1980/05/10 - 2018/11/14
64位(同エリア82件中)
タケさん
こんにちは ; ジェイン・ドーブリ Dzień dobry !!
この度(2022年)の ロシアのプーチン政権による侵攻(特別軍事行動≒戦争?)で、ポーランドに避難している多くのウクライナ人に対して、ポーランド人が献身的に援助していることが大きな話題となっている(10世紀に国家として認知されたポーランドは、隣国のロシア,ドイツなどに何度か分割されて消滅し、世界地図から姿を消したことあり)。 が 、ポーランドの ウクライナとの国境近くの農村に ミサイルが着弾し、2人が死亡した と報じられている。
1980年に 業務で滞在していた北アフリカのリビアではじめてポーランド人と知り合って以来 40年以上 家族ぐるみの交流が続いている。 ここでは その経緯と現在までの主な出来事を紹介する。
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[ウクライナお話し会]
去る10月28日(金)に、我が長岡京市で 戦火のウクライナのリビウからポーランドなどを転々として 日本へたどり着いた母娘のお話し会があった。 ウクライナ人の通訳を交えてのお話し会で、当日は ほぼ満席で 盛大だった(聴取者からは 多くの質問や意見が寄せられた)。 富士山や桜,空手等しか知らなかった状態の彼女らの 日本での慣れない生活のあり様,この度のロシアによるウクライナ侵略(隣接するポーランドには200万人以上の難民が移動済み ; 実は8年前に 不当なクリミア地帯併合 他あり)に対する悲痛な思い などの説明があった。
9才の長女アナスタシアが 100年前のウクライナ音楽をはじめ バンドウーラを弾きながら歌った伝統の4曲を演じたのは 素晴らしかった(将来も続けたい との意向)。
☆ 素晴らしい音色のバンドウーラ(бандура)の演奏状況は、「ウクライナ バンドウーラ
アナスタシア」でWeb検索すれば 動画で楽しめる。
ウクライナの情勢を 今後とも充分注視していく必要性が感じられた。
* ウクライナは1991年に ソ連崩壊とともに独立/ウクライナの国花は「ひまわり」
/首都 キーウ(キエフ)は京都市と、オデーサ(オデッサ) は横浜市と姉妹都市/ウクライナ
での在留日本人は251名(2021年12月時点),日本での在留ウクライナ人は
1865名(2020年12月時点) !!
なお 1970年に大ヒットした ソフィア・ローレン,マルチェロ・マストロヤンニ共演のイタリア映画
「ひまわり」に出てくる 見渡す限りに広がるひまわり畑は、当時のウク
ライナで撮影された とのこと。
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[滞在国位置図]
こんにちは ; ジェイン・ドーブリ Dzień dobry !!
ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska は 国土のほとんどが 南部の一部の山岳地帯を除き平野で、バルト海に面し、森や湖など手つかずの自然が残された美しい国(「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」が語源;平均高度は173m)。 -
[ポーランド地図]
国土面積 312,679km2 , 人口 約3839万人(2019年)。
2001年 ポーランド最大の国際空港「オケンチェ空港」が「ワルシャワ・ショパン空港」に改名された。 なお ポーランドはコウノトリの国で、全世界のコウノトリの4分の1がポーランド国内で繁殖している と言われる。
国民の約95%がキリスト教の敬虔なカチリック教徒(教会に入る時には、必ずひざまずく)。 なお 日本とポーランドとの時差は 8時間。
サッカー/バレーボール(前回東京オリンピック時の女子バレーボールで 日本,ソ連に続く3位)/スキー・ジャンプ男子(同オリンピック時の90mジャンプで優勝) 等のスポーツ強国。
また ポーランドは琥珀(Bursztynーブルシュティンー)の一大産地で、バルト海沿岸のビーチでは、世界の琥珀の8割以上が産出される。
「灰とダイアモンド」や「大理石の男」等のポーランド映画の話題作で知られるアンジェイ・ワイダ監督は大の新日家で、日本の伝統工芸や美術品の中欧,東欧における随一のコレクションを有する 日本文化の拠点となる通称「マンガ館」は彼が設立したもの。
10世紀に国家として認知され、16~17世紀にかけヨーロッパて最大の王国だったポーランド・リトアニア共和国は、18世紀末に隣国のロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアに分割されて消滅 し、世界地図から姿を消した。
第一次世界大戦後、1918年に123年ぶりに独立を回復したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否して 両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活させたが、ポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国であった。1989年(ベルリンの壁 崩壊)に行われた自由選挙の結果 非共産党政権が成立し、現在のポーランド共和国(大統領/首相制)となった。冷戦時代は「東欧」に分類されたが、国内及び東側諸国の民主化(東欧革命)とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「中欧」または「中東欧」として分類している。
1791年5月3日、ポーランド王国・リトアニア大公国議会は、5月3日憲法を制定。 これはヨーロッハパ最初、世界で2番目の基本法であり、国民の自由の保障,キリスト教的伝統,啓蒙主義の寛容と価値 を内容とし、主権を有する国民の自己同一性を後々まで形作る文書となった。
2019年は、日本とヨーロッパ随一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年の記念すべき年となった(1919年 ワルシャワ大学に日本語講座が開かれた)。
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[リビアでポーランド人と]
1980年に 初めての実質的な海外業務で、砂漠の中でのセメント工場建設 というプロジェクトで、土木技術者として滞在した北アフリカのリビアでは、厳格なイスラム圏で 私服の秘密警察等にいつでもどこでも監視されている という感じ、ときのカダフィ大佐(定礎式に来現)率いる独裁政権で 全くの縦割り行政組織、反米一色のため道路標識や看板等は 数字も含めて全てアラビア語のみで、街中ではアラビア語しか通じない、当時はファックスが普及していなくて 日本との通信手段はテレックスに頼らざるを得ない、一ケ月近くにもおよぶ断食(ラマダン)も体験 等々 日本の常識とは全くかけ離れた 特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、大した病気もせず、食事はお世辞にも満足すべきものとは言えなかったけれども 健康に特に問題無く、以降の海外滞在の貴重な原点となった(滞在中には、日本がボイコットしたモスクワ・オリンピックが開催され、またイラン,イラク戦争が勃発した)。 現場では、ポーランド人技術者に 既往のセメント工場を案内してもらった。
地方で滞在していた同じホテルには、近くの病院に勤めている ポーランド人(医師,薬剤師,検査員,看護婦たちで、2年契約で政府から派遣された とのこと)が20~30人ほど泊っており(ロビーで 持っていたハーモニカで ポーランド民謡「森へ行きましょう娘さん♪」を奏でていたら、突然合唱を始めたーホテルのマネージャーには 集合罪で逮捕される と注意されたがー)、切手やコイン交換が縁で親しくなった。 現場には猛毒の黒サソリやヘビ,毒グモが居るので、痛み止めの錠剤を 彼らの勤める病院を訪ねて入手したり、のどを痛めた同僚を連れて行って 診てもらったりした(全て無料)。
そのうち、難解なアラビア語を覚えることはあっさりとあきらめて、彼らにポーランド語を教わることにした。あいさつや簡単な文章,果ては発音練習用の早口言葉に至るまで、暇を見つけては ロビーや彼らの部屋でお茶を飲みながら という具合い。 彼らが大阪や京都の名は知らなくても 広島・長崎の名前を知っているのには、以外な感じを受けたものである。休日には、彼らの車(ミニバス)に乗せてもらって よく一緒に2kmほど離れた地中海岸に泳ぎにも出掛けた(ビーチは遠浅で、水は暖かく泳ぎやすい。ちなみに リビア人に海水浴という習慣は無い)。
ある時、屋上で彼らと談笑していたのを見掛けたホテルのマネージャーに、「これ以上屋上へ行くことはまかりならん」と言われ、以降 彼とは気まずくなった(日頃からスエーデンのロックグループABBAの音楽を大音響で聴いていた彼にうんざりしていたポーランド人たちは 「ジェラシーだ」と言ってくれたが) 。
ホテルのある日の夕食メニューはつぎのとおり。ブツ切りの羊肉入りのからいスープ,ヤサイサラダ(トマト,タマネギ,オリーブの実 数個),パン,缶ジュース,スイカ 等々。毎日大体同じようなパターンで、選択の余地は無く 全くのあてがいぶち(団体で長期滞在しているポーランド人は別メニュー)。持参していた缶詰めのイカを 近くの席にいたポーランド人の女性薬剤師に差し出したら、気持ち悪かったのか 顔をしかめていたのが印象的だった。ちなみに、現場作業員の昼間の食事は 小麦粉に羊肉等を入れたクスクスで、手で食べる。
ある夕食後、ポーランド人の部屋に招かれて、東アフリカ産とかの香ばしいお茶をよばれての談笑中、ラジオでポーランド語の放送が始まると、彼らは突然シーと言って 耳を澄ませて聞き入っていた。指導者が変わった とか言っていた。後日 知ったところによると、当時ポーランドでは 食肉値上げに抗議してレフ・ワレサ Lech Wałęsa (ポーランド語ではワウエンサと発音)が 北部にあるグダンスクのレーニン造船所での争議(ストライキ)を指導。 グダンスク協定(政労合意)調印により 当時の第一書記が辞任した とのこと。その後、独立自主管理労組「連帯」が発足(初代委員長はワレサ)。 ベルリンの壁解放後の1990年11月 ワレサは大統領に就任することになる(1983年に ノーベル平和賞を受賞)。 -
[ポーランドのポズナンにて]
おかげで、数人から家族への手紙やお土産を託されて、帰りにポーランドに寄らざるを得なくなった(ワルシャワ,ポズナンおよびビャウィストクの3地区で 10日間ほど滞在;当時 街中では英語が通じなかった)。 ポーランド西部に位置するポズナンでは、リビアで当方が最も親しくしていた医者の自宅を訪問。奥さんと子供2人は夏休みでリビアに来ていたので 顔なじみだった。 大学の教師をしていた彼女はドイツ語を話し、英語は通じなかった。 以降、現在まで40年以上 お互いに家族ぐるみで行ったり来たり、メールや季節の挨拶状交換 他の付き合いが続いている。 -
[ポーランドからの写真と賀状]
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[家族とポズナン訪問]
1999年12月から翌年1月にかけて3週間ほど、会社での勤続30年慰労休暇旅行という制度を利用して、家族旅行で真冬のバルト海沿いのドイツ-ベルリン他-,ポーランド-ポズナン,ワルシャワ,ビャウイストク他-,フィンランド-ヘルシンキー,ロシア-サンクトペテルブルクー,エストニアータリンーを周回。
ポズナンPoznań は ポーランド最古の都市の一つで、中世ポーランド王国の最初の首都だった(文化,学術,商工業の中心地としても知られ、毎年6月上旬に行われる国際見本市の開催地)。旧知のポーランド人家族に歓待され、誘われて カラクリ時計のパフォーマンスを楽しんだり、歌劇 「魔笛」を観劇したりした。 -
[ポーランドの食べ物]
代表的なポーランド家庭料理は、赤カブ・スープ「バルシチ Barszcz」;ビーツのスープ/ 「ピエロギpierogi」; 小麦粉などでできた生地で、肉や野菜、チーズなどの具材を餃子状に包んで茹でる!! -
[カラクリ時計と「魔笛」観賞(ポズナン)]
カラクリ時計(旧市街広場の市庁舎で、毎日12時に 2頭の羊の模型が互いの角を付き合わせる仕掛け)を大勢の見物客たちと楽しんだり、劇場でモーツアルト制作の歌劇 「魔笛」を観劇(ポーランドでは 気軽に鑑賞出来る)したりした。 -
[家族とビャウイストク訪問]
北東部最大の都市(農業地域)のビャウイストク Białystok には 知り合いを訪ねて 今までに計3度滞在した。 -
[「ビャウォヴィエジャの森」位置図]
1980年 リビアからの帰途、希少なヨーロッパ・バイソンの住む原生林 「ビャウォヴィエジャの森 Puszcza Białowieska」を訪問(1980年10月)。 ベラルーシ西部とポーランド東部(ビャウィストクの近郊)の国境にまたがるこの原生林は、ヨーロッパに残された最後の原生林といわれ、総面積は約1,500km2 (ポーランド側が625km2、ベラルーシ側が残りの875km2)。 他に ヘラジカをはじめとした大型野生動物が生息している。 -
[ヨーロッパ・バイソン]
1919年に 森で最後のヨーロッパ・バイソンが撃たれ、野生種はいったん絶滅したが、その後 動物園で飼育されていたものが 人の手で繁殖され、森で再びその姿を見られるようになった(野生個体が死滅しているヨーロッパ・バイソンの純粋種が生息する貴重な場所) 。 現在、ベラルーシ側,ポーランド側の森林内に、それぞれ二百数十頭づつが生息しており、ポーランド側が1979年に、ベラルーシ側が1992年に ユネスコの世界遺産に登録された。
* 詳細は クチコミの 「希少なヨーロッパ・バイソンの住む原生林(ポーランド)」 を参照された い。 -
[ショパン]
ポーランド人が最も誇りに思っているひとが、「ピアノの詩人」フレデリック・フランソワ・ショパン Fryderyk Franciszek Chopin (1810年-1849年;当時ワルシャワ公国だった ワルシャワから西に46kmの地点にあるジェラゾヴァ・ヴォラ村生まれ)。 熱烈なポーランド愛国主義者だった彼は、21才の時にウィーンに滞在していたが、ワルシャワ蜂起の失敗を知りパリに向かった。フランスの女性文筆家・男女同権運動家だったジョルジュ・サンドと生活し、作曲,演奏会に明け暮れたが、体調悪化で喀血を繰り返し、39才で生きて祖国に帰ることなく世を去った。 遺言で ワルシャワの聖十字架教会に心臓が安置されている。
夏の毎日曜日にワルシャワのワジェンキ公園のショパンの像の下で、ピアニストによるショパン・コンサート(無料)があり、多くの人たちが寛いでいる。 -
[アウシュヴィッツ強制収容所跡]
ポーランド南部の古都クラクフ近郊のオシフィエンチムOswiecim にあったアウシュヴィッツ強制収容所は、第二次世界大戦中に 当時のナチス・ドイツの占領下にあったポーランド領内に作られた 主にユダヤ人を対象とする強制収容所だった(他にも数カ所あり)。虐殺,拷問,人体実験,強制労働 と残虐非道の限り(ホロコースト)が尽くされ、被害者は数百万人以上(*カンボジアでは ポルポトにより約170万人が犠牲)ともいわれる。 ガス室跡や銃殺壁跡,多くのメガネやかばん,靴等の持ち物が残され、世界遺産に登録されている。 跡地は 博物館として無料で公開。先生に連れられた生徒たちをよく見かけた。
☆ アウシュヴィッツ博物館初の外国人ガイド中谷剛さんは、公認ガイド資格を取得し、日本人訪問者に アウシュヴィッツの歴史を精力的に伝え続けている。 -
[ワルシャワにて]
現在のポーランドの首都 ワルシャワ Warszawa。
1944年、ナチス・ドイツに対する抵抗「ワルシャワ蜂起」が失敗し、報復のために街は徹底的に破壊されたが、戦後 ワルシャワの旧市街は「ひびの一本にいたるまで」といわれるほど元の姿に忠実に復元された。「ワルシャワ歴史地区」として世界文化遺産に登録されている。
* 第二次世界大戦時に、ナチス軍に対して必死で戦ったワルシャワ市民を称えて 「勝利の女神」像が建立されている(ギリシャ神話の勝利の女神 ニケ がモチーフとのこと)。 -
[キュリー夫人(Madame Curie)]
マリア・スクウォドフスカ=キュリー Maria Skłodowska-Curie (1867年~1934年;ワルシャワ生まれ)は、生命をかけた放射線の研究で、1903年にノーベル物理学賞、1911年に化学賞を受賞した。 放射能(radioactivity)という用語は彼女の発案によるものである。
* フランス人の夫ピエールも1903年にノーベル物理学賞、娘イレーヌも1935年にノーベル化学賞を受
賞。
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[コペルニクス]
ニコラウス・コペルニクス Nicolaus Copernicus (1473年~1543年;ポーランドで最長の川 ヴィスワ川沿いにある 琥珀の街 トルン生まれ)は、ポーランド出身の天文学者かつカトリック司祭(?)であった。当時 主流だった地球中心説を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。 -
[前ローマ法王 パウロ二世]
264代ローマ教皇 ヨハネ・パウロ二世 Ioannes Paulus II (1978年~2005年;ポーランド南部のクラコフ近郊生まれ)は、ポーランド人初のロー教皇であり 、社会主義国初の教皇でもあった
。 「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどで、最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまで、実に世界100ヶ国以上を訪問した。 初の来日時には広島市と長崎市を訪れ、日本語で「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた。
キリスト教の平和と非暴力の教義と、第二次世界大戦中にドイツとソ連の侵攻により、故国ポーランドが焦土と化した実体験から、ナチスと共産主義の脅威を体験しながら カトリックの信仰を守り抜いた。 冷戦下以降の東欧の独裁政権下に置かれていた 母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えており、1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へ、さらには1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。1981年にバチカンのサン・ピエトロ広場にて トルコ人マフィアに銃撃されたが、奇跡的に内臓の損傷を免れ 一命を取り留めた。2005年には 感染症によって容体悪化し、敗血性ショックにより84歳の生涯を閉じた。
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[ヴィエリチカ岩塩坑]
ポーランド南部のクラクフ近郊にある広大な地下岩塩坑は13世紀より採掘されていたが、1996年に廃坑となった。 全て岩塩で 精巧に造られた礼拝堂などがある(最初に登録された世界遺産のひとつ)。 -
[ポーランド人の若い家族 来日]
1980年に滞在していたリビアで知り合ったポーランド人医師の次男(ポズナンで会った当時は 小学校へ行く前だった)の若い家族4人が2009年6月に来日(このとき彼らは仕事でオーストラリアに滞在中)。 京都太秦映画村,金閣寺,嵐山,天竜寺他を数日間案内した
。昼食は和食店で!! 現在 彼らはポーランドに帰国しており、メール等で頻繁に連絡中。
* 長女の名前はMajaで、ポーランドでもTV放映されていた日本のアニメ 「みつばちマーヤ
の冒険」 から採った とのこと。
☆ 詳細は、別途 クチコミの 「ポーランド人来日」 を参照のこと。 -
[白馬スキー場へ]
2018年年末に、彼らは オーストラリアからポーランドのポズナンに帰郷途中 白馬スキー場(長野県)へ → お土産に 京都銘菓の「生八つ橋」を持って帰ってもらった。
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[ポーランド独立回復100周年記念イベント-1]
15~17世紀にかけて東欧の大国だったポーランドは、18世紀末に隣国ロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアに分割されて消滅し、独立を回復した1918年までの123年間 世界地図から姿を消した。 第1次大戦後の1918年にポーランドが独立を回復して100年目となる2018年11月に 大阪で盛大に行なわれた記念イベントに参加した。ポーランドの帆船「ダル
・ムウォジェジ」("Dar Młodziezy";総トン数2,255トン,全長109m,全幅14m) が世界一周航海(コペンハーゲン,ケープタウン,ジャカルタ,シンガポール,ロサンゼルス,パナマなど)で、大阪港天保山岸壁に寄港した歓迎会に参加。同帆船には男女含めて1,000人ほどが乗務。消防艇による歓迎カラー放水,大阪市長による歓迎あいさつ,和太鼓による歓迎演奏などの後、停泊中の同船に見学乗船した際には、乗組員と久し振りにポーランド語で談笑した(片言ではあるが)。 同船は大阪港へ過去2回(1983年 大阪世界帆船まつり,1997年 SAIL OーSAKA‘97)寄港しており、1983年には家内と見学に訪れて,日本ポーランド協会(関西センター)の存在を知り 家族会員となり、ポーランドに大きな関心と興味を持つきっかけとなった。
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[ポーランド独立回復100周年記念イベント-2]
また 大阪梅田のグランフロント大阪での、「ピウスツキ号の世界をVRで体験」および「独立回復運動家ドキュメンタリー映画上映会」に参加。
1.ポーランドのタイタニックと呼ばれる大西洋横断客船「ピウスツキ号」(MS Piłsudski ;1939年に北海の海底約30mに沈没)の世界をVR(バーチャル・リアリティ)で体験。
2.国際的に有名な映画監督ヴァルデマル・チェホフスキWaldemar Czechowskiが来場し、ポーランドの独立回復運動家で、アイヌ民族の研究家でもあるブロニスワフ・ピウスツキ Bronisław Piotr Piłsudski* に関してのドキュメンタリー映画「ピウスツキ・ブロニスワフ-流刑囚、民族学者、英雄」の上映とトークショーが行なわれた。
* 2018年5月17日で、ブロニスワフ・ピウスツキの没後100年となった。1887年 サンクトペテルブルク大学の法学部の学生であった時、時のロシア皇帝 アレクサンドル3世暗殺計画に連座して、シベリアに次ぐ樺太(サハリン)島に流刑となった。 刑期を終えた後にサハリン島南部に移動し、民俗学の研究をする一方で アイヌ民族の教育にも関わった。その集落でアイヌ女性と結婚して一男一女をもうけるが、わずか二年ほどで離別を迎える(その子孫は現在も日本で生活している)。 その後ポーランドへ戻り、欧州を転々としながらパリにいて、弟のユゼフ・ピウスツキ(独立後のポーランド共和国の初代国家元首)と協力して ポーランド独立運動に携わった。 文字を持たないアイヌの文化の伝承は口承に頼らざるを得ず、ブロニスワフ・ピウスツキが蝋管蓄音機を使って記録したアイヌの言語,音楽,収集品そして写真は、現在でも貴重な資料として高く評価されている。 北海道の白老町には、2013年にポーランド共和国政府から贈られた彼の胸像が設置されている。アイヌの文化を忘却から救った民族学者というポーランド人が居たと いう事実は、今回初めて知ったのであるが、ダル・ムウォジェジ号の寄港とも合わせ、いずれも興味深いイベントだった。
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[ポーランド独立回復100周年記念イベント-3]
兵庫県立美術館では、「知られざる日本とポーランドの友好の絆-ポーランドのシベリア孤児と神戸・大阪」というタイトルで シンポジウムが開かれ、大阪と神戸を舞台とした日本とポーランドの深い友好の歴史が紹介された。 概要は以下の如し。
「ロシア革命後、流刑地シベリアで悲惨な状況にあったポーランド人孤児たちは、「ポーランド救済委員会」と日本赤十字社の協力により、1920~22年にかけて敦賀港を経由して大阪(388人)と東京(375人)に迎えられ、手厚い看護と支援を受けて、それぞれ神戸港および横浜港から祖国に帰国した。別のグループはシベリア鉄道でモスクワを経て ポーランドへ帰国した とのこと。 彼らは一生 大阪・神戸の街並みや六甲の山並みを懐かしみ、感謝を忘れなかった という。一方 1995年の阪神淡路大震災の時には、彼らは被災した子供たちを何回かに亘りポーランドに招待し、自宅に滞在させる等で 温かくもてなしてくれた。」
☆ 詳細は、別途 クチコミの 「何故ポーランド人はそれほど親日的なのか」 を参照されたい。
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[日本ポーランド協会]
初めてリビアでポーランド人と接して以来40年近くなるが、今後とも家族共々 日本ポーランド協会(関西センター)運営のお手伝いをしながら、ポーランドに強い関心を持ち続けたい と思っているところ。 ポーランドから日本の大学院へは多く留学しており(修士論文に 有馬温泉や宝塚歌劇を選択する人たちも居る)、当協会は彼らに奨学金を付与する代わりに、定期的にセミナーでポーランドの種々の風習などの講演(彼らはきれいな日本語を話す)をしてもらっている。
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