2022/03/17 - 2022/03/17
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montsaintmichelさん
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伊丹緑道の終着点となる幽霊坂の更に北側には、1963(昭和38)年に造営された緑ヶ丘公園という伊丹市内最古の都市公園があります。松や桜の古木が多く落ち着いた佇まいを魅せる公園です。江戸時代からあった灌漑用の上池と下池の2つの溜池を核にし、広さは7.8ha、下池の畔には日本建築の粋を集めて建立された「鴻臚館(こうろかん)」、下池の池中には伊丹市の国際友好都市である中国佛山市から贈呈された四阿(あずまや)の亭(ちん)「賞月亭(しょうげつてい)」が浮かんでいます。
かつて緑ヶ丘公園は梅林でその名を馳せましたが、市内で発生した梅輪紋病の早期根絶を目指し、市内の公園に植えられていた梅や桃などの対象樹木は2015年3月に全て伐採されたという哀しい経緯があります。現在、その梅林跡地が2年間の再整備期間を経て「さくらの丘」に刷新され、市民の憩いの場に生まれ変っています。
河津桜が見頃との情報をいただいたので、二十数年ぶりに訪れてみました。
- 旅行の満足度
- 5.0
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緑ヶ丘公園の北側からのアプローチは、深く抉られた駄六川に架けられた橋を渡るところから始まります。
この辺りは駄六川の上流に当り、河岸段丘に谷が切れ込んでいる所で、昭和時代初期には鋳物師の集落があるだけで、果樹園と水田そして溜池が広がっていたそうです。
1931(昭和6)年頃から緑ヶ丘住宅地が開発され、昭和16年には旧制伊丹中学校(現 伊丹高校)が現地に移転、続いて千代田光学精工(後にミノルタ→コニカミノルタガラステック)の工場も昭和17年に竣工しました。昭和26年には伊丹高校の周囲は警察予備隊、後に陸上自衛隊伊丹駐屯地となり、周辺に宿舎もできました。 -
駄六川
駄六川は川西市内からの流れと伊丹市瑞ヶ池からの流れを北伊丹で合流させて南下し、猪名川が藻川を分ける地点で猪名川右岸へと注ぎます。
「駄六川」とは意味ありげな名称ですので、その由来を調べてみました。伊丹郷町商業会刊『ビタミンブック伊丹』(2003年発行)には「伊丹の名産の清酒に因んだ由緒ある名前です。伊丹の清酒を馬で江戸に運んで成功した山中新六が目をつけたのが、樽。甕や壺では重いし、割れやすい。木の樽だったら割れにくいし、馬も楽。この樽1個の容量は4斗(1升瓶40本)で、2個の樽を馬の背に振り分けにした1セットを1駄と呼んだそうです。そして、駄六川は、1駄の荷を背負った馬が6頭渡ると落ちてしまう橋が架かっていたからとか、あるいは旧地名で湊町と呼ばれる所から猪名川までの間を水路として利用されていたときに6駄(12樽)の川幅だった、とか言われています。」とあります。 -
石碑
「緑ヶ丘」と大きく書かれています。
右から左への文字列ですので結構古そうです。公園が造営されたのは1963年ですから、時系列的には公園ではなく1931年頃に始まった緑ヶ丘住宅地の記念碑と考えるのが妥当かもしれません。 -
石碑
「緑ヶ丘」の文字の下には「松」などの漢字が刻まれていますが、何なのかは不祥です。
この石碑に向かって左側には公園事務所、右側にはこじんまりした緑ヶ丘神社が佇みます。
「松林逍遥」という言葉がよく似合う緑に包まれた都市公園です。 -
緑ヶ丘神社
御祭神は不明ですが、付近の緑ヶ丘住宅が造成された時に鎮守社として勧請されたようです。
住宅開発が1931年頃からのようですので、神社もその頃の建立と思われます。 -
緑ヶ丘神社
手水鉢もありますが、水は干上がっています。
また、神様がお通りになる参道の途中に太い松が突き出ているのには吃驚です。 -
上池
公園には江戸時代からある灌漑用の上池と下池の2つの溜池が広がり、面積は7.8haあります。対岸にある築山は今は「さくらの丘」になっていますが、かつては見事な梅林が広がっていました。上池の一部を埋め立てて造営されたものです。
まず上池から攻めてみることにします。
松や桜の古木が多く落ち着いた佇まいが魅力の公園というだけあり、左側には松林が広がり鎮守の森を彷彿とさせます。 -
上池
手前はアオサギです。
成鳥ですが後頭に冠羽がまだ伸びていないため成鳥になりたてなのかもしれません。
アオサギの雄と雌は同色なので野鳥愛好家でも外見からの区別は困難だそうですが、雌の方が雄よりもやや小型で飾羽と冠羽が短いとされます。冠羽が伸びていないのは雌の印なのかもしれません。
アオサギはフンが肥料として使えるため、かつては益鳥として扱われていました。しかし、近年では異常繁殖しているカワウ同様に養魚場などでの魚の食害や住宅街でのフン害などが目立つ害鳥に近くなってしまいました。アオサギの数は増えつつあるようですので、早くアオサギと人とが共存できる日が来ることを祈念いたします。 -
上池
鳥綱ペリカン目サギ科アオサギ属に分類され、欧州からアジア・アフリカ大陸にかけて分布しています。
サギ科では最も大きな鳥で、シラサギよりもひと回り大きく、人間の大人が両腕を広げた長さよりも大きいです。
成鳥になるとやや青みを帯びた灰色と白の羽になりますが、幼鳥時はもう少し青みが強くなります。 -
上池 ハシビロガモ
つがいのカモが人を恐れることなく悠々と餌を漁っています。
鳥綱カモ目カモ科マガモ属に分類されマガモに似ていますが、ヘラのような形をした嘴が特徴です。北米やユーラシア大陸の高緯度から中緯度地域で繁殖し、冬季には北米大陸南部や欧州南部、インド、日本などへ南下して越冬します。雄は頭が緑色、背は白色と黒色の模様、胸は白色、腹・脇は赤褐色、尾は白色。雌は全体が褐色で、黒褐色の斑が全体に見られます。嘴の色は、雄が黒色(マガモはオレンジ色)、雌が黄褐色。 -
上池
こうした景色を眺めていると「松林逍遥」という言葉にも頷けます。 -
源実朝の歌碑
緑ヶ丘公園西入口に立てられた歌碑です。
しながどり ゐなのゝはらの さゝまくら まくらのしもや やどる月かげ
源実朝『金槐和歌集』より 1983年建立
猪名野を旅し笹を枕にして休んでいると、月影が宿るのは枕に霜がおりているからでしょうか…。
「しなが鳥」は地名「猪名」にかかる枕詞です。猪名野ではかいつぶりの類がつがいで寄り添っていることが多かったことから「居並ぶ」の意とされます。 -
源実朝の歌碑
源実朝は征夷大将軍 源頼朝の次男、母は北条時政の娘 政子。幼名は千幡。8歳の時、父を失い家督は長兄 頼家が継ぎましたが、やがて北条氏に実権を奪われ、頼家は北条氏打倒を企てて失敗、伊豆に幽閉されました(翌年、時政の刺客により惨殺)。その後、実朝と改名して建仁3(1203)年に第3代征夷大将軍となった後、正二位右大臣に登りました。右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際、甥の頼家息 公暁に境内で暗殺されました。薨年28歳。
和歌は藤原定家の教えを受けつつ独自の表現様式を示しています。
家集『金槐和歌集』、夫木抄・新和歌集・東撰和歌六帖に家集未収歌が見られます。 -
藤棚の西面には時代を象徴するかのような壊れかけたコンクリート製の柵が無残に取り残されています。
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鬼貫の句碑
おもしろさ 急には見えぬ すゝき哉
上島鬼貫
芭蕉43歳の句「古池や…」と同じく、鬼貫の代表作とされる一句です。芭蕉がこの句を高く評価したのは、談林俳諧からの決別をこの句から読み取ったからではないでしょうか?鬼貫が「おもしろさ…」と詠んだのが25歳の時、芭蕉が「古池や…」と詠んだのはその翌年ですから鬼貫は芭蕉に一歩先んじていたとも言えます。
眼前のすすき、このすすきの持つ味は静かにじっくりと見ていてこそ感じられてくるものだ。つまり「ものが見えるようになるためには訓練が必要」ということを詠んでいます。鬼貫が書いた俳論書『ひとり事』には「薄(すすき)」について次のように記しています。「薄は、色々の花もてる草の中にひとり立ちて、かたちつくろはず、かしこがらず、心なき人には風情を隠し、心あらん人には風情を顕はす。只その人の程ほどに身ゆるなるべし」。 -
鬼貫の句碑
また、「花の句は花のみをいひ、月の句は月のみいひて、しかも意味深きをよしとす」とも記しています。同じものを見ていても、見ているものは人によって違うということです。つまり、事実は一つではなく、人の数だけあるということです。見ることは孤独な作業であるが故に、何を見ているかは自分にしか判りません。自分には何が見えているのか、何を見ようとしているのか、全て自分で探り当てていくしかありません。
鬼貫は、「作句は生涯をかけての『誠』を求めていく事業」と言っていますが、それは「何を見ているか」を自分で探り当てていく道であり、その行き着く処は「花の句は花のみをいひ、月の句は月のみいひて、しかも意味深き」であるようです。 -
鬼貫の句碑
ご丁寧にも裏側には大理石に句が彫られています。
鬼貫は江戸時代の人で、元禄の頃に「東の芭蕉、西の鬼貫」と称された俳人です。芭蕉は没後、多くの門人がその俳系を支えて広く天下に知られましたが、鬼貫は清潔であくまで門人を持つことを嫌ったため、没後は影を薄めました。
摂津国伊丹の酒造家 油屋の3男に生まれ、伊丹資本を背景として乞われて各地の藩政改革に赴きました。貞享2(1685)年に学問修行のために大坂に出て以降、故郷に住んだのは元禄8(1695)年~16年間に過ぎず、後は大坂や京都に住むことが多かったそうです。
8歳で「こいこいと いえど蛍が とんで行く」と詠んで松江維舟(重頼)に点を受け、16歳の時に伊丹に来住した維舟門 西山宗旦に教えを受け、また宗因にも心を寄せ、25歳で「誠の他に俳諧なし」との悟りを開いて率直で平易な俳風を目指しました。この頃から芭蕉への親近感を覚え、後に蕉門と交わりました。
口語調の俳諧が鬼貫の真骨頂です。鬼貫の「誠の俳諧」は、芭蕉を経て加舎白雄、与謝蕪村を含む天明期の俳人たちにより、漸く結実したように思えます。
町人の出ですが、生涯、武士としての矜持を保ち、俳諧は余技と捉え、晩年は医術で生計を立てたそうです。自伝に『藤原宗邇伝』、俳業の記録に『仏兄七久留万』があります。
大坂の鳳林寺に葬られましたが、間もなく伊丹の墨染寺にある6歳で亡くなった長男 永太郎の墓に分骨され、遺髪も納められています。 -
「さくらの丘」のゾーンマップです。
梅輪紋病の早期根絶のために伐採された梅林の跡地には桜の苗木が植栽され、市民団体の「伊丹の自然を守り育てる会」と「みどり豊かな伊丹づくり」の協力の下、親子連れの市民160名が参加して平成29年3月20日に植樹式が行われ、緑ヶ丘公園梅林跡地は新たに「さくらの丘」として生まれ変わりました。
その後、市民有志で「さくらの丘見守り隊」が発足し、平成30年4月に「伊丹市公園アダプト事業」としてさくらの丘見守り隊を支援していくことになりました。アダプト (Adopt) とは「○○を養子にする」の意味です。一定区画の公共の場所を養子にみたて、市民が我が子のように愛情をもって面倒をみて(清掃美化を行い)、行政がこれを支援する制度です。 -
さくらの丘
このゾーンには河津桜が集結されています。
幹の太い河津桜は伊丹市役所から移植されてきたものです。
市役所北側の広場内に植樹されていたものですが、本庁舎の建て替え工事のために移植されることになり緑ヶ丘公園へやってきました。 -
さくらの丘
河津桜というのは、その名の通り静岡県伊豆半島にある河津町で、1955年に発見されたカンヒザクラとオオシマザクラの自然交配種となる早咲きの桜です。例年2月上旬~3月上旬にかけて見頃を迎えます。緑ヶ丘公園には14本の河津桜が植えられています。
因みに、伊丹市内は、河津桜をここの他にも笹原公園や昆陽南公園、伊丹スカイパークにも植樹されています。
皆さんの春も期待に満ち溢れた素敵な春になりますように♪ -
さくらの丘
伊丹市東野地区は古くから日本3大苗木産地として栄え、優れた接木技術を有する苗木の里です。現在でも桜や柑橘類など果樹の苗木や果実づくりが盛んです。米国ワシントンD.C.のポトマック河畔には伊丹市東野産の苗木から育った桜並木があり、世界の桜名所の一つに数えられています。
毎年3月末~4月初旬の開花時には、盛大に「桜まつり」が開催され、全米から観光客が訪れ、パレードやその年の「桜の女王」が選ばれます。この桜は明治時代の末期に米国タフト大統領夫人の希望により、往時の尾崎行雄 東京市長が贈呈したしたものです。
その送られた桜の苗木というのは、東京の荒川堤の五色桜を穂木にし、台木づくりは実は伊丹市の植木の産地である東野村で育てられました。
つまり、日米友好のシンボルとして100年以上の星霜を経て今も多くの人々に親しまれているこの桜のルーツは伊丹ということです。このことはあまり知られていませんが、伊丹市民にとり大きな誇りであり、この事実について認識を深め、次世代へ語り継いでいきたいものです。 -
ツグミ
スズメ目ヒタキ科ツグミ属に分類され、白っぽい眉と胸に個性的で優美な斑模様があるのが特徴のムクドリサイズの冬鳥です。
和名は冬季に飛来した際に聞こえた鳴き声が夏季(シベリアへ戻って繁殖)になると聞こえなくなる(鳴かずに口をつぐんでいると考えられていた)ことに由来するとの説があります。また、地面を跳ねるように飛んでエサを採る「ホッピング」と呼ばれる挙動から、昔は鳥馬(ちょうま)と呼ばれていたこともあります。 -
さくらの丘 サンシュユ
河津桜を借景に咲き誇るサンシュユを激写!
ミズキ科ミズキ属の中国原産の小高木です。春先に葉の出る前に黄色の小花を一面に付けることから「春黄金花(ハルコガネバナ)」とも呼ばれます。また、秋にはグミに似た赤い実を付けることから「アキサンゴ」とも呼ばれます。熟した実から種を取り除き、乾燥した果肉が山茱萸と呼ばれる生薬になります。これを果実酒にしたものは古くから滋養強壮や疲労回復の民間薬として利用されています。
花言葉は「持続」「耐久」。 -
さくらの丘 マンサク
マンサク科マンサク属の落葉小高木。マンサクの語源は不祥ですが、春一番に咲くことから「まず咲く」「真っ先」が転訛したとの説があります。また、多数の花を付けることから作物の豊年満作を占う植物として古くから親しまれており、そのことから「豊年満作」を祈願して命名されたとも言われています。
花言葉は「ひらめき」「神秘」。因みに「神秘」という花言葉は、マンサクの木には神秘的な力が宿るとして占いに使われていたことが由来だそうです。 -
さくらの丘 10月桜
園内に数本ある10月桜は昨年9月末に開花しました。
そのうちの1本は未だに数個の花を付けています。 -
さくらの丘 春めき桜
神奈川県南足柄市で開発された早咲きの品種です。河津桜と同じくソメイヨシノより一足早く咲き出すことで知られ、春の訪れを告げる桜とも言えます。元々は「足柄桜」と呼ばれ、同市の農家が育成し2000年に品種登録された新しい品種で、カンヒザクラとシナミザクラの交雑種とされます。
色は、ソメイヨシノよりピンクの色が濃く、河津桜よりも薄い。 -
さくらの丘 春めき桜
淡いピンク色の花弁とかすかな甘い芳香が特徴の桜です。
4月開花の『ソメイヨシノ』は「新入生を迎える桜」ですが、『春めき』は3月に開花することから「卒業生を送る桜」として愛されています。 -
下池 亭(ちん)「賞月亭」
下池には、中国古来の庭園建造物である四阿が水面に映えています。1990年に中国仏山市との友好都市締結5周年と伊丹市市制50周年を記念して寄贈されました。広東省 佛山市にある中山公園内の「迎春亭」がモデルだそうで、今では友好のシンボルとして市民に親しまれ、憩いの場になっています。フォトジェニックな異国情緒に浸れる一隅です。
伝統建築の一種で、ここで休憩したり、雨や日光を避けて涼んだり、景色や季節の移ろいを眺めたりすることができ、欧州や中東の庭園にみられるパビリオンやガゼボとほぼ同様の役割を果たしています。このように水上や水辺に建てられている亭は「榭(しゃ)」もしくは「水榭(すいしゃ)」などとも呼ばれます。 -
下池 「賞月亭」
広東省 佛山市の中山公園は佛山市禅城区祖廟通りの北東にある鳳江川の畔にあり、1930年に竣工した孫文を顕彰した公園です。因みに、孫文は辛亥革命を主導した「中国革命の父」であり、中華民国では中国最初の共和制の創始者として長らく国父と呼ばれ、近年は中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」の「国父」として再評価が進んでいます。中国では孫文ではなく孫中山(ちゅうざん)の名称が一般的であり、これが中山公園の名の由来です。 -
下池 「賞月亭」
建物に渡る白亜の大理石製の回廊はこのようにジグザグを描き、亭からは池の周りを見渡せます。 -
下池 「賞月亭」
金色に輝く「るり瓦」や床の石材、回廊の白亜の大理石などは全て中国から運ばれ、仏山市の技術者が伊丹市の株式会社「染の川組」の協力を得て組み立てたものです。1辺4m、水面からの高さ9.2mあり、上方から見ると六角形をしています。屋根は優雅な曲線を描き、その先端は大きく反り返っており、象の鼻を彷彿とさせます。 -
下池 「賞月亭」
屋根裏の細工も巧妙です。
繊細なレース編みのようなアイアンワークも「Good Job!」です。 -
下池 「賞月亭」
ベンチも設けてあり、このように一休みすることができます。
公開:火・木曜の午前10時~午後3時 -
鴻臚館の脇の沢には石組のようなものも見られます。
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太鼓橋を渡ってそぞろ歩くといつのまにか周囲は竹林に衣替えです。
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鬱蒼とした竹林も一味違う雰囲気が漂います。
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下池
池の対岸から「賞月亭」と「鴻臚館」を眺めます。
因みに、「賞月亭」の「賞月」は「月を愛でる」という意味です。
ここに満月がかかれば。水面に映える逆さ満月との共演が満喫できそうです。 -
下池
鴻臚館と竹林の位置関係はこのようになっています。
上池と下池は「平成いたみ八景」のひとつです。
下池には睡蓮もあり、毎年5~8月頃まで可憐な白い花を咲かせます。 -
下池
鴻臚館をズームアップ。
鴻臚館については次回の旅行記で詳細をレポいたします。 -
下池
池の畔にある松は池に向かって伸びています。 -
下池
この松は何かの要因で倒れた訳ではなく、元々真横に向かって成長していることが判ります。 -
下池 ラクウショウ(落羽松)
池の中に巨木が生えています。
ヒノキ科ヌマスギ属の北米原産の落葉針葉高木です。湿潤地に適し、沼沢地での根元が少し水に浸かった状態(冠水)で自生することが多く、このためヌマスギとも呼ばれます。日本に渡来したのは明治時代で、よく似たメタセコイアと共に公園などに植栽されています。
また、ラクウショウの丸い実には沢山の油が含まれているそうです。ラクウショウの周辺の水面に油が浮いていることがありますが、これは池に落ちた実から油が流れ出たものです。 -
下池 ラクウショウ
鍾乳石のような尖った突起物は膝根(しっこん)あるいは呼吸根(気根)と呼ばれ、ラクウショウの根が呼吸するために地表に突出したものです。ラクウショウは他の樹木が育つことの適わないような湿地でも生育できる特徴があります。それは湿地では膝根と呼ばれる呼吸根を地中から出し呼吸できる仕組みを発達させたからです。
この膝根が林立している風景は神秘的ですが、マングローブ等にも稀に見られるそうです。 -
緑ヶ丘公園近隣のとある民家の桜です。
この時期に満開を迎える桜の種類は少ないはずですが、花弁の大きさがソメイヨシノより小振りですので山桜の一種かもしれません。 -
色白でキュートな桜です。
緑ヶ丘公園の周囲には大邸宅が目白押しです。よくよく考えれば、伊丹は白洲次郎氏所縁の別邸「白洲屋敷」があった土地柄です。その割に高級住宅街としての知名度が低いのは不幸なことです。良質な近代建築が消え行く最中、往時の矢埜市長の英断で緑ヶ丘公園に「鴻臚館」が建てられました。末長く市民に愛される文化財になって欲しいなと思います。 -
ハクモクレンとシモクレンの競演です。
さて、白洲次郎氏と言えば日本で最初にジーンズを穿いた男として有名です。芦屋の貿易商の家に生まれ、神戸一中時代は野球部とサッカー部に所属し、短気で乱暴者として通っていたそうです。所謂アメ車を乗り回し、ケンブリッジ大学を卒業し、実家が倒産したために帰国を余儀なくされたそうです。
終戦直後、吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合い、マッカーサーに「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた風雲児です。彼の屋敷は約4万坪、敷地内には美術館や牡丹畑があったそうです。伊丹市春日丘4丁目に屋敷跡のモニュメントが建てられていますが、この地は白洲次郎氏の父 文平が敷地に美術館付きの豪華な屋敷を建てた場所です。白洲次郎氏もかつてここに住んでいたことがあり、妻 正子さんとの婚姻届は昭和5年に伊丹町役場に届け出たそうです。
この続きは早春賦 北摂伊丹②緑ヶ丘公園(後編:鴻臚館)にてお届けします。
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