2022/04/30 - 2022/04/30
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Licodさん
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この旅行記のスケジュール
2022/04/30
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税関博物館
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オールドタウン
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シンガポールから陸路(コーズウェイ)でマレーシアのジョホール・バル(JB)へ渡り、長距離バスでマラッカへ行って来ました。
マラッカは、東西交易に於ける地理的な優位点から15世紀以降、この港市の覇権を巡り,周辺国からの攻撃や欧州列強の争奪戦(ポルトガル→オランダ→イギリス)が繰り返された土地で、その激動の歴史の遺産が町の随所に残っていています。
また、マラッカには数多くの博物館があり、2日目は主に博物館巡りをしました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 3.0
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マラッカ2日目は、徒歩で市内の博物館巡り。
ホテルは2泊取ったので、中日のこの日は荷物の心配せずに身軽に動けました。イビス マラッカ ホテル
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ホテルからオランダ広場へ向かう途中のインド人街の通り。
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セント フランシス ザビエル教会
博物館へ行く途中に寄りました。セント フランシス ザビエル教会 寺院・教会
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ザビエル教会内のザビエルとやじろの像
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博物館巡りは、まず、スタダイスから開始しました。
入館料RM12スタダイス 建造物
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博物館の1階は、マレー系民族の文化や習慣が展示されています。
2階はマラッカの歴史について、写真のパネルの表示の様に宗主国が次々代わり激動の歴史を物語っています。
<コロニアル時代の移り変わり>
・ポルトガル領 1511 - 1641
・オランダ領 1641 - 1824
・英国領 1824 - 1957
・日本占領 1942 - 1945 -
博物館の展示は、コロニアル時代の前から始まります。
マラッカ王国初代国王パラメスワラがやってくる前のマラッカの様子。中央の丘は、その後のセントポールの丘。
マラッカ川の河口に僅か数十人の漁民(オラン・スラット:海峡の民)が住んでいたに過ぎない小さな集落でした。
外部からの船も、ここには寄らず、近くの島(プラウ プサール)に停泊していました。 -
マラッカ王国の歴史書『マレー年代記』の記述を再現したジオラマ
中央に赤い服を着て座っているのが、シンガプーラ王国陥落後、この地に逃げ延びてきたパラメスワラ国王。川辺に追い詰められた小鹿が猟犬を蹴り躱す様子を観察して感心し、ここに定住する事を決めた伝承があります。 -
1402年マラッカ王国建国時のマラッカ川河口付近
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やがてマラッカ王国は海上貿易で富を得るようになり、立派なスルタン パレスも建てられました。
周辺地域に王国の名声が上がる一方で、東方進出を目論むポルトガルが触手を伸ばして来た時期です。 -
ポルトガル領の時代のコーナー
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1世紀続いたマラッカ王国もポルトガル軍によって1511年に陥落し、その後に要塞を築いたポルトガル領時代のマラッカ。
丘の頂上にセントポール教会が見れます。 -
130年間のポルトガル占領後、逃げ延びたマラッカ王朝の末裔であるジョホール王国軍と手を組んだオランダによって、ポルトガル軍は滅亡。その後、オランダ占領軍は、マラッカに更に強固な城壁を築き防御を固めた。
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日本占領時のパネル
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鄭和の大きな像が裏庭に。
マラッカが直接的に明に統治された時代はありませんが、マラッカの歴史的には、鄭和の定期的な寄港は重要な意味を持っていたようです。
鄭和の大航海に関する展示は、館内の独立したギャラリーになっています。 -
鄭和ギャラリー(3階)の内部
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鄭和の大航海ルート
マラッカの位置は、東西の洋の分けるクロスロード。
明の船団にとって南シナ海からインド洋に繰り出す前の寄港地として適した場所だったのが地図からも窺えます。 -
次にスルタン パレスへ。
スタダイスからは、セントポールの丘を越えて徒歩10分程度です。
パレスは、マラッカ王国時代の王宮を復元したものです。 入館料RM10マラッカ スルタン パレス 建造物
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国王と海外からの訪問者と接見の様子
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見学後、パレスの近くのショッピングモール内にあるマレーシアで有名な中華料理店 Dragon-i で昼食を摂りました。
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シーフード焼きそばと茄子を注文しました。
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昼食後、海の博物館を見学しました。
博物館は、当時のポルトガル船を復元したものです。 入館料RM6海の博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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海賊の様な風貌のポルトガル人船乗り
この出立ちでは、地元のオラン・ラウト(海峡の民)に逆に恐れられていたのでは? 地元民にとってはマラッカを奪い取ったポルトガル人は賊以外の何者でもないかもしれません。 -
有名な鄭和の大航海図
マラッカ(満刺加)への航海路。図にはマラッカが朝貢国であることも示しています。
この博物館でも鄭和の大航海は一目置かれた存在だと感じました。 -
船のデッキからセントポールの丘への眺望
英国植民地時代に建てられた灯台が良く見えます。 -
海軍博物館
博物館は、海の博物館の道路を挟んで斜め前にあります。入館料は、海の博物館と共通チケットのようでした。(実際は、チケットのチェックは曖昧で、もしかすると初めから入館無料なのかもしれません?)海軍博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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博物館の展示室
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マレーシア海軍の拠点
この地図を見るとマレー半島とボルネオのど真ん中にインドネシア領の島があります。
サバ州に3ヶ所の基地を置くのは、フィリピンのスルー諸島付近の治安維持を配慮してでしょうか。 -
税関博物館
1890年代に建てられた倉庫を再利用した博物館。
以前は、マラッカに陸揚げされた交易品の税金が支払われるまでの一時倉庫だった。
マラッカの歴史上、交易品にどう課税していったのかは重要なテーマ。 入館料無料 -
展示品
取り締まりの対象物の説明 -
市内5ヶ所の博物館の見学を終えホテルに一旦戻り、ブキット・チナの麓にある中華系寺院へ行きました。
ポー サン テン寺院とスルタンの井戸 寺院・教会
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寳山亭
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寺院の隣にある井戸
王井と言われて、マラッカ国王が中国から迎え入れた妃の為に掘った井戸で、枯れることがなかったと伝えられています。
マラッカ王国陥落後は、植民地支配を巡り毒殺にも利用されたりしたようです。 -
長美號
夕食はオールドタウンにあるこちらのレストランに入ってみました。 -
しきりにこの店のシグネチャーのナシレマを勧めるのでオーダーしましたが、普通のナシレマと違いが分からず、別のものを頼べばよかったと後悔。
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訪れた時期がちょうどラマダン期間中だった為、日没後、マラッカ川の川沿いのテラスで夕食を摂る地元のマレー人で賑わっていました。
マラッカ川 滝・河川・湖
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一方で岸の反対側では、華人や旅行人を相手にしたBarやカフェもテーブルを並べていました。
片や厳しい戒律を守った後の待ち望んでいた食事、もう一方はアルコールで盛り上がる対照的な両岸でした。 -
インド人街を通り抜けてホテルに戻りました。
この日は5つの博物館を見学でき充実した一日でした。町がコンパクトなので、どこも徒歩圏内です。スタダイスの博物館が一番の内容で見応えがありました。
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イビス マラッカ
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