2023/01/20 - 2023/01/20
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gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
神話の時代から、当たり前のように存在する神社。
そもそも何故創建されたのか?
神話を紐解いて迫ります。
たかが神話、されど神話。
古事記や日本書紀といった朝廷が編纂した書物の神話を紐解くと、天皇を頂点とする中央政権の様々な政治的意図が見えてきます。
出雲国造が編纂した風土記の神話を読み解くと、豪族の成り立ちが見えてきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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出雲大社
有名だけど、個人的には縁結びスポット以上の意味を知らない神社。
あとは、高円宮の息女が宮司に嫁ぐなど、皇室と縁が深いことくらいでしょうか。 -
長い参道を歩きます。
出雲大社は、大国主神(おおくにぬしのかみ)を祀っています。
葦原中国(地上)を開拓し、国造りを行いました(国造り神話)。 -
国譲り神話:出雲大社の起源
後に大国主神は、諸状あって(後述)国を天照大神に譲ることになります。その際に、大国主神は自分が鎮座する宮の造営を先方に要求。天高原の神々を動員して建てられたのが、現在の出雲大社です。長らく杵築大社等と呼ばれ、1871年に明治政府により出雲大社という呼称を採用。 -
拝殿
参拝は、ここで行われます。奥にある本殿は、神職以外は立入禁制。 -
本殿
現在は1744年築のもので、国宝指定の建築。
国譲り神話から読み取れるように、出雲大社は地元の信仰ではなく、政治的理由・国家プロジェクトとして造営されました。出雲豪族の強大さ、天照大神を祖とする皇室との関係が読み取れます。 -
国譲り神話詳細
古事記によると、大国主神は住居を要求する際に、「地面の底の岩に届く程しっかりと掘り下げて太い柱を立て、天高原に届くほど千木を立てて立派なもの」と述べています。
10世紀の記録によると、当時の本殿は高さ48m、天へ延びるスタイルだったとのことです。東大寺の大仏殿より3m高いです。古代の社殿は96mの高さだったとの記録もあります。 -
当時の本殿の模型。
全長102mの階段が壮観です。 -
大社造
日本の建築様式の一つ。高床式で、土台柱が3×3の配置。中央の柱(心柱)は、建物の柱も兼ねます。 -
夢物語に思えますが、2000年に本殿南で1248年造営の本殿心柱が発見されました(写真:複製)。巨大な柱は、3本の巨木を束ねて制作していました。13世紀の史料を裏付ける考古学的発見です。
※本物は、宝物殿で展示されています。 -
先述の本殿が向いている先は、1km西の海岸。
社苑を飛び出していざ直行。
そこには、国譲り神話の舞台「稲佐の浜」があります。
古事記と日本書紀では詳細の違いはありますが、あらすじは一緒です。以下は古事記に基づいて書きます。 -
国譲り神話
天高原(天界)に住む天照大神は、葦原中国(地上)は自分の子が治めるべきだと考え、その旨を大国主神に伝えるべく度々使者を遣わすも、悉く失敗します。稲佐の浜 自然・景勝地
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そんな中で遣わされたのが、建御雷之男神(たけみかづちのお)。彼は天界から、稲佐の浜に降り立った。浜に剣を突き刺して、自身は胡坐をかいて座り、でんと構えた。。。
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写真:因佐神社
この件に大国主神は、まずは息子たちに諮るようにと返答。息子のひとり建御名方神は建御雷之男神に力比べを挑むも、敢無く敗北。大国主神は国譲りに応じる。
写真は、建御雷之男神を祀る因佐神社。稲佐の浜向かいの崖にあります。
※負けた建御名方神を祀るのが諏訪神社。日本書紀には、信濃まで逃れたとの記述が。因佐神社 寺・神社・教会
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国譲りの条件で、大国主神は自分が隠居する宮殿を要求した。建御雷之男神は使命を果たして天高原へ戻り、彼らが用意した宮殿が現在の出雲大社という事です。
※因佐神社の横にある屏風岩は、この岩を背にして両者が話し合いをしたと伝わります。屏風岩 名所・史跡
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出雲大社の立地
三方を山に囲まれ、東西2辺に川が流れています。山から水が湧き出る谷口に位置しています。弥生時代の遺跡の上にあり、稲作(水稲栽培)と関わりが大きい弥生時代の典型的宗教観を反映していることが分かります。
次に地域史から、神話を検証します。 -
縄文時代
遺跡が分布するのは、丘の上といった高台です。なぜなら、遺跡のある辺りが当時の海岸線だったから。狩猟採集が生業で、各人が平等な小さな共同体が営まれました。移動から定住へ転換したのが、ポイントです。 -
弥生時代
大陸から伝来した稲作と鉄器が重要なアイコン。鉄器は農作業の効率を飛躍的に向上させ、余剰(生命維持に必要な量以上)の穀物(長期保存が可能。富の蓄積)が、格差と村を束ねる大きな繋がりを生み出した。この段階で鉄器が武器として使用された発掘物は、ほぼ皆無。
※大陸伝来の鉄製品を溶かす技術のみで、鉄鉱石・砂鉄等から鉄を取り出す技術は無かった。 -
古墳時代
ヤマト政権が、各地へ勢力を拡大する。初期のヤマト政権との繋がりを示す発掘物が、図のように分布。出雲は早いうちに、ヤマト政権の傘下に入ったことが分かる。 -
書物の中の出雲
時代は下るが、8世紀に中央官庁の役人が古事記・日本書紀という歴史書が編纂。神話にまで遡る政権(皇室)の歴史を記載。
それとは別に、各国の国司(≒各地の有力者)には、各国の歴史風土をまとめたレポート「風土記」を提出させた。出雲国編の特徴として、ヤマト政権とのかかわりを記述した神話が多い。 -
国引き神話
出雲国風土記冒頭の物語です。八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は出雲国を見渡すと、「細長い布」のように小さい国(島根半島は本州と陸続きではなく、細長い島だった)なので、どこかの国の余った土地を縫い付けて大きくすることにしました。 -
結論を先に言うと、図のように4つの国から土地を引っ張ってつなぎ合わせ、現在の姿になりました。
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志羅紀(新羅)の三崎の土地を鋤(写真)で掘り起こし、綱にかけて手繰り寄せると出雲の土地にくっついた、こうしてできた土地が去豆(小津)~支豆支(杵築)の御崎に至る部分で、綱を掛けた杭が現在の三瓶山、綱は薗の長浜になった。
更に、隠岐の土地を現在の佐陀川流域へ、北國から松江平野へ、能登半島先端から美保関へ土地を手繰り寄せ、これらを引っ張った綱は弓ヶ浜、綱を掛けた杭は大山になった。 -
出雲へ手繰り寄せた土地は、当時出雲と交流があった地域を指し、発掘物からも盛んに交易があったことが分かる。
写真は奉納山から見下ろした薗の長浜および三瓶山。 -
刀剣とのかかわり
東アジアでは、刀剣は武器のみならず、権威の象徴として重要視された。そうした刀剣には、華美な装飾が施された。
皇室の権威の源である三種の神器にも、刀剣が含まれる。スサノヲミコトが現在の奥出雲町で大蛇ヤマタノヲロチの尾を斬って退治した際に、尾から出てきた剣です。 -
出雲の資源・技術
古来から出雲は砂鉄の産地として有名だった。 -
ヤマト政権は、権威を示す刀剣に欠かせない鉄を狙って、出雲征服を図ったと考えられるかもしれない。ヤマタノオロチ神話で、三種の神器の刀のルーツが出雲であることも要チェック。
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古墳時代後半~飛鳥時代
ヤマト政権の傘下に入った地元大首長は、国造という役職で現地の統治をおこなった。出雲大社の宮司が代々国造職を世襲、国の政教を支配した。
墓は、前方後円墳のスタイルで、ヤマト政権の後ろ盾があることのシンボルとなる様式だった。国造に権威を授けた目に見える証として、装飾大刀がヤマト政権から贈られた。 -
写真のように、身分の高い人ほど大刀の装飾性が高かった。
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宮司
出雲大社の宮司は、天照大神の子である天之菩卑能命(あめのほひのみこと)を始祖とする神裔が務めた。第12~30代は、出雲の政治も兼ねた(国造)。皇室と並び、日本で最も古い系図を持つ家柄です。 -
家の分裂(14世紀半ば)
第54代の宮司は病弱で、実務を弟の孝宗に任させきりだった。もう一人の弟の貞孝は不服とし、内紛状態に陥る。室町幕府の出雲国守護代が仲裁に入り、両者が等分に職務を遂行するよう取り決めた。以降、孝宗の家系の千家、貞孝の家系の北島家で運営された。
写真は、本殿東側に位置する北島家。北島国造館 寺・神社・教会
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明治政府の宗教政策により、出雲大社の宮司は、便宜上千家が単独で行うことになった。千家は本殿の西側に位置する。
天皇家も千家も共に天照大神の神裔同士ということで、2014年には、第85代を継ぐ予定の千家国麿と高円宮典子女王の婚姻が結ばれた。千家国造館 名所・史跡
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神仏習合
6世紀に伝来した仏教と神道は徐々に融合し始める。大国主命は音読みでダイコクとなるため、仏教の大黒天と同一視されるようになった。ヒンドゥー教のシヴァ神をルーツとする大黒天は、仏教を護る戦う破壊と豊穣の神、写真のように、厳めしい顔つきだった。
武家政権下では、概して仏主神従の傾向だったために、仏教の影響が濃くなり、長らく鰐淵寺の管理下にあった。大社の境内には、多くの仏塔が建ち、社殿では読経も行われた。 -
民間信仰
時経つうちに大黒の破壊的な要素が廃れ、人々に都合の良い豊穣の部分のみがクローズアップされる。厳めしい顔つきは、微笑に取って代わった。江戸時代になると米俵の上に乗り、福袋と打ち出の小槌を持つスタイルとなる。出雲大社の公式HPでも、大国主神はだいこくさまとして慕われるとの記述が。 -
おまけ
出雲大社の参道には、摂社の野見宿禰神社があります。垂仁天皇主催の相撲大会に召喚され、勝利しました。ということで、国技大相撲の神様とされます。実は、第13代宮司と同一人物とされます。野見宿禰神社 寺・神社・教会
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そんな言い伝えもあって、出雲を統治した松江藩は、相撲に藩の威信を懸けました。。雷電、稲妻、不知火といった歴代強豪力士を抱え、江戸時代の相撲界を席巻しました。
次回は縁結び神話にスポットを当てます↓
https://4travel.jp/travelogue/11803918
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