2021/11/25 - 2021/11/25
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montsaintmichelさん
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唐土山 法明院(ほうみょういん)は三井寺の北方、長等山の中腹に鎮座しています。境内は鬱蒼とした森に包まれ、東方に琵琶湖や近江富士と讃えられる三上山などが望めます。
三井寺の北院であり、塔頭のひとつでもあります。本尊は阿弥陀如来を祀り、かつて存在した延暦寺の安楽律院に対し、「三井の律院(戒律を主として学ぶ寺院)」と称され数多の学僧を輩出しました。
境内にある茶室「時雨亭」は明治時代の日本美術の研究・収集家フェノロサの常宿であり、墓地にはフェノロサとその友人のビゲロー等が永遠の眠りに就いています。彼等はこの寺院や眼下に見下ろす琵琶湖や湖東アルプス等の風光を好んだだけでなく、往時の住職 桜井敬徳律師に帰依して戒を授かったほどです。また、フェノロサの妻メアリーも融照敬円から戒を授けられています。
境内マップは次のサイトを参照してください。
https://miidera1200.jp/information
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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FURIAN 山ノ上迎賓館
マップにもない山道を進むのは「冒険」と考えてここまで戻りました。
ここからは舗装された道を登って三井寺 北院 法明院を目指します。
道草さえしなければ、ここから徒歩10分程の道程です。 -
皇子が丘公園
テニスコートと紅く染まった紅葉のコントラストがとても美しい公園です。
戦後、この辺りには米軍駐留キャンプがありました。また、皇子が丘公園一帯にはGHQの家族住宅「皇子山ハイツ」があったそうです。その後、比叡山系長等山の山腹を切り開いて都市公園として生まれ変わりました。
近接地に皇子山総合運動公園があり、皇子山陸上競技場、皇子山球場などが立地しています。 -
皇子が丘公園
こんな大銀杏の木もあります。 -
皇子が丘公園
大津市街と琵琶湖、その先に湖東アルプスを一望できる豊かな森と丘でもあり、大津市の中心的公園です。 -
道標
皇子が丘公園弓道場へ下る道路の一画に目立たない小さな道標があり、法明院を指しています。
ここから趣のある石敷きの参道へと分け入ります。 -
参道
道標の左側にある参道入口から先には鬱蒼とした森が待ち構えています。
参道入口には立派な石碑が立ち、「園城寺 北谷 法明院」と刻まれています。
石材に鉄分が含まれているのか赤錆びて紅葉と同化してしまっていますので、見落とさないようにしてください。
これを見落として道路を登ってしまうと「看護専修学校」に行き着きます。 -
参道
参道を左に折れる所に楚々とした石橋が架けられており、小さなせせらぎを渡ります。 -
参道
石橋を渡ると、石敷きの参道が緩やかな勾配で誘います。 -
参道 結界石
「不許葷酒肉入山門」と刻まれています。
「ニラやニンニクといった臭く辛い野菜や肉など生ぐさいものを食べた者、酒を飲んだ者は入山を禁止ずる」という意です。
当方のような煩悩まみれの輩の場合、こうした石碑があるとドギマギしてしまうのですが…。 -
参道
参道を進むと右手に石段があり、そこを登り詰めると法明院です。
石敷きの参道はそのT字路から先へも続いており、こちらは新羅三郎義光の墓の周辺から通じている参道と合流するものと思われます。 -
参道
木漏れ日のスポットを浴び、大空へ向かって燃え立つかのような情熱的な紅葉です。 -
参道
T字路を右に折れ、仄暗い石段を登っていきます。 -
参道
途中、左側に小柄な滝があり、勢いよく水が落ちています。
庭園にある池から注がれています。 -
唐土山 法明院
法明院の創建年代は不祥ですが、1603(慶長8年)年に山中長俊が園城寺子院 多宝坊の住持の隠居所として復興しました。
かつて存在した延暦寺の安楽律院に対して「三井の律院」と呼ばれ多くの学僧を輩出しましたが、一時廃絶された後、1723(享保8)年に義瑞律師性慶により、「園城之律院」と称され現在地に移転され再興されました。
本尊は阿弥陀如来を祀ります。 -
客殿
古絵図には多くの堂宇が立ち並ぶ様子が描かれていますが、明治維新後、北院の大半は陸軍用地として軍部に接収され、歩兵第9連隊司令部や錬兵場となり、法明院と新羅善神堂を除いて廃絶の憂き目に遭いました。
本堂や庫裏、客殿、書院、茶室、聖天堂、鐘楼(梵鐘はなし)が現存しています。 -
客殿 玄関
本堂の本尊 阿弥陀如来は鎌倉時代中期、不動明王は藤原時代の作とされ、客殿の玄関は向唐破風、入母屋造です。 -
客殿 玄関
あまり知られていませんが、法明院 聖天堂には「叶わない願いがない」という霊験あらたかな歓喜天が祀られています。
『夢をかなえるゾウ』で知名度を上げたガネーシャが起源とされる守護神です。
願い事全般に対し、他の神社仏閣で叶わない願いでさえも叶えて下さるそうです。 -
客殿 玄関
創建当時はこうした建築様式は一般寺院では許されなかったのですが、御水尾天皇や霊元法皇が義瑞律師に帰依し再三参拝された経緯もあり、特別に許可が下りて大坂を代表する豪商 7代目当主 加島屋(広岡)正愼によって建立され、寄進されました。
因みに、加島屋は大同生命の源流です。NHK連続テレビ小説『あさが来た』のヒロインのモデルとなった広岡浅子の活躍は、彼女の嫁ぎ先でもある加島屋が舞台となっていました。 -
客殿 玄関 唐破風
兎毛通には菊の左右に猪目を配しています。
大瓶束の左右の笈形には「唐獅子牡丹」をモチーフにしたと思しき彫刻があります。 -
客殿 玄関 唐破風
大瓶束の笈形には左に「僧侶と牡丹」右に「菊」をモチーフにしたと思しき彫刻があります。
法明院客殿襖絵 池大雅筆『幽居図』はこちらのサイトを参照してください。
http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/picture/13.htm -
庫裏
人の気配は感じられますが、拝観などの対応はなされないようです。 -
庫裏
明り取りの窓が斬新です。 -
庫裏
龍の鬼瓦です。
火災が生じないようにと願いを込めたのでしょう。 -
客殿に向かって左側に庭園へ通じる門があり、左の門柱にある箱にお志を納めてから中へ入ります。
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門の白漆喰壁にもたせかけるように数体の石仏が安置されています。
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庭園
霊元法皇は京都の修学院離宮からこの地へしばしば足を運ばれたそうです。
また、離宮から錦繍楓や光輝梅を移植されたとも伝わります。
この楓がその子孫なのかどうかは定かではありませんが…。 -
庭園
楓に気を取られ、足元がおろそかになっていました。
茶室「時雨亭」の坪庭には小規模ながらも枯山水庭園が造営されています。
現在は苔生していますが、小さな石橋も渡されています。 -
庭園
少々荒れていますが、整備すれば寺院のアピールポイントにできるような気がします。 -
庭園
書院と茶室「時雨亭」の東には江戸時代前期の作庭となる園城寺最大規模の上下2段になった池泉回遊式庭園があります。しかし、ここも少々荒廃しているのが残念です。
上段には芝生とわずかばかりの景石、茶室前の枯山水庭園を据えています。 -
庭園
茶室の正面にも石燈籠や石橋を配した坪庭らしきものが確認できます。 -
茶室「時雨亭」
ここはフェノロサ夫妻の大津での常宿だったそうです。
因みに、法明院には生前フェノロサが愛用した「英国ジョンストン社の地球儀」や「月の表面も観察できるフランスブイヨン社の望遠鏡」、ランプ、蓄音機などが残されているそうです。 -
茶室「時雨亭」
フェノロサやビゲローは、第9代目住職 桜井敬徳阿闍利の教えを受ける一方、この茶室「時雨亭」で寝起きをし、客殿で訪れる人々をもてなしたそうです。
岡倉天心は法隆寺夢殿での調査を終えた頃からフェノロサとビゲローに受戒を勧めていました。その結果、明治18年9月21日に阿闍利から得度を受け、フェノロサは「諦信(たいしん)」、ビゲローは「月心(げっしん)」の法号を授かりました。 -
茶室「時雨亭」
2019年にフェノロサとビゲローが仏教の戒律を受けた際の文書が、法明院で発見されています。
その文書は、フェノロサらに戒律を授ける儀式で僧が読み上げる表白文と菩薩戒や十善戒の戒律を受けたことを示す戒牒です。フェノロサが授かった菩薩戒は戒律の中でも厳しいものとされます。 -
庭園 「きらり」の碑
政界を引退された武村正義氏にまつわる記念碑です。
八日市市長や滋賀県知事、内閣官房長官や大蔵大臣を歴任された人物です。
毎日新聞の「きらり、武村正義物語」の連載と『私はニッポンを洗濯したかった』の出版を記念して建てられた石碑のようです。
「草の根県政」を標榜し、赤潮の発生と言う琵琶湖の危機に対して「びわ湖条例」や「世界湖沼会議」などで画期的な対応をされた方でもあります。 -
庭園
太平洋戦争中には米軍の空襲を受け、この庭園に爆弾が投下されました。
それにより玄関が損壊すると共に、円山応挙などの襖絵が10枚ほど損失したそうです。 -
庭園 法華塔
何かの供養塔かと窺えます。
名称から察すれば、法華経を写経したものが納めてあるのですが…。
しかし、面白いのは塔の台座です。
唐獅子を彫っています。 -
庭園 法華塔
こうした感じで見るとよく判ります。
お尻に彫られた巻き毛もキュートです。 -
庭園 歌碑
高さ1m程ある横長の歌碑が置かれています。
1984年に加藤知多雄歌碑建立の会が建立されたもので、関西で短歌結社を主宰された歌人 加藤知多雄の歌碑です。
「形なき 水をたたへて みづうみと 呼ぶしづけさよ 時雨のおくに」
茶室「時雨亭」から見下ろした琵琶湖の情景を詠んだものと窺えます。 -
庭園
池泉回遊式庭園の下段には、斜面地を利用し、堤を築いて長方形の池泉「燈心池」を造営しています。
谷川の熊野川から水を引き、2つの中島を設けて石橋を架け、弁財天を祀っています。池端には楓などの植栽が見られます。 -
庭園
眼下に広がる琵琶湖を借景とし、正面の近江富士、更には北方に伊吹山などをパノラマ風に望める湖岸でも名高い「眺望の舞台」です。
そして足元に広がるのは、赤い絨毯のように敷き詰められた散紅葉です。 -
庭園
山号の唐土山(とうどざん)は、宗祖 智証大師 円珍が入唐後、唐の青龍寺の戒壇から持ち帰った砂を長等山の峰に埋めたことから唐土山と呼ばれたことに因みます。 -
庭園からの眺望
フェノロサはここから望む琵琶湖の風景をこよなく愛したそうです。往時は今のように遮るものはなかったはずですから、さぞかし壮観だったでしょう。
フェノロサは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)同様にお雇い外国人教師として来日し、日本美術を評価し、広く西洋に紹介したことで知られます。
また、薬師寺東塔を「凍れる音楽」と評した他、絶対秘仏とされた法隆寺夢殿の救世観音を開扉した時のエピソードは有名です。 -
庭園
木漏れ日の中、色づいた古楓の息吹きが一期一会のグラデーションを演出します。 -
庭園
こうした季節の移り変わりを眺めていると、ことさら時間がゆっくりと流れているように思えるのは当方だけではないように思います。
時には「命の洗濯」も必要です! -
庭園 弁財天社
中島にひっそりと佇みます。 -
庭園 地蔵尊
この右側にフェノロサの墓に通じる石段があります。 -
墓地への石段
一段と凛とした空気が漂います。 -
参道の傍らには供養塔や五輪塔、石仏などが横一列に並んでお出迎えです。
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苔生した五輪塔たちが黙して語ります。
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桜井敬徳師の銅像
江戸時代末期の僧侶 桜井敬徳師の像が安置されています。敬徳師は、法明院住職を務められた後に阿闍利となり、フェノロサやビゲローに菩薩戒を授けられた方です。フェノロサが授かった戒律は 「菩薩戒」、ビゲローは 「十善戒」でした。因みに、その授戒は向島小梅にあった敬徳師の弟子 町田久成の別邸でなされたそうです。元老院議官でもあった久成は師の入寂を機に剃髪し僧籍に入り、三井寺光浄院住職の地位にありました。久成の墓も法明院にあるそうです。
この銅像は竹内久一が制作し岡崎雪声が鋳造、1901(明治34)年に制作依頼者のビゲローによって寄進されたものです。しかしすぐには設立されず、ビゲロー分骨後の1928年頃に設立されたそうです。台座の4面には碑文がびっしりと刻まれていますが、文字が風化しており解読できないのは残念です。
因みに、竹内久一は明治時代の彫刻家であり、1893(明治26)年のシカゴ万国博覧会に『伎芸天立像』を出品されています。奈良の古社寺調査に訪れたフェノロサやビゲロー等に道案内をしたのが馴れ初めです。 -
フェノロサの墓
米国人アーネスト・フェノロサは法明院に長期滞在したことがあり、彼の遺志で法明院にお墓が設けられています。五輪塔に英語の墓誌という組み合わせに違和感を持たれるかもしれませんが、苔生した墓地と静けさが印象的です。
また、フェノロサの墓の近くには、ウィリアム・スタージス・ビゲローの墓やジェイムス・ホートン・ウッズの供養塔もあります。 -
フェノロサの墓
フェノロサは、日本の仏教美術を理解するため、岡倉天心の紹介で知り合った法明院 桜井敬徳和尚に深く帰依しました。1885(明治18)年には和尚の戒を受けて「諦信」という法名を授かりました。「諦」は仏教では「真理」や「悟り」を意味します。
その後も度々法明院に滞在し、また和尚のための道場を東京に建設するために奔走しました。更には、和尚が東京で病に倒れた時には1889(明治22)年に没するまで看病を尽くしたそうです。
1896(明治29)年の3度目の来日時は、三井寺にメアリー夫人を伴い、和尚の後を継いだ直林敬円を訪ねて夫人に受戒を勧めました。敬円和尚は夫人に菩薩十善戒を授け、「光瑞(こうずい)」という法名を授けています。
帰国後はアラバマ州モービル郊外スプリング・ヒルに新居を購入し、日本に滞在していた時の地名から新居を「コビナタ」と名付け、日本美術の研究に打ち込みますが、1908(明治41)年、欧州旅行中のロンドンで狭心症の発作に襲われ急逝しました。享年55歳でした。遺体は、遺言により法明院に葬られることになり、翌年墓地に埋葬されました。墓碑には「玄智明徹諦信居士」と刻まれています。
廃仏毀釈で日本の仏教美術が見捨てられていた時代に来日し、日本美術に心酔してその価値を世界に広め、文化財保護法の前身である古社寺保存法の制定に道を開いた人物です。もしフェロノサが来日していなければ、もっと多くの寺院が廃寺となり、多くの貴重な文化財が失われていたことでしょう。
合掌 -
フェノロサの墓
フェノロサは能の謡曲を英訳していたことでも知られています。しかし、彼はこの偉業の道半ばでこの世を去り、その仕事は詩人エズラ・パウンドに引き継がれました。このパウンドと親交があったのが19世紀始めの英国の大詩人イエーツです。イエーツはパウンドから能の話を聞き、その影響を受けて『鷹の井戸』という戯曲を創りました。この戯曲はその後日本でも公開され、今度はそれを元に『鷹姫』という能が創られました。
日本と能を深く愛したフェノロサが「能の舞台」として知られる三井寺の塔頭に眠っているのも何かの縁かもしれません。 -
フェノロサの供養塔
フェノロサの墓の左奥には、彼の墓を見守るかのように、彼の遺愛品を納めた宝篋印塔が佇みます。
フェノロサが授かった「菩薩戒」は「梵網戒」とも呼ばれ、10種の重禁戒と48の軽戒から成り、前者は殺生や窃盗、邪淫、虚言、酒の売買、誹謗、吝嗇などの重罪、後者は飲酒や食肉、食五幸など比較的軽微な罪に対する戒めです。
フェノロサはそれまで酒を嗜み、ビフテキを好み、旅行中は護身用にビス トルを携行していたそうですが、以後肉食を絶ち、武器携行もアルコールも控えたと伝わります。 -
フェノロサは、長詩『東と西』(1893年)の中で敬徳師を「白衣の僧」として登場させ、「琵琶湖の湖畔 天台宗三井寺の敬徳阿闇梨を、最も霊感に満ち、また誠実に宗教上の事柄を教示された我が師として崇敬してやまない。師こそはまさに精神界に於ける騎士道の崇高なる生ける規範であった。1889年 、師はこの世を去った」と追憶しています。
-
明治21年の政府による三井寺宝物調査の折、フェノロサは岡倉天心と共に法明院を訪れて敬徳和尚の法話に傾聴し、大津名物の精進料理をご弛走になった上、数日間止宿したと和尚は日誌に記しています。
法明院はフェノロサにとって、すべての作事を忘れ、清浄な雰囲気の中で心を休めることのできる別天地だったのでしょう。 -
ビゲローの墓
ビゲローは、19世紀末に来日した米国の医師で、日本美術や仏教の研究者としてフェノロサと共に日本美術の危機を救った恩人です。
簡潔に言えば、日本で大した価値を見なかった明治時代に浮世絵など4万点以上の日本美術品を買い集め、最終的にボストン美術館に寄付した大富豪です。
日本で仏教に帰依したビゲローは、亡くなると荼毘に付され、遺骨をケンブリッジの霊園と法明院に分骨させました。因みに、ビゲローは大富豪でしたが、ケンブリッジの墓は頭文字だけを刻んだ人の顔程の大きさの白い石のようです。
合掌
ビゲローのケンブリッジ霊園の墓碑はこちらのサイトを参照してください。
https://robertcampbell.jp/blog/2012/10/post_1/ -
ビゲローの墓
ビゲローは法明院の住職 桜井敬徳を導師として受戒し、法号「月心」を授かりました。
「月のように澄んだ心」を連想させる法号です。
受戒後、彼の手紙には「Gessin」とサインされていたそうです。 -
ウッズの供養塔
ビゲローの墓の左隣には少し小振りなウッズの供養塔があります。
このようにウッズの供養塔がビゲローの墓域内にあるのは、彼が仏教に関してはビゲローの後継者であったためです。1934年に天台密教研究のため来日し、法明院の直林敬範大阿闍梨より受戒しました。法名は「円妙院正輝阿蘭若居士」。
戦後、連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局の宗教行政顧問を務め、危機に瀕していた神社神道を存続させ、その後東大助教授となりました。東西文化の理解に尽力された貢献は大きく、「東西文化の架け橋」とも言える人物です。
合掌 -
ビゲローの墓の北側には、法明院の歴代住職の墓が並んでいます。
僧侶の墓は特徴的な卵型をしているのでそれとすぐ判ります。 -
義瑞律師の墓
法明院の「中興の祖」とされる義瑞和尚の墓だけは特別に単独で安置されています。
法明院はかつては「三井の律院」と呼ばれ多くの学僧を輩出しましたが、一時廃絶されました。その後、1723(享保8)年に義瑞律師性慶により、「園城之律院」と称され現在地に移転され再興されました。
『義瑞和尚行業実録』によると「此の地、掘せずして石泉迸り出づ、因って白泉の二字を題してこれに扁す」とあり、同時期に庭園も整備されたと窺えます。義瑞和尚直筆の扁額「白泉」は今も残されており、霊元天皇や林丘寺2世 松嶺元秀法尼もしばしば巡幸されたと伝えます。
因みに、「白泉」とは「清水」の意です。
合掌 -
義瑞律師はひょんなことで一躍有名になった人物です。
法明院には1744(延享元)年に大坂奉行所に差し出された訴状の写しが残されており、要約すれば次のようになります。
浄瑠璃本『潤色江戸紫』には「八百屋お七の相手の寺小姓 吉三郎は、後に近江の志賀の里で義瑞と呼ばれる名僧となった」とあります。しかし、それは根も葉もない噂です。吉三郎=義瑞和尚説が芝居や浄瑠璃本で流布されることは、師である義瑞和尚の名誉を汚すものです。すぐに絶版にしていただきたい。 -
義瑞律師は、近江国滋賀郡に生まれ、6歳で三井寺光浄院に入り、法明院を復興し、天台の教えを広めて学行兼備の「近江の名師」と仰がれました。説法上手で、 1708(宝永5)年、42歳で志賀山近郊(湖西)で勝蓮社という念仏会を発足し、信者1万人余りを集めたと伝わります。 その説法は「弁は懸河(急流)の如く… 衆の傾聴して歎異せざるはなし」と称されるほど弁舌でした。しかし、「8歳で摩訶止観を読みその教えを説き、16歳で母親を亡くし出家した」以降30歳までの記録が三井寺には残されていません。
そこに付け込んだ巷の噂が伝説と化し、「義瑞は母の菩提を弔うため江戸の吉祥寺へ赴き、そこで八百屋お七と出会った。寺小姓 吉三郎は後の義瑞律師だ!」という風評が立ちました。
あらぬ噂から歌舞伎や浄瑠璃で人気になった義瑞和尚は、今で言うスーパースターに近い存在だったことでしょう。 -
石柱に笠の形をした石を載せた、エノキタケを彷彿とさせる笠塔婆の墓石です。
これと同じような墓石は比叡山延暦寺で見たことがあり、それは横川エリアにある「元三大師御廟」でした。
恐らく、この墓石もそれに匹敵するような高僧のものだと窺えます。
お供えもされているようです。 -
法明院の庭園を堪能した後、清々しい気持ちで石段を下って帰途につきます。
-
西念寺
通り道沿いにあったので、吸い寄せられるように門を潜ってみました。 -
西念寺 本堂
現在は浄土真宗本願寺派の末寺ですが、当初は天台宗だったようです。過去帳には康平6年(1063年)8月26日天台座主明尊大僧正、征夷大将軍義胎孫大乗院門主還俗義尋二男母古市女三位局等の記録があるそうです。天台宗としての草創は相当歴史があるようです。
1692年(元禄5年)頃に「本願寺宗山科西野村西宗寺の末寺」として山上村道場と呼ばれ、第2世 聞隆の頃に「西念寺」となったそうです。
因みに、開基は秀岸で江戸時代初期になります。
本尊には阿弥陀如来を祀ります。 -
西念寺
境内には親鸞聖人のお言葉を刻んだ石碑があります。
その手前に楚々と咲くツワブキの花は可憐でした。
お庭のお手入れもしっかりなされている印象でした。 -
西念寺
ナンテンの赤い実が背景の黒に映えていました。
庫裏の外壁には日本建築の伝統文化である焼き杉(墨付きの焼きっぱなし)を使用されています。庫裏は住居のようでしたので撮影は控えました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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