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コロナウィルスに伴う緊急事態宣言が解除され、多少日常生活も落ち着きを取り戻してまいりましたので、コロナ禍の錦秋を愛でに近江まで足を延ばしてみました。<br />天台寺門宗の総本山 三井寺は 、正式名称を長等山園城寺(ながらさん おんじょうじ)と言い、琵琶湖を見下ろす長等山中腹に伽藍を広げる1300年の歴史を刻む古刹です。35万坪もの広大な寺域に、観音堂を中心とする「南院」、金堂や唐院を中心とする「中院」、新羅善神堂を中心とする「北院」の3エリアが連なります。本尊は弥勒菩薩像を祀り、また、全身が黄色の不動明王立像の仏画「黄不動」は高野山明王院「赤不動」や京都青蓮院「青不動」と共に三不動に数えられます。<br />「三井寺」の名の由来は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統天皇の3帝の産湯に使われたことから元々「御井(みい)の寺」と呼ばれていたのが、平安時代にその霊泉を智証大師 円珍が密教の厳義・三部潅頂の法儀に閼伽に用いたことに因みます。<br />寺院の草創は、大友皇子の子 与多王(よたのおおきみ)が壬申の乱で没した父の菩提を弔うと共にその念持仏 弥勒菩薩像を祀ったことに発します。その後の686(朱鳥元)年、戦で敵対した天武天皇が寺院建立を許可して寺号「園城寺」を授けました。859年には唐から帰朝した円珍が密教道場として唐院を開き、伽藍を再興し天台別院の初代長吏に就任し、東大寺や興福寺、延暦寺と共に「本朝四箇大寺」のひとつに数えられ、皇室や貴族、武家などの信仰を集め興隆しました。しかし、10世紀には延暦寺との抗争が激化し、度々天台山門宗徒による焼き討ちに遭いました。近世には関白 豊臣秀吉の逆鱗に触れて「文禄の闕所」なる厳しい沙汰を受けて廃寺同然となりましたが、幾多の法難を乗り越えてその都度再興を果たしてきました。それ故、「不死鳥の寺」とも称され、国宝64点、重要文化財720点を有します。<br />ご詠歌「いでいるや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖」

情緒纏綿 近江逍遥①三井寺(園城寺)中院<前編>

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2021/11/25 - 2021/11/25

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

コロナウィルスに伴う緊急事態宣言が解除され、多少日常生活も落ち着きを取り戻してまいりましたので、コロナ禍の錦秋を愛でに近江まで足を延ばしてみました。
天台寺門宗の総本山 三井寺は 、正式名称を長等山園城寺(ながらさん おんじょうじ)と言い、琵琶湖を見下ろす長等山中腹に伽藍を広げる1300年の歴史を刻む古刹です。35万坪もの広大な寺域に、観音堂を中心とする「南院」、金堂や唐院を中心とする「中院」、新羅善神堂を中心とする「北院」の3エリアが連なります。本尊は弥勒菩薩像を祀り、また、全身が黄色の不動明王立像の仏画「黄不動」は高野山明王院「赤不動」や京都青蓮院「青不動」と共に三不動に数えられます。
「三井寺」の名の由来は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統天皇の3帝の産湯に使われたことから元々「御井(みい)の寺」と呼ばれていたのが、平安時代にその霊泉を智証大師 円珍が密教の厳義・三部潅頂の法儀に閼伽に用いたことに因みます。
寺院の草創は、大友皇子の子 与多王(よたのおおきみ)が壬申の乱で没した父の菩提を弔うと共にその念持仏 弥勒菩薩像を祀ったことに発します。その後の686(朱鳥元)年、戦で敵対した天武天皇が寺院建立を許可して寺号「園城寺」を授けました。859年には唐から帰朝した円珍が密教道場として唐院を開き、伽藍を再興し天台別院の初代長吏に就任し、東大寺や興福寺、延暦寺と共に「本朝四箇大寺」のひとつに数えられ、皇室や貴族、武家などの信仰を集め興隆しました。しかし、10世紀には延暦寺との抗争が激化し、度々天台山門宗徒による焼き討ちに遭いました。近世には関白 豊臣秀吉の逆鱗に触れて「文禄の闕所」なる厳しい沙汰を受けて廃寺同然となりましたが、幾多の法難を乗り越えてその都度再興を果たしてきました。それ故、「不死鳥の寺」とも称され、国宝64点、重要文化財720点を有します。
ご詠歌「いでいるや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖」

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄
  • 京阪電鉄「三井寺」駅<br />三井寺へのアクセスには京阪電鉄を利用させていただきました。<br />地下鉄 三条京阪駅からなら、びわ湖浜大津行びわ湖浜大津駅で石山坂本線に乗り換えて1駅です。30分ほどの乗車です。<br />駅から三井寺までは徒歩10分ほどの距離です。<br />その他、JR東海道本線(琵琶湖線)「大津駅」もしくはJR湖西線「大津京駅」からバス「三井寺」下車すぐ。

    京阪電鉄「三井寺」駅
    三井寺へのアクセスには京阪電鉄を利用させていただきました。
    地下鉄 三条京阪駅からなら、びわ湖浜大津行びわ湖浜大津駅で石山坂本線に乗り換えて1駅です。30分ほどの乗車です。
    駅から三井寺までは徒歩10分ほどの距離です。
    その他、JR東海道本線(琵琶湖線)「大津駅」もしくはJR湖西線「大津京駅」からバス「三井寺」下車すぐ。

  • 京阪電車<br />石山坂本線を走るのは京阪グリーンを纏った1980年代に登場した600形電車です。<br />上部から濃緑色(レスト・グリーン)、黄緑色(フレッシュ・グリーン)、白色(アトモス・ホワイト)の3色となっており、「京阪の伝統色のグリーンに白色を織り交ぜることで現代的感覚をプラスするカラーデザイン」としています。

    京阪電車
    石山坂本線を走るのは京阪グリーンを纏った1980年代に登場した600形電車です。
    上部から濃緑色(レスト・グリーン)、黄緑色(フレッシュ・グリーン)、白色(アトモス・ホワイト)の3色となっており、「京阪の伝統色のグリーンに白色を織り交ぜることで現代的感覚をプラスするカラーデザイン」としています。

  • 仁王門(大門:重文)<br />三井寺はかつては南院・中院・北院に分院されていましたが、1876(明治9)年に合併され一院制となりました。その中院への表門であり、歴史を感じさせる重厚な佇まいです。因みに、南院は観音堂周辺、中院は金堂周辺、北院は現在の大津市役所や消防局の裏手周辺になります。<br />三間一戸、入母屋造、檜皮葺の威風堂々とした楼門です。元々は天台宗の古刹 常楽寺(近江甲賀)にあった1452(宝徳4)年建立の仁王門でしたが、 豊臣秀吉により伏見城に移築され、それを1601(慶長6)年に徳川家康が三井寺に寄進して現在地に移築したものです。組物などに群青や緑色などの極彩色が微かに窺え、蟇股や木鼻などの彫刻文様や斗栱などには室町時代中期の特徴が窺えます。本来は白しっくい塗りの清楚な門構えだったと窺えますが、経年劣化が進んでいるようです。<br />三井寺のHPはこちらを参照してください。<br />https://miidera1200.jp/

    仁王門(大門:重文)
    三井寺はかつては南院・中院・北院に分院されていましたが、1876(明治9)年に合併され一院制となりました。その中院への表門であり、歴史を感じさせる重厚な佇まいです。因みに、南院は観音堂周辺、中院は金堂周辺、北院は現在の大津市役所や消防局の裏手周辺になります。
    三間一戸、入母屋造、檜皮葺の威風堂々とした楼門です。元々は天台宗の古刹 常楽寺(近江甲賀)にあった1452(宝徳4)年建立の仁王門でしたが、 豊臣秀吉により伏見城に移築され、それを1601(慶長6)年に徳川家康が三井寺に寄進して現在地に移築したものです。組物などに群青や緑色などの極彩色が微かに窺え、蟇股や木鼻などの彫刻文様や斗栱などには室町時代中期の特徴が窺えます。本来は白しっくい塗りの清楚な門構えだったと窺えますが、経年劣化が進んでいるようです。
    三井寺のHPはこちらを参照してください。
    https://miidera1200.jp/

  • 仁王門<br />両脇を1457(康生3)年の運慶作と伝わる仁王像が山内を守護しています。(実際には大門の建立年代と運慶の時代とは200年以上の乖離がありますが…。)<br />迫力ある仁王像が睨みを効かせていますが、金網越しのために見難いのが残念です。<br />さて、奇妙なのは大門の建つ方向です。通常、本堂の正面に向けて建てますが、90度首を振っています。これは、往時敵対していた比叡山延暦寺からの襲撃の際、被害を極小化する目的だったとも考えられています。<br />境内案内図はこちらを参照してください。<br />https://miidera1200.jp/information/

    仁王門
    両脇を1457(康生3)年の運慶作と伝わる仁王像が山内を守護しています。(実際には大門の建立年代と運慶の時代とは200年以上の乖離がありますが…。)
    迫力ある仁王像が睨みを効かせていますが、金網越しのために見難いのが残念です。
    さて、奇妙なのは大門の建つ方向です。通常、本堂の正面に向けて建てますが、90度首を振っています。これは、往時敵対していた比叡山延暦寺からの襲撃の際、被害を極小化する目的だったとも考えられています。
    境内案内図はこちらを参照してください。
    https://miidera1200.jp/information/

  • 仁王門前の紅葉<br />三井寺の草創を寺伝をベースに紹介していきましょう。<br />667年、天智天皇が飛鳥から近江に遷都し大津京を開きました。天皇没後の672年、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承を争った壬申の乱が勃発。敗れた大友皇子の子 与多王は父の菩提を弔うため 「田園城邑(田園屋敷)」を寄進して寺を創建しました。天武天皇は与多王の志に感じ入り、寺号「園城」を授けました。表向きには政敵だった天武天皇が認めたとしていますが、創建が認められたのは朱鳥元年であり、天武天皇崩御後に后の持統天皇が認めたとするのが妥当と窺えます。実の所、大友皇子は持統天皇の異母弟です。<br />よくできた寺伝ですが、これは天台山門宗に対抗するための方便とも窺えます。何故なら、寺領から出土した複弁蓮華文軒丸瓦から、「大友村主(すぐり)氏の氏寺として白鳳時代に創建」と比定されたからです。大友村主氏は近江国の渡来系豪族で、歌人として知られる大友黒主(くろぬし)もその一族です。「村主」は古代朝鮮語で「族長」の意で、地方官職名または朝鮮系漢人集団の統率者とされ、大友皇子の支持勢力であったと窺えます。

    仁王門前の紅葉
    三井寺の草創を寺伝をベースに紹介していきましょう。
    667年、天智天皇が飛鳥から近江に遷都し大津京を開きました。天皇没後の672年、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承を争った壬申の乱が勃発。敗れた大友皇子の子 与多王は父の菩提を弔うため 「田園城邑(田園屋敷)」を寄進して寺を創建しました。天武天皇は与多王の志に感じ入り、寺号「園城」を授けました。表向きには政敵だった天武天皇が認めたとしていますが、創建が認められたのは朱鳥元年であり、天武天皇崩御後に后の持統天皇が認めたとするのが妥当と窺えます。実の所、大友皇子は持統天皇の異母弟です。
    よくできた寺伝ですが、これは天台山門宗に対抗するための方便とも窺えます。何故なら、寺領から出土した複弁蓮華文軒丸瓦から、「大友村主(すぐり)氏の氏寺として白鳳時代に創建」と比定されたからです。大友村主氏は近江国の渡来系豪族で、歌人として知られる大友黒主(くろぬし)もその一族です。「村主」は古代朝鮮語で「族長」の意で、地方官職名または朝鮮系漢人集団の統率者とされ、大友皇子の支持勢力であったと窺えます。

  • 仁王門<br />貞観年間(859~77年)、円珍(母は空海の姪)は三井寺を比叡山延暦寺の天台別院として中興し、 東大寺や興福寺、延暦寺と共に「本朝四箇大寺」のひとつに数えられ、南都北嶺の一翼を担いました。 <br />しかし円珍没後、延暦寺では円珍門流と慈覚大師 円仁門流の溝が深まり、993( 正暦4)年、円珍門下は比叡山を下りて三井寺に入りました。 以後、山門宗(延暦寺)と寺門宗(三井寺)の対立構図となり、天台宗は二分されました。山門宗の僧兵はしばしば三井寺を焼き討ちにしました。かの武蔵坊弁慶もそのひとりです。一方、三井寺は、朝廷や貴族とは良好な関係を保ち、平安時代には関白として権勢を極めた藤原道長や白河上皇らが深く帰依していたと伝わります。<br />因みに、徳川家康は石山本願寺を東西に分割させてその勢力を弱体化させましたが、それはこの山門寺門の抗争を『平家物語』や『吾妻鏡』を通して知っていたからと窺えます。

    仁王門
    貞観年間(859~77年)、円珍(母は空海の姪)は三井寺を比叡山延暦寺の天台別院として中興し、 東大寺や興福寺、延暦寺と共に「本朝四箇大寺」のひとつに数えられ、南都北嶺の一翼を担いました。
    しかし円珍没後、延暦寺では円珍門流と慈覚大師 円仁門流の溝が深まり、993( 正暦4)年、円珍門下は比叡山を下りて三井寺に入りました。 以後、山門宗(延暦寺)と寺門宗(三井寺)の対立構図となり、天台宗は二分されました。山門宗の僧兵はしばしば三井寺を焼き討ちにしました。かの武蔵坊弁慶もそのひとりです。一方、三井寺は、朝廷や貴族とは良好な関係を保ち、平安時代には関白として権勢を極めた藤原道長や白河上皇らが深く帰依していたと伝わります。
    因みに、徳川家康は石山本願寺を東西に分割させてその勢力を弱体化させましたが、それはこの山門寺門の抗争を『平家物語』や『吾妻鏡』を通して知っていたからと窺えます。

  • 仁王門<br />源頼義が前九年の役(1051年)の出陣に当たり戦勝祈願して以来、三井寺は源氏の氏寺として武家からも庇護されました。また、南北朝時代には清和源氏の名流 足利氏を支持し、室町幕府の庇護を受けました。これは強力な権門である天台山門宗の勢力を牽制すべく不可欠な戦略でもあった一方、戦禍に巻き込まれるなど諸刃の剣でした。<br />『平家物語』巻4に記された1180(治承4)年の「三井寺炎上」など、争乱による焼き討ちなど幾多の法難に遭いましたが、源頼朝没後、三井寺の再建に尽力したのは北条政子だったそうです。また、2代将軍 源頼家の子 公暁が修行したのも三井寺であり、源氏3代の政権が滅びた後も北条氏や足利氏から庇護を受けて大寺として発展しました。因みに、三井寺には足利氏御用達の仏師集団「院派」が彫った3躯の木造地蔵菩薩像が伝わります。重文 「木像地蔵菩薩立像」の頭部をX線で調査した所、和紙の包み紙らしきものが発見されています。尚、南北朝時代の資料『園城寺文書』には「源頼朝や足利尊氏の先例に倣って義詮の遺髪を納めた地蔵菩薩像を園城寺に奉納した」と記されており、往時の弔いの儀式として故人の鬢髪を仏像に納めて寺社に奉納する習わしがあったことなどを踏まえ、足利尊氏か義詮の遺髪と考えられています。

    仁王門
    源頼義が前九年の役(1051年)の出陣に当たり戦勝祈願して以来、三井寺は源氏の氏寺として武家からも庇護されました。また、南北朝時代には清和源氏の名流 足利氏を支持し、室町幕府の庇護を受けました。これは強力な権門である天台山門宗の勢力を牽制すべく不可欠な戦略でもあった一方、戦禍に巻き込まれるなど諸刃の剣でした。
    『平家物語』巻4に記された1180(治承4)年の「三井寺炎上」など、争乱による焼き討ちなど幾多の法難に遭いましたが、源頼朝没後、三井寺の再建に尽力したのは北条政子だったそうです。また、2代将軍 源頼家の子 公暁が修行したのも三井寺であり、源氏3代の政権が滅びた後も北条氏や足利氏から庇護を受けて大寺として発展しました。因みに、三井寺には足利氏御用達の仏師集団「院派」が彫った3躯の木造地蔵菩薩像が伝わります。重文 「木像地蔵菩薩立像」の頭部をX線で調査した所、和紙の包み紙らしきものが発見されています。尚、南北朝時代の資料『園城寺文書』には「源頼朝や足利尊氏の先例に倣って義詮の遺髪を納めた地蔵菩薩像を園城寺に奉納した」と記されており、往時の弔いの儀式として故人の鬢髪を仏像に納めて寺社に奉納する習わしがあったことなどを踏まえ、足利尊氏か義詮の遺髪と考えられています。

  • 弁財天社(重文)<br />仁王門を潜って右側へ向うと、釈迦堂手前の小さな池の中に弁財天社が佇みます。社殿は1683(天和3)年に建立され、則天武后の時代に唐の義浄が漢訳した『金光明最勝王経』に説かれる八臂弁財天坐像を祀っています。無礙弁財(むげべんざい=意思疎通能力)を授け、福知を与え、延寿及び財宝を与える神です。制作年代は1672(寛文12)年です。<br />頭上に宇賀神を載せ、8本の手には、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく=投げ縄)を持ち、鎮護国家の戦神に相応しい姿をしています。また、巧みに話す能力(=能弁)や知恵・学問・技芸の神としての性格も併せ持つと説かれています。<br />因みに、秋の特別拝観中は、八臂弁財天坐像は水観寺に出張されており、もぬけの空です。

    弁財天社(重文)
    仁王門を潜って右側へ向うと、釈迦堂手前の小さな池の中に弁財天社が佇みます。社殿は1683(天和3)年に建立され、則天武后の時代に唐の義浄が漢訳した『金光明最勝王経』に説かれる八臂弁財天坐像を祀っています。無礙弁財(むげべんざい=意思疎通能力)を授け、福知を与え、延寿及び財宝を与える神です。制作年代は1672(寛文12)年です。
    頭上に宇賀神を載せ、8本の手には、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく=投げ縄)を持ち、鎮護国家の戦神に相応しい姿をしています。また、巧みに話す能力(=能弁)や知恵・学問・技芸の神としての性格も併せ持つと説かれています。
    因みに、秋の特別拝観中は、八臂弁財天坐像は水観寺に出張されており、もぬけの空です。

  • 弁財天社<br />豊臣秀吉の時代になり、三井寺は再び苦難を背負いました。1595(文禄4)年、秀吉は唐突に三井寺に「文禄の闕所(けっしょ)」の命を下しました。闕所とは境内にある全堂宇および所領を没収されるという処罰です。しかし、亡くなる3年前の秀吉が何故このような沙汰に及んだかはよく判っていないそうです。<br />この危機を救ったのが、かつて三井寺長吏を務めた道澄でした。本尊 弥勒菩薩像をはじめ不動明王像(黄不動尊)などを照高院に保管し、三井寺に属する僧侶たちも一時的に預かりました。そして秀吉の正室 北政所に働きかけ、三井寺を許してもらえるよう請願しました。その甲斐あり、3年後の1598(慶長3)年、秀吉が没する前日に闕所は解除されました。その後、北政所の寄進により金堂の再建をはじめ多くの堂塔が再建され、古の姿を蘇らせ現在に至ります。

    弁財天社
    豊臣秀吉の時代になり、三井寺は再び苦難を背負いました。1595(文禄4)年、秀吉は唐突に三井寺に「文禄の闕所(けっしょ)」の命を下しました。闕所とは境内にある全堂宇および所領を没収されるという処罰です。しかし、亡くなる3年前の秀吉が何故このような沙汰に及んだかはよく判っていないそうです。
    この危機を救ったのが、かつて三井寺長吏を務めた道澄でした。本尊 弥勒菩薩像をはじめ不動明王像(黄不動尊)などを照高院に保管し、三井寺に属する僧侶たちも一時的に預かりました。そして秀吉の正室 北政所に働きかけ、三井寺を許してもらえるよう請願しました。その甲斐あり、3年後の1598(慶長3)年、秀吉が没する前日に闕所は解除されました。その後、北政所の寄進により金堂の再建をはじめ多くの堂塔が再建され、古の姿を蘇らせ現在に至ります。

  • 釈迦堂(重文)<br />仁王門を潜り直ぐ右手に見える簡素な入母屋造、桧皮葺の仏堂です。豊臣秀吉の「闕所(けっしょ)令」の解除後、天正年間(1573~93年)に造営された平安京の内裏にあった清涼殿を下賜されて1621(元和7)年に移築したものと伝わります。<br />鎌倉時代に描かれた『園城寺境内古図』にはこの場所に「食堂」が描かれており、往時は食堂として移築されたと窺えます。半繁垂木など随所に古式を遺す室町時代初期の住宅風建築です。正面入側は蔀戸、両端間は板戸引違です。

    釈迦堂(重文)
    仁王門を潜り直ぐ右手に見える簡素な入母屋造、桧皮葺の仏堂です。豊臣秀吉の「闕所(けっしょ)令」の解除後、天正年間(1573~93年)に造営された平安京の内裏にあった清涼殿を下賜されて1621(元和7)年に移築したものと伝わります。
    鎌倉時代に描かれた『園城寺境内古図』にはこの場所に「食堂」が描かれており、往時は食堂として移築されたと窺えます。半繁垂木など随所に古式を遺す室町時代初期の住宅風建築です。正面入側は蔀戸、両端間は板戸引違です。

  • 釈迦堂<br />三井寺の建造物は歴史上の人物との関係で紐解くと興味深いものがあります。まずは豊臣秀吉と三井寺の関係です。<br />世に言う「天王山の戦い」は戦う前から勝敗はすでに決していました。応戦体制が整わない明智軍を主君の仇討というモチベーションの高さで豊臣軍が圧倒しました。明智軍は総崩れとなり、光秀は再起を図るべく長岡京 勝龍寺城から居城 坂本城を目指すも、伏見小栗栖の間道で足軽侍に討ち取られました。秀吉の重臣 竹中重門(竹中半兵衛の嫡男)の記した秀吉の一代記『豊鏡』によると、まだ光秀の死を知らない秀吉は山崎から引いて坂本城を攻めるために三井寺に本陣を構えて知らせを待ったようです。翌日、小栗栖の里人が布に包まれた首を発見し、陣に差し出したと言います。その場にいた秀吉自らが首実見し、京都粟田口に晒されました。

    釈迦堂
    三井寺の建造物は歴史上の人物との関係で紐解くと興味深いものがあります。まずは豊臣秀吉と三井寺の関係です。
    世に言う「天王山の戦い」は戦う前から勝敗はすでに決していました。応戦体制が整わない明智軍を主君の仇討というモチベーションの高さで豊臣軍が圧倒しました。明智軍は総崩れとなり、光秀は再起を図るべく長岡京 勝龍寺城から居城 坂本城を目指すも、伏見小栗栖の間道で足軽侍に討ち取られました。秀吉の重臣 竹中重門(竹中半兵衛の嫡男)の記した秀吉の一代記『豊鏡』によると、まだ光秀の死を知らない秀吉は山崎から引いて坂本城を攻めるために三井寺に本陣を構えて知らせを待ったようです。翌日、小栗栖の里人が布に包まれた首を発見し、陣に差し出したと言います。その場にいた秀吉自らが首実見し、京都粟田口に晒されました。

  • 釈迦堂<br />正面の向拝唐破風は、江戸時代の文政年間の後補と伝えますが、向拝の懸魚や屋根の獅子口には菊文様が施され、かつての清涼殿の片鱗を覗かせます。また、軒裏の茨垂木はまばらで軽快な感じです。虹梁中備えは蟇股、唐破風の妻飾りは笈形付き大瓶束です。入母屋破風の破風板の拝みには猪目懸魚、破風内部は豕扠首が彫られています。

    釈迦堂
    正面の向拝唐破風は、江戸時代の文政年間の後補と伝えますが、向拝の懸魚や屋根の獅子口には菊文様が施され、かつての清涼殿の片鱗を覗かせます。また、軒裏の茨垂木はまばらで軽快な感じです。虹梁中備えは蟇股、唐破風の妻飾りは笈形付き大瓶束です。入母屋破風の破風板の拝みには猪目懸魚、破風内部は豕扠首が彫られています。

  • 釈迦堂<br />三井寺とは良好な関係だった秀吉でしたが、1595(文禄4)年、突如豹変して三井寺に「闕所令」を下しました。「闕所」とは境内堂塔および所領を没収する処罰のことで、三井寺の堂塔は瞬く間に解体される憂き目に遭いました。因みに、現在の比叡山延暦寺の西塔釈迦堂はこの時に解体された三井寺の金堂を移築したものです。 <br />秀吉58歳、第一次朝鮮出兵(文禄の役)後であり、戦線が膠着状態を呈していた頃でした。また、豊臣秀次事件の直後でもあり、利休切腹に始まる秀吉晩年の謎めいた行動のひとつに挙げられます。<br />しかもこれだけの重大事件にも拘わらず、「闕所令」を発した理由は判っていません。後世の記録には、秀次事件に連座した明石元知を三井寺北院の僧侶 暁雲院が匿ったことをその理由としています(『園城寺再興略記』)。<br />また、これとは別に半年ほど前に起こった寺内の桜の木を巡る騒動にそれを求める説もあります。 その騒動とは、伏見向島に移植予定の桜の木を三井寺の僧侶が無断で伐採し、秀吉の逆鱗に触れたというものです(『駒井日記』)。

    釈迦堂
    三井寺とは良好な関係だった秀吉でしたが、1595(文禄4)年、突如豹変して三井寺に「闕所令」を下しました。「闕所」とは境内堂塔および所領を没収する処罰のことで、三井寺の堂塔は瞬く間に解体される憂き目に遭いました。因みに、現在の比叡山延暦寺の西塔釈迦堂はこの時に解体された三井寺の金堂を移築したものです。
    秀吉58歳、第一次朝鮮出兵(文禄の役)後であり、戦線が膠着状態を呈していた頃でした。また、豊臣秀次事件の直後でもあり、利休切腹に始まる秀吉晩年の謎めいた行動のひとつに挙げられます。
    しかもこれだけの重大事件にも拘わらず、「闕所令」を発した理由は判っていません。後世の記録には、秀次事件に連座した明石元知を三井寺北院の僧侶 暁雲院が匿ったことをその理由としています(『園城寺再興略記』)。
    また、これとは別に半年ほど前に起こった寺内の桜の木を巡る騒動にそれを求める説もあります。 その騒動とは、伏見向島に移植予定の桜の木を三井寺の僧侶が無断で伐採し、秀吉の逆鱗に触れたというものです(『駒井日記』)。

  • 釈迦堂<br />現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂となっており、このように仏堂の外からでも十分拝むことができるほど巨大です。<br />因みに清涼寺式釈迦如来像とは、清凉寺(嵯峨釈迦堂)に安置されている釈迦如来像(国宝)を摸刻した仏像を指します。東大寺の僧侶 奝然(ちょうねん)は宋に渡って古代インド・コーシャンビーの国王 優填王(うでんおう)が存世していた頃の釈迦の姿を彫らせた釈迦像『優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)』に出会いました。釈迦37歳の姿とされ、インドから中国に渡来していました。奝然はそれを摸刻させて987(永延元)年に日本に持ち帰り、1016(長和5)年に弟子 盛算が創建した清凉寺に本尊として安置しました。

    釈迦堂
    現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂となっており、このように仏堂の外からでも十分拝むことができるほど巨大です。
    因みに清涼寺式釈迦如来像とは、清凉寺(嵯峨釈迦堂)に安置されている釈迦如来像(国宝)を摸刻した仏像を指します。東大寺の僧侶 奝然(ちょうねん)は宋に渡って古代インド・コーシャンビーの国王 優填王(うでんおう)が存世していた頃の釈迦の姿を彫らせた釈迦像『優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)』に出会いました。釈迦37歳の姿とされ、インドから中国に渡来していました。奝然はそれを摸刻させて987(永延元)年に日本に持ち帰り、1016(長和5)年に弟子 盛算が創建した清凉寺に本尊として安置しました。

  • 釈迦堂<br />秀吉に闕所でもって三井寺の法脈を根絶する意図があったか否かは判りません。しかし、本尊の弥勒菩薩像をはじめ、不動明王像(黄不動尊)、御骨大師、中尊大師など、三井寺信仰の根幹に関わる尊像は隠棲中の道澄の元に遷され、廃却されたのは寺領と建物に限られ、三井寺の法脈は保たれました。 <br />道澄は近衛家の出身で、兄は織田信長のブレーンとして朝廷や本願寺との折衝に暗躍した近衞前久です。かつて聖護院門主として三井寺第138代長吏を務めた道澄に対する秀吉の信頼は厚かったとされ、その道澄により三井寺は滅亡を免れたと言えます。また、三井寺宗徒の僧侶たちも道澄に預けられましたが、何の咎めもなかったようです。 <br />その3年後の1598(慶長3)年、秀吉の正室 北政所と道澄の尽力により闕所の処分が解かれました。それは秀吉の死の前日でした。一説には、死期を悟った秀吉が三井寺の祟りを畏れたためと伝わります。解除後、直ちに失われた堂塔の再建が始まり、なかでも北政所の寄進による金堂の再建は早かったようです。こうして秀吉により取り潰された金堂がその正室により再建されました。三井寺はこのように時の権力者に翻弄されてきましたが、多くの人々の篤い信仰に守られて今も生き続けています。これぞ「不死鳥の寺」と称される所以です。

    釈迦堂
    秀吉に闕所でもって三井寺の法脈を根絶する意図があったか否かは判りません。しかし、本尊の弥勒菩薩像をはじめ、不動明王像(黄不動尊)、御骨大師、中尊大師など、三井寺信仰の根幹に関わる尊像は隠棲中の道澄の元に遷され、廃却されたのは寺領と建物に限られ、三井寺の法脈は保たれました。
    道澄は近衛家の出身で、兄は織田信長のブレーンとして朝廷や本願寺との折衝に暗躍した近衞前久です。かつて聖護院門主として三井寺第138代長吏を務めた道澄に対する秀吉の信頼は厚かったとされ、その道澄により三井寺は滅亡を免れたと言えます。また、三井寺宗徒の僧侶たちも道澄に預けられましたが、何の咎めもなかったようです。
    その3年後の1598(慶長3)年、秀吉の正室 北政所と道澄の尽力により闕所の処分が解かれました。それは秀吉の死の前日でした。一説には、死期を悟った秀吉が三井寺の祟りを畏れたためと伝わります。解除後、直ちに失われた堂塔の再建が始まり、なかでも北政所の寄進による金堂の再建は早かったようです。こうして秀吉により取り潰された金堂がその正室により再建されました。三井寺はこのように時の権力者に翻弄されてきましたが、多くの人々の篤い信仰に守られて今も生き続けています。これぞ「不死鳥の寺」と称される所以です。

  • 仁王門から続く参道の正面に金堂の側面が望めます。<br />織田信長と三井寺の関係を掘り下げてみましょう。<br />『信長公記』によると、1568(永禄11)年、織田信長は将軍候補の足利義昭の上洛要請に応え、その途上で三井寺に入り、極楽院に陣取りました。信長が三井寺に入った翌日、将軍 足利義昭も信長の後を追うように三井寺に到着し、光浄院に宿泊しています。三井寺で合流した両者は、それぞれの思惑を胸に権力の中枢である京に駒を進める決意を固めました。これを機に天下人へと駆け上る信長の時代が本格的に始まったと言っても過言ではありません。この後、信長の軍容を知った三好三人衆らが京都から退散したため、ほぼ戦わずして入京しています。<br />因みに、通常「足利義昭を奉じて信長が上洛」と言う場合、三井寺に入った9月26日、あるいは東福寺に陣を敷いた9月28日を「上洛の日」とするようです。 

    仁王門から続く参道の正面に金堂の側面が望めます。
    織田信長と三井寺の関係を掘り下げてみましょう。
    『信長公記』によると、1568(永禄11)年、織田信長は将軍候補の足利義昭の上洛要請に応え、その途上で三井寺に入り、極楽院に陣取りました。信長が三井寺に入った翌日、将軍 足利義昭も信長の後を追うように三井寺に到着し、光浄院に宿泊しています。三井寺で合流した両者は、それぞれの思惑を胸に権力の中枢である京に駒を進める決意を固めました。これを機に天下人へと駆け上る信長の時代が本格的に始まったと言っても過言ではありません。この後、信長の軍容を知った三好三人衆らが京都から退散したため、ほぼ戦わずして入京しています。
    因みに、通常「足利義昭を奉じて信長が上洛」と言う場合、三井寺に入った9月26日、あるいは東福寺に陣を敷いた9月28日を「上洛の日」とするようです。 

  • 織田信長が比叡山を焼き討ちした際、本陣を敷いたのも三井寺です。<br />1571(元亀2)年8月、北近江に出馬した信長は、小谷・山本山両城の中間点に出兵、余呉・木之本方面を焼き払い、柴田勝家や丹羽長秀を率いて一向宗の有力門徒として反抗する金ケ森城を落城させました。更に翌月には、対立を深めていた比叡山延暦寺に対し焼き討ちを命じました。実に社寺堂塔5百余棟が一宇も残らず灰塵に帰し、僧俗男女3千人余が首を刎ねられたと伝えます。前日までに織田軍は坂本、三井寺周辺にまで進軍し、信長は三井寺の山岡景猶の屋敷に本陣を敷いたと伝えます。信長は前年に三井寺に対し寺領の安堵状を発給しており、比叡山焼き討ちが延暦寺と敵対関係にあった三井寺を懐柔するという周到な準備を行った上で実行に移されていたことが窺えます。<br />因みに、比叡山山門派宗徒による三井寺焼き討ちは1081(永保元)年を始め、中世末期までに大規模なものが10回、小規模なものは50回を超えると伝わります。そんな経緯もあり、信長は山門寺門の因縁関係を巧みに利用したのかもしれません。

    織田信長が比叡山を焼き討ちした際、本陣を敷いたのも三井寺です。
    1571(元亀2)年8月、北近江に出馬した信長は、小谷・山本山両城の中間点に出兵、余呉・木之本方面を焼き払い、柴田勝家や丹羽長秀を率いて一向宗の有力門徒として反抗する金ケ森城を落城させました。更に翌月には、対立を深めていた比叡山延暦寺に対し焼き討ちを命じました。実に社寺堂塔5百余棟が一宇も残らず灰塵に帰し、僧俗男女3千人余が首を刎ねられたと伝えます。前日までに織田軍は坂本、三井寺周辺にまで進軍し、信長は三井寺の山岡景猶の屋敷に本陣を敷いたと伝えます。信長は前年に三井寺に対し寺領の安堵状を発給しており、比叡山焼き討ちが延暦寺と敵対関係にあった三井寺を懐柔するという周到な準備を行った上で実行に移されていたことが窺えます。
    因みに、比叡山山門派宗徒による三井寺焼き討ちは1081(永保元)年を始め、中世末期までに大規模なものが10回、小規模なものは50回を超えると伝わります。そんな経緯もあり、信長は山門寺門の因縁関係を巧みに利用したのかもしれません。

  • 光浄院客殿<br />金堂を参詣する前に省エネルートで光浄院へ向かいます。山内で最も格式の高い子院であり、その外郭には城郭を彷彿とさせる豪壮な石垣を構えます。この石垣は穴太衆が積んだ穴太積みです。要人の迎賓館であった客殿は、光浄院客殿は「武士」、勧学院客殿は「僧侶」、日光院客殿は「皇族・公家」をもてなすための施設として使い分けていたようです。因みに、日光院客殿は東京 護国寺に移築され、護国寺月光殿になっています。<br />室町時代に山岡資広により開創されましたが、現在の客殿は豊臣秀吉の闕所後、かつて瀬田城城主として秀吉に仕えたお咄衆の山岡道阿弥景友が 1601(慶長6)年に道阿弥と号して光浄院住持となり再建したものです。道阿弥は山岡資広の子孫として暹慶を号して三井寺光浄院の住持も務めましたが、戦国時代の動乱により還俗を余儀なくされ、山岡景友を名乗って織田信長に仕えました。その後、信長が明智光秀軍により本能寺で倒れるや、瀬田橋に火を放って安土城に向かう明智軍を防ぎ、その功により秀吉のお咄衆として仕える運びになりました。

    光浄院客殿
    金堂を参詣する前に省エネルートで光浄院へ向かいます。山内で最も格式の高い子院であり、その外郭には城郭を彷彿とさせる豪壮な石垣を構えます。この石垣は穴太衆が積んだ穴太積みです。要人の迎賓館であった客殿は、光浄院客殿は「武士」、勧学院客殿は「僧侶」、日光院客殿は「皇族・公家」をもてなすための施設として使い分けていたようです。因みに、日光院客殿は東京 護国寺に移築され、護国寺月光殿になっています。
    室町時代に山岡資広により開創されましたが、現在の客殿は豊臣秀吉の闕所後、かつて瀬田城城主として秀吉に仕えたお咄衆の山岡道阿弥景友が 1601(慶長6)年に道阿弥と号して光浄院住持となり再建したものです。道阿弥は山岡資広の子孫として暹慶を号して三井寺光浄院の住持も務めましたが、戦国時代の動乱により還俗を余儀なくされ、山岡景友を名乗って織田信長に仕えました。その後、信長が明智光秀軍により本能寺で倒れるや、瀬田橋に火を放って安土城に向かう明智軍を防ぎ、その功により秀吉のお咄衆として仕える運びになりました。

  • 光浄院客殿<br />入母屋屋根の巨大な破風と正門の軒唐破風、総柿葺が印象的であり、寝殿造から書院造へ至る過渡期の書院造遺構とされます。一部に平安時代の寝殿造の特徴も残され「主殿造」とも呼ばれます。主殿造は、渡殿で寝殿と対屋を繋ぐ寝殿造や、玄関や書院などを連ねる書院造とも異なり、独立した様式です。また、客殿の平面は1608(慶長13)年に江戸幕府大棟梁 平内政信によって描かれた気割書(設計指針書)『匠明』の殿屋集に描かれた「主殿の図」と合致しており、桃山時代の標準的な武家住居形式と考えられています。<br />外観は、蔀戸や妻戸、舞良戸、中門廊など寝殿造そのものであり、勧学院客殿とほぼ同じです。広縁は、敢えて軒を支える柱を外寄りの1本だけに抑え、吹放しの開放的な空間を演出しています。まさに清明で表現力豊かな日本文化を凝縮した空間を体感できます。また、 広縁の奥には違棚や帳台構、「上段の間」として付書院を備えた書院造の典型スタイルを有し、こうした間取りの書院は光浄院客殿のみとされます。勧学院との内部の相違点は、客層の違いから生じたものとされ、通常帳台構は護衛が詰める武者隠しと同義ですが、光浄院客殿の帳台構は宝物庫として用いられていたと考えられています。

    光浄院客殿
    入母屋屋根の巨大な破風と正門の軒唐破風、総柿葺が印象的であり、寝殿造から書院造へ至る過渡期の書院造遺構とされます。一部に平安時代の寝殿造の特徴も残され「主殿造」とも呼ばれます。主殿造は、渡殿で寝殿と対屋を繋ぐ寝殿造や、玄関や書院などを連ねる書院造とも異なり、独立した様式です。また、客殿の平面は1608(慶長13)年に江戸幕府大棟梁 平内政信によって描かれた気割書(設計指針書)『匠明』の殿屋集に描かれた「主殿の図」と合致しており、桃山時代の標準的な武家住居形式と考えられています。
    外観は、蔀戸や妻戸、舞良戸、中門廊など寝殿造そのものであり、勧学院客殿とほぼ同じです。広縁は、敢えて軒を支える柱を外寄りの1本だけに抑え、吹放しの開放的な空間を演出しています。まさに清明で表現力豊かな日本文化を凝縮した空間を体感できます。また、 広縁の奥には違棚や帳台構、「上段の間」として付書院を備えた書院造の典型スタイルを有し、こうした間取りの書院は光浄院客殿のみとされます。勧学院との内部の相違点は、客層の違いから生じたものとされ、通常帳台構は護衛が詰める武者隠しと同義ですが、光浄院客殿の帳台構は宝物庫として用いられていたと考えられています。

  • 光浄院客殿<br />「一之間」及び「二之間」は狩野山楽をはじめ狩野派による障壁画(重文)で装飾され、特に一之間の上床には桃山様式の典型とされる枝葉を広げた松を中心に滝の落ちる山水が描かれ、狩野派のなかでも特異な個性的作品として知られています。滝から流れ落ちた水は付書院の障壁画へと進み、そして付書院の奥に広がる庭園の池泉へ注ぎます。障壁画と庭園を一体化させたアートとしており、室町時代後期に作庭された池泉観賞式庭園には石橋を架けた亀島や浮石が配され、滝石が組まれています。この庭園は江戸時代の『築山庭造伝』にも名庭として紹介されており、国の名勝史跡にも指定されています。池が客殿の広縁の下まで入り込み、建築と庭園が緊密に融合した風情は幽邃な境地を醸しています。<br />1954年、建築家 吉村順三氏が光浄院客殿の3Dコピーをニューヨーク近代美術館の中庭に設計し、「松風荘」と名付けました。これは、戦後の米国の住宅ブームに資するための展示会であり、日本住宅の設計者代表として、ロックフェラー三世が召喚した催しでした。因みに、吉村氏は、フランク・ロイド・ライト氏の助手として帝国ホテルを担当した後に日本で設計事務所を構えたチェコ人建築家アントニン・レーモンド氏に師事した建築家であり、レーモンド氏に日本建築を教えた間柄です。<br />往時の解説文を引用してみます。<br />「ニューヨーク近代美術館(MoMA)の中庭に建てられた展示用の住宅。モダンリビングの啓蒙を狙いとして、モダニズムの住宅を2年間ずつ展示すシリーズ「House in the Garden」の第3回目に企画された。来日したアーサー・ドレクスラー(MoMAの建築部門担当)の意向により、モダニズム建築への近似を示す日本の伝統的なモチーフとして、書院造りの光浄院客殿が選ばれた。吉村はただのコピーに留めることなく、高層ビルに囲まれた敷地、来場者の同線処理、住居として成立させるための別棟の付加といった諸条件に対応している。また建物と庭の連続性の強調、より装飾性を排したディテールの採用等、自らの意図を存分に反映しており、伝統的な日本建築への造詣の深さが、デザインする自在さに到達していたことを示している。」

    光浄院客殿
    「一之間」及び「二之間」は狩野山楽をはじめ狩野派による障壁画(重文)で装飾され、特に一之間の上床には桃山様式の典型とされる枝葉を広げた松を中心に滝の落ちる山水が描かれ、狩野派のなかでも特異な個性的作品として知られています。滝から流れ落ちた水は付書院の障壁画へと進み、そして付書院の奥に広がる庭園の池泉へ注ぎます。障壁画と庭園を一体化させたアートとしており、室町時代後期に作庭された池泉観賞式庭園には石橋を架けた亀島や浮石が配され、滝石が組まれています。この庭園は江戸時代の『築山庭造伝』にも名庭として紹介されており、国の名勝史跡にも指定されています。池が客殿の広縁の下まで入り込み、建築と庭園が緊密に融合した風情は幽邃な境地を醸しています。
    1954年、建築家 吉村順三氏が光浄院客殿の3Dコピーをニューヨーク近代美術館の中庭に設計し、「松風荘」と名付けました。これは、戦後の米国の住宅ブームに資するための展示会であり、日本住宅の設計者代表として、ロックフェラー三世が召喚した催しでした。因みに、吉村氏は、フランク・ロイド・ライト氏の助手として帝国ホテルを担当した後に日本で設計事務所を構えたチェコ人建築家アントニン・レーモンド氏に師事した建築家であり、レーモンド氏に日本建築を教えた間柄です。
    往時の解説文を引用してみます。
    「ニューヨーク近代美術館(MoMA)の中庭に建てられた展示用の住宅。モダンリビングの啓蒙を狙いとして、モダニズムの住宅を2年間ずつ展示すシリーズ「House in the Garden」の第3回目に企画された。来日したアーサー・ドレクスラー(MoMAの建築部門担当)の意向により、モダニズム建築への近似を示す日本の伝統的なモチーフとして、書院造りの光浄院客殿が選ばれた。吉村はただのコピーに留めることなく、高層ビルに囲まれた敷地、来場者の同線処理、住居として成立させるための別棟の付加といった諸条件に対応している。また建物と庭の連続性の強調、より装飾性を排したディテールの採用等、自らの意図を存分に反映しており、伝統的な日本建築への造詣の深さが、デザインする自在さに到達していたことを示している。」

  • 教待堂<br />金堂の右後方、光浄院から登ってきた石段の左脇に佇みます。<br />1599(慶長4)年に再建された堂宇で、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』にも紹介されている教待和尚の像を祀っています。教待和尚は円珍が入山するまで三井寺を護持していた162歳の老僧とされ、新羅明神に導かれた円珍を迎えるや否や、石窟に入り姿を隠したと伝わります。教待和尚は弥勒菩薩の化身として琵琶湖の亀や魚を食していましたが、その後円珍が和尚の庵を訪ねた所、それまで山積みになっていた亀の甲羅や魚の骨が美しい蓮華の花に姿を替えていたと伝えます。三井寺寺伝は、この時に大友与多王の子 都堵牟麿が大友氏の氏寺を円珍に献じたのが三井寺の草創と伝えます。<br />後に円珍がその石窟の上に一宇を建て廟としたのが教待堂です。その石窟は今も和尚像を安置する須弥壇の真下にあり、三井寺で僧が出家する際、その落髪を窟内に納める伝統があるそうです。

    教待堂
    金堂の右後方、光浄院から登ってきた石段の左脇に佇みます。
    1599(慶長4)年に再建された堂宇で、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』にも紹介されている教待和尚の像を祀っています。教待和尚は円珍が入山するまで三井寺を護持していた162歳の老僧とされ、新羅明神に導かれた円珍を迎えるや否や、石窟に入り姿を隠したと伝わります。教待和尚は弥勒菩薩の化身として琵琶湖の亀や魚を食していましたが、その後円珍が和尚の庵を訪ねた所、それまで山積みになっていた亀の甲羅や魚の骨が美しい蓮華の花に姿を替えていたと伝えます。三井寺寺伝は、この時に大友与多王の子 都堵牟麿が大友氏の氏寺を円珍に献じたのが三井寺の草創と伝えます。
    後に円珍がその石窟の上に一宇を建て廟としたのが教待堂です。その石窟は今も和尚像を安置する須弥壇の真下にあり、三井寺で僧が出家する際、その落髪を窟内に納める伝統があるそうです。

  • 杉の枯れ木<br />これとは別に、金堂の向かい側には天狗杉と呼ばれる樹齢千年超と伝わる樹高約20mの老杉が聳え、大津市の天然記念物に指定されています。数度の落雷に遭い、地面から直ぐ先の所で二股に分かれて無残な姿を晒していますが、今も全体的には端正な樹勢を保っています。<br />室町時代初頭、相模坊 道了という僧侶が勧学院の書院で密教の修行をしていたある夜、突如として天狗となり窓から飛び出し、この杉の梢に止まり、やがて朝になるや東の空に向かって飛び去ったとの逸話があります。<br />道了が降り立った所は小田原(神奈川県)の大雄山最乗寺と伝わり、そこは天狗の山として知られています。その後、道了は、験徳著しく村人からも慕われ、最乗寺の御真殿(妙覚宝殿)に祀られました。<br />因みに最乗寺は、道了の師であり同郷の了庵慧明禅師が1394(応永元)年に建立した寺院です。道了は禅師に弟子入り後、三井寺に入って修験道を修めていました。道了は、師が最乗寺を建立することを知り、1日で駆け付けて建立の総責任者として土木工事では5百人力の力を発揮したと伝えます。その後、道了は最乗寺を護るために天狗の姿に化身して天空に舞い上がったと伝わり、やがて寺の守護神として祀られるようになりました。<br />また、道了が修行していた勧学院には「天狗の間」と名付けられた部屋があり、 現在も最乗寺では道了尊を偲んで三井寺に参詣を続けられているそうです。

    杉の枯れ木
    これとは別に、金堂の向かい側には天狗杉と呼ばれる樹齢千年超と伝わる樹高約20mの老杉が聳え、大津市の天然記念物に指定されています。数度の落雷に遭い、地面から直ぐ先の所で二股に分かれて無残な姿を晒していますが、今も全体的には端正な樹勢を保っています。
    室町時代初頭、相模坊 道了という僧侶が勧学院の書院で密教の修行をしていたある夜、突如として天狗となり窓から飛び出し、この杉の梢に止まり、やがて朝になるや東の空に向かって飛び去ったとの逸話があります。
    道了が降り立った所は小田原(神奈川県)の大雄山最乗寺と伝わり、そこは天狗の山として知られています。その後、道了は、験徳著しく村人からも慕われ、最乗寺の御真殿(妙覚宝殿)に祀られました。
    因みに最乗寺は、道了の師であり同郷の了庵慧明禅師が1394(応永元)年に建立した寺院です。道了は禅師に弟子入り後、三井寺に入って修験道を修めていました。道了は、師が最乗寺を建立することを知り、1日で駆け付けて建立の総責任者として土木工事では5百人力の力を発揮したと伝えます。その後、道了は最乗寺を護るために天狗の姿に化身して天空に舞い上がったと伝わり、やがて寺の守護神として祀られるようになりました。
    また、道了が修行していた勧学院には「天狗の間」と名付けられた部屋があり、 現在も最乗寺では道了尊を偲んで三井寺に参詣を続けられているそうです。

  • 鐘楼(三井の晩鐘)<br />近江八景のひとつ「三井の晩鐘」で有名な梵鐘を吊る鐘楼です。1602(慶長7)年、金堂の南東に梵鐘と共にかつて三井寺長吏を務め隠遁生活を送っていた道澄により再建されました。<br />通常の鐘楼のように4本柱、あるいは袴腰付とは異なり、6本の柱を立て、下部はほぼ垂直に腰板を廻らし、上部は吹き放ちではなく竪格子を嵌め込む珍しい意匠です。近年まで切妻屋根は瓦葺でしたが、修理の際の調査で建立当初は桧皮葺であったことが判明し、桧皮葺に改められています。

    鐘楼(三井の晩鐘)
    近江八景のひとつ「三井の晩鐘」で有名な梵鐘を吊る鐘楼です。1602(慶長7)年、金堂の南東に梵鐘と共にかつて三井寺長吏を務め隠遁生活を送っていた道澄により再建されました。
    通常の鐘楼のように4本柱、あるいは袴腰付とは異なり、6本の柱を立て、下部はほぼ垂直に腰板を廻らし、上部は吹き放ちではなく竪格子を嵌め込む珍しい意匠です。近年まで切妻屋根は瓦葺でしたが、修理の際の調査で建立当初は桧皮葺であったことが判明し、桧皮葺に改められています。

  • 鐘楼<br />梵鐘は、古鐘「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとして、豊臣家による三井寺復興の一環として道澄の命により摂州住吉の鋳物師 杉本家次が鋳造しました。それ故、梵鐘には「園城寺長吏准三宮道澄誌焉」と誌銘が入れられています。<br />総高208.6cm、口径124cm、重量は2250kgあり、「弁慶の引摺り鐘」に倣って古式をよく伝え、滋賀県文化財に指定されています。特に音色に定評があり、「姿の平等院」、「銘の神護寺」と並び「音の三井寺」として有名です。

    鐘楼
    梵鐘は、古鐘「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとして、豊臣家による三井寺復興の一環として道澄の命により摂州住吉の鋳物師 杉本家次が鋳造しました。それ故、梵鐘には「園城寺長吏准三宮道澄誌焉」と誌銘が入れられています。
    総高208.6cm、口径124cm、重量は2250kgあり、「弁慶の引摺り鐘」に倣って古式をよく伝え、滋賀県文化財に指定されています。特に音色に定評があり、「姿の平等院」、「銘の神護寺」と並び「音の三井寺」として有名です。

  • 鐘楼<br />三井の晩鐘を撞き旧年の厄を払って新年の招福を祈願する除夜の鐘の行事は、琵琶湖の龍神にまつわる伝説に彩られています。<br />ある日、湖畔で子どもたちにいじめられている蛇を若者が助けました。その夜、美しい女人が若者の家を訪ね一夜の宿を借りますが、次の日も次の日も出ていこうとはせず、やがて2人は夫婦となり子どもを身籠ります。妻は「決して中を覗かないように」と言い残し産小屋に籠もりますが、心配になった若者は中を覗いてしまいます。すると大蛇がとぐろを巻いて赤子を抱いていたのです。その視線に気付いた大蛇は玉を握りしめた赤子を残して消えてしまいました。<br />赤子は握っていた玉をしゃぶって育ちますが、やがてこの噂を聞き付けた領主に玉を取り上げられてしまいます。湖畔で若者が途方に暮れていると、琵琶湖から龍が現れ、「私は浜辺で助けていただいた蛇です。あの玉は我が子が無事に育つようにと私の眼玉を与えたものです。もう片方の眼玉がありますから差し上げましょう。ただ、私は盲目となってしまいますので、我が子の姿が見られなくなります。どうか三井寺の鐘を毎日撞いて子どもの無事を知らせて下さい。また、歳の暮れには一年が過ぎたことが分かるように多くの鐘を撞いて下さい。お返しに人々に幸運を授けましょう」と頼んだ。<br />以来、三井寺では除夜の鐘に際しては、龍神を慰めるため多くの灯明を献じ、龍の目玉に因んだ目玉餅を供え、108に限らずできるだけ多くの人にできるだけ多く鐘を撞いてもらう特別の儀式が行われています。

    鐘楼
    三井の晩鐘を撞き旧年の厄を払って新年の招福を祈願する除夜の鐘の行事は、琵琶湖の龍神にまつわる伝説に彩られています。
    ある日、湖畔で子どもたちにいじめられている蛇を若者が助けました。その夜、美しい女人が若者の家を訪ね一夜の宿を借りますが、次の日も次の日も出ていこうとはせず、やがて2人は夫婦となり子どもを身籠ります。妻は「決して中を覗かないように」と言い残し産小屋に籠もりますが、心配になった若者は中を覗いてしまいます。すると大蛇がとぐろを巻いて赤子を抱いていたのです。その視線に気付いた大蛇は玉を握りしめた赤子を残して消えてしまいました。
    赤子は握っていた玉をしゃぶって育ちますが、やがてこの噂を聞き付けた領主に玉を取り上げられてしまいます。湖畔で若者が途方に暮れていると、琵琶湖から龍が現れ、「私は浜辺で助けていただいた蛇です。あの玉は我が子が無事に育つようにと私の眼玉を与えたものです。もう片方の眼玉がありますから差し上げましょう。ただ、私は盲目となってしまいますので、我が子の姿が見られなくなります。どうか三井寺の鐘を毎日撞いて子どもの無事を知らせて下さい。また、歳の暮れには一年が過ぎたことが分かるように多くの鐘を撞いて下さい。お返しに人々に幸運を授けましょう」と頼んだ。
    以来、三井寺では除夜の鐘に際しては、龍神を慰めるため多くの灯明を献じ、龍の目玉に因んだ目玉餅を供え、108に限らずできるだけ多くの人にできるだけ多く鐘を撞いてもらう特別の儀式が行われています。

  • 金堂 手水<br />三井寺と源氏との繋がりについて調べてみました。<br />河内源氏 源頼義が前九年の役(1051年)の出陣に当たり、三井寺とその五社鎮守のひとつの新羅明神に参拝して戦勝祈願をました。また、頼義の3男 義光が新羅明神にて元服し「新羅三郎」と称したのが源氏と三井寺の関係の馴れ初めです。戦の平定後、頼義は子 快誉を三井寺に出家させ、三井寺別院 尾蔵寺境内に祠を建立して石清水八幡宮を勧請して三井寺の鎮守社としました。それが鴿尾(はとのお)八幡宮でした。因みに、尾蔵寺、鴿尾八幡宮は共に廃寺となり、現在は大津市立長等公園となっています。<br />その後も義光が子 覚義を出家させ北院に金光院を創建するなど、源氏から三井寺に多くの僧侶が入り、その関係は更に深まりました。1180(治承4)年に清和源氏 源頼政が平家打倒の兵を挙げた際には平家打倒の拠点となり、やがて寺法師を巻き込んで『平家物語』巻4「宇治橋合戦」が語る壮絶な戦いへと突進します。 その後、平家を滅ぼした源頼朝も手厚く庇護するなど、源氏歴代の尊崇が篤い源氏の氏寺と言えます。

    金堂 手水
    三井寺と源氏との繋がりについて調べてみました。
    河内源氏 源頼義が前九年の役(1051年)の出陣に当たり、三井寺とその五社鎮守のひとつの新羅明神に参拝して戦勝祈願をました。また、頼義の3男 義光が新羅明神にて元服し「新羅三郎」と称したのが源氏と三井寺の関係の馴れ初めです。戦の平定後、頼義は子 快誉を三井寺に出家させ、三井寺別院 尾蔵寺境内に祠を建立して石清水八幡宮を勧請して三井寺の鎮守社としました。それが鴿尾(はとのお)八幡宮でした。因みに、尾蔵寺、鴿尾八幡宮は共に廃寺となり、現在は大津市立長等公園となっています。
    その後も義光が子 覚義を出家させ北院に金光院を創建するなど、源氏から三井寺に多くの僧侶が入り、その関係は更に深まりました。1180(治承4)年に清和源氏 源頼政が平家打倒の兵を挙げた際には平家打倒の拠点となり、やがて寺法師を巻き込んで『平家物語』巻4「宇治橋合戦」が語る壮絶な戦いへと突進します。 その後、平家を滅ぼした源頼朝も手厚く庇護するなど、源氏歴代の尊崇が篤い源氏の氏寺と言えます。

  • 先日99歳で惜しまれながら逝去された瀬戸内寂聴さんの著書『古寺巡礼、三井寺』の冒頭部分を紹介しましょう。<br />「長等の山が錦秋に染まる。まだ仏縁に恵まれなかったころから、なぜか私は三井寺が好きでよく訪れていた。それはもしかしたら、琵琶湖の見えるこの寺の広々とした、いつでも森閑とした清浄な雰囲気に魅せられていたのかもしれない…」。<br />このように三井寺に住まう多くの御仏を守るようにやさしくその懐に抱く長等の山々は、古来、歌枕としても知られ、多くの作家や歌人を引き寄せてやみませんでした。そのひとりが平安時代中期の三十六歌仙のひとりでもある平兼盛です。「さざなみや 長等の山の 長らへば 久しかるべき 君が御代かな」と詠っています。

    先日99歳で惜しまれながら逝去された瀬戸内寂聴さんの著書『古寺巡礼、三井寺』の冒頭部分を紹介しましょう。
    「長等の山が錦秋に染まる。まだ仏縁に恵まれなかったころから、なぜか私は三井寺が好きでよく訪れていた。それはもしかしたら、琵琶湖の見えるこの寺の広々とした、いつでも森閑とした清浄な雰囲気に魅せられていたのかもしれない…」。
    このように三井寺に住まう多くの御仏を守るようにやさしくその懐に抱く長等の山々は、古来、歌枕としても知られ、多くの作家や歌人を引き寄せてやみませんでした。そのひとりが平安時代中期の三十六歌仙のひとりでもある平兼盛です。「さざなみや 長等の山の 長らへば 久しかるべき 君が御代かな」と詠っています。

  • 金堂 芭蕉の句碑<br />「三井寺の 門たたかばや けふの月」<br />金堂正面左手の蓮池の前に鎮座しており、芭蕉没後300年を記念して1995(平成)年に建立されました。御影石に刻まれた特徴的な揮毫はかの榊莫山先生です。<br />『奥の細道』の長旅を終えた1691(元禄4)年の句です。中秋の名月を愛でるため、芭蕉が暮らす義仲寺無明庵で月見の句会が催されました。門弟の乙州は酒樽を携え、正秀は茶を持ち寄って芭蕉を喜ばせました。句会は盛り上がり、一同は琵琶湖へと舟を漕ぎ出しました。その際、月光に照らされた三井寺塔頭を眺めて望月を詠んだ句です。<br />「今宵の名月を修行僧たちに教えてあげなきゃ」と月下に三井寺の山門をたたく、ほろ酔い気分の芭蕉の姿が目に浮かぶようです。三井寺と名月との結び付きは謡曲『三井寺』により知られており、また、故事成語の「推敲」誕生の元となった唐の詩人 賈東の句にある「鳥は宿す池中の樹、僧はたたく月下の門」の如く山門をたたこうという意を滲ませています。

    金堂 芭蕉の句碑
    「三井寺の 門たたかばや けふの月」
    金堂正面左手の蓮池の前に鎮座しており、芭蕉没後300年を記念して1995(平成)年に建立されました。御影石に刻まれた特徴的な揮毫はかの榊莫山先生です。
    『奥の細道』の長旅を終えた1691(元禄4)年の句です。中秋の名月を愛でるため、芭蕉が暮らす義仲寺無明庵で月見の句会が催されました。門弟の乙州は酒樽を携え、正秀は茶を持ち寄って芭蕉を喜ばせました。句会は盛り上がり、一同は琵琶湖へと舟を漕ぎ出しました。その際、月光に照らされた三井寺塔頭を眺めて望月を詠んだ句です。
    「今宵の名月を修行僧たちに教えてあげなきゃ」と月下に三井寺の山門をたたく、ほろ酔い気分の芭蕉の姿が目に浮かぶようです。三井寺と名月との結び付きは謡曲『三井寺』により知られており、また、故事成語の「推敲」誕生の元となった唐の詩人 賈東の句にある「鳥は宿す池中の樹、僧はたたく月下の門」の如く山門をたたこうという意を滲ませています。

  • 金堂から一切経蔵を眺める<br />四季折々の表情で魅せる三井寺ですが、長等の山並みが錦秋に染まり、夕映えの深い木立から堂塔が茜さす頃がことさら美しいとされます。この季節は境内が朱に染まり、多くの参詣者で賑わいます。<br />とは言え、三井寺の紅葉は密集した錦秋模様を愛でるのではなく、このように仏堂の借景のアクセントのひとつとして愛でるパターンが多いように感じられます。

    金堂から一切経蔵を眺める
    四季折々の表情で魅せる三井寺ですが、長等の山並みが錦秋に染まり、夕映えの深い木立から堂塔が茜さす頃がことさら美しいとされます。この季節は境内が朱に染まり、多くの参詣者で賑わいます。
    とは言え、三井寺の紅葉は密集した錦秋模様を愛でるのではなく、このように仏堂の借景のアクセントのひとつとして愛でるパターンが多いように感じられます。

  • 金堂(国宝)<br />正面・側面共に7間ある巨大な堂宇ですが、特に屋根の大きさと反り軒の見事さに見惚れます。現在の金堂は、豊臣秀吉の遺志により正室 北政所が1599(慶長4)年に寄進したものと伝わり、境内でもひときわ大きく威容を誇る入母屋造、向拝一間、桧皮葺の仏堂です。元々あった金堂は、秀吉の闕所令により比叡山延暦寺西塔 転法輪堂(釈迦堂)として移築されました。<br />建物全体は和様で統一され、木割が太く、背丈が低く、軒の出が深く、重厚さの中にも柔らかさを折衷させた典型的桃山様式の仏堂です。

    金堂(国宝)
    正面・側面共に7間ある巨大な堂宇ですが、特に屋根の大きさと反り軒の見事さに見惚れます。現在の金堂は、豊臣秀吉の遺志により正室 北政所が1599(慶長4)年に寄進したものと伝わり、境内でもひときわ大きく威容を誇る入母屋造、向拝一間、桧皮葺の仏堂です。元々あった金堂は、秀吉の闕所令により比叡山延暦寺西塔 転法輪堂(釈迦堂)として移築されました。
    建物全体は和様で統一され、木割が太く、背丈が低く、軒の出が深く、重厚さの中にも柔らかさを折衷させた典型的桃山様式の仏堂です。

  • 金堂<br />堂内は外陣・中陣・後陣に区切り、中陣は中心となる内陣の両側に脇陣を設けるなど延暦寺東塔の根本中堂と似ています。内陣以外の床は全て板敷ですが、内陣は土間とし、中央五間は床を外陣より一段下げて四半瓦敷きにしており、天台宗本堂の古式を伝えます。<br />堂内の外側の1間は回廊になっており、その4面全てに仏像が祀られています。左側の脇陣には室町時代作の「大黒半跏像」が祀られていました。しかし、かつて見たことのない憤怒の表情をされた大黒さんですので必見です。

    金堂
    堂内は外陣・中陣・後陣に区切り、中陣は中心となる内陣の両側に脇陣を設けるなど延暦寺東塔の根本中堂と似ています。内陣以外の床は全て板敷ですが、内陣は土間とし、中央五間は床を外陣より一段下げて四半瓦敷きにしており、天台宗本堂の古式を伝えます。
    堂内の外側の1間は回廊になっており、その4面全てに仏像が祀られています。左側の脇陣には室町時代作の「大黒半跏像」が祀られていました。しかし、かつて見たことのない憤怒の表情をされた大黒さんですので必見です。

  • 金堂<br />本尊には弥勒菩薩像を祀ります。『寺門伝記補録』 によると、用明天皇の世に百済より渡来し、天智天皇の念持仏となり三井寺草創の際に本尊として安置されたと伝わります。「秘仏中の秘仏」のため非公開です。<br />寺伝によると、この仏像は三国伝来の霊仏と称され、中国天台宗高祖 慧思禅師が修行中に降臨した弥勒菩薩が自らの分身として残した像高三寸二分(約10cm)の仏像とされます。また、常に光を放ち全身が温かく 「生けるがごとし」霊仏であったと伝わります。幾多の法難に遭いながらも、この仏像が今日まで守られたことは奇跡と言えます。 <br />コロナ後の世界に向けて「希望と追善の祈り」特別拝観券(\1000)なら入山、金堂内陣拝観、文化財収蔵庫鑑賞ができます。内陣には光浄院の阿弥陀如来像や水観寺の薬師三尊僧、百愛観音堂の西国三十三体、聖徳太子像が遷座されていました。

    金堂
    本尊には弥勒菩薩像を祀ります。『寺門伝記補録』 によると、用明天皇の世に百済より渡来し、天智天皇の念持仏となり三井寺草創の際に本尊として安置されたと伝わります。「秘仏中の秘仏」のため非公開です。
    寺伝によると、この仏像は三国伝来の霊仏と称され、中国天台宗高祖 慧思禅師が修行中に降臨した弥勒菩薩が自らの分身として残した像高三寸二分(約10cm)の仏像とされます。また、常に光を放ち全身が温かく 「生けるがごとし」霊仏であったと伝わります。幾多の法難に遭いながらも、この仏像が今日まで守られたことは奇跡と言えます。
    コロナ後の世界に向けて「希望と追善の祈り」特別拝観券(\1000)なら入山、金堂内陣拝観、文化財収蔵庫鑑賞ができます。内陣には光浄院の阿弥陀如来像や水観寺の薬師三尊僧、百愛観音堂の西国三十三体、聖徳太子像が遷座されていました。

  • 金堂<br />破風板の拝みと桁隠しには大振りな猪目懸魚が下げられ、妻飾りには大瓶束が用いられています。

    金堂
    破風板の拝みと桁隠しには大振りな猪目懸魚が下げられ、妻飾りには大瓶束が用いられています。

  • 金堂 無名指燈籠<br />金堂前にある燈籠は「堂前燈籠」や「無名指燈籠」と呼ばれます。それは燈籠にまるわる伝説が由来です。中大兄皇子(後の天智天皇)が乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたことの贖罪として、自らの左薬指(無名指)を切り落とし、この燈籠の台座下に納めたと伝わります。そこまでするのは、暗殺により非業の死を遂げた蘇我入鹿はじめ一族の怨霊を鎮めるためとも窺えます。祟りを畏れるというのは、「皇子に非があった」ことの証左です。天智天皇の子 大友皇子は壬申の乱で蘇我系豪族に援護された大海人皇子(後の天武天皇)に敗北を喫するのですが、これが蘇我入鹿の祟りでなかったとは言い切れません。「乙巳の変」については藤原不比等編纂『日本書紀』の記述に誘導されて中大兄皇子側に正義があると思い込まされてきたのですが、近年の研究により見直される機運にあるのは確かです。<br />一方、平安時代後期の歴史書『扶桑略記』巻5によると、668(天智天皇7)年、天智天皇が崇福寺を建立するため土地を均した際、銅鐸と共に長さ5寸の白石が発掘されています。その白石が夜に光明を放つのを奇瑞とし、両親の恩に報いるために左手薬指を燈籠の明かり代わりとしてその身を燃やした後、その指を切り落として石臼に納め、崇福寺の燈籠の台座下に埋めたと記しています。<br />左薬指は1本しかないはずですが…。

    金堂 無名指燈籠
    金堂前にある燈籠は「堂前燈籠」や「無名指燈籠」と呼ばれます。それは燈籠にまるわる伝説が由来です。中大兄皇子(後の天智天皇)が乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたことの贖罪として、自らの左薬指(無名指)を切り落とし、この燈籠の台座下に納めたと伝わります。そこまでするのは、暗殺により非業の死を遂げた蘇我入鹿はじめ一族の怨霊を鎮めるためとも窺えます。祟りを畏れるというのは、「皇子に非があった」ことの証左です。天智天皇の子 大友皇子は壬申の乱で蘇我系豪族に援護された大海人皇子(後の天武天皇)に敗北を喫するのですが、これが蘇我入鹿の祟りでなかったとは言い切れません。「乙巳の変」については藤原不比等編纂『日本書紀』の記述に誘導されて中大兄皇子側に正義があると思い込まされてきたのですが、近年の研究により見直される機運にあるのは確かです。
    一方、平安時代後期の歴史書『扶桑略記』巻5によると、668(天智天皇7)年、天智天皇が崇福寺を建立するため土地を均した際、銅鐸と共に長さ5寸の白石が発掘されています。その白石が夜に光明を放つのを奇瑞とし、両親の恩に報いるために左手薬指を燈籠の明かり代わりとしてその身を燃やした後、その指を切り落として石臼に納め、崇福寺の燈籠の台座下に埋めたと記しています。
    左薬指は1本しかないはずですが…。

  • 金堂<br />『今昔物語』にも酷似した逸話があります。崇福寺に祀る弥勒菩薩像の開眼供養の日、天智天皇は右手薬指に灯明を灯し、その指を切り落として石の箱に入れ燈籠の下に埋めました。これは、寺を建立する際の整地中に3尺程の宝塔が発見され、かつてアショカ王が8万4千の塔を建てたものの一つだと知り、いよいよ誓願を深め、その証に指を切り落として弥勒菩薩に奉ったものです。<br />寺の霊験あらたかでしたが、後世になると少しでも穢れのある人は谷に投げ捨てられたため参詣が途絶えました。寺の別当が「この寺に人が参詣しないのはこの指のせいだ。掘り出して捨ててしまえ」と言って掘らせると、忽ち雷鳴が轟き暴風雨となりました。その指は、今切ったばかりのように鮮やかに白く光っていましたが、間もなく氷のように溶けて消え失せました。その後、その別当は狂い死にし、寺の霊験もなくなったと伝えます。<br />これらの逸話は背景こそ異なりますが、「薬指を切り落とした」という点では共通しており、その行為の特異性が際立っています。ある種の「スケープゴート」を捧げる神道的な儀式と窺えますが、複数の史料に「左手薬指」とあるのは謎めいてます。調べてみると、日本で「薬師指」と呼ばれるようになったのは「薬」が効くのは「魔法」の力によるものとされ、それが薬壺の中で薬剤をかき混ぜる指に宿るとされたことに因みます。また特に左手の薬指に拘るのは、心臓に繋がる血管があるという「ギリシア神話」に由来するそうです。エンゲージリングを着けるのも左手薬指です。心臓と繋がっていることから、永遠の誓いの意味を込めるに相応しい指と考えられてきたのです。

    金堂
    『今昔物語』にも酷似した逸話があります。崇福寺に祀る弥勒菩薩像の開眼供養の日、天智天皇は右手薬指に灯明を灯し、その指を切り落として石の箱に入れ燈籠の下に埋めました。これは、寺を建立する際の整地中に3尺程の宝塔が発見され、かつてアショカ王が8万4千の塔を建てたものの一つだと知り、いよいよ誓願を深め、その証に指を切り落として弥勒菩薩に奉ったものです。
    寺の霊験あらたかでしたが、後世になると少しでも穢れのある人は谷に投げ捨てられたため参詣が途絶えました。寺の別当が「この寺に人が参詣しないのはこの指のせいだ。掘り出して捨ててしまえ」と言って掘らせると、忽ち雷鳴が轟き暴風雨となりました。その指は、今切ったばかりのように鮮やかに白く光っていましたが、間もなく氷のように溶けて消え失せました。その後、その別当は狂い死にし、寺の霊験もなくなったと伝えます。
    これらの逸話は背景こそ異なりますが、「薬指を切り落とした」という点では共通しており、その行為の特異性が際立っています。ある種の「スケープゴート」を捧げる神道的な儀式と窺えますが、複数の史料に「左手薬指」とあるのは謎めいてます。調べてみると、日本で「薬師指」と呼ばれるようになったのは「薬」が効くのは「魔法」の力によるものとされ、それが薬壺の中で薬剤をかき混ぜる指に宿るとされたことに因みます。また特に左手の薬指に拘るのは、心臓に繋がる血管があるという「ギリシア神話」に由来するそうです。エンゲージリングを着けるのも左手薬指です。心臓と繋がっていることから、永遠の誓いの意味を込めるに相応しい指と考えられてきたのです。

  • 金堂<br />獏の木鼻は、安土桃山時代としては細密ながら優美な造形を魅せ、北政所の寄進と言うことでもあり、腕利きの工匠の作と窺えます。柱上の組物は連三斗とし、獏の木鼻に巻斗を載せて組物を持ち送りする構造です。

    金堂
    獏の木鼻は、安土桃山時代としては細密ながら優美な造形を魅せ、北政所の寄進と言うことでもあり、腕利きの工匠の作と窺えます。柱上の組物は連三斗とし、獏の木鼻に巻斗を載せて組物を持ち送りする構造です。

  • 金堂<br />虹梁には眉欠きや錫杖彫りは施されていますが、定番の唐草模様は彫られていません。中備えは蟇股とし、龍や唐獅子、麒麟を彫っています。<br />

    金堂
    虹梁には眉欠きや錫杖彫りは施されていますが、定番の唐草模様は彫られていません。中備えは蟇股とし、龍や唐獅子、麒麟を彫っています。

  • 金堂<br />三井寺と延暦寺の確執の起源を紐解いてみましょう。<br />868(貞観10)年、円珍は延暦寺第5代天台座主に就任しました。しかし、円珍が天台宗の開祖 最澄の直弟子ではなく、弟弟子の義真の弟子だったため、最澄直系の円仁の弟子の反感を買いました。因みに、これらの法統の違いは密教路線か否かとも換言できます。つまり、円仁派を顕教派、円珍派を密教派と換言でき、両派の確執は比叡山の密教化に絡んでいます。また、その確執が深まったのが円珍入寂後のことです。拠点とした寺名に因み前者を山門宗(比叡山)、後者を寺門宗(三井寺)と呼び、両派の中興の祖の名を冠して慈覚(円仁)流、智証(円珍)流とも呼びます。<br />その後120年余りくすぶり続けた確執は、969(永祚元)年に寺門宗の余慶が第20代天台座主に任じられたのを機に激化しました。いわゆる近親憎悪であり、「山門寺門の確執」と呼ばれ、しばしば武力闘争にも発展しました。

    金堂
    三井寺と延暦寺の確執の起源を紐解いてみましょう。
    868(貞観10)年、円珍は延暦寺第5代天台座主に就任しました。しかし、円珍が天台宗の開祖 最澄の直弟子ではなく、弟弟子の義真の弟子だったため、最澄直系の円仁の弟子の反感を買いました。因みに、これらの法統の違いは密教路線か否かとも換言できます。つまり、円仁派を顕教派、円珍派を密教派と換言でき、両派の確執は比叡山の密教化に絡んでいます。また、その確執が深まったのが円珍入寂後のことです。拠点とした寺名に因み前者を山門宗(比叡山)、後者を寺門宗(三井寺)と呼び、両派の中興の祖の名を冠して慈覚(円仁)流、智証(円珍)流とも呼びます。
    その後120年余りくすぶり続けた確執は、969(永祚元)年に寺門宗の余慶が第20代天台座主に任じられたのを機に激化しました。いわゆる近親憎悪であり、「山門寺門の確執」と呼ばれ、しばしば武力闘争にも発展しました。

  • 金堂<br />この確執は190年後の「源平の争乱」にも暗い影を落としました。平氏は山門宗、源頼政は寺門宗と連帯しました。山門宗も平氏も共に後白河法皇への敵対勢力であり、利害は一致します。山門宗と平氏の連帯の背景には、第55代天台座主 明雲と清盛の個人的な信頼関係も寄与しました。清盛は出家に際し明雲に戒師を務めてもらい、宗教上の親と仰ぎました。『愚管抄』には、「明雲は平家の護持僧」ともあります。

    金堂
    この確執は190年後の「源平の争乱」にも暗い影を落としました。平氏は山門宗、源頼政は寺門宗と連帯しました。山門宗も平氏も共に後白河法皇への敵対勢力であり、利害は一致します。山門宗と平氏の連帯の背景には、第55代天台座主 明雲と清盛の個人的な信頼関係も寄与しました。清盛は出家に際し明雲に戒師を務めてもらい、宗教上の親と仰ぎました。『愚管抄』には、「明雲は平家の護持僧」ともあります。

  • 金堂<br />向拝の軒裏を受ける手挟には菊や牡丹などを彫っています。

    金堂
    向拝の軒裏を受ける手挟には菊や牡丹などを彫っています。

  • 金堂<br />一方、平家政権下で破格の昇進を遂げた源頼政は突如平家と袂を分かち寺門宗と連帯しました。頼政謀反の理由は定かではありませんが、『平家物語』は頼政の息子の馬が平宗盛(清盛3男)に取り上げられ、焼印を押されるという屈辱を受けたためと茶を濁しています。孫の安徳天皇を即位させるなど平清盛の横暴な態度が、頼政が秘めていた源氏再興という野望へのトリガーになったとするのが順当です。

    金堂
    一方、平家政権下で破格の昇進を遂げた源頼政は突如平家と袂を分かち寺門宗と連帯しました。頼政謀反の理由は定かではありませんが、『平家物語』は頼政の息子の馬が平宗盛(清盛3男)に取り上げられ、焼印を押されるという屈辱を受けたためと茶を濁しています。孫の安徳天皇を即位させるなど平清盛の横暴な態度が、頼政が秘めていた源氏再興という野望へのトリガーになったとするのが順当です。

  • 金堂<br />多数派工作を図った寺門宗は、南都の二大寺である東大寺と興福寺へ働きかけ、平家・山門連合に対する包囲網を構築しました。しかし多勢に無勢で頼政軍は宇治橋合戦で敗退しますが、この戦略構想による枠組みが源平合戦のきっかけとその後の流れを決定付けたと言っても過言ではありません。つまり、頼政の人生を賭した行動がなければ、鎌倉幕府は存在しなかったかもしれません。

    金堂
    多数派工作を図った寺門宗は、南都の二大寺である東大寺と興福寺へ働きかけ、平家・山門連合に対する包囲網を構築しました。しかし多勢に無勢で頼政軍は宇治橋合戦で敗退しますが、この戦略構想による枠組みが源平合戦のきっかけとその後の流れを決定付けたと言っても過言ではありません。つまり、頼政の人生を賭した行動がなければ、鎌倉幕府は存在しなかったかもしれません。

  • 金堂<br />源頼政挙兵の3年後の1183(寿永2)年、倶利伽羅峠の戦いを制した木曽義仲は上洛への最後の関門となる延暦寺との交渉に着手しました。「もし平氏に助力すれば合戦に及び、延暦寺は瞬く間に滅亡する」との恫喝に、山門宗は義仲の申し入れを受諾し東塔に砦を築きました。また、東坂本には5万騎を集結させたと伝えます。

    金堂
    源頼政挙兵の3年後の1183(寿永2)年、倶利伽羅峠の戦いを制した木曽義仲は上洛への最後の関門となる延暦寺との交渉に着手しました。「もし平氏に助力すれば合戦に及び、延暦寺は瞬く間に滅亡する」との恫喝に、山門宗は義仲の申し入れを受諾し東塔に砦を築きました。また、東坂本には5万騎を集結させたと伝えます。

  • 金堂<br />実は、山門宗は頼政挙兵の際にも以仁王から連帯を打診されていました。しかしその際は、にべもなく断っています。この3年で時代の潮流が変わり、山門宗は潮目を読んだのでしょう。かくして山門宗の離反により平家は都落ちを余儀なくされ、滅亡はもはや時間の問題となりました。源平の争乱が終結すると、「山門寺門の確執」もすっかり影をひそめたそうです。南北朝時代に復活してしまうのですが…。

    金堂
    実は、山門宗は頼政挙兵の際にも以仁王から連帯を打診されていました。しかしその際は、にべもなく断っています。この3年で時代の潮流が変わり、山門宗は潮目を読んだのでしょう。かくして山門宗の離反により平家は都落ちを余儀なくされ、滅亡はもはや時間の問題となりました。源平の争乱が終結すると、「山門寺門の確執」もすっかり影をひそめたそうです。南北朝時代に復活してしまうのですが…。

  • 金堂<br />母屋の正面中央の蟇股には花鳥などの彫刻を施しています。<br />国宝『鳥獣人物戯画』は約900年前に描かれた全4巻の絵巻物であり、手塚治虫先生が「漫画のお手本」と絶賛した作品です。そのうちの『鳥獣戯画 甲巻』の作者とされるのが鳥羽僧正 覚猷(かくゆう)です。覚猷は三井寺に法輪院を建立して20年間密教の研究に没頭し長吏を歴任すると共に、収集した図像を『法輪院本』として重んじました。

    金堂
    母屋の正面中央の蟇股には花鳥などの彫刻を施しています。
    国宝『鳥獣人物戯画』は約900年前に描かれた全4巻の絵巻物であり、手塚治虫先生が「漫画のお手本」と絶賛した作品です。そのうちの『鳥獣戯画 甲巻』の作者とされるのが鳥羽僧正 覚猷(かくゆう)です。覚猷は三井寺に法輪院を建立して20年間密教の研究に没頭し長吏を歴任すると共に、収集した図像を『法輪院本』として重んじました。

  • 金堂<br />晩年は鳥羽上皇の信任篤く、79歳で鳥羽離宮内の証金剛院の護持僧に任じられました。鳥羽僧正の呼び名はこれに因みます。82歳で大僧正となり、1136(保延2)年には86歳で第47世天台座主に昇り詰めました。しかし、山門宗の反対に遭い僅か3日で辞任に追い込まれ、1140(保延6)年に88歳で亡くなりました。ここにも「山門寺門の確執」が暗い影を落としています。覚猷は仏教界の要職を歴任しながらも、往時の仏教界と政治のあり方に批判的な眼を持っていたとされます。

    金堂
    晩年は鳥羽上皇の信任篤く、79歳で鳥羽離宮内の証金剛院の護持僧に任じられました。鳥羽僧正の呼び名はこれに因みます。82歳で大僧正となり、1136(保延2)年には86歳で第47世天台座主に昇り詰めました。しかし、山門宗の反対に遭い僅か3日で辞任に追い込まれ、1140(保延6)年に88歳で亡くなりました。ここにも「山門寺門の確執」が暗い影を落としています。覚猷は仏教界の要職を歴任しながらも、往時の仏教界と政治のあり方に批判的な眼を持っていたとされます。

  • 金堂<br />覚猷の画は、ユーモアと風刺精神に富み、「戯画」や「嗚呼絵(おこえ)」とも呼ばれます。往時としてはかなり高齢で没しましたが、財産分与に関する逸話を遺しています。弟子から遺産分与の遺言を求められ、「遺産の処分は腕力で決めるべし」と遺したと伝えます。これについては、貴族や僧侶の権謀衛策やこびへつらいに対する風刺との見方もあります。弱肉強食と言った、権力の横行に対する当て付けともとれる逸話です。

    金堂
    覚猷の画は、ユーモアと風刺精神に富み、「戯画」や「嗚呼絵(おこえ)」とも呼ばれます。往時としてはかなり高齢で没しましたが、財産分与に関する逸話を遺しています。弟子から遺産分与の遺言を求められ、「遺産の処分は腕力で決めるべし」と遺したと伝えます。これについては、貴族や僧侶の権謀衛策やこびへつらいに対する風刺との見方もあります。弱肉強食と言った、権力の横行に対する当て付けともとれる逸話です。

  • 金堂 回廊<br />木によって節穴や亀裂を補修する「埋め木」が所々に施されています。古くなった柱など木部の穴や亀裂を別の木材で修繕した跡とされます。<br />しかしこの場合は傷んでもいないため、宮大工さんの遊び心の現れと窺えます。恐らくは参拝者々を少しでも癒すことができればという粋な気遣なのでしょう。

    金堂 回廊
    木によって節穴や亀裂を補修する「埋め木」が所々に施されています。古くなった柱など木部の穴や亀裂を別の木材で修繕した跡とされます。
    しかしこの場合は傷んでもいないため、宮大工さんの遊び心の現れと窺えます。恐らくは参拝者々を少しでも癒すことができればという粋な気遣なのでしょう。

  • 閼伽井屋<br />金堂に隣接してひっそりと佇むのが閼伽井屋です。桧皮葺、向唐破風造、彩色や壁画が認められるなど随所に桃山様式を散らした優美な履屋です。<br />何故これほど至近距離に金堂が建造されたかは謎のようです。内部には「三井寺」の名の由来となった三帝(天智、天武、持統天皇)の産湯に使われたとされる霊泉が今も枯れることなく岩組から湧いています。<br />三井寺はかつては「御井寺」と書かれました。円珍が園城寺を訪れた折、大友都堵牟麻呂(つとむまろ)に寺名の由来を尋ねたところ、三帝の産湯に使われた井泉、つまり「御井」に因むと返答を受けました。これに深く感銘した円珍は、三帝浴井かつこの霊水を三部灌頂の奉修の閼伽に用いたことから「御井」の字を「三井」に改めたと伝わります。<br />一方、『日本書紀』の671(天智天皇9)年の3月には「山の御井の傍らに諸神の座を敷きて幣帛を班つ」とあり、この「御井」は三井寺の閼伽井を指すそうです。それならば、寺院の創建以前の古代祭祀場に湧いていた霊泉とも窺えます。

    閼伽井屋
    金堂に隣接してひっそりと佇むのが閼伽井屋です。桧皮葺、向唐破風造、彩色や壁画が認められるなど随所に桃山様式を散らした優美な履屋です。
    何故これほど至近距離に金堂が建造されたかは謎のようです。内部には「三井寺」の名の由来となった三帝(天智、天武、持統天皇)の産湯に使われたとされる霊泉が今も枯れることなく岩組から湧いています。
    三井寺はかつては「御井寺」と書かれました。円珍が園城寺を訪れた折、大友都堵牟麻呂(つとむまろ)に寺名の由来を尋ねたところ、三帝の産湯に使われた井泉、つまり「御井」に因むと返答を受けました。これに深く感銘した円珍は、三帝浴井かつこの霊水を三部灌頂の奉修の閼伽に用いたことから「御井」の字を「三井」に改めたと伝わります。
    一方、『日本書紀』の671(天智天皇9)年の3月には「山の御井の傍らに諸神の座を敷きて幣帛を班つ」とあり、この「御井」は三井寺の閼伽井を指すそうです。それならば、寺院の創建以前の古代祭祀場に湧いていた霊泉とも窺えます。

  • 閼伽井屋<br />古代史ファンにとり、この三帝はキーパーソンです。天智天皇は飛鳥で中臣鎌足と共に乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子です。天皇に即位後、この三井寺がある大津に宮殿を遷移しました。その後、古代史最大の内乱「壬申の乱」を制して即位したのが天武天皇。その后が中大兄皇子の異母姉であり、後の 持統天皇です。

    閼伽井屋
    古代史ファンにとり、この三帝はキーパーソンです。天智天皇は飛鳥で中臣鎌足と共に乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子です。天皇に即位後、この三井寺がある大津に宮殿を遷移しました。その後、古代史最大の内乱「壬申の乱」を制して即位したのが天武天皇。その后が中大兄皇子の異母姉であり、後の 持統天皇です。

  • 閼伽井屋<br />しかし三帝とも飛鳥生まれであり、遠路はるばる産湯をここまで汲みに来たとの設定には無理があります。天智天皇が遷移した大津宮との係わりから、こうした伝説が信じられてきたものと窺えます。

    閼伽井屋
    しかし三帝とも飛鳥生まれであり、遠路はるばる産湯をここまで汲みに来たとの設定には無理があります。天智天皇が遷移した大津宮との係わりから、こうした伝説が信じられてきたものと窺えます。

  • 閼伽井屋<br />現在の建物は、霊泉の履屋として1600(慶長5)年に北政所が建立しました。<br />それを証左するのが向唐破風の懸魚に施された「五七の桐紋」です。

    閼伽井屋
    現在の建物は、霊泉の履屋として1600(慶長5)年に北政所が建立しました。
    それを証左するのが向唐破風の懸魚に施された「五七の桐紋」です。

  • 閼伽井屋<br />正面上部には名工 左甚五郎作とする龍の彫刻があります。因みに、「左甚五郎」は腕利きの彫師の称号であり個人の名ではありませんが、その巧みな技ゆえ、彫ち物が魂を持つと称されます。案の定、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れたため、甚五郎が龍の目に5寸釘を打ち込んで鎮めたとの伝承があり、今も目の所に釘穴が残ります。<br />因みに、寺院に祀られる龍の造形には仏教を保護する意があります。また、龍と水との関係から防火の意を兼ね、通常は建物の屋根の下や腕木の小口などに彫られます。しかし、ここでは格子戸の上の蟇股に彫っています。龍の彫刻はコンパクトながらも長い身体を想像させる優れものです。また、龍の周りには飾り彫刻など一切配せず、シンプルを極めます。

    閼伽井屋
    正面上部には名工 左甚五郎作とする龍の彫刻があります。因みに、「左甚五郎」は腕利きの彫師の称号であり個人の名ではありませんが、その巧みな技ゆえ、彫ち物が魂を持つと称されます。案の定、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れたため、甚五郎が龍の目に5寸釘を打ち込んで鎮めたとの伝承があり、今も目の所に釘穴が残ります。
    因みに、寺院に祀られる龍の造形には仏教を保護する意があります。また、龍と水との関係から防火の意を兼ね、通常は建物の屋根の下や腕木の小口などに彫られます。しかし、ここでは格子戸の上の蟇股に彫っています。龍の彫刻はコンパクトながらも長い身体を想像させる優れものです。また、龍の周りには飾り彫刻など一切配せず、シンプルを極めます。

  • 閼伽井屋<br />一方、この霊泉には「九頭龍神伝説」も伝わります。この泉に九頭一身の龍神が棲み、年に10日、丑の刻に姿を現わし、 金の御器によって水花を金堂の弥勒菩薩に供えるため、その日は泉の傍に参ると 「罰あり、咎あり」と言われ何人も近づくことが禁じられていたそうです。

    閼伽井屋
    一方、この霊泉には「九頭龍神伝説」も伝わります。この泉に九頭一身の龍神が棲み、年に10日、丑の刻に姿を現わし、 金の御器によって水花を金堂の弥勒菩薩に供えるため、その日は泉の傍に参ると 「罰あり、咎あり」と言われ何人も近づくことが禁じられていたそうです。

  • 閼伽井屋<br />左端から一定の間隔を置いて聞こえてくる「ゴボッ、ゴボッ」というリアルな音に耳を聳てると、1300年前の古代と時空が繋がったかのような不思議な感覚に捉われます。<br />

    閼伽井屋
    左端から一定の間隔を置いて聞こえてくる「ゴボッ、ゴボッ」というリアルな音に耳を聳てると、1300年前の古代と時空が繋がったかのような不思議な感覚に捉われます。

  • 閼伽井屋<br />裏側にも向唐破風が施されています。<br />

    閼伽井屋
    裏側にも向唐破風が施されています。

  • 閼伽井石庭<br />閼伽井屋の右側には駒札が立っていますが、ここに足を止める方はほとんどおられません。閼伽井を見て満足されたようです。<br />現存する石庭としては日本最古とされ、「閼伽井石庭」と称されています。霊泉が湧き出す覆屋の内部も元々は庭園の一部だったと窺えます。<br />因みに、三井寺は大友氏の邸跡に建立されたとの説もあり、この蓬莱の石組は中大兄皇子邸の庭園だったのかもしれません。

    閼伽井石庭
    閼伽井屋の右側には駒札が立っていますが、ここに足を止める方はほとんどおられません。閼伽井を見て満足されたようです。
    現存する石庭としては日本最古とされ、「閼伽井石庭」と称されています。霊泉が湧き出す覆屋の内部も元々は庭園の一部だったと窺えます。
    因みに、三井寺は大友氏の邸跡に建立されたとの説もあり、この蓬莱の石組は中大兄皇子邸の庭園だったのかもしれません。

  • 閼伽井石庭<br />この石庭は、東海中にあり、仙人が住み、不老不死の霊山とされる蓬莱山を象ります。<br />駒札には「中央より人、神仏、鶴、亀と配されている」とありますが、その判別は当方のような凡人には困難です。

    閼伽井石庭
    この石庭は、東海中にあり、仙人が住み、不老不死の霊山とされる蓬莱山を象ります。
    駒札には「中央より人、神仏、鶴、亀と配されている」とありますが、その判別は当方のような凡人には困難です。

  • 熊野権現社<br />金堂の北側の山手に三間社流造、檜皮葺の熊野権現社が佇みます。<br />1159(平治元)年、三井修験道の鎮守神として熊野権現を勧請して建立されました。現在の建物は1813(天保8)年に再建されたものです。本尊には蔵王権現を祀り、吉野 金峯山寺を意識したものとされ、神仏混淆時代の名残と言えます。<br />智証大師 円珍は、845(承和12)年に籠山行を終えて大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、三井修験道の起源となりました。その後の1090(寛治4)年、三井寺長吏 増誉が白河上皇の熊野御幸の先達を務めた功により「熊野三山検校職」に任ぜられました。以来、この職は三井寺長吏の永代職となり、熊野修験を統轄するようになりました。<br />また、鎌倉時代末期には、増誉ゆかりの聖護院門跡 覚助法親王が三井寺長吏と熊野三山検校を兼任し、熊野三山・大峯山への天台宗系修験者を統制するに至りました。こうして三井寺は本山派修験道の根本道場として勢力を拡大し、多大な影響力を持つようになりました。

    熊野権現社
    金堂の北側の山手に三間社流造、檜皮葺の熊野権現社が佇みます。
    1159(平治元)年、三井修験道の鎮守神として熊野権現を勧請して建立されました。現在の建物は1813(天保8)年に再建されたものです。本尊には蔵王権現を祀り、吉野 金峯山寺を意識したものとされ、神仏混淆時代の名残と言えます。
    智証大師 円珍は、845(承和12)年に籠山行を終えて大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、三井修験道の起源となりました。その後の1090(寛治4)年、三井寺長吏 増誉が白河上皇の熊野御幸の先達を務めた功により「熊野三山検校職」に任ぜられました。以来、この職は三井寺長吏の永代職となり、熊野修験を統轄するようになりました。
    また、鎌倉時代末期には、増誉ゆかりの聖護院門跡 覚助法親王が三井寺長吏と熊野三山検校を兼任し、熊野三山・大峯山への天台宗系修験者を統制するに至りました。こうして三井寺は本山派修験道の根本道場として勢力を拡大し、多大な影響力を持つようになりました。

  • 熊野権現社<br />因みに、後白河上皇は34回も熊野権現に参詣していますが、1160(永暦元)年が最初の熊野詣でした。三井寺法印 覚讃を先達に平清盛を伴い、10月23日に京を出立し、その1ヶ月後に参詣しています。京において熊野三山の統轄に当った熊野三山検校は、三井寺が担っていたことから覚讃が先達を務めました。このように往時は寺院が熊野信仰や熊野詣まで管轄していたことが判ります。<br /><br />この続きは、②三井寺(園城寺)中院<後編>でお届けいたします。

    熊野権現社
    因みに、後白河上皇は34回も熊野権現に参詣していますが、1160(永暦元)年が最初の熊野詣でした。三井寺法印 覚讃を先達に平清盛を伴い、10月23日に京を出立し、その1ヶ月後に参詣しています。京において熊野三山の統轄に当った熊野三山検校は、三井寺が担っていたことから覚讃が先達を務めました。このように往時は寺院が熊野信仰や熊野詣まで管轄していたことが判ります。

    この続きは、②三井寺(園城寺)中院<後編>でお届けいたします。

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