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今回は中院の続きをレポいたします。<br />レポしたエリアの中心となるのは「唐院」と称される三井寺で最も神聖な一画です。「唐院」の名は三井寺の開祖 智証大師 円珍が唐から持ち帰った経典や法具類を納めるために建立されたことに因みます。また、ここにある大師堂は円珍の廟所となっています。<br />さて、ひと際目を引くのが黒ずんだ三重塔です。豊臣秀吉が奈良県吉野 比蘇寺(現 世尊寺)にあった塔を伏見城近くの観月橋下に移築したものを、徳川家康が三井寺に寄進したものです。もし創建年代が明確になれば国宝指定級とされる三重塔です。秀吉の闕所令により廃寺寸前にまで陥った三井寺の復興のために時の権力者が尽力した足跡を偲ぶことができます。<br />境内マップは次のサイトを参照してください。<br />https://miidera1200.jp/information<br />

情緒纏綿 近江逍遥②三井寺(園城寺)中院<後編>

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2021/11/25 - 2021/11/25

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

今回は中院の続きをレポいたします。
レポしたエリアの中心となるのは「唐院」と称される三井寺で最も神聖な一画です。「唐院」の名は三井寺の開祖 智証大師 円珍が唐から持ち帰った経典や法具類を納めるために建立されたことに因みます。また、ここにある大師堂は円珍の廟所となっています。
さて、ひと際目を引くのが黒ずんだ三重塔です。豊臣秀吉が奈良県吉野 比蘇寺(現 世尊寺)にあった塔を伏見城近くの観月橋下に移築したものを、徳川家康が三井寺に寄進したものです。もし創建年代が明確になれば国宝指定級とされる三重塔です。秀吉の闕所令により廃寺寸前にまで陥った三井寺の復興のために時の権力者が尽力した足跡を偲ぶことができます。
境内マップは次のサイトを参照してください。
https://miidera1200.jp/information

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄
  • 霊鐘堂 <br />金堂を後にして熊野権現の先の緩い坂道を登った先にあります。「弁慶の引き摺り鐘」と弁慶が攻め入った時に置き土産とした「弁慶の汁鍋」を安置する建屋です。<br />「鐘」は、弁慶の怪力ぶりを伝える伝説の鐘として、また、三井寺を鎮護する霊鐘としてここに奉安されています。<br />この梵鐘は承平年間(10世紀前半)に俵藤太秀郷が近江富士とも呼ばれる三上山に棲む巨大ムカデ退治の謝礼に 琵琶湖の龍神から賜った鐘を三井寺に寄進したものと伝わります。<br />因みに、主人公の俵藤太はこの地から少し離れた所にある龍王宮秀郷社に祀られています。ところで弁慶鐘の重文認定は、「奈良時代の作」、「龍王からの謝礼」、「弁慶の怪力」のどれに対するものなのでしょうか?

    霊鐘堂
    金堂を後にして熊野権現の先の緩い坂道を登った先にあります。「弁慶の引き摺り鐘」と弁慶が攻め入った時に置き土産とした「弁慶の汁鍋」を安置する建屋です。
    「鐘」は、弁慶の怪力ぶりを伝える伝説の鐘として、また、三井寺を鎮護する霊鐘としてここに奉安されています。
    この梵鐘は承平年間(10世紀前半)に俵藤太秀郷が近江富士とも呼ばれる三上山に棲む巨大ムカデ退治の謝礼に 琵琶湖の龍神から賜った鐘を三井寺に寄進したものと伝わります。
    因みに、主人公の俵藤太はこの地から少し離れた所にある龍王宮秀郷社に祀られています。ところで弁慶鐘の重文認定は、「奈良時代の作」、「龍王からの謝礼」、「弁慶の怪力」のどれに対するものなのでしょうか?

  • 霊鐘堂 梵鐘(弁慶鐘:重文)<br />この古鐘は三井寺では希少な智証大師 円珍入山以前の遺品です。 <br />初代梵鐘でもあり、奈良時代の鋳造とされ、この時代の現存遺品は全国で十数口しか確認されていない貴重な梵鐘です。それらの中でも東大寺鐘に次ぐスケールを誇り、 総高199cm、身高156cm、口径123.2cm、重量2250kgあります。<br />また、この時代の特徴である、龍頭と撞座が直角、比較的高い位置にある撞座、外に張り出さない駒の爪が見られます。また、中世の遺品が1区内4段4列を標準とする乳の数を5段7列としています。<br />鋳上がり状態は荒く、傷や欠損、クラックが見られることから、俗に「弁慶の引摺鐘」と呼ばれています。『寺門伝記補録』には、「文永年間にこの梵鐘が比叡山に持ち去られていた」との記述があり、これらの損傷は山門寺門の武力抗争を今に伝える名残傷と窺えます。「弁慶の引摺鐘」は伝説の域を超えませんが、この鐘が刻んだ傷跡は山門寺門の骨肉の争いで幾度となく焼き討ちに逢った三井寺の苦難の歴史を語る生き証人と言えます。

    霊鐘堂 梵鐘(弁慶鐘:重文)
    この古鐘は三井寺では希少な智証大師 円珍入山以前の遺品です。
    初代梵鐘でもあり、奈良時代の鋳造とされ、この時代の現存遺品は全国で十数口しか確認されていない貴重な梵鐘です。それらの中でも東大寺鐘に次ぐスケールを誇り、 総高199cm、身高156cm、口径123.2cm、重量2250kgあります。
    また、この時代の特徴である、龍頭と撞座が直角、比較的高い位置にある撞座、外に張り出さない駒の爪が見られます。また、中世の遺品が1区内4段4列を標準とする乳の数を5段7列としています。
    鋳上がり状態は荒く、傷や欠損、クラックが見られることから、俗に「弁慶の引摺鐘」と呼ばれています。『寺門伝記補録』には、「文永年間にこの梵鐘が比叡山に持ち去られていた」との記述があり、これらの損傷は山門寺門の武力抗争を今に伝える名残傷と窺えます。「弁慶の引摺鐘」は伝説の域を超えませんが、この鐘が刻んだ傷跡は山門寺門の骨肉の争いで幾度となく焼き討ちに逢った三井寺の苦難の歴史を語る生き証人と言えます。

  • 霊鐘堂 弁慶鐘<br />天台宗には密教路線を先導した円珍の他にも優れた僧侶がいました。最澄の直弟子に当たり顕教路線の円仁がそのひとりです。この円仁を祖とするのが天台山門宗であり、円珍の死後、円珍を祖とする寺門宗と長期に亘り対立が続きました。<br />山門宗との争いで比叡山の荒法師 武蔵坊弁慶が三井寺の鐘を略奪して比叡山へ引き摺り上げて撞いた所、「イノー・イノー(関西弁で帰りたい)」と響いたため、 弁慶は怒り狂って鐘を谷底へ投げ捨てました。それ故、三井寺の僧 定円が詠んだ「さざ浪や 三井の古寺 鐘はあれど むかしにかへる 音はきこへず」という歌の通り、鐘にはその時に負ったと思しき傷跡やクラックが生々しく残され、乳が16個も失われたと弁慶鐘伝説は語ります。<br />因みに、定円は「三井寺流唱導の祖」として知られています。「説教」を大別すると、講義のように説くものと節を付けて歌うように説くものがあります。日本仏教では後者を「唱導」と言い、かつては「安居院流」と「三井寺流」が発達しましたが、現在後者はほとんど残っていません。ただし、浄瑠璃は三井寺流から派生したことから、浄瑠璃系統にその片鱗が残されています。因みに、「落語の祖」と称される安楽庵策伝は安居院流の浄土宗説教師でした。

    霊鐘堂 弁慶鐘
    天台宗には密教路線を先導した円珍の他にも優れた僧侶がいました。最澄の直弟子に当たり顕教路線の円仁がそのひとりです。この円仁を祖とするのが天台山門宗であり、円珍の死後、円珍を祖とする寺門宗と長期に亘り対立が続きました。
    山門宗との争いで比叡山の荒法師 武蔵坊弁慶が三井寺の鐘を略奪して比叡山へ引き摺り上げて撞いた所、「イノー・イノー(関西弁で帰りたい)」と響いたため、 弁慶は怒り狂って鐘を谷底へ投げ捨てました。それ故、三井寺の僧 定円が詠んだ「さざ浪や 三井の古寺 鐘はあれど むかしにかへる 音はきこへず」という歌の通り、鐘にはその時に負ったと思しき傷跡やクラックが生々しく残され、乳が16個も失われたと弁慶鐘伝説は語ります。
    因みに、定円は「三井寺流唱導の祖」として知られています。「説教」を大別すると、講義のように説くものと節を付けて歌うように説くものがあります。日本仏教では後者を「唱導」と言い、かつては「安居院流」と「三井寺流」が発達しましたが、現在後者はほとんど残っていません。ただし、浄瑠璃は三井寺流から派生したことから、浄瑠璃系統にその片鱗が残されています。因みに、「落語の祖」と称される安楽庵策伝は安居院流の浄土宗説教師でした。

  • 霊鐘堂 弁慶の汁鍋<br />重さ450kg、外口経166.5cm、深さ93cmあり、弁慶が攻め入った時に置いて行った大鍋とされます。通常は「大人数の僧への炊き出しに使われた大鍋」と考えるのが自然ですが、弁慶が大鐘を奪い取った代わりに所持してきた大鍋を置き土産としたとの発想には素朴な味わいがあります。<br />敵対していた延暦寺の弁慶を逆手にとって観光名物にした感は拭えませんが、そのエピソードに「汁鍋」まで結び付けてしまうとは…。往時の寺門宗の経営者の発想力には頭が下がります。

    霊鐘堂 弁慶の汁鍋
    重さ450kg、外口経166.5cm、深さ93cmあり、弁慶が攻め入った時に置いて行った大鍋とされます。通常は「大人数の僧への炊き出しに使われた大鍋」と考えるのが自然ですが、弁慶が大鐘を奪い取った代わりに所持してきた大鍋を置き土産としたとの発想には素朴な味わいがあります。
    敵対していた延暦寺の弁慶を逆手にとって観光名物にした感は拭えませんが、そのエピソードに「汁鍋」まで結び付けてしまうとは…。往時の寺門宗の経営者の発想力には頭が下がります。

  • 霊鐘堂 <br />弁慶鐘にまつわるエピソードをもう一つ紹介いたします。<br />弁慶鐘は、寺に変事がある時には、その前兆として不思議な現象が起こったと伝わります。不吉なことがある時には鐘が汗をかき撞いても鳴らず、良いことがある時には自然に鳴ると伝えます。 <br />戦国時代の記録『園城寺古記』には、1592(文禄元)年7月に鐘が鳴らなくなり、寺に不吉なことが起るのではないかと恐れた僧侶たちが様々な祈祷を行ったところ、翌月には鳴るようになったとあります。この噂を耳にした豊臣秀吉は、「これを奇特として鐘楼を新たに造るよう大津城主 新庄直頼に命じた」と伝わります。しかしこの鐘楼の完成を待たずして、三井寺は真逆の「文禄の闕所」の憂き目に遭わされる羽目になりました。 <br />また、南北朝時代の建武の争乱時には、鐘の略奪を恐れて地中に埋めたところ、自ら鳴り響き、これにより足利尊氏軍が勝利を収めたと伝わるなど、まさに霊鐘と称するに相応しい霊験譚を伝えています。<br />これらを勘案すれば、霊鐘堂は三井寺のパワースポットのひとつと言えるのでは…。

    霊鐘堂
    弁慶鐘にまつわるエピソードをもう一つ紹介いたします。
    弁慶鐘は、寺に変事がある時には、その前兆として不思議な現象が起こったと伝わります。不吉なことがある時には鐘が汗をかき撞いても鳴らず、良いことがある時には自然に鳴ると伝えます。
    戦国時代の記録『園城寺古記』には、1592(文禄元)年7月に鐘が鳴らなくなり、寺に不吉なことが起るのではないかと恐れた僧侶たちが様々な祈祷を行ったところ、翌月には鳴るようになったとあります。この噂を耳にした豊臣秀吉は、「これを奇特として鐘楼を新たに造るよう大津城主 新庄直頼に命じた」と伝わります。しかしこの鐘楼の完成を待たずして、三井寺は真逆の「文禄の闕所」の憂き目に遭わされる羽目になりました。
    また、南北朝時代の建武の争乱時には、鐘の略奪を恐れて地中に埋めたところ、自ら鳴り響き、これにより足利尊氏軍が勝利を収めたと伝わるなど、まさに霊鐘と称するに相応しい霊験譚を伝えています。
    これらを勘案すれば、霊鐘堂は三井寺のパワースポットのひとつと言えるのでは…。

  • 霊鐘堂<br />新種の子安地蔵尊なのでしょうか?<br />それにしても子沢山なことです。<br /><br />鎌倉時代初期の説話集『古事談』には、「園城寺鐘の事」として俵藤太のムカデ退治と類似した説話が載せられています。これが原典かもしれません。<br />粟津の冠者が一堂を建立し、鐘を鋳るための鉄を求めて出雲に船で向かう途上、暴風雨となり沈没しそうになった。その時、漕ぎつけた謎の小童に救われ海底の龍宮に連れていかれた。<br />龍宮の主 龍王は、「大蛇に仲間が大勢殺され困っている。大蛇を退治して欲しい」と頼んだ。冠者が楼に上って待ち構えていると大蛇が眷属を引き連れて現れた。冠者が鏑矢を大蛇の口に射ると、矢は舌を割き喉に突き刺さった。そして逃げる大蛇の胴体を射って退治した。<br />龍王が望みを叶えると言ったので、冠者はお堂の鐘が欲しいと伝えた。すると、龍宮のお寺に吊られていた鐘を下ろして褒美にくれた。<br />後日譚として、「冠者が建立した寺は廃寺となり、住持が三井寺に鐘を売ってしまった。この寺は山門宗の寺だったため、住持は山門宗衆徒により琵琶湖に沈められた」とあります。ここにも「山門寺門の確執」が皮肉っぽく語られています。

    霊鐘堂
    新種の子安地蔵尊なのでしょうか?
    それにしても子沢山なことです。

    鎌倉時代初期の説話集『古事談』には、「園城寺鐘の事」として俵藤太のムカデ退治と類似した説話が載せられています。これが原典かもしれません。
    粟津の冠者が一堂を建立し、鐘を鋳るための鉄を求めて出雲に船で向かう途上、暴風雨となり沈没しそうになった。その時、漕ぎつけた謎の小童に救われ海底の龍宮に連れていかれた。
    龍宮の主 龍王は、「大蛇に仲間が大勢殺され困っている。大蛇を退治して欲しい」と頼んだ。冠者が楼に上って待ち構えていると大蛇が眷属を引き連れて現れた。冠者が鏑矢を大蛇の口に射ると、矢は舌を割き喉に突き刺さった。そして逃げる大蛇の胴体を射って退治した。
    龍王が望みを叶えると言ったので、冠者はお堂の鐘が欲しいと伝えた。すると、龍宮のお寺に吊られていた鐘を下ろして褒美にくれた。
    後日譚として、「冠者が建立した寺は廃寺となり、住持が三井寺に鐘を売ってしまった。この寺は山門宗の寺だったため、住持は山門宗衆徒により琵琶湖に沈められた」とあります。ここにも「山門寺門の確執」が皮肉っぽく語られています。

  • 孔雀の飼育舎<br />霊鐘堂から西方へ少し登った所に孔雀が飼育されています。真言密教特有の尊格として「孔雀明王」が知られますが、それは『孔雀経』に登場する「偉大な孔雀」の意を持つインドの女神「梵名:マハーマーユーリー」を尊格化したものです。それ故に女性的で柔和な雰囲気を持ち、明王ながら「仏母大孔雀明王菩薩」と呼ばれたりもします。<br />孔雀は恵みの雨をもたらす吉鳥であり、また害虫や毒蛇を食することから、孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされて古くから信仰の対象となりました。後に人間の煩悩の象徴である三毒「貪(とん=むさぼり)、嗔(しん=いかり)、痴(ち=おろか)」を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏様と解釈されに至りました。<br />孔雀明王を本尊とする密教呪法は『孔雀経法』と呼ばれ、真言密教における祈願は鎮護国家の大法とされ、最重要視されています。因みに修験道の開祖 役行者は、17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ後、葛城山~熊野~大峯山の峰々で孔雀明王の呪文を唱えて修行を積み重ね、修験道の基礎を築いたとされます。

    孔雀の飼育舎
    霊鐘堂から西方へ少し登った所に孔雀が飼育されています。真言密教特有の尊格として「孔雀明王」が知られますが、それは『孔雀経』に登場する「偉大な孔雀」の意を持つインドの女神「梵名:マハーマーユーリー」を尊格化したものです。それ故に女性的で柔和な雰囲気を持ち、明王ながら「仏母大孔雀明王菩薩」と呼ばれたりもします。
    孔雀は恵みの雨をもたらす吉鳥であり、また害虫や毒蛇を食することから、孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされて古くから信仰の対象となりました。後に人間の煩悩の象徴である三毒「貪(とん=むさぼり)、嗔(しん=いかり)、痴(ち=おろか)」を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏様と解釈されに至りました。
    孔雀明王を本尊とする密教呪法は『孔雀経法』と呼ばれ、真言密教における祈願は鎮護国家の大法とされ、最重要視されています。因みに修験道の開祖 役行者は、17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ後、葛城山~熊野~大峯山の峰々で孔雀明王の呪文を唱えて修行を積み重ね、修験道の基礎を築いたとされます。

  • 一切経蔵(重文)<br />『一切経』を安置する仏堂で、 内部には高麗から渡来した『一切経』を納める回転式の巨大な「八角輪蔵」が備えられています。<br />経蔵の外観は、一間四方なのですが裳階付きのため三間四方二層にも見える層宝形造、桧皮葺です。また、上部の四方には「明層(あかりそう)」と呼ばれる採光窓が設けられています。

    一切経蔵(重文)
    『一切経』を安置する仏堂で、 内部には高麗から渡来した『一切経』を納める回転式の巨大な「八角輪蔵」が備えられています。
    経蔵の外観は、一間四方なのですが裳階付きのため三間四方二層にも見える層宝形造、桧皮葺です。また、上部の四方には「明層(あかりそう)」と呼ばれる採光窓が設けられています。

  • 一切経蔵<br />山内には珍しく重層檜皮葺の重厚な仏堂であり、上端がすぼんだ粽柱や花頭窓、飛貫の上の波形格子の弓欄間、内部の土間、極彩色の絵が描かれた鏡天井など典型的な純禅宗様の意匠を纏っています。<br />その理由は、元々は毛利氏と縁の深い禅宗寺院 国清寺(現 洞春寺:山口市)にあった室町時代建立の経蔵であり、 1602(慶長7)年に毛利輝元により寄進、移築された仏堂だからです。

    一切経蔵
    山内には珍しく重層檜皮葺の重厚な仏堂であり、上端がすぼんだ粽柱や花頭窓、飛貫の上の波形格子の弓欄間、内部の土間、極彩色の絵が描かれた鏡天井など典型的な純禅宗様の意匠を纏っています。
    その理由は、元々は毛利氏と縁の深い禅宗寺院 国清寺(現 洞春寺:山口市)にあった室町時代建立の経蔵であり、 1602(慶長7)年に毛利輝元により寄進、移築された仏堂だからです。

  • 一切経蔵<br />「一切経蔵」を寄進した毛利輝元と三井寺の関係を記しておきましょう。<br />輝元は、中国・北九州の覇者であり、知行122万石の大名まで昇り詰めました。「一切経蔵」を移築し寄進したのが関ヶ原の戦いの直後であることを踏まえると、徳川家康に対する謝罪の一環とも取れますが、そうではないようです。<br />三井寺と毛利氏の繋がりは輝元の祖父 元就の時代に遡ります。元就が小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大するに当たり、三井寺は大車輪の働きをしました。かねてより毛利氏と因幡 尼子氏との確執は根深く、膠着状態が続いていました。この抗争の調停役を担ったのが三井寺長吏 道澄でした。ここにも道澄のネットワークが張り巡らされていたのです。かくして尼子義久は元就からの和睦申請を受入れて降伏し、籠城していた難攻不落の名城 月山富田城を明け渡したのです。

    一切経蔵
    「一切経蔵」を寄進した毛利輝元と三井寺の関係を記しておきましょう。
    輝元は、中国・北九州の覇者であり、知行122万石の大名まで昇り詰めました。「一切経蔵」を移築し寄進したのが関ヶ原の戦いの直後であることを踏まえると、徳川家康に対する謝罪の一環とも取れますが、そうではないようです。
    三井寺と毛利氏の繋がりは輝元の祖父 元就の時代に遡ります。元就が小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大するに当たり、三井寺は大車輪の働きをしました。かねてより毛利氏と因幡 尼子氏との確執は根深く、膠着状態が続いていました。この抗争の調停役を担ったのが三井寺長吏 道澄でした。ここにも道澄のネットワークが張り巡らされていたのです。かくして尼子義久は元就からの和睦申請を受入れて降伏し、籠城していた難攻不落の名城 月山富田城を明け渡したのです。

  • 一切経蔵 八角輪蔵(重文)<br />内部には回転する八角輪蔵が設えられ、輪蔵には高麗版『一切経』が収められています。これを一回転すると一切経を音読したのと同じ功徳があると伝わります。<br /><br />道澄は、1544(天文13)年、関白 近衛稙家の3男に生まれました。近衛家は、始祖 藤原鎌足以来、朝廷最高官職を占める五摂家のひとつです。道澄は、早くから天台門に入って聖護院門跡 道増の弟子となり、聖護院門跡や三井寺長吏、熊野三山検校などの要職を歴任しました。道澄はその政治手腕はもとより、特に詩歌に長けており、度々西国へ赴き、厳島神社での和歌の会や能楽を毛利元就と愉しむ間柄だったようです。<br />また、元就の死後、道澄が吉田郡山城で発見した和歌や連歌の遺作を京へ持ち帰って編集したことから輝元と道澄の関係は益々深まり、『輝元公御上洛日記』には「輝元上洛の時、道澄は豊臣秀吉の住居である聚楽第に案内し、秀吉と直接歓談する労を計らった」と記されています。<br />また、三井寺で開かれた歌会では、<br />「見せはやと思ひし秋の色うすき長等の山の志賀の浦風」と道澄が詠み、<br />「海山の名にし負ひたる秋の色 深き心の程は見えけり」と輝元が返しています。<br />こうした交遊ネットワークが、その後の三井寺復興の大きな原動力となったと言えます。

    一切経蔵 八角輪蔵(重文)
    内部には回転する八角輪蔵が設えられ、輪蔵には高麗版『一切経』が収められています。これを一回転すると一切経を音読したのと同じ功徳があると伝わります。

    道澄は、1544(天文13)年、関白 近衛稙家の3男に生まれました。近衛家は、始祖 藤原鎌足以来、朝廷最高官職を占める五摂家のひとつです。道澄は、早くから天台門に入って聖護院門跡 道増の弟子となり、聖護院門跡や三井寺長吏、熊野三山検校などの要職を歴任しました。道澄はその政治手腕はもとより、特に詩歌に長けており、度々西国へ赴き、厳島神社での和歌の会や能楽を毛利元就と愉しむ間柄だったようです。
    また、元就の死後、道澄が吉田郡山城で発見した和歌や連歌の遺作を京へ持ち帰って編集したことから輝元と道澄の関係は益々深まり、『輝元公御上洛日記』には「輝元上洛の時、道澄は豊臣秀吉の住居である聚楽第に案内し、秀吉と直接歓談する労を計らった」と記されています。
    また、三井寺で開かれた歌会では、
    「見せはやと思ひし秋の色うすき長等の山の志賀の浦風」と道澄が詠み、
    「海山の名にし負ひたる秋の色 深き心の程は見えけり」と輝元が返しています。
    こうした交遊ネットワークが、その後の三井寺復興の大きな原動力となったと言えます。

  • 一切経蔵 八角輪蔵<br />輪蔵にも花頭窓や木鼻、尾垂木の形など禅宗様を散らしています。<br />新羅三郎義光や北条泰時、足利尊氏、毛利輝元らが『一切経(仏典を集大成したもの)』を三井寺へ奉納したと伝わります。

    一切経蔵 八角輪蔵
    輪蔵にも花頭窓や木鼻、尾垂木の形など禅宗様を散らしています。
    新羅三郎義光や北条泰時、足利尊氏、毛利輝元らが『一切経(仏典を集大成したもの)』を三井寺へ奉納したと伝わります。

  • 一切経蔵 八角輪蔵<br />このように輪蔵の屋根の八方に千鳥破風を凝らすのは他に類がなく、室町時代に遡る禅宗様経蔵の古式とされます。また、輪蔵の上にある8つの龕からは経論の守護 傅大士像と共に円空仏7体が発見されており、円空が『一切経』を火難から守るために水と縁の深い善女龍王を刻んで祀ったものと考えられています。<br />これらの素朴な造形の円空仏は金堂の脇陣で拝むことができました。

    一切経蔵 八角輪蔵
    このように輪蔵の屋根の八方に千鳥破風を凝らすのは他に類がなく、室町時代に遡る禅宗様経蔵の古式とされます。また、輪蔵の上にある8つの龕からは経論の守護 傅大士像と共に円空仏7体が発見されており、円空が『一切経』を火難から守るために水と縁の深い善女龍王を刻んで祀ったものと考えられています。
    これらの素朴な造形の円空仏は金堂の脇陣で拝むことができました。

  • 一切経蔵 <br />堂内の回廊には所々に海老梁のようなものが渡されています。<br />補強のためと窺えます。

    一切経蔵
    堂内の回廊には所々に海老梁のようなものが渡されています。
    補強のためと窺えます。

  • 一切経蔵<br />上方にある明層が波形格子の「弓欄間」と呼ばれるものです。

    一切経蔵
    上方にある明層が波形格子の「弓欄間」と呼ばれるものです。

  • 石橋<br />三重塔の聳える唐院へと繋がる石橋は映画『るろうに剣心』のロケ地となりました。<br />武井咲さん演じる神谷薫が鵜堂刃衛に襲われ、そこへ佐藤剣心が颯爽と登場するシーンが浮かんできます。

    石橋
    三重塔の聳える唐院へと繋がる石橋は映画『るろうに剣心』のロケ地となりました。
    武井咲さん演じる神谷薫が鵜堂刃衛に襲われ、そこへ佐藤剣心が颯爽と登場するシーンが浮かんできます。

  • 石橋<br />映画のシーンはこのように石橋を下方から見上げる構図でした。

    石橋
    映画のシーンはこのように石橋を下方から見上げる構図でした。

  • 唐院 三重塔(重文)<br />境内には別院や鎮守社を含め多くの堂宇が建ち、その中核は金堂と唐院を擁する中院、なかでも優美な姿を魅せるのが三重塔です。<br />1597(慶長2)年に豊臣秀吉により奈良県吉野 比蘇寺(現 世尊寺)にあった塔を伏見城近くの観月橋下に移築され、その4年後に徳川家康が三井寺に寄進したものです。つまり、慶長伏見大地震の生き証人です。伏見城はあえなく倒壊しましたが、心柱構造の賜物でしょうか!このように短期間に堂塔伽藍を復興・再建するために数多の寺院から建物を移築できたのは時の権力者のなせる業です。<br />須弥壇には1623(元和9)年の京都七条大仏師 康温作となる木造釈迦三尊像(釈迦、文殊、普賢)が祀られ、天井は格調高い折上小組格天井だそうです。因みに、この釈迦三尊像は後陽成天皇の7回忌に宮中で行われた法華八講の本尊として造像されました。<br />塔に近づくことは叶いませんが、ここの釈迦の姿は「宝冠釈迦如来」と称され、冠を被り胸飾りを付けたゴージャスな出で立ちのようです。釈迦が冠を被るのは違和感を覚えますが、『法華経』には「お釈迦さまはどんなに飾っても飾り過ぎることはない」と記されています。着こなしは、通常は右肩から胸をはだけていますが、両肩に左右対称に布を纏う「通肩(つうけん)」のようです。下半身の裳は腹部で結ばれ、流麗なドレープを描き柔らかそうな質感を与えるとされます。<br />因みに、金堂脇陣でも別の「宝冠釈迦如来像」が拝めました。

    唐院 三重塔(重文)
    境内には別院や鎮守社を含め多くの堂宇が建ち、その中核は金堂と唐院を擁する中院、なかでも優美な姿を魅せるのが三重塔です。
    1597(慶長2)年に豊臣秀吉により奈良県吉野 比蘇寺(現 世尊寺)にあった塔を伏見城近くの観月橋下に移築され、その4年後に徳川家康が三井寺に寄進したものです。つまり、慶長伏見大地震の生き証人です。伏見城はあえなく倒壊しましたが、心柱構造の賜物でしょうか!このように短期間に堂塔伽藍を復興・再建するために数多の寺院から建物を移築できたのは時の権力者のなせる業です。
    須弥壇には1623(元和9)年の京都七条大仏師 康温作となる木造釈迦三尊像(釈迦、文殊、普賢)が祀られ、天井は格調高い折上小組格天井だそうです。因みに、この釈迦三尊像は後陽成天皇の7回忌に宮中で行われた法華八講の本尊として造像されました。
    塔に近づくことは叶いませんが、ここの釈迦の姿は「宝冠釈迦如来」と称され、冠を被り胸飾りを付けたゴージャスな出で立ちのようです。釈迦が冠を被るのは違和感を覚えますが、『法華経』には「お釈迦さまはどんなに飾っても飾り過ぎることはない」と記されています。着こなしは、通常は右肩から胸をはだけていますが、両肩に左右対称に布を纏う「通肩(つうけん)」のようです。下半身の裳は腹部で結ばれ、流麗なドレープを描き柔らかそうな質感を与えるとされます。
    因みに、金堂脇陣でも別の「宝冠釈迦如来像」が拝めました。

  • 唐院 三重塔<br />南北朝時代の1392(明徳3)年の建造と比定され、鎌倉時代様式を踏襲したものとされます。塔高24.7m、軒が深く、3重のバランスが秀逸で、相輪の水煙などに中世仏塔の風格を湛えています。 <br />因みに、かつて比蘇寺には東西2塔あり、そのうちの東塔がここへ移築され、東塔は聖徳太子が父 用明天皇のために建立した由緒ある塔としています。世尊寺の伝承では「聖徳太子が建立し、鎌倉時代に改築」と伝えます。一方、三井寺では南北朝時代の建築と比定しています。尚、世尊寺には「比蘇寺東塔跡」の礎石が現存します。

    唐院 三重塔
    南北朝時代の1392(明徳3)年の建造と比定され、鎌倉時代様式を踏襲したものとされます。塔高24.7m、軒が深く、3重のバランスが秀逸で、相輪の水煙などに中世仏塔の風格を湛えています。
    因みに、かつて比蘇寺には東西2塔あり、そのうちの東塔がここへ移築され、東塔は聖徳太子が父 用明天皇のために建立した由緒ある塔としています。世尊寺の伝承では「聖徳太子が建立し、鎌倉時代に改築」と伝えます。一方、三井寺では南北朝時代の建築と比定しています。尚、世尊寺には「比蘇寺東塔跡」の礎石が現存します。

  • 唐院 三重塔<br />3重ともに縁に跳高欄を廻らせ、組物は伝統的な三手先ですが、2重と3重目の中央にある窓には珍しい菱格子を嵌めています。<br /><br />ここで徳川家康と三井寺の関係を紹介しておきましょう。<br />一説には、関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は、直ちに京へ進軍したのではなく、戦後処理を本丸だけが残された大津城で行ったそうです。そして大津の有力な米商人たちと談合を交えたのが三井寺だと伝わります。<br />また、三井寺には徳川歴代将軍が発給した朱印状が残されており、これらは三井寺の寺領を安堵するものです。このように家康の寄進などにより伽藍が再興され、世界史上類を見ない250余年に及ぶ泰平の世をもたらした徳川幕藩体制下で三井寺は安寧の時代を迎えました。<br />さて、家康が三井寺を特段崇めた理由は何なのでしょうか?<br />思い当たるのは、家康が秀吉の痕跡を抹殺しようとしたことと、三井寺は源氏が篤く信仰していた寺院だったことです。前者は秀吉の足跡「闕所令」からの復興です。後者に関しては、家康は自身のルーツを「河内源氏」と履歴詐称しており、源氏の末裔としてなすべきことをなしたとのアピール材料です。家康が藤原姓から源氏姓に変えたのは天下取りを意識した頃でした。家康は鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記述などから、征夷大将軍は清和源氏の系統でなければ朝廷が認めないと知っていたのでしょう。

    唐院 三重塔
    3重ともに縁に跳高欄を廻らせ、組物は伝統的な三手先ですが、2重と3重目の中央にある窓には珍しい菱格子を嵌めています。

    ここで徳川家康と三井寺の関係を紹介しておきましょう。
    一説には、関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は、直ちに京へ進軍したのではなく、戦後処理を本丸だけが残された大津城で行ったそうです。そして大津の有力な米商人たちと談合を交えたのが三井寺だと伝わります。
    また、三井寺には徳川歴代将軍が発給した朱印状が残されており、これらは三井寺の寺領を安堵するものです。このように家康の寄進などにより伽藍が再興され、世界史上類を見ない250余年に及ぶ泰平の世をもたらした徳川幕藩体制下で三井寺は安寧の時代を迎えました。
    さて、家康が三井寺を特段崇めた理由は何なのでしょうか?
    思い当たるのは、家康が秀吉の痕跡を抹殺しようとしたことと、三井寺は源氏が篤く信仰していた寺院だったことです。前者は秀吉の足跡「闕所令」からの復興です。後者に関しては、家康は自身のルーツを「河内源氏」と履歴詐称しており、源氏の末裔としてなすべきことをなしたとのアピール材料です。家康が藤原姓から源氏姓に変えたのは天下取りを意識した頃でした。家康は鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記述などから、征夷大将軍は清和源氏の系統でなければ朝廷が認めないと知っていたのでしょう。

  • 唐院 潅頂堂(重文)<br />唐院は参道より一段高いエリアとなっています。四脚門の先に潅頂堂、唐門、大師堂が一直線に建ち並ぶ姿は壮観です。「唐院」の名は三井寺の開祖 智証大師 円珍が唐から持ち帰った経典や法具類を納めるために建立されたことに因みます。また、ここは円珍の廟所でもあります。891(寛平3)年に円珍が入寂した翌年、増命と円敏が円珍の御廟として造営し、三井寺で最も神聖な一画です。<br />「潅頂堂」の名は「伝法潅頂の道場」であったことに因みます。<br />この仏塔は円珍が唐からもたらした経典や法具類を納めるために868(貞観10)年に清和天皇から京都御所 仁寿殿を下賜されました。仁寿殿は、紫宸殿の後方に配された天皇の居所でしたが、平安時代中期の第59代 宇多天皇が清涼殿に居所を移して以降、内宴や元服等の儀式を催したり、庭で行われた相撲や蹴鞠等の各種行事を観覧する場所となっていたそうです。

    唐院 潅頂堂(重文)
    唐院は参道より一段高いエリアとなっています。四脚門の先に潅頂堂、唐門、大師堂が一直線に建ち並ぶ姿は壮観です。「唐院」の名は三井寺の開祖 智証大師 円珍が唐から持ち帰った経典や法具類を納めるために建立されたことに因みます。また、ここは円珍の廟所でもあります。891(寛平3)年に円珍が入寂した翌年、増命と円敏が円珍の御廟として造営し、三井寺で最も神聖な一画です。
    「潅頂堂」の名は「伝法潅頂の道場」であったことに因みます。
    この仏塔は円珍が唐からもたらした経典や法具類を納めるために868(貞観10)年に清和天皇から京都御所 仁寿殿を下賜されました。仁寿殿は、紫宸殿の後方に配された天皇の居所でしたが、平安時代中期の第59代 宇多天皇が清涼殿に居所を移して以降、内宴や元服等の儀式を催したり、庭で行われた相撲や蹴鞠等の各種行事を観覧する場所となっていたそうです。

  • 唐院 潅頂堂<br />現在の潅頂堂は、慶長年間に大師堂の拝殿として、また密教の奥義を伝える伝法潅頂道場として桃山様式で再建されました。入母屋造、檜皮葺、正面中央に軒唐破風を設ける平安時代以来の上品な住宅風建築です。また、妻飾には木連格子(きづれごうし)を用いています。正面中央部は桟唐戸、その左右4間は蔀戸、南側面は腰高障子引違、北側面は北舞良戸引違と変化に富みます。<br />内部は前室と後室に分かれ、阿闍利の位を授ける儀式である伝法潅頂が行われます。南側に建つ長日護摩堂とは伝廊で繋がっています。<br />1238(嘉禎4)年7月11日、鎌倉幕府4代将軍 九条頼経に伴って上洛した第3代執権 北条泰時が仏教聖典『一切経』5千余巻を灌頂堂に納めるために三井寺へ参拝したとの記録が残されています。この『一切経』は北条政子の13回忌に際し書写し奉納されたものとされ、この日は泰時の叔母 政子の命日でした。経一巻毎に泰時の花押があったそうです。泰時は、来年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で活躍する北条義時の長男であり、鎌倉幕府北条家の中興の祖として『御成敗式目』を制定した人物として知られています。

    唐院 潅頂堂
    現在の潅頂堂は、慶長年間に大師堂の拝殿として、また密教の奥義を伝える伝法潅頂道場として桃山様式で再建されました。入母屋造、檜皮葺、正面中央に軒唐破風を設ける平安時代以来の上品な住宅風建築です。また、妻飾には木連格子(きづれごうし)を用いています。正面中央部は桟唐戸、その左右4間は蔀戸、南側面は腰高障子引違、北側面は北舞良戸引違と変化に富みます。
    内部は前室と後室に分かれ、阿闍利の位を授ける儀式である伝法潅頂が行われます。南側に建つ長日護摩堂とは伝廊で繋がっています。
    1238(嘉禎4)年7月11日、鎌倉幕府4代将軍 九条頼経に伴って上洛した第3代執権 北条泰時が仏教聖典『一切経』5千余巻を灌頂堂に納めるために三井寺へ参拝したとの記録が残されています。この『一切経』は北条政子の13回忌に際し書写し奉納されたものとされ、この日は泰時の叔母 政子の命日でした。経一巻毎に泰時の花押があったそうです。泰時は、来年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で活躍する北条義時の長男であり、鎌倉幕府北条家の中興の祖として『御成敗式目』を制定した人物として知られています。

  • 唐院 大師堂(重文)<br />唐院の中心となる仏堂かつ智証大師 円珍の御廟として桃山時代の1598(慶長3)年にいち早く再建されました。宝形造、桧皮葺の簡素な造りですが、参道より一段高く、塀に囲まれたこの一郭は静謐な趣を湛えています。 <br />大師堂には2躯の智証大師像(中尊大師・御骨大師(共に国宝))と黄不動尊立像(重文)の計3躯が安置されています。円珍は比叡山や渡唐上でこの黄不動を再三感得して身の危険を救われたと伝わり、黄不動は円珍の守護神的な存在とされます。<br />黄不動尊画像(国宝)は円珍が感得した黄不動を描いたもので、天台宗寺門派最高の厳儀とされる伝法灌頂の受者しか拝することが許されない秘仏(画像)です。その画像を基に模刻した彫像がここの黄不動尊立像(秘仏)です。

    唐院 大師堂(重文)
    唐院の中心となる仏堂かつ智証大師 円珍の御廟として桃山時代の1598(慶長3)年にいち早く再建されました。宝形造、桧皮葺の簡素な造りですが、参道より一段高く、塀に囲まれたこの一郭は静謐な趣を湛えています。
    大師堂には2躯の智証大師像(中尊大師・御骨大師(共に国宝))と黄不動尊立像(重文)の計3躯が安置されています。円珍は比叡山や渡唐上でこの黄不動を再三感得して身の危険を救われたと伝わり、黄不動は円珍の守護神的な存在とされます。
    黄不動尊画像(国宝)は円珍が感得した黄不動を描いたもので、天台宗寺門派最高の厳儀とされる伝法灌頂の受者しか拝することが許されない秘仏(画像)です。その画像を基に模刻した彫像がここの黄不動尊立像(秘仏)です。

  • 唐院 長日護摩堂(重文)<br />寺伝によると、後水尾天皇の本願により、1666(寛文6)年に建立されたとされます。宝形造、本瓦葺、頂上には露盤や宝珠を置きます。<br />正面中央間は桟唐戸、両脇は連子窓、両側面の前寄2間は横舞良戸引違、南側面の後端間は片引戸、その他の間は板壁です。

    唐院 長日護摩堂(重文)
    寺伝によると、後水尾天皇の本願により、1666(寛文6)年に建立されたとされます。宝形造、本瓦葺、頂上には露盤や宝珠を置きます。
    正面中央間は桟唐戸、両脇は連子窓、両側面の前寄2間は横舞良戸引違、南側面の後端間は片引戸、その他の間は板壁です。

  • 石畳の参道<br />村雲橋の手前右側に唐院へ通じる雰囲気のある石畳の参道があります。本来はここが表参道と思われますが、今回は下りに利用させていただきました。体力に自身のない方には、省エネのため、石橋を渡る今回のルートでの参拝をお勧めします。<br />因みに、この参道は2014年公開の若松節朗監督、中井貴一さん主演映画『柘榴坂の仇討ち』のロケ地ともなりました。<br />参道の両側には歴代の探題から奉納された石燈籠が建ち並び、穴太積みの石垣と相俟って聖域に相応しい静謐な趣きを湛えています。<br />因みに、探題とは仏教寺院に置かれた職を言います。僧の資格を問う論議において、論題を選定し、出された答えを判定する役を担う僧を指します。<br />唐院への表門となる四脚門は1624(寛永元)年の建立で重文に指定されています。元々は棟門形式でしたが、建立後間もなく四脚門に改修されたそうです。

    石畳の参道
    村雲橋の手前右側に唐院へ通じる雰囲気のある石畳の参道があります。本来はここが表参道と思われますが、今回は下りに利用させていただきました。体力に自身のない方には、省エネのため、石橋を渡る今回のルートでの参拝をお勧めします。
    因みに、この参道は2014年公開の若松節朗監督、中井貴一さん主演映画『柘榴坂の仇討ち』のロケ地ともなりました。
    参道の両側には歴代の探題から奉納された石燈籠が建ち並び、穴太積みの石垣と相俟って聖域に相応しい静謐な趣きを湛えています。
    因みに、探題とは仏教寺院に置かれた職を言います。僧の資格を問う論議において、論題を選定し、出された答えを判定する役を担う僧を指します。
    唐院への表門となる四脚門は1624(寛永元)年の建立で重文に指定されています。元々は棟門形式でしたが、建立後間もなく四脚門に改修されたそうです。

  • 石畳の参道<br />三井寺には多くの不動明王が祀られていますが、円珍と関係するのが「黄不動(金色不動明王)」です。正式名称は「絹本著色不動明王像(画像)」と言います。この黄不動尊根本像は三井寺の最高の厳儀である伝法潅頂の受者しか拝する事が許されない秘仏中の秘仏です。高野山明王院「赤不動」、京都青蓮院「青不動」と共に三大不動に数えられます。<br />838(承和5)年、比叡山で12年間の籠山修行中の円珍(25歳)の目前に忽然と現れ、「仏法の真髄を伝える汝を守護するものなり」と告げたと伝わります。大師がその姿を画工に描かせたのが黄不動尊画像です。その後も黄不動尊は、円珍が唐への航海の途上で海賊に襲撃されそうになった際に出現するなど、円珍の生涯の危機に際して現れ、円珍の守護神的存在と伝わります。「新羅明神伝説」ともよく似た逸話ですが、それは20年程後の話になります。<br />因みに、円珍は修験道の開祖で鬼神を使役した役行者に心酔していたようです。彼に倣い大峯山や葛城、熊野三山を巡礼し、 那智の滝に参籠しています。この事績が円・密・修験の三道融会を掲げる三井寺修験道の起源ともなり、これ以降、大峯山は霊山として発展していきました。<br />画像サイズは178cm×72cm。平安時代初期の9世紀頃の制作と推定されていますが、近年の修復において唐時代の作とする説も浮上しています。不動像は両眼を見開き、上半身裸形、筋骨隆々とした姿をなされているそうです。背景を描かず、像は画面一杯に描かれ、像の足下には台座がなく、虚空を踏まえています。また、頭髪に弁髪を造らない点など、通常の不動明王像とは図像的に異なるそうです。 因みに文章博士 三善清行著『円珍伝』は、その尊容を「魁偉奇妙にして威光熾盛なり、 手に刀剣を捉り、足は虚空を踏む」と描写しています。

    石畳の参道
    三井寺には多くの不動明王が祀られていますが、円珍と関係するのが「黄不動(金色不動明王)」です。正式名称は「絹本著色不動明王像(画像)」と言います。この黄不動尊根本像は三井寺の最高の厳儀である伝法潅頂の受者しか拝する事が許されない秘仏中の秘仏です。高野山明王院「赤不動」、京都青蓮院「青不動」と共に三大不動に数えられます。
    838(承和5)年、比叡山で12年間の籠山修行中の円珍(25歳)の目前に忽然と現れ、「仏法の真髄を伝える汝を守護するものなり」と告げたと伝わります。大師がその姿を画工に描かせたのが黄不動尊画像です。その後も黄不動尊は、円珍が唐への航海の途上で海賊に襲撃されそうになった際に出現するなど、円珍の生涯の危機に際して現れ、円珍の守護神的存在と伝わります。「新羅明神伝説」ともよく似た逸話ですが、それは20年程後の話になります。
    因みに、円珍は修験道の開祖で鬼神を使役した役行者に心酔していたようです。彼に倣い大峯山や葛城、熊野三山を巡礼し、 那智の滝に参籠しています。この事績が円・密・修験の三道融会を掲げる三井寺修験道の起源ともなり、これ以降、大峯山は霊山として発展していきました。
    画像サイズは178cm×72cm。平安時代初期の9世紀頃の制作と推定されていますが、近年の修復において唐時代の作とする説も浮上しています。不動像は両眼を見開き、上半身裸形、筋骨隆々とした姿をなされているそうです。背景を描かず、像は画面一杯に描かれ、像の足下には台座がなく、虚空を踏まえています。また、頭髪に弁髪を造らない点など、通常の不動明王像とは図像的に異なるそうです。 因みに文章博士 三善清行著『円珍伝』は、その尊容を「魁偉奇妙にして威光熾盛なり、 手に刀剣を捉り、足は虚空を踏む」と描写しています。

  • 唐院 止観道場<br />石畳の参道のすぐ南隣にもこうした趣のある苔むした参道が伸びています。<br /><br />三井寺と不動明王の関わりを示すものに清浄華院に安置される不動明王画像『泣き不動縁起』があります。<br />平安時代中期、三井寺に智興という高僧がいました。智興が重病を患った折、陰陽師 安部晴明が占ったところ、「弟子の中に身代わりになる者が居れば助かる」とのことでした。それを引き受ける弟子が現れない中、最年少の証空が名乗りを上げました。<br />証空は今生の別れを告げるため年老いた母の元へ帰郷し事情を諭しました。証空は師との約束を反故にする訳にはいかないと、母が引き留める袖を振り切り、後ろ髪を引かれながら寺へ戻りました。師の病を引き受けた証空は苦しみ悶えながらも日頃から信仰していた不動明王画像に「せめて後生は助け給え」と祈りを捧げました。するとその不動が証空の志を憐れみ、証空の身代わりとなって涙を流して地獄へと引き立てられて行きました。閻魔大王らは不動が現れたのを見て驚き、丁重に白雲に乗せて帰還させました。すると智興と証空の病が治癒しました。その後、この不動明王画像は一堂を結んで安置され、「泣不動」や「身代わり不動」 と称されたと伝えます。<br />信心深い弟子の痛みを引き受けた不動明王の霊験譚は、鴨長明著『発心集』にも見られます。また、証空以後の時代も泣不動尊像の霊験はあらたかだったようで、『寺門傳記補録』には、井戸が自坊にないことを嘆いた花王院 覚助が泣不動尊に祈ると忽ち庭から泉が湧いたという説話が収録されています。 <br />このように元々は三井寺にあった泣不動尊像ですが、現在は浄土宗大本山 清浄華院の什宝となっています。これは鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍した清浄華院第5世 向阿是心(こうあぜしん)上人によって持ち込まれたためと伝えます。

    唐院 止観道場
    石畳の参道のすぐ南隣にもこうした趣のある苔むした参道が伸びています。

    三井寺と不動明王の関わりを示すものに清浄華院に安置される不動明王画像『泣き不動縁起』があります。
    平安時代中期、三井寺に智興という高僧がいました。智興が重病を患った折、陰陽師 安部晴明が占ったところ、「弟子の中に身代わりになる者が居れば助かる」とのことでした。それを引き受ける弟子が現れない中、最年少の証空が名乗りを上げました。
    証空は今生の別れを告げるため年老いた母の元へ帰郷し事情を諭しました。証空は師との約束を反故にする訳にはいかないと、母が引き留める袖を振り切り、後ろ髪を引かれながら寺へ戻りました。師の病を引き受けた証空は苦しみ悶えながらも日頃から信仰していた不動明王画像に「せめて後生は助け給え」と祈りを捧げました。するとその不動が証空の志を憐れみ、証空の身代わりとなって涙を流して地獄へと引き立てられて行きました。閻魔大王らは不動が現れたのを見て驚き、丁重に白雲に乗せて帰還させました。すると智興と証空の病が治癒しました。その後、この不動明王画像は一堂を結んで安置され、「泣不動」や「身代わり不動」 と称されたと伝えます。
    信心深い弟子の痛みを引き受けた不動明王の霊験譚は、鴨長明著『発心集』にも見られます。また、証空以後の時代も泣不動尊像の霊験はあらたかだったようで、『寺門傳記補録』には、井戸が自坊にないことを嘆いた花王院 覚助が泣不動尊に祈ると忽ち庭から泉が湧いたという説話が収録されています。
    このように元々は三井寺にあった泣不動尊像ですが、現在は浄土宗大本山 清浄華院の什宝となっています。これは鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍した清浄華院第5世 向阿是心(こうあぜしん)上人によって持ち込まれたためと伝えます。

  • 唐院 止観道場<br />楓の紅葉と植樹や苔の碧、石垣のコントラストが見事です。<br />止観道場の門は朝原雄三監督、上戸彩さん主演作品『武士の献立』のロケ地ともなりました。<br /><br />向阿上人は浄土宗の学僧ですが、当初は三井寺にて出家して泣不動尊を信仰していました。その後、清浄華院に移り、その時に泣不動尊を持ち込んだと伝わり、清浄華院の不動信仰はこれが起源とされます。<br />室町時代成立の『浄華院霊宝縁起』には別の泣不動尊エピソードが記されています。三井寺で修行し学僧として頭角を現した向阿上人は、信仰する泣不動尊の加護もあり、26歳にして弟子を持つほど優秀でした。その中に稚児がおり、上人は大層かわいがりました。そんなある日、上人が大病を患いました。死の淵を彷徨う程の大病でしたが、ある日から突然癒え始めました。程なく病は全快するも、稚児の姿が見当たりません。探してみると、なんと稚児の家では葬儀の最中でした。尋ねると、稚児は上人の病が癒えた頃に亡くなったと言います。上人は亡骸を抱いて号泣し悲しみました。やがて遺品が上人の元に届けられると、その中に自分が授けた泣不動尊像の厨子がありました。その厨子を開けてみると、手紙がありました。それは稚児が「上人のために身代わりになりたい」と不動尊に宛てたものでした。自分のために未来ある稚児が身代わりになったことに無常を悟った上人は、稚児の菩提を弔うため清浄華院第4世 礼阿然空の元で浄土門に帰依しました。泣不動尊像は、この時に清浄華院に移ったと伝えます。<br />その後、上人は浄土宗の教えを伝えるため仮名法語『三部仮名抄』を執筆し、それは浄土宗の教義書として重用されました。一部は師弟問答の形式をとっており、上人はこの師弟に自分と共に成長するはずだった稚児の姿を重ねたのかもしれません。

    唐院 止観道場
    楓の紅葉と植樹や苔の碧、石垣のコントラストが見事です。
    止観道場の門は朝原雄三監督、上戸彩さん主演作品『武士の献立』のロケ地ともなりました。

    向阿上人は浄土宗の学僧ですが、当初は三井寺にて出家して泣不動尊を信仰していました。その後、清浄華院に移り、その時に泣不動尊を持ち込んだと伝わり、清浄華院の不動信仰はこれが起源とされます。
    室町時代成立の『浄華院霊宝縁起』には別の泣不動尊エピソードが記されています。三井寺で修行し学僧として頭角を現した向阿上人は、信仰する泣不動尊の加護もあり、26歳にして弟子を持つほど優秀でした。その中に稚児がおり、上人は大層かわいがりました。そんなある日、上人が大病を患いました。死の淵を彷徨う程の大病でしたが、ある日から突然癒え始めました。程なく病は全快するも、稚児の姿が見当たりません。探してみると、なんと稚児の家では葬儀の最中でした。尋ねると、稚児は上人の病が癒えた頃に亡くなったと言います。上人は亡骸を抱いて号泣し悲しみました。やがて遺品が上人の元に届けられると、その中に自分が授けた泣不動尊像の厨子がありました。その厨子を開けてみると、手紙がありました。それは稚児が「上人のために身代わりになりたい」と不動尊に宛てたものでした。自分のために未来ある稚児が身代わりになったことに無常を悟った上人は、稚児の菩提を弔うため清浄華院第4世 礼阿然空の元で浄土門に帰依しました。泣不動尊像は、この時に清浄華院に移ったと伝えます。
    その後、上人は浄土宗の教えを伝えるため仮名法語『三部仮名抄』を執筆し、それは浄土宗の教義書として重用されました。一部は師弟問答の形式をとっており、上人はこの師弟に自分と共に成長するはずだった稚児の姿を重ねたのかもしれません。

  • 唐院 止観道場<br />ここでは事前に申し込めば座禅(止観)体験ができます。<br />ところで座禅の起源は禅宗と思われているかもしれませんが、座禅の起源は天台宗です。智顗著『小止観』や『摩訶止観』は、座禅作法を具体的に論じた瞑想修行論の古典的名著です。特に『小止観』は禅の作法書として宗派を越えて多大な影響を及ぼしました。それ故、天台宗では座禅を「止観」とも呼び、大切な修行法のひとつとしています。 <br />因みに、三井寺の座禅作法は他とは異なり、足の組み方は「結跏趺坐」ではなく、足だけを重ねる「半跏趺坐」です。また、手の印相も「法界定印」ではなく、左右の親指の先を合わせません。この印相は、少しでも心が乱れたり、睡魔に襲われると保てなくなります。この姿勢は智証大師が苦行をされている姿を現すものと伝えます。

    唐院 止観道場
    ここでは事前に申し込めば座禅(止観)体験ができます。
    ところで座禅の起源は禅宗と思われているかもしれませんが、座禅の起源は天台宗です。智顗著『小止観』や『摩訶止観』は、座禅作法を具体的に論じた瞑想修行論の古典的名著です。特に『小止観』は禅の作法書として宗派を越えて多大な影響を及ぼしました。それ故、天台宗では座禅を「止観」とも呼び、大切な修行法のひとつとしています。
    因みに、三井寺の座禅作法は他とは異なり、足の組み方は「結跏趺坐」ではなく、足だけを重ねる「半跏趺坐」です。また、手の印相も「法界定印」ではなく、左右の親指の先を合わせません。この印相は、少しでも心が乱れたり、睡魔に襲われると保てなくなります。この姿勢は智証大師が苦行をされている姿を現すものと伝えます。

  • 村雲橋<br />現在の村雲橋は江戸時代に架け替えられた苔生した欄干を持つ石造の緩やかな反り橋ですが、小ぶりな上に参道の景観にほどよく溶け込んでいるため、ほとんどの参拝者は意識することなくそそくさと道を急がれています。

    村雲橋
    現在の村雲橋は江戸時代に架け替えられた苔生した欄干を持つ石造の緩やかな反り橋ですが、小ぶりな上に参道の景観にほどよく溶け込んでいるため、ほとんどの参拝者は意識することなくそそくさと道を急がれています。

  • 村雲橋<br />この橋には次のような円珍の超人的エピソードが遺されています。<br />「この橋から西の空を仰ぎ見た円珍が、入唐中に学んだ長安の青竜寺が燃えているのを察知し、直ちに真言を唱えて閼伽水を撒いたところ、橋下から一条の雲が湧き起こり西の方角に飛び去った。数日後、青竜寺から火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたことから、この橋は村雲橋(むらがり立つ雲の橋)と呼ばれるようになった」。

    村雲橋
    この橋には次のような円珍の超人的エピソードが遺されています。
    「この橋から西の空を仰ぎ見た円珍が、入唐中に学んだ長安の青竜寺が燃えているのを察知し、直ちに真言を唱えて閼伽水を撒いたところ、橋下から一条の雲が湧き起こり西の方角に飛び去った。数日後、青竜寺から火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたことから、この橋は村雲橋(むらがり立つ雲の橋)と呼ばれるようになった」。

  • 村雲橋<br />江戸時代中期の奇石蒐集家かつ日本考古学の先駆者のひとりで「石の長者」と称される木内石亭の著作全集には「村雲橋の下に火難除けにご利益のある村雲石がある」と記されています。 <br />石亭は自著『雲根志』で「11歳の頃突然、石に目覚めた」と吐露しています。幼くして郷代官の家柄の木内家に養子に出され、その近江南部では珍しい石を蒐集する弄石が流行っており、石に傾倒して行きました。やがて一念発起し、本格的な石の研究を志して医師 田村藍水に弟子入りしました。「石」と「医師」…ダジャレのようですが、田村は医師かつ博物学者でもありました。同じ頃、平賀源内も田村に弟子入りし、両者は活発に交流したと窺えます。<br />20歳の頃、「貧吏の罪」に連座して3年の禁錮刑に処せられました。これについては膳所藩内の権力闘争に巻き込まれたとの説が有力です。しかし、石亭にとり牢獄の閉鎖空間と豊富な時間は恩恵に値するものであり、石の研究の糧となりました。妻も共に獄中生活を送りましたが、妻も大の石好きでした。幸か不幸か本事件の絡みで木内家は新たに養子を迎え、石亭は分家となりました。かくして石亭は石を極める道を進めることになりました。<br />85年の生涯を通して2000~3000点の「奇石」を蒐集し、また、石を分析・分類し科学的に観察する手法は、明治時代以降に欧州から伝わった考古学と共通する点も多く、往時の日本では画期的でした。そんな石亭の功績は「出島の三学者」と称されたシーボルトにも認められました。彼の著書『日本』の執筆に際し、参考とした石器や曲玉は石亭の研究成果を用いています。<br />石亭の生き様については賛否両論ありますが、彼のような破天荒な人物がいなければ学問の発展はなかったことでしょう。また、目線を違えれば、こうした人物を許容できた江戸時代中期の社会環境は成熟していたと言えます。<br />さて、どの石がかの「村雲石」なのでしょうか?

    村雲橋
    江戸時代中期の奇石蒐集家かつ日本考古学の先駆者のひとりで「石の長者」と称される木内石亭の著作全集には「村雲橋の下に火難除けにご利益のある村雲石がある」と記されています。
    石亭は自著『雲根志』で「11歳の頃突然、石に目覚めた」と吐露しています。幼くして郷代官の家柄の木内家に養子に出され、その近江南部では珍しい石を蒐集する弄石が流行っており、石に傾倒して行きました。やがて一念発起し、本格的な石の研究を志して医師 田村藍水に弟子入りしました。「石」と「医師」…ダジャレのようですが、田村は医師かつ博物学者でもありました。同じ頃、平賀源内も田村に弟子入りし、両者は活発に交流したと窺えます。
    20歳の頃、「貧吏の罪」に連座して3年の禁錮刑に処せられました。これについては膳所藩内の権力闘争に巻き込まれたとの説が有力です。しかし、石亭にとり牢獄の閉鎖空間と豊富な時間は恩恵に値するものであり、石の研究の糧となりました。妻も共に獄中生活を送りましたが、妻も大の石好きでした。幸か不幸か本事件の絡みで木内家は新たに養子を迎え、石亭は分家となりました。かくして石亭は石を極める道を進めることになりました。
    85年の生涯を通して2000~3000点の「奇石」を蒐集し、また、石を分析・分類し科学的に観察する手法は、明治時代以降に欧州から伝わった考古学と共通する点も多く、往時の日本では画期的でした。そんな石亭の功績は「出島の三学者」と称されたシーボルトにも認められました。彼の著書『日本』の執筆に際し、参考とした石器や曲玉は石亭の研究成果を用いています。
    石亭の生き様については賛否両論ありますが、彼のような破天荒な人物がいなければ学問の発展はなかったことでしょう。また、目線を違えれば、こうした人物を許容できた江戸時代中期の社会環境は成熟していたと言えます。
    さて、どの石がかの「村雲石」なのでしょうか?

  • 勧学院<br />勧学院は「天台の碩学の名室」と称される三井寺の子院であり、1239(延応元)年に幸尊僧正によって創建されました。幸尊は亀山天皇や北条時頼などの帰依を受けた高僧です。<br />客殿は鎌倉時代末期の1312(正和元)年に房海僧正によって創建され、鎌倉幕府第9代執権 北条貞時の助力により、学僧20人を置き、日々三大部を講釈したと伝わります。その後火災や豊臣秀吉の闕所に遭い、現在の建物は1600(慶長5)年に豊臣秀頼の命を受けた、五大老のひとり毛利輝元が造営奉行として再建した事が床板の銘文より判明しています。毛利家は元就の時代から三井寺と法縁が深く、輝元は国清寺(現 洞春寺)にあった一切経蔵を三井寺へ寄進、移築しています。

    勧学院
    勧学院は「天台の碩学の名室」と称される三井寺の子院であり、1239(延応元)年に幸尊僧正によって創建されました。幸尊は亀山天皇や北条時頼などの帰依を受けた高僧です。
    客殿は鎌倉時代末期の1312(正和元)年に房海僧正によって創建され、鎌倉幕府第9代執権 北条貞時の助力により、学僧20人を置き、日々三大部を講釈したと伝わります。その後火災や豊臣秀吉の闕所に遭い、現在の建物は1600(慶長5)年に豊臣秀頼の命を受けた、五大老のひとり毛利輝元が造営奉行として再建した事が床板の銘文より判明しています。毛利家は元就の時代から三井寺と法縁が深く、輝元は国清寺(現 洞春寺)にあった一切経蔵を三井寺へ寄進、移築しています。

  • 勧学院 客殿(国宝)<br />入母屋造、総杮葺、正面に軒唐破風を設けて妻戸の正門を開き、左隣は連子窓、右側には蔀戸が連続するなど、平安時代の寝殿造の特徴を色濃く残しています。正面に向かって左端、客殿の南東部分には中門廊が付属し、これも寝殿造の名残です。内部は南北を大きく3列に分け、南列の「一之間」と広い「二之間」には 狩野光信による華麗な障壁画39面が部屋を飾ります。一之間には大床の「滝図」を中心に四季を巡る花々、ニ之間の襖には様々な姿態を魅せる鳥類が描かれています。基本的に全ての部屋は襖で仕切られていますが、襖を払うと広いスペースが確保できます。これは学問所として多人数で使用するためと考えられています。因みに、「一之間」は元皇女 小室眞子さんの就職先候補に挙げられているメトロポリタン美術館に再現されています。

    勧学院 客殿(国宝)
    入母屋造、総杮葺、正面に軒唐破風を設けて妻戸の正門を開き、左隣は連子窓、右側には蔀戸が連続するなど、平安時代の寝殿造の特徴を色濃く残しています。正面に向かって左端、客殿の南東部分には中門廊が付属し、これも寝殿造の名残です。内部は南北を大きく3列に分け、南列の「一之間」と広い「二之間」には 狩野光信による華麗な障壁画39面が部屋を飾ります。一之間には大床の「滝図」を中心に四季を巡る花々、ニ之間の襖には様々な姿態を魅せる鳥類が描かれています。基本的に全ての部屋は襖で仕切られていますが、襖を払うと広いスペースが確保できます。これは学問所として多人数で使用するためと考えられています。因みに、「一之間」は元皇女 小室眞子さんの就職先候補に挙げられているメトロポリタン美術館に再現されています。

  • 勧学院 客殿<br />豪華絢爛を極めた桃山美術を代表する天才絵師 狩野永徳の長男 光信の画風は、父の豪壮な作風とは異なり、大和絵の伝統を取り入れた繊細優美な作風で、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木や金雲などに特徴があり、その後の狩野派に多大な影響を及ぼしました。しかし、彼の作品の多くは戦乱で失われてしまい、今日伝わる光信の代表作が三井寺勧学院の障壁画です。他には京都の妙法院や高台寺、法然院などに作品が残されています。

    勧学院 客殿
    豪華絢爛を極めた桃山美術を代表する天才絵師 狩野永徳の長男 光信の画風は、父の豪壮な作風とは異なり、大和絵の伝統を取り入れた繊細優美な作風で、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木や金雲などに特徴があり、その後の狩野派に多大な影響を及ぼしました。しかし、彼の作品の多くは戦乱で失われてしまい、今日伝わる光信の代表作が三井寺勧学院の障壁画です。他には京都の妙法院や高台寺、法然院などに作品が残されています。

  • 三尾影向石<br />勧学院の前の参道を奥まで登っていくと桧の大木に寄り添うように一磐石が佇み、井桁に組んだ切石で囲んであります。<br />この石は聖なる磐座であり、三尾明神が来臨する時は必ずこの石に鎮座したと伝わります。また、古来、この辺りは琴尾谷と呼ばれ、かつてこの谷を流れる清流に天人が舞い降り、琴や笛を奏でて舞戯をし、歌詠し神を慰めたと伝わります。 <br />とは言え、現在この辺り一帯は新規の霊園に変わりつつあります。

    三尾影向石
    勧学院の前の参道を奥まで登っていくと桧の大木に寄り添うように一磐石が佇み、井桁に組んだ切石で囲んであります。
    この石は聖なる磐座であり、三尾明神が来臨する時は必ずこの石に鎮座したと伝わります。また、古来、この辺りは琴尾谷と呼ばれ、かつてこの谷を流れる清流に天人が舞い降り、琴や笛を奏でて舞戯をし、歌詠し神を慰めたと伝わります。
    とは言え、現在この辺り一帯は新規の霊園に変わりつつあります。

  • 普賢堂<br />廃寺となったのか、境内はひどく荒れています。尚、受付で頂いた境内マップにも普賢堂の所在は認められません。<br />普賢堂は、かつて「上の三尾社」があった境内の西上の高台に佇みます。三井寺の地主神である三尾明神に接し、本地仏 普賢菩薩を祀る預坊として本地堂の役割を果たしていました。その三尾神社は1876(明治9)年に現在地に遷座しました。<br />三尾明神は長等山の地主神として三井寺が建立される以前から鎮座していたと伝わります。 伝承によると、伊弉諾尊が降臨して長等山の地主神となったのが起源としています。この神は常に赤・白・黒の腰帯を着けており、その姿が3つの尾を曳いているように見えたことから三尾明神と呼ばれました。3つの腰帯は赤尾神、白尾神、黒尾神となり、最初に現れたのは本神とされた赤尾天照太神で、太古、卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方角から三井寺山中の琴緒谷に現れました。これに因み、兎を神使とし、神紋を「真向きの兎」とします。その後、白尾白山権現が現社地に、黒尾新羅太神が鹿関の地に現れたと伝わります。

    普賢堂
    廃寺となったのか、境内はひどく荒れています。尚、受付で頂いた境内マップにも普賢堂の所在は認められません。
    普賢堂は、かつて「上の三尾社」があった境内の西上の高台に佇みます。三井寺の地主神である三尾明神に接し、本地仏 普賢菩薩を祀る預坊として本地堂の役割を果たしていました。その三尾神社は1876(明治9)年に現在地に遷座しました。
    三尾明神は長等山の地主神として三井寺が建立される以前から鎮座していたと伝わります。 伝承によると、伊弉諾尊が降臨して長等山の地主神となったのが起源としています。この神は常に赤・白・黒の腰帯を着けており、その姿が3つの尾を曳いているように見えたことから三尾明神と呼ばれました。3つの腰帯は赤尾神、白尾神、黒尾神となり、最初に現れたのは本神とされた赤尾天照太神で、太古、卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方角から三井寺山中の琴緒谷に現れました。これに因み、兎を神使とし、神紋を「真向きの兎」とします。その後、白尾白山権現が現社地に、黒尾新羅太神が鹿関の地に現れたと伝わります。

  • 普賢堂<br />客殿の南側にある江戸時代に作庭された庭園は、長等山を借景とした日当りの良い池泉観賞式庭園とされています。客殿から見て正面に饅頭形をした築山、右手奥に枯滝の石組を造り、その手前に三日月形の池(現在、水はありません)を配しているそうです。池中に浮石、各所に立石やツツジの植込みなどを配し、背景の杉や檜の森林景観と相俟って小規模ながらも魅力に富んでいます。

    普賢堂
    客殿の南側にある江戸時代に作庭された庭園は、長等山を借景とした日当りの良い池泉観賞式庭園とされています。客殿から見て正面に饅頭形をした築山、右手奥に枯滝の石組を造り、その手前に三日月形の池(現在、水はありません)を配しているそうです。池中に浮石、各所に立石やツツジの植込みなどを配し、背景の杉や檜の森林景観と相俟って小規模ながらも魅力に富んでいます。

  • 微妙寺<br />三井寺五別所のひとつで、994(正暦5)年に慶祚(けいそ)阿闍梨により創建されました。慶祚は、『往生要集』を著した恵心僧都源信の盟友であり、三井寺を隆盛に導いた高僧です。<br />現在の長等公園の付近に微妙寺、尾蔵寺、近松寺があり、三井寺三別所と称されました。9世紀の平安仏の本尊 十一面観音像は、厄除開運、健康長寿、財福授与などを願う参詣客で賑わい、被っていた笠も脱げるほどだったことから「笠脱げの観音」と呼ばれました。『寺門伝記補録』には「霊験四表を輝す」と記され、特にその霊験威徳の灼かなことは有名だったようです。<br />因みに近松寺は、平安時代に安然和尚によって創建され、現在も創建地に残されています。1672(寛文11)年には20歳になった近松門左衛門が近松寺を訪れて3年間を過ごし、その後、武士の身分を捨てて京へ上り、一流の戯曲作家となりました。<br />現在の本堂は1776(安永5)年に入母屋造、桟瓦葺で再建されたもので、本尊には薬師如来を祀ります。また、1979(昭和54)年に現在地に移され、廃寺となった尾蔵寺の旧本尊 十一面観音立像も祀っています。この仏像は、天智天皇の念持仏と伝わり、像高82cm、檜の一木造で、台座の蓮肉も同じ材から彫り出されたものです。全身は古色に覆われていますが、裳には朱彩の形跡があり、截金(きりかね)による花文もあり、初期小檀像の中では特異な存在とされます。「笠脱げの観音」と同様に足が短く寸胴体型なのは、下から見上げる事を想定しての造像と窺えます。しかし、現在は立って参拝する信者が多く、少し違和感を覚えます。<br />因みに、微妙寺で黄不動尊の御朱印が授与されます。

    微妙寺
    三井寺五別所のひとつで、994(正暦5)年に慶祚(けいそ)阿闍梨により創建されました。慶祚は、『往生要集』を著した恵心僧都源信の盟友であり、三井寺を隆盛に導いた高僧です。
    現在の長等公園の付近に微妙寺、尾蔵寺、近松寺があり、三井寺三別所と称されました。9世紀の平安仏の本尊 十一面観音像は、厄除開運、健康長寿、財福授与などを願う参詣客で賑わい、被っていた笠も脱げるほどだったことから「笠脱げの観音」と呼ばれました。『寺門伝記補録』には「霊験四表を輝す」と記され、特にその霊験威徳の灼かなことは有名だったようです。
    因みに近松寺は、平安時代に安然和尚によって創建され、現在も創建地に残されています。1672(寛文11)年には20歳になった近松門左衛門が近松寺を訪れて3年間を過ごし、その後、武士の身分を捨てて京へ上り、一流の戯曲作家となりました。
    現在の本堂は1776(安永5)年に入母屋造、桟瓦葺で再建されたもので、本尊には薬師如来を祀ります。また、1979(昭和54)年に現在地に移され、廃寺となった尾蔵寺の旧本尊 十一面観音立像も祀っています。この仏像は、天智天皇の念持仏と伝わり、像高82cm、檜の一木造で、台座の蓮肉も同じ材から彫り出されたものです。全身は古色に覆われていますが、裳には朱彩の形跡があり、截金(きりかね)による花文もあり、初期小檀像の中では特異な存在とされます。「笠脱げの観音」と同様に足が短く寸胴体型なのは、下から見上げる事を想定しての造像と窺えます。しかし、現在は立って参拝する信者が多く、少し違和感を覚えます。
    因みに、微妙寺で黄不動尊の御朱印が授与されます。

  • 天台智者大師 智顗(ちぎ)像<br />智顗(538~97年)は、中国の南北朝~隋時代にかけて活躍した僧侶で、『法華経』を中心とした天台教学を体系化し、中国天台宗の開祖とも、慧文・慧思に次ぐ第3祖とも仰がれています。<br />隋晋王広(煬帝)の尊崇篤く、隋代第一の学匠として「智者大師」の号を賜わり、日本へは伝教大師 最澄が伝え、高祖天台智者大師と称されて篤く尊崇されています。 <br />三井寺も天台宗ですのでその繋がりで安置されているものと窺えます。実は、三井寺には鎌倉時代の筆とされる『天台大師御像』(画像)が2幅(重文)あります。

    天台智者大師 智顗(ちぎ)像
    智顗(538~97年)は、中国の南北朝~隋時代にかけて活躍した僧侶で、『法華経』を中心とした天台教学を体系化し、中国天台宗の開祖とも、慧文・慧思に次ぐ第3祖とも仰がれています。
    隋晋王広(煬帝)の尊崇篤く、隋代第一の学匠として「智者大師」の号を賜わり、日本へは伝教大師 最澄が伝え、高祖天台智者大師と称されて篤く尊崇されています。
    三井寺も天台宗ですのでその繋がりで安置されているものと窺えます。実は、三井寺には鎌倉時代の筆とされる『天台大師御像』(画像)が2幅(重文)あります。

  • 三井寺力餅本家<br />貞享3年に起こった観音堂の火災にまつわる三井寺名物があります。1810(文化7)年創業から220年程の歴史を誇る本家 力軒(ちからけん)が販売している「三井寺辨慶力餅」がそれです。この力軒は正保・慶安年間(1645~52年)に三井寺境内で販売されていた力餅を江戸時代に復活させて今に至る老舗です。<br />力餅はその名を近江に知られていましたが、観音堂で火災が起こり、その際に店が焼け、その後商売が途絶えました。歳月が経ち、名物が途絶えることを不憫に思った田中礒兵衛が本家 力軒として再び「三井寺辨慶力餅」の商売を始め、現在に至るそうです。<br />創業以来、手作りの味を守り続け、力餅は大津を代表する銘菓として親しまれています。注文毎に一つひとつ手作業で柔らかくコシのある求肥餅に抹茶と和三盆糖を混ぜ合わせたきな粉をまぶしていきます。保存料などの添加物は一切使用していおらず、消費期限は翌日となっています。作りたてはとろっとろの食感が愉しめます。しゃりっとした食感のアクセントは、餅ときな粉の間にシュガーグレーズという砂糖と蜜を混ぜたものを塗っているからです。

    三井寺力餅本家
    貞享3年に起こった観音堂の火災にまつわる三井寺名物があります。1810(文化7)年創業から220年程の歴史を誇る本家 力軒(ちからけん)が販売している「三井寺辨慶力餅」がそれです。この力軒は正保・慶安年間(1645~52年)に三井寺境内で販売されていた力餅を江戸時代に復活させて今に至る老舗です。
    力餅はその名を近江に知られていましたが、観音堂で火災が起こり、その際に店が焼け、その後商売が途絶えました。歳月が経ち、名物が途絶えることを不憫に思った田中礒兵衛が本家 力軒として再び「三井寺辨慶力餅」の商売を始め、現在に至るそうです。
    創業以来、手作りの味を守り続け、力餅は大津を代表する銘菓として親しまれています。注文毎に一つひとつ手作業で柔らかくコシのある求肥餅に抹茶と和三盆糖を混ぜ合わせたきな粉をまぶしていきます。保存料などの添加物は一切使用していおらず、消費期限は翌日となっています。作りたてはとろっとろの食感が愉しめます。しゃりっとした食感のアクセントは、餅ときな粉の間にシュガーグレーズという砂糖と蜜を混ぜたものを塗っているからです。

  • 赤く染まったのはウルシ科のハゼノキでしょうか?<br /><br />微妙寺から参道を挟んだ向かい側に文化財収蔵庫があり、観学院客殿の狩野光信による襖絵39面をはじめ仏像など重要文化財13件53点が展示されています。収蔵庫も特別拝観券で入館できます。(通常は\300)<br />かつては微妙寺の本尊だった十一面観音立像(笠脱げの観音)や朝鮮鐘、智証大師坐像、護法善神堂に祀られていた訶梨帝母倚(かりていもいぞう)像、初公開の伝教大師肖像画などが見所です。<br />この十一面観音像も、一般的なスマートな体形の観音像とは程遠く、独特のプロポーションをなされています。顔はふくよかで大きく、寸胴で短足なアンバランスなお姿を往時の方々は下から見上げて絶賛したようです。現物を下から見上げると、足が隠れてそれなりにまとまったお姿になります。<br />十一面観音像は次のサイトをご覧ください。<br />http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/bi/01.htm<br />訶梨帝母倚像<br />http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/bi/04.htm<br />智証大師坐像<br />http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/bi/08.htm<br />朝鮮鐘<br />http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/craft/03.htm<br /><br />この続きは、情緒纏綿 近江逍遥③三井寺(園城寺)南院でお届けいたします。

    赤く染まったのはウルシ科のハゼノキでしょうか?

    微妙寺から参道を挟んだ向かい側に文化財収蔵庫があり、観学院客殿の狩野光信による襖絵39面をはじめ仏像など重要文化財13件53点が展示されています。収蔵庫も特別拝観券で入館できます。(通常は\300)
    かつては微妙寺の本尊だった十一面観音立像(笠脱げの観音)や朝鮮鐘、智証大師坐像、護法善神堂に祀られていた訶梨帝母倚(かりていもいぞう)像、初公開の伝教大師肖像画などが見所です。
    この十一面観音像も、一般的なスマートな体形の観音像とは程遠く、独特のプロポーションをなされています。顔はふくよかで大きく、寸胴で短足なアンバランスなお姿を往時の方々は下から見上げて絶賛したようです。現物を下から見上げると、足が隠れてそれなりにまとまったお姿になります。
    十一面観音像は次のサイトをご覧ください。
    http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/bi/01.htm
    訶梨帝母倚像
    http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/bi/04.htm
    智証大師坐像
    http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/bi/08.htm
    朝鮮鐘
    http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/craft/03.htm

    この続きは、情緒纏綿 近江逍遥③三井寺(園城寺)南院でお届けいたします。

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