2021/11/24 - 2021/11/24
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鎌倉歴史文化交流館には合鎚稲荷社跡が残っている。
合鎚稲荷社は、鎌倉時代の刀鍛冶(刀工)・五郎入道正宗に縁のある稲荷社である。正宗は「相州伝」といわれる相模国独特の作風を完成させた刀鍛冶である。通常の刀よりも長く、後世では短くした正宗作の刀があり、正宗作の刀が3振りとか数点残っているという。
戦国時代、正宗の子孫は北条氏綱から無量寺ヶ谷に土地を与えられ、そこに屋敷を建てた。そして、その刀鍛冶は北条氏綱の一字をもらって「綱廣」を名乗り、代々その名を世襲し、現在の「正宗工芸」の当主は24代目に当たる。
その屋敷跡とされる場所に大正時代に三菱財閥の岩崎小弥太が別荘を建て、合鎚稲荷社も建立されたのだという。鎌倉石が積まれたのがこの時代であろう。
その後は、旺文社を創設した赤尾良夫氏の住宅となっていた。花崗岩の石は戦後になって赤尾氏が積んだものであろう。合鎚稲荷社の参道は付け替えられている。
鎌倉歴史文化交流館への改築に伴い、平成25年(2013年)に葛原岡神社へ遷座した。なお、鎌倉歴史文化交流館は、鎌倉市が元々は世界遺産の登録を目指していた「武家の古都・鎌倉」の遺産価値を補完するガイダンス施設の候補地として取得したものである。世界遺産は落選し、今のような形で平成29年(2017年)に開館している。
なお、壽福寺近くにも屋敷があったとされ、坂道の途中に刃稲荷が残されている。この刃稲荷は綱廣氏に引き継がれ、正宗工芸の店頭に祀られている。
それで、一番歴史が浅い合鎚稲荷社が鎌倉では一番歴史が浅い明治21年(1888年)創建の葛原岡神社境内に遷座したのであろう。
(表紙写真は鎌倉歴史文化交流館に残る合鎚稲荷社跡)
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「合鎚稲荷社跡について
当館の建つこの谷戸は「無量寺谷(むりょうじがやつ)」と呼ばれ、江戸時代には、相州伝の刀工正宗の後裔である綱廣(つなひろ)の屋敷があったと伝えられます。そしてこの敷地には、刀鍛冶を守護する「刃稲荷(やいばいなり)」が祀られていたと推測されています。
大正年間には、三菱財閥第4代当主の岩崎小弥太が、母早苗のための別荘を構えていました。岩崎氏は大正8年(1919)、かつてここに祀られていた稲荷社を「合鎚稲荷(あいづちいなり)」として復興し、参道や鳥居、石造神狐像や社祠を整備しました。
その後平成12年(2000)、センチュリー文化財団がこの土地を取得した後、老朽の著しかった社祠を新たに再建しました。建造にあたっては、愛媛県松山市岩手寺の重要文化財「訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)」(鎌倉時代後期)を模して造られました。
このたび、鎌倉市への土地と建物の寄附にあたり、社祠や神狐像、参道鳥居は、近隣の葛原岡神社へと移設され、現在も大切にお祀りされています。高台にある稲荷社の跡地は、現在は見晴台として利用いただいております(雨天時は閉鎖)。」 -
合鎚稲荷社参道石段。
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本館裏。立入禁止になっている。
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本館裏手の崖上の石畳の道。
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本館。
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「合鎚稲荷祠道」道標。
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合鎚稲荷社参道下。
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合鎚稲荷社参道石段。
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合鎚稲荷社参道石段が続く。
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合鎚稲荷社前の平地の参道。石畳だ。
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崖下に空き地。何か合鎚稲荷社の施設があったのか?
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崖の巨岩。
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合鎚稲荷社跡。
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合鎚稲荷社跡。社殿の基礎が見える。
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崖の巨岩。
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合鎚稲荷社跡の石段。鎌倉石の石段であり旧参道か?
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崖の巨岩。
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崖の巨岩。
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倒木の先にも石畳。
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合鎚稲荷社跡から横に下りる旧参道石段。
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途中からは真っ直ぐに。
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上って来た参道石段を下る。
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下に旧参道階段の上り口。
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上って来た参道石段を下る。
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合鎚稲荷社旧参道石段。
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葛原岡神社に移設された石鳥居。
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葛原岡神社に遷座した合槌稲荷。
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