2022/10/09 - 2022/10/09
492位(同エリア1466件中)
Bachさん
午前中の「大津祭」はもう少し見たいところでしたが、あいにく午後から雨予報だったので、早めに切り上げ午後の「琵琶湖疏水」をスタートです。
「琵琶湖疏水」は京都側の蹴上インクラインや南禅寺水路閣などで見るたびに、実際に琵琶湖の水をどうやって運んできたか、いつか確認したいと思っていましたが、「大津祭」のおかげでやっと実現です。
琵琶湖疏水は第1疎水(1890年)と第2疎水(1912年)がありますが、第2疎水は飲料水目的のため全線トンネルになっており、歩けるのは第1疎水のびわ湖取り出し口から4つのトンネルを除いた疎水沿い約12kmのウォーキングコースです。
今回確認したいのは、1.琵琶湖側の取水口と京都側の出口、2. トンネルの位置と扁額(へんがく)、3. 琵琶湖から京都までの勾配と水の流れ、4. 琵琶湖から京都までの船の航路、5.第1疎水と第2疎水の合流地点の5点ですが、特に完成までの難関と言われた2点、一番長い第1トンネル工事克服と、山科から南禅寺までの急勾配克服についても確認しておきたいところです。
琵琶湖疏水の水路は4つのトンネルを通って全9kmの内8kmを高低差3.4mの緩やかな勾配で流れますが、歩くのはトンネルを迂回して峠越えのアップダウンがある12kmのコースになり、簡単なコースではないものの、途中には桜並木や紅葉スポットもある絶好のハイキングコースですが、今回は紅葉前でしかも雨模様の最悪のコンディションの中、撮影もままならず何とか蹴上の「ねじりマンボ」に到着した時はほぼ真っ暗状態でしたが、念願の「大津祭」と「琵琶湖疏水」を1日で制覇し、江戸時代から続く「大津祭」と明治時代に造られた「琵琶湖疏水」が今でもそのまま現存し、しかも今でも現役で重要な役割をはたしているのを目の当たりにして、特に疎水にあるたくさんの「扁額」を見ると昔の人の気概と偉大さが何と大きいことか、令和になった今の私たちに訴えかけているかのようで、今の政治家全員に見てもらいたいと思いつつ帰路につきました。
PR
-
(行程)12km 3時間コース:浜大津駅~琵琶湖第一疎水陽水機場~大津閘門(こうもん) ~第1トンネル東口(伊藤博文扁額)~長等神社楼門~小関峠(おぜきとうげ)地蔵堂~第一竪抗~普門寺前~第1トンネル西口(山形有朋扁額)~四ノ宮船溜~諸羽トンネル東口~東山自然緑地~諸羽トンネル西口~ 安朱橋~毘沙門堂~安祥寺橋(あんしょうじばし)~天智天皇陵~正嫡橋(しょうちゃくばし)~第2トンネル東口(井上薫扁額)~第2トンネル西口(西郷従道扁額)~新山科浄水場取水池~日ノ岡第11号橋~第3トンネル東口(松方正義扁額)~粟田口名号碑~車石の名磐~第3トンネル西口(三条実美扁額)・旧九条山浄水場ポンプ室・疎水船発着場~疎水合流トンネル北口(田邊朔郎扁額)~大神宮橋・蹴上船溜り~三十石船~インクライン~ねじりマンボ~蹴上駅
-
京都市水道局のホームページによると、琵琶湖から蹴上船溜までは4つのトンネルで1/1810から1/3000の緩やかな勾配になっているが、蹴上から南禅寺船溜りまでのインクラインは1/15の急勾配
-
12:30京阪浜大津駅からスタート
大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通り、長等山トンネルを抜け、山科山麓から蹴上(けあげ)へと流れる人口の水路で、延長約9キロ、
第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邊朔郎(たなべさくろう)の指導のもとに着工し同23年に開通、次の第2疏水は明治45年(1912)に完成したが、蹴上発電所の電気で坑内の照明や排水ポンプを動かしたので
第1よりも工事がやりやすかったという -
「三保ヶ崎水位観測所」(みほがさきすいいかんそくしょ)
「新三保ヶ崎橋」から見て左側の浮見堂のような建物は琵琶湖の水位を測るところで、琵琶湖の水位は周囲5ヶ所の水位観測所に設置された水位計の平均値で測定される -
「新三保ヶ崎橋」(しんみほがさきばし)
ウォーキングスタート地点、三保ヶ崎は枕草子の中で「崎は唐崎、三保ヶ崎」と詠われた景観のいい場所 -
「第1疏水取水口」と「琵琶湖第一疏水揚水機場」
赤レンガの3連アーチが取水口、建物は「琵琶湖第一疏水揚水機場」で琵琶湖の水位が低くなったときにポンプで汲み上げて疏水に水を流す -
「第2疏水取水口」*写真は疎水魅力創造協議会HPより拝借
「第1疏水取水口」の裏側にあり、舟運や動力(水車)などの目的である第1疏水に対し、第2疏水は飲料や水力発電を目的に第1疏水より約20m深い位置に全てトンネルで建設したのでウォーキングは第1疏水沿いだけ
*(追記)「第2疏水取水口」トンネルにも扁額がある、久邇宮邦彦(皇族で陸軍大将)の「萬物資始」(ばんぶつとりてはじむ):すべてのことがこれによって始まる(易経) -
「大津絵橋」(おおつえばし)
大津生まれの民画「大津絵」を道路のタイルや車止めなど皇子が丘公園まで続く道のあちこちに並べた「大津絵道」にあたる *「大津絵」は大津生まれの民画で神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれている -
「大津絵橋」から「琵琶湖第一疏水揚水機場」の反対側
アーチ型の吐水口から水路に水を流す -
この付近は「大津城」の西側の外堀にあたるという
「大津城」は秀吉が坂本城を廃し大津に築城し、関ヶ原の合戦の翌年廃城されたが天守は彦根城に移されている、家康が膳所(ぜぜ)に城を移してから大津は東海道と北国海道の分岐点として商業都市の性格を強め東海道五十三次で有数の宿場町として繁栄した -
「三保ヶ崎橋」(みほがさきばし)
この先にある北国橋と鹿関橋と共に第1疏水が出来た時に架けられたという -
突き当りの三井寺まで平坦な道が続くが、その後峠越えが始まる
正面に見えるのが標高354mの「長等山」(ながらやま) -
京阪電車石山坂本線の「三井寺駅」
浜大津から石山まで13分、坂本まで15分 -
「北国橋」(ほっこくばし)
大津から敦賀までの北国海道が通っていた -
「大津閘門」(おおつこうもん)
高低差のある水路に舟を通すため水量を調節する水門で、現在も動かせる日本人だけで作った最古の閘門、左側が閘門、右側が制水門で、左側閘門の2つの門に挟まれた閘室に舟を入れて水位を調整し舟を上下させる
閘門のしくみは次のHPに説明がある→http://www.nagoya-canalriver.org/koumonnosikumi.html -
琵琶湖疏水は水を送るだけでなく物資を船で運ぶ運河としての役割もあったので水門堰の代わりに閘門が設けられた、疎水船は昭和23年(1948)に廃止されたがそのまま残された、
-
琵琶湖疏水の管轄は大津市内でも京都市になる
-
「鹿関橋」(かせぎばし)
三井寺が近いせいか擬宝珠(ぎぼし)のある欄干には「疎水」と刻まれている -
「大津運河」(おおつうんが)
琵琶湖の取水口からトンネル入り口までを「大津運河」と呼び、毎年冬には清掃のため停水され清掃作業が行われる、両側に桜の木が続く眺めはおそらく素晴らしい! -
「疎水船」(そすいせん)
物資や旅客を運んでいた船は鉄道などの発達に伴い昭和26年(1951)廃止されたが、平成30年(2018)から春秋の観光シーズンに観光船として復活している、疏水の両脇にある道は舟を牽引するための曳舟道(ひきふねみち)*乗客定員は12名、船長1名、ガイド1名の計14名が定員の小型船で約1時間、トップシーズンは8,000円と結構な値段だが、なかなかとれない人気ぶり -
「大津まちなか元気回復委員会」の立札
町の活性化のため平成20年に設立された都市再生推進法人で「まちづくり会社」と呼び、「大津祭」と同様大津市の気概が見てとれる -
「第1トンネル東口」(長さ2436m)
長等山(ながらやま)を貫くことから「長等山トンネル」とも呼ばれており、ここだけ唯一扉がついている、これは明治29年(1896)の集中豪雨で閘門閉鎖だけでは溢水被害を防げないため15トンの鋼鉄の扉を設置、1人でも開閉できる装置もあわせて設置したが、すでに本来の役目を果たすには形骸化しており現在は閉じることがない -
「第1トンネル東口扁額」(へんがく)
トンネルの門の上部には当時の重鎮政治家の扁額が埋め込まれているが、1番目の第1トンネル東口の扁額は、初代内閣総理大臣・伊藤博文の「気象萬千」(きしょうばんせん):四季折々の様々に変化する風光は素晴らしい(宋・岳陽樓記の一節)、又その上部には「SAKURO TANABE DR ENG ENGINEER-IN-CHIEF/WORK COMMENCED AUGUST 1885 COMPLETED APRIL 1890」(主任技師の田邉朔郎工学博士によって、1885年8月~1890年4月の工事で完成した)とある -
「三井寺」(みいでら)
天下の三銘鐘の一つ晩鐘で有名な「三井寺」(園城寺)の観音堂に突き当たり、トンネルは三井寺の下を直進、ウォーキングは左折する、「三井」とは、天智、天武、持統の三帝が産湯に用いた霊泉があることに由来 -
「三井寺観音堂」(みいでらかんのんどう)
琵琶湖を眺望する境内に、西国三十三所観音霊場の観音信仰由来の如意輪観音がある、境内には観音堂を中心に百体堂、観月舞台、絵馬堂、世継地蔵堂などが並んでいる -
「長等神社」(ながらじんじゃ)楼門
「長等神社」は三井寺の鎮守社 -
「かたげんべゑのくび」看板
強烈なこの名前の由緒は、室町時代の僧・蓮如が三井寺に預けた親鸞の木像を取りに行ったが三井寺の僧侶は人間の生首を二つ持ってくれば返してやると言うので困っていると、堅田の漁師の源右衛門が息子の首を切り落とし持って行って自分の首と一緒に差し出すと言ったら返してくれたという「源兵衛さんの首」のミイラが「等正寺」にあるという -
「等正寺」(とうしょうじ)
地元では等正寺としてというより境内にあるキャラメルシフォンケーキが売りのお菓子屋さん(寺カフェ)が有名らしい、「かたげんべゑのくび」を和らげるか? -
「小関峠」(おぜきとうげ)道標
左三井寺、右小関越えで、この道は三井寺への巡礼道として多くの参詣者があったという、琵琶湖疏水は「小関峠」の下を流れていく -
「小関越」(おぜきごえ)*又はこせき、こぜき
東海道の逢坂越えを「大関」と呼ぶのに対して「小関」と呼び、近江から京都へ抜ける東海道の裏道として利用された、疎水ウォークは最初の3kmくらいは登りが続きキツいが、この辺りで標高200mくらい -
「峠の地蔵堂」
峠の頂上に祠る正式名「喜一堂」(きいちどう)、峠の目印となり往来する人の休憩スポットになっている -
「小関越」の道分岐点
左の狭い道を行く、右へ行くと西大津バイパスへ -
「第一竪坑」(だいいちたてこう)シャフト
少し行くと「第一竪坑」があり、もう少し行って普門寺を過ぎた寂光寺の手前に「第二竪坑」があるが道路からは見えない*シャフト shaft:エレベーターや空気・換気用のダクト、配管を通す建物内の縦方向のスペース -
「竪坑」(たてこう)シャフト
垂直に掘り下げられた坑道で、第1トンネルの三井寺下から藤尾の両側からだけでなく中間に山の上から垂直に穴を掘り、そこから山の両側に向けて計6ヶ所から掘り進め最終的に連結するというやり方で、日本で初めて採用され、工事短縮、換気、採光と完成後の通風を図っている、大量の水が湧き出し工事は困難を極めたがほとんど人力だけで掘られた、全長2,436mの第1トンネルは当時日本で一番長いトンネルとなった -
「普門寺」(ふもんじ)前
「普門寺」は三井寺の支院として創建された寺で、この下に第1トンネルが通っている -
「第二竪坑」(だいにたてこう)
探しにくいが寂光寺の手前に第1トンネル西口近くの「第二竪坑」がある -
疲れてきた頃のちょうどいい場所にコンビニがある、飲食コーナーもあって又頑張ろうという気が湧いてくる
-
「第1トンネル西口」扁額
出口の扁額には内務大臣・山縣有朋の「廓其有容」(かくとして/それいるることあり):悠久の水をたたえ、悠然とした疏水のひろがりは、大きな人間の器量をあらわしている -
「第1トンネル内壁」扁額
外からは見えないので疎水船に乗るしかないが、第1トンネル内壁に北垣国道の扁額がある、「寶祚無窮」(ほうそむきゅう):皇位は永遠である
疎水最大の功労者である北垣国道がお国の重鎮たちの扁額を目立たたせ、自分の扁額はひっそりとしたところに置いてあるのはサスガ! -
「扁額」(へんがく)
トンネルの門の上部に埋め込まれている額で、それぞれの地点に解説文が書かれており、伊藤博文を始めとする重鎮政治家の名前がズラリと並び当時の国家級プロジェクトであることがうかがえる -
「扁額」(へんがく)京都市水道局HPで紹介されている
後で出来た諸刃トンネルを除く3つのトンネルの出入口と、蹴上合流北口、ねじりマンボ西口の8つ以外に、第1トンネル内壁、ねじりマンボ東口、第2疎水取水口の合計11の扁額があり、トンネルはそれぞれ異なるデザインになっていて、揮毫文は中国の古典から引用され、大津側の文字は掘り下げた陰刻、京都側は浮き出る陽刻になっている、揮毫者は、初代内閣総理大臣・伊藤博文、内務大臣・山縣有朋、外務大臣・井上馨、海軍大臣・西郷従道、財務大臣・松方正義、公家・三条実美などで、これだけの扁額のある産業遺産は他に例がなく、いかに国家を挙げての大工事だったかが分かるが、同時に西郷、大久保と岩倉が死去し伊藤博文が総理大臣になった明治18年(1885)に疏水工事が着工された当時の政界の状況が顕われている、一方で北垣知事の扁額はトンネル内部とねじりマンボ、建設工事の責任者である田邊朔朗は第二疏水の合流トンネルにあり、北垣知事がいかに苦労したかも分かる(追記)扁額は蹴上発電所と蹴上疎水記念館にもある -
「藤尾緊急遮断ゲート」(ふじおきんきゅうしゃだん)
阪神大震災の経験から設置された比較的新しい設備(平成11年)で、疏水の堤防が決壊したときに水をせき止め山科盆地に水が侵入するのを防ぐ -
「藤尾橋」(ふじおばし)第1号橋
疏水に架けられた最初の1号橋、疏水に架かる橋は舟が通れる高さにしている -
「山科疏水」(やましなそすい)
「第1トンネル西口」から「第3トンネル東口」までの区間は、「山科疏水」と呼ばれている、橋の下の両側には上りの際、舟を曳くときの道がつけられている。 -
「新三保ヶ崎橋」のスタート地点から4km、峠越えは結構キツかったが後は平坦なハイキングコース
-
「一燈園」(いっとうえん)にかかる「柳山橋」第6号橋
後で調べて分かったが、広い敷地内に枯山水庭園と池泉回遊式庭園があり受付すれば無料で見れるらしい、京都東山裏手の岩盤の斜面と水の流れが素晴らしい池泉庭園であることを後で知り入らなかったのを後悔!京阪山科駅から1kmほどの距離で、ぜひあらためて訪れたい、宗教法人でも高齢者施設でもなく懺悔奉仕団体という不思議な組織で、200名ほどの信奉者?が共同生活をしており、幼稚園から高校まである学校法人でもあり、資料館には陶芸家の河井寛次郎や版画家の棟方志功らの作品が展示されており、倉田百三の「出家とその弟子」はここでの体験記らしいからそこそこの歴史がある(明治末期創設)、何も所有せずつつましく生きることが信条だというが、これだけの敷地に立派な施設と庭園を持っているのはある程度の資産家でないと出来ない、何とも不可思議な団体である -
「四ノ宮船溜」(しのみやふなだまり)
水路の幅を広げて停船場を設け、荷物の積み下ろしや船頭たちの休憩場所として利用され、現在の「びわ湖疏水船」の乗下船場の一つとなっている -
「船溜まり」(ふなだまり)
積み荷の揚げ降ろしや人の乗り降り、船頭の休息場所などの目的でつくられた舟の停泊スペースのことで、ダムとも呼ばれ四角い形から「重箱ダム」とも呼ばれ、第1疏水には四ノ宮の他、諸羽、御陵、日ノ岡、蹴上の5ヶ所に「船溜」が設けられた -
「諸羽トンネル」(もろはとんねる)長さ522m
このトンネルは昭和45年(1970)にJR湖西線の工事に伴って疏水路のバイパス化として新たに造られたもので、短いので唯一入り口から出口の明かりを見ることができる -
「東山自然緑地公園」
この諸羽トンネルから第2トンネルの入口まで延長4Kmは緑地公園としてベンチや東屋などが整備され、ジョギングコースは片道3.3kmのコース -
諸刃トンネルが出来て水路が変更され四ノ宮船溜からトンネル出口の諸羽船溜までが埋め立てられ、旧水路は「東山自然緑地」の遊歩道として整備された、遊歩道の周りには旧水路の石材が散在する
-
「第2疏水トンネル試作物」
第2疏水トンネル建設の際に、当時最新技術であった鉄筋コンクリート技術を習得するためにトンネル上部の複製を製作したもの -
「東山自然緑地」遊歩道の南側が開けたところからは、東海道本線、湖西線を行き交う列車が見える
-
京阪電車四宮車庫跡地、京阪電車も見えて鉄道ファンにはたまらない
-
約800本の桜や紅葉もあるのでハイキングには好適
-
スタートからやっと5km
-
「諸羽トンネル西口」
諸羽トンネルは昭和45年造られたので扁額はつけられていない、諸羽トンネル以外は国の史跡に指定されているがここは除外 -
「諸羽トンネル西口船溜」
ここも5ヶ所の「船溜」の内の1つで広くなっている -
桜と紅葉はないがコスモスが存在感を示している
-
「安朱橋」(あんしゅばし)第4号橋
疏水開通以来存在する古い4号橋だが、平成12年(2000)コンクリートに改修 -
JR東海道線、湖西線、京都市営地下鉄、京阪「山科駅」まで12分、「毘沙門堂」まで17分
-
「毘沙門堂」(びしゃもんどう)
飛鳥時代文武天皇勅願で行基によって開かれた古い天台宗の門跡寺院で、七福神の毘沙門天を祀る、京都の妙法院・三千院・青蓮院・曼殊院と並び天台宗京都五箇室門跡の一つ -
「毘沙門天」(びしゃもんてん)
天台宗の開祖・最澄の作と伝えられ、金運・開運・勝運・商売繁盛・健康長寿・家内安全にご利益がある、戦いをつかさどる「武神」だが、四天王ととも言われ「北の守護神」を担っている、日本で見られる有名な毘沙門天像は、東大寺大仏殿と鞍馬寺 -
本堂、唐門、仁王門は江戸時代1666年の造営で、宸殿内部の障壁画116面は狩野探幽の養子・益信筆、宸殿前には「晩翠園」と名づけられた江戸時代初期の庭園があるが、本日は時間がないためパス
-
仁王門の大提灯と阿吽像がバエる、春は樹齢150余年の枝垂桜をはじめとした桜、秋は紅葉が見事
-
「安祥寺橋」(あんしょうじばし)第6号橋
橋を渡った所に安祥寺があるが非公開 -
「新三保ヶ崎橋」のスタート地点から6km、まだ半分!
-
「天智天皇陵」(てんぢてんのうみささぎ)分岐点
ここから「天智天皇山科陵」(やましなのみささぎ)までは徒歩8分、天智天皇は飛鳥時代大化の改新を成し遂げ、667年近江大津宮遷都の翌年に即位し中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )から天智天皇となった -
疎水沿いはずっと宮内庁管理
-
「正嫡橋」(しょうちゃくばし)
「本圀寺」へ続く参道にあたり、仁王門にある扁額に「正嫡付法」(しょうちゃくふほう)から名付けられたと思うが、意味は全く分からない、法華経の総本家で日蓮宗正嫡の根本道場として天皇からお墨付きの綸旨(りんじ)をもらったと勝手に解釈しますが、とにかく日蓮宗四大本山の1つ(千葉の法華経寺・東京池上の本門寺・京都の妙顕寺)で、有名な偉いお寺には違いない
加藤清正のゆかりの寺である「本圀寺」(ほんこくじ)へ続く、朱塗りの欄干も鮮やかだが擬宝珠(ぎぼし)は金色、境内に行く時間はないが鳥居も灯籠も梵鐘も殆どが金ピカらしい、加藤清正の「開運門」もあるので後日必ず訪れたい -
「本圀寺」(ほんこくじ)
ここが有名なのは、加藤清正の菩提寺で境内に清正が寄進した「開運門」通称「赤門」という山門があり清正の勝運・開運にあやかれることと、入口の橋の擬宝珠もゴールドだったが、中に入って鳥居も梵鐘も灯籠も殆どが金ピカはインパクトが大きい、京都市内の「御金神社」(みかねじんじゃ)の鳥居も金ピカで宝くじがよく当たるという金運神社であるが、少し遠いがこちらの方が効き目があるような気がする -
スタート地点から7.3km、ラストスパートに入る!
-
「大岩橋」(おおいわばし)第9号橋
正嫡橋からほどなくして見える「大岩橋」は代表的な「三角橋」という、これは舟を運航する場合舟の高さまで橋または両側の道路を持ち上げて設置する必要があるが、橋の両端に階段をつけるため斜面は三角形の姿になるので通称「三角橋」と呼ぶらしい。又情報によると当初は個人住宅に渡る私有橋として建設されたが現在は水道局管理だという -
「黒岩橋」(くろいわばし)第10号橋
その先にかかるアーチ型の橋は「太鼓橋」「山ノ谷橋」とも呼ばれ、この後の第11号橋の実績を生かして作られた日本初の鉄筋コンクリート式アーチ橋、鉄筋コンクリート橋としては2番目に古い橋で、国の指定遺跡になっている -
黒岩橋から「第2トンネル」が見える、疏水の3つのトンネルの中で1番短い
-
「第2トンネル東口」(長さ124m)
扁額は外務大臣・井上馨の「仁似山悦智為水歓歡」(じんはやまをもってよろこび/ちはみずのためによろこぶ):仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とする(漢・論語の一節) -
トンネルの山を迂回する途中左手の「明水庵」
-
住宅地を右折するが分かりにくい、標識希望!
-
「第2トンネル西口」
坂を下りるとトンネル出口が見える、「第2トンネル西口」の扁額は、海軍大臣・西郷従道の「隨山到水源」(やまにしたがい/すいげんにいたる):山にそって行くと水源にたどりつく(唐・盧綸(ろりん)の一節) -
「日ノ岡取水池橋」(ひのおかしゅすいちばし)
日ノ岡舟溜りが埋め立てられ「新山科浄水場取水池」が設けらた時に架けられた橋で、スタートから8km地点 -
「新山科浄水場取水池」(しんやましなじょうすいじょうしゅすいち)
大きな施設は、疏水の水を取り入れてゴミを取り除き導水トンネルを通して約4km先の「新山科浄水場」に送る施設で、見えている第1疏水からではなくそのすぐ下を通る第2疏水トンネルから取水している *京都市内には山科と松ケ崎と蹴上の3つの浄水場があり、山科は疎水からと宇治川からも取水している -
「日本最初の鉄筋コンクリート橋」(第11号橋)
取水池を過ぎたところにある古びたコンクリートの橋は、明治36年に建造された我が国最初の鉄筋コンクリート橋で、これで試験した結果をもとに翌年「太鼓橋」(第10号橋)が架けられた、 -
橋のたもと右側には「本邦最初鐵筋混凝土橋」(本邦最初鉄筋コンクリート橋)の石碑が立ち、「第3トンネル」の入り口も見える
-
「第3トンネル東口」(長さ850m)
扁額は、大蔵大臣・松方正義の「過雨看松色」(かう/しょうしょくをみる):通り雨が過ぎると、いちだんと鮮やかな松の緑をみることができる(同じ薩摩出身の西郷従道と同じ盧綸(ろりん)の一節) -
第3トンネル東口は「山科疏水」の終わりで、ここからは住宅地を抜けて日ノ岡の三条道に出て蹴上へ向かう
-
「木食粟田口の大名号碑」(もくじきあわたぐちのだいみょうごひ)
平安遷都から明治まで九条山に粟田口処刑場があり、処刑された人達の供養塔が出来たが明治の廃仏毀釈で取り壊され、その一部再建されたものだが、木食(もくじき)とは、草根木皮の生食のみで生きる難行中の行のことで、江戸時代「木食正禅(もくじきしょうぜん)が処刑された人々の永代供養のため南無阿弥陀佛と刻まれた名号碑(みょうごひ)を建立したもので、拝仏毀釈で切断されて道路の溝蓋などにされた傷痕が今も残されている -
「日ノ岡宝塔様縁起」(ひのおかほうとうさまえんぎ)
処刑場が廃止になって供養塔が取り壊わされたが、法華倶楽部の人により再建されて隣に日蓮の像も置いている -
「車石公園」(くるまいしこうえん)
かつて東海道の難所だった日ノ岡から蹴上にかけての峠を牛車が通行しやすいように、轍(わだち)をつけた「車石」と呼ばれる石を敷き、米俵などを積んで往来した荷車が再現されている、当時大津港で陸揚げされ京都へ運ぶ米俵などの輸送に重要な役割を果たし、逢坂峠から瀬田を含む大津宿周辺は繁栄を極め、街道沿いには大津絵や針、大津算盤などを売る多くの店が軒を連ねたという -
「車石の名磐」(くるまいしのみょうばん)
「旧舗石 車石」と書かれた石碑があり、擁壁に縦に溝が入った「車石」と呼ばれる石を使っている、米俵などを運ぶ牛車が立ち往生しないように峠に敷いた「車石」は当時としては画期的な街道整備だった -
「日向大神宮」(ひむかいだいじんぐう)
「日向大神宮」経由で蹴上疎水に行けるが今回は時間がないのでパス、「日向大神宮」は、平安遷都以前の5世紀頃、日向国(ひゅうがのくに)高千穂峰の神霊を移して創建された*詳細は→https://4travel.jp/travelogue/11238363 -
「蹴上浄水場」(けあげじょうすいじょう)
琵琶湖疏水の水を取り込んで日本最初の急速ろ過式の浄水場として明治45年に竣工し、疎水の水はゴミや藻類などを取水池の除塵機で取り除いた後、浄水場で薬品など使い綺麗にして、現在は山科北部・東山・稲荷・丸太町通以南・四条通以北の住民に供給している、場内の約4,600本のつつじ・さつきは有名 -
2017.5撮影「蹴上浄水場」のつつじ・さつき
*詳細は→https://4travel.jp/travelogue/11238363 -
「蹴上・山ノ内浄水場取水池・九条山ポンプ場」
蹴上浄水場と九条山ポンプ場は分かるが、山ノ内浄水場が分からない、調べると、昔は蹴上と同様ここから8km離れた「山ノ内浄水場」まで運んでいたが平成24年に廃止され現在は大学(学校法人大和学園)になっているという、そういえば公園に「山ノ内浄水場の導水管の実物」があった -
2017.5撮影「山ノ内浄水場の導水管の実物」
-
「日向大神宮橋」(ひむかいだいじんぐうばし)
日向大神宮の燈籠と参道に架かる橋 -
「蹴上船溜」(けあげふなだまり)
「大神宮橋」から「疎水第3トンネル西口」方面を見ると、右奥に赤レンガ建物の「九条山浄水場ポンプ室」、その手前の赤い設備は「蹴上浄水場取水口」、その前に「びわ湖疏水船乗下船場」、左側にちらっと見えるのが「第2疎水トンネル出口」で、「蹴上浄水場取水口」は合流する前に第2疏水の水から大きなゴミなどを撤去した後、三条通りを挟んだ「蹴上浄水場」に送っている -
「九条山浄水場ポンプ室」
明治45年に建てられたレンガ作りの立派な建物は「御所水道ポンプ室」とも言われ、京都御所へ水を送る送水ポンプがあり、御所の防火用水や飲料水、庭園などに利用された、このポンプ室から裏山の「九条山浄水場」に水を揚げ4km先の御所まで送り、高低差60mを利用して水圧で御所内の70の消火栓から自動的に放水され紫宸殿の屋根の高さまで高圧放水するという素晴らしい仕組みだったが、1992年に廃止し現在は地下水ポンプに変更しているという、その後、東本願寺にも防火用水を送っている
建物は、京都国立博物館や東京の赤坂離宮(迎賓館)を設計した片山東熊(とうくま)の作品で、大正天皇が皇太子の時訪れたこともあって円柱付きバルコニーなどを備えた重厚感ある建物になっているという、ちなみに片山東熊の奥さんが田邊朔郎の姉で義兄弟という因縁 -
「第3トンネル西口」
扁額は、宮家内大臣・三条實美の「美哉山河」(うるわしきかな/さんが):なんと美しい山河であることよ(史記・呉起列伝の一節)国の宝である美しい山河を守るには為政者の徳と国民の一致が大切という意もある -
「疏水合流トンネル北口」
第一疏水と第二疏水がここで合流点する、右奥が第1疏水の第3トンネル西口、「疏水合流トンネル北口」の扁額は、工事責任者・田辺朔郎の「藉水利資人工」(すいりをかりて/じんこうをたすく):自然の水を利用して、人間の仕事に役立てる(明治天皇勅語の一節) -
「疏水分線への取込み口」
疎水の水はここから発電のための水路に流れ込み、更にそこから分岐して南禅寺の水路閣に流れて行く -
「インクライン」のスタート地点
琵琶湖から下ってきた舟を「蹴上船溜」から高低差36mの「南禅寺船溜」まで582mの線路で荷物を舟に載せたまま運ぶ -
「インクライン」(傾斜鉄道)
当時の舟を載せた状態の台車と、台車を上げ下げしていた巻揚げ滑車が展示されている、蹴上から南禅寺までの急斜面を通行するために、水はトンネルを通し、船はインクラインでケーブルカーに乗せて運ぶことにし、さらに急勾配の水は蹴上水力発電に使い、これを巻き上げ機の動力に使った、というから発想が素晴らしい!
*インクラインはレール上をケーブルで引っ張る方式、パナマ運河は水門を使って水の排水や増水で進むロック方式、リフト方式はエレベーターで上下する方式 -
「インクライン」は、レール4本の複線傾斜鉄道で南禅寺船溜まで片道10~15分、昭和23年(1948)運送手段としては廃止され蹴上のレールも撤去されたが、昭和52年に復元しレールがそのまま残っている
-
「琵琶湖疏水工事殉難者碑」(こうじじゅんなんしゃのひ)
この辺りは「蹴上疏水公園」と呼ばれ、疏水関連の施設や記念碑、展示物が多くあり、「工事殉難者碑」と「義経地蔵」とその横に「本願寺水道」の水源地がある
「工事殉難者碑」は疎水工事で亡くなった17名の魂を慰めるために田辺朔郎が私費で建てた石碑で、「一身殉事萬戸霑恩」(一身事に殉じ/萬戸恩に霑(うる)ほふ) -
「義経地蔵」義経大日如来(よしつねだいにちにょらい)
「蹴上」(けあげ)の由来になった話で、平泉に向けて京を発った義経一行が九条山で平家の武士一行とすれ違った時、馬が蹴り上げた泥が義経の衣にかかってしまい激怒した義経は全員を斬り殺してしまったが、後に愚かなことをしたと悔やんで弔いの石仏を東海道沿いに安置したがその中の一体がこの「義経大日如来」で、馬が義経に蹴りかけてしまった事から「蹴上」と呼ぶようになったという -
「ナイアガラフォール」(第二疏水合流水路の洗堰)
蹴上から取り込んだ水は疏水分線へ流れ、第二疏水からあふれた水が第一疏水に流れ込むようになっていてその流量を「ナイアガラフォール」と呼ばれる越流堰(えつりゅうせき)で調節し、蹴上発電所と南禅寺水路閣方面へ流れる -
ここから放水路へ流れる
-
「蹴上発電所導水管」
蹴上発電所への導水管で、この先に「蹴上発電所」があり、今でも5000世帯の電気を供給している、蹴上発電所への巨大な導水管をまたいで行くと水路閣に出る -
「蹴上発電所」
明治22年(1989)日本初の水力発電所として建設され、これを使い1895年日本初となる電気鉄道が開始、更に大正2年(1912)第1疎水だけでは供給が追いつかなくなり第2疎水を作り、第2期蹴上発電所と夷川発電所と伏見発電所を新設し小規模ながら今でも発電している、当初は京都市営の発電所であったが今は関西電力 -
「田邊朔郎像」(28歳の姿と言われている)
琵琶湖疏水は京都府知事・北垣国道が琵琶湖の豊かな水源に着目して計画し、当時重要な工事は殆ど外国人に委ねていた時代に全て日本人の手により行った我が国最初の大工事だったが、それを任されたのが東大を卒業したばかりで卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」で目をつけられた23歳の田邊朔太郎だった、ちなみに田邊朔太郎は1890年疎水完成の後、北垣国道の娘と結婚している -
「ねじりマンボ」
インクラインから地下鉄蹴上駅に行く途中にある古めかしいトンネルは「ねじりマンボ」、正式には「煉瓦斜拱渠」(れんがしゃきょうきょ)、斜アーチと呼ばれ、インクラインに対して斜めにトンネルが作られているため、煉瓦をまっすぐに積まず斜めにねじって積むと構造力学的に強度が増すという -
「ねじり」はそのままねじったように煉瓦が積まれていることで、「マンボ」は関西・中部地方の方言で小規模トンネルのことらしいが、どういう訳か西日本でよく使われた工法だそうで、現存する29カ所のうち26カ所が岐阜県よりも西に存在するが、蹴上は最も有名
-
「ねじりマンボ」の扁額
「ねじりマンボ」のトンネルにも扁額があり、出入り口両方とも北垣国道知事の揮毫で、東口は「陽気発処」(ようきはっするところ):集中して物事に挑めば何事でも成し遂げられる(朱子語類の一節)、西口は「雄觀奇想」(ゆうかんきそう):見事なながめとすぐれた考えである -
西口を出るとすぐに地下鉄・蹴上駅、今日1日3万歩も歩いたが、後は電車でゆっくり帰るだけですです!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
琵琶湖
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
大津(滋賀) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 琵琶湖
0
114