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今回は三井寺中院から直線距離で500m程離れた、北院にある新羅善神堂を中心にレポいたします。<br />聞き慣れない名前の神社ですが、国宝に指定されている格調高い神社のひとつです。しかし、現在はここを訪れる参拝者も少なく、時代の流れに捨て置かれたかのように荒廃の一途を辿る希少な神社です。このような処遇を受けている国宝は珍しいと思います。<br />現在の建屋は足利尊氏が寄進した由緒あるものであり、清和源氏の誉れ高き神社でありながら、謎多きミステリアスな神社とされます。三井寺の草創は百済系の大友与多王でありながら、何故、三井寺北院の守護神に敵対する新羅系の神を祀らなければならなかったのか?その謎解きに挑んでみたいと思います。<br />マップは次のサイトを参照してください。<br />https://miidera1200.jp/information

情緒纏綿 近江逍遥④三井寺(園城寺)北院 新羅善神堂

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2021/11/25 - 2021/11/25

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

今回は三井寺中院から直線距離で500m程離れた、北院にある新羅善神堂を中心にレポいたします。
聞き慣れない名前の神社ですが、国宝に指定されている格調高い神社のひとつです。しかし、現在はここを訪れる参拝者も少なく、時代の流れに捨て置かれたかのように荒廃の一途を辿る希少な神社です。このような処遇を受けている国宝は珍しいと思います。
現在の建屋は足利尊氏が寄進した由緒あるものであり、清和源氏の誉れ高き神社でありながら、謎多きミステリアスな神社とされます。三井寺の草創は百済系の大友与多王でありながら、何故、三井寺北院の守護神に敵対する新羅系の神を祀らなければならなかったのか?その謎解きに挑んでみたいと思います。
マップは次のサイトを参照してください。
https://miidera1200.jp/information

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 圓満院門跡 勅使門<br />北院へ向かう前に腹ごしらえです。圓満院門跡にあるカフェにランチの予約を入れておきました。三井寺の北隣にあり、勅使門には皇室の菊花紋「十六葉八重表菊」が染められ、ここが門跡寺院であることを示唆しています。<br />圓満院は、987(寛和3)年に村上天皇の第3皇子 悟円(むねひら)親王により創立された天台寺門宗の寺院です。(現在は独立した天台宗系の単立寺院です。)三井3門跡のひとつであり、開基当初は「三井平等院」と呼ばれていましたが、後に明尊大僧正により「圓満院」に改名され、悟円親王をはじめ歴代皇族の入室する門跡寺院となりました。<br />重文「宸殿(しんでん)」や国指定名勝「三井の名庭」、今では貴重な日本2大民画「大津絵美術館」など、見所満載です。また、明治天皇や往時東宮だった後の大正天皇が行幸された門跡でもあります。<br />因みに、勅使門の右側にあった門番所はお蕎麦屋さんになっています。境内の湧き水「三井の名水」を用いた「開運そば」が有名です。<br />圓満院のサイトはこちらを参照してください。<br />https://enman-inn.com/

    圓満院門跡 勅使門
    北院へ向かう前に腹ごしらえです。圓満院門跡にあるカフェにランチの予約を入れておきました。三井寺の北隣にあり、勅使門には皇室の菊花紋「十六葉八重表菊」が染められ、ここが門跡寺院であることを示唆しています。
    圓満院は、987(寛和3)年に村上天皇の第3皇子 悟円(むねひら)親王により創立された天台寺門宗の寺院です。(現在は独立した天台宗系の単立寺院です。)三井3門跡のひとつであり、開基当初は「三井平等院」と呼ばれていましたが、後に明尊大僧正により「圓満院」に改名され、悟円親王をはじめ歴代皇族の入室する門跡寺院となりました。
    重文「宸殿(しんでん)」や国指定名勝「三井の名庭」、今では貴重な日本2大民画「大津絵美術館」など、見所満載です。また、明治天皇や往時東宮だった後の大正天皇が行幸された門跡でもあります。
    因みに、勅使門の右側にあった門番所はお蕎麦屋さんになっています。境内の湧き水「三井の名水」を用いた「開運そば」が有名です。
    圓満院のサイトはこちらを参照してください。
    https://enman-inn.com/

  • 圓満院門跡 宸殿(しんでん)<br />この建物は、1619(元和5)年に徳川幕府第2代将軍 徳川秀忠と御台所 江姫の5女 和子姫(東福門院)が後水尾天皇の后として正式に入内する際に建てられた女院御所の一部でした。その後、1647(正保4)年に和子所生の明正天皇より下賜され、京都御所から当地へ移築されました。<br />大玄関の前に広がる砂紋を描いた白砂の手前には青竹の結界が張られています。天皇陛下が行幸された場合のみ、その結界が開けられます。<br />因みに、宸殿は明治時代には大津県の県庁舎としても利用されました。廃藩置県の際に県庁の住所が「しがぐんべっしょ」だったことから、大津県が滋賀県になったと伝わります。つまり、滋賀県の生みの親と言えます。

    圓満院門跡 宸殿(しんでん)
    この建物は、1619(元和5)年に徳川幕府第2代将軍 徳川秀忠と御台所 江姫の5女 和子姫(東福門院)が後水尾天皇の后として正式に入内する際に建てられた女院御所の一部でした。その後、1647(正保4)年に和子所生の明正天皇より下賜され、京都御所から当地へ移築されました。
    大玄関の前に広がる砂紋を描いた白砂の手前には青竹の結界が張られています。天皇陛下が行幸された場合のみ、その結界が開けられます。
    因みに、宸殿は明治時代には大津県の県庁舎としても利用されました。廃藩置県の際に県庁の住所が「しがぐんべっしょ」だったことから、大津県が滋賀県になったと伝わります。つまり、滋賀県の生みの親と言えます。

  • 圓満院門跡 宸殿 大玄関<br />円満院門跡は当初は「三井平等院」と称されていました。その後、藤原通長が京都の宇治に別荘「宇治殿」を建立しました。この別荘を通長の子 頼道の時代に寺院に改修する際、円満院の住職 明尊が開基を務めた縁から「三井平等院」という名を宇治殿に禅譲する運びとなり、「宇治平等院」という名称になったそうです。<br />つまり、この円満院門跡は世界遺産「宇治平等院」の名付け親でもあります。

    圓満院門跡 宸殿 大玄関
    円満院門跡は当初は「三井平等院」と称されていました。その後、藤原通長が京都の宇治に別荘「宇治殿」を建立しました。この別荘を通長の子 頼道の時代に寺院に改修する際、円満院の住職 明尊が開基を務めた縁から「三井平等院」という名を宇治殿に禅譲する運びとなり、「宇治平等院」という名称になったそうです。
    つまり、この円満院門跡は世界遺産「宇治平等院」の名付け親でもあります。

  • 圓満院門跡 宸殿 <br />円満院門跡は天台宗系寺院としてその歴史を紡いできましたが、財政難に陥り、図らずも2009年に重文の建築物や庭園などが大津地方裁判所により競売にかけられました。その結果、滋賀県甲賀市の宗教法人 大岡寺(だいこうじ)が10億6700万円で落札し、門跡寺院を引き継ぎました。このような由緒正しき寺院が競売にかけられることは前代未聞であり、往時はマスコミに騒がれましたが境内や庭園は従来通り維持管理され拝観も可能です。因みに、文化庁は「異例の事態」とコメントしています。由緒ある寺院にしてはさほど敷居が高くないのはこのせいでしょうか…?

    圓満院門跡 宸殿
    円満院門跡は天台宗系寺院としてその歴史を紡いできましたが、財政難に陥り、図らずも2009年に重文の建築物や庭園などが大津地方裁判所により競売にかけられました。その結果、滋賀県甲賀市の宗教法人 大岡寺(だいこうじ)が10億6700万円で落札し、門跡寺院を引き継ぎました。このような由緒正しき寺院が競売にかけられることは前代未聞であり、往時はマスコミに騒がれましたが境内や庭園は従来通り維持管理され拝観も可能です。因みに、文化庁は「異例の事態」とコメントしています。由緒ある寺院にしてはさほど敷居が高くないのはこのせいでしょうか…?

  • 圓満院門跡 宸殿<br />宸殿の脇には一寸した坪庭がありますが、生け垣が視野を遮り残念です。<br /><br />和子は当初は「かずこ」でしたが、入内に際し濁音を忌み嫌う宮中の慣習に従い、読み方を「まさこ」に改めたと伝わります。<br />和子が入内する際、藤堂高虎は自ら志願して露払い役を務めました。また、高虎は宮中の和子入内反対派の公家たちの前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放つなど、強引な手段で押し切ったと伝わります。

    圓満院門跡 宸殿
    宸殿の脇には一寸した坪庭がありますが、生け垣が視野を遮り残念です。

    和子は当初は「かずこ」でしたが、入内に際し濁音を忌み嫌う宮中の慣習に従い、読み方を「まさこ」に改めたと伝わります。
    和子が入内する際、藤堂高虎は自ら志願して露払い役を務めました。また、高虎は宮中の和子入内反対派の公家たちの前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放つなど、強引な手段で押し切ったと伝わります。

  • 圓満院門跡 宸殿 庭園<br />生け垣の間から、少しだけ内部が覗けます。<br />宸殿の内部には狩野派によって描かれた襖絵(現在はレプリカ)が飾られています。因みに、原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されています。<br />また、縁側から眺める庭園の美しさには定評があります。<br />春の桜、秋の紅葉の季節は人気のようです。しかし、すでに紅葉は盛りを過ぎているようでしたので内部拝観は諦めました。大津絵美術館入館券とセットで¥500です。

    圓満院門跡 宸殿 庭園
    生け垣の間から、少しだけ内部が覗けます。
    宸殿の内部には狩野派によって描かれた襖絵(現在はレプリカ)が飾られています。因みに、原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されています。
    また、縁側から眺める庭園の美しさには定評があります。
    春の桜、秋の紅葉の季節は人気のようです。しかし、すでに紅葉は盛りを過ぎているようでしたので内部拝観は諦めました。大津絵美術館入館券とセットで¥500です。

  • 圓満院門跡 宸殿 庭園<br />室町時代に名を馳せ、慈照寺(銀閣寺)庭園をはじめ京都で数多くの庭園を手掛けた相阿弥の作庭と伝わります。面積620坪もある池泉鑑賞式の前庭であり、現在の姿となったのは宸殿が移築された頃に営まれた築造とされます。<br />不老長寿を願う鶴島や亀島を配した「鶴亀の蓬莱庭」になっており、築山には桜や楓の古木が配されています。池中に向かって右に亀島を設け、左方石橋の架けられているのが鶴島であり、対岸には蓬莱山に見立てた巨石を立て、更に向かって右方の山畔上部から奥深くに滝を落としています。<br />重森三玲氏は「寛政期の石組手法を如実によく表現している」と評価しています。

    圓満院門跡 宸殿 庭園
    室町時代に名を馳せ、慈照寺(銀閣寺)庭園をはじめ京都で数多くの庭園を手掛けた相阿弥の作庭と伝わります。面積620坪もある池泉鑑賞式の前庭であり、現在の姿となったのは宸殿が移築された頃に営まれた築造とされます。
    不老長寿を願う鶴島や亀島を配した「鶴亀の蓬莱庭」になっており、築山には桜や楓の古木が配されています。池中に向かって右に亀島を設け、左方石橋の架けられているのが鶴島であり、対岸には蓬莱山に見立てた巨石を立て、更に向かって右方の山畔上部から奥深くに滝を落としています。
    重森三玲氏は「寛政期の石組手法を如実によく表現している」と評価しています。

  • 圓満院門跡 三井の名水<br />御常御殿(拝観受付)の手前には「三井の名水」と呼ばれる湧き水があります。<br />百四十余才の長寿が叶うとされる開運の霊水ですが、無料でペットボトルに入れて持ち帰ることができます。

    圓満院門跡 三井の名水
    御常御殿(拝観受付)の手前には「三井の名水」と呼ばれる湧き水があります。
    百四十余才の長寿が叶うとされる開運の霊水ですが、無料でペットボトルに入れて持ち帰ることができます。

  • 圓満院門跡 寺カフェ遊々亭<br />正面手前の建屋がランチを頂いた遊々亭です。<br />カフェというので町家を想像していましたが、入母屋造の仏堂をリノベーションした立派な建屋でした。<br />元々は圓満院門跡の仏堂のひとつだったそうですので、食堂だったのでは?

    圓満院門跡 寺カフェ遊々亭
    正面手前の建屋がランチを頂いた遊々亭です。
    カフェというので町家を想像していましたが、入母屋造の仏堂をリノベーションした立派な建屋でした。
    元々は圓満院門跡の仏堂のひとつだったそうですので、食堂だったのでは?

  • 圓満圓満院門跡 クスノキ <br />遊々亭の脇、宿坊「三密殿」の手前には銘木のクスノキが聳えています。1647年の宸殿移築の際に植えられた樹齢375年を超える巨木で、幹の直径120cm、周囲は370cmもあります。クスノキは常緑樹であることから、健康長寿や心願成就、孫の繁栄、長寿、縁結び、国家の弥栄と結び付けられています。<br />願いを秘めながらクスノキを1周廻れば願いが叶うという言い伝えがあります。<br />男子は時計回り、女子は反時計回りだそうです。<br />根元に添えられているのは、疫病退散「アマビエ」の顔だしです。

    圓満圓満院門跡 クスノキ
    遊々亭の脇、宿坊「三密殿」の手前には銘木のクスノキが聳えています。1647年の宸殿移築の際に植えられた樹齢375年を超える巨木で、幹の直径120cm、周囲は370cmもあります。クスノキは常緑樹であることから、健康長寿や心願成就、孫の繁栄、長寿、縁結び、国家の弥栄と結び付けられています。
    願いを秘めながらクスノキを1周廻れば願いが叶うという言い伝えがあります。
    男子は時計回り、女子は反時計回りだそうです。
    根元に添えられているのは、疫病退散「アマビエ」の顔だしです。

  • 圓満院門跡 寺カフェ遊々亭<br />天井が高く、また、喚起窓があるため冬は相当寒そうです。<br />これらは囲炉裏で火を起こしても一酸化炭素中毒にならないようにするための知恵です。太い梁も煤でいぶされて黒光りしています。これは防虫効果も兼ねるそうです。<br />この日も石油ストーブが数台たかれていました。

    圓満院門跡 寺カフェ遊々亭
    天井が高く、また、喚起窓があるため冬は相当寒そうです。
    これらは囲炉裏で火を起こしても一酸化炭素中毒にならないようにするための知恵です。太い梁も煤でいぶされて黒光りしています。これは防虫効果も兼ねるそうです。
    この日も石油ストーブが数台たかれていました。

  • 圓満院門跡 寺カフェ遊々亭<br />厨房の様子はこんな感じです。<br />ここで淹れられる珈琲は「三井の名水」を使用しています。

    圓満院門跡 寺カフェ遊々亭
    厨房の様子はこんな感じです。
    ここで淹れられる珈琲は「三井の名水」を使用しています。

  • 圓満院門跡 寺カフェ遊々亭<br />今回予約したメニューは「秋の圓満御膳(税込み\1000)」です。<br />長等山の吹き寄せご飯(かぼちゃ、栗、しめじ、銀杏などの五目御飯)・栗の月見蕎麦(茶そば)・木の子と菊葉のお浸し・蓮根の酢の物・香の物3種・デザート(柿)。<br />結構なお味とボリュームに大満足です。<br />圓満御膳は予約制ですので、営業日を確認の上3日前までに予約が必要です。<br />因みに、精進料理もありますが、4名以上でしか予約ができず断念いたしました。<br />気になる方は次のサイトをチェックしてください。(不定休)<br />https://enman-inn.com/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/cafe/

    圓満院門跡 寺カフェ遊々亭
    今回予約したメニューは「秋の圓満御膳(税込み\1000)」です。
    長等山の吹き寄せご飯(かぼちゃ、栗、しめじ、銀杏などの五目御飯)・栗の月見蕎麦(茶そば)・木の子と菊葉のお浸し・蓮根の酢の物・香の物3種・デザート(柿)。
    結構なお味とボリュームに大満足です。
    圓満御膳は予約制ですので、営業日を確認の上3日前までに予約が必要です。
    因みに、精進料理もありますが、4名以上でしか予約ができず断念いたしました。
    気になる方は次のサイトをチェックしてください。(不定休)
    https://enman-inn.com/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/cafe/

  • 京阪電鉄「大津市役所前」駅<br />京阪電車で北院へ行かれる場合はここが最寄り駅になり、三井寺駅から坂本方面へ1駅先になります。<br />大津市役所周辺の県道47号線沿いが「大津絵の道」です。大津絵の陶板プレートが随所に置かれています。(③南院編で紹介済み)<br />前にも書きましたが、三井寺は再入山ができないため、実は北院を訪れたのは三井寺に入山する前でした。北院にある新羅善神堂の謎を解くには三井寺創建の経緯の説明が必要なため、このように時系列の前後を入れ替えて紹介しています。

    京阪電鉄「大津市役所前」駅
    京阪電車で北院へ行かれる場合はここが最寄り駅になり、三井寺駅から坂本方面へ1駅先になります。
    大津市役所周辺の県道47号線沿いが「大津絵の道」です。大津絵の陶板プレートが随所に置かれています。(③南院編で紹介済み)
    前にも書きましたが、三井寺は再入山ができないため、実は北院を訪れたのは三井寺に入山する前でした。北院にある新羅善神堂の謎を解くには三井寺創建の経緯の説明が必要なため、このように時系列の前後を入れ替えて紹介しています。

  • 時計台<br />市庁舎の前には火の見櫓を彷彿とさせる時計台が聳えています。<br />時計台は庁舎全体のモニュメント的存在であり、近江宮遷都を行った天智天皇は中大兄皇子だった660(斉明6)年に日本初の水時計(漏刻)を造ったと伝わり、時計塔はその故事に倣ってデザインされています。素材はコンクリートですが、竹のように美しく組まれた塔が天空に向かって真っすぐに伸びる姿は壮観です。<br />因みに、庁舎の設計は「旭川市庁舎」や「岩国徴古館」を手がけた佐藤武夫氏がモダニズム建築としてまとめておられます。(本館:1967年竣工、別館:1971年竣工)<br />しかしながら、現在は老朽化による耐震不足が問題となり、建て替え等が検討されています。柱梁からなる日本の伝統的な木造建築を鉄骨鉄筋コンクリートで再現した、昭和30~40年代を代表する象徴な建築物が消えるのは寂しく思います。<br />市役所の先にあるのが市消防局です。

    時計台
    市庁舎の前には火の見櫓を彷彿とさせる時計台が聳えています。
    時計台は庁舎全体のモニュメント的存在であり、近江宮遷都を行った天智天皇は中大兄皇子だった660(斉明6)年に日本初の水時計(漏刻)を造ったと伝わり、時計塔はその故事に倣ってデザインされています。素材はコンクリートですが、竹のように美しく組まれた塔が天空に向かって真っすぐに伸びる姿は壮観です。
    因みに、庁舎の設計は「旭川市庁舎」や「岩国徴古館」を手がけた佐藤武夫氏がモダニズム建築としてまとめておられます。(本館:1967年竣工、別館:1971年竣工)
    しかしながら、現在は老朽化による耐震不足が問題となり、建て替え等が検討されています。柱梁からなる日本の伝統的な木造建築を鉄骨鉄筋コンクリートで再現した、昭和30~40年代を代表する象徴な建築物が消えるのは寂しく思います。
    市役所の先にあるのが市消防局です。

  • まず目指すのは「弘文天皇御陵」です。<br />位置的には消防局のほぼ裏手にあるのですが、市役所や消防局の裏からはアクセスできず、大きく迂回していく必要があります。<br />また、圓満寺の脇を通る東海自然歩道を利用することもできますが、道が荒れているとのWEB情報があり、連れ合いもいることから断念しました。<br />左手には駐車場というか、空き地のようなスペースが広がっています。<br />歩道の先には何やら丸いものがころがっています。

    まず目指すのは「弘文天皇御陵」です。
    位置的には消防局のほぼ裏手にあるのですが、市役所や消防局の裏からはアクセスできず、大きく迂回していく必要があります。
    また、圓満寺の脇を通る東海自然歩道を利用することもできますが、道が荒れているとのWEB情報があり、連れ合いもいることから断念しました。
    左手には駐車場というか、空き地のようなスペースが広がっています。
    歩道の先には何やら丸いものがころがっています。

  • 彫刻『連鎖球体』<br />滋賀県の主要地方道である伊香立浜大津線マイロード事業の完成を記念したモニュメントです。往時、成安造形大学教授だった現代美術家の今井祝雄氏が1996年に琵琶湖に溜まったヘドロで制作されました。<br />滋賀県では1992年より琵琶湖浄化事業の一環として、浚渫したヘドロで瓦のほかタイルや煉瓦、コンクリートなどへのリサイクルを促していることを知り、それをアートとして具現化された作品です。<br />球体の一部は凹レンズのように窪んでおり、その中央に貫通した細い穴が開けられています。その造形物が左右対称に並んでいます。<br />中央に人が入ることにより、そこに架空の球体が生まれ、それがちょうど窪みにすっぽりと収まり、3つの球体が数珠のように合体して連鎖するという仕掛けのようです。<br />しかし、ここで注目していただきたいのはこの球体の背面にある石碑です。

    彫刻『連鎖球体』
    滋賀県の主要地方道である伊香立浜大津線マイロード事業の完成を記念したモニュメントです。往時、成安造形大学教授だった現代美術家の今井祝雄氏が1996年に琵琶湖に溜まったヘドロで制作されました。
    滋賀県では1992年より琵琶湖浄化事業の一環として、浚渫したヘドロで瓦のほかタイルや煉瓦、コンクリートなどへのリサイクルを促していることを知り、それをアートとして具現化された作品です。
    球体の一部は凹レンズのように窪んでおり、その中央に貫通した細い穴が開けられています。その造形物が左右対称に並んでいます。
    中央に人が入ることにより、そこに架空の球体が生まれ、それがちょうど窪みにすっぽりと収まり、3つの球体が数珠のように合体して連鎖するという仕掛けのようです。
    しかし、ここで注目していただきたいのはこの球体の背面にある石碑です。

  • 石碑<br />石碑には「弘文天皇御陵参拝道」と刻まれています。<br />このT字路を左折し、ここで県道47号線とはおさらばです。

    石碑
    石碑には「弘文天皇御陵参拝道」と刻まれています。
    このT字路を左折し、ここで県道47号線とはおさらばです。

  • ここからはなだらかな坂道を長等山に向かって歩を進めます。

    ここからはなだらかな坂道を長等山に向かって歩を進めます。

  • FURIAN 山ノ上迎賓館<br />5分ほど登ると道路の右手に「FURIAN 山ノ上迎賓館」という建物があります。<br />100年程前から官舎やGHQ本部、企業の迎賓館、個人の別邸などに利用された歴史を経た結婚式会場です。結婚式がない日だけレストラン営業されています。<br />「FURIAN」は漢字で「不離庵」と書き、それは論語の一説にある「寸歩不離(すんぽふり)」に由来します。寸歩不離とは「夫婦仲むつまじく 一歩も離れない」という意味です。「寸歩」はごくわずかな歩みを指します。因みに、命名は叡山延暦寺の大僧正 酒井雄哉大阿闍梨だそうです。<br />そこを左へ曲がります。

    FURIAN 山ノ上迎賓館
    5分ほど登ると道路の右手に「FURIAN 山ノ上迎賓館」という建物があります。
    100年程前から官舎やGHQ本部、企業の迎賓館、個人の別邸などに利用された歴史を経た結婚式会場です。結婚式がない日だけレストラン営業されています。
    「FURIAN」は漢字で「不離庵」と書き、それは論語の一説にある「寸歩不離(すんぽふり)」に由来します。寸歩不離とは「夫婦仲むつまじく 一歩も離れない」という意味です。「寸歩」はごくわずかな歩みを指します。因みに、命名は叡山延暦寺の大僧正 酒井雄哉大阿闍梨だそうです。
    そこを左へ曲がります。

  • 参道<br />「FURIAN山ノ上迎賓館」の前で左に折れるとこのような未舗装の道がまっすぐ伸びています。<br />進むのは左端に見える、少し躊躇するような小径です。<br />道標もありませんが、そもそも天皇陵というのは墓所であり、観光地ではないため積極的に人を招く必要はないのでしょう。

    参道
    「FURIAN山ノ上迎賓館」の前で左に折れるとこのような未舗装の道がまっすぐ伸びています。
    進むのは左端に見える、少し躊躇するような小径です。
    道標もありませんが、そもそも天皇陵というのは墓所であり、観光地ではないため積極的に人を招く必要はないのでしょう。

  • 地蔵尊<br />T字路の角に見える石碑には「地蔵尊」と刻まれています。<br />右手の道の先にはゲートがあり、それ以上進めません。<br />恐らく、新羅善神堂への近道と思われるのですが…。

    地蔵尊
    T字路の角に見える石碑には「地蔵尊」と刻まれています。
    右手の道の先にはゲートがあり、それ以上進めません。
    恐らく、新羅善神堂への近道と思われるのですが…。

  • 参道<br />未舗装の道に入るとすぐに右手に石仏が佇みます。<br />螺髪と定印と思しきものが彫られており、阿弥陀坐像と窺えます。<br />かつてこの一帯は「新羅の森」と呼ばれ、深い叢林に包まれていたそうですが、今もその片鱗を垣間見せています。鬱蒼とした仄暗い森の中へと細々と参道が伸び、立ち入る者を拒むかのようです。通常の鎮守の森という雰囲気には程遠く、かと言って神錆びた畏怖を感じるでもなく、どことなく捨て置かれ荒廃した印象が拭えません。<br />ここには三井寺の賑わいとはかけ離れた別の世界が広がっています。

    参道
    未舗装の道に入るとすぐに右手に石仏が佇みます。
    螺髪と定印と思しきものが彫られており、阿弥陀坐像と窺えます。
    かつてこの一帯は「新羅の森」と呼ばれ、深い叢林に包まれていたそうですが、今もその片鱗を垣間見せています。鬱蒼とした仄暗い森の中へと細々と参道が伸び、立ち入る者を拒むかのようです。通常の鎮守の森という雰囲気には程遠く、かと言って神錆びた畏怖を感じるでもなく、どことなく捨て置かれ荒廃した印象が拭えません。
    ここには三井寺の賑わいとはかけ離れた別の世界が広がっています。

  • 弘文天皇長柄山前陵<br />消防局の背後に佇むのが宮内庁が管轄する「弘文天皇長柄山前陵」です。「弘文天皇」とは、672年の壬申の乱で敗死し、即位したかも定かではない大友皇子に1870(明治3)年に明治天皇により贈られた諡号です。<br />壬申の乱は、大海人皇子が優勢に戦を進め、勢多橋周辺の戦いで勝利しました。その後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。一方、戦いに敗れた大友皇子は潰走し、「山前(やまさき)」という場所で自害した」と『日本書紀』は伝えます。

    弘文天皇長柄山前陵
    消防局の背後に佇むのが宮内庁が管轄する「弘文天皇長柄山前陵」です。「弘文天皇」とは、672年の壬申の乱で敗死し、即位したかも定かではない大友皇子に1870(明治3)年に明治天皇により贈られた諡号です。
    壬申の乱は、大海人皇子が優勢に戦を進め、勢多橋周辺の戦いで勝利しました。その後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。一方、戦いに敗れた大友皇子は潰走し、「山前(やまさき)」という場所で自害した」と『日本書紀』は伝えます。

  • 弘文天皇長柄山前陵<br />逆光で撮影したため、ゴースト(光の帯)やフレア(光の玉)が発生しています。これは撮影時に強い光がレンズ内で反射することで起こったものであり、珍しくありません。<br />しかし、鳥居の右端では濃いオレンジ色のフレア、石碑ではゴーストがオレンジ色に染めているのは偶然の産物です。<br /><br />明治天皇が「弘文」という諡号を贈ったのを発端に、政府は弘文天皇陵を探索し、それを祀る必要に迫られました。探索の結果、大友皇子と所縁のある地域の中から、長等山麓にあった「亀丘」と呼ばれる古墳を陵墓に定め、現在の「弘文天皇陵」となりました。これにより、幸か不幸か、歴代天皇では初となる自害した天皇が誕生することになりました。

    弘文天皇長柄山前陵
    逆光で撮影したため、ゴースト(光の帯)やフレア(光の玉)が発生しています。これは撮影時に強い光がレンズ内で反射することで起こったものであり、珍しくありません。
    しかし、鳥居の右端では濃いオレンジ色のフレア、石碑ではゴーストがオレンジ色に染めているのは偶然の産物です。

    明治天皇が「弘文」という諡号を贈ったのを発端に、政府は弘文天皇陵を探索し、それを祀る必要に迫られました。探索の結果、大友皇子と所縁のある地域の中から、長等山麓にあった「亀丘」と呼ばれる古墳を陵墓に定め、現在の「弘文天皇陵」となりました。これにより、幸か不幸か、歴代天皇では初となる自害した天皇が誕生することになりました。

  • 弘文天皇長柄山前陵<br />拝観できるのは表の部分だけであり、裏の森の中に陵の本体が鎮まっています。<br />この陵墓には学問的な根拠はなく、考古学上の名称は「園城寺亀丘古墳」であり、直径20m X 高さ4mの円墳の周囲に空堀を巡らせています。<br />築造年代については、陸軍分営設置時に一度破壊され、その後盛土して整備されたことから特定困難のようです。一方、墳丘周囲からは鏡や鏃などが出土しており、古墳時代の築造であれば時代が乖離します。また、百歩譲って急ごしらえで造られた陵墓だとしても、身分の割に規模が小さ過ぎます。更には、不破宮近くの関ヶ原にある「自害ヶ峯(自害峰)の三本杉」を真の陵墓とする説もあります。首実検を行った後、地元の人々が首を貰い受けて丘に葬り、その印に杉を植えたと伝わります。

    弘文天皇長柄山前陵
    拝観できるのは表の部分だけであり、裏の森の中に陵の本体が鎮まっています。
    この陵墓には学問的な根拠はなく、考古学上の名称は「園城寺亀丘古墳」であり、直径20m X 高さ4mの円墳の周囲に空堀を巡らせています。
    築造年代については、陸軍分営設置時に一度破壊され、その後盛土して整備されたことから特定困難のようです。一方、墳丘周囲からは鏡や鏃などが出土しており、古墳時代の築造であれば時代が乖離します。また、百歩譲って急ごしらえで造られた陵墓だとしても、身分の割に規模が小さ過ぎます。更には、不破宮近くの関ヶ原にある「自害ヶ峯(自害峰)の三本杉」を真の陵墓とする説もあります。首実検を行った後、地元の人々が首を貰い受けて丘に葬り、その印に杉を植えたと伝わります。

  • 弘文天皇長柄山前陵<br />『日本書紀』が伝える「山前」の地については、大津市内の茶臼山古墳や御霊神社に求める説、京都 大山崎町や岐阜 不破宮近くの関ヶ原とする説、更には千葉県君津市 白山神社とする異説など諸説紛々で確かな場所は不明です。<br />更には、「敗戦後、妃や子女、臣下を伴って密かに落ち延びた」とする落人伝説もあります。君津市周辺には大友皇子とその臣下にまつわる史跡や口伝が数多く残されており、17世紀前半に成立した『久留里記』や『房総志料』にも記載があります。<br />こうした「落人伝説」は、源義経や安徳天皇など他に類例も多いのですが、これは本来は歴史書であるべき『日本書紀』の信憑性が極めて低いことが元凶と言えます。

    弘文天皇長柄山前陵
    『日本書紀』が伝える「山前」の地については、大津市内の茶臼山古墳や御霊神社に求める説、京都 大山崎町や岐阜 不破宮近くの関ヶ原とする説、更には千葉県君津市 白山神社とする異説など諸説紛々で確かな場所は不明です。
    更には、「敗戦後、妃や子女、臣下を伴って密かに落ち延びた」とする落人伝説もあります。君津市周辺には大友皇子とその臣下にまつわる史跡や口伝が数多く残されており、17世紀前半に成立した『久留里記』や『房総志料』にも記載があります。
    こうした「落人伝説」は、源義経や安徳天皇など他に類例も多いのですが、これは本来は歴史書であるべき『日本書紀』の信憑性が極めて低いことが元凶と言えます。

  • 新羅善神堂 石鳥居<br />弘文天皇御陵への入口の反対側を仰ぎ見ると、御陵に対峙して威嚇するかのように巨大な石鳥居が聳え立っています。<br />ここが聖域 新羅善神堂への入口です。<br />凛とした空気に自然と背筋が伸びます。

    新羅善神堂 石鳥居
    弘文天皇御陵への入口の反対側を仰ぎ見ると、御陵に対峙して威嚇するかのように巨大な石鳥居が聳え立っています。
    ここが聖域 新羅善神堂への入口です。
    凛とした空気に自然と背筋が伸びます。

  • 新羅善神堂 参道<br />参道の先が見えないほど仄暗い新羅の森がまとわりつきます。<br /><br />

    新羅善神堂 参道
    参道の先が見えないほど仄暗い新羅の森がまとわりつきます。

  • 新羅善神堂 参道<br />参道の先が見通せなかったのはここで90度右へ折れているからと判り、一安心です。<br />崩れかけた穴太積の石垣があり、この辺りは戦国時代の荒廃した山城跡を彷彿とさせます。特にこの辺りは石段や石垣も巨木の根の張り出しにより浮石になっており、足元に注意が必要です。<br />新羅明神と言う神様を祀り、鳥居もあるため一応「神社」と認められてはいるものの、「堂」という名称からは寺院と錯覚しそうです。

    新羅善神堂 参道
    参道の先が見通せなかったのはここで90度右へ折れているからと判り、一安心です。
    崩れかけた穴太積の石垣があり、この辺りは戦国時代の荒廃した山城跡を彷彿とさせます。特にこの辺りは石段や石垣も巨木の根の張り出しにより浮石になっており、足元に注意が必要です。
    新羅明神と言う神様を祀り、鳥居もあるため一応「神社」と認められてはいるものの、「堂」という名称からは寺院と錯覚しそうです。

  • 新羅善神堂 <br />蹴上高さが結構高くなってしまった石段を登ると広場のように視界が開け、その先に寡黙に佇むのが新羅善神堂です。<br />昭和時代初期までは手前の広場に拝殿が建っていたそうですが、台風で崩壊した後は再建されないまま今に至っています。

    新羅善神堂
    蹴上高さが結構高くなってしまった石段を登ると広場のように視界が開け、その先に寡黙に佇むのが新羅善神堂です。
    昭和時代初期までは手前の広場に拝殿が建っていたそうですが、台風で崩壊した後は再建されないまま今に至っています。

  • 新羅善神堂(国宝)<br />三井寺境内から北に500m程離れた飛び地に佇む新羅善神堂も三井寺五社鎮守のひとつです。<br />祭神は新羅明神。平安時代初期に円珍が求法のために入唐した際、赤山法華院にて新羅人が礼拝していた疫病退散や航海安全などの土俗的な神祗を仏教護法のために日本へ持ち帰ったものと伝えます。元々は新羅神社や新羅明神と呼ばれましたが、明治時代の神仏分離令で国に接収され、現在の名に改められました。

    新羅善神堂(国宝)
    三井寺境内から北に500m程離れた飛び地に佇む新羅善神堂も三井寺五社鎮守のひとつです。
    祭神は新羅明神。平安時代初期に円珍が求法のために入唐した際、赤山法華院にて新羅人が礼拝していた疫病退散や航海安全などの土俗的な神祗を仏教護法のために日本へ持ち帰ったものと伝えます。元々は新羅神社や新羅明神と呼ばれましたが、明治時代の神仏分離令で国に接収され、現在の名に改められました。

  • 新羅善神堂<br />『園城寺龍華会縁記』には次のようにあります。<br />円珍が5年間の修行を終えて唐から船で帰朝する際、枕元に老翁が現れ、「我は新羅国明神である。今、汝の教法を護り、慈尊出世するに至るであろう」と告げて消えた。その後、円珍が入京して経典類を太政官に納めた際にも老翁が現れ、「日本に一勝地あり。一伽藍を建て籍を移すべき」と告げて近江の三井寺へと導いた。860(貞観2)年に円珍、円敏、増命、康済らは三井寺北野に祠を建ててこの老翁を祀った。それが新羅善神堂の前身です。<br />伽藍鎮守神であると共に、広く天台寺門宗における護法神として崇敬される帰化神祗のひとつです。新羅明神は素戔嗚命(牛頭天王)と習合され、源頼朝をはじめ源氏の守護神として篤く信仰された他、社頭での藤原俊成の歌合以来、歌道神としても崇敬されました。

    新羅善神堂
    『園城寺龍華会縁記』には次のようにあります。
    円珍が5年間の修行を終えて唐から船で帰朝する際、枕元に老翁が現れ、「我は新羅国明神である。今、汝の教法を護り、慈尊出世するに至るであろう」と告げて消えた。その後、円珍が入京して経典類を太政官に納めた際にも老翁が現れ、「日本に一勝地あり。一伽藍を建て籍を移すべき」と告げて近江の三井寺へと導いた。860(貞観2)年に円珍、円敏、増命、康済らは三井寺北野に祠を建ててこの老翁を祀った。それが新羅善神堂の前身です。
    伽藍鎮守神であると共に、広く天台寺門宗における護法神として崇敬される帰化神祗のひとつです。新羅明神は素戔嗚命(牛頭天王)と習合され、源頼朝をはじめ源氏の守護神として篤く信仰された他、社頭での藤原俊成の歌合以来、歌道神としても崇敬されました。

  • 新羅善神堂<br />本殿は向唐破風の唐門と菱格子窓が施された透かし塀で囲まれています。もちろん塀の中へ立ち入ることはできません。<br /><br />一説には、新羅明神は6~7世紀の新羅における弥勒菩薩信仰の影響を受けたものとも伝わります。円珍の前に出現した新羅明神は護法神だと告げて「弥勒菩薩の世が来るまで仏法を守護する」と約束したため、祠を建立したと伝わります。円珍没後、三井寺寺門宗は比叡山山門宗に対して天台宗正統を主張しました。その論拠のひとつは最澄の弥勒菩薩信仰を三井寺が受け継いだことでした。このことから、新羅善神堂の祭神は新羅明神と称した「弥勒菩薩の化身」とも考えられています。

    新羅善神堂
    本殿は向唐破風の唐門と菱格子窓が施された透かし塀で囲まれています。もちろん塀の中へ立ち入ることはできません。

    一説には、新羅明神は6~7世紀の新羅における弥勒菩薩信仰の影響を受けたものとも伝わります。円珍の前に出現した新羅明神は護法神だと告げて「弥勒菩薩の世が来るまで仏法を守護する」と約束したため、祠を建立したと伝わります。円珍没後、三井寺寺門宗は比叡山山門宗に対して天台宗正統を主張しました。その論拠のひとつは最澄の弥勒菩薩信仰を三井寺が受け継いだことでした。このことから、新羅善神堂の祭神は新羅明神と称した「弥勒菩薩の化身」とも考えられています。

  • 新羅善神堂<br />一方、円珍と新羅国の繋がりを調べてみると、彼の留学は遣唐使として正式に入唐した訳ではなく、新羅商人の船で入唐し唐船で帰朝しています。更に、長安では新羅僧 雲居の僧房に、洛陽では新羅王子宅に逗留し、在唐新羅人の庇護なくしては留学が成り立たなかったのは自明です。また、円珍自身が新羅系渡来人の末裔だったとの説もあります。これは、留学の際に円珍が唐人から援助を得られず、新羅人に縋らざるを得なかったことの証左とも言えます。<br />いずれにしても、三井寺は創建の頃から新羅と深い関わりを持っていたものと窺えます。

    新羅善神堂
    一方、円珍と新羅国の繋がりを調べてみると、彼の留学は遣唐使として正式に入唐した訳ではなく、新羅商人の船で入唐し唐船で帰朝しています。更に、長安では新羅僧 雲居の僧房に、洛陽では新羅王子宅に逗留し、在唐新羅人の庇護なくしては留学が成り立たなかったのは自明です。また、円珍自身が新羅系渡来人の末裔だったとの説もあります。これは、留学の際に円珍が唐人から援助を得られず、新羅人に縋らざるを得なかったことの証左とも言えます。
    いずれにしても、三井寺は創建の頃から新羅と深い関わりを持っていたものと窺えます。

  • 新羅善神堂 唐門<br />唐門は1966年に新羅善神堂の保存修理と屋根葺替工事と共に修理されています。現在は唐門が拝殿の役目を果たしているようです。<br /><br />1051年、河内源氏 源頼義は前九年の役出陣に際し新羅明神に戦勝を祈願しました。また、その3男 義光は新羅明神の前で元服したことから「新羅三郎」と呼ばれました。こうした所から三井寺は「源氏数代崇重の寺」とも称され、鎌倉~室町時代を通じて庇護されました。因みに新羅三郎は、弓馬の術に優れ、東北地方で起こった「後三年の役」で苦戦する兄 義家を支援するために奥州入りし、やがて佐竹・武田氏などの祖になりました。その末裔に武田信玄を輩出しています。

    新羅善神堂 唐門
    唐門は1966年に新羅善神堂の保存修理と屋根葺替工事と共に修理されています。現在は唐門が拝殿の役目を果たしているようです。

    1051年、河内源氏 源頼義は前九年の役出陣に際し新羅明神に戦勝を祈願しました。また、その3男 義光は新羅明神の前で元服したことから「新羅三郎」と呼ばれました。こうした所から三井寺は「源氏数代崇重の寺」とも称され、鎌倉~室町時代を通じて庇護されました。因みに新羅三郎は、弓馬の術に優れ、東北地方で起こった「後三年の役」で苦戦する兄 義家を支援するために奥州入りし、やがて佐竹・武田氏などの祖になりました。その末裔に武田信玄を輩出しています。

  • 新羅善神堂 唐門<br />唐門の上の獅子口には十二菊紋と波文形があしらわれています。<br /><br />一方、長男 源義家は石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」、次男 義綱は賀茂神社で元服したことから「賀茂次郎」と呼ばれました。こうした背景から、往時の新羅神社は石清水八幡宮や賀茂社に比肩する存在だったと窺えます。<br />尚、通名で呼ぶのには理由があります。この時代は人の名前を直接呼ぶのはタブーでした。「言霊信仰」と言い、口に出した言葉には霊的な力が宿るとされ、直接名前を呼ぶのは呪詛する相手をロックオンするのと同義と考えられていました。それ故、通名として元服した場所や役職、住居の地名などを名乗りました。

    新羅善神堂 唐門
    唐門の上の獅子口には十二菊紋と波文形があしらわれています。

    一方、長男 源義家は石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」、次男 義綱は賀茂神社で元服したことから「賀茂次郎」と呼ばれました。こうした背景から、往時の新羅神社は石清水八幡宮や賀茂社に比肩する存在だったと窺えます。
    尚、通名で呼ぶのには理由があります。この時代は人の名前を直接呼ぶのはタブーでした。「言霊信仰」と言い、口に出した言葉には霊的な力が宿るとされ、直接名前を呼ぶのは呪詛する相手をロックオンするのと同義と考えられていました。それ故、通名として元服した場所や役職、住居の地名などを名乗りました。

  • 新羅善神堂 唐門<br />唐門の蟇股や笈形(おいがた)、兎毛通(うのけどおし)の彫刻は比較的シンプルですが、琵琶湖の関係からか波文形が彫られています。<br /><br />三井寺は、豊臣秀吉による「闕所令」が祟り、山内にはそれ以前の建立となる建造物が少ないのですが、 現在の新羅善神堂は 、1336(建武3)年に焼失後、1347(貞和3)年に足利尊氏が再興したと伝わります。<br />理由は不明ですが、「闕所令」を発した秀吉もこの堂宇には全く手を付けていません。何らかの祟りを恐れたのかもしれません。

    新羅善神堂 唐門
    唐門の蟇股や笈形(おいがた)、兎毛通(うのけどおし)の彫刻は比較的シンプルですが、琵琶湖の関係からか波文形が彫られています。

    三井寺は、豊臣秀吉による「闕所令」が祟り、山内にはそれ以前の建立となる建造物が少ないのですが、 現在の新羅善神堂は 、1336(建武3)年に焼失後、1347(貞和3)年に足利尊氏が再興したと伝わります。
    理由は不明ですが、「闕所令」を発した秀吉もこの堂宇には全く手を付けていません。何らかの祟りを恐れたのかもしれません。

  • 新羅善神堂 唐門<br />瓶のような形をした豪壮な大瓶束の両脇に雲文・波文形の笈形を付けています。<br /><br />延暦寺と連帯した南朝 後醍醐天皇に対抗し、北朝 足利尊氏は三井寺を「味方すれば戒壇設置を認める」と懐柔しました。こうして三井寺は、足利尊氏に味方したことから、天皇家や公家、豪族、武士たちの権力争いに翻弄されました。1336(建武3)年、新田義貞は北畠顕家軍と合流して足利軍が立て籠もる三井寺を攻撃しました。新田軍の電光石火の攻撃に三井寺は大炎上し、足利軍は敗走しました。室町幕府を開いた後、新羅明神に帰依していた尊氏は「三井寺合戦」の贖罪からか貞和年間(1345~49年)に焼失した諸堂社を再興しています。<br />因みに、『太平記』は、燃え盛る三井寺から法師が本尊 弥勒菩薩の首だけを持ち出し薮の中に隠しておいたところ、比叡山の僧侶がそれを見つけ、「山を我が敵とはいかで思ひけん 寺法師にぞ首を切らるる」と脇に落書きを立てたというエピソードを記しています。神も仏もない、まさしく動乱の時代の幕開けを告げるに相応しい描写です。

    新羅善神堂 唐門
    瓶のような形をした豪壮な大瓶束の両脇に雲文・波文形の笈形を付けています。

    延暦寺と連帯した南朝 後醍醐天皇に対抗し、北朝 足利尊氏は三井寺を「味方すれば戒壇設置を認める」と懐柔しました。こうして三井寺は、足利尊氏に味方したことから、天皇家や公家、豪族、武士たちの権力争いに翻弄されました。1336(建武3)年、新田義貞は北畠顕家軍と合流して足利軍が立て籠もる三井寺を攻撃しました。新田軍の電光石火の攻撃に三井寺は大炎上し、足利軍は敗走しました。室町幕府を開いた後、新羅明神に帰依していた尊氏は「三井寺合戦」の贖罪からか貞和年間(1345~49年)に焼失した諸堂社を再興しています。
    因みに、『太平記』は、燃え盛る三井寺から法師が本尊 弥勒菩薩の首だけを持ち出し薮の中に隠しておいたところ、比叡山の僧侶がそれを見つけ、「山を我が敵とはいかで思ひけん 寺法師にぞ首を切らるる」と脇に落書きを立てたというエピソードを記しています。神も仏もない、まさしく動乱の時代の幕開けを告げるに相応しい描写です。

  • 新羅善神堂 唐門 兎毛通<br />中央に沢瀉(オモダカ)を図案化した紋を配し、その脇に猪目を散らしています。沢瀉は水草の一種でその葉が矢尻に似ていることから武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれたことから、縁起物として彫られたものと窺えます。<br />足利尊氏の寄進なら、「足利二つ引き」あるいは後醍醐天皇から授かった「五七桐紋」であっても不思議ではないのですが…。<br /><br />新羅明神坐像(国宝)は、絶対秘仏であり見る機会はありませんが、806(貞観2)年に制作されたと伝わる檜の一本造、白塗りの顔に垂れ下がった目尻が特徴の異形の神像とされます。因みに、2009年にサントリー美術館での「国宝 三井寺展」で公開されています。<br />『園城寺伝記』には、「此の明神像の造立に関して、清和天皇の貞観2年2月、円珍は主なる弟子を促して、恭しく社壇を造営し、曾て感見したる明神像を彫成するに、特に今上天皇の御丈に準拠し、聖体安穏の意味の下に之を堂内に安置したといふ」とあります。つまり、新羅明神像は「清和天皇」の御丈に合わせて彫られたものであり、源氏の篤い三井寺信仰はこれが由来と窺えます。「清和天皇」は清和源氏の祖であり、足利尊氏も清和源氏の一族 河内源氏の流れを汲みます。白塗りの顔も往時の公家を模したものと窺えます。<br />因みに、新羅明神の本地仏は文殊観音菩薩とされます。<br /><br />鎌倉時代 13世紀に描かれた新羅明神像はこちらを参照してください。<br />http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/picture/01.htm<br />新羅明神像はこちらを参照してください。<br />http://photozou.jp/photo/photo_only/197391/15764269?size=1024#content

    新羅善神堂 唐門 兎毛通
    中央に沢瀉(オモダカ)を図案化した紋を配し、その脇に猪目を散らしています。沢瀉は水草の一種でその葉が矢尻に似ていることから武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれたことから、縁起物として彫られたものと窺えます。
    足利尊氏の寄進なら、「足利二つ引き」あるいは後醍醐天皇から授かった「五七桐紋」であっても不思議ではないのですが…。

    新羅明神坐像(国宝)は、絶対秘仏であり見る機会はありませんが、806(貞観2)年に制作されたと伝わる檜の一本造、白塗りの顔に垂れ下がった目尻が特徴の異形の神像とされます。因みに、2009年にサントリー美術館での「国宝 三井寺展」で公開されています。
    『園城寺伝記』には、「此の明神像の造立に関して、清和天皇の貞観2年2月、円珍は主なる弟子を促して、恭しく社壇を造営し、曾て感見したる明神像を彫成するに、特に今上天皇の御丈に準拠し、聖体安穏の意味の下に之を堂内に安置したといふ」とあります。つまり、新羅明神像は「清和天皇」の御丈に合わせて彫られたものであり、源氏の篤い三井寺信仰はこれが由来と窺えます。「清和天皇」は清和源氏の祖であり、足利尊氏も清和源氏の一族 河内源氏の流れを汲みます。白塗りの顔も往時の公家を模したものと窺えます。
    因みに、新羅明神の本地仏は文殊観音菩薩とされます。

    鎌倉時代 13世紀に描かれた新羅明神像はこちらを参照してください。
    http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/picture/01.htm
    新羅明神像はこちらを参照してください。
    http://photozou.jp/photo/photo_only/197391/15764269?size=1024#content

  • 新羅善神堂 唐門 肘木(ひじき)<br />木鼻こそありませんが、門柱上部の大斗に載る肘木には雲文形の彫刻が施されています。<br /><br />『園城寺伝記』は次のように新羅明神の素性を明かしています。<br />新羅明神は、円珍没後も「新羅の国の明神」とされ、正式な神名は不明だった。しかし、後世に来朝した宋商人によりその神名が明らかになった。その名は4つあり、①「崧嶽(すうがく)王」、②「朱山王」、③「松崧王」、④「四天夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃)」。<br />更にその商人によると、新羅本国では千の剣を神供してこの神を祀ると言う。

    新羅善神堂 唐門 肘木(ひじき)
    木鼻こそありませんが、門柱上部の大斗に載る肘木には雲文形の彫刻が施されています。

    『園城寺伝記』は次のように新羅明神の素性を明かしています。
    新羅明神は、円珍没後も「新羅の国の明神」とされ、正式な神名は不明だった。しかし、後世に来朝した宋商人によりその神名が明らかになった。その名は4つあり、①「崧嶽(すうがく)王」、②「朱山王」、③「松崧王」、④「四天夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃)」。
    更にその商人によると、新羅本国では千の剣を神供してこの神を祀ると言う。

  • 新羅善神堂 唐門 菱格子の透かし窓<br />『新羅祠記』では更に「素髪翁」を加えており、この神が新羅明神伝説の記述に最も近いと窺えます。また、新羅明神は素戔嗚命(牛頭天王)と習合されていることから、八坂神社に代表されるような厄神とも窺えます。<br />このように、中世に至ると新羅明神は尊星王(北極星)や荼吉尼天、素戔嗚命(牛頭天王)と習合し、威力ある神として為政者の信仰を集めるようになり、独特の秘法・秘術が行われるようになったと窺えます。

    新羅善神堂 唐門 菱格子の透かし窓
    『新羅祠記』では更に「素髪翁」を加えており、この神が新羅明神伝説の記述に最も近いと窺えます。また、新羅明神は素戔嗚命(牛頭天王)と習合されていることから、八坂神社に代表されるような厄神とも窺えます。
    このように、中世に至ると新羅明神は尊星王(北極星)や荼吉尼天、素戔嗚命(牛頭天王)と習合し、威力ある神として為政者の信仰を集めるようになり、独特の秘法・秘術が行われるようになったと窺えます。

  • 新羅善神堂 本殿<br />三間社流造に一間の向拝を設け、桧皮葺の流麗な屋根のカーブが美しい建物です。また、欄間に緻密な透彫を施す他は目立つ装飾を排除し、簡素な意匠の中に整った上品さを魅せます。<br />近江にはこの種の三間社流造の古建築が多く伝わりますが、 その中でも最も形の整ったもののひとつとして高く評価されています。

    新羅善神堂 本殿
    三間社流造に一間の向拝を設け、桧皮葺の流麗な屋根のカーブが美しい建物です。また、欄間に緻密な透彫を施す他は目立つ装飾を排除し、簡素な意匠の中に整った上品さを魅せます。
    近江にはこの種の三間社流造の古建築が多く伝わりますが、 その中でも最も形の整ったもののひとつとして高く評価されています。

  • 新羅善神堂 本殿<br />垂木の先端には模様が描かれています。また肘木は古風な舟肘木です。<br /><br />『三井寺法灯記』収載の「寺門伝記補録」には、朱山王と崧嶽王を異名同体とする説があり、円珍が渡唐の折に嵩山に登って「朱山王の廟」に詣でたところ、突如暴風雨となり人頭蛇神の者が彼を威嚇し、やがてその異形の者は左手に錫杖、右手に経巻を持つ老翁の姿となり、「私はここにいる文殊菩薩で(文殊菩薩は新羅明神の本地仏)、天地が分かれてからは韓地(=朝鮮半島)と赤土(=唐土)に垂迹し、国家経営を助けてきた。今度は東に渡りあなたの仏法を衛護しよう」と告げたとの伝承を載せています。

    新羅善神堂 本殿
    垂木の先端には模様が描かれています。また肘木は古風な舟肘木です。

    『三井寺法灯記』収載の「寺門伝記補録」には、朱山王と崧嶽王を異名同体とする説があり、円珍が渡唐の折に嵩山に登って「朱山王の廟」に詣でたところ、突如暴風雨となり人頭蛇神の者が彼を威嚇し、やがてその異形の者は左手に錫杖、右手に経巻を持つ老翁の姿となり、「私はここにいる文殊菩薩で(文殊菩薩は新羅明神の本地仏)、天地が分かれてからは韓地(=朝鮮半島)と赤土(=唐土)に垂迹し、国家経営を助けてきた。今度は東に渡りあなたの仏法を衛護しよう」と告げたとの伝承を載せています。

  • 新羅善神堂 本殿 欄間<br />本殿正面の欄間には瑞鳥と草花文様と思しき透かし彫りがなされています。<br /><br />尚、円珍の師兄 円仁が建立した赤山禅院に祀る赤山大明神も新羅商人が祀る神であり、両者には共通点が多々見られます。例えば、 新羅明神坐像にはベンガラの地の上に銀箔で模様を施した痕跡があるそうです。こうしたことから、新羅明神も赤山明神と同じく緋色の衣服を身に纏っていたと推定されています。更には、天台宗は、円珍派寺門宗と円仁派山門宗に分断され、長期に亘り骨肉の抗争を繰り広げていたという背景があります。

    新羅善神堂 本殿 欄間
    本殿正面の欄間には瑞鳥と草花文様と思しき透かし彫りがなされています。

    尚、円珍の師兄 円仁が建立した赤山禅院に祀る赤山大明神も新羅商人が祀る神であり、両者には共通点が多々見られます。例えば、 新羅明神坐像にはベンガラの地の上に銀箔で模様を施した痕跡があるそうです。こうしたことから、新羅明神も赤山明神と同じく緋色の衣服を身に纏っていたと推定されています。更には、天台宗は、円珍派寺門宗と円仁派山門宗に分断され、長期に亘り骨肉の抗争を繰り広げていたという背景があります。

  • 新羅善神堂 本殿 欄間<br />これらを総合して考察すると、赤山法華院において新羅人が礼拝していた土俗的な神祗を、天台寺門宗の強化においては新羅人が祀っていたため「新羅明神」と、山門宗の強化においては赤山という地で祀られていたため「赤山明神」と名を違えて祀った神様であり、共に実体は道教・陰陽道の神 泰山府君を勧請したものと窺えます。

    新羅善神堂 本殿 欄間
    これらを総合して考察すると、赤山法華院において新羅人が礼拝していた土俗的な神祗を、天台寺門宗の強化においては新羅人が祀っていたため「新羅明神」と、山門宗の強化においては赤山という地で祀られていたため「赤山明神」と名を違えて祀った神様であり、共に実体は道教・陰陽道の神 泰山府君を勧請したものと窺えます。

  • 新羅善神堂 本殿<br />また、全国にある新羅神社が素戔嗚命を祀っていることから、「摩多羅神=赤山明神=泰山府君=新羅明神=素戔嗚命=牛頭天王」の系譜が読み取れます。その理由は、往時の時代背景つまり疫病の蔓延や飢餓などの社会不安が募る中、山門と寺門のいずれの宗教勢力がより高い疫病退散能力を持つかが問われていたからです。因みに、赤山禅院の境内にある金神社には新羅大明神があり、新羅明神が勧請されています。これは延暦寺がダブル効果を狙ったと言うことかもしれません。

    新羅善神堂 本殿
    また、全国にある新羅神社が素戔嗚命を祀っていることから、「摩多羅神=赤山明神=泰山府君=新羅明神=素戔嗚命=牛頭天王」の系譜が読み取れます。その理由は、往時の時代背景つまり疫病の蔓延や飢餓などの社会不安が募る中、山門と寺門のいずれの宗教勢力がより高い疫病退散能力を持つかが問われていたからです。因みに、赤山禅院の境内にある金神社には新羅大明神があり、新羅明神が勧請されています。これは延暦寺がダブル効果を狙ったと言うことかもしれません。

  • 新羅善神堂 本殿<br />ここまでの考察に三井寺草創の社伝を合わせると、今まで見えていたものが途端にぼやけてきます。<br />三井寺は壬申の乱で落命した大友皇子の菩提を弔うため、その子 大友与多王が開基したと伝わります。実は天智天皇は百済系血統とされ、与多王もしかりです。それならば、新羅善神堂は百済系与多王が開基した寺の境内に敵対する新羅系神祗を祀っていることになります。唐と組んで百済を滅ぼしたのが新羅であり、いわば敵国の神を大友氏の聖地に祀るのは狂気の沙汰であり、腑に落ちません。

    新羅善神堂 本殿
    ここまでの考察に三井寺草創の社伝を合わせると、今まで見えていたものが途端にぼやけてきます。
    三井寺は壬申の乱で落命した大友皇子の菩提を弔うため、その子 大友与多王が開基したと伝わります。実は天智天皇は百済系血統とされ、与多王もしかりです。それならば、新羅善神堂は百済系与多王が開基した寺の境内に敵対する新羅系神祗を祀っていることになります。唐と組んで百済を滅ぼしたのが新羅であり、いわば敵国の神を大友氏の聖地に祀るのは狂気の沙汰であり、腑に落ちません。

  • 新羅善神堂 本殿<br />三井寺創建が686年、円珍が新羅神社を創建したのが860年であり、仮に200年もの星霜がこうした系譜を風化させたと考えても、壬申の乱は古代史最大の内乱であり、新羅の神を百済系大友氏の聖地に祀るというのは神経を逆撫でするようなものです。

    新羅善神堂 本殿
    三井寺創建が686年、円珍が新羅神社を創建したのが860年であり、仮に200年もの星霜がこうした系譜を風化させたと考えても、壬申の乱は古代史最大の内乱であり、新羅の神を百済系大友氏の聖地に祀るというのは神経を逆撫でするようなものです。

  • 新羅善神堂 <br />井沢元彦著『逆説の日本史(2)』には、「三井寺は、天武天皇が天智天皇の怨霊を抑えるために、大友与多王に命じて建てさせた」とあります。また、「新羅の神を祀ったのも、あえて敵対する神で睨みを効かせるためであり、円珍の伝説は後付けの作り話」と一蹴してしています。<br />確かに新羅善神堂の入口は弘文天皇(大友皇子)御陵の脇にあり、まさに陵墓を見張るように建てられています。しかし、弘文天皇陵は1877 年に長等山麓の亀丘古墳を陵墓に比定したものであり、弘文天皇の死地は山前の山中とされ、御陵である信憑性は低いと窺えます。<br />「新羅系天武天皇が百済系怨霊を鎮めるため、新羅明神を鎮座させ睨みを効かせた」と考えれば頷ける点もありますが、大友皇子ではなく天智天皇の怨霊とするのは彼を暗殺したのが大海人皇子と断定するのと同義で飛躍しています。また、天武天皇没後は再び天智系天皇の世に戻っており、そうした意図の神社であれば即刻破却されていたはずです。従って、弘文天皇陵とセットで考察するのは難点があると思います。

    新羅善神堂
    井沢元彦著『逆説の日本史(2)』には、「三井寺は、天武天皇が天智天皇の怨霊を抑えるために、大友与多王に命じて建てさせた」とあります。また、「新羅の神を祀ったのも、あえて敵対する神で睨みを効かせるためであり、円珍の伝説は後付けの作り話」と一蹴してしています。
    確かに新羅善神堂の入口は弘文天皇(大友皇子)御陵の脇にあり、まさに陵墓を見張るように建てられています。しかし、弘文天皇陵は1877 年に長等山麓の亀丘古墳を陵墓に比定したものであり、弘文天皇の死地は山前の山中とされ、御陵である信憑性は低いと窺えます。
    「新羅系天武天皇が百済系怨霊を鎮めるため、新羅明神を鎮座させ睨みを効かせた」と考えれば頷ける点もありますが、大友皇子ではなく天智天皇の怨霊とするのは彼を暗殺したのが大海人皇子と断定するのと同義で飛躍しています。また、天武天皇没後は再び天智系天皇の世に戻っており、そうした意図の神社であれば即刻破却されていたはずです。従って、弘文天皇陵とセットで考察するのは難点があると思います。

  • 新羅善神堂 <br />東端には木製の門があります。ここから管理者等の車両が侵入できる模様です。<br /><br />祟りという観点では、豊臣秀吉が三井寺に発した「闕所令」の沙汰に思い当たる節があります。発令は第一次朝鮮出兵(文禄の役)の直後であり、戦線が膠着状態の時期でした。本来なら、こうした状況下であれば敵国の神を祀る新羅明神は真っ先に破却されて当然です。それなのに秀吉がここには一切手を付けていないのは奇妙なことであり、第二次朝鮮出兵(慶長の役)における敵国の神の祟りを畏れたと考えるのが順当かもしれません。征夷大将軍になれず関白で甘んじた秀吉ですから、今更清和源氏云々に拘るという未練は微塵もないと窺えます。

    新羅善神堂
    東端には木製の門があります。ここから管理者等の車両が侵入できる模様です。

    祟りという観点では、豊臣秀吉が三井寺に発した「闕所令」の沙汰に思い当たる節があります。発令は第一次朝鮮出兵(文禄の役)の直後であり、戦線が膠着状態の時期でした。本来なら、こうした状況下であれば敵国の神を祀る新羅明神は真っ先に破却されて当然です。それなのに秀吉がここには一切手を付けていないのは奇妙なことであり、第二次朝鮮出兵(慶長の役)における敵国の神の祟りを畏れたと考えるのが順当かもしれません。征夷大将軍になれず関白で甘んじた秀吉ですから、今更清和源氏云々に拘るという未練は微塵もないと窺えます。

  • 新羅善神堂 <br />東側の白漆喰塀には勝手口のような木戸が設けられています。<br />そこに据え付けられているのは「牛乳の配達箱」です。<br />牛頭天王との所縁なのか、新羅明神は毎日牛乳を摂っておられるようです。<br />これは冗談ですが、早朝は門扉が閉められているため、ここに便宜を図って配達箱を据えたのでしょう。<br />因みに、菱格子窓の東端が一部壊れており、そこからコンデジを差し入れて本殿を撮影することができます。

    新羅善神堂
    東側の白漆喰塀には勝手口のような木戸が設けられています。
    そこに据え付けられているのは「牛乳の配達箱」です。
    牛頭天王との所縁なのか、新羅明神は毎日牛乳を摂っておられるようです。
    これは冗談ですが、早朝は門扉が閉められているため、ここに便宜を図って配達箱を据えたのでしょう。
    因みに、菱格子窓の東端が一部壊れており、そこからコンデジを差し入れて本殿を撮影することができます。

  • 新羅善神堂 本殿<br />更に調べてみると、三井寺HPにある「新羅神社考」には次のような記述があります。「『新羅大明神縁起』には、新羅大明神は新羅・百済・高麗国の祖神を祭る廟であったと記されており、朝鮮半島と繋がりが深いことを示している」。つまり、新羅系だけでなく、百済系や高麗系の祖神を分け隔てなく祀る廟所だったようです。廟所の草創年代の記述はありませんが、唐突に新羅明神を円珍らがこの地に祀るのは不自然であり、円珍の新羅神社の創建以前にその前身となる廟所があったと考えるのがスマートです。

    新羅善神堂 本殿
    更に調べてみると、三井寺HPにある「新羅神社考」には次のような記述があります。「『新羅大明神縁起』には、新羅大明神は新羅・百済・高麗国の祖神を祭る廟であったと記されており、朝鮮半島と繋がりが深いことを示している」。つまり、新羅系だけでなく、百済系や高麗系の祖神を分け隔てなく祀る廟所だったようです。廟所の草創年代の記述はありませんが、唐突に新羅明神を円珍らがこの地に祀るのは不自然であり、円珍の新羅神社の創建以前にその前身となる廟所があったと考えるのがスマートです。

  • 新羅善神堂 本殿<br />ここから次のようなストーリーが読み解けます。<br />百済系渡来人の大友村主氏が大津に移ったのは5世紀後期とされ、それ以前に地主神としての新羅大明神(廟所)がここにありました。そこには百済系をはじめ朝鮮半島の祖神が祀られており、かくして新羅大明神は大友氏の氏寺の守護神となりました。やがて円珍が三井寺長吏となる9世紀中頃までは村主氏が朝鮮半島全体の祖神を細々と守ってきたのでしょう。その後、円珍らが新羅大明神を再建あるいは改修し、そこに円珍由縁の泰山府君を新羅明神と称して勧請しました。これは、唐留学で多大な庇護を受けた新羅人への恩義の現れであると共に、比叡山山門派円仁由縁の赤山禅院への対抗馬とする意図でした。さすれば、「円珍の新羅明神」のエピソードもまた円仁のそれに対峙する挿話なのかもしれません。

    新羅善神堂 本殿
    ここから次のようなストーリーが読み解けます。
    百済系渡来人の大友村主氏が大津に移ったのは5世紀後期とされ、それ以前に地主神としての新羅大明神(廟所)がここにありました。そこには百済系をはじめ朝鮮半島の祖神が祀られており、かくして新羅大明神は大友氏の氏寺の守護神となりました。やがて円珍が三井寺長吏となる9世紀中頃までは村主氏が朝鮮半島全体の祖神を細々と守ってきたのでしょう。その後、円珍らが新羅大明神を再建あるいは改修し、そこに円珍由縁の泰山府君を新羅明神と称して勧請しました。これは、唐留学で多大な庇護を受けた新羅人への恩義の現れであると共に、比叡山山門派円仁由縁の赤山禅院への対抗馬とする意図でした。さすれば、「円珍の新羅明神」のエピソードもまた円仁のそれに対峙する挿話なのかもしれません。

  • 新羅善神堂 本殿<br />鬼瓦には菊と波文形が散らされています。<br /><br />『足利尊氏願経(重文)』は三井寺に592帖が伝存されていますが、その他は流出したそうです。『願経』とは、1354(文和3)年に尊氏が、後醍醐天皇や両親および戦没者の供養と天下太平、民衆の安穏を祈願し、京都や鎌倉などの諸寺院の僧に書写させ菩提寺の等持院に奉納した『一切経』のひとつです。各帖末の木版刷りの発願文には「尊氏」の自著があるそうです。

    新羅善神堂 本殿
    鬼瓦には菊と波文形が散らされています。

    『足利尊氏願経(重文)』は三井寺に592帖が伝存されていますが、その他は流出したそうです。『願経』とは、1354(文和3)年に尊氏が、後醍醐天皇や両親および戦没者の供養と天下太平、民衆の安穏を祈願し、京都や鎌倉などの諸寺院の僧に書写させ菩提寺の等持院に奉納した『一切経』のひとつです。各帖末の木版刷りの発願文には「尊氏」の自著があるそうです。

  • 新羅善神堂 本殿<br />本殿右側面の欄間にも瑞鳥と草花文様と思しき透かし彫りがなされています。<br />こちらは瑞鳥の形がよく判ります。<br />右端には緑青色をした釘隠しが見られます。

    新羅善神堂 本殿
    本殿右側面の欄間にも瑞鳥と草花文様と思しき透かし彫りがなされています。
    こちらは瑞鳥の形がよく判ります。
    右端には緑青色をした釘隠しが見られます。

  • 新羅善神堂 二童子社<br />新羅善神堂の東側には新羅明神の眷属である般若童子と宿王童子を祀る二童子社があります。

    新羅善神堂 二童子社
    新羅善神堂の東側には新羅明神の眷属である般若童子と宿王童子を祀る二童子社があります。

  • 新羅善神堂 火御子社<br />西側には新羅善神堂の地主神とされる火の御子を祀る火御子社があります。<br />火御子明神は、清和天皇の時代にこの地を新羅明神に譲ったと伝わります。<br />因みに、本地仏は十一面観世音菩薩です。<br /><br />新羅の森の佇まいに圧倒され、新羅善神堂の謎はさらに深まるばかりです。

    新羅善神堂 火御子社
    西側には新羅善神堂の地主神とされる火の御子を祀る火御子社があります。
    火御子明神は、清和天皇の時代にこの地を新羅明神に譲ったと伝わります。
    因みに、本地仏は十一面観世音菩薩です。

    新羅の森の佇まいに圧倒され、新羅善神堂の謎はさらに深まるばかりです。

  • 新羅善神堂に別れを告げ、次の目的地へ急ぎます。<br />石鳥居の手前右手に「新羅三郎義光の墓」へ導く道標があります。

    新羅善神堂に別れを告げ、次の目的地へ急ぎます。
    石鳥居の手前右手に「新羅三郎義光の墓」へ導く道標があります。

  • 参道はこのように石敷きの道になっており、比較的歩き易いです。<br />参道に入って3分程すると右手に手すりの付いた急峻な階段があります。そこを登ると皇子が丘公園弓道場の横手に出てしまうので、参道を石敷きに従って真っすぐに進んでください。道標は建てられていません。<br />北院 法明院へ向かうならこの階段が近道になるようです。

    参道はこのように石敷きの道になっており、比較的歩き易いです。
    参道に入って3分程すると右手に手すりの付いた急峻な階段があります。そこを登ると皇子が丘公園弓道場の横手に出てしまうので、参道を石敷きに従って真っすぐに進んでください。道標は建てられていません。
    北院 法明院へ向かうならこの階段が近道になるようです。

  • 石敷きの道を西へ登ると途中に道標があります。<br />左へ進めば三井寺に行けます。ここからは東海自然歩道になります。<br />そこから少し登った右手に新羅三郎義光の墓があります。<br />新羅善神堂の石鳥居から10分程の距離です。

    石敷きの道を西へ登ると途中に道標があります。
    左へ進めば三井寺に行けます。ここからは東海自然歩道になります。
    そこから少し登った右手に新羅三郎義光の墓があります。
    新羅善神堂の石鳥居から10分程の距離です。

  • 新羅三郎義光の墓<br />新羅善神堂の石鳥居から山道を200m程登った所に佇みます。小振りの石鳥居の先には、玉垣の中にお椀を伏せたような土饅頭形式の墓が鎮まります。因みに、法名は「先甲院伝峻尊了大居士」となっています。<br />新羅三郎は河内源氏2代 源頼義の3男であり、頼義が園城寺に帰依していたことから、同寺の護法神である新羅明神の社殿で元服し、その氏人となって新羅三郎を名乗りました。<br />彼を含めた兄弟の子孫たちが各々分家して鎌倉期の有力御家人となり、室町期の群雄割拠の世に頭角を現しました。

    新羅三郎義光の墓
    新羅善神堂の石鳥居から山道を200m程登った所に佇みます。小振りの石鳥居の先には、玉垣の中にお椀を伏せたような土饅頭形式の墓が鎮まります。因みに、法名は「先甲院伝峻尊了大居士」となっています。
    新羅三郎は河内源氏2代 源頼義の3男であり、頼義が園城寺に帰依していたことから、同寺の護法神である新羅明神の社殿で元服し、その氏人となって新羅三郎を名乗りました。
    彼を含めた兄弟の子孫たちが各々分家して鎌倉期の有力御家人となり、室町期の群雄割拠の世に頭角を現しました。

  • 新羅三郎義光の墓<br />前九年の役の後、1083年に再び奥州で戦が起こりました。これが後三年の役です。奥州一円を支配する豪族 清原氏の内紛に新羅三郎の兄 義家が軍事介入したことが原因です。義家は簡単に勝てる戦と高を括っていましたが、清原家衡は長期に亘り篭城し、そこに寒さと飢えが加わり苦戦を強いられました 。<br />そこへ検非違使の職を辞して颯爽と駆けつけたのが、弓馬に優れていた新羅三郎です。彼の参陣によりたちまち奥州の争乱は鎮まりました。後三年の役後は東国に勢力を拡大し、常陸の佐竹氏や甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏は新羅三郎を祖としています。武田信玄の先祖に当たる人物でもあります。<br />1127(大治3)年10月20日、三井寺(園城寺)で死去したと伝えられています。山梨日日新聞社編『山梨百科事典』は「晩年仏道に精進し園城寺金光院を住居とし、念仏を日課として83年の生涯を大往生人として美しく終えた」と語ります。<br />元服と入寂の地の所縁から新羅善神堂の裏手に手厚く埋葬されたのでしょう。

    新羅三郎義光の墓
    前九年の役の後、1083年に再び奥州で戦が起こりました。これが後三年の役です。奥州一円を支配する豪族 清原氏の内紛に新羅三郎の兄 義家が軍事介入したことが原因です。義家は簡単に勝てる戦と高を括っていましたが、清原家衡は長期に亘り篭城し、そこに寒さと飢えが加わり苦戦を強いられました 。
    そこへ検非違使の職を辞して颯爽と駆けつけたのが、弓馬に優れていた新羅三郎です。彼の参陣によりたちまち奥州の争乱は鎮まりました。後三年の役後は東国に勢力を拡大し、常陸の佐竹氏や甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏は新羅三郎を祖としています。武田信玄の先祖に当たる人物でもあります。
    1127(大治3)年10月20日、三井寺(園城寺)で死去したと伝えられています。山梨日日新聞社編『山梨百科事典』は「晩年仏道に精進し園城寺金光院を住居とし、念仏を日課として83年の生涯を大往生人として美しく終えた」と語ります。
    元服と入寂の地の所縁から新羅善神堂の裏手に手厚く埋葬されたのでしょう。

  • 新羅三郎義光の墓<br />『古今著聞集』の「時秋物語」にある足柄山吹笙の伝説は、源義光が後三年の役で兄 義家を支援するために奥州へ向かう途中、笙の師 豊原時元より伝授された笙の秘曲『広陵散』を箱根山中で時元の遺児 時秋に伝えたというものであり、千古の美談として知られています。義光は、自分が戦死するかもしれないと考え、戦場への同行を志願する時秋に対し、この秘曲が耐える事のないように説得して京に帰しました。<br />足柄山に連なる腰越は源頼朝が弟 義経の功績を奪い斥けた恨みの土地ですが、同じ源氏の兄弟でありなから、片や助け合い、片や憎み合うとは…。

    新羅三郎義光の墓
    『古今著聞集』の「時秋物語」にある足柄山吹笙の伝説は、源義光が後三年の役で兄 義家を支援するために奥州へ向かう途中、笙の師 豊原時元より伝授された笙の秘曲『広陵散』を箱根山中で時元の遺児 時秋に伝えたというものであり、千古の美談として知られています。義光は、自分が戦死するかもしれないと考え、戦場への同行を志願する時秋に対し、この秘曲が耐える事のないように説得して京に帰しました。
    足柄山に連なる腰越は源頼朝が弟 義経の功績を奪い斥けた恨みの土地ですが、同じ源氏の兄弟でありなから、片や助け合い、片や憎み合うとは…。

  • 新羅三郎義光の墓<br />『養老律令』(757年)の「喪葬令」の影響もあり、平安時代~鎌倉時代前期の墓は、石塔を建てる習慣はなく、身分の高い人や豪族でも「土饅頭」止まりでした。この時代の墓で石塔のあるのは後世に造られた供養塔(小さな五輪塔)であることが多いようです。<br />因みに、源頼朝の墓も最初は「単層」だったそうですが、江戸時代末期に島津氏(自称 頼朝の末裔)が「多重層塔」に造り替えたそうです。<br />土饅頭墓は、古代後期に古墳が小型化する過程で生まれた形式である一方、古代に貴人の葬送儀礼として行われた「殯(もがり:死者の遺体をすぐに埋葬せず一定期間安置)」の名残りとの説もあります。「殯」の儀礼は死者は白骨化するまでは生きているとする信仰です。それと同様、「まだ生きている」死者を地中深くに埋めることを躊躇した結果、地面に土を盛る土饅頭墓が誕生したとの説も説得力があります。

    新羅三郎義光の墓
    『養老律令』(757年)の「喪葬令」の影響もあり、平安時代~鎌倉時代前期の墓は、石塔を建てる習慣はなく、身分の高い人や豪族でも「土饅頭」止まりでした。この時代の墓で石塔のあるのは後世に造られた供養塔(小さな五輪塔)であることが多いようです。
    因みに、源頼朝の墓も最初は「単層」だったそうですが、江戸時代末期に島津氏(自称 頼朝の末裔)が「多重層塔」に造り替えたそうです。
    土饅頭墓は、古代後期に古墳が小型化する過程で生まれた形式である一方、古代に貴人の葬送儀礼として行われた「殯(もがり:死者の遺体をすぐに埋葬せず一定期間安置)」の名残りとの説もあります。「殯」の儀礼は死者は白骨化するまでは生きているとする信仰です。それと同様、「まだ生きている」死者を地中深くに埋めることを躊躇した結果、地面に土を盛る土饅頭墓が誕生したとの説も説得力があります。

  • 新羅三郎義光の墓<br />墓の右側には「新羅公墓碑」と判読できる石碑が建てられています。<br />原文は読み取れないので解説書に頼れば、新羅三郎を祖とする佐竹氏や小笠原氏、南部氏ら18家が荒廃していた墓を捜し出して整備し、墓域を定めて柵垣を施したと伝えます。その折の顕彰碑と思われます。<br />文末には、明治12年5月25日という日付が刻されていますので、この時に建立された石碑なのでしょう。

    新羅三郎義光の墓
    墓の右側には「新羅公墓碑」と判読できる石碑が建てられています。
    原文は読み取れないので解説書に頼れば、新羅三郎を祖とする佐竹氏や小笠原氏、南部氏ら18家が荒廃していた墓を捜し出して整備し、墓域を定めて柵垣を施したと伝えます。その折の顕彰碑と思われます。
    文末には、明治12年5月25日という日付が刻されていますので、この時に建立された石碑なのでしょう。

  • 新羅三郎義光の墓<br />墓の裏手は立派な穴太積みの石垣になっています。<br />かつてはここにも三井寺の塔頭が存在したのかもしれません。<br />墓の手前から左上へ登る道が続いています。道の途中には石塔のようなものも見え、法明院へ通じていると思われますが、Googleマップに表示されていなかったので「FURIAN 山ノ上迎賓館」まで戻り、舗装された道を辿ることにしました。<br /><br />この続きは、情緒纏綿 近江逍遥⑤三井寺(園城寺)北院 法明院(エピローグ)でお届けいたします。

    新羅三郎義光の墓
    墓の裏手は立派な穴太積みの石垣になっています。
    かつてはここにも三井寺の塔頭が存在したのかもしれません。
    墓の手前から左上へ登る道が続いています。道の途中には石塔のようなものも見え、法明院へ通じていると思われますが、Googleマップに表示されていなかったので「FURIAN 山ノ上迎賓館」まで戻り、舗装された道を辿ることにしました。

    この続きは、情緒纏綿 近江逍遥⑤三井寺(園城寺)北院 法明院(エピローグ)でお届けいたします。

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