2021/09/06 - 2021/09/06
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ちふゆさん
2021年9月6日(月)2時過ぎ、姫路港飾磨埠頭から野田川沿いを北に遡って行く(下の写真1)と、野田川の流れが北東に変わる辺りから江戸時代の飾磨津浦手六町の一角、須加町に入る。
浦手六町は浜の宮天満宮の項にも書いたが、須加町、大町(現在は大浜)、宮町、東堀町、御幸町、田町(現在は玉地)の6町。須加町が一番南側で、古くはこの辺りから岡手五町の細江に掛けては海岸線で、夢前川河口までの播磨灘一帯がもともと飾磨津だった。
飾磨津は古くは思賀麻江(しかまえ)と称し、瀬戸内海を往来する船はもとより遣唐使の船も碇泊して賑わった。平安中期の986年の花山(かざん)上皇書写山行幸の折り、飾万津(餝磨津)と改称され、その後約1000年に渡って内海航路の要衝として降盛を極めた。なお、花山上皇は16年後の1002年にも再び書写山へ行幸されている。
平安末期から鎌倉期まで奈良薬師寺領の飾磨荘が、南北朝期頃からは飾万津別符が存在し、江戸時代は姫路城下の外港として栄えた。飾磨荘や飾万津別符は船場川よりさらに西の夢前川河口の左岸一帯にあったと推定され、江戸時代の飾東(しきとう)郡飾磨津は野田川下流右岸から船場川下流左岸にかけての南北に長い地域を占めていた。
港町としての飾磨津が発展したのは、江戸時代に入り池田輝政が姫路に入部してから。輝政は1601年から1609年にかけて姫路城築城と並行して姫路城下から飾磨津に通じる運河(三左衛門堀)を開削し、この工事で掘り出した土砂を利用して当時入江だった飾磨津東部の野田川河口部を埋め立てて向島を造り、船役所を設置し船奉行をおいて、港津としての機能をたかめ、姫路の外港としての役割を持たせた。
池田氏の後に入った本多忠政は、城の西側を流れる旧二股川を改修して船場川とし、姫路城から飾磨津までの舟運を確保し船筏を通したので、飾磨津は益々姫路の外港としての地位を確保し、浦手六町と岡手五町を含む飾磨津町二十町と称される町場が形成された。江戸中期の1682年の20町の家数は1530軒、人数は9927人で、地子銀9貫目を上納した記録が残っている。
しかし、その後は年々流入する土砂により船の着岸が難しくなり、江戸末期にはさっき行った湛保までが埋め立てらえて新しい港が造られた。しかし、この辺りは生野鉱山とを結ぶ銀の馬車道(飾磨街道)の発着点となり、レンガ製倉庫や港湾護岸が残っていた。
伝統的な厨子2階建てで、虫籠窓、格子、袖卯建や袖壁をしつらえた町家が並ぶ飾磨埠頭からの道(下の写真2)が川沿いから外れて、北に方向を変えるところをそのまま川沿いに東に少し進むと浦手番所跡の碑が建っている。1996年に新姫路市誕生50周年を記念して建立したもの。
浦手番所は姫路藩がこの辺りに設置した番所で、飾磨津川口御番所とも呼ばれる。主な任務は、灯籠台管理、船舶検問、海難救助や飾磨米蔵、御茶屋の警備など御舩役所の出先機関のような機能を果たしていた。
元の道に戻って北東に少し進むと大浜に入るが、板塀で囲まれた立派な家の南東角に魚屋堀跡 志士上陸地の碑がある。この立派な家は北前船貿易をこの地で引き受けていた岡上家で、魚屋はその屋号。現在はほとんどが埋め立てられているが、岡上家門前には魚屋堀という堀が開かれ、周囲に蔵が立ち並んでいた。一部がこの碑の東側に残る。
幕末の1863年にその魚屋堀に降り立ったのが、元福岡藩士の平野国臣や長州の奇兵隊士ら尊王攘夷派の志士たち。大和国で決起した天誅組に呼応し、生野銀山を治める生野代官所を襲うべく道を急ぎ、代官所を無血占拠するが、救援に駆け付けた出石藩兵らの前にわずか3日で敗北。夢は潰えるが、その5年後には幕府が倒れ、明治維新を迎えていることから、この「生野の変」は明治維新の先駆けとして評価されている。
この碑からひとつ北の三差路の左手(西)から来て、次の信号のある宮町交差点を右折し、さらにひとつ東の交差点を北に曲がって続いているのが浜街道。高砂・室津・飾万津往還とか室津・高砂往来、灘道筋などとも呼ばれ、明石で西国街道から分岐し播磨灘沿岸沿いに、現在はたつの市御津町にある姫路藩の飛び地だった室津まで至っている。
この辺りは宮町になるが、いくつかある蔵は浜の宮天満宮の台場差しに使われる屋台の蔵と思われるが、詳細は不明(下の写真3、4)。浜街道を北に曲がらずに真っ直ぐ東に進むと、北から東に曲がった宮堀川から直進する掘割に架かる橋を渡るが、南側に向かって左手には工場のフェンスとブロック塀が続く(下の写真5)。
写真では見難いが、真ん中のブロック塀の部分、土台の石垣部分とコンクリートブロックの間にブロック塀より濃い色の列が1列ある。これはカラミ石と云って、鉱石の精錬行程で出る溶けた残渣をブロック状の四角な型に流し込んで作られたもの。生野町内では建築資材として建物の土台や塀や道路際の擁壁などに多用されているが、重さが一つで100kg近くあるのが欠点で、生野町内でも多用されているのは精錬所の近くだけだそうだ。
この掘割の東側は1901年(明治34年)創業の水処理用凝集剤などの製造販売をしている浅田化学工業(株)の本社・工場になっている(下の写真6)が、明治初期には生野鉱山からの鉱石を運ぶ銀の馬車道の終着点の飾磨津物揚場で、倉庫、荷積場として利用されており、生野銀山と同じ赤レンガ造りの建物が建てられていた。運ばれて来た鉱石は、ここで船に積み替えられ、今はアートの島として有名になった直島の精錬所に運ばれていた。
2019年に残っていた赤レンガ倉庫や壁が解体されてしまったが、2020年にレンガ造建物の一部がモニュメントとして設置されている。隣に建っている胸像は明治維新後に生野鉱山の発展に貢献され、また、播但鉄道の設立発起人や生野銀行の創設頭取などを務めるほか、町政の振興、近代化の推進など郷土の発展に尽された元衆議院議員の浅田禎次郎氏のもの。
浅田化学工業の正門から北に続く道、宮堀川が野田川に合流する手前を渡って(下の写真7)、山陽電鉄の飾磨駅の西側を越えて山電姫路駅の北西まで真っ直ぐ続いているが、これは銀の馬車道の南端の部分で、飾磨街道と呼ばれている。街道沿いには、銀の馬車道が鉄道に取って代わられた後も昭和の初め頃までは蹄鉄屋や馬具店などが軒を並べ大いに繁盛したと云う。宮堀川の北は東堀町になる。
飾磨街道を北に進み、浜国道を左に折れて西に少し進むと姫路藩御茶屋跡の碑がある。藩主が領内を巡視する時の休息に使われたもので、池田輝政が建てたものがあった。さらに西に進み宮町に戻り、宮堀橋まで進むと交差点の南東角に宮公園があるが、この一角に1926年(大正15年)架橋の臨港橋のプレートがあり、その横には御蔵橋のプレートもある。最初に行った浜の宮天満宮は元々この辺りにあり、須加に遷された跡に姫路藩の御蔵が置かれたそうだ。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8124875457582407&type=1&l=223fe1adec
浜国道の北側に進むが、続く
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