2021/10/27 - 2021/10/27
966位(同エリア17021件中)
ばねおさん
秋はいずこも美術展が目白押し。
パリでは多くの美術館が独自の企画で展覧会を組み、昨年はコロナ感染の規制で開催が見送られた各種サロン展も2年ぶりに実施された。
数ある展覧会の中で、際立ったのはプティ・パレの「イリヤ・レーピン(1844-1930 ) ロシアの魂を描く」展だ。
ロシアのトレティアコフ(トレチャコフ)美術館、サンクトペテルブルク博物館そしてフィンランドのアテネウム美術館から貸し出された100点の作品が一堂に会し観覧できるという機会は滅多にないことで、これに出会えたことは実に幸運だった。
フランスでは知名度も評価も必ずしも十分とはいえなかったイリヤ・レーピンだが、この初の回顧展を通して新たな認識を生み出したに違いない。
もちろん自分も多くの作品と相まみえ、大いに新しい眼をもつことができた。
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
今さらながらの説明は不要とは思うけれど、プティ・パレはグラン・パレと共に1900年のパリ万博の展示会場として建てられ、今ではパリ市立美術館として質の高い優れたコレクションを所蔵展示している。
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向かい合うグラン・パレは2020年12月から閉鎖して目下大改修中。
2024年のパリ オリンピックではフェンシング会場に予定されている。
工費の寄付をシャネルがしたのだろう、建物を覆う作業シートにはCHANELの文字が表示されている。 -
グラン・パレは金属の骨組みで組んだドーム部分の脆弱性があって、これまでにも何度か改修補強がされてきているが、もともと地盤が弱い場所でもあり技術的な難度はかなり高いという。
現在の様子を覗いてみると、ガラスのドームはすでに修復を終えているようだ。
いずれにせよ、維持していくのはなかなか容易ではない。 -
プティ・パレ、グラン・パレと並んで1900年パリ万博のために作られたのがアレクサンドラ3世橋。
最後のロシア皇帝となったニコライ2世が、父アレクサンドラ3世とフランスが結んだ友好同盟を記念するものとしてフランスに贈ったもの。
パリで最も美しい橋とされている。
橋の向こう右手にはプティ・パレ、左手にはグランパレが見える。 -
プティ・パレで2022年1月まで開催されているのがイリヤ・レーピン展。
意外なことにフランスで初の大規模回顧展になるという。 -
絵画、工芸作品の一流どころを揃えた常設展示もなかなかに魅力的だが
今回はレーピンに絞っての観覧。 -
日本でもレーピン展が過去に開催されたが、たしかトレティアコフ美術館より貸し出された作品展ではなかったかと思う。
今回は、サンクトペテルブルク博物館そしてフィンランドのアテネウム美術館からの作品も併せて100点という規模なので、鑑賞するにもなかなか体力を要する。 -
最初の展示が、こちらの作品。『ヴォルガの船曳き』(1870-1873)
川の流れに逆らいながら、荷を積載した帆船を人力で引いていく過酷な重労働だ。
ぼろを纏い疲弊しきった体を斜めに傾げ、ひたすら前進しようとする船曳き人夫たちの表情。
美しい自然と、川沿いには優雅に散歩を楽しむ人もいる中でのあまりの違いにレーピンは強烈な思いにとらわれたようだ。 -
『受験準備中の学生たち』(1864)
1863年にレーピンは生まれ故郷のウクライナから絵の勉強のためにサンクトペテルブルクにやってきた。
その下宿先の二人の息子たちの様子を描いた作品。
どうやら勉強は上の空の様子で、向かいの窓辺には若い女性の姿も見える。
彼らのやや怠惰な生活をユーモアを込めて表現している。 -
『パリの新商品の売り手』(1873)
人通りの多い場所にさまざまな品を並べ、巧みな口上で売りつけようとする男と、それを囲む人々の表情が、その場の雰囲気を伝えてくれる。
レーピンの3年間のパリ時代の作品のひとつ。 -
『漁師の娘』(1874)
所々破れた粗末な衣服、憂鬱な表情、ボサボサの髪の少女の姿。豊かではないが惨めでもない生活。
1874年、当時パリに住んでいたレーピンは夏をノルマンディーのVeules-les-Roseで過ごし、この絵のモデルのように地元の人たちを描いている。
このノルマンディー旅行は彼にとって創作のインスピレーションを生む重要な経験ともなった。 -
『幼いヴェラ・レーピン』(1874 )
レーピンの長女ヴェラの2歳の肖像。
大きな肘掛け椅子に小さな身体の対比、優しい愛情とユーモアが感じられる作品だ。 -
『休息』(1882 )
レーピンは休息、瞑想、睡眠などの自然な状態でモデルを描くことを好んだ。
この絵のモデルは妻のヴェラで、まさに眠りに落ちんとするところを巧みにとらえている。
夫婦の関係は1890年代の終わり頃に破局を迎え、これが妻を描いた最後の作品となった。 -
『トンボ』(1884 )
12歳の娘のヴェラを屋外の光の中で低いアングルから捉えた作品。
彼自身はパリ時代に印象派に影響を受けなかったというが、パリで見た印象派の作品にヒントを得て、野外での色と影を表現することを身につけている。 -
『ユーリ・レーピン』(1882)
妻ヴェラとの間に生まれた長男ユーリ・レーピン(1877-1954)の肖像。
イヴァン4世の作品制作のためにアトリエに配置した絨毯の中で自然に座っている息子の姿を捉えたもの。 -
『自画像』 (1887)
1887年の夏、すなわちレーピン43歳の時にイタリアを訪れた際に描かれたもの。
フィレンツェのウフィツィ美術館での自画像のコレクションに大いに触発されたものという。 -
『水中王国のサドコ』(1876)
竜王と賢女の水中王国に陥った裕福な商人サドコが数人の花嫁候補から選んだのはロシアの女性であった、というロシアの伝説に題材をとったレーピン異色の作品。
幻想的なテーマは写実の画風とは必ずしも一致しないが、彼はあえてこの作品をサンクトペテルブルクの美術アカデミーに出品し、高い評価を得た。 -
『クルクス州での宗教的行列』(1881-1883)
さまざまな社会階級のロシア国民の姿を、それぞれに個性を持たせて巧みに描き分けている。
レーピンは皇帝から名もなき民衆まで描いたが、生涯にわたって自分の出身階級である大衆の視点を持ち続けた。 -
プティ・パレのレーピン展の展示室の様子。
入場人数制限のおかげで、このようにゆっくりと鑑賞できるのはありがたい。 -
レーピンは人間の内面に常に目を向け、政治家、作家、科学者、音楽家たちもモデルとして数多く登場している。
『ソフィア メンター』(1887)
ソフィア メンターはドイツのピアニストでリストの弟子であった。
ロシアでの演奏ツアーを成功させ、サンクトペテルブルク音楽院で教鞭をとった人物。 -
『モデスト・ムソルグスキー』(1881)
音楽を深く愛好していたレーピンは作曲家ムソルグスキーの作品を強く賞賛し、作曲家もまた彼の絵を高く評価していた。
1881年2月に、重い病でサンクトペテルブルクの病院に入院していた作曲家のもとを訪ねたレーピンは、病の症状が明らかな状態を画布に写しとった。
この絵が描かれた数日後にムソルグスキーは息を引き取っている。
この肖像画の売却代金は作曲家の死後の費用に充てられている。 -
『ヴァルヴァラ・イクスクル・ フォン・ヒルデンバントゥ男爵夫人』(1889 )
とても強い意志の持ち主で、民主的で進歩的な考え方、女性の地位向上、慈善事業などの社会活動でその存在を知られていた彼女は「赤い男爵夫人」と呼ばれていた。
ルスランRouslaneのペンネームを用いてフランス語で書き、ドフトエフスキーを翻訳するなど文筆活動も旺盛であった。
レーピンは彼女に心から敬意を表し、その姿を画布に表現した。
この作品は肖像画として高く評価され、トレティアコフ(トレティアコフ美術館の創設者)はただちに買取を申し出ている。 -
『トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャ・コサック』(1880-1891)
レーピンは、彼の故郷ウクライナの歴史と自由で独立した遊牧民であったザポロージャ・コサックの人々に深い関心を持っていた。
1878年に、ある歴史家がひとつの興味深い資料を発見紹介した。
それは17世紀にオスマン帝国のスルタン メフメト4世に従属することを拒否したザポロージャ・コサックが書いたスルタンに対する挑発的で侮辱的な手紙だった。
レーピンはこの逸話をもとに制作に臨んだが、研究に時間を要し、なんと12年もかかってようやく完成となった。
1893年のシカゴ万博で大賞を得た作品。 -
『モスクワのペトロフスキー宮殿中庭で農民代表を受け入れるレクサンドル3世』(1886 )
1883年5月のアレクサンドル3世の載冠式を記念して、宮殿に招かれた農民の代表たちを前に皇帝が話をしている姿だ。
暗殺された父親のアレクサンドル2世の後を継いだアレクサンドル3世にとって、国の統一のテーマが最重要だった。
この絵では農民の代表は前に出て、貴族は隅に追いやられている形になっている。
レーピン自身もスケッチブックを手にした姿で、画面右上に描かれているのが見て取れる。 -
この作品は、ロシアの25の行政区画の紋章を配した実に豪華な額に収められている。
額自体が工芸品のような存在感がある。 -
こちらが額の装飾の一部。
持参したコンデジでは精密さが再現できないのが残念だ。 -
『Ils ne l'attendaient plus 』(1883-1898)
「思いがけない帰宅」、あるいは「思いがけなくも」と意訳すべきか。
この同じテーマ(題名)でいくつかの作品があり、幾度か修正も加えているという。
当時、急進的な社会運動には多くの女子学生が参加していたという時代背景が反映されたためか、この絵では女性が主人公になっている。 -
『Ils ne l'attendaient plus 思いがけない帰宅』(1884 -1888)
こちらは男性が主人公。
長期の拘留から解放された男がボロボロの姿で家に戻り、驚きと共に迎える家族の喜びの表情を見ることができる。
レーピンは、絵の主題を正しく理解してもらうための舞台装置を背景に散りばめている。
居間の壁にあるのは進歩的なロシアの知識人たちに支持された二人の肖像画だ。すなわち農奴制に反対したウクライナの詩人、画家であるタラス・シェフチェンコTaras Chevtchenkoと後のマヤコフスキーに影響を与えた詩人ニコライ・ネクラーソフNikoraNekrassoyの肖像。
そして歴史画家シャルル・ド・スチューベンCharles de Steubenの絵が飾られているという具合だ。 -
『アファナシー フェット AFANASSI FET の肖像』(1882)
文学が当時の社会問題を反映していた当時にあって、あくまでも芸術至上主義的立場を維持したロシアの代表的叙情詩人。
フェットはツルーゲーネフを介してトルストイを知り、やがてその熱烈な崇拝者となっている。
レーピンは度々モスクワのフェットの自宅を訪ね、その人柄に魅了されたという。 -
『森で休息するレフ・トルストイ』(1891)
レーピンとトルストイが初めて会ったのは1880年頃とされる。
すでに、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニア』で世界的に有名であったトルストイだが、裕福な生活を捨てて、農民の中に入り共に生きることを計画していた。
レーピンとトルストイは知り合った後にお互いの元を頻繁に行き交うことになり、
レーピンはしばしばトルストイの散歩に同行して自然な姿での描写を試みている。 -
『レフ・トルストイ』(1887)
レーピンがトルストイの居宅があるヤスナヤポリアナに最初に滞在した時に、椅子に座って読書しているトルストイが読むことを一時中断した時の姿。
この肖像画はトルストイ自身も大いに気に入り、トルストイを取り上げる多くのテーマの中で必ずと言ってよいほど掲出されている。いわば公式肖像画としての地位が与えられているような作品だ。 -
『裸足のトルストイ』(1901)
トルストイがロシア正教会から破門された1901年に、サンクトペテルブルクでこの絵が公開されると、トルストイを支持する民衆が絵の前に集まり、彼に敬意を示す意味で次々と花を置いていったという。
娘のアレクサンドラ・トルストイの言い伝えでは、父親はこの絵を見て「ズボンではなく靴を脱いだのでよかった」と語ったという。
ズボンを脱いでいたら「裸のトルストイ」になっていたかもしれない。 -
『自画像』(1894)
1890年代の初めに、レーピンは芸術上の激しいジレンマに陥り葛藤を続けていた。
1893年10月から1894年5月まで彼はイタリアに滞在するが、当時の複雑な心境を表現するこの自画像は1894年の冬にナポリで描かれている。 -
『ニコライ2世』(1896)
アレクサンドラ3世橋をフランスに寄付したのはこのお方。
1895年の冬にレーピンは宮廷から特別な注文を受けた。
ペテルブルグ・マリンスキー宮殿の会議室に飾るための皇帝ニコライ2世の盛装した肖像画だ。
レーピンの筆によって、巨大な王座の間で軍服姿の若き皇帝は凛々しく、穏やかな姿で描かれているが、1917年にロマノフ王朝が終焉するまで、皇帝と民衆の隔たりは広がり続けた。
日本との縁も深く、皇太子時代に来日の際には「大津事件」に遭い、その後、帝位に就いてからは日露戦争となった。 -
『1905年10月17日』(1907)
世紀の大きな変わり目、革命の予兆の中で、皇帝政治は期待される改革を遂行できずに立ち往生していた。
1905年10月17日、首相のウィッテはニコライ2世の名で「十月宣言」を出し、市民の政治的自由を認めると共に国会(ドゥーマ)の開設を約束した。
レーピンはこの歴史的な出来事の中で、自由解放を喜び歌をうたい赤い旗を振っている人々の様子を描いている。 -
『NATALIA NORDMAN. ナタリア・ノードマン』(1900 )
レーピンとの出会いは明らかでないが、やがて生涯を共にするようになったナタリア・ノードマン(1863-1914 )。彼女は、作家として、女性の地位向上、解放運動家として、また写真家として知られている。
レーピンは彼女の冒険的で理想を追い求める生き方を捉えて「シェエラザード」と呼んだ。
絵の中で彼女の左手には、レーピンから贈られた当時最新のコダックのカメラのケースが置かれている。このカメラで彼女は15年間にわたって家族や友人の記録を残すことになった。 -
『なんて自由だ!』(1903 )
第一次世界大戦後、フィンランド大公国はロシア帝国から独立し、レーピンの居住していた地はフィンランド領となった。
ボルシェビキ政権の行方に懸念を持っていた彼は、ロシアへの帰国を促す政府の再三の呼びかけに応ぜず最後までフィンランド領に留まった。
この作品を寓話のように捉えて、時代の変化への讃歌とみなす評論家たちに対して
レーピン自身は隠された意図を否定した。 -
今回は、魅力あるプティ・パレの常設展はパス。
レーピン展でほとんど体力を消耗したうえ、このあと近くで次の予定が控えている。 -
プティ・パレを出て、すぐ近くのシャンゼリゼ大通りへ。
2年ぶりに開催されるサロンドトンヌ展が明日から始まり、今夜はそのヴェルニサージュ(内覧招待会)ということになっている。 -
会場には、すでに入場待ちの長い列ができていた。
まずは、パスサニテール(衛生パス)のチェックを受けてから、ということになる。
この確認に手間取っている様子で、長い列はなかなか解消しない。 -
現在はシャンゼリゼ大通りに特設会場を設けて開催しているサロンドトンヌだが、かってはプティ・パレを会場にしていた時期があった。
1903年の第一回のポスターにも PETIT PALAIS の文字がみえる。 -
さて、入場はしたものの、人ひとひと...いやはや大変な混み具合だ。
この先へ進んだら、とても写真など撮れる状態ではなかった。
人数制限はどうなっているの? -
これじゃたまらん、ということで逃げ込んだのが、会場内に臨時に設けられたカフェテラス。運よく座席も確保できたが、このあと振り返ると入りたくても入れない人の行列が出来ていた。
出店している店の名前を見て驚いた「Lapérouse」。
そう気軽に利用できる店ではないが、その名だけは知っている。(超)有名な伝説のレストランではないか。 -
あらためてお店に足を運ぼうなどという大それた考えはないが、後学のためメニューを頂戴した。
ふむふむ、高いが目の玉が飛び出るほどではない。
もっともここに用意されているのは軽食中心なので、そういう意味では範囲が限られてはいるが。
喉の渇きと疲れを癒すためにミネラルウォータとコーヒーだけを注文し、知り合いのK女史が現れたのを機に席を譲って退散。 -
カフェテラスを出ても依然として人の多さは変わらず、結局、この日は会場内を回ることは断念した。
何のことはない、まるで足休みに利用しただけになってしまった。
絵画部門の出入り口には、日本帰国中の2月に亡くなられた赤木 曠児郎画伯のヴァンドーム広場をモチーフにした作品と追悼文が掲示されてあった。一応ここだけはしっかりと拝見して退出した。
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