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新京極,寺町通りを徘徊しました。

新京極,寺町通りを徘徊する。

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2023/06/16 - 2023/06/16

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nomonomo

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新京極,寺町通りを徘徊しました。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 新京極商店街 市場・商店街

  • あれ?お店が変わったかな。<br />確か、寛永堂があったのではないかな。

    あれ?お店が変わったかな。
    確か、寛永堂があったのではないかな。

  • 蛸薬師堂<br /><br />正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に「蛸薬 <br />師」と呼ばれる薬師如来の石像を安置している。<br />昔、この寺が二条室町にあったころ、付近に<br />池があったことから、水上薬師又は澤薬師と呼<br />ばれ、これが訛って蛸薬師となったといわれて <br />いる。<br />また、一説には、この寺にいた善光という親<br />孝行な僧侶が、戒律に背いで病気の母のために<br />蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、<br />箱を開けるよう求められたとき、薬師如来に「こ<br />の難をお助けください。」と念じたところ、蛸の<br />足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れた<br />という。<br />その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、こ<br />れは、親孝行の僧侶を守った本尊の霊験である<br />として、本尊の薬師如来を蛸薬師というように<br />なったと伝えられでいる。 <br />病気平癒の祈願のために参拝する人々でにぎ <br />わった参道は蛸薬師通と呼ばれるようになった。 <br /><br />京都市

    蛸薬師堂

    正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に「蛸薬
    師」と呼ばれる薬師如来の石像を安置している。
    昔、この寺が二条室町にあったころ、付近に
    池があったことから、水上薬師又は澤薬師と呼
    ばれ、これが訛って蛸薬師となったといわれて
    いる。
    また、一説には、この寺にいた善光という親
    孝行な僧侶が、戒律に背いで病気の母のために
    蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、
    箱を開けるよう求められたとき、薬師如来に「こ
    の難をお助けください。」と念じたところ、蛸の
    足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れた
    という。
    その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、こ
    れは、親孝行の僧侶を守った本尊の霊験である
    として、本尊の薬師如来を蛸薬師というように
    なったと伝えられでいる。
    病気平癒の祈願のために参拝する人々でにぎ
    わった参道は蛸薬師通と呼ばれるようになった。

    京都市

    蛸薬師堂 寺・神社・教会

  • 新京極<br /><br />北は三条通から南は四条通に至る約五百メートルの <br />この通りを新京極通といい,通り名は平安京の最も新し<br />く造られた通りであることに由来する。<br /><br />天正年間(一五七三~一五九二),豊臣秀吉gた市<br />中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴い,その境<br />内が縁日の舞台として利用され,周辺は見世物や催し<br />物を中心に発展するようになった。<br /><br />明治五年(一八七二),このことに注目した京都府<br />参事植村正直は,東京遷都で衰えていた市民の土気を <br />盛り上げるべく,寺院の境内を整理して,そこに新た<br />な通りを造った。新京極通の誕生である。<br /><br />明治十年(一八七七)頃には芝居座,浄瑠璃,寄<br />席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並<br />び,明治三十年代には東京の浅草,大阪の千日前とと<br />もに,日本の三大盛り場として知られるようになった。<br /><br />現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客 <br />や買物客でにぎわう,京都を代表する繁華街である。<br /><br />上方落語の始祖・安楽庵策伝が住職を務めた誓願<br />寺,和泉式部の寺として知られる誠心院や,西光寺,<br />蛸薬師堂妙心寺,安養寺,善長寺,錦天満宮,染殿<br />院という由緒のある七つの寺院と一つの神社が通りの歴<br />史を今に伝えている。<br /><br />京都市

    新京極

    北は三条通から南は四条通に至る約五百メートルの
    この通りを新京極通といい,通り名は平安京の最も新し
    く造られた通りであることに由来する。

    天正年間(一五七三~一五九二),豊臣秀吉gた市
    中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴い,その境
    内が縁日の舞台として利用され,周辺は見世物や催し
    物を中心に発展するようになった。

    明治五年(一八七二),このことに注目した京都府
    参事植村正直は,東京遷都で衰えていた市民の土気を
    盛り上げるべく,寺院の境内を整理して,そこに新た
    な通りを造った。新京極通の誕生である。

    明治十年(一八七七)頃には芝居座,浄瑠璃,寄
    席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並
    び,明治三十年代には東京の浅草,大阪の千日前とと
    もに,日本の三大盛り場として知られるようになった。

    現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客
    や買物客でにぎわう,京都を代表する繁華街である。

    上方落語の始祖・安楽庵策伝が住職を務めた誓願
    寺,和泉式部の寺として知られる誠心院や,西光寺,
    蛸薬師堂妙心寺,安養寺,善長寺,錦天満宮,染殿
    院という由緒のある七つの寺院と一つの神社が通りの歴
    史を今に伝えている。

    京都市

  • 誓願寺<br /><br />天智天皇六年(六六七)、天皇の勅願により創建 <br />された。本尊の阿弥陀如来坐像は賢問子・芥子国 <br />の作であった。もとは奈良にあったが、鎌倉初期に<br />京都の一条小川(現・上京区元誓願寺通小川西入)<br />に移転し、その後、天正十九年(一五九一)に豊臣 <br />秀吉の寺町整備に際して現在地に移された。<br />その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門 <br />は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内 <br />地六千五百坪には多数の伽藍を有し、十八ケ寺の <br />山内寺院を擁していた。<br />清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が <br />帰依したことにより,女人往生の寺としても名高い。<br />また源信僧都は、当寺にて善賎講を修し、一遍<br />上人も念仏賦算を行った。浄土宗元祖の法然上人 <br />が興福寿の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、 <br />浄土宗になったという。現在は、法然上人の高弟・ <br />西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草 <br />派の総本山である。

    誓願寺

    天智天皇六年(六六七)、天皇の勅願により創建
    された。本尊の阿弥陀如来坐像は賢問子・芥子国
    の作であった。もとは奈良にあったが、鎌倉初期に
    京都の一条小川(現・上京区元誓願寺通小川西入)
    に移転し、その後、天正十九年(一五九一)に豊臣
    秀吉の寺町整備に際して現在地に移された。
    その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門
    は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内
    地六千五百坪には多数の伽藍を有し、十八ケ寺の
    山内寺院を擁していた。
    清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が
    帰依したことにより,女人往生の寺としても名高い。
    また源信僧都は、当寺にて善賎講を修し、一遍
    上人も念仏賦算を行った。浄土宗元祖の法然上人
    が興福寿の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、
    浄土宗になったという。現在は、法然上人の高弟・
    西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草
    派の総本山である。

  • 新京極商店街 市場・商店街

  • 鳴門鯛焼本舗 三条寺町店 専門店

  • 寺町三条<br /><br />寺町通りの歴史と由来<br /><br />ここ寺町通り三条は、東海道を延長した三条通りと寺町通りの交 <br />差点で、桃山時代以来、殷賑をきわめたところである。三条通りは、 <br />平安京の三条大路にほぼ該当し、古<から、東国・西国に通ずる道 <br />路として重視された。<br />寺町通りは、平安京のほぼ東京極大路に当たり、南北を通貫して <br />いた。中世には、戦乱によつて衰退していたが、天正十八年(1590)<br />から始まる豊臣秀吉の京都大改造によつて、道路が修復・再生され <br />た。主として、洛中に散在していた諸寺院が、この通りの東側に強 <br />制的に移転させられたので、「寺町」の名が付けられたが、西側に <br />は多<の商店が軒をつらねた。数珠屋・位牌屋・石塔屋・仏師・書 <br />店・筆屋・楽器屋・人形屋・紙表具屋・扇屋・白粉屋など、宗教・ <br />文具. 装飾関係の店があり、多<の人々を誘った。

    寺町三条

    寺町通りの歴史と由来

    ここ寺町通り三条は、東海道を延長した三条通りと寺町通りの交
    差点で、桃山時代以来、殷賑をきわめたところである。三条通りは、
    平安京の三条大路にほぼ該当し、古<から、東国・西国に通ずる道
    路として重視された。
    寺町通りは、平安京のほぼ東京極大路に当たり、南北を通貫して
    いた。中世には、戦乱によつて衰退していたが、天正十八年(1590)
    から始まる豊臣秀吉の京都大改造によつて、道路が修復・再生され
    た。主として、洛中に散在していた諸寺院が、この通りの東側に強
    制的に移転させられたので、「寺町」の名が付けられたが、西側に
    は多<の商店が軒をつらねた。数珠屋・位牌屋・石塔屋・仏師・書
    店・筆屋・楽器屋・人形屋・紙表具屋・扇屋・白粉屋など、宗教・
    文具. 装飾関係の店があり、多<の人々を誘った。

  • 三嶋亭 本店 グルメ・レストラン

  • 寺町四条<br /><br />寺町通りの歴史と由来<br /> <br />ここ寺町通り四条は、四条通りと寺町通り<br />の交差点で、桃山時代以来、繁華の街として<br />知られたところである。四条通りは、平安京<br />の四条大路にほぼ該当し、中世以降、砥園祭<br />など芸能の巷として、著名であった。<br />寺町通りは、平安京のほぼ東京極大路に当<br />たり、南北を通貫していた。中世には、戦乱<br />によって衰退していたが、天正十八年(1590)<br />から始まる豊臣秀吉の京都大改造によって、<br />道路が修復・再生された。主として、洛中に散<br />在していた諸寺院が、この通りの東側に強制<br />的に移転させられたので、「寺町」の名が付け<br />られたが、西側には多くの商店が軒をつらね<br />た。数珠屋・位牌屋・石塔屋・仏師・書店・<br />筆屋・楽器屋・人形屋・紙表具屋・扇屋・白<br />粉屋など、宗教・文具・装飾関係の店があり、 <br />多くの人々を誘った。

    寺町四条

    寺町通りの歴史と由来

    ここ寺町通り四条は、四条通りと寺町通り
    の交差点で、桃山時代以来、繁華の街として
    知られたところである。四条通りは、平安京
    の四条大路にほぼ該当し、中世以降、砥園祭
    など芸能の巷として、著名であった。
    寺町通りは、平安京のほぼ東京極大路に当
    たり、南北を通貫していた。中世には、戦乱
    によって衰退していたが、天正十八年(1590)
    から始まる豊臣秀吉の京都大改造によって、
    道路が修復・再生された。主として、洛中に散
    在していた諸寺院が、この通りの東側に強制
    的に移転させられたので、「寺町」の名が付け
    られたが、西側には多くの商店が軒をつらね
    た。数珠屋・位牌屋・石塔屋・仏師・書店・
    筆屋・楽器屋・人形屋・紙表具屋・扇屋・白
    粉屋など、宗教・文具・装飾関係の店があり、
    多くの人々を誘った。

  • 蓬莱堂茶舗 グルメ・レストラン

  • 京極一番街 (京錦小路) 市場・商店街

  • 寺町四条<br /><br />寺町通りの歴史と由来<br /> <br />ここ寺町通り四条は、四条通りと寺町通り<br />の交差点で、桃山時代以来、繁華の街として<br />知られたところである。四条通りは、平安京<br />の四条大路にほぼ該当し、中世以降、砥園祭<br />など芸能の巷として、著名であった。<br />寺町通りは、平安京のほぼ東京極大路に当<br />たり、南北を通貫していた。中世には、戦乱<br />によって衰退していたが、天正十八年(1590)<br />から始まる豊臣秀吉の京都大改造によって、<br />道路が修復・再生された。主として、洛中に散<br />在していた諸寺院が、この通りの東側に強制<br />的に移転させられたので、「寺町」の名が付け<br />られたが、西側には多くの商店が軒をつらね<br />た。数珠屋・位牌屋・石塔屋・仏師・書店・<br />筆屋・楽器屋・人形屋・紙表具屋・扇屋・白<br />粉屋など、宗教・文具・装飾関係の店があり、 <br />多くの人々を誘った。<br /><br />イタリア大理石に依るモザィクの コンパッソ(羅針盤) <br />中世に発明された羅針盤は14世紀になって<br />造船技術の発達と、一定の方向を指す原理と<br />共に200年以上にわたって東洋の富をヨーロ<br />ッパにもたらすという、いわゆる大航海時代<br />を形成した。羅針盤がいつでも一定の方向を<br />指す事によって、船はその方向を誤ることが<br />なかったのである。400モの歴史を持つ寺町<br />通りの各店舗が21世紀に向かって、「その方向<br />を誤らぬ事」を願ってこの地に羅針盤(コン<br />パッソ)を設置した。このコンパッソはミラ<br />ノにあるイタリア伝統技術の承継者、クロー<br />チ社の職人達の手によって大理石、約85,000<br />個をモザイク模様で作成したものである。 <br />1991.4.24

    寺町四条

    寺町通りの歴史と由来

    ここ寺町通り四条は、四条通りと寺町通り
    の交差点で、桃山時代以来、繁華の街として
    知られたところである。四条通りは、平安京
    の四条大路にほぼ該当し、中世以降、砥園祭
    など芸能の巷として、著名であった。
    寺町通りは、平安京のほぼ東京極大路に当
    たり、南北を通貫していた。中世には、戦乱
    によって衰退していたが、天正十八年(1590)
    から始まる豊臣秀吉の京都大改造によって、
    道路が修復・再生された。主として、洛中に散
    在していた諸寺院が、この通りの東側に強制
    的に移転させられたので、「寺町」の名が付け
    られたが、西側には多くの商店が軒をつらね
    た。数珠屋・位牌屋・石塔屋・仏師・書店・
    筆屋・楽器屋・人形屋・紙表具屋・扇屋・白
    粉屋など、宗教・文具・装飾関係の店があり、
    多くの人々を誘った。

    イタリア大理石に依るモザィクの コンパッソ(羅針盤)
    中世に発明された羅針盤は14世紀になって
    造船技術の発達と、一定の方向を指す原理と
    共に200年以上にわたって東洋の富をヨーロ
    ッパにもたらすという、いわゆる大航海時代
    を形成した。羅針盤がいつでも一定の方向を
    指す事によって、船はその方向を誤ることが
    なかったのである。400モの歴史を持つ寺町
    通りの各店舗が21世紀に向かって、「その方向
    を誤らぬ事」を願ってこの地に羅針盤(コン
    パッソ)を設置した。このコンパッソはミラ
    ノにあるイタリア伝統技術の承継者、クロー
    チ社の職人達の手によって大理石、約85,000
    個をモザイク模様で作成したものである。
    1991.4.24

  • 新京極 名所・史跡

  • 新京極商店街 市場・商店街

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