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今回は南院とその周辺をレポいたします。<br />南院は観音堂を中心にしたエリアということもあり、境内ではひと際高い位置に鎮座しています。それ故に展望台からの琵琶湖方面の眺めは格別です。<br />また、今回のテーマ「錦秋」に関してはこのエリアにある「紅葉のトンネル」がメインになります。ここはイロハモミジの古木が密集しており、紅葉のグラデーションが堪能できました。<br />一方、そのトンネルの路傍に寡黙に佇む美しい衆宝観音像も必見です。三十三観音のおひとりですが、慈愛とやさしさに溢れたその表情は癒し効果抜群です。<br />観音堂は西国三十三所観音霊場 第十四番礼所ともなっており、苦行の末に辿り着くという観音霊場のお約束事が待っていました。それでも観月舞台の借景となる琵琶湖や湖東アルプスのたおやかな眺めはひと時の安らぎをもたらしてくれます。「苦あれば楽あり」とは言い得て妙です。<br />境内マップは次のサイトを参照してください。<br />https://miidera1200.jp/information

情緒纏綿 近江逍遥③三井寺(園城寺)南院

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2021/11/25 - 2021/11/25

10位(同エリア1466件中)

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

今回は南院とその周辺をレポいたします。
南院は観音堂を中心にしたエリアということもあり、境内ではひと際高い位置に鎮座しています。それ故に展望台からの琵琶湖方面の眺めは格別です。
また、今回のテーマ「錦秋」に関してはこのエリアにある「紅葉のトンネル」がメインになります。ここはイロハモミジの古木が密集しており、紅葉のグラデーションが堪能できました。
一方、そのトンネルの路傍に寡黙に佇む美しい衆宝観音像も必見です。三十三観音のおひとりですが、慈愛とやさしさに溢れたその表情は癒し効果抜群です。
観音堂は西国三十三所観音霊場 第十四番礼所ともなっており、苦行の末に辿り着くという観音霊場のお約束事が待っていました。それでも観月舞台の借景となる琵琶湖や湖東アルプスのたおやかな眺めはひと時の安らぎをもたらしてくれます。「苦あれば楽あり」とは言い得て妙です。
境内マップは次のサイトを参照してください。
https://miidera1200.jp/information

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 紅葉のトンネル<br />微妙寺から西国三十三所観音霊場 第十四番礼所でもある観音堂へと続く参道は、「<br />紅葉のトンネル」と称され、両脇のイロハモミジの古木が色鮮やかなトンネルを創り出しています。参道には散紅葉もちらほら見られます。<br />また、手前にある緑の葉とのコントラストが絶妙です。

    紅葉のトンネル
    微妙寺から西国三十三所観音霊場 第十四番礼所でもある観音堂へと続く参道は、「
    紅葉のトンネル」と称され、両脇のイロハモミジの古木が色鮮やかなトンネルを創り出しています。参道には散紅葉もちらほら見られます。
    また、手前にある緑の葉とのコントラストが絶妙です。

  • 紅葉のトンネル<br />参道の上空がグラデーションに彩られた紅葉のトンネルで覆われる景観は圧巻です。

    紅葉のトンネル
    参道の上空がグラデーションに彩られた紅葉のトンネルで覆われる景観は圧巻です。

  • 紅葉のトンネル 衆宝観音<br />力軒から観音堂へ向かうなだらかな参道の左脇、ツブラジイ(椎)の古木に身を寄せるように佇んでおられます。<br />観音像は、右手を地の上に置き、左手を立膝の上に置く特異な姿をなされています。ふっくらとした顔立ちをなされ、三十三観音のひとりとされます。最大の特徴は立膝でうつむき加減が半端ないことです。例えれば、ロダン作『考える人』を彷彿とさせます。<br />衆宝観音は、一般的には羅刹の難を救う観音さまとされ、ひとりでも祈れば他の人も救われるという教えを持ちます。

    紅葉のトンネル 衆宝観音
    力軒から観音堂へ向かうなだらかな参道の左脇、ツブラジイ(椎)の古木に身を寄せるように佇んでおられます。
    観音像は、右手を地の上に置き、左手を立膝の上に置く特異な姿をなされています。ふっくらとした顔立ちをなされ、三十三観音のひとりとされます。最大の特徴は立膝でうつむき加減が半端ないことです。例えれば、ロダン作『考える人』を彷彿とさせます。
    衆宝観音は、一般的には羅刹の難を救う観音さまとされ、ひとりでも祈れば他の人も救われるという教えを持ちます。

  • 紅葉のトンネル 衆宝観音<br />駒札には「財宝が貯まり、福徳を授けられ、出世が叶う」とあります。<br />ここで言う財宝とは、私達の心の宝、つまり仏性を指しており、現世利益追求の姿勢が鮮明です。<br />台座に彫られた3個の蓮華にもそれぞれ意味があります。<br />未開の蓮華は未だこの世に姿を現さない我々の状態を、半開の蓮華は現世に生きる我々を、全開の蓮華は完成された人格を表すそうです。

    紅葉のトンネル 衆宝観音
    駒札には「財宝が貯まり、福徳を授けられ、出世が叶う」とあります。
    ここで言う財宝とは、私達の心の宝、つまり仏性を指しており、現世利益追求の姿勢が鮮明です。
    台座に彫られた3個の蓮華にもそれぞれ意味があります。
    未開の蓮華は未だこの世に姿を現さない我々の状態を、半開の蓮華は現世に生きる我々を、全開の蓮華は完成された人格を表すそうです。

  • 紅葉のトンネル 衆宝観音<br />足元はこのように奉納されたカラフルな数珠などで埋め尽くされています。<br />この寡黙ながら慈愛とやさしさに溢れた佇まいが、多くの方々の心をとらえて離さないようです。

    紅葉のトンネル 衆宝観音
    足元はこのように奉納されたカラフルな数珠などで埋め尽くされています。
    この寡黙ながら慈愛とやさしさに溢れた佇まいが、多くの方々の心をとらえて離さないようです。

  • 紅葉のトンネル 衆宝観音<br />紅葉とのコラボレーションです。

    紅葉のトンネル 衆宝観音
    紅葉とのコラボレーションです。

  • 紅葉のトンネル<br />観音堂方面から力軒方面を振り返ります。

    紅葉のトンネル
    観音堂方面から力軒方面を振り返ります。

  • 紅葉のトンネル<br />真紅に染まる途上のグラデーションが見る位置で表情を違えます。

    紅葉のトンネル
    真紅に染まる途上のグラデーションが見る位置で表情を違えます。

  • 毘沙門堂<br />仏壇上の厨子に木造 毘沙門天像を祀るため毘沙門堂の名があります。宝形造、桧皮葺の禅宗様の小仏堂ですが、近年花狭間部分に極彩色が復元され、桃山建築の華やかな系譜が蘇っています 。<br />元々は三井寺五別所のひとつの尾蔵寺の南勝坊境内に1616(元和2)年に建立されましたが、1909(明治42)年に南院円宗谷にあった三尾社の下方に移築され、1956(昭和31)年の解体修理に際し現在地に移築されました。

    毘沙門堂
    仏壇上の厨子に木造 毘沙門天像を祀るため毘沙門堂の名があります。宝形造、桧皮葺の禅宗様の小仏堂ですが、近年花狭間部分に極彩色が復元され、桃山建築の華やかな系譜が蘇っています 。
    元々は三井寺五別所のひとつの尾蔵寺の南勝坊境内に1616(元和2)年に建立されましたが、1909(明治42)年に南院円宗谷にあった三尾社の下方に移築され、1956(昭和31)年の解体修理に際し現在地に移築されました。

  • 毘沙門堂<br />石積基壇上に建ち、円柱には上部をわずかにすぼませた粽を施し、礎盤た頭貫、木鼻、台輪、桟唐戸などの禅宗様を基調としますが、内外に内法長押を廻らし、組物の間には三つ巴紋のある蟇股を配し、軒裏は二軒繁垂木を配するなど和様も随所に散らしています。

    毘沙門堂
    石積基壇上に建ち、円柱には上部をわずかにすぼませた粽を施し、礎盤た頭貫、木鼻、台輪、桟唐戸などの禅宗様を基調としますが、内外に内法長押を廻らし、組物の間には三つ巴紋のある蟇股を配し、軒裏は二軒繁垂木を配するなど和様も随所に散らしています。

  • 毘沙門堂<br />外観の文様は派手ですが、内部は更に極彩色が強烈だそうです。

    毘沙門堂
    外観の文様は派手ですが、内部は更に極彩色が強烈だそうです。

  • 毘沙門堂から紅葉のトンネルを望む。

    毘沙門堂から紅葉のトンネルを望む。

  • 十八明神<br />観音堂へ上る石段の手前右脇にある十八明神は1836(天保7)年に再建されました。本来は伽藍の守護神ですが、通称「ねずみの宮」と呼ばれ、『平家物語』巻3「頼豪」に登場する頼豪阿闍梨ゆかりの神社です。延暦寺を襲撃した僧侶 頼豪が化けたと伝わる「鉄鼠」を祀っています。京極夏彦著『鉄鼠の檻』のモチーフとなった妖怪として知られていますが、滝沢馬琴は頼豪説話を基に『頼豪阿闍梨恠鼠伝』を創作しています。<br />白河法皇の世、関白 藤原師実の娘 賢子は法皇から第一の寵愛を賜りました。法皇はこの后の御腹から皇子が誕生するよう三井寺の高僧 頼豪阿闍梨に祈願させました。すると間もなく皇子が誕生し、その褒美に念願の三井寺戒壇道場建立の勅許を授かりました。 <br />ところが、宗教上で対立する延暦寺の横暴な強訴により勅許が反古にされ、これに激怒した頼豪は21日間の護摩行を行って壇上の煙となって果てました。その怨念が生まれたばかりの敦文親王を呪い殺し、また、鉄の牙、石の体をした8万4千匹もの「鉄鼠」となって延暦寺を襲撃し、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと 『太平記』は語ります。因みに『源平盛衰記』巻10には、三井寺に戒壇を許可するか否かで悩んでいた白河法皇の夢枕に赤山明神が現れ、大きな鏑矢で威嚇したため、結局、許可はしなかったというエピソードが記されています。<br />この社は、この時の鼠の霊を祀っているため、北側にある比叡山方向に向けて建立されたとも伝わります。往時、貴重な経典や仏像仏具を容赦なく噛る鼠が如何に恐れられていたか、その被害が祟りとして捉えられても無理はありません。日吉大社にはその鼠を封じ込めたとされる「鼠社」もあります。

    十八明神
    観音堂へ上る石段の手前右脇にある十八明神は1836(天保7)年に再建されました。本来は伽藍の守護神ですが、通称「ねずみの宮」と呼ばれ、『平家物語』巻3「頼豪」に登場する頼豪阿闍梨ゆかりの神社です。延暦寺を襲撃した僧侶 頼豪が化けたと伝わる「鉄鼠」を祀っています。京極夏彦著『鉄鼠の檻』のモチーフとなった妖怪として知られていますが、滝沢馬琴は頼豪説話を基に『頼豪阿闍梨恠鼠伝』を創作しています。
    白河法皇の世、関白 藤原師実の娘 賢子は法皇から第一の寵愛を賜りました。法皇はこの后の御腹から皇子が誕生するよう三井寺の高僧 頼豪阿闍梨に祈願させました。すると間もなく皇子が誕生し、その褒美に念願の三井寺戒壇道場建立の勅許を授かりました。
    ところが、宗教上で対立する延暦寺の横暴な強訴により勅許が反古にされ、これに激怒した頼豪は21日間の護摩行を行って壇上の煙となって果てました。その怨念が生まれたばかりの敦文親王を呪い殺し、また、鉄の牙、石の体をした8万4千匹もの「鉄鼠」となって延暦寺を襲撃し、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと 『太平記』は語ります。因みに『源平盛衰記』巻10には、三井寺に戒壇を許可するか否かで悩んでいた白河法皇の夢枕に赤山明神が現れ、大きな鏑矢で威嚇したため、結局、許可はしなかったというエピソードが記されています。
    この社は、この時の鼠の霊を祀っているため、北側にある比叡山方向に向けて建立されたとも伝わります。往時、貴重な経典や仏像仏具を容赦なく噛る鼠が如何に恐れられていたか、その被害が祟りとして捉えられても無理はありません。日吉大社にはその鼠を封じ込めたとされる「鼠社」もあります。

  • 十八明神<br />水を差すようで恐縮ですが、先の説話は史実ではないと窺えます。それは頼豪の没年が1084(応徳元)年、敦文親王の逝去が1077(承保4)年であり、明らかに時系列が食い違うからです。この説話誕生の背景には、三井寺にとって戒壇道場設立が長年の悲願であり、それを延暦寺の横槍により認められなかったことの無念をアピールする狙いがあったと窺えます。往時は戒律を授かることで国家公認の僧侶と認められる仕組みであり、その儀式を行う場が戒壇でした。<br />因みに、天台宗では大乗戒壇設立のため最澄が身を粉にして奔走しましたが、延暦寺に勅許が降りたのはその死の1週間後のことでした。<br /><br />向拝柱の几帳面取りや虹梁にある唐草と蟇股の彫りは江戸時代の作風です。一方、柱上の組物を舟肘木、妻飾りも豕扠首(いのこさす)とするなど奈良時代の古風な意匠を凝らしています。

    十八明神
    水を差すようで恐縮ですが、先の説話は史実ではないと窺えます。それは頼豪の没年が1084(応徳元)年、敦文親王の逝去が1077(承保4)年であり、明らかに時系列が食い違うからです。この説話誕生の背景には、三井寺にとって戒壇道場設立が長年の悲願であり、それを延暦寺の横槍により認められなかったことの無念をアピールする狙いがあったと窺えます。往時は戒律を授かることで国家公認の僧侶と認められる仕組みであり、その儀式を行う場が戒壇でした。
    因みに、天台宗では大乗戒壇設立のため最澄が身を粉にして奔走しましたが、延暦寺に勅許が降りたのはその死の1週間後のことでした。

    向拝柱の几帳面取りや虹梁にある唐草と蟇股の彫りは江戸時代の作風です。一方、柱上の組物を舟肘木、妻飾りも豕扠首(いのこさす)とするなど奈良時代の古風な意匠を凝らしています。

  • 紅葉のトンネルを抜けて観音堂への石段を登れば、そこには大津市内とその奥に琵琶湖を一望できる眺望抜群のスポットが待っています。

    紅葉のトンネルを抜けて観音堂への石段を登れば、そこには大津市内とその奥に琵琶湖を一望できる眺望抜群のスポットが待っています。

  • 百体堂<br />1753(宝暦3)年に宝形造で建立され、滋賀県文化財に指定されています。<br />堂内中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像、その左右に西国三十三所観音霊場の本尊像を2段に祀り、右には坂東三十三箇所、左には秩父三十四箇所の本尊を安置しています。観音霊場の数を合計すると確かに100になります。江戸時代中期以降、庶民の間で礼所巡礼が流行りましたが、本堂はその庶民信仰を物語る建物とされます。<br />因みに、特別拝観の期間中は西国三十三体は金堂内陣へ出張されていますので、67体堂という計算になります。

    百体堂
    1753(宝暦3)年に宝形造で建立され、滋賀県文化財に指定されています。
    堂内中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像、その左右に西国三十三所観音霊場の本尊像を2段に祀り、右には坂東三十三箇所、左には秩父三十四箇所の本尊を安置しています。観音霊場の数を合計すると確かに100になります。江戸時代中期以降、庶民の間で礼所巡礼が流行りましたが、本堂はその庶民信仰を物語る建物とされます。
    因みに、特別拝観の期間中は西国三十三体は金堂内陣へ出張されていますので、67体堂という計算になります。

  • 百体堂 大津絵『鬼の寒念仏』<br />百体堂の前には大津絵『鬼の寒念仏』が掲げられています。赤鬼が僧衣を纏う典型的な図案は、慈悲ある姿とは裏腹な偽善者を風刺しています。鬼の住まいは人の心の内にあり、描かれた鬼の角は仏の教えである三毒(貧欲・瞋恚・愚痴)、つまり我見、我執を象徴します。人は自己都合の権化であり、自己の目でものを見、自己が欲するものなど、限りなく角を生やします。大津絵の鬼は、それらをへし折る事を教え、鬼からの救いを示唆するとも伝わります。<br />また、大津絵師は「雷」と「鬼」を区別しません。俵屋宗達が江戸時代初期に描いた『風神雷神図屏風』にも雷が登場しますが、この絵が大津絵に影響を与えた可能性が指摘されています。ともあれ、「鬼=雷」が人々に畏れをもって親しまれていたのは疑いの余地がなく、本来怖いはずの鬼が滑稽な姿を演じる点が大津絵の鬼が面白がられた理由のようです。

    百体堂 大津絵『鬼の寒念仏』
    百体堂の前には大津絵『鬼の寒念仏』が掲げられています。赤鬼が僧衣を纏う典型的な図案は、慈悲ある姿とは裏腹な偽善者を風刺しています。鬼の住まいは人の心の内にあり、描かれた鬼の角は仏の教えである三毒(貧欲・瞋恚・愚痴)、つまり我見、我執を象徴します。人は自己都合の権化であり、自己の目でものを見、自己が欲するものなど、限りなく角を生やします。大津絵の鬼は、それらをへし折る事を教え、鬼からの救いを示唆するとも伝わります。
    また、大津絵師は「雷」と「鬼」を区別しません。俵屋宗達が江戸時代初期に描いた『風神雷神図屏風』にも雷が登場しますが、この絵が大津絵に影響を与えた可能性が指摘されています。ともあれ、「鬼=雷」が人々に畏れをもって親しまれていたのは疑いの余地がなく、本来怖いはずの鬼が滑稽な姿を演じる点が大津絵の鬼が面白がられた理由のようです。

  • 大津絵『藤娘』<br />大津市役所一帯にある「大津絵の道」で見かけた大津絵です。<br />4百年、齢を経ぬままの藤娘は大津絵美人画の一代表であり、良縁の符として有名です。黒い着物に藤柄というのが一般的ですが、シキミ(樒)を持って踊る愛宕山参りの風俗から生まれた図ともされます。しかし、大津絵師が何故藤を持たせたのか、その出自ははっきりしないそうです。<br />大津絵は逢坂の関の西側に位置する近江国追分を発祥地とし、旧東海道を旅する人たちの土産や護符として重宝されました。寛永年間(1624~44年)当初は信仰の一環として仏画が描かれましたが、やがて世俗画へと転じ、18世紀頃に教訓的・風刺的な道歌を伴うようになりました。それに加え、『藤娘』は良縁、『鬼の寒念仏』は子どもの夜泣き、『雷公』は雷除けなど、護符としての効能も唱えられるようになり、江戸時代を通じて東海道大津宿の名物となりました。

    大津絵『藤娘』
    大津市役所一帯にある「大津絵の道」で見かけた大津絵です。
    4百年、齢を経ぬままの藤娘は大津絵美人画の一代表であり、良縁の符として有名です。黒い着物に藤柄というのが一般的ですが、シキミ(樒)を持って踊る愛宕山参りの風俗から生まれた図ともされます。しかし、大津絵師が何故藤を持たせたのか、その出自ははっきりしないそうです。
    大津絵は逢坂の関の西側に位置する近江国追分を発祥地とし、旧東海道を旅する人たちの土産や護符として重宝されました。寛永年間(1624~44年)当初は信仰の一環として仏画が描かれましたが、やがて世俗画へと転じ、18世紀頃に教訓的・風刺的な道歌を伴うようになりました。それに加え、『藤娘』は良縁、『鬼の寒念仏』は子どもの夜泣き、『雷公』は雷除けなど、護符としての効能も唱えられるようになり、江戸時代を通じて東海道大津宿の名物となりました。

  • 大津絵『瓢箪鯰』 <br />将軍 足利義持が画僧 如拙に描かせた禅画『瓢鯰図』(国宝)が京都 妙心寺にあります。その図柄は襦袢姿の老僧が瓢箪を手にして鯰を押さえ捕ろうとしたもので、猿は登場しません。大津絵では老僧を猿に置き換えることで笑いを誘いました。<br />原典が禅画だけあり、その意味合いは多岐に解釈されますが、口の狭い瓢箪で大きくてヌルヌルする鯰を捕らえようとするのは要領を得ないことであり、思慮の足りない行為を風刺しています。つまり、道理に適わないことを無理に行う姿を戒める教訓図です。<br />一般的には「憎らしい人の心もなまず哉」という句を画に添え、のらりくらりとした人心を諷刺しています。<br />「瓢箪に似たる思案の猿知恵でいつ本心の鯰おさへむ」

    大津絵『瓢箪鯰』 
    将軍 足利義持が画僧 如拙に描かせた禅画『瓢鯰図』(国宝)が京都 妙心寺にあります。その図柄は襦袢姿の老僧が瓢箪を手にして鯰を押さえ捕ろうとしたもので、猿は登場しません。大津絵では老僧を猿に置き換えることで笑いを誘いました。
    原典が禅画だけあり、その意味合いは多岐に解釈されますが、口の狭い瓢箪で大きくてヌルヌルする鯰を捕らえようとするのは要領を得ないことであり、思慮の足りない行為を風刺しています。つまり、道理に適わないことを無理に行う姿を戒める教訓図です。
    一般的には「憎らしい人の心もなまず哉」という句を画に添え、のらりくらりとした人心を諷刺しています。
    「瓢箪に似たる思案の猿知恵でいつ本心の鯰おさへむ」

  • 大津絵『鬼鼠柊図』<br />柊の葉をくわえた小さな鼠が柱にしがみつく鬼を追い詰めるという滑稽な画題です。大黒天が祀られる台所に出没する鼠は大黒天の使いとされ、また、鼠がくわえている柊の葉は、魔除けに効果があると信じられ、節分の時には戸口に添えられていました。<br />つまり、弱い立場のものであっても相手の弱点を見抜けば対抗できることを示唆しており、そこに魔除けや厄除けの意味を込めたものと思われます。<br />因みに、芭蕉も大津絵で一句詠んでいます。元禄4年、大津で筆始を詠んだものです。<br />「大津絵の 最初の筆は 何仏」<br />寛永年間に描かれ始めた当初、大津絵は仏画でした。<br />「三日口を閉ぢて、題ス 正月四日ニ」と前詞があるのは、正月3ケ日には大津絵の絵師も「仏」の絵は描けなかったということで、4日に「さて、どの仏様から描き始めるのかな」という句です。書初めはめでたいものを書くのが一般的ですが、大津絵の書初めは何仏を描くのかなと、ふと気にとめたのでしょう。

    大津絵『鬼鼠柊図』
    柊の葉をくわえた小さな鼠が柱にしがみつく鬼を追い詰めるという滑稽な画題です。大黒天が祀られる台所に出没する鼠は大黒天の使いとされ、また、鼠がくわえている柊の葉は、魔除けに効果があると信じられ、節分の時には戸口に添えられていました。
    つまり、弱い立場のものであっても相手の弱点を見抜けば対抗できることを示唆しており、そこに魔除けや厄除けの意味を込めたものと思われます。
    因みに、芭蕉も大津絵で一句詠んでいます。元禄4年、大津で筆始を詠んだものです。
    「大津絵の 最初の筆は 何仏」
    寛永年間に描かれ始めた当初、大津絵は仏画でした。
    「三日口を閉ぢて、題ス 正月四日ニ」と前詞があるのは、正月3ケ日には大津絵の絵師も「仏」の絵は描けなかったということで、4日に「さて、どの仏様から描き始めるのかな」という句です。書初めはめでたいものを書くのが一般的ですが、大津絵の書初めは何仏を描くのかなと、ふと気にとめたのでしょう。

  • 鐘楼<br />1814(文化11)年に上棟されたことが棟札に残されており、滋賀県文化財に指定されています。<br />

    鐘楼
    1814(文化11)年に上棟されたことが棟札に残されており、滋賀県文化財に指定されています。

  • 鐘楼と梵鐘<br />当初この鐘楼には「童子因縁之鐘」と称された梵鐘が吊るされていたそうです。<br />この鐘を鋳造する資金を集めるために僧侶たちは大津の町々を托鉢行脚したのですが、その時の逸話があります。<br />ある富豪の家で勧進を願った際、その家主は名うての吝嗇家であり、「うちには金など一文もない。子どもなら沢山いるので何人でも寄進しよう」と勧進を拒みました。<br />やがて梵鐘が完成すると、不思議にもその鐘には3人の子どもの遊ぶ姿が浮かび上がっており、その日にかの富豪の子ども3人が行方不明になったそうです。その後、吝嗇家の富豪は慈悲深い人物に改心したと伝わります。

    鐘楼と梵鐘
    当初この鐘楼には「童子因縁之鐘」と称された梵鐘が吊るされていたそうです。
    この鐘を鋳造する資金を集めるために僧侶たちは大津の町々を托鉢行脚したのですが、その時の逸話があります。
    ある富豪の家で勧進を願った際、その家主は名うての吝嗇家であり、「うちには金など一文もない。子どもなら沢山いるので何人でも寄進しよう」と勧進を拒みました。
    やがて梵鐘が完成すると、不思議にもその鐘には3人の子どもの遊ぶ姿が浮かび上がっており、その日にかの富豪の子ども3人が行方不明になったそうです。その後、吝嗇家の富豪は慈悲深い人物に改心したと伝わります。

  • 鐘楼<br />残念なことに「童子因縁之鐘」は戦時中に金属供出され、現在は「朝鮮鐘(重文)」を模鋳した梵鐘が吊られています。<br />因みに朝鮮鐘とは、朝鮮半島で主に統一新羅時代から高麗時代に鋳造された銅製の鐘の総称です。琵琶湖文化館に寄託された「朝鮮鐘」は、鐘身に天衣をなびかせ飛来する天人像を鋳造した逸品です。銘文には中国の年号「太平12年」とあり、高麗では徳宗1年に当たる1032年の鋳造です。古くから三井寺金堂に秘蔵されていた鐘です。現在は文化財収蔵庫で見られます。

    鐘楼
    残念なことに「童子因縁之鐘」は戦時中に金属供出され、現在は「朝鮮鐘(重文)」を模鋳した梵鐘が吊られています。
    因みに朝鮮鐘とは、朝鮮半島で主に統一新羅時代から高麗時代に鋳造された銅製の鐘の総称です。琵琶湖文化館に寄託された「朝鮮鐘」は、鐘身に天衣をなびかせ飛来する天人像を鋳造した逸品です。銘文には中国の年号「太平12年」とあり、高麗では徳宗1年に当たる1032年の鋳造です。古くから三井寺金堂に秘蔵されていた鐘です。現在は文化財収蔵庫で見られます。

  • 観音堂<br />観音堂の周囲には堂宇が集められており、この一帯を「札所伽藍」と呼んでいます。<br />観音堂の創建は古く、寺伝によると、1072(延久4)年に後三条天皇の病気平癒を祈願して建立されたと伝えます。元々は聖願寺や正法寺と呼ばれ、鎌倉時代の『園城寺境内古図』では現在地よりもはるか上部の長等山山頂にほど近い華の谷にありました。それ故にここへ登るのは道が険しく、また女人結界ゆえ婦人方の参詣は許されず、観音さまの御利益を願う人々からはとても残念がられていました。<br />人々の信奉を集めるための方策のひとつが観音堂の移転でした。三井寺境内や琵琶湖を一望できる一等地に移すことで女人禁制も解かれました。現在は西国観音霊場第14番礼所となっています。

    観音堂
    観音堂の周囲には堂宇が集められており、この一帯を「札所伽藍」と呼んでいます。
    観音堂の創建は古く、寺伝によると、1072(延久4)年に後三条天皇の病気平癒を祈願して建立されたと伝えます。元々は聖願寺や正法寺と呼ばれ、鎌倉時代の『園城寺境内古図』では現在地よりもはるか上部の長等山山頂にほど近い華の谷にありました。それ故にここへ登るのは道が険しく、また女人結界ゆえ婦人方の参詣は許されず、観音さまの御利益を願う人々からはとても残念がられていました。
    人々の信奉を集めるための方策のひとつが観音堂の移転でした。三井寺境内や琵琶湖を一望できる一等地に移すことで女人禁制も解かれました。現在は西国観音霊場第14番礼所となっています。

  • 観音堂<br />観音堂の移転にまつわる逸話が残されています。<br />1477(文明9)年のある夜、寺の僧侶たちの夢に淋しげな様子の老僧が現れ、 「自分は華の谷に住まう者だが、今の場所では大悲無辺の誓願を達成できないので、これからは山を下り人々の参詣し易い地に移り、衆生を利益したい」と告げました。<br />その4年後、観音堂は現在の地に降ろされ、以来、四季を通じて善男善女が参詣できるようになったそうです。 しかし、1686(貞亨3)年に火災に遭い、その3年後に再建されたものが現在の建物です。

    観音堂
    観音堂の移転にまつわる逸話が残されています。
    1477(文明9)年のある夜、寺の僧侶たちの夢に淋しげな様子の老僧が現れ、 「自分は華の谷に住まう者だが、今の場所では大悲無辺の誓願を達成できないので、これからは山を下り人々の参詣し易い地に移り、衆生を利益したい」と告げました。
    その4年後、観音堂は現在の地に降ろされ、以来、四季を通じて善男善女が参詣できるようになったそうです。 しかし、1686(貞亨3)年に火災に遭い、その3年後に再建されたものが現在の建物です。

  • 観音堂<br />正堂と手前の礼堂を合の間で繋ぐ密教系観音堂の古い形式を留め、正堂は極彩色に彩られた建物で質素な礼堂とは真逆になっています。内陣には元禄期の華やかな意匠を魅せ、多数の絵馬が奉納されており、その中には観音堂再建の様子を描いた『石突きの図』やその『落慶図』なども見られます。<br />また、あまり知られていませんが蓮如と親鸞の像も祀られています。戦国時代に延暦寺からの弾圧で本願寺の蓮如が親鸞像を持ち出して三井寺に一時身を寄せていたからです。その後、蓮如は北陸へ布教の旅に出ました。このように他宗派も受容するほど三井寺の懐は深かったのですが、最近親である延暦寺山門宗だけはどうしても許せなかったようです。

    観音堂
    正堂と手前の礼堂を合の間で繋ぐ密教系観音堂の古い形式を留め、正堂は極彩色に彩られた建物で質素な礼堂とは真逆になっています。内陣には元禄期の華やかな意匠を魅せ、多数の絵馬が奉納されており、その中には観音堂再建の様子を描いた『石突きの図』やその『落慶図』なども見られます。
    また、あまり知られていませんが蓮如と親鸞の像も祀られています。戦国時代に延暦寺からの弾圧で本願寺の蓮如が親鸞像を持ち出して三井寺に一時身を寄せていたからです。その後、蓮如は北陸へ布教の旅に出ました。このように他宗派も受容するほど三井寺の懐は深かったのですが、最近親である延暦寺山門宗だけはどうしても許せなかったようです。

  • 観音堂<br />これには後日譚も伝わり、殉教物語『かたた源兵衛の首伝説』と『三井寺寺伝』があります。<br />蓮如は三井寺に親鸞像の返還を求めましたが、三井寺は信徒衆の生首を2つ持ってくれば返すと無理難題を押し付けました。それを聞いた堅田の漁師源兵衛は、父親を説得して自分の首を刎ねてもらいました。源兵衛の父親は、息子の首を三井寺に持参し、もう一つは自分の命を差し出すからと返還を懇願しました。慌てた三井寺は親鸞像を返し、蓮如は「真宗復興の祖は源兵衛である」と涙したと伝えます。その首は、本堅田 光徳寺、小関町 等正寺、三井寺町 両願寺に今も祀られていますが、同じ人物の首が3つもあるのは謎とされています。<br />一方、『三井寺寺伝』によると、本願寺が延暦寺の焼き討ちに遭った際、蓮如を手厚く庇護し、その際に預かった親鸞像も丁重にお守りし、蓮如の願いにより親鸞像を奉るために近松別院を建立した。今、観音堂に奉られている親鸞像は、蓮如自らがそのお礼に彫り、奉納されたものと伝えます。

    観音堂
    これには後日譚も伝わり、殉教物語『かたた源兵衛の首伝説』と『三井寺寺伝』があります。
    蓮如は三井寺に親鸞像の返還を求めましたが、三井寺は信徒衆の生首を2つ持ってくれば返すと無理難題を押し付けました。それを聞いた堅田の漁師源兵衛は、父親を説得して自分の首を刎ねてもらいました。源兵衛の父親は、息子の首を三井寺に持参し、もう一つは自分の命を差し出すからと返還を懇願しました。慌てた三井寺は親鸞像を返し、蓮如は「真宗復興の祖は源兵衛である」と涙したと伝えます。その首は、本堅田 光徳寺、小関町 等正寺、三井寺町 両願寺に今も祀られていますが、同じ人物の首が3つもあるのは謎とされています。
    一方、『三井寺寺伝』によると、本願寺が延暦寺の焼き討ちに遭った際、蓮如を手厚く庇護し、その際に預かった親鸞像も丁重にお守りし、蓮如の願いにより親鸞像を奉るために近松別院を建立した。今、観音堂に奉られている親鸞像は、蓮如自らがそのお礼に彫り、奉納されたものと伝えます。

  • 観音堂 礼堂<br />手前にある礼堂へは昔ながらの風習で土足で上がれます。<br />本尊 如意輪観音像は三井寺中興の祖 智証大師 円珍の目の前に現われ、大師自らが礼拝供養して香木に彫刻されたものと伝わり、33年に一度しか御開帳されない秘仏です。如意輪観音は、衆生に財宝を与え、煩悩を破る仏様であり、観音信仰のルーツとされます。<br />そのお姿は、右膝を立て両足裏を重ね合わせて座り、6本の腕を持ちます。丸みのある柔和な表情の顔を右に傾け、右手一手の指の甲を頬に当てています。その優美な姿から、女性の味方として篤く信仰されてきました。<br />礼堂には「如意輪観音様」の額が掲げられているのですが、本尊とは似ても似つかない造形です。

    観音堂 礼堂
    手前にある礼堂へは昔ながらの風習で土足で上がれます。
    本尊 如意輪観音像は三井寺中興の祖 智証大師 円珍の目の前に現われ、大師自らが礼拝供養して香木に彫刻されたものと伝わり、33年に一度しか御開帳されない秘仏です。如意輪観音は、衆生に財宝を与え、煩悩を破る仏様であり、観音信仰のルーツとされます。
    そのお姿は、右膝を立て両足裏を重ね合わせて座り、6本の腕を持ちます。丸みのある柔和な表情の顔を右に傾け、右手一手の指の甲を頬に当てています。その優美な姿から、女性の味方として篤く信仰されてきました。
    礼堂には「如意輪観音様」の額が掲げられているのですが、本尊とは似ても似つかない造形です。

  • 観音堂 礼堂<br />「厄落とし」の絵馬です。このように「厄」の文字だけが絵馬から外せるようになっており、絵馬を掛ける前にそれを外すことで「厄を落とす」というユニークな発想のものです。<br />掛けられた絵馬の中には厄を落とし忘れた方もいらっしゃるようですが…。<br /><br />江戸時代には安藤広重筆『大津町杉女』という浮世絵が庶民に伝わり、三井寺観音堂参りが大ブレークしました。杉女というのは大津の商家の下女でした。幼少期から観音信仰に篤く、毎月三井寺にある全ての観音さまを参りました。風雨の夜も欠かさず参詣し、それを主人や下人たちは陰で笑っていました。やがて疫病が流行し、商家の者も皆病を患いましたが、唯一杉女だけは床に臥さずに過ごしました。この出来事以来、皆仏力の尊いことを体感して信心するようになりました。<br />また、ある日、杉女が天井裏にある薪を降ろそうと梯子を登っていたところ、突然30束程の薪が崩れ落ち、杉女は真っ逆さまに石臼の上へ落ち、そこへ沢山の薪が落ちてきました。それにも拘わらず怪我のひとつすらありませんでした。杉女が改めて懐を見ると、入れた覚えのない如意輪観音の尊像が出てきたため、益々信心を深くしたそうです。

    観音堂 礼堂
    「厄落とし」の絵馬です。このように「厄」の文字だけが絵馬から外せるようになっており、絵馬を掛ける前にそれを外すことで「厄を落とす」というユニークな発想のものです。
    掛けられた絵馬の中には厄を落とし忘れた方もいらっしゃるようですが…。

    江戸時代には安藤広重筆『大津町杉女』という浮世絵が庶民に伝わり、三井寺観音堂参りが大ブレークしました。杉女というのは大津の商家の下女でした。幼少期から観音信仰に篤く、毎月三井寺にある全ての観音さまを参りました。風雨の夜も欠かさず参詣し、それを主人や下人たちは陰で笑っていました。やがて疫病が流行し、商家の者も皆病を患いましたが、唯一杉女だけは床に臥さずに過ごしました。この出来事以来、皆仏力の尊いことを体感して信心するようになりました。
    また、ある日、杉女が天井裏にある薪を降ろそうと梯子を登っていたところ、突然30束程の薪が崩れ落ち、杉女は真っ逆さまに石臼の上へ落ち、そこへ沢山の薪が落ちてきました。それにも拘わらず怪我のひとつすらありませんでした。杉女が改めて懐を見ると、入れた覚えのない如意輪観音の尊像が出てきたため、益々信心を深くしたそうです。

  • 観音堂 起き上がり地蔵尊 <br />授与していただいたのは、木製のかわいらしいお地蔵様の起き上がり小法師です。<br />何度倒されても起き上ることから縁起が良いとされます。<br />同じタイプで「雲水」のデザインもありましたが、クリスマスシーズンに相応しいこちらにしました。

    観音堂 起き上がり地蔵尊
    授与していただいたのは、木製のかわいらしいお地蔵様の起き上がり小法師です。
    何度倒されても起き上ることから縁起が良いとされます。
    同じタイプで「雲水」のデザインもありましたが、クリスマスシーズンに相応しいこちらにしました。

  • 観音堂 起き上がり地蔵尊 <br />背面には三井寺と書かれています。

    観音堂 起き上がり地蔵尊
    背面には三井寺と書かれています。

  • 観月舞台<br />奉納の芸事などの際にのみ演者が上がることが許されている神聖な舞台です。<br />棟札から、1849(嘉永3)年に建造されたことが判っており、長等山の斜面に沿って足代柱を立てて櫓に組み上げた懸造(舞台造です)。<br />内部は格式の高い折上格天井になっています。

    観月舞台
    奉納の芸事などの際にのみ演者が上がることが許されている神聖な舞台です。
    棟札から、1849(嘉永3)年に建造されたことが判っており、長等山の斜面に沿って足代柱を立てて櫓に組み上げた懸造(舞台造です)。
    内部は格式の高い折上格天井になっています。

  • 観月舞台<br />ユネスコ世界無形文化遺産に登録された能ですが、その中でも有名な演目『三井寺』のクライマックスシーンの舞台となっているのが三井寺の梵鐘です。<br />中秋の名月の三井寺を舞台に母子の再会を描いています。駿河国から行方知らずの我が子を尋ねて清水寺に参詣し、観音さまのお告げに従って三井寺を訪れ、鐘を撞いたことがきっかけとなって生き別れの子どもと巡り会うストーリーです。<br />三井寺を訪れた物狂いの母が、「山寺の春の夕べを来て見れば入相の鐘に花や散るらん。げに惜しめども夢の春と暮れぬらん、…憂き寝ぞかはるこの湖は、波風静かにて秋の夜すがら月澄む、三井寺の鐘ぞさやけき」と鐘を撞きながら舞い狂います。鐘を描いた芸能のうちでも最も優れた作品のひとつとされます。<br />因みに、親子が再開するのは三井寺「講堂」の前という設定になっていますが、さてこの講堂は何処にあったものなのか?

    観月舞台
    ユネスコ世界無形文化遺産に登録された能ですが、その中でも有名な演目『三井寺』のクライマックスシーンの舞台となっているのが三井寺の梵鐘です。
    中秋の名月の三井寺を舞台に母子の再会を描いています。駿河国から行方知らずの我が子を尋ねて清水寺に参詣し、観音さまのお告げに従って三井寺を訪れ、鐘を撞いたことがきっかけとなって生き別れの子どもと巡り会うストーリーです。
    三井寺を訪れた物狂いの母が、「山寺の春の夕べを来て見れば入相の鐘に花や散るらん。げに惜しめども夢の春と暮れぬらん、…憂き寝ぞかはるこの湖は、波風静かにて秋の夜すがら月澄む、三井寺の鐘ぞさやけき」と鐘を撞きながら舞い狂います。鐘を描いた芸能のうちでも最も優れた作品のひとつとされます。
    因みに、親子が再開するのは三井寺「講堂」の前という設定になっていますが、さてこの講堂は何処にあったものなのか?

  • 観月舞台(展望台から俯瞰)<br />上屋は桁行梁間とも一間でしかも四方吹き抜けというシンプルな造りですが、檜皮葺の入母屋屋根は重厚で趣を湛えます。<br />眼下には大津の町並みが広がり、琵琶湖の景観も望めます。

    観月舞台(展望台から俯瞰)
    上屋は桁行梁間とも一間でしかも四方吹き抜けというシンプルな造りですが、檜皮葺の入母屋屋根は重厚で趣を湛えます。
    眼下には大津の町並みが広がり、琵琶湖の景観も望めます。

  • 展望台 大津そろばん記念碑<br />展望台の道標に導かれるように更に石段を登ります。<br />展望台の一画には記念碑が建立されています。その理由は、「大津そろばん」が日本のそろばんの発祥とされているからです。<br />1612(慶長17)年、長崎奉行 長谷川藤広に随行し長崎に赴いた片岡庄兵衛は、明国の帰化人からそろばんの見本と使用方法を授かり帰郷しました。その後、庄兵衛は研究を重ね、中国式そろばんを日本人に適した形に改良し、「大津そろばん」を完成させました。やがて江戸幕府から「御本丸勘定方御用調達」に任命され算盤の家元となり、制作方法の伝授や価格の決定等を一任されました。以来、明治時代初期まで約300年間「大津そろばん」の名声は全国に広まりました。<br />旧東海道の逢坂の関から京都側に下った大谷、追分町付近が発祥地とされ盛んに制作されていたそうですが、明治時代に鉄道開通に伴う強制的な立ち退きや街道筋の寂れ、機械化の立ち遅れ等の影響により完全に消滅したそうです。<br />現在、生産高の8割を占めるのは「播州そろばん」ですが、 天正年間の三木城落城に際して大津に避難していた人々が、「大津そろばん」の技術を習得し持ち帰ったものと伝わります。<br />かつて電卓がもてはやされ、「コンピュータ社会」の掛け声からそろばんが顧みられなくなった時期がありました。しかし、数学の基礎や情緒を司る左脳の発達はコンピュータでは成し遂げられないことから、近年そろばんが見直されているそうです。大津そろばんを生み育ててきた先達も彼岸で安堵しているに違いありません。

    展望台 大津そろばん記念碑
    展望台の道標に導かれるように更に石段を登ります。
    展望台の一画には記念碑が建立されています。その理由は、「大津そろばん」が日本のそろばんの発祥とされているからです。
    1612(慶長17)年、長崎奉行 長谷川藤広に随行し長崎に赴いた片岡庄兵衛は、明国の帰化人からそろばんの見本と使用方法を授かり帰郷しました。その後、庄兵衛は研究を重ね、中国式そろばんを日本人に適した形に改良し、「大津そろばん」を完成させました。やがて江戸幕府から「御本丸勘定方御用調達」に任命され算盤の家元となり、制作方法の伝授や価格の決定等を一任されました。以来、明治時代初期まで約300年間「大津そろばん」の名声は全国に広まりました。
    旧東海道の逢坂の関から京都側に下った大谷、追分町付近が発祥地とされ盛んに制作されていたそうですが、明治時代に鉄道開通に伴う強制的な立ち退きや街道筋の寂れ、機械化の立ち遅れ等の影響により完全に消滅したそうです。
    現在、生産高の8割を占めるのは「播州そろばん」ですが、 天正年間の三木城落城に際して大津に避難していた人々が、「大津そろばん」の技術を習得し持ち帰ったものと伝わります。
    かつて電卓がもてはやされ、「コンピュータ社会」の掛け声からそろばんが顧みられなくなった時期がありました。しかし、数学の基礎や情緒を司る左脳の発達はコンピュータでは成し遂げられないことから、近年そろばんが見直されているそうです。大津そろばんを生み育ててきた先達も彼岸で安堵しているに違いありません。

  • 展望台<br />このように札所伽藍を俯瞰できます。<br />山道帰一著『風水パワースポット紀行』によると、三井寺の建つ場所は、2匹の龍が作り出す地理風水パワースポットで「衆龍相會形」という地勢をしており、龍脈と呼ばれる気の道がぶつかりあうことで創生されているそうです。また、明堂(建物の前のオープンスペース)に池や湖がある地形、つまり前方に広がる琵琶湖が更にエネルギーを高めているそうです。<br />仁義なき戦い「山門寺門の抗争」は1946年以降に収束しましたが、「衆龍相會形」が意味する「百子千孫に及ぶ知名度を得る」の言葉通り、幾度となく法難に遭っても三井寺が不死鳥のように蘇ったのは風水の恩恵であり、名声を得たい人や夢を実現させたい人などにはこの上ないパワースポットと言えます。

    展望台
    このように札所伽藍を俯瞰できます。
    山道帰一著『風水パワースポット紀行』によると、三井寺の建つ場所は、2匹の龍が作り出す地理風水パワースポットで「衆龍相會形」という地勢をしており、龍脈と呼ばれる気の道がぶつかりあうことで創生されているそうです。また、明堂(建物の前のオープンスペース)に池や湖がある地形、つまり前方に広がる琵琶湖が更にエネルギーを高めているそうです。
    仁義なき戦い「山門寺門の抗争」は1946年以降に収束しましたが、「衆龍相會形」が意味する「百子千孫に及ぶ知名度を得る」の言葉通り、幾度となく法難に遭っても三井寺が不死鳥のように蘇ったのは風水の恩恵であり、名声を得たい人や夢を実現させたい人などにはこの上ないパワースポットと言えます。

  • 展望台<br />正面に見える均整のとれた単独峰が三上山(近江富士)です。<br />平将門の乱で功績をあげた田原藤太秀郷がこの山に棲んでいた巨大ムカデを退治したお礼として琵琶湖の龍神から授かったものが「弁慶鐘」だったとの伝説があります。

    展望台
    正面に見える均整のとれた単独峰が三上山(近江富士)です。
    平将門の乱で功績をあげた田原藤太秀郷がこの山に棲んでいた巨大ムカデを退治したお礼として琵琶湖の龍神から授かったものが「弁慶鐘」だったとの伝説があります。

  • 展望台<br />琵琶湖大橋も望めます。<br />琵琶湖を初めて横断し、湖の東と西を直結させた有料橋です。1964(昭和39)年9月に開通し、全長1350m、最大高さ26.3mの鋼鉄製です。汽船が通れるように中央部が高いアーチ型をしているのが特徴です。<br />琵琶湖で最も幅の狭い大津市堅田と守山市今浜を結び、この橋を境に琵琶湖は北湖と南湖に分かれます。<br />今年9月に無料化される予定だでしたが、2029年までに延期されました。問題になったのは年3.5億円とされる橋の維持管理費だそうです。元々有料道路制度は戦後、道路整備を進めるために編み出された手法です。人口減少期に入り税収の拡大が見込めない今、発想の転換が求められています。無料化を巡る議論の先にインフラ維持という課題が見えてくるのは、道路に限った話ではありませんが…。<br />因みに、琵琶湖に架けられている橋は琵琶湖大橋と近江大橋(膳所ー草津:全長1290m)の2本だけです。

    展望台
    琵琶湖大橋も望めます。
    琵琶湖を初めて横断し、湖の東と西を直結させた有料橋です。1964(昭和39)年9月に開通し、全長1350m、最大高さ26.3mの鋼鉄製です。汽船が通れるように中央部が高いアーチ型をしているのが特徴です。
    琵琶湖で最も幅の狭い大津市堅田と守山市今浜を結び、この橋を境に琵琶湖は北湖と南湖に分かれます。
    今年9月に無料化される予定だでしたが、2029年までに延期されました。問題になったのは年3.5億円とされる橋の維持管理費だそうです。元々有料道路制度は戦後、道路整備を進めるために編み出された手法です。人口減少期に入り税収の拡大が見込めない今、発想の転換が求められています。無料化を巡る議論の先にインフラ維持という課題が見えてくるのは、道路に限った話ではありませんが…。
    因みに、琵琶湖に架けられている橋は琵琶湖大橋と近江大橋(膳所ー草津:全長1290m)の2本だけです。

  • 中坂世継地蔵堂<br />観音堂から東側にある石段を少し下った途中にも地蔵堂が佇みます。<br />

    中坂世継地蔵堂
    観音堂から東側にある石段を少し下った途中にも地蔵堂が佇みます。

  • 中坂世継地蔵堂<br />子授けや安産祈願にご利益のある「中坂世継地蔵」が祀られており、現在の建物は1819(文久2)年に宝形造、桟瓦葺、外壁は真壁造白漆喰仕上げで建立され、大津市の文化財に指定されています。<br />江戸時代、なかなか子どもが授からない女性が小さな地蔵菩薩を彫って祈願し奉納したところ、たちまち身籠ったとの伝承が残されています。

    中坂世継地蔵堂
    子授けや安産祈願にご利益のある「中坂世継地蔵」が祀られており、現在の建物は1819(文久2)年に宝形造、桟瓦葺、外壁は真壁造白漆喰仕上げで建立され、大津市の文化財に指定されています。
    江戸時代、なかなか子どもが授からない女性が小さな地蔵菩薩を彫って祈願し奉納したところ、たちまち身籠ったとの伝承が残されています。

  • 浄妙坊(筒井浄妙)坊跡<br />観音堂から水観寺へ導く石段の終点右手に小祠が佇み、石塔を祀っています。この辺りが寺法師 筒井浄妙明秀の住坊跡です。<br />祇園祭の山鉾『浄妙山』は、宇治橋合戦で平氏の敵陣に一番乗りを果たすべく、三井寺僧兵「一来法師」が狭い橋の上で奮戦する快僧「浄妙坊」の頭上を「悪しゅう候、御免あれ」と言いつつ飛び越える刹那を切り取っています。このシーンは、先陣争いとされますが、浄妙坊に疲労が滲むのを見た一来法師が彼を庇うために前に出たとの説もあります。矢面に立った一来法師は、間もなく討死してしまうのですが…。<br />さて、以仁王と源頼政は三井寺から奈良 興福寺へ向かう際に多くの僧兵に護衛させました。中でも 浄妙坊は豪傑でした。宇治川を挟んで平氏と対峙した時、橋の上へ進み、24本の矢で12人を射抜きました。矢が尽きると毛沓を脱いで裸足になり、橋の行桁を走り渡り、 長刀を抜いて敵を5人なぎ倒し、6人目と立ち合っている時に長刀が2つに折れたため、 太刀を抜いて四方八方を斬り付けました。8人の敵を斬り倒すも、9人目の甲の鉢に刀を強く打ち付けると刀は折れて川へ落ちました。<br />浄妙坊の鎧には矢目が63箇所も残されていたそうです。しかし、所詮は多勢に無勢。戦局は圧倒的多数の平家に傾きます。その後、浄妙坊は最後まで以仁王を護り、その傍らで力尽きたと伝えます。『平家物語』は浄妙坊の戦ぶりを「ひとへに死なんとぞ狂ひける」と語ります。

    浄妙坊(筒井浄妙)坊跡
    観音堂から水観寺へ導く石段の終点右手に小祠が佇み、石塔を祀っています。この辺りが寺法師 筒井浄妙明秀の住坊跡です。
    祇園祭の山鉾『浄妙山』は、宇治橋合戦で平氏の敵陣に一番乗りを果たすべく、三井寺僧兵「一来法師」が狭い橋の上で奮戦する快僧「浄妙坊」の頭上を「悪しゅう候、御免あれ」と言いつつ飛び越える刹那を切り取っています。このシーンは、先陣争いとされますが、浄妙坊に疲労が滲むのを見た一来法師が彼を庇うために前に出たとの説もあります。矢面に立った一来法師は、間もなく討死してしまうのですが…。
    さて、以仁王と源頼政は三井寺から奈良 興福寺へ向かう際に多くの僧兵に護衛させました。中でも 浄妙坊は豪傑でした。宇治川を挟んで平氏と対峙した時、橋の上へ進み、24本の矢で12人を射抜きました。矢が尽きると毛沓を脱いで裸足になり、橋の行桁を走り渡り、 長刀を抜いて敵を5人なぎ倒し、6人目と立ち合っている時に長刀が2つに折れたため、 太刀を抜いて四方八方を斬り付けました。8人の敵を斬り倒すも、9人目の甲の鉢に刀を強く打ち付けると刀は折れて川へ落ちました。
    浄妙坊の鎧には矢目が63箇所も残されていたそうです。しかし、所詮は多勢に無勢。戦局は圧倒的多数の平家に傾きます。その後、浄妙坊は最後まで以仁王を護り、その傍らで力尽きたと伝えます。『平家物語』は浄妙坊の戦ぶりを「ひとへに死なんとぞ狂ひける」と語ります。

  • 浄妙坊(筒井浄妙)坊跡<br />もう少し以仁王と三井寺の関係について掘り下げてみましょう。<br />1159(平治元)年、平治の乱で平清盛が勝利し、源義朝は死亡、その子 頼朝は伊豆に流刑され源氏は力を失いました。1180(治承4)年に平家は全盛期を迎えるも、鳥羽離宮に幽閉された後白河法皇の第2皇子 以仁王は、清盛の独裁を善しとはせず、源頼政と共に平家に反旗を翻しました。しかし、平家打倒の令旨が漏れて追われる身となり、以仁王は僧兵を頼って三井寺に難を逃れ、頼政と合流して興福寺を頼り奈良を目指しました。以仁王は宇治平等院での休息時に平氏の追撃に遭い、敵の流れ矢により亡くなりました。その後、頼政は平等院で自刃しました。<br />この件で三井寺は甚大な被害を受けるも、延暦寺の源氏派僧兵を取り込んで立て籠もり、平家を脅かし続けました。これに対し清盛は、5男 重衡を三井寺に攻め込ませ、火を放ち堂塔伽藍を灰燼に帰しました。『平家物語』は「伽藍更に跡もなし、三密道場も無し、鈴の声も聞こえず、一夏の花も無し」と無残な姿を描写しています。 <br />何故、以仁王は山法師を潤沢に有する延暦寺にも援護を求めなかったのでしょうか?実は、延暦寺へ牒状(手紙)を送るも良い返答がなかったのです。延暦寺が黙殺した理由は、三井寺は延暦寺の末寺に過ぎないのに延暦寺と対等に扱った文面を無礼としたなど、三井寺への対抗心の現れとされます。しかし決定打は、その頃の延暦寺が平家と連帯を強めていたことに尽きます。延暦寺を頼れず、三井寺だけでは兵力が不足するため、協力を申し出た興福寺へ移るのは必然です。

    浄妙坊(筒井浄妙)坊跡
    もう少し以仁王と三井寺の関係について掘り下げてみましょう。
    1159(平治元)年、平治の乱で平清盛が勝利し、源義朝は死亡、その子 頼朝は伊豆に流刑され源氏は力を失いました。1180(治承4)年に平家は全盛期を迎えるも、鳥羽離宮に幽閉された後白河法皇の第2皇子 以仁王は、清盛の独裁を善しとはせず、源頼政と共に平家に反旗を翻しました。しかし、平家打倒の令旨が漏れて追われる身となり、以仁王は僧兵を頼って三井寺に難を逃れ、頼政と合流して興福寺を頼り奈良を目指しました。以仁王は宇治平等院での休息時に平氏の追撃に遭い、敵の流れ矢により亡くなりました。その後、頼政は平等院で自刃しました。
    この件で三井寺は甚大な被害を受けるも、延暦寺の源氏派僧兵を取り込んで立て籠もり、平家を脅かし続けました。これに対し清盛は、5男 重衡を三井寺に攻め込ませ、火を放ち堂塔伽藍を灰燼に帰しました。『平家物語』は「伽藍更に跡もなし、三密道場も無し、鈴の声も聞こえず、一夏の花も無し」と無残な姿を描写しています。
    何故、以仁王は山法師を潤沢に有する延暦寺にも援護を求めなかったのでしょうか?実は、延暦寺へ牒状(手紙)を送るも良い返答がなかったのです。延暦寺が黙殺した理由は、三井寺は延暦寺の末寺に過ぎないのに延暦寺と対等に扱った文面を無礼としたなど、三井寺への対抗心の現れとされます。しかし決定打は、その頃の延暦寺が平家と連帯を強めていたことに尽きます。延暦寺を頼れず、三井寺だけでは兵力が不足するため、協力を申し出た興福寺へ移るのは必然です。

  • 浄妙坊(筒井浄妙)坊跡<br />鎌倉幕府成立に貢献した有力御家人のひとりの千葉常胤(つねたね)の子 日胤は阿闍梨位を有した三井寺僧侶であり、源頼朝の祈祷僧を務めていました。挙兵前の頼朝に石清水八幡宮への千日間参籠を頼まれた日胤は、以仁王が三井寺に入ると千日参籠を弟子 日恵に引き継ぎ、以仁王と共に平氏と戦い、1180(治承4)年5月26日、光明山鳥居で討死したと『吾妻鏡』は語ります。尚、日胤は以仁王の護持僧だったとの説もあります。<br />因みに、『平家物語』や『吾妻鏡』では以仁王の御座所を三井寺法輪院としています。三条高倉の御所を落ちて三井寺に逃れた以仁王は、南院の法輪院に僧兵が設けた御座所に入り、比叡山と南都に牒状を送りました。法輪院についてはこれ以降の記録がなく、度重なる兵火で焼失したと考えられています。<br />一方、鳥越 一朗著『平清盛を巡る一大叙事詩「平家物語」の名場面をゆく』には、光浄院客殿を以仁王が避難した僧房と紹介されています。

    浄妙坊(筒井浄妙)坊跡
    鎌倉幕府成立に貢献した有力御家人のひとりの千葉常胤(つねたね)の子 日胤は阿闍梨位を有した三井寺僧侶であり、源頼朝の祈祷僧を務めていました。挙兵前の頼朝に石清水八幡宮への千日間参籠を頼まれた日胤は、以仁王が三井寺に入ると千日参籠を弟子 日恵に引き継ぎ、以仁王と共に平氏と戦い、1180(治承4)年5月26日、光明山鳥居で討死したと『吾妻鏡』は語ります。尚、日胤は以仁王の護持僧だったとの説もあります。
    因みに、『平家物語』や『吾妻鏡』では以仁王の御座所を三井寺法輪院としています。三条高倉の御所を落ちて三井寺に逃れた以仁王は、南院の法輪院に僧兵が設けた御座所に入り、比叡山と南都に牒状を送りました。法輪院についてはこれ以降の記録がなく、度重なる兵火で焼失したと考えられています。
    一方、鳥越 一朗著『平清盛を巡る一大叙事詩「平家物語」の名場面をゆく』には、光浄院客殿を以仁王が避難した僧房と紹介されています。

  • 以仁王が比叡山延暦寺を心底頼らなかったのは確執が決定打と述べましたが、以仁王の父 後白河法皇と延暦寺の関係からそれを紐解いてみましょう。この頃、三井寺や延暦寺、興福寺等の寺社勢力は反平家に傾倒していました。それは、天皇退位後の初めての御幸は都近辺の神社に参詣する習わしのところ、後白河院の後継の高倉天皇は平清盛の崇拝する厳島神社に詣でたため、これらの寺院が平家に強く反発したのです。でしたら延暦寺を頼ってもよさそうなものです。<br />以仁王が延暦寺を心底頼らなかった理由は『平家物語』で源平合戦以外ではボリュームを割く「白山領焼払い事件」から読み取れます。本事件は、1176(安元2)年に加賀目代 藤原師経が温泉で馬を洗ったことに発した所領騒動であり、後白河法皇と延暦寺の確執を如実に語ります。<br />延暦寺の強訴により、法皇は寵愛する近臣 藤原西光の子 師経を備後国へ配流に処すも、白山衆徒3千人は神輿を担いで参洛しました。そして法皇に命じられた左大将 平重盛と合戦に及ぶと、神輿を置き捨てて逃げ去りました。しかしこの時、神輿に矢が刺さるというあってはならない事態に及び、報復を恐れた以仁王は法住寺殿へ逃れました。この時、延暦寺から平清盛へ書状が届いたとされ、清盛はすでに延暦寺と密かな友好関係を築いていたことが判ります。<br />法皇は僧 剛等を延暦寺に派遣して事態の収拾を図るも門前払いされ、やむなく延暦寺の要求を呑み、師経の兄で加賀守 師高を解官の上、尾張国へ配流、神輿を射た重盛郎従の平次利家以下5名を禁獄に処しました。しかし、白山衆徒は所領を管轄する財務トップの藤原西光への処分を執拗に求め続けました。<br />平安時代中期以降、僧兵らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷に訴えて要求を通そうとする強訴が起こるようになりました。特に南都北嶺と称された興福寺と延暦寺は度々強訴を行い、朝廷を悩ませました。この時に用いたのが興福寺は春日大社のご神木、延暦寺は日吉大社の神輿でした。『平家物語』には、白河法皇が思うようにならないものとして「賀茂河の水、双六の賽、山法師」と語ったという逸話があります。

    以仁王が比叡山延暦寺を心底頼らなかったのは確執が決定打と述べましたが、以仁王の父 後白河法皇と延暦寺の関係からそれを紐解いてみましょう。この頃、三井寺や延暦寺、興福寺等の寺社勢力は反平家に傾倒していました。それは、天皇退位後の初めての御幸は都近辺の神社に参詣する習わしのところ、後白河院の後継の高倉天皇は平清盛の崇拝する厳島神社に詣でたため、これらの寺院が平家に強く反発したのです。でしたら延暦寺を頼ってもよさそうなものです。
    以仁王が延暦寺を心底頼らなかった理由は『平家物語』で源平合戦以外ではボリュームを割く「白山領焼払い事件」から読み取れます。本事件は、1176(安元2)年に加賀目代 藤原師経が温泉で馬を洗ったことに発した所領騒動であり、後白河法皇と延暦寺の確執を如実に語ります。
    延暦寺の強訴により、法皇は寵愛する近臣 藤原西光の子 師経を備後国へ配流に処すも、白山衆徒3千人は神輿を担いで参洛しました。そして法皇に命じられた左大将 平重盛と合戦に及ぶと、神輿を置き捨てて逃げ去りました。しかしこの時、神輿に矢が刺さるというあってはならない事態に及び、報復を恐れた以仁王は法住寺殿へ逃れました。この時、延暦寺から平清盛へ書状が届いたとされ、清盛はすでに延暦寺と密かな友好関係を築いていたことが判ります。
    法皇は僧 剛等を延暦寺に派遣して事態の収拾を図るも門前払いされ、やむなく延暦寺の要求を呑み、師経の兄で加賀守 師高を解官の上、尾張国へ配流、神輿を射た重盛郎従の平次利家以下5名を禁獄に処しました。しかし、白山衆徒は所領を管轄する財務トップの藤原西光への処分を執拗に求め続けました。
    平安時代中期以降、僧兵らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷に訴えて要求を通そうとする強訴が起こるようになりました。特に南都北嶺と称された興福寺と延暦寺は度々強訴を行い、朝廷を悩ませました。この時に用いたのが興福寺は春日大社のご神木、延暦寺は日吉大社の神輿でした。『平家物語』には、白河法皇が思うようにならないものとして「賀茂河の水、双六の賽、山法師」と語ったという逸話があります。

  • 一方、後白河法皇の延暦寺への怒りは収まらず、強訴の責任を問い「天台座主 明雲」を解任し伊豆配流を宣命。しかし、護送団が勢田辺りに進んだ際、不意を突かれて明雲を奪還されるという事態に及びました。法皇は度重なる延暦寺の所業に業を煮やして比叡山攻めを決意し、左近衛大将 平重盛と右近衛大将 平宗盛に進軍を命じるも、彼らは清盛の意向に従う旨を伝えるに留まりました。清盛は説得に回りましたが法皇の怒りは収まらず、やむなく延暦寺攻めを了承したものと窺えます。<br />しかし、延暦寺が法皇への無礼や無視ができたのは、何らかの担保がなければ困難です。恐らく、この時期には延暦寺と平家は親密な関係を築いており、情報が取り交わされていたと窺えます。<br />法皇の説得に失敗した清盛は、法皇への対応を一変させます。1177(安元3)年に起こった「鹿ケ谷の変」でのことです。法皇と近臣が東山鹿ケ谷にある俊寛の山荘に集まって平家討伐計画を練っていたのを、仲間に誘った源氏の多田蔵人行綱が杜撰な計画に引きずり込まれるのを恐れて清盛に密告し、近臣が捕えられた事件です。清盛は、この事件で白山所領騒動における当事者とされた藤原西光も陰謀に加わったとして捕え、即日斬首に処しました。こうして、白山事件は意外な結末で幕を閉じました。因みに、以仁王が平家に反旗を翻したのはこの3年後のことでした。

    一方、後白河法皇の延暦寺への怒りは収まらず、強訴の責任を問い「天台座主 明雲」を解任し伊豆配流を宣命。しかし、護送団が勢田辺りに進んだ際、不意を突かれて明雲を奪還されるという事態に及びました。法皇は度重なる延暦寺の所業に業を煮やして比叡山攻めを決意し、左近衛大将 平重盛と右近衛大将 平宗盛に進軍を命じるも、彼らは清盛の意向に従う旨を伝えるに留まりました。清盛は説得に回りましたが法皇の怒りは収まらず、やむなく延暦寺攻めを了承したものと窺えます。
    しかし、延暦寺が法皇への無礼や無視ができたのは、何らかの担保がなければ困難です。恐らく、この時期には延暦寺と平家は親密な関係を築いており、情報が取り交わされていたと窺えます。
    法皇の説得に失敗した清盛は、法皇への対応を一変させます。1177(安元3)年に起こった「鹿ケ谷の変」でのことです。法皇と近臣が東山鹿ケ谷にある俊寛の山荘に集まって平家討伐計画を練っていたのを、仲間に誘った源氏の多田蔵人行綱が杜撰な計画に引きずり込まれるのを恐れて清盛に密告し、近臣が捕えられた事件です。清盛は、この事件で白山所領騒動における当事者とされた藤原西光も陰謀に加わったとして捕え、即日斬首に処しました。こうして、白山事件は意外な結末で幕を閉じました。因みに、以仁王が平家に反旗を翻したのはこの3年後のことでした。

  • やがて三井寺が源氏の氏寺ともなり順風満帆かと思われた矢先、存続の危機に晒される大事件が勃発しました。1219(建保7)年、鶴岡八幡宮において2代将軍 源頼家の子 公暁が3代将軍 源実朝を「父の仇」として暗殺したのです。実は法名「公暁」は、三井寺明王院 公胤僧正の門弟として伝法灌頂を授かったことに因みます。<br />この事件以降、三井寺は鎌倉幕府から冷遇される羽目になりますが、5代執権 北条時頼の信頼が篤かった隆弁が鶴岡八幡宮と三井寺の別当の座に就き、時頼の支援を受けて衰退しつつあった三井寺を再興しました。<br />因みに公暁は、三井寺で修業後、暫く愛宕郡粟田郷の三井寺子院 如意寺に逗留したとの説もあります。根拠は『華頂要略』の「如意寺」に公暁禅師が登場するからです。「当寺の寺務職を以て鎮守八幡宮別当と為す」とあります。2代将軍の遺児にして現将軍の甥、頼朝の後家 北条政子が後援する期待の青年僧でしたから否定はできません。ただ、その間にも運命の歯車は着実に回っていました。1217(建保5)年に鶴岡八幡宮の第3代別当 定暁が死去し、政子は18歳の公暁を第4代別当に補任することを決めたのです。

    やがて三井寺が源氏の氏寺ともなり順風満帆かと思われた矢先、存続の危機に晒される大事件が勃発しました。1219(建保7)年、鶴岡八幡宮において2代将軍 源頼家の子 公暁が3代将軍 源実朝を「父の仇」として暗殺したのです。実は法名「公暁」は、三井寺明王院 公胤僧正の門弟として伝法灌頂を授かったことに因みます。
    この事件以降、三井寺は鎌倉幕府から冷遇される羽目になりますが、5代執権 北条時頼の信頼が篤かった隆弁が鶴岡八幡宮と三井寺の別当の座に就き、時頼の支援を受けて衰退しつつあった三井寺を再興しました。
    因みに公暁は、三井寺で修業後、暫く愛宕郡粟田郷の三井寺子院 如意寺に逗留したとの説もあります。根拠は『華頂要略』の「如意寺」に公暁禅師が登場するからです。「当寺の寺務職を以て鎮守八幡宮別当と為す」とあります。2代将軍の遺児にして現将軍の甥、頼朝の後家 北条政子が後援する期待の青年僧でしたから否定はできません。ただ、その間にも運命の歯車は着実に回っていました。1217(建保5)年に鶴岡八幡宮の第3代別当 定暁が死去し、政子は18歳の公暁を第4代別当に補任することを決めたのです。

  • 水観寺<br />仁王門前を南へ進んだ所に三井寺五別所のひとつの水観寺があり、西国薬師四十九霊場第48番札所となっています。別所寺院とは、平安時代から仏法を布教し、多くの衆生を救済するために本寺(本境内)の周辺に設けた別院を言います。<br />1040(長久元)年に本朝唯一の八宗総博士 明尊大僧正が開基しました。明尊は「平安三蹟」のひとりとして名高い小野道風の孫に当たり、天台座主や三井寺長吏を歴任しました。また、藤原頼通の帰依を受け、宇治平等院の初代執印を務めたことでも知られます。<br />現在の本堂は豊臣秀吉の「闕所令」解除後、1655(明暦元)年に入母屋造、柿葺で再建され、1988(昭和63)年に別所の地から現在地に移築されました。現存する三井寺五別所の本堂では最古であり、県指定文化財になっています。

    水観寺
    仁王門前を南へ進んだ所に三井寺五別所のひとつの水観寺があり、西国薬師四十九霊場第48番札所となっています。別所寺院とは、平安時代から仏法を布教し、多くの衆生を救済するために本寺(本境内)の周辺に設けた別院を言います。
    1040(長久元)年に本朝唯一の八宗総博士 明尊大僧正が開基しました。明尊は「平安三蹟」のひとりとして名高い小野道風の孫に当たり、天台座主や三井寺長吏を歴任しました。また、藤原頼通の帰依を受け、宇治平等院の初代執印を務めたことでも知られます。
    現在の本堂は豊臣秀吉の「闕所令」解除後、1655(明暦元)年に入母屋造、柿葺で再建され、1988(昭和63)年に別所の地から現在地に移築されました。現存する三井寺五別所の本堂では最古であり、県指定文化財になっています。

  • 水観寺<br />創建当初の本尊は十一面観音でしたが、「闕所令」の際に紛失し、1601(慶長6)年に准三宮道澄大僧正により現世利益を本旨とする薬師瑠璃光如来に改められ、脇侍は日光・月光菩薩、その左右に十二神将が安置されています。一切衆生を病苦、災難から救済する仏として現在も信者の尊崇を集めています。

    水観寺
    創建当初の本尊は十一面観音でしたが、「闕所令」の際に紛失し、1601(慶長6)年に准三宮道澄大僧正により現世利益を本旨とする薬師瑠璃光如来に改められ、脇侍は日光・月光菩薩、その左右に十二神将が安置されています。一切衆生を病苦、災難から救済する仏として現在も信者の尊崇を集めています。

  • 水観寺<br />秋季特別拝観の期間中は、ここに山内の七福神関連の弁財天、毘沙門天、大黒天が集結しています。<br /><br />紫式部の没年については諸説ありますが、1014(長和3)年という説が有力とされます。その2年後、式部の父 藤原為時は70歳を超えてから三井寺に出家しています。『源氏物語』が近隣の石山寺で着想されたことを思うと何故三井寺なのかと疑問に思われるかもしれませんが、元々三井寺は為時一家には縁の深い寺であり、式部の母の兄弟が三井寺の僧侶を務めていたようです。その名を康延と言い、宮中の仏事や天皇の看病に従事する内供奉十禅師を担っていました。また、式部の異母兄弟の定暹も三井寺の阿闍梨を務めており、一条天皇の母 藤原詮子の追善法要や一条天皇の大葬に御前僧として加わるなど著名な僧侶だったようです。<br />因みに、三井寺に伝わる『伝法灌頂血脈譜』には長吏 教静の弟子として定暹の名は記されていますが、為時の名は見当たらないのだとか…。<br />為時はかつて天皇の宴に招かれたこともある歌人であり、式部に文学的な素養を見つけ漢文や詩歌などを教え、多大な影響を与えた人物です。しかし、その娘も今はなく、三井寺で失意の余生を過ごしたことは想像に難くありません。合掌。

    水観寺
    秋季特別拝観の期間中は、ここに山内の七福神関連の弁財天、毘沙門天、大黒天が集結しています。

    紫式部の没年については諸説ありますが、1014(長和3)年という説が有力とされます。その2年後、式部の父 藤原為時は70歳を超えてから三井寺に出家しています。『源氏物語』が近隣の石山寺で着想されたことを思うと何故三井寺なのかと疑問に思われるかもしれませんが、元々三井寺は為時一家には縁の深い寺であり、式部の母の兄弟が三井寺の僧侶を務めていたようです。その名を康延と言い、宮中の仏事や天皇の看病に従事する内供奉十禅師を担っていました。また、式部の異母兄弟の定暹も三井寺の阿闍梨を務めており、一条天皇の母 藤原詮子の追善法要や一条天皇の大葬に御前僧として加わるなど著名な僧侶だったようです。
    因みに、三井寺に伝わる『伝法灌頂血脈譜』には長吏 教静の弟子として定暹の名は記されていますが、為時の名は見当たらないのだとか…。
    為時はかつて天皇の宴に招かれたこともある歌人であり、式部に文学的な素養を見つけ漢文や詩歌などを教え、多大な影響を与えた人物です。しかし、その娘も今はなく、三井寺で失意の余生を過ごしたことは想像に難くありません。合掌。

  • 総門<br />三井寺南院の表門として建立されたものです。<br />中世以降、三井寺は北院、中院、南院の3院に分かれ、多数の僧兵を擁したことから外周には濠を構え、石垣で枡形を造り厳重な山門が設けられていました。現在の総門もかつての名残を偲ばせる城門風の薬医門となっています。<br />総門が京阪「三井寺」駅から一番近い門になりますが、ここから入山するといきなり観音堂への石段の苦行となるのでお勧めいたしません。<br />因みに、三井寺は再入山ができませんので、昼食を摂る際などには留意してください。

    総門
    三井寺南院の表門として建立されたものです。
    中世以降、三井寺は北院、中院、南院の3院に分かれ、多数の僧兵を擁したことから外周には濠を構え、石垣で枡形を造り厳重な山門が設けられていました。現在の総門もかつての名残を偲ばせる城門風の薬医門となっています。
    総門が京阪「三井寺」駅から一番近い門になりますが、ここから入山するといきなり観音堂への石段の苦行となるのでお勧めいたしません。
    因みに、三井寺は再入山ができませんので、昼食を摂る際などには留意してください。

  • 三尾神社<br />総門を出てそのまま東へ進むと三井寺南院の守護社となる神社が現れます。<br />本殿は三間社流造で、様式により室町時代と推定され、1426(応永33)年に足利義持により建立されたと伝わります。明治時代の神仏分離により、1876(明治9)年に三井寺境内から「中の三尾社」の社地と伝わる現在地に移築されました。<br />三井寺には、三間社流造の本殿として、三尾神社と新羅善神堂があり、両者は共に足利氏の三井寺造営事業において建造された三井寺の鎮守社であり、意匠や技法に類似した点を多く見ることができます。北院の鎮守社は新羅善神堂ですが、南院の守護社が三尾神社になります。

    三尾神社
    総門を出てそのまま東へ進むと三井寺南院の守護社となる神社が現れます。
    本殿は三間社流造で、様式により室町時代と推定され、1426(応永33)年に足利義持により建立されたと伝わります。明治時代の神仏分離により、1876(明治9)年に三井寺境内から「中の三尾社」の社地と伝わる現在地に移築されました。
    三井寺には、三間社流造の本殿として、三尾神社と新羅善神堂があり、両者は共に足利氏の三井寺造営事業において建造された三井寺の鎮守社であり、意匠や技法に類似した点を多く見ることができます。北院の鎮守社は新羅善神堂ですが、南院の守護社が三尾神社になります。

  • 琵琶湖疏水<br />琵琶湖の水を京都に引くために明治時代に開削された人口の水路です。大津市三保ケ崎の取水口から約500mを流れた後、三井寺が鎮座する長等山を貫く2436mの長等山トンネルに入り、京都市蹴上へと流れ出る延長約9kmに及ぶ水路です。京都市の飲料水や発電、物資輸送、農業用水など多目的利用のために立案されました。<br />因みに、今年は雨不足で琵琶湖の水位が基準より70cmも下がっているようです。あと20cm下がれば、19年前の取水制限の悪夢が蘇ります。京都や大阪、兵庫は100日程取水制限の憂き目に遭いました。そうならないよう、適度に雨や雪が降ってくれるようお願いしておきました。

    琵琶湖疏水
    琵琶湖の水を京都に引くために明治時代に開削された人口の水路です。大津市三保ケ崎の取水口から約500mを流れた後、三井寺が鎮座する長等山を貫く2436mの長等山トンネルに入り、京都市蹴上へと流れ出る延長約9kmに及ぶ水路です。京都市の飲料水や発電、物資輸送、農業用水など多目的利用のために立案されました。
    因みに、今年は雨不足で琵琶湖の水位が基準より70cmも下がっているようです。あと20cm下がれば、19年前の取水制限の悪夢が蘇ります。京都や大阪、兵庫は100日程取水制限の憂き目に遭いました。そうならないよう、適度に雨や雪が降ってくれるようお願いしておきました。

  • 琵琶湖疏水 第1トンネル東口<br />第1疏水は、1885(明治18)年に青年技師 田邊朔郎の指導の下に着工。その5年後に竣工しました。第2疏水は、1912(明治45)年に竣工。往時の琵琶湖の水路工事の技術は国家的レベルだったようです。水道の各洞門には、それを示すが如く伊藤博文を始めとする著名人が揮毫した扁額が掲げられています。

    琵琶湖疏水 第1トンネル東口
    第1疏水は、1885(明治18)年に青年技師 田邊朔郎の指導の下に着工。その5年後に竣工しました。第2疏水は、1912(明治45)年に竣工。往時の琵琶湖の水路工事の技術は国家的レベルだったようです。水道の各洞門には、それを示すが如く伊藤博文を始めとする著名人が揮毫した扁額が掲げられています。

  • 琵琶湖疏水 第1トンネル東口<br />扁額(石の額)には初代内閣総理大臣 伊藤博文が揮毫した「氣象萬千(きしょうばんせん)」が刻まれています。これは「様々に変化する自然の風光は素晴らしい」という意味であり、琵琶湖疏水の風光明媚な景色を表現しています。<br />琵琶湖疏水の計画の実現に奔走した京都府知事 北垣国道はかつて伊藤の故郷である長州に身を寄せていました。その縁もあり、疏水の計画を知らされた際、伊藤はその事業の大きさに圧倒されながらも京都の近代化のために協力を約束しました。因みに、北垣の扁額「寶祚無窮(ほうそむきゅう=皇位は永遠である)」も第1トンネルの中に掲げられています。<br />これらの扁額は、疏水建設に関わった人々や往時の日本を支えた政治家や権力者がその思いを書き記したものです。琵琶湖疏水が完成した時、その一大事業の完成を見た人々が水の流れや建築物の美しさを目の当たりにした感動が雅やかに表現されています。<br /><br />この続きは、情緒纏綿 近江逍遥④三井寺(園城寺)北院 新羅善神堂でお届けいたします。

    琵琶湖疏水 第1トンネル東口
    扁額(石の額)には初代内閣総理大臣 伊藤博文が揮毫した「氣象萬千(きしょうばんせん)」が刻まれています。これは「様々に変化する自然の風光は素晴らしい」という意味であり、琵琶湖疏水の風光明媚な景色を表現しています。
    琵琶湖疏水の計画の実現に奔走した京都府知事 北垣国道はかつて伊藤の故郷である長州に身を寄せていました。その縁もあり、疏水の計画を知らされた際、伊藤はその事業の大きさに圧倒されながらも京都の近代化のために協力を約束しました。因みに、北垣の扁額「寶祚無窮(ほうそむきゅう=皇位は永遠である)」も第1トンネルの中に掲げられています。
    これらの扁額は、疏水建設に関わった人々や往時の日本を支えた政治家や権力者がその思いを書き記したものです。琵琶湖疏水が完成した時、その一大事業の完成を見た人々が水の流れや建築物の美しさを目の当たりにした感動が雅やかに表現されています。

    この続きは、情緒纏綿 近江逍遥④三井寺(園城寺)北院 新羅善神堂でお届けいたします。

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