2022/10/20 - 2022/10/20
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新居浜は、別子銅山を起源とする友財閥の企業城下町。
苦労続きだった鉱山経営は、採鉱現場の変遷を追うと分かります。
鉱害の歴史も長く、放置せずに向き合ったことが住友グループの発展に繋がります。
ホテルや料理屋が充実し、過ごしやすいのもメリットです。
レンタサイクルで回ると便利です。
(登録スポットが少ないとはいえ)地図情報の線は、何かと便利です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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JR新居浜駅。高松と松山の中間に位置し、特急で90分の道のりです。
まずは駅を出て右側の観光案内所で資料収集です。 -
真っすぐ進むと駅前駐輪場。その端っこに駐輪場の守衛所兼レンタサイクル申し込みのスペースが。正直分かりにくいです。良心的価格で、1日借りられます。
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別子銅山観光の拠点マイントピアまでは路線バスが走っていますが、本数が少ないので自転車でアプローチ。汗をかかずに坂道を上れました。
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ここから東平地区までマイクロバスが運航されます。
平日は最低5名の希望者がいないと運休。この日はほかに希望者がおらず、涙ながらの断念。週末は確実に運行するそうです。 -
というわけで、マイントピア2階のパネル展示で座学。
別子銅山は、1690年に泉屋(住友家)が経営する吉岡銅山(岡山)の支配人であった田向重右衛門が、立川銅山で働いたことのある長兵衛の証言を耳にし、現地で露頭を発見したのがルーツである。標高1294mの銅山峰の南斜面でのことだった。 -
元禄~大正(1691-1916)にかけて操業した地区は、旧別子エリアと呼ばれる。
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自動車で登山口までアプローチして、あとは徒歩のみのルート。
当時の遺構に出会えます。登山道入り口は、別子ダムの脇にあり、銅山峰頂上を目指して北進するルートです。(位置情報のスタート地点を参照)別子ダム 名所・史跡
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歓喜坑
別子銅山最初の坑道。露頭発見後、幕府から採掘許可を得て1691年に稼働開始。名前は、前年の調査時に、有望な露頭を見つけた田向が歓喜したことに由来する。坑道入口の向かいには、鋪方役所(鉱山事務所)が建った。
歓東坑
歓喜坑のすぐ東に位置。この2坑で採掘した。新居浜口屋(港)まで全長16kmの人道が整備され、仲持と呼ばれる人たちが、物資や採掘物を輸送した。銅山峰 自然・景勝地
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牛車道
勘場(鉱山本部)~新居浜口屋(港)を結ぶ全長28kmの道路が着工され、明治13年に開通しました。輸送力は大いに改善され、人力から牛車に代わり、約20頭の近江牛が従事しました。最短距離の人道と比べて、勾配とカーブが緩くなっています。
折り返して歓喜坑から登山道を下ると、蘭塔場(墓所)が。1694年の別子大火災の犠牲者132名を始めとする事故・火災で犠牲になった人たちを弔っています。
さらに進むと大山積神社跡が。鉱山鎮護兼住民の氏神です。 -
東延斜坑
幕末には深町深鋪(薪を採る山が遠くなる。採掘場所が深くなり、地下水処理に困る。)に悩まされた別子銅山。近代化起業方針の先鋒として明治9年着工、同28年開通。全長526m傾斜49度で、安政の大地震で水没した坑道を再生させた。機械場は、蒸気機関による巻揚げ機等が設置された。 -
第一通洞
銅山越山麓の東延(標高1100m)から山の反対側(海側)の角石原へ貫通する全長1021mの輸送路で、明治19年に貫通。牛車は高低差200m近い峠越えを回避して、平坦な通洞内を走行できるようになった。 -
上部鉄道
明治26年開通。第一通洞の終点である角石原(標高1100m)~石ヶ山丈(標高835m)を結んだ。牛車道にレールを敷くことで、工期と費用を圧縮した。石ヶ山丈~端出場~新居浜港までは、ロープウェイと下部鉄道でリレーした。写真は、別子銅山記念館に保存されている当時の機関車。東延斜坑と日浦通洞(後述)・第三通洞(後述)が繋がった明治44年に役割を終えた。 -
日浦通洞
東延斜坑の終点(地中)と日浦(標高747m)を結ぶ全長2120mの輸送路で、明治44年に開通。明治35年に開通した第三通洞(後述)に接続し、東平と地中で繋がった。先述の第一通洞のより比高が352m低い部分を貫通。 -
高橋製錬所跡
明治12年操業開始。鉱石を粗銅に製錬する施設で、西洋技術によって和式の50倍の処理能力を誇りました。鞴から送風機、木炭からコークスを使用しています。明治32年の台風で壊滅的な被害を受けて終わりを迎えます。 -
小足谷集銅所
坑道の排水は川に垂れ流され、下流域に被害をもたらしていた。それゆえ「悪しき谷川」を意味する足谷川と住民から呼ばれていた。明治初期に住友は、足谷川沿いの小足谷を開発し、西洋式の集銅所(排水処理場)を建設し、鉱物を沈殿させて浄化した。
これには、坑内の地下水を回収する水路が不可欠で、1792年に開削工事が始まったが、技術の壁で度々中断し、貫通したのはダイナマイトの恩恵を受けた明治17年だった(小足谷疎水道跡)。 -
小足谷集落
慶応元年に総支配人になった広瀬宰平が、集落として開発した標高1000m超の空中都市。別子山村の明治38年の人口は11384人で、愛媛県で4番目に人口の多い自治体だった。
醸造所跡
明治3年に操業開始。味噌、醤油、酒を生産。薄めた酒や調味料から解放された。住友私立小足谷小学校
学制が発布された翌年の明治6年開校。当時日本最高地点の学校だった。
小足谷接待館
要人を宿泊・賓客を接待する接待館は、日本庭園もある快適な施設。遅くとも明治7年には存在した。
小足谷劇場
明治22年に土木課と山林課の事務所と大倉庫を建設。翌年に倉庫部分は劇場として開放された。1000人以上の観客を収容でき、旬の芸能人が興行に訪れた。 -
東平(とうなる)エリア
旧別子エリアの下流に位置し、標高750m。明治35年の第三通洞貫通を契機に、大正5年~昭和5年まで採鉱本部が設置。昭和43年に東平坑休止。最盛期は5000人が生活していた。 -
第三通洞
東延斜坑底と東平を結ぶ全長1795mの輸送路。明治35年供用開始。東平エリアが稼働するきっかけとなった施設。明治44年の日浦通洞貫通後は、山の反対側(日浦)の水を東平下流へ輸送する導水路も併設された。通洞の中間点には8番役局が設置され、採鉱本部の役割を果たした。 -
昭和13年には「かご電車」が東平市街~第三通洞~日浦通洞間に運行され、一般人も利用できた。別子山村への唯一の交通手段。現在は、別子銅山記念館にて保存。
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新居浜市と合併した旧別子山村は現在道路が通っていますが、車の行き違いが困難なルートです。コミュニティバスも走っていますが、1日3往復かつオンデマンド運行です。参考までに。
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第三通洞から東平へ続くレールの行き止まりには貯鉱庫があり、搬出された採鉱物が保管されました。その下の選鉱場で選別され、第二貯鉱庫を経て索道(ロープウェイ)で端出場まで輸送されました。新居浜港までは下部鉄道へリレーしました。
こうした施設が階段状に建設され、東洋のマチュピチュと称しています。 -
社宅
索道を挟んだ上下部分は東平社宅と呼ばれ、係員以上が入居した。1棟に5世帯が住み、水回りは外にある共同住宅。足谷川沿いは山陰に位置し、坑夫が入居する辷坂社宅が建設された。街には保育所や学校、娯楽場、郵便局等があった。 -
端出場ゾーン
明治26年に、第一通洞~新居浜港を結ぶ鉄道ルートの積換地点(下部鉄道⇔索道)としてスタート。昭和5年から閉山まで採鉱本部が置かれた。本部跡にはマイントピア別子が建ち、銅山見学の拠点となっている。標高が僅か156mというのが大きなアドバンテージ。マイントピア別子 名所・史跡
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旧端出場水力発電所
明治45年稼働開始、出力3000kwは日本最大級だった。東洋一597mの落差の水路式発電。銅山の動力源の要。 -
第四通洞
全長4596mで大正4年に貫通。別子銅山のメイン通路として機能。東平の第三・日浦通洞の591m下方を通る。同年に貫通した大立坑(全長580m)を通して日浦通洞と接続。坑内運搬の大動脈が完成した。 -
貯鉱庫跡
大正6年に完成。第四通洞に敷かれたレールの上を走る運搬車は、積荷を貯鉱庫に落とし込んだ。 -
その下には、手選鉱場。大正14年に新居浜選鉱場が完成してお役御免。
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その下には第二貯鉱庫、そして下部鉄道に積み込むという階段状の構造は、東平と同じ。
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下部鉄道の軌道跡が残ります。
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山根ゾーンには、明治21年完成の山根製錬所が存在した。山中から初めて里に進出した製錬施設だったが、排煙が農業に深刻な被害をもたらし、採算の問題も相まって僅か7年で操業停止。
現在は、住友が運営する別子銅山記念館があります。内部は撮影禁止で、鉱物学、鉱山学、民俗宗教学にどっぷり浸かったアカデミックな内容。過去の企画展の冊子(残り物で持ち帰り可能)が充実しており、後日精読して良い勉強になりました。別子銅山記念館 美術館・博物館
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大三島の大山祇神社から勧請しています。銅山の守り神です。
勧請した神社は、祇ではなく積の字を用いるそうです。大山積神社 寺・神社・教会
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下部鉄道の廃線跡は、サイクリングロードになっています。
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口屋(1703-1890)跡
現在は埋め立てられているが、当時は瀬戸内海に面しており、住友(泉屋)本店のある大坂との船が運航した。別子銅山の分店扱いで、物資や食料のチェックを行った。粗銅を大坂へ送り、大坂からは食料と物資を受け取った。別子銅山口屋跡 名所・史跡
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口屋(新居浜分店)は、明治23年に惣開に移転。
現在は住友化学の資料館になっています。
先立つ明治17年には、洋式の新居浜製錬所が稼働しています。採掘物を製品にしました。処理量が増えるにつれ、明治26年以降の(亜硫酸ガス排煙)深刻な煙害が社会問題になります。住友化学愛媛工場歴史資料館 美術館・博物館
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煙害に取り組む
事態を打開すべく、沖合20kmの無人島の四阪島へ製錬所を移転。明治38年に完成するも、かえって被害は大きくなった。煙害の下手人は、採掘物に含まれる硫黄分。煙害対策として、選鉱を機械化して銅を多く含有する鉱石を効率よく見分け、規格外のものは転売することにした。しかし、硫化鉱の需要が少ない事と、製錬する際に相変わらず硫黄酸化物(SOx)が発生するわけで、補助的な方法に過ぎなかった。 -
亜硫酸ガスの化学処理
昭和5年に、真っ先にペテルゼン式硫酸製造法を導入した処理工場が稼働し、製錬時に発生する亜硫酸ガスの75%を化学変化で硫酸に変えることで処理した。
昭和13年には、独自の研究成果であるアンモニア洗浄法を導入した中和工場を稼働させ、亜硫酸ガスの完全回収を達成した。 -
煙害と多角化
邪魔者の亜硫酸ガスを化学変化で別の化合物に変えて、粟良くば化学製品として販売する。こうした背景で設立されたのが、化学肥料を製造する住友肥料製造所。銅山と四阪島の中継点である惣開に建設されました。アンモニア洗浄法に必要なアンモニのア製造工場等も建設され、住友化学の前身となっています。
採鉱物に含まれる銅以外の鉱物(鉄ニッケル等)を活用する関連会社も立地し、電気分解用の発電所や重機も必要…と住友は芋蔓式に多角化と発展の道を歩みます。 -
住友化学資料館は、新居浜が鉱山の町から工業都市へ脱皮しする過程を伝えます。農業のウエイトが高かった日本経済を反映しています。時代に合わせて、生産品も変化させています。
見学は予約制です↓
住化不動産愛媛支店 TEL0897-37-1815
当日は現地ではなく、住友化学正門の守衛所に集合です。 -
煙害対策として最も歴史が古いのが、植林です。
銅製錬用の炭の原料として伐採されました。火で焼いて鉱石の硫黄分を取り除く際に発生する亜硫酸ガスは木や農作物を枯らし、農作物被害や雨による土砂崩れを引き起こしました。
1898年に別子鉱業所に山林課が設置され、住友林業に発展します。山林経営、木材生産、木造注文住宅と幅広い分野で企業活動を行っています。 -
星越エリアには日暮の丘があり、新居浜の町と瀬戸内海を見渡せます。昭和に入って、住友企業城下町を支える広大な社宅が広がっていました。広大な敷地は再開発されて、ショッピングセンター等に再生しています。
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同地点で撮影された明治38年の写真。周囲は水田で、惣開製錬所があるだけです。埋立前は、奥の丘は御代島だったと分かります。
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別子銅山が閉山して50年近く経ちますが、手前から住友別子病院、住友金属鉱山、住友共同火力、住友重機械工業、住友化学と、住友の企業城下町であることが分かります。
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日暮の丘には、四阪島にあった住友家別邸が移築されています。住友家が度々製錬所を訪れ、別子銅山の煙害をいかに重く捉えていたかが垣間見られます。
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内部の展示資料は撮影禁止ですが、建物自体は撮影可能です。階段一つとっても、手が込んでいます。
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四阪島のシンボルで平成25年に解体された大煙突を記念したモニュメントも設置されています。
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高さ67mというのはイメージが湧きませんが、内径9.7mは体感できます。
日暮の丘の麓には下部鉄道が走り、大正14年(1925年)に新居浜選鉱場が稼働しました。機械選別が導入され、選別はここで一括して行われました。
残念ながら星越エリアは、4トラベルにスポット登録されていません。 -
先述の別子銅山記念館と同じライン上に位置し、平野と山地の境界線に建つ博物館。
住友の中興の祖に位置づけられる広瀬宰平は、住友史上ナンバーワンの番頭である。慶応元年に、38歳で別子鉱山の支配人に就任。幕末に銅の生産能力が著しく低下し、明治維新では新政府に押収されかかった危機を回避し、近代化起業方針示して銅山を若返らせた。別子・住友のみならず、関西・日本の発展に貢献した広瀬の人生と足跡を展示。内部は、撮影禁止です。広瀬歴史記念館 美術館・博物館
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博物館は、明治10年築の広瀬邸に隣接しています。
この年、広瀬は50歳にして住友家総代理人(後の総理事)に就任します。
住友グループのトップになっても、別子銅山と関わり続けました。旧広瀬邸 名所・史跡
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美しい和風建築です。
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二階の便所には、日本初の洋式便器(舶来)が設置。西洋技術を意欲的に取り入れて近代化を進めた先進性を垣間見させる調度です。
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二階から米蔵方向を眺めています。
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望煙楼
元々は別子銅山の方向を向いていました。 -
明治22年に移築された際には、惣開製錬所・四阪島方向を向くようにしました。
余談ですが、製錬所の四阪島移転に反対しています。 -
庭園も美しく、賓客を接待することもあっただけのことはあります。
旧広瀬氏庭園 公園・植物園
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下部鉄道は、別子銅山と港を結ぶだけでなく、国鉄新居浜駅へ連絡する支線も建設されました。現在もJR新居浜駅は貨物の取り扱いがあるみたいで、さすがは住友企業城下町という雰囲気です。
新居浜のホテルは高いので、自転車を返却して、西条へ向かいます↓
https://4travel.jp/travelogue/11778135新居浜駅 駅
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