2022/09/27 - 2022/09/27
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たびたびさん
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日本中、どこの県や市町村の博物館に行っても、縄文時代や弥生時代の展示コーナーは必ずあって、展示された出土品は地元で出土したもの。つまり、縄文時代や弥生時代の遺跡は決して珍しいものではなくて、意外に本当にどこにでもあるといったようなことなんだと思います。
対して、今回訪れた吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の日本最大級の規模を誇る環濠集落跡であり国の特別史跡に指定された遺跡。ちなみに、弥生時代の遺跡で国の特別史跡に指定されているのは、ほかには登呂遺跡(静岡県)と原の辻遺跡(長崎県)だけですし、1万年続いた縄文時代の遺跡でいっても国の特別史跡は三内丸山遺跡(青森県)、大湯環状列石(秋田県)、尖石石器時代遺跡(長野県)、加曽利貝塚(千葉県)の4遺跡しかありません。そして、さらにこれらの中でも、登呂遺跡、三内丸山遺跡と吉野ヶ里遺跡はやっぱり知名度抜群。日本の遺跡を代表するビッグネームであり、別格といっても過言ではないと思います。
さて、吉野ヶ里歴史公園として整備された広大な園内には、王や支配者層が住んでいたとされる南内郭にまつりごとの場所であったとされる北内郭。高床式というか物見やぐらのような建物がいくつもあって、周囲を柵と堀で囲った構えと合わせて、雰囲気としてはかなり物々しい。さすがの迫力で、この光景を見れば、なんとなく抱いていたのどかに稲作を営む弥生時代のイメージなんか一気に吹っ飛んでしまいます。つまり、稲作の定着によって、富が蓄積されると小さなクニが誕生し、それがまた互いに関係しあいながら大きなクニを作っていくのですが、その間、大小の争いもあったであろう現実の世界はそんなに生やさしいことではないようで。。そんな弥生時代のリアルをしっかり感じることができるのはまさにこの遺跡ならではなのかなとも思います。
ただ、一方で意外というか残念だったのは博物館というか展示館がイマイチなこと。例えば登呂遺跡では、北九州に稲作が伝わってから国内では北回りと南回りで稲作が伝播する。その最後が登呂遺跡の辺りだったということや稲作は鉄器と一体の総合的な文化だったということ。三内丸山遺跡では、北海道や大陸を含めた広域の交流があって定住の背景となっていたということ。それぞれ興味深い話を頂戴しましたが、つまり、それだけ発信の方にきちんと力が入っていたんですが、ここではこれらに相当する発信がほとんどないんですよね~
ところで、冒頭に触れましたが、縄文時代や弥生時代は遺跡も多いし、教科書でもお馴染み。すっかり解明されたような気になっている向きも多いかと思いますが、実は今一番ホットな分野。ゲノム解析の技術が進歩したことがブレイクスルーになって。縄文時代の担い手は縄文人、弥生時代の担い手は弥生人。この縄文人と弥生人が混血して日本人が生まれたことは分かっていたのですが、それがどのような過程を経てそうなったのかがだんだん分かってきているのです。ちなみに、漢民族や朝鮮人は混血をしていない。朝鮮半島にも縄文人が住んでいたらしい形跡があるのに混血は起きていない。いわゆる民族浄化が起こったと考えられますが、日本ではそうはならなかった。ここからは少し個人的な意訳が入りますが、それはたぶん弥生人が徐々に日本列島に入ってきたから。なんといっても日本列島は海で隔てられていますからね。ちょっと横道にそれましたが、つまり、縄文時代は縄文人。弥生時代は弥生人という単純なものではない。弥生時代の初期だと稲作は弥生人から稲作を学んだ縄文人が行っていたり、縄文人と弥生人のグループがそれぞれに稲作をしていたり。特に、稲作が伝わった北九州ではそういう光景が当たり前にみられていたのではないかということ。そこに混血が起きる環境ができたし、逆に、滔々と流れ込んでくる弥生人の動きが緊張関係を生み環濠集落の物々しい構えとも関係しているかもしれません。
日本人のルーツの視点では、これまでは邪馬台国に象徴されるようにヤマト政権がどうやって生まれたかにばかり注目が集まっていた感がありますが、しかし、大事なのはそういうことだけでもないような。稲作の広がりと縄文人、弥生人の関係性を考えると、稲作を日本に持ち込んだ弥生人の功績は大きいですが、三内丸山遺跡で証明された広域活動は異文化にも柔軟な対応ができる縄文人の優秀さも暗示していて、その二つが交じり合ったという日本人の成り立ちこそが、中国や朝鮮と決定的に異なる性質を生み、もしかしたら以降の日本人の多様性や柔軟性を方向付けるDNAを生んだ可能性があるのではないか。いろんな想像が膨らみます。思いの面が強くなると学術的なことから離れてしまうかもしれませんが、二つの文化と民族が初めて出会った北九州の地は特別な場所。吉野ケ里遺跡から発信できることはとても多いのではないかと思います。
なお、この辺りにさらに興味がある方には、「人類の起源(中公新書)」をお勧めします。
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今日の天気は雨模様。雨が強ければ吉野ケ里遺跡は諦めて、二日市温泉の大丸別荘でしけ込もうかとも考えましたが、これまでも何度も機会を逸してきましたからね~
少し小ぶりになるという情報もあったので、予定通り、吉野ケ里遺跡を訪ねることにしました。鳥栖のホテルで泊まって朝方はけっこうな雨。しかし、鳥栖で泊まるってあんまりないことだし、例によってまずは周辺の散策です。
鳥栖中央公園は、鳥栖駅からもほど近く。ショッピングモールのフレスポ鳥栖と一体になって、賑やかさと潤いのエリアを構成しています。 -
ただ、入口が限られていて、その辺りで自由度が少し欠けるかなあ。どこからでも入って、どこからでも出れるみたいな自由さがもう少し欲しいところです。
これは池の辺り。雨が降っているのであんまり雰囲気は分かりませんね。 -
イチオシ
続いては、鳥栖駅前から線路を越えた反対側のエリア。268号機関車は、駅前不動産スタジアムの周辺広場の一角です。機関車は、明治時代に製造されたタンク式機関車。イギリスから輸入した機関車を日本式に改良し、国内での量産化に最初に成功したのだそうです。
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同じく広場の一角。八坂甚八碑。聞いたことがない名前ですが、八坂甚八は明治期に運送業で成功し、九州鉄道の分岐点を鳥栖駅にすることに力を尽くした人なんだそうですね。
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こちらは、鳥栖操車場記念碑。
この碑は、かつてあった鳥栖操車場の記憶を留めるもの。鳥栖は鹿児島本線と長崎本線の分岐点であり、旧操車場は全国でも最重要の位置付けだったのだとか。ちなみに、この碑はよく見ると滑り台にもなっていて、小さな子供が遊べます。 -
平和の鐘は、時刻を知らせる鐘の音とその後に音楽が流れる仕掛け。
曲目は「月光」。戦時中、鳥栖小学校に特攻隊の若者2人がやってきて、別れにピアノで「月光」を弾いていったという実話から。ちなみに、特攻の基地だった目達原飛行場跡は、吉野ヶ里歴史公園の近くにあって、これから訪ねる予定です。 -
最後に駅前不動産スタジアムというか、鳥栖スタジアム。サガン鳥栖のホームスタジアム。鳥栖駅からすぐに建っていて、鳥栖駅周辺は何もなくて寂しい感じなのですが、これが唯一のアピール要素になっているくらい大きな存在。左右に張り出した高いスタジアム席は周辺からもよく見えて迫力があります。
列車の中からもよく見えるのですが、こうして近くで見るとまた一味違います。 -
鳥栖から吉野ケ里はJRが普通なのですが、JRが不通になっていて、バスで向かうことに。
吉野ケ里公園駅前のバス停で降りると秋月堂というお菓子屋さん。 -
吉野ケ里饅頭という看板にひかれてそれを一ついただきました。
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白あんのいわゆる栗饅頭かな。
上品な甘さでおいしゅうございます。 -
では、吉野ケ里遺跡の前に、ここから旧目達原飛行場正門跡へ。
なんか、なんでもない田舎道の脇。 -
イチオシ
「大刀洗陸軍飛行学校 目達原教育隊」と書かれた門柱が建っていて、その周囲には説明板やら石碑がいくつか。
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ここは戦争末期に特攻隊の出撃基地にもなった場所なんですが、延べ53名の特攻隊員がここを飛び立って行ったとのこと。傍らにはいくつものペットボトルが手向けられていたり、思いを寄せる人たちがまだまだ多いのだなと感じました。合掌。
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さて、しばらく歩いて吉野ケ里公園です。
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エントランスとか
さすがなかなか立派ですね~ -
その入り口手前に建つ立派な建物は、食堂と売店を兼ねた施設。
園内にはめぼしい施設はないので、貴重な存在かな。ただ、売店はミュージアムショップ的なところはほとんどなくて、佐賀県全般のお土産物店といった内容。団体客でも楽に収容できる広さはありますけど、どっちにしても遺跡のイメージではないですね。 -
ここからが有料ゾーン。
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遠くに物見櫓が見えますけど
北内郭ですね。 -
そのまま進んで
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まずは、近場にあった吉野ヶ里歴史公園 弥生くらし館に寄ってみます。
邪馬台国の企画展ですか。邪馬台国は皆さん好きですからねえ。
邪馬台国で論争が続いてきたのは、近畿説と九州説。私はほぼ近畿説で決着したということも聞いていましたが、なかなかそうすんなりとはいっていないようで。ここでは九州説ですね。
結局、邪馬台国がヤマト政権につながる存在と見るかそうではないと見るかで見方が違ってくるのでしょう。ヤマト政権につながる存在と見れば近畿説が現実的だし、いくつかの有力なクニの一つと見れば九州説の方が自然です。ただ、どちらにしても、両説ともに稲作が伝わった日本で自然発生的に古墳時代が到来し、ヤマト政権が現れたという共通認識があるのではないでしょうか。私はこれにはちょっと違和感があります。1万年続いた縄文時代が弥生時代に変わったのは稲作文化が伝わっただけでなく、弥生人の流入があったから。弥生時代が古墳時代に変わったのもそれと同じかさらに強い要因がないと無理でしょう。つまり、古墳時代が弥生時代に小さなクニが生まれて、それがまた集まって大きなクニになっていくといった社会変化の延長線上にあるというのはおかしいです。やはり、弥生時代をもたらした以上の何かがあったと考えるのが自然。仮説として、弥生時代の弥生人の流入は序の口。さらに強力な文化を持った人々が流入してきたと考える方が納得感があります。そうすると邪馬台国は大きなクニの一つであって全く問題なし。九州説でいいというのが今の私の印象です。 -
弥生くらし館から奥に進みます。
堀に柵、物々しいですよね。
私はこれって対イノシシとか水田の獣害を避けるためのものではないかとも思っていましたが、水田はこの柵の外側。決してそういうことではないようです。 -
少しづつ建物が見えてきました。
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これは南内郭。
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内側にもう一つの柵で囲われたエリア。
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物見櫓がいくつか立っていて
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砦というか城のような雰囲気がありますね。
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竪穴式住居もいくつか。
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これは特別なものではないと思いますが、
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イチオシ
やっぱり、特徴的なのはこの櫓。
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実際にここまでのものが必要だったということは戦乱の時代といってもいいのかな。
本来、戦乱は食料の生産性が上がって社会全体にそれなりの余裕が生まれないと起きないもの。戦国時代だって、背景の要因の一つはそういうことでしたからね。
これをどう捉えるかは難しいようにも思います。 -
園内はとにかく広いので、道案内がないと迷いますね。
今度は北内郭に向かいます。 -
こちらも厳重な柵に守られた場所。
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堀も半端ないですね。
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南内郭にはなかった大きな建物は主祭殿。
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イチオシ
まつりごとを行っていた建物ですね。
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住居は竪穴式でも
一方ではこんな巨大な建物は作る能力がある。 -
権力者の力は抜きんでたものがあったことが窺えます。
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見て回っていましたが、
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ふと気が付くとこの巨大な主祭殿は上がって見れるようで。。
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イチオシ
で、上らせてもらうと二階のスペースはごらんの通り。
大勢の人が集まってなにやら儀式をしています。 -
さらに上に上がると
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イチオシ
これは占いか何か。
卑弥呼もこんな感じだったのかな。
稲作ですから、季節や天候を読んで、種を蒔く日や収穫の時期を正しく判断する必要が出てきます。基本的な知識だけではなく見えない力に頼る面があるのは仕方のないことでしょう。しかし、その結果は集団の生き死ににもつながりますから、厳かな祈りの場ともなるのは当然。稲作が伝わったことで社会の価値観も大いに変わったことがよく分かります。 -
吉野ヶ里遺跡展示室は、最後に拝見しました。
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弥生くらし館と違って、こちらは常設の展示。
ただ、それにしても三内丸山遺跡や登呂遺跡の施設と比べるとかなりお粗末です。 -
出土した土器や
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甕棺も
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特別なものはほとんどないし、
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石器なんかもまあどうなんでしょうね~
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特筆するなら
この戦闘で亡くなった人骨。激しい戦闘があったことが想像されて、遺跡の物々しさが形だけではなかったことを証明しています。 -
古代人の衣装もまあそんなものかな。
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ただ、一点。
九州北部の集落で暮らしていた人々には、弥生人に近い特徴を持った人々、縄文人に近い特徴を持っていた人々のタイプがあって、それを比較した展示がありました。冒頭触れたように弥生人と縄文人は混血して現在の日本人が生まれるのですが、そのプロセスを暗示するもの。しかし、二つのタイプがあったという事実だけを説明していてそこから先の洞察とかは一切なし。いやいや、ここから先が大事なところ。まだ、問題意識が古いままなのかな。考古学はどんどん進歩していますよ~。せっかく知名度抜群の吉野ケ里遺跡ですから、もうちょっと頑張ってもらいたいものです。 -
吉野ケ里遺跡を出て、昼飯は鳥栖駅から歩いてアンジェココへ。
この辺りでは圧倒的な人気を誇るようで、とても興味を惹かれたんですよね。 -
敷地の中には、パティスリーと
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その奥にランチを提供する喫茶部があるんです。
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ちょっと狭い建物ですが、隠れ家風の雰囲気は独特。
なるほど、悪くはないですね。 -
いただいたのは、アンジェココ風ナポリタン。
卵の色が鮮やかでさすがインパクトがありますね~
ただ、きりりとしたおいしさがあっていいなと思いましたが、食べ進めると私にとってはちょっと味が濃いめ。リピートはないかなと思いました。 -
ここから福岡に帰るのですが、吉野ケ里遺跡ではちょっと物足りなかったかなあ。
それを埋め合わせたくなって、板付遺跡弥生館を訪ねることにしました。 -
こちらは、縄文時代晩期から弥生時代後期の環濠集落の遺跡。福岡県では最も古い弥生時代の遺跡だし、縄文時代から弥生時代の移り変わりにかかる遺跡であることが何といっても素晴らしいところ。
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イチオシ
こちらが資料館。
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展示室は一部屋。
限られたスペースですが、 -
まずは、在野の考古学研究者であった中原志外顕の紹介。氏がこの遺跡の発見者ですが、始めから縄文時代と弥生時代の両方にかかる遺跡を探し求めていました。
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そして、とうとう縄文時代晩期の夜臼式土器と弥生時代前期の板付式土器を同じ場所から発見。それが最古の弥生時代遺跡の発見の端緒だったわけですね。
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縄文時代晩期の地層に大規模な水田跡もあったことから、縄文時代に稲作が行われていたという推定も成り立つのでしょうが、弥生館では、弥生時代の始まりは従来考えられていた頃よりもっと古く、紀元前10世紀くらいとするのが通説となった。それが大きな貢献としていて、稲作の始まりを弥生時代とする考え方に異議は唱えていないように感じました。
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というのも、その後、あちこちの遺跡発掘が進み、弥生人によって稲作が始められたのをすべてとするのはもう崩れていて、それより以前に縄文人も稲作をしていたであろうことがだんだんと分かってきています。
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そのことで、弥生時代の解釈も変わってきていて
弥生時代イコール弥生人ではなく、弥生人であろうと縄文人であろうと稲作をキーにして稲作文化で社会変革が起きていった時代のことを弥生時代とするという解釈が出てきているのですね。 -
冒頭触れたように、縄文人が稲作を学び稲作を取り入れた過渡期があって、後に改めて弥生人が大挙渡来して稲作文化を花開かせたということ。
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さらに言えば、それもあって、縄文人と弥生人の混血がそれなりに進んだと考えるのが正しいのではないかと思いますが、そこまでの主張はしていない。
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そういう意味では、板付遺跡弥生館は弥生時代の始まりはもっと早かったという当初の貢献の範囲に留まっているだけで、最新の研究成果にはまだちょっと疎いような気がしました。
ただ、いすれにしても、この遺跡の発見はいったん発見されていた弥生時代の遺跡を改めてさらに掘り進めたら縄文時代の遺跡が出てきたということ。そいういうことはもしかしたら、ほかの弥生時代の遺跡でも起こりうることですから、板付遺跡発見はとても重要な示唆を含んでいるように思います。
やれやれ、新たな情報に触れて板付遺跡を訪ねた甲斐はあったよう。少し留飲を下げたたびたびです。 -
板付遺跡からはバスで博多へ。落ち着いたところで、これから晩飯です。
まず訪ねたのはみやけうどん。博多では知らない人はいないくらい有名なお店。 -
今回は、もう10年ぶり以上かな。
少し記憶がぼんやりしているところがありますけど。。 -
イチオシ
博多のうどんはコシがないといいますが、確かにこんなに太いんですが、ひたすらの柔らかさ。そして、今回気づきましたが、この柔らかさは柔らかいとかそういう甘っちょろいことではない。穏やかな出汁と溶け合ううどんは噛んでいるうちにどこかに消えてしまって。飲みこもうとする時にはもううどんはない。極端にいえばそれくらいのすごさ。博多の名店うどん、さすがです。
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あとはちょっと屋台も横目で見ながらですが、
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小金ちゃんの焼きラーメンも健在ですよね~
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で、改めてメインの晩飯は吉塚うなぎ屋です。
あのタモリも博多に帰ると食べたくなるお店なんだとか。さて、いかがでしょうか~ -
しっかりしたビルのお座敷に案内されて
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いただいたのは、特上うなぎ丼。
カリカリの香ばしいうなぎは微かに小骨が残っていますが、それもまたワイルド感があっていいですね。そして、このガツンとしっかり甘辛いタレが脂の乗ったうなぎの旨味を強調しています。ただ、そうした点も含めていうと全体としてはどちらかといえば普通と言えば普通。妙な高級感を漂わせたり、ひねりを加えたりとかはしていないですね。久留米とかも含めて、九州だとオーソドックスな味わい。タモリの真意は懐かしくて馴染みのある味ということなのかなと感じました。
さて、以上で太宰府からの三日間の旅は終了。これから新幹線で広島に帰ります。
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