2021/11/24 - 2021/11/24
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鎌倉歴史文化交流館で企画展「頼朝以前~源頼朝はなぜ鎌倉を選らんだか~」が開催(令和3年(2021年)9月25日(土曜日)~令和3年(2021年)12月18日(水曜日))されている。
「~源頼朝はなぜ鎌倉を選らんだか~」と注記してあるが、その回答は示されてはいない。
館長の青木豊氏は図録の「ごあいさつ」に、「本展では、市内の発掘調査でみつかった原始・古代の出土品や、鎌倉時代以前の鎌倉を記した歴史資料から、頼朝以前の鎌倉の歴史に迫ります。」と表記され、ポスター裏面にもそのように記載されている。
何も「~源頼朝はなぜ鎌倉を選らんだか~」ということには触れていないのである。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が来年1月から放送される。それを意識して、単なる「頼朝以前」の遺跡や発掘品を展示するだけのものを「~源頼朝はなぜ鎌倉を選らんだか~」と注記したに過ぎない。
数10年に亘って多くの博物館などを巡って来ているが、こうした詐欺まがいの企画展示は初めてのことだ。
この企画展示を通じて誰もが「武家の古都・鎌倉」が世界遺産に落選した理由が理解できよう。暫定リスト掲載から20年も掛けてもろくな仕事が出来ず、落選後8年間も成果を出せず、挙句の果てには、強引にマスコミに便乗して企画展示を嘘だらけにしてしまう。そんな姿勢が世の中で認められるはずがない。
館内のパネルには鎌倉は要害の地、源氏所縁の地の2点、「吾妻鑑」によれば、鎌倉は源氏所縁の地、要害の地の2点が示されており、第一と第二とが入れ替わっている根拠は示されてはいない。これでは清泉小の歴史解説のパネルの記載内容と大差がない。
頼朝が鎌倉を選んだ本当の理由は以下に示す。
父・義朝は長男・義平に鎌倉の地を任せ、東逗子に退いていた。東逗子の義朝館は壽福寺を創建する際には、建物が移築されたとされるので、義朝没後、さらに頼朝没後まで館は残っていたのであろう。それならば、源氏の棟梁としては父・義朝の館に入り、源氏の跡継ぎであることを示すべきであった。しかし、現実には房総に逃れた際に、鎌倉に入ることを計画していた。
戦下手な頼朝は神や仏にもすがりたかった。そのために、筑波山の神と浅草観音の仏がおわします同一線上にある鎌倉を選び、その山の麓に由比若宮を遷座させ、鶴岡八幡宮を新らたに鎌倉の鶴亀の鶴とした。「鶴亀」は天下泰平、国家の長久を祈念し、祝福する意味がある。
当時、鶴岡若宮社の参道はこの線上に由比ガ浜まで伸ばし、参道とした。現在でも若宮大路と呼ばれている所以である。
さらに、頼朝は鎌倉の亀も変更した。
現在の二階堂に永福寺を建立した。ここ二階堂の字名は当時は「亀ヶ淵」である。
このことにより、頼朝は鎌倉の鶴亀を一新し、鎌倉幕府の中心的施設とした。
(表紙写真は鎌倉歴史文化交流館入口)
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