、総合病院の規模があったのでしょう。炭鉱で
栄えた街は、当時は日本でも最先端の設備を誇る建物や設備、鉄道、遊興施設などがありました。人口が多く、若い人ばかりで、需要は高く、もちろん財力もあったので、夢のような町が形成されました。
きっとこの病院も最先端医療に近いものを提供していたのでしょう。 -
建物は中央にホールがあり、左右に翼棟が伸びています。左翼棟を
見て来ましたが、ホールとの境にシャッターが下りていて入れません。
仕方なく引き返して来ました。
危険な物は何もないのですが、足元には、かつてあった筈の蓋が無く
なって、穴が開いている場所がいくつかあります。周りに気を取られて、落ちないように気を付けます。
病院とは言え、ここで怪我をしても治療は受けられません。 -
裏の建物は平屋建てのようです。
関係者の宿舎だったのかしら? -
2階に上がって来ました。木の手摺の上に鉄パイプの手摺が付いているところが病院らしいですね。太い木の手摺では、掴まりにくいですから。
-
左脇の角部屋には、洗面台?がありました。
-
小さな浴槽が2つ残されていました。この建物の中に唯一残された備品ではないでしょうか。
この病院には産科もあったそうです。当然ですね。炭鉱の町の学校は生徒でパンクしそうなほどの賑わいでしたから。 -
2階の方が窓が大きいので、より一層明るく見えます。
-
これまであまりに見事に何もなかったので気付かなかったのですが、
この壁は破壊されている?どう見てもわざわざ打ち壊されています。
廃墟に入り込んで、更に壊して遊ぶ輩がいるようです。
何年も前は、落書きや散乱物で荒廃していたようですが、現在では
公共機関に管理されていて、このように綺麗な状態になっています。 -
2階はシャッターの横の扉が開いていてホールに入ることが出来ました。
これが私が見たかった場所です。病院という事もあって、階移動がスロープで出来るようになっています。左が1階から上がって来るスロープで、正面奥には屋上に上がるスロープが見えます。 -
ホールの真ん中には、一際太い柱が2本、門柱のように立っています。
-
反対側の翼棟は壁も無くなっていて、廊下も各部屋も一つの空間になっています。
-
でももう私の関心はこのスロープに集中してしまって、翼棟には行きませんでした。こんな山の中の廃墟まで危険を冒して来たのは、この美しい
スロープを見たかったからです。
以後、スロープばかりの写真になるのは、ご勘弁願います。 -
イチオシ
厳密に言うとスロープがと言うよりは、全面に穿(うが)たれた窓から
見える、この風景に向かう空間に惹かれました。 -
2階から屋上に向かうスロープからは、2階のホールが大きく開いた隙間から見えて、窓は天井までありますから、全面光が降り注ぎます。
ここは北海道釧路市阿寒町。北海道の中でも一際寒い地域です。
太陽の光と熱を取り込みたかったのでしょう。
それに明るさは患者さん達には必需品です。当時はこんな風に木々が窓を覆ってはいなかったでしょうから、外が良く見えたのでしょうね。 -
振り返ると、手前の部屋が男子便所(敢えて古風な言い方をします)
だったことがわかります。 -
病院は2階建てで、スロープで屋上のホールまで行くことが出来ます。
今は屋上は草に覆われ、緑が眩い空間になっています。 -
現役時代とはまったく違う状態だとは思いますが、両腕を失って永遠の美を得た「ミロのビーナス」のように、このスロープも骨組みだけになって外の樹木が素晴らしい景観を与えて、最高の芸術作品になっています。
ここは外に何もなかったら魅力がありません。 -
2020年12月~21年2月まで開催された釧路市立博物館の企画展「雄別炭砿閉山50年 雄別・尺別・上茶路」の紹介に雄別炭砿の詳細がありました。
太平洋炭砿とともに、釧路炭田の有力炭鉱だった雄別炭砿(雄別・尺別・上茶路)は、1919(大正8)年、実業家の芝義太郎らが「北海炭砿鉄道株式会社」を設立、現在の釧路市阿寒町雄別で炭鉱開発を行う。1921(大正10)年には生産を開始するが、1923(大正12)年の鉄道開通(釧路~雄別炭山)により本格化する。
しかし関東大震災、第一次大戦後の不況で経営困難となり、翌1924(大正13)年に三菱鉱業が買収、同社子会社の「雄別炭砿鉄道株式会社」となる。 -
1928(昭和3)年に尺別炭砿、1936(昭和11)年に浦幌炭砿を、
1935(昭和10)年には石狩炭田の茂尻炭砿(現赤平市)を買収するなど、経営規模の拡大も図る。
1941(昭和16)年には戦前・戦中期の最大となる年66万4千トンを生産する。
終戦後は財閥解体により1946(昭和21)年、三菱鉱業から独立する。 -
1959(昭和34)年、鉄道部門は「雄別鉄道株式会社」に分社化し、
雄別炭砿鉄道株式会社は「雄別炭砿株式会社」となる。
機械化・効率化を推し進め、1964(昭和39)年には雄別炭砿は史上最大となる生産量年72万6千トンを記録、また同年、新たに上茶路炭砿(白糠町)を開坑、国鉄白糠線も開業する。 -
屋上階のホールが見えて来ました。
1969(昭和44)年、茂尻炭砿は事故後閉山、そして資金繰りの悪化により雄別炭砿株式会社は1970(昭和45)年2月27日に雄別・尺別・上茶路の各炭砿を閉山、自主廃業(会社解散)を選択する。雄別鉄道・尺別鉄道も閉山2ヶ月後の4月15日の運行をもって廃止、炭鉱周辺は無人地帯に戻った。 -
雄別鉄道で活躍した「8722」は、明治末期に製造された国産化初期のSLです。株式会社釧路製作所本社工場(釧路市川北町9-19) 管理棟前に保存されています。
-
「阿寒炭鉱と鉄道館 雄鶴」は、雄別炭砿と鉄道の歴史を次世代へ残すべく、1987年に開館。
阿寒町自然休養村内「赤いベレー」・道の駅「阿寒」に隣接して阿寒駅を再現、SL「C11 65」も保存されています。 -
館内には鉄道や炭鉱の展示があり、真ん中のベンチは駅の待合になっています。
-
雄別炭砿の写真がありました。中央に煙突が見えます。これが先程見た煙突だとしたら、病院はその右側の山際に建つ2階建ての建物と思われます。後ろに平屋建ての建物も見えるし、横にも今は無くなっている別棟がありました。
これが同じ場所だとしたら、1970年に閉山して、わずか50年でここまで痕跡が無くなってしまうのだという事に驚嘆します。 -
屋上階にはホールしかありません。患者さんたちの憩いの場所だったことでしょう。
-
ホールから出て見ると、まるで地上のような光景になっています。
建物の端にあった筈の柵が無くなっているので、終わりが見えず、
どこまでも行かれそうな気がします。 -
夏の間は、この広い屋上で日光浴をする患者さんたちがいたことでしょう。
-
下を覗き込むと、平屋の建物が見えました。
病院の建物は昭和初期の病院によくあったタイル貼りですが、
平屋の方はコンクリートに白い漆喰かな?になっています。
病棟ではなかったのでしょう。 -
2階に降りて行きます。
骨組みとスロープはこの状態だからこそ、ここまで美しいのでしょうね。 -
もうすっかり怖くなくなった病棟。こんなに明るくて整然としていたら、心霊スポットなんて言う人も恥ずかしくなるんじゃないかしら?
-
相変わらず、熊鈴をチリンチリン鳴らして歩いていますが、むしろ建物の中で反響するのが心地良くて、盛大に鳴らしています。都会では風鈴ですら鳴らせなくなりました。子供の頃は部屋に赤い江戸風鈴を吊るしていたものですが。
この探索のためにモンベルで鈴を買いました。音色を試して選びました。澄んだ高い音が遠くまで響いて、気持ちいいです。 -
更に2階から1階へと降りて行きます。
-
地面が近くなって、少し暗くなりました。そろそろスロープともお別れです。
-
名残惜しいので、途中でもう1枚。
北海道は日本海側は豪雪地帯がありますが、大雪山系をこえて太平洋側になると降雪は減り、代わりに厳寒の地になります。ここはどんな冬を過ごしたのでしょうか。
石炭はいくらでもあるから、意外と屋内は暖かかったかもしれません。
すずらん香水が北海道の代表的な土産だった頃、家の中では半袖Tシャツ1枚なんて話を聞きました。実際、バスの中、建物の中、どこでも暑くて厚着をして行った関東人は大層困ったものでした。「北海道の冬は暑い」が、かつての感想です。 -
いよいよ地上に着きました。なんだか夢から覚めたような気分です。
-
1階のホールからスロープを見ます。
1階のホールはスロープとの境に区切りがあります。 -
ホールはそのまま玄関になっています。今度は正面玄関から出て行きます。
-
建物から出て振り返ります。玄関の奥にスロープが見えます。利用者は
楽に2階に行かれるようになっていました。なんでもエスカレーターや
エレベーターに頼る現代に、この発想は無いでしょう。
どんな建築家が設計したのでしょうか。
美唄市立沼東小学校もツインタワーになっていて、大層珍しい建物でした。昭和初期の建築はこせこせしていなくて、すんなり美しい。 -
下の窪地から初めて見つけた時は、こわごわ見上げたものですが、
今は感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう、こんなに美しいものを
見せてくれて。
夏の今だからこそ、この景色は見られます。冬枯れの方がアクセスは容易でしょうが、白一色の風景では色気がありません。雪景色はまた違う魅力があるでしょうが、私は夏の風景が一番美しいと思います。 -
正面玄関から真っ直ぐには窪地に降りられないので、最初に入った横の玄関付近まで建物沿いに歩きます。
誰一人いない、看板もロープも何一つない特別な空間。こんな特別な場所があったんだ。ものすごい宝物をもらった気がします。 -
さて、まりも国道を南下して太平洋に出て、西の襟裳岬方面に向かいます。JR根室本線の旧古瀬駅を過ぎた辺りに、こんな標識が現れます。
「馬主来(パシクル)自然公園」 -
馬主来沼に架かる橋の東側に駐車場と展望所があります。
-
白糠町のHPには、
「白糠町と釧路市音別町との境にあるパシクル沼。パシクル川の水が河口で荒波にせき止められ、満水になると自然に太平洋に流れ出る珍しい沼です。夏はシジミ貝採り、冬はワカサギ釣りが楽しめます。」とあります。
今日は、海までもうちょっとですね。 -
展望所から見た馬主来沼。春の雪解けや大雨の時期には海と繋がるのかな?行ってみないと繋がっているかわからないのが、おもしろいですね。
-
ドローンを上げてみました。
-
海から見た馬主来沼。波が砂地にフリルのような模様を作っています。
これが沼を堰き止めたんですね。海から見ると、それがよくわかります。 -
波が作ったフリルは、ずっと海岸線に続いています。
-
まばらにしか人工物が無い風景。北海道だなあ。
この真っ直ぐな海岸線は襟裳岬の手前の広尾町までずっと続きます。 -
馬主来沼の全景を見ながら、今回はここで終わります。
美唄市立沼東小学校跡は、ずっと手前から立入禁止です。
雄別炭砿病院跡に行く場合は、単独では行かないようにしてください。
ヒグマの出没情報もあります。怪我をしても誰もいません。携帯の電波は期待するだけ無駄。(スマホを使わなかったので未確認です)
誰かがここで危険な目に合うと、以後立入禁止になったりして、他の人が迷惑します。充分に留意してください。
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