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[「世界で暮らす」 お話し会]<br /><br />   在日中は、主に滞在した開発途上の国々で入手した現地語版の日本の漫画本(ドラエモンやワンピースなど)を 小学校の教室の図書室に寄贈したり、同時に それぞれの現地の状況を 小学生たちを対象に、収集した各種宝石類の原石やアンモナイト等の化石を見せたりしながら紹介する 「世界で暮らす」 と題するお話し会を 継続的に実施中(我が国とはひと味もふた味も異なる 海外の様子や外国語に興味を持ってもらうため)。 「同じ地球なのに、いろんな暮らし方や文<br />化があることを知って びっくりした」とか、「色々な宝石の原石を触れてよかった」、…… の感想があり、大いに楽しんでもらい また重宝されている。 いきいきセカンドライフを実践する中高年者対象の 「長岡京市民大学」 等にも参画し、滞在した開発途上国の様子や学んだ教訓など を紹介して、好評を博している。<br /><br />*1968年に大学院の工学研究科 修士課程を修了後、モノを作り出すことに より大きな喜びを感じることができるのでは……という思いから就職した総合建設コンサルタント会社では、土木技術者として 海外を含め(復帰前の沖縄?,リビア,インドネシア,台湾等に滞在) 建築技術者たちと協力しながら、公共・民間を問わずさまざまなプロジェクトの計画,設計,調査,施工監理業務などに携わってきた。<br /><br />定年退職後には、それまで培ってきた技術や知識,経験を積極的に開発途上国に移転することで、かの国の発展(人づくり,国づくり)に寄与でき、かつ自分の専門が現地で活かせる悦びを実感することができる との思いで、JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)に応募して、カンボジア(教育機関で土木工学指導;2003~2005年)および南部アフリカのマラウイ(ダイヤモンド探査指導および宝石類や非金属鉱物の調査とそれらの同国経済への利用・発展への提言;2006年~2009年)に 計4年半ほど赴任した。 また、在籍していた建設コンサルタント会社との委託契約で、サウジアラビア,ベトナム,ミャンマーに、さらにNPOとの委託契約によって、中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダ および インドネシアからの独立間もない新興国 東ティモール に滞在した。<br />  アフリカや中東 アジア等の通常の旅行者があまり訪れない開発途上国に滞在し、この貴重な交流体験や得た教訓等を 当方のみで持っておくのはもったいない と思い、その都度 中学校や高校それに大学他の多くの友人たちにメールで伝え、それなりの反応があった。 <br /><br />☆ 詳細は、別途掲載している 旅行記/写真/クチコミ(随時更新中) 他を参照されたい。

「世界で暮らす」 お話し会

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1971/11/01 - 2018/08/15

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タケ

タケさん

[「世界で暮らす」 お話し会]

在日中は、主に滞在した開発途上の国々で入手した現地語版の日本の漫画本(ドラエモンやワンピースなど)を 小学校の教室の図書室に寄贈したり、同時に それぞれの現地の状況を 小学生たちを対象に、収集した各種宝石類の原石やアンモナイト等の化石を見せたりしながら紹介する 「世界で暮らす」 と題するお話し会を 継続的に実施中(我が国とはひと味もふた味も異なる 海外の様子や外国語に興味を持ってもらうため)。 「同じ地球なのに、いろんな暮らし方や文
化があることを知って びっくりした」とか、「色々な宝石の原石を触れてよかった」、…… の感想があり、大いに楽しんでもらい また重宝されている。 いきいきセカンドライフを実践する中高年者対象の 「長岡京市民大学」 等にも参画し、滞在した開発途上国の様子や学んだ教訓など を紹介して、好評を博している。

*1968年に大学院の工学研究科 修士課程を修了後、モノを作り出すことに より大きな喜びを感じることができるのでは……という思いから就職した総合建設コンサルタント会社では、土木技術者として 海外を含め(復帰前の沖縄?,リビア,インドネシア,台湾等に滞在) 建築技術者たちと協力しながら、公共・民間を問わずさまざまなプロジェクトの計画,設計,調査,施工監理業務などに携わってきた。

定年退職後には、それまで培ってきた技術や知識,経験を積極的に開発途上国に移転することで、かの国の発展(人づくり,国づくり)に寄与でき、かつ自分の専門が現地で活かせる悦びを実感することができる との思いで、JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)に応募して、カンボジア(教育機関で土木工学指導;2003~2005年)および南部アフリカのマラウイ(ダイヤモンド探査指導および宝石類や非金属鉱物の調査とそれらの同国経済への利用・発展への提言;2006年~2009年)に 計4年半ほど赴任した。 また、在籍していた建設コンサルタント会社との委託契約で、サウジアラビア,ベトナム,ミャンマーに、さらにNPOとの委託契約によって、中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダ および インドネシアからの独立間もない新興国 東ティモール に滞在した。
アフリカや中東 アジア等の通常の旅行者があまり訪れない開発途上国に滞在し、この貴重な交流体験や得た教訓等を 当方のみで持っておくのはもったいない と思い、その都度 中学校や高校それに大学他の多くの友人たちにメールで伝え、それなりの反応があった。

☆ 詳細は、別途掲載している 旅行記/写真/クチコミ(随時更新中) 他を参照されたい。

  • [「世界で暮らす」お話し会]<br /><br />   小学生たちを対象に、訪れた海外各地で撮った写真や動画映像,音楽 それに現地で入手した各種宝石類の原石やアンモナイトの化石等を見せたりしながら紹介するお話し会を、継続的に実施中(我が国とはひと味もふた味も異なる海外の様子や外国語に興味を持ってもらうため)。 「同じ地球なのに、いろんな暮らし方や文化があることを知ってびっくりした」とか、「色々な宝石の原石を触れてよかった」、…… の感想があり、大いに楽しんでもらい、また重宝されている。 <br />

    [「世界で暮らす」お話し会]

    小学生たちを対象に、訪れた海外各地で撮った写真や動画映像,音楽 それに現地で入手した各種宝石類の原石やアンモナイトの化石等を見せたりしながら紹介するお話し会を、継続的に実施中(我が国とはひと味もふた味も異なる海外の様子や外国語に興味を持ってもらうため)。 「同じ地球なのに、いろんな暮らし方や文化があることを知ってびっくりした」とか、「色々な宝石の原石を触れてよかった」、…… の感想があり、大いに楽しんでもらい、また重宝されている。

  • [現地語版の日本の漫画本]<br /><br />   <br />小学校では 学童保育指導員のアルバイトを続けており、滞在した国々で入手した現地語版の日本の漫画本(ドラエモンやワンピースなど)を、その都度 それぞれの教室の図書室に寄贈している。<br />

    [現地語版の日本の漫画本]


    小学校では 学童保育指導員のアルバイトを続けており、滞在した国々で入手した現地語版の日本の漫画本(ドラエモンやワンピースなど)を、その都度 それぞれの教室の図書室に寄贈している。

  • [「長岡京市民大学」でのお話し会]<br /><br />   いきいきセカンドライフを実践する 中高年者対象の「長岡京市民大学」等にも参画し、『 開発途上の国々での活動体験』と題して、滞在した開発途上国の様子や学んだ教訓などを紹介して、好評を博している。<br />

    [「長岡京市民大学」でのお話し会]

    いきいきセカンドライフを実践する 中高年者対象の「長岡京市民大学」等にも参画し、『 開発途上の国々での活動体験』と題して、滞在した開発途上国の様子や学んだ教訓などを紹介して、好評を博している。

  • [復帰前の沖縄(1971~72年)]<br /><br />  台風によるプラント施設の被害状況調査や レジャーランド設立の可能性調査 等で 数回訪沖した。 ときの琉球政府他の担当者や琉球大学の先生たちと協議して、各種資料を入手したりした(この資料をもとに「沖縄の地盤」と題する報告を土木学会誌に投稿*)。 日本からは国際電話で通話し、米㌦と特別のビザをもって訪問。 毎回 Tボーン・ステーキを食べられるのが楽しみだった。 大勢の米国人たちが居住するコザ市(現 沖縄市)内のホテルの部屋は、天井がひどく高かったのを覚えている。 どこを歩いていたのかは 定かではないけれども、サトウキビを収穫していた人から 2~3本もらって、新鮮で甘かったことを懐かしく想い出す。 当時、首里には守礼の門はあったが、先日焼失した 往時の王宮が整備された首里城は無かった。 <br />1978年7月30日に 一斉に自動車の車線変更(右側通行→左側通行)が実施された(ナナサンマル)。<br /><br />*1971年に現地踏査,土質調査を目的として、復帰前の沖縄を訪れた機会を利用して、滞在期間中 できるかぎりの資料収集に努め、またその後入手した資料をも含めて整理して投稿した。 とくに沖縄本島南部に広く分布する島尻層群の諸性質および地下水を含めた水資源について述べた。 この島尻層群を含めて沖縄諸島の地質・土質に関して、特に土質工学的性質に関しては、当時 研究の緒についたばかりで、なお不明の点も数多く残されていた。 復帰後も依然として本土と沖縄との間に横たわる断層はぬぐうべくもなく、沖縄のことをより深く学び、正しく理解したうえで、その開発に参加することの必要性が痛感されたものである(大きく様変わりしているであろう復帰後の沖縄には 未だに行けていない)。<br />[主な資料入手先] 琉球大学土木工学科/農業工学科,琉球政府建設局,那覇市役所土木課,琉球電力公社,琉球水道公社,設計コンサルタント会社 他]<br /><br />

    [復帰前の沖縄(1971~72年)]

    台風によるプラント施設の被害状況調査や レジャーランド設立の可能性調査 等で 数回訪沖した。 ときの琉球政府他の担当者や琉球大学の先生たちと協議して、各種資料を入手したりした(この資料をもとに「沖縄の地盤」と題する報告を土木学会誌に投稿*)。 日本からは国際電話で通話し、米㌦と特別のビザをもって訪問。 毎回 Tボーン・ステーキを食べられるのが楽しみだった。 大勢の米国人たちが居住するコザ市(現 沖縄市)内のホテルの部屋は、天井がひどく高かったのを覚えている。 どこを歩いていたのかは 定かではないけれども、サトウキビを収穫していた人から 2~3本もらって、新鮮で甘かったことを懐かしく想い出す。 当時、首里には守礼の門はあったが、先日焼失した 往時の王宮が整備された首里城は無かった。
    1978年7月30日に 一斉に自動車の車線変更(右側通行→左側通行)が実施された(ナナサンマル)。

    *1971年に現地踏査,土質調査を目的として、復帰前の沖縄を訪れた機会を利用して、滞在期間中 できるかぎりの資料収集に努め、またその後入手した資料をも含めて整理して投稿した。 とくに沖縄本島南部に広く分布する島尻層群の諸性質および地下水を含めた水資源について述べた。 この島尻層群を含めて沖縄諸島の地質・土質に関して、特に土質工学的性質に関しては、当時 研究の緒についたばかりで、なお不明の点も数多く残されていた。 復帰後も依然として本土と沖縄との間に横たわる断層はぬぐうべくもなく、沖縄のことをより深く学び、正しく理解したうえで、その開発に参加することの必要性が痛感されたものである(大きく様変わりしているであろう復帰後の沖縄には 未だに行けていない)。
    [主な資料入手先] 琉球大学土木工学科/農業工学科,琉球政府建設局,那覇市役所土木課,琉球電力公社,琉球水道公社,設計コンサルタント会社 他]

  • [リビア 滞在(1980年)]<br /><br />  アッサラーム・アライクム(こんにちわ) !!<br /><br />  砂漠の中でのセメント工場建設 という現場で、 ボーリング機械の周りに群れる羊たち/朝夕通りかかる地元民/現場でのカダフィ演説の定礎式後(TV中継もされていた)。<br /><br />☆ 初めての海外業務で二回にわたり4ケ月あまり滞在したリビア(リビア・アラブ<br />    社会主義人民ジャマヒリア)は特殊な政治体制で、当時一般の情報は身近にはほ<br />    とんど無くて、在日大使館(リビア人民事務所と呼ばれていた)に問い合わせ<br />    ても日本人は居なく、要領不明状態だった。 たまたま従兄がアラブに造詣の<br />    深い当時の参議院議員 山口(大鷹)淑子さん(往時の女優 李香蘭;佐賀県<br />    出身で中国育ち。ご主人が外交官で・結婚当初はミャンマーのヤンゴンで暮らして<br />    いたとのこと;「誰も書かなかったアラブ」の著書あり)の秘書をしていたの<br />    で、参議院会館にある部屋を訪ねた。 山口さん本人は不在だったが、リビア<br />    に関する種々の資料のコピーを受け取り、またカダフィの伝記(フランス語版)を借り<br />    たりした。 後日 山口さん自筆の在リビア日本国大使への紹介状も受け取っ<br />    た(現実には使うことはなかったが…)。 <br />    砂漠の中でのセメント工場建設という業務で、厳格なイスラム圏で 私服の秘密警<br />    察等にいつも監視されているという感じ、ときの最高指導者 カダフィ大佐(<br />    当方と同い年で 定礎式に来現;一週間ほど前から銃を持った大勢の警備<br />    員たちが周辺を厳重に警備しており、本人が実際に来るかは リビア政府担<br />    当者にも分からなかったが、ファーター(“夜明け”という意),ファーター,…… とこ<br />    ぶしを振り上げる群衆の大歓声に迎えられて現れたのは まさしくカダフィ<br />    本人だった。 その言動から世界中から命を狙われており、「日本人はO.K.<br />    」とのことで、最前列に陣取って カメラを構えた時には即刻止められたが、T<br />    V中継車で生撮影されていたアラビア語での5分間ほどのスピーチの内容は秘か<br />   に録音することが出来た。 事後、車の助手席に乗りこんで、あっという間<br />   に立ち去った)率いる独裁政権で、全くの縦割り行政組織、反米一色のため<br />   街中の道路標識や看板等は数字も含めて全てアラビア語のみで、街中ではアラ<br />   ビア語しか通じない、女性は眼だけを出したベールを被っており 男性とは眼<br />   を合わせない、市場等での買い物客は男性ばかり(もちろん売り手も)、当<br />   時はファックスが普及していなくて、日本との通信手段はテレックスに頼らざるを得<br />   ない、一ケ月近くにもおよぶ断食(ラマダン)も体験 等々 日本の常識とは全く<br />   かけ離れた特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、大した<br />   病気もせず、食事はお世辞にも満足すべきものとは言えなかったけれども<br />   健康に特に問題無く、以降の海外滞在の貴重な原点となった(現場では仮の<br />   運転免許証を発行してもらい、自分で車を運転して通っていた)。 <br />   帰途 空港のカウンターでは、現場周辺で採取した試験用の土や岩や水のサンプルが<br />   引っかかり 没収されそうになったが、リビア政府から 調査用ということで <br />   予めもらっていた「持ち出し承認書」を手渡すと 急に態度が変わり、それま<br />   で乱雑につまみ出していたものまで慇懃にカバンの中へ入れ直してくれた(<br />   このあたりがいかにも形式を重んじる社会主義国らしくて おかしかった)。 <br />   なお当方の帰国後、ときのレーガン大統領率いる米国が カダフィの住まいをミサイル<br />   攻撃したが、もぬけの空だった(彼の居住地は常に秘密で、頻繁に砂漠の中<br />   のテント等に移動していたらしい)。 <br />   2011年のリビア内戦で カダフィが生地スルトで殺害され(「撃たないでくれ」 と<br />   手で制する彼の動画が 当時のTVで放映された)、42年間続いた政権は崩<br />   壊した。 以降、内戦が頻発して 政治の空白が続いているため、現在同国へ<br />   の入国は大きく制限されている。<br /><br />  シュクラン(ありがとう) !!<br />

    [リビア 滞在(1980年)]

    アッサラーム・アライクム(こんにちわ) !!

    砂漠の中でのセメント工場建設 という現場で、 ボーリング機械の周りに群れる羊たち/朝夕通りかかる地元民/現場でのカダフィ演説の定礎式後(TV中継もされていた)。

    ☆ 初めての海外業務で二回にわたり4ケ月あまり滞在したリビア(リビア・アラブ
    社会主義人民ジャマヒリア)は特殊な政治体制で、当時一般の情報は身近にはほ
    とんど無くて、在日大使館(リビア人民事務所と呼ばれていた)に問い合わせ
    ても日本人は居なく、要領不明状態だった。 たまたま従兄がアラブに造詣の
    深い当時の参議院議員 山口(大鷹)淑子さん(往時の女優 李香蘭;佐賀県
    出身で中国育ち。ご主人が外交官で・結婚当初はミャンマーのヤンゴンで暮らして
    いたとのこと;「誰も書かなかったアラブ」の著書あり)の秘書をしていたの
    で、参議院会館にある部屋を訪ねた。 山口さん本人は不在だったが、リビア
    に関する種々の資料のコピーを受け取り、またカダフィの伝記(フランス語版)を借り
    たりした。 後日 山口さん自筆の在リビア日本国大使への紹介状も受け取っ
    た(現実には使うことはなかったが…)。
    砂漠の中でのセメント工場建設という業務で、厳格なイスラム圏で 私服の秘密警
    察等にいつも監視されているという感じ、ときの最高指導者 カダフィ大佐(
    当方と同い年で 定礎式に来現;一週間ほど前から銃を持った大勢の警備
    員たちが周辺を厳重に警備しており、本人が実際に来るかは リビア政府担
    当者にも分からなかったが、ファーター(“夜明け”という意),ファーター,…… とこ
    ぶしを振り上げる群衆の大歓声に迎えられて現れたのは まさしくカダフィ
    本人だった。 その言動から世界中から命を狙われており、「日本人はO.K.
    」とのことで、最前列に陣取って カメラを構えた時には即刻止められたが、T
    V中継車で生撮影されていたアラビア語での5分間ほどのスピーチの内容は秘か
    に録音することが出来た。 事後、車の助手席に乗りこんで、あっという間
    に立ち去った)率いる独裁政権で、全くの縦割り行政組織、反米一色のため
    街中の道路標識や看板等は数字も含めて全てアラビア語のみで、街中ではアラ
    ビア語しか通じない、女性は眼だけを出したベールを被っており 男性とは眼
    を合わせない、市場等での買い物客は男性ばかり(もちろん売り手も)、当
    時はファックスが普及していなくて、日本との通信手段はテレックスに頼らざるを得
    ない、一ケ月近くにもおよぶ断食(ラマダン)も体験 等々 日本の常識とは全く
    かけ離れた特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、大した
    病気もせず、食事はお世辞にも満足すべきものとは言えなかったけれども
    健康に特に問題無く、以降の海外滞在の貴重な原点となった(現場では仮の
    運転免許証を発行してもらい、自分で車を運転して通っていた)。
    帰途 空港のカウンターでは、現場周辺で採取した試験用の土や岩や水のサンプルが
    引っかかり 没収されそうになったが、リビア政府から 調査用ということで
    予めもらっていた「持ち出し承認書」を手渡すと 急に態度が変わり、それま
    で乱雑につまみ出していたものまで慇懃にカバンの中へ入れ直してくれた(
    このあたりがいかにも形式を重んじる社会主義国らしくて おかしかった)。
    なお当方の帰国後、ときのレーガン大統領率いる米国が カダフィの住まいをミサイル
    攻撃したが、もぬけの空だった(彼の居住地は常に秘密で、頻繁に砂漠の中
    のテント等に移動していたらしい)。
    2011年のリビア内戦で カダフィが生地スルトで殺害され(「撃たないでくれ」 と
    手で制する彼の動画が 当時のTVで放映された)、42年間続いた政権は崩
    壊した。 以降、内戦が頻発して 政治の空白が続いているため、現在同国へ
    の入国は大きく制限されている。

    シュクラン(ありがとう) !!

  • [地中海をバックに残るローマ遺跡「レプティス・マグナ」(リビア;1980年)]<br /><br />   同国は往時 古代ローマ帝国の一部で、アフリカ初のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスを輩出した。 円形劇場をはじめ 地中海沿いに数多くの都市遺跡が残っている(ユネスコの世界遺産に登録 ; リビアには観光という慣習があまり無いので 中は心細くなるほど静か ; 入場料 100ディルハム ≒ 80円)。<br />

    [地中海をバックに残るローマ遺跡「レプティス・マグナ」(リビア;1980年)]

    同国は往時 古代ローマ帝国の一部で、アフリカ初のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスを輩出した。 円形劇場をはじめ 地中海沿いに数多くの都市遺跡が残っている(ユネスコの世界遺産に登録 ; リビアには観光という慣習があまり無いので 中は心細くなるほど静か ; 入場料 100ディルハム ≒ 80円)。

  • [ポーランド人たちとの繋がり(1980年~)]<br /><br />  ジェン・ドブリィ(こんにちは) !! <br /><br />   リビアで滞在していた同じホテルには、近くの病院に政府間契約で勤めている ポーランド人の医師や薬剤師,看護婦たちが20~30人ほど泊っており、切手やコイン交換が縁で親しくなった。 現場には猛毒の黒サソリやヘビ,毒グモが居るので、痛み止めの錠剤を 彼らの勤める病院を訪ねて入手したり、のどを痛めた同僚を連れて行って診て貰ったりした(全て無料)。ロビーで ポーランド民謡「森へ行きましょう 娘さん♪ ……」を持っていたハーモニカで奏でたところ、大勢で歌いだした(ホテルのマネージャーには、イスラム圏では不可 とのことで 止められたが)。 そのうち 難解なアラビア語を覚えることはあきらめて、彼らにポーランド語を教わることにした。 あいさつや簡単な文章,果ては 発音練習用の早口言葉に至るまで、暇を見つけては ロビーや彼らの部屋で 東アフリカ産とかの美味しいお茶を飲みながら、という具合い。休日には、彼らの車(ミニバス)に乗せてもらって 近くの地中海に泳ぎに行ったりもした(ビーチは遠浅で、水は暖かく泳ぎ易い。 ちなみに イスラム圏のリビアでは 水泳という慣習が無い)。 おかげで、彼らの家族などへの手紙やお土産を託されて、帰りにポーランドに寄らざるを得なくなった(3ケ所で 10日間ほど滞在;当時 街中では英語が通じなかったが、リビアで学んだポーランド語が随分役立った…)。 <br /> <br />  ジェンクーイェン・ザ(ありがとう) !!

    [ポーランド人たちとの繋がり(1980年~)]

    ジェン・ドブリィ(こんにちは) !!

    リビアで滞在していた同じホテルには、近くの病院に政府間契約で勤めている ポーランド人の医師や薬剤師,看護婦たちが20~30人ほど泊っており、切手やコイン交換が縁で親しくなった。 現場には猛毒の黒サソリやヘビ,毒グモが居るので、痛み止めの錠剤を 彼らの勤める病院を訪ねて入手したり、のどを痛めた同僚を連れて行って診て貰ったりした(全て無料)。ロビーで ポーランド民謡「森へ行きましょう 娘さん♪ ……」を持っていたハーモニカで奏でたところ、大勢で歌いだした(ホテルのマネージャーには、イスラム圏では不可 とのことで 止められたが)。 そのうち 難解なアラビア語を覚えることはあきらめて、彼らにポーランド語を教わることにした。 あいさつや簡単な文章,果ては 発音練習用の早口言葉に至るまで、暇を見つけては ロビーや彼らの部屋で 東アフリカ産とかの美味しいお茶を飲みながら、という具合い。休日には、彼らの車(ミニバス)に乗せてもらって 近くの地中海に泳ぎに行ったりもした(ビーチは遠浅で、水は暖かく泳ぎ易い。 ちなみに イスラム圏のリビアでは 水泳という慣習が無い)。 おかげで、彼らの家族などへの手紙やお土産を託されて、帰りにポーランドに寄らざるを得なくなった(3ケ所で 10日間ほど滞在;当時 街中では英語が通じなかったが、リビアで学んだポーランド語が随分役立った…)。

    ジェンクーイェン・ザ(ありがとう) !!

  • [リビアからの帰途 ポーランドへ (1980年)]<br /><br />  以降、親日的なポーランド人たちとは 現在まで40年以上 家族ぐるみで行ったり来たりの付き合いが続いている。 また 家族会員として「日本ポーランド協会」 の運営を長年に亘りお手伝い中。 <br />ポーランド東部には、ベラルーシとの国境にまたがる 一時 絶滅危惧種だったヨーロッパ・バイソンの群れる原生林 「ビャウォヴィエジャの森 (Puszcza Białowieza)」がある ← ヨーロッパに残された最後の原生林 と言われる。<br />

    [リビアからの帰途 ポーランドへ (1980年)]

    以降、親日的なポーランド人たちとは 現在まで40年以上 家族ぐるみで行ったり来たりの付き合いが続いている。 また 家族会員として「日本ポーランド協会」 の運営を長年に亘りお手伝い中。
    ポーランド東部には、ベラルーシとの国境にまたがる 一時 絶滅危惧種だったヨーロッパ・バイソンの群れる原生林 「ビャウォヴィエジャの森 (Puszcza Białowieza)」がある ← ヨーロッパに残された最後の原生林 と言われる。

  • [日本ポーランド協会]<br /><br />   現在、家族会員として 「日本ポーランド協会」の運営を長年に亘りお手伝い中(ポーランド人の留学生たちと交流するのが楽しみ-温泉や宝塚歌劇にのめりこむ人も居り-/彼らは流暢な日本語をしゃべる ← 親日国ポーランドには 古くから日本語教室が普及していた)。

    [日本ポーランド協会]

    現在、家族会員として 「日本ポーランド協会」の運営を長年に亘りお手伝い中(ポーランド人の留学生たちと交流するのが楽しみ-温泉や宝塚歌劇にのめりこむ人も居り-/彼らは流暢な日本語をしゃべる ← 親日国ポーランドには 古くから日本語教室が普及していた)。

  • [アウシュビッツ および ヴィエリチカ]<br /><br />   ポーランドには 「ヴィエリチカ地下岩塩坑」跡や ドイツ・ナチスにより設営された 「アウシュビッツ強制収容所」跡 (オシフィエンチム市郊外) が残されている。

    [アウシュビッツ および ヴィエリチカ]

    ポーランドには 「ヴィエリチカ地下岩塩坑」跡や ドイツ・ナチスにより設営された 「アウシュビッツ強制収容所」跡 (オシフィエンチム市郊外) が残されている。

  • [アウシュヴィッツ強制収容所跡を訪問(ポーランド;1989年)]<br />  <br />   家族旅行でポーランドを訪れた際に、南部のクラクフ近くにあるアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡(現 オシフィエンチム市郊外)を訪ねた。 第二次世界大戦中の ナチス・ドイツによるユダヤ人を中心とする被害者は数百万人以上 と言われている。「ARBEIT MACHT FREI」(=働けば自由になれる) と書かれた入口を入ると、広大な敷地の中に、ガス室での死者の焼却炉や 銃殺刑に処された死の壁,それに 無惨にも多数の眼鏡や靴等が残されている。 ここは 博物館として無料で公開されており、先生に連れられた生徒たちをよく見かけた。<br />

    [アウシュヴィッツ強制収容所跡を訪問(ポーランド;1989年)]

    家族旅行でポーランドを訪れた際に、南部のクラクフ近くにあるアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡(現 オシフィエンチム市郊外)を訪ねた。 第二次世界大戦中の ナチス・ドイツによるユダヤ人を中心とする被害者は数百万人以上 と言われている。「ARBEIT MACHT FREI」(=働けば自由になれる) と書かれた入口を入ると、広大な敷地の中に、ガス室での死者の焼却炉や 銃殺刑に処された死の壁,それに 無惨にも多数の眼鏡や靴等が残されている。 ここは 博物館として無料で公開されており、先生に連れられた生徒たちをよく見かけた。

  • [ショパン(ポーランド;1989年他)]<br /><br /> ピアノの詩人ショパンは、ワルシャワの西60kmほどのところにあるジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。ワルシャワ音楽院を首席で卒業後、ウィーン・パリで演奏会を開く。ジョルジュ・サンドとの出会いと別れを経て、1849年 39才(?)で パリで死去/遺言により ワルシャワの聖十字架教会に心臓が安置されている。 毎年 夏には、ワルシャワの王宮公園内で ピアノリサイタルが開催され、大いに賑わっている。<br />  * 2001年には、オケンチエ空港が「ワルシャワ・ショパン空港」に改称された。<br />

    [ショパン(ポーランド;1989年他)]

     ピアノの詩人ショパンは、ワルシャワの西60kmほどのところにあるジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。ワルシャワ音楽院を首席で卒業後、ウィーン・パリで演奏会を開く。ジョルジュ・サンドとの出会いと別れを経て、1849年 39才(?)で パリで死去/遺言により ワルシャワの聖十字架教会に心臓が安置されている。 毎年 夏には、ワルシャワの王宮公園内で ピアノリサイタルが開催され、大いに賑わっている。
    * 2001年には、オケンチエ空港が「ワルシャワ・ショパン空港」に改称された。

  • [ポーランド人の若い家族が来日-1(京都太秦映画村;2009年)]<br /><br />  京都太秦映画村以外に、金閣寺,嵐山,天竜寺他を数日間案内し、和食も賞味してもらった(和式旅館に宿泊)。<br />*長女の名前はMaja(マヤ)で、ポーランドでもTV放映されていた 日本のアニメ<br />「みつばちマーヤの冒険」から採った とのこと。 <br />

    [ポーランド人の若い家族が来日-1(京都太秦映画村;2009年)]

    京都太秦映画村以外に、金閣寺,嵐山,天竜寺他を数日間案内し、和食も賞味してもらった(和式旅館に宿泊)。
    *長女の名前はMaja(マヤ)で、ポーランドでもTV放映されていた 日本のアニメ
    「みつばちマーヤの冒険」から採った とのこと。

  • [ポーランド人の若い家族が来日-2(金閣寺 他;2009年)]<br /><br />  右上の写真は 当時小さかった娘さん2人が成長した状況。<br />

    [ポーランド人の若い家族が来日-2(金閣寺 他;2009年)]

    右上の写真は 当時小さかった娘さん2人が成長した状況。

  • [ポーランドとは]<br /><br /> こんにちは;ジェイン・ドーブリ Dzień dobry !!<br /><br />  ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska は 国土のほとんどが 南部の一部の山岳地帯を除き平野で、バルト海に面し、森や湖など手つかずの自然が残された美しい国(「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」が語源;平均高度は173m)。 <br />面積≒312,679km2 (日本≒377,900km2),人口≒約3839万人(2019年;日本≒約1億2700万人)。<br />国民の約95%がキリスト教の敬虔なカトリック教徒。 なお 日本ポーランドととの時差は 8時間。<br />サッカー/バレボール(前回東京オリンピック時の女子バレーボールで 日本,ソ連に続く3位)/スキージャンプ男子(同京オリンピック時の90mジャンプ競技で優勝) 等のスポーツ強国。<br /><br />10世紀に国家として認知され、16~17世紀にかけてヨーロッパ最大の王国だったが、その後 ロシア,ドイツ,オーストリア等により 何度か国土が分割された。戦後の1952年 ポーランド人民共和国として国家主権を復活(「東欧」として)させ、1989年(ベルリンの壁 崩壊)に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立し、現在のポーランド共和国(大統領~首相制)となった(1919年にワルシャワ大学に日本語講座が開かれた; 1990年11月独立自主管理労組「連帯」を発足させたワレサ(ポーランド語ではワウエンサとポーランドとの国交樹立100年の記念すべき年となった。<br /><br />☆ ポーランド東部(ビャウィストクの近郊)とベラルーシ西部との国境にまたがる地区には、一時絶滅の危機に瀕したヨーロッパ・バイソンの住む原生林「ビャウォヴィエジャの森 Puszcza Białowieska」がある。 また、南部のクラクフ近郊には 広大な地下岩塩坑「ヴェエリチカ岩塩坑」がある(13世紀より採掘されていたが、1996年に廃坑となった。 全て岩塩で 精巧に造られた礼拝堂などがある-最初に登録された世界遺産のひとつ-)。<br />           * 詳細は 別途「ポーランドとのつながり」を参照のこと。<br />

    [ポーランドとは]

    こんにちは;ジェイン・ドーブリ Dzień dobry !!

    ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska は 国土のほとんどが 南部の一部の山岳地帯を除き平野で、バルト海に面し、森や湖など手つかずの自然が残された美しい国(「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」が語源;平均高度は173m)。
    面積≒312,679km2 (日本≒377,900km2),人口≒約3839万人(2019年;日本≒約1億2700万人)。
    国民の約95%がキリスト教の敬虔なカトリック教徒。 なお 日本ポーランドととの時差は 8時間。
    サッカー/バレボール(前回東京オリンピック時の女子バレーボールで 日本,ソ連に続く3位)/スキージャンプ男子(同京オリンピック時の90mジャンプ競技で優勝) 等のスポーツ強国。

    10世紀に国家として認知され、16~17世紀にかけてヨーロッパ最大の王国だったが、その後 ロシア,ドイツ,オーストリア等により 何度か国土が分割された。戦後の1952年 ポーランド人民共和国として国家主権を復活(「東欧」として)させ、1989年(ベルリンの壁 崩壊)に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立し、現在のポーランド共和国(大統領~首相制)となった(1919年にワルシャワ大学に日本語講座が開かれた; 1990年11月独立自主管理労組「連帯」を発足させたワレサ(ポーランド語ではワウエンサとポーランドとの国交樹立100年の記念すべき年となった。

    ☆ ポーランド東部(ビャウィストクの近郊)とベラルーシ西部との国境にまたがる地区には、一時絶滅の危機に瀕したヨーロッパ・バイソンの住む原生林「ビャウォヴィエジャの森 Puszcza Białowieska」がある。 また、南部のクラクフ近郊には 広大な地下岩塩坑「ヴェエリチカ岩塩坑」がある(13世紀より採掘されていたが、1996年に廃坑となった。 全て岩塩で 精巧に造られた礼拝堂などがある-最初に登録された世界遺産のひとつ-)。
    * 詳細は 別途「ポーランドとのつながり」を参照のこと。

  • [インドネシア・スマトラ島北端のアチェに滞在(1982~83年)]<br />  <br />  スラマット・シアン(こんにちわ) !!<br /><br />   業務現場の隣に設えられた 広大なパイオニア・キャンプ内に居住(世界の各地から集まった建設担当者やその家族等が 当方を含め1,000人ほど居住。 学校や映画館,プール,テニスコート,スーパーマーケット 等 種々の娯楽施設やutilityがあって、中で自活出来るようになっている)。 各国の独立記念日などの行事がしょっちゅうあるので、ダンスパーティー等にも積極的に参加して、欧米人やカナダ人,オーストラリア人,ニュージーランド人たちの家族とも親しくなり、よく彼らの家を訪れ お茶をよばれて談笑したりした。  <br />キャンプ生活者を募って、日曜日にはよく 近くにあるジャングル内で催された10kmほどのHashと呼ばれるクロスカントリーに参加して、村民と覚えたてのアチェ語(インドネシア語の方言)で会話を交わしたりして楽しんだ。 初めての参加者は氷水の洗礼を受ける。 ジャカルタから来たインドネシア人に アチェ語の通訳をしてあげたこともあった。 休日には 近くの海で魚釣りに興じた(キスがよく釣れた)。<br />   現場の事務所で業者の事務員をしていた女性が、後日 日本に数枚の結婚写真を送ってくれた。 <br /><br />☆LNG(液化天然ガス;日本および韓国向け)プラント施設地盤改良工事 他の施工監理業務で、一年間あまりアチェに滞在。 当時 特別州と呼ばれていたアチェ州はイスラム信仰が特別に強い地域で、建設機器の搬入や労働者の雇用に際しては厳しい許可制限があった。 オランダからの独立に際して日本政府が助力を惜しまなかったため、対日感情は良好。  当地には、先の第二次世界大戦終戦後も 帰国出来なかった元日本軍人も少なからず滞在しており、また &quot;見よ東海の空明けて……(^^♪(愛国行進曲)&quot; を歌いだす年配の現地人もいた。 <br />帰途時には、家族を呼び寄せて、滞在していたキャンプ地やバリ島に滞在(キャンプ地では、親しくしていたカナダ人の計らいで、キッチン付きの宿舎を用意してくれたおかげで 数日間楽しく過ごすことが出来た)。 インドネシアは賄賂王国で、バリ島の空港ではチェック・カウンターに預けたパスポートを返してくれず、別室で数人の係員から賄賂を要求されたりした(領収書を請求したら、ノートの1ページを切り取って 手書きで渡された)。 さらに、立ち寄ったマレーシアのペナン島で アリさん(大学院の同じ研究室に居たインドネシアからの真面目な留学生で、修士論文は漢字混じりの日本語で作成/北海道での研修に同行。 帰国後は マレーシアのイポーにある錫鉱業会社に勤務中;奥さんは カナダのトロント大学に留学していたインドネシア人)家族と久し振りに再会して談笑。 また アチェ現地で知りあった華僑系インドネシア人と帰国後も年賀状交換等していたが、2004年末のスマトラ島沖地震に伴う大津波で、州都バンダ・アチェを含む西海岸が甚大な被害を受けた影響で、以降連絡が取れなくなった。 <br /><br />  トゥリマカシ(ありがとう) !!

    [インドネシア・スマトラ島北端のアチェに滞在(1982~83年)]

    スラマット・シアン(こんにちわ) !!

    業務現場の隣に設えられた 広大なパイオニア・キャンプ内に居住(世界の各地から集まった建設担当者やその家族等が 当方を含め1,000人ほど居住。 学校や映画館,プール,テニスコート,スーパーマーケット 等 種々の娯楽施設やutilityがあって、中で自活出来るようになっている)。 各国の独立記念日などの行事がしょっちゅうあるので、ダンスパーティー等にも積極的に参加して、欧米人やカナダ人,オーストラリア人,ニュージーランド人たちの家族とも親しくなり、よく彼らの家を訪れ お茶をよばれて談笑したりした。
    キャンプ生活者を募って、日曜日にはよく 近くにあるジャングル内で催された10kmほどのHashと呼ばれるクロスカントリーに参加して、村民と覚えたてのアチェ語(インドネシア語の方言)で会話を交わしたりして楽しんだ。 初めての参加者は氷水の洗礼を受ける。 ジャカルタから来たインドネシア人に アチェ語の通訳をしてあげたこともあった。 休日には 近くの海で魚釣りに興じた(キスがよく釣れた)。
    現場の事務所で業者の事務員をしていた女性が、後日 日本に数枚の結婚写真を送ってくれた。

    ☆LNG(液化天然ガス;日本および韓国向け)プラント施設地盤改良工事 他の施工監理業務で、一年間あまりアチェに滞在。 当時 特別州と呼ばれていたアチェ州はイスラム信仰が特別に強い地域で、建設機器の搬入や労働者の雇用に際しては厳しい許可制限があった。 オランダからの独立に際して日本政府が助力を惜しまなかったため、対日感情は良好。 当地には、先の第二次世界大戦終戦後も 帰国出来なかった元日本軍人も少なからず滞在しており、また "見よ東海の空明けて……(^^♪(愛国行進曲)" を歌いだす年配の現地人もいた。
    帰途時には、家族を呼び寄せて、滞在していたキャンプ地やバリ島に滞在(キャンプ地では、親しくしていたカナダ人の計らいで、キッチン付きの宿舎を用意してくれたおかげで 数日間楽しく過ごすことが出来た)。 インドネシアは賄賂王国で、バリ島の空港ではチェック・カウンターに預けたパスポートを返してくれず、別室で数人の係員から賄賂を要求されたりした(領収書を請求したら、ノートの1ページを切り取って 手書きで渡された)。 さらに、立ち寄ったマレーシアのペナン島で アリさん(大学院の同じ研究室に居たインドネシアからの真面目な留学生で、修士論文は漢字混じりの日本語で作成/北海道での研修に同行。 帰国後は マレーシアのイポーにある錫鉱業会社に勤務中;奥さんは カナダのトロント大学に留学していたインドネシア人)家族と久し振りに再会して談笑。 また アチェ現地で知りあった華僑系インドネシア人と帰国後も年賀状交換等していたが、2004年末のスマトラ島沖地震に伴う大津波で、州都バンダ・アチェを含む西海岸が甚大な被害を受けた影響で、以降連絡が取れなくなった。

    トゥリマカシ(ありがとう) !!

  • [台湾人との関わり(1986年~)]<br />  <br />  ニーハオ 你好 (こんにちわ) !!<br /><br />   1986年に 数回にわたり、台湾の最南端にある墾丁(ケンディン)国家公園での開発業務に携わった。 現地での業務で協働していた台湾人の娘さんが大の宝塚歌劇ファンで、観劇のため友人と二度来日。 私事ながら、当時長女が宝塚歌劇団の月組に在籍していた-後年誕生した宙組の一期生-ので、宝塚公演と東京公演を案内した。 彼女は天海祐希(月組)のファンとかで、ちょうど娘の東京公演は天海祐希のトップ舞台であり、彼女のために事務所で天海祐希のポスターを入手することが出来た。 その後 彼女は結婚し、数年後 台北で久し振りに再会した。 家内は軽度のひざ痛で「障碍者手帳」を持っていて、台湾では 鉄道や美術館等ほとんどの公共施設が付き添い者を含めて大幅な割引料金に(時には無料に)なるので、重宝した。<br />台湾は食べ物がおいしくて、中でも「小籠包」「カラスミ」は格別。<br /><br />  シエシェ 謝謝 (ありがとう) !!<br /><br />

    [台湾人との関わり(1986年~)]

    ニーハオ 你好 (こんにちわ) !!

    1986年に 数回にわたり、台湾の最南端にある墾丁(ケンディン)国家公園での開発業務に携わった。 現地での業務で協働していた台湾人の娘さんが大の宝塚歌劇ファンで、観劇のため友人と二度来日。 私事ながら、当時長女が宝塚歌劇団の月組に在籍していた-後年誕生した宙組の一期生-ので、宝塚公演と東京公演を案内した。 彼女は天海祐希(月組)のファンとかで、ちょうど娘の東京公演は天海祐希のトップ舞台であり、彼女のために事務所で天海祐希のポスターを入手することが出来た。 その後 彼女は結婚し、数年後 台北で久し振りに再会した。 家内は軽度のひざ痛で「障碍者手帳」を持っていて、台湾では 鉄道や美術館等ほとんどの公共施設が付き添い者を含めて大幅な割引料金に(時には無料に)なるので、重宝した。
    台湾は食べ物がおいしくて、中でも「小籠包」「カラスミ」は格別。

    シエシェ 謝謝 (ありがとう) !!

  • [ベルリンを訪ねる(ドイツ;1999年~2000年)-1]<br /><br />  グーテン・ターク(こんにちわ) !!<br /><br />   1999年12月~2000年1月にかけて3週間ほど、家族旅行で真冬のバルト海沿いのドイツ/ポーランド/フィンランド/ロシアおよびエストニアを訪れた。 大晦日の夕刻に着いたドイツのベルリンでは、着陸前にライトアップされたブランデンブルク門の上を旋回するサービス飛行があった。 夕食後の街中では 盛大な花火が打ち上げられ、歩いていると 火のついた花火や爆竹があちこちから足元に投げつけられるパフォーマンスがあった(危険なので 翌年からは廃止されたそう)。 翌日の市内は、それらの残がいで覆われていた。 <br /><br />  ダンケ(ありがとう) !!<br />

    [ベルリンを訪ねる(ドイツ;1999年~2000年)-1]

    グーテン・ターク(こんにちわ) !!

    1999年12月~2000年1月にかけて3週間ほど、家族旅行で真冬のバルト海沿いのドイツ/ポーランド/フィンランド/ロシアおよびエストニアを訪れた。 大晦日の夕刻に着いたドイツのベルリンでは、着陸前にライトアップされたブランデンブルク門の上を旋回するサービス飛行があった。 夕食後の街中では 盛大な花火が打ち上げられ、歩いていると 火のついた花火や爆竹があちこちから足元に投げつけられるパフォーマンスがあった(危険なので 翌年からは廃止されたそう)。 翌日の市内は、それらの残がいで覆われていた。

    ダンケ(ありがとう) !!

  • [ベルリンを訪ねる(ドイツ;1999年~2000年)-2]<br /><br />  なお ベルリンには、壁が崩壊される直前の 1989年8月にも訪ねる機会があった。

    [ベルリンを訪ねる(ドイツ;1999年~2000年)-2]

    なお ベルリンには、壁が崩壊される直前の 1989年8月にも訪ねる機会があった。

  • [ベルリン→ポズナニ(ポーランド;2000年)]<br />  <br />  列車で ベルリンからポーランドのポズナニ(距離≒250km)へ移動。<br />

    [ベルリン→ポズナニ(ポーランド;2000年)]

    列車で ベルリンからポーランドのポズナニ(距離≒250km)へ移動。

  • [ポズナニにて(2000年)-1]<br /><br /> ジェイン・ドーブリ(こんにちは) !!<br /><br />   ポズナニは、ポーランド西部に位置するポーランド最古の都市の一つで、中世ポーランド王国の最初の首都だった。古くから商業都市として栄えてきており、文化,学術,商工業の中心地としても知られる。毎年6月上旬に行われる国際見本市の開催地にもなっている。1980年に北アフリカのリビアで知り合った内科医の家を訪ねた(家族とは知り合い済み)。 新年があけたばかりだったが、いつものように美味しいポーランド料理(赤カブ・スープ-バルシチ Barszcz-等)をご馳走になり、数日間泊めてもらった。 <br /><br />☆代表的なポーランド料理(赤カブ・スープ「バルシチ Barszcz」;ビーツのスープ/「ピ<br />エロギpierogi」; 小麦粉などでできた生地で、肉や野菜、チーズなどの具材を<br />餃子状に包んで茹でる) !!

    [ポズナニにて(2000年)-1]

    ジェイン・ドーブリ(こんにちは) !!

    ポズナニは、ポーランド西部に位置するポーランド最古の都市の一つで、中世ポーランド王国の最初の首都だった。古くから商業都市として栄えてきており、文化,学術,商工業の中心地としても知られる。毎年6月上旬に行われる国際見本市の開催地にもなっている。1980年に北アフリカのリビアで知り合った内科医の家を訪ねた(家族とは知り合い済み)。 新年があけたばかりだったが、いつものように美味しいポーランド料理(赤カブ・スープ-バルシチ Barszcz-等)をご馳走になり、数日間泊めてもらった。

    ☆代表的なポーランド料理(赤カブ・スープ「バルシチ Barszcz」;ビーツのスープ/「ピ
    エロギpierogi」; 小麦粉などでできた生地で、肉や野菜、チーズなどの具材を
    餃子状に包んで茹でる) !!

  • [ポズナニにて(2000年)-2]<br /><br />   誘われて、公営劇場でモーツアルト作成の歌劇「魔笛」を観劇したり(費用は高くないので、普段から気軽に観劇する という慣習が彼らにはあるよう)、散歩で 数重なる戦災で破壊されたまま残されている建物を見に行ったり、カラクリ時計(旧市街広場の市庁舎で 毎日12時に催される 山羊人形が何度か角を突き合わせる仕掛け;いつも見物人でいっぱい)を見物したりした。 旧交を充分温めることが出来た。<br /><br />  ジェンクーイェン・ザ(ありがとう) !!<br />

    [ポズナニにて(2000年)-2]

    誘われて、公営劇場でモーツアルト作成の歌劇「魔笛」を観劇したり(費用は高くないので、普段から気軽に観劇する という慣習が彼らにはあるよう)、散歩で 数重なる戦災で破壊されたまま残されている建物を見に行ったり、カラクリ時計(旧市街広場の市庁舎で 毎日12時に催される 山羊人形が何度か角を突き合わせる仕掛け;いつも見物人でいっぱい)を見物したりした。 旧交を充分温めることが出来た。

    ジェンクーイェン・ザ(ありがとう) !!

  • [ヘルシンキ→サンクトペテルブルク(ロシア;2000年)]<br /><br />  ワルシャワからの航空便で着いたヘルシンキ(フィンランド)の空港から鉄道中央駅まで、降りしきる雪の中をAIRPORT TAXI (YELLOW LINE)で向かい、サンクトペテルブルク行きの特急列車にようやく間にあった。 4時間ほど(≒300km)で着いたサンクトペテルブルク駅では 大音響の音楽で迎えられた(いつものことらしい)。<br />

    [ヘルシンキ→サンクトペテルブルク(ロシア;2000年)]

    ワルシャワからの航空便で着いたヘルシンキ(フィンランド)の空港から鉄道中央駅まで、降りしきる雪の中をAIRPORT TAXI (YELLOW LINE)で向かい、サンクトペテルブルク行きの特急列車にようやく間にあった。 4時間ほど(≒300km)で着いたサンクトペテルブルク駅では 大音響の音楽で迎えられた(いつものことらしい)。

  • [サンクトペテルブルクにて(ロシア;2000年)-1]<br /><br /> ズドラースト・ヴィチェ(こんにちわ) !! <br /><br />   家族旅行でサンクトペテルブルクを訪ね、「血の上の救世主教会」(ときの皇帝が爆殺)や 大河ネヴァ川に面した「エルミタージュ」(世界最大規模の美術館で世界遺産)等を探訪した。<br /><br />スパシーバ(ありがとう) !!<br />

    [サンクトペテルブルクにて(ロシア;2000年)-1]

    ズドラースト・ヴィチェ(こんにちわ) !!

    家族旅行でサンクトペテルブルクを訪ね、「血の上の救世主教会」(ときの皇帝が爆殺)や 大河ネヴァ川に面した「エルミタージュ」(世界最大規模の美術館で世界遺産)等を探訪した。

    スパシーバ(ありがとう) !!

  • [サンクトペテルブルクにて(ロシア;2000年)-2]<br /><br />   日ロ戦争に参列した「オーロラ号」や チャイコフスキーのお墓を訪ねたり、バレーの殿堂 マリインスキー劇場で、「ジゼル」を特別席で鑑賞した。 また 泊まっていたホテルで数袋のキャビアを格安で入手し、帰国後 キャビア丼を賞味した。 <br /><br />*買い物をしたり 道を尋ねたりするのに、大学(人類初の有人宇宙飛行を果たしたロシアのガガーリンが来学)で特別に単位を採っていたロシア語が役立った。<br />

    [サンクトペテルブルクにて(ロシア;2000年)-2]

    日ロ戦争に参列した「オーロラ号」や チャイコフスキーのお墓を訪ねたり、バレーの殿堂 マリインスキー劇場で、「ジゼル」を特別席で鑑賞した。 また 泊まっていたホテルで数袋のキャビアを格安で入手し、帰国後 キャビア丼を賞味した。

    *買い物をしたり 道を尋ねたりするのに、大学(人類初の有人宇宙飛行を果たしたロシアのガガーリンが来学)で特別に単位を採っていたロシア語が役立った。

  • [タリンの街並み(エストニア;2000年)]<br /><br />   サンクトペテルブルクからの夜行列車で、バルト三国の最北端エストニアの首都タリンに到着した。 今でも鮮明に覚えているが、国境を越える際の車内でのロシア当局の出国検査は聞きしに勝るものだった。4~5人の係員のノックで真夜中に寝台車の中で起こされ、散々苦労して詰め込んだスーツケースの中身を一つひとつ取り出されて、説明を求められた(お土産だと何回も言い張ってもお構いなし)。特に年配の一人がひつこくて、他の係員がもういいかげんにしておいたら…という顔をして見守っているだけだったのに、結局1時間あまり要した。他に乗客はあまり居なかったようで、この間列車は停止したまま。旧ソ連の慣習をそのまま引きずっているような雰囲気だった。エストニア側の入国検査はアッという間に終わった。<br />眠い目をこすりながら、粉雪の降る薄暗い空模様の中を駅前のインフォメーションに入る。聞けば、現在の気温は- 5℃で平年並みとのこと。フィンランド湾の最奥にある関係で大きな河(ネヴァ川)がコチコチに凍って、ダイヤモンド・ダストが見られたサンクトペテルブルクよりもかなり暖かい感じ。置いてあったパンフレットで目当てのホテルを探して係員に持っていくと、そこは高いので こちらにしておいたら と薦めてくれたホテルにトリプルで予約をする。雪道を歩いて15分ほどのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂そばにホテルは瀟洒で清潔。サウナ付きだった。 少し休んでから完全武装をして散策に出掛ける。ビデオカメラ等は寒さでバッテリーがすぐにあがってしまうため、この旅行中 常に使い捨てカイロで保温していた。雪は降ったり止んだりで、歩道の積雪は10cmほど。あちこちで雪かきのガリガリという音が聞こえる。車はかなりの速度で走っているが、事故を防ぐためか一方通行の道が多い。街の中心部に位置するライコヤ広場にある建物はどれも童話に出てくるような可愛いたたずまいで、中世にタイムスリップしたような錯覚に陥るほど(城壁に囲まれた旧市街は「タリン歴史地区」として世界遺産に登録されている)。おりしも強く降り出した薄暗い雪空が幕となり、下からライトアップされた市庁舎の尖塔が影になって、上空に映し出される様は幻想的な光景だった。繁華街(と言っても人通りはそれほど多くない)を歩いてみると、衣服店や化粧用品店等バーゲン・セール中の垢ぬけた店が多く、華やかな花屋も沢山並んでいる(値段は少々高めではあるが)。先生に連れられた小学生たちにも2回すれ違う(お誕生会の帰りだろうか、手に手に黄色い風船を持ち、誰もが鼻のてっぺんを黒く塗ったり、ヒゲを描いたりしている)。 小さなソリに子供を乗せて引っ張って歩く家族の姿もよく見かけた。買物はどこでもクレジット・カードでO.K.。デパート内の売り場は何故か撮影禁止だった。しばらく散策を楽しんだのち、今度は 広場から放射状に延びる滑りやすい石畳の坂道のひとつを登って行く。途中で子供を連れた女性に道を尋ねたところ、きれいな英語で ていねいに教えてくれた。旧ソ連とはかけ離れた穏やかな人情が感じられた。迷いながらも1時間ほど登っていったところで視界が開けて、展望台に出た。教会の尖塔や砲塔跡,家々等の屋根に降り積もった雪がライトアップに映し出されて、ここも幻想的なながめ。下の方にはかき集めた雪を運ぶトラック群の姿が見える。すぐ隣では、孫(?)を連れたおばあさんやおじいさんが 一生懸命その光景を話して教えている風。孫たち(?)も一つひとつうなずいている様子で、ほのぼのとした暖かさが伝わってくるようだった。すぐそばにはカフェやギャラリーがあり、可愛らしい風景画を思わず2枚購入。 翌朝この展望台を再訪した際には、尖塔の隙間からバルト海に浮かぶ数隻の船が眺められた。<br />そろそろお腹が空いてきたので、もう一カ所の展望台を廻って再びライコヤ広場に戻り、目をつけておいたレストラン  に入る。入った時には我々だけで 静かな音楽が流れていたが、しばらくすると中年のおばさんたちのグループ (同窓会のお流れ?)が加わって、にぎやかになった。ここのお薦めは特製のキノコ・スープとサーモンとのことで、それらを含めて夕食を注文したが、なんと言っても甘ったるい地ビールの味は 乾いたのどに優しく絶品だった。教会の鐘の音を聞きながら、雪をサクサクと踏みしめてホテルに帰り着いたのは11時過ぎで、サウナに入ってバタンキュウ。<br />北緯60度近くに位置するタリンは現在人口40万人ほどの都市で、中世にはハンザ同盟に加盟していた。フィンランドより物価が安いため、買い出しツアーがあるとか。街中のバス停等には「ベーブ都会へ行く」という当時最先端の人気映画のポスターが貼ってあったりして、2011年には「欧州文化首都」になることが決まっている。一泊のみの短い滞在だったが、楽しい想い出深い旅だった。<br />* 1988年の30万人による民謡合唱「歌の原」および1989年のリトアニア・ラトビアを含めて200万人を擁した「人間の鎖」は、非暴力による抗議活動として有名。 以来、国連のNATO,EU,WTOに順次加盟して民主化・市場経済化に努め、経済状況はバルト三国中で最も良好と言われる。また2007年には世界で初めての電子投票(インターネット)による議会選挙を実施したことで知られる。国土面積は九州とほぼ同じ、人口は130万人あまりで、一人当りのGDP≒ 17,500$(2008年)で日本の半分程度。日本は木製建具・希土類化合物・プレハブ建築物等を輸入している。ちなみにSkype(インターネットを利用する電話サービス)が開発されたのもここエストニアで、IT産業が盛ん。国花は矢車草、国鳥はツバメ。 <br />先日TVで紹介されていたが、地球の大きさ等を正確に測るために設置された(1816~1855年)三角点群は「シュトルーヴェシュの測地孤」として世界遺産に登録されており、全34ケ所のうち3ケ所がエストニア内にある。<br />

    [タリンの街並み(エストニア;2000年)]

    サンクトペテルブルクからの夜行列車で、バルト三国の最北端エストニアの首都タリンに到着した。 今でも鮮明に覚えているが、国境を越える際の車内でのロシア当局の出国検査は聞きしに勝るものだった。4~5人の係員のノックで真夜中に寝台車の中で起こされ、散々苦労して詰め込んだスーツケースの中身を一つひとつ取り出されて、説明を求められた(お土産だと何回も言い張ってもお構いなし)。特に年配の一人がひつこくて、他の係員がもういいかげんにしておいたら…という顔をして見守っているだけだったのに、結局1時間あまり要した。他に乗客はあまり居なかったようで、この間列車は停止したまま。旧ソ連の慣習をそのまま引きずっているような雰囲気だった。エストニア側の入国検査はアッという間に終わった。
    眠い目をこすりながら、粉雪の降る薄暗い空模様の中を駅前のインフォメーションに入る。聞けば、現在の気温は- 5℃で平年並みとのこと。フィンランド湾の最奥にある関係で大きな河(ネヴァ川)がコチコチに凍って、ダイヤモンド・ダストが見られたサンクトペテルブルクよりもかなり暖かい感じ。置いてあったパンフレットで目当てのホテルを探して係員に持っていくと、そこは高いので こちらにしておいたら と薦めてくれたホテルにトリプルで予約をする。雪道を歩いて15分ほどのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂そばにホテルは瀟洒で清潔。サウナ付きだった。 少し休んでから完全武装をして散策に出掛ける。ビデオカメラ等は寒さでバッテリーがすぐにあがってしまうため、この旅行中 常に使い捨てカイロで保温していた。雪は降ったり止んだりで、歩道の積雪は10cmほど。あちこちで雪かきのガリガリという音が聞こえる。車はかなりの速度で走っているが、事故を防ぐためか一方通行の道が多い。街の中心部に位置するライコヤ広場にある建物はどれも童話に出てくるような可愛いたたずまいで、中世にタイムスリップしたような錯覚に陥るほど(城壁に囲まれた旧市街は「タリン歴史地区」として世界遺産に登録されている)。おりしも強く降り出した薄暗い雪空が幕となり、下からライトアップされた市庁舎の尖塔が影になって、上空に映し出される様は幻想的な光景だった。繁華街(と言っても人通りはそれほど多くない)を歩いてみると、衣服店や化粧用品店等バーゲン・セール中の垢ぬけた店が多く、華やかな花屋も沢山並んでいる(値段は少々高めではあるが)。先生に連れられた小学生たちにも2回すれ違う(お誕生会の帰りだろうか、手に手に黄色い風船を持ち、誰もが鼻のてっぺんを黒く塗ったり、ヒゲを描いたりしている)。 小さなソリに子供を乗せて引っ張って歩く家族の姿もよく見かけた。買物はどこでもクレジット・カードでO.K.。デパート内の売り場は何故か撮影禁止だった。しばらく散策を楽しんだのち、今度は 広場から放射状に延びる滑りやすい石畳の坂道のひとつを登って行く。途中で子供を連れた女性に道を尋ねたところ、きれいな英語で ていねいに教えてくれた。旧ソ連とはかけ離れた穏やかな人情が感じられた。迷いながらも1時間ほど登っていったところで視界が開けて、展望台に出た。教会の尖塔や砲塔跡,家々等の屋根に降り積もった雪がライトアップに映し出されて、ここも幻想的なながめ。下の方にはかき集めた雪を運ぶトラック群の姿が見える。すぐ隣では、孫(?)を連れたおばあさんやおじいさんが 一生懸命その光景を話して教えている風。孫たち(?)も一つひとつうなずいている様子で、ほのぼのとした暖かさが伝わってくるようだった。すぐそばにはカフェやギャラリーがあり、可愛らしい風景画を思わず2枚購入。 翌朝この展望台を再訪した際には、尖塔の隙間からバルト海に浮かぶ数隻の船が眺められた。
    そろそろお腹が空いてきたので、もう一カ所の展望台を廻って再びライコヤ広場に戻り、目をつけておいたレストラン に入る。入った時には我々だけで 静かな音楽が流れていたが、しばらくすると中年のおばさんたちのグループ (同窓会のお流れ?)が加わって、にぎやかになった。ここのお薦めは特製のキノコ・スープとサーモンとのことで、それらを含めて夕食を注文したが、なんと言っても甘ったるい地ビールの味は 乾いたのどに優しく絶品だった。教会の鐘の音を聞きながら、雪をサクサクと踏みしめてホテルに帰り着いたのは11時過ぎで、サウナに入ってバタンキュウ。
    北緯60度近くに位置するタリンは現在人口40万人ほどの都市で、中世にはハンザ同盟に加盟していた。フィンランドより物価が安いため、買い出しツアーがあるとか。街中のバス停等には「ベーブ都会へ行く」という当時最先端の人気映画のポスターが貼ってあったりして、2011年には「欧州文化首都」になることが決まっている。一泊のみの短い滞在だったが、楽しい想い出深い旅だった。
    * 1988年の30万人による民謡合唱「歌の原」および1989年のリトアニア・ラトビアを含めて200万人を擁した「人間の鎖」は、非暴力による抗議活動として有名。 以来、国連のNATO,EU,WTOに順次加盟して民主化・市場経済化に努め、経済状況はバルト三国中で最も良好と言われる。また2007年には世界で初めての電子投票(インターネット)による議会選挙を実施したことで知られる。国土面積は九州とほぼ同じ、人口は130万人あまりで、一人当りのGDP≒ 17,500$(2008年)で日本の半分程度。日本は木製建具・希土類化合物・プレハブ建築物等を輸入している。ちなみにSkype(インターネットを利用する電話サービス)が開発されたのもここエストニアで、IT産業が盛ん。国花は矢車草、国鳥はツバメ。
    先日TVで紹介されていたが、地球の大きさ等を正確に測るために設置された(1816~1855年)三角点群は「シュトルーヴェシュの測地孤」として世界遺産に登録されており、全34ケ所のうち3ケ所がエストニア内にある。

  • [タリン→ヘルシンキ(2000年)]<br /><br />   翌日午後に、タリンン港よりフェリー(シリアライン)に乗船して バルト海を渡り、80kmほど先にあるヘルシンキに向かう。流氷をかき分けて進む船内では にぎやかな歌声が聞こえる。 顔を出してみるとなんとディスプレイにはFinn-Karaokeと表示され、太り気味の男性が 声を張り上げて歌っていた(もちろん日本語ではないが)。カラオケは、立派な日本文化輸出品なのである。何故か 船内には「GEISHA」という名のチョコレートが売られていた。 3時間あまりでライトアップされたヘルシンキのウスペンスキー大聖堂が見えてきた。アッと言う間の船旅だった。<br />ヘルシンキで レストランで予約しておいて食べた「トナカイの肉」の味は絶品だった。<br />

    [タリン→ヘルシンキ(2000年)]

    翌日午後に、タリンン港よりフェリー(シリアライン)に乗船して バルト海を渡り、80kmほど先にあるヘルシンキに向かう。流氷をかき分けて進む船内では にぎやかな歌声が聞こえる。 顔を出してみるとなんとディスプレイにはFinn-Karaokeと表示され、太り気味の男性が 声を張り上げて歌っていた(もちろん日本語ではないが)。カラオケは、立派な日本文化輸出品なのである。何故か 船内には「GEISHA」という名のチョコレートが売られていた。 3時間あまりでライトアップされたヘルシンキのウスペンスキー大聖堂が見えてきた。アッと言う間の船旅だった。
    ヘルシンキで レストランで予約しておいて食べた「トナカイの肉」の味は絶品だった。

  • [プノンペンで家族と住んでいた家(カンボジア;2003~05年)]<br /><br />   スオ・スダイ(こんにちわ)  !!  <br /><br />    JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)として赴任した首都プノンペンでは 一軒家を借り、姉妹のメイドや 銃を持ったガードマン二人 それに運転手付きの車を雇って、呼び寄せた家族と共に過ごした(外国でメイドを雇って生活し、ハンモックで昼寝をするのが長年の夢だったが、はからずもカンボジアで両方とも実現することとなった。このハンモックは今も自宅で活躍中)。 メイドには「Japanese cooking」 等の料理本を手渡して、茶わん蒸しや天ぷら,バラ寿司,味噌汁 他の日本食をよく作ってもらった。毎食後のココナッツ・ミルクをたっぷり使った手作りのカンボジア・スイーツも絶品だった。家計簿を毎日つけてもらって、チェックすることにした。 周りにはJICA関係者をはじめとする日本人も多く、また様式が異なるとはいえ同じアジア圏の仏教国で日本食レストランも数軒あり、旧宗主国がフランスだったので、フランス料理をはじめ各国の料理も手頃な値段で味わえた。日本国大使館で時折開催される日本映画の会や音楽会等のイベントに参加することでも、随分癒された。 <br />タイのバンコクには、買い出しのため 家族とともによく出掛けた。 今も所用で、毎年のように2~3週間ほどプノンペンを訪れている。 ちなみに カンボジアの通貨は米㌦である。<br /><br />   オークン(ありがとう) !!<br />

    [プノンペンで家族と住んでいた家(カンボジア;2003~05年)]

    スオ・スダイ(こんにちわ) !!

    JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)として赴任した首都プノンペンでは 一軒家を借り、姉妹のメイドや 銃を持ったガードマン二人 それに運転手付きの車を雇って、呼び寄せた家族と共に過ごした(外国でメイドを雇って生活し、ハンモックで昼寝をするのが長年の夢だったが、はからずもカンボジアで両方とも実現することとなった。このハンモックは今も自宅で活躍中)。 メイドには「Japanese cooking」 等の料理本を手渡して、茶わん蒸しや天ぷら,バラ寿司,味噌汁 他の日本食をよく作ってもらった。毎食後のココナッツ・ミルクをたっぷり使った手作りのカンボジア・スイーツも絶品だった。家計簿を毎日つけてもらって、チェックすることにした。 周りにはJICA関係者をはじめとする日本人も多く、また様式が異なるとはいえ同じアジア圏の仏教国で日本食レストランも数軒あり、旧宗主国がフランスだったので、フランス料理をはじめ各国の料理も手頃な値段で味わえた。日本国大使館で時折開催される日本映画の会や音楽会等のイベントに参加することでも、随分癒された。
    タイのバンコクには、買い出しのため 家族とともによく出掛けた。 今も所用で、毎年のように2~3週間ほどプノンペンを訪れている。 ちなみに カンボジアの通貨は米㌦である。

    オークン(ありがとう) !!

  • [教育施設にて(カンボジア;2003~05年)]<br /><br />   2003年4月から2年間滞在したカンボジアでの指導項目は「土木工学」で、首都プノンペンにある王立の教育機関(日本の高専と大学および職業訓練校を合わせたような学校)で、主に同校の教師を指導するというものだった。特に、生徒たちに土木に興味を持ってもらうためには、身近な題材を使った映像が有効だと考えて、彼らカンボジア人にとって心の拠り所といわれるアンコール遺跡を取り上げ、「アンコール遺跡修復と土木工学」というテーマで授業を実施した。NHKの&quot;プロジェクトX&quot;で放映されたアンコールワット遺跡の修復手法を、日本人の石工が現地の若者たちに厳しく伝授していく物語のビデオ(アンコールワットの巧みな水抜きの工夫を施した石積み手法 等)や、JSA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の現地事務所を訪ね、豪雨に対する水はけ等種々の工夫をこらした往時の施設の修復状況を撮影したビデオを数本借りてきてVCD化し、教材とした。 また、同じく&quot;プロジェクトX&quot;で放映された「戦場にかける橋-カンボジア日本友好橋-」(当時日本橋と呼ばれていたサップ川に架かる唯一の橋げたがポルポト率いるクメール・ルージュに破壊され、それを種々の脅しや誤解等に悩まされながらも幾多の技術的な困難をも乗り越えて、日本政府の援助で修復していく過程を描いたもの)をVCD化し、カンボジア政府の公共事業運輸省他より入手した設計図(橋長≒700m)や地盤調査記録等を加えて教材とした。この企画は非常に好評で、貸して欲しいという生徒や教師たちの依頼が相次いだ。 また赴任終盤には、大学で新設されたEngineering Geology(土木地質)の授業を受け持ち、地盤調査やそれに基づく地盤の考え方等を教示した。<br /> 当校の電気・電子工学科に比べ入試競争率が圧倒的に高い土木工学科の生徒たち(中でも何故か女生徒の割合が多い)に対して、アンケート調査を実施した。質問内容は、なぜ土木工学科を選択したのか?、将来どういう職業に就きたいか? ということで、前者については「カンボジアの発展に役立てることができる」、「給料の良い職を得やすい」、後者については、「土木技術者や土木工学の指導者」、「地方でなく、都会で職に就きたい」 等々であった。男生徒が現実的なのに対して、女生徒は「信じられない何かを作り出すことができる」、「有名な土木技術者になりたい」等 あこがれを描いて夢想的な(?)回答が多かった。法制度をはじめインフラの整備が極端に遅れている同国では、教師にとっては給料が安くて(当時の月給は20から30 USドル)副業に頼らざるを得ないので、本業に専念する時間がなかなか取れない、また生徒たちにとっては、卒業しても適切な就職先がない(知り合った現地の建設会社や設計会社等を紹介したりしたが) 等々の大きな課題を抱えていた。 測量実習や土質試験実習はまだよいとしても、埃だらけになりながら 炎天下で男生徒に混じってレンガ積み実習やタイル張り実習に励んでいる女生徒の姿を見ていると、何とかしてやらねば…という気持ちにかられたことであった。<br /> *なお当時 地雷があちこちに残っており、草むら等で子供が被害に逢うこ<br />    とが よく報じられていて、注意が盛んに喚起されていた。 校内の空き地か<br />    ら不発弾が見つかったこともあった。<br />

    [教育施設にて(カンボジア;2003~05年)]

    2003年4月から2年間滞在したカンボジアでの指導項目は「土木工学」で、首都プノンペンにある王立の教育機関(日本の高専と大学および職業訓練校を合わせたような学校)で、主に同校の教師を指導するというものだった。特に、生徒たちに土木に興味を持ってもらうためには、身近な題材を使った映像が有効だと考えて、彼らカンボジア人にとって心の拠り所といわれるアンコール遺跡を取り上げ、「アンコール遺跡修復と土木工学」というテーマで授業を実施した。NHKの"プロジェクトX"で放映されたアンコールワット遺跡の修復手法を、日本人の石工が現地の若者たちに厳しく伝授していく物語のビデオ(アンコールワットの巧みな水抜きの工夫を施した石積み手法 等)や、JSA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の現地事務所を訪ね、豪雨に対する水はけ等種々の工夫をこらした往時の施設の修復状況を撮影したビデオを数本借りてきてVCD化し、教材とした。 また、同じく"プロジェクトX"で放映された「戦場にかける橋-カンボジア日本友好橋-」(当時日本橋と呼ばれていたサップ川に架かる唯一の橋げたがポルポト率いるクメール・ルージュに破壊され、それを種々の脅しや誤解等に悩まされながらも幾多の技術的な困難をも乗り越えて、日本政府の援助で修復していく過程を描いたもの)をVCD化し、カンボジア政府の公共事業運輸省他より入手した設計図(橋長≒700m)や地盤調査記録等を加えて教材とした。この企画は非常に好評で、貸して欲しいという生徒や教師たちの依頼が相次いだ。 また赴任終盤には、大学で新設されたEngineering Geology(土木地質)の授業を受け持ち、地盤調査やそれに基づく地盤の考え方等を教示した。
    当校の電気・電子工学科に比べ入試競争率が圧倒的に高い土木工学科の生徒たち(中でも何故か女生徒の割合が多い)に対して、アンケート調査を実施した。質問内容は、なぜ土木工学科を選択したのか?、将来どういう職業に就きたいか? ということで、前者については「カンボジアの発展に役立てることができる」、「給料の良い職を得やすい」、後者については、「土木技術者や土木工学の指導者」、「地方でなく、都会で職に就きたい」 等々であった。男生徒が現実的なのに対して、女生徒は「信じられない何かを作り出すことができる」、「有名な土木技術者になりたい」等 あこがれを描いて夢想的な(?)回答が多かった。法制度をはじめインフラの整備が極端に遅れている同国では、教師にとっては給料が安くて(当時の月給は20から30 USドル)副業に頼らざるを得ないので、本業に専念する時間がなかなか取れない、また生徒たちにとっては、卒業しても適切な就職先がない(知り合った現地の建設会社や設計会社等を紹介したりしたが) 等々の大きな課題を抱えていた。 測量実習や土質試験実習はまだよいとしても、埃だらけになりながら 炎天下で男生徒に混じってレンガ積み実習やタイル張り実習に励んでいる女生徒の姿を見ていると、何とかしてやらねば…という気持ちにかられたことであった。
    *なお当時 地雷があちこちに残っており、草むら等で子供が被害に逢うこ
    とが よく報じられていて、注意が盛んに喚起されていた。 校内の空き地か
    ら不発弾が見つかったこともあった。

  • [仏前結婚式(カンボジア;2004年)]<br /><br />  隣に住む大家さん(産婦人科医)の長女の結婚式が、市長他を招待して 我が借家で盛大に行なわれた。<br />

    [仏前結婚式(カンボジア;2004年)]

    隣に住む大家さん(産婦人科医)の長女の結婚式が、市長他を招待して 我が借家で盛大に行なわれた。

  • [北朝鮮レストランにて(カンボジア;2003年~)]<br /><br /> アンニョンハセヨ(こんにちわ) !!<br /><br />  家の近くにあった北朝鮮レストラン「平壌(ピョンヤン)」によく出掛けた(来客がある度に案内。 ウエイトレスたちによる喜び組の踊りや楽器演奏等 それに日本語でのカラオケやダンスもできる。 ユッケ-生肉-が安くて美味しかった)。<br />彼女たちは基本的に敷地内で生活していて、外出は認められていない とのことで、もちろん国の体勢や生活状況等に関する話しをすることは、当時も今ももってのほか。<br /><br />  カムサハムニダ(ありがとう) !!

    [北朝鮮レストランにて(カンボジア;2003年~)]

    アンニョンハセヨ(こんにちわ) !!

    家の近くにあった北朝鮮レストラン「平壌(ピョンヤン)」によく出掛けた(来客がある度に案内。 ウエイトレスたちによる喜び組の踊りや楽器演奏等 それに日本語でのカラオケやダンスもできる。 ユッケ-生肉-が安くて美味しかった)。
    彼女たちは基本的に敷地内で生活していて、外出は認められていない とのことで、もちろん国の体勢や生活状況等に関する話しをすることは、当時も今ももってのほか。

    カムサハムニダ(ありがとう) !!

  •  [アンコールワット国際ハーフマラソンに参加 (カンボジア;2003年)]<br /><br />   毎年シエムリアップで開催されている「アンコールワット国際ハーフマラソン (五輪メダリストの有森裕子さん支援)」に、SV仲間と誘い合って参加し、幾つかのアンコール遺跡群の中を走った。 終盤に 観光客を載せた象に追い抜かれたりしたが、良い気分転換となった。<br /><br />  *	それまでにJICAのJOCV(青年海外協力隊)の隊員が参加したことがあ<br />        ったが、年長のSV(シニア海外ボランティア)が参加したのは、このときの我々7名<br />        が初めてだった。

    [アンコールワット国際ハーフマラソンに参加 (カンボジア;2003年)]

    毎年シエムリアップで開催されている「アンコールワット国際ハーフマラソン (五輪メダリストの有森裕子さん支援)」に、SV仲間と誘い合って参加し、幾つかのアンコール遺跡群の中を走った。 終盤に 観光客を載せた象に追い抜かれたりしたが、良い気分転換となった。

    * それまでにJICAのJOCV(青年海外協力隊)の隊員が参加したことがあ
    ったが、年長のSV(シニア海外ボランティア)が参加したのは、このときの我々7名
    が初めてだった。

  • [アプサラ・ダンス]<br /><br />    カンボジアで古くから伝わる宮殿舞踊の一つで、インドの神話に出てくる天女が由来とされている(アプサラは 古代ヒンドウ神話に登場する水の精で、「アンコール・ワット」の壁画にも描かれている)。アプサラ・ダンスはポルポト政権下で一時抹消されたが、その後復活された。<br />

    [アプサラ・ダンス]

    カンボジアで古くから伝わる宮殿舞踊の一つで、インドの神話に出てくる天女が由来とされている(アプサラは 古代ヒンドウ神話に登場する水の精で、「アンコール・ワット」の壁画にも描かれている)。アプサラ・ダンスはポルポト政権下で一時抹消されたが、その後復活された。

  • [各国レストラン-a(カンボジア;2003年~)]<br /><br />   プノンペンには、カンボジアをはじめ 日本,フランス,インド/ネパール,ロシア,メキシコ,ベトナム,タイ,イタリア,スペイン,ドイツ,ブラジル,中国,韓国 等々 各国のレストランが所狭しと点在しており、適正な価格で賞味出来る。 各種の日本食レストランもあり、寿司や天ぷら,お好み焼き,そば,うどん,湯豆腐,漬け物など 何でもそろっていて、カンボジアに居ることを忘れるほどである。 中でも、香川県高松出身の日本人が経営するうどん店の「讃岐うどん」の味は絶品で、何度通っても飽きることが無い。<br />

    [各国レストラン-a(カンボジア;2003年~)]

    プノンペンには、カンボジアをはじめ 日本,フランス,インド/ネパール,ロシア,メキシコ,ベトナム,タイ,イタリア,スペイン,ドイツ,ブラジル,中国,韓国 等々 各国のレストランが所狭しと点在しており、適正な価格で賞味出来る。 各種の日本食レストランもあり、寿司や天ぷら,お好み焼き,そば,うどん,湯豆腐,漬け物など 何でもそろっていて、カンボジアに居ることを忘れるほどである。 中でも、香川県高松出身の日本人が経営するうどん店の「讃岐うどん」の味は絶品で、何度通っても飽きることが無い。

  • [各国レストラン-b(カンボジア;2003年~)]<br /><br />   フランス・レストラン , インド/ネパール・レストラン(カレー,ナーン他) , ロシア・レストラン(ボルシチ,ピロシキ他)

    [各国レストラン-b(カンボジア;2003年~)]

    フランス・レストラン , インド/ネパール・レストラン(カレー,ナーン他) , ロシア・レストラン(ボルシチ,ピロシキ他)

  • [各国レストラン-c(カンボジア;2003年~)]<br /><br />  メキシコ・レストラン(タコス他), ベトナム・レストラン(フォー他), カンボジア・レストラン(アモック他)

    [各国レストラン-c(カンボジア;2003年~)]

    メキシコ・レストラン(タコス他), ベトナム・レストラン(フォー他), カンボジア・レストラン(アモック他)

  • [ネパールで開催されたセミナーに参加(2004年)]<br /><br />  ナマステ(こんにちわ) !!<br /><br />   JICA主催の自然災害削減セミナーで カンボジア恒例の 洪水被害の実態および対応策等 について報告し、同時に地元の大学教官たちの率いる ポーターや馬を帯同しての10日間ほどの地質踏査に同行して、清冽な万年雪を戴く八千m級のアンナプルナ山系(通称アンナ)を眺めながら ヒマラヤ山脈の出来方等を生で見て廻り、ネパールが地質学上の宝庫であり、インド大陸移動による造山運動によって未だに隆起しつつある ということを実感した。 道中、アンモナイトの化石を採取した。<br />  ☆ ネパールはヒンドウ-教が国教で、マニ車を回しながらお参りするチベット仏教徒や、街中でも五体投地する信徒もよく見かける。残念ながら この日 少女の生き女神クマリが 館から姿を現すことはなかった。<br /><br /> ダンニャバード(ありがとう) !!<br />

    [ネパールで開催されたセミナーに参加(2004年)]

    ナマステ(こんにちわ) !!

    JICA主催の自然災害削減セミナーで カンボジア恒例の 洪水被害の実態および対応策等 について報告し、同時に地元の大学教官たちの率いる ポーターや馬を帯同しての10日間ほどの地質踏査に同行して、清冽な万年雪を戴く八千m級のアンナプルナ山系(通称アンナ)を眺めながら ヒマラヤ山脈の出来方等を生で見て廻り、ネパールが地質学上の宝庫であり、インド大陸移動による造山運動によって未だに隆起しつつある ということを実感した。 道中、アンモナイトの化石を採取した。
    ☆ ネパールはヒンドウ-教が国教で、マニ車を回しながらお参りするチベット仏教徒や、街中でも五体投地する信徒もよく見かける。残念ながら この日 少女の生き女神クマリが 館から姿を現すことはなかった。

     ダンニャバード(ありがとう) !!

  • [ニュージーランドとオーストラリアを探訪(2004年)]<br /><br /> ハロー(こんにちわ) !!<br /><br />  カンボジアでの任国外旅行で、家族と ニュージーランド南島のフランツ・ジョセフ氷河 や オーストラリア・パース近郊の奇岩帯 ピナクル(砂丘で車がスタックして 動けなくなったりした) 等を訪れる。<br /><br /> サンキュー(ありがとう) !!<br /><br />

    [ニュージーランドとオーストラリアを探訪(2004年)]

    ハロー(こんにちわ) !!

    カンボジアでの任国外旅行で、家族と ニュージーランド南島のフランツ・ジョセフ氷河 や オーストラリア・パース近郊の奇岩帯 ピナクル(砂丘で車がスタックして 動けなくなったりした) 等を訪れる。

     サンキュー(ありがとう) !!

  • [韓国 探訪(2005年)]<br /><br /> アンニョンハセヨ(こんにちわ) !!<br /><br />   カンボジアから帰国後 家族旅行で、韓国のソウル,仁川,利川-陶芸の街-,水原-ユネスコの世界遺産に登録されている「華城」の城壁に取り囲まれた城郭都市-等を訪ね、北朝鮮との軍事境界線を訪れる「板門店ツアー」にも参画した。<br /><br /> カムサハムニダ(ありがとう) !!

    [韓国 探訪(2005年)]

    アンニョンハセヨ(こんにちわ) !!

    カンボジアから帰国後 家族旅行で、韓国のソウル,仁川,利川-陶芸の街-,水原-ユネスコの世界遺産に登録されている「華城」の城壁に取り囲まれた城郭都市-等を訪ね、北朝鮮との軍事境界線を訪れる「板門店ツアー」にも参画した。

     カムサハムニダ(ありがとう) !!

  • [サウジアラビアに滞在(2005年)]<br /><br /> アッサラーム・アライクム(こんにちわ) !!<br /><br />  紅海で寛ぐヒジャブで被った女性たち/路上でのお祈り/舗装道路を歩くラクダ/安くて美味しいドネル・ケバブ。<br /><br /> *聖地メッカの近くで紅海沿いの 石油化学プラント敷地での地盤調査施工管理<br />    業務で滞在。当地は かなりアメリカナイズされているように感じられた。 <br /><br /> シュクラン(ありがとう) !!

    [サウジアラビアに滞在(2005年)]

    アッサラーム・アライクム(こんにちわ) !!

    紅海で寛ぐヒジャブで被った女性たち/路上でのお祈り/舗装道路を歩くラクダ/安くて美味しいドネル・ケバブ。

    *聖地メッカの近くで紅海沿いの 石油化学プラント敷地での地盤調査施工管理
    業務で滞在。当地は かなりアメリカナイズされているように感じられた。

     シュクラン(ありがとう) !!

  • [ダイヤモンド探査他でアフリカ・マラウイに滞在(2006~09年)]<br /><br /> モー二(こんにちわ) !!<br /><br />  JICAのシニア海外ボランティアとして、南部アフリカ・マラウイの地質調査所他に所属。 ダイアモンド探査に際しては、事前にダイアモンド王国 ボツワナ の地質調査所を訪れて、磁気探査等による探査方法・解析要領 等の実施資料を入手し、山中で現地の地質調査所の職員たちと何度かテント生活をしながら、決して満足とは言えない食事(白いトウモロコシを団子状に蒸した「シマ」が彼らの主食)等 彼らの日常生活の一端を体験した。 日本人は当時、公用業務の場合は入国ビザ不要だった。<br />  *1 マラウイは アフリカ大地溝帯に位置する内陸国で、国土はほとんど高原上にある。 アフリ カで三番目に大きいマラウイ湖が大きな面積を占める(世界自然遺産に登録;口の中で子供を育てる というカワスズメの仲間が遊泳)。 マラウイ湖西岸に沿って地震帯および Hot spring-温泉-が点在)。 1964年にイギリスから独立以来 対外戦争や内戦を経験しておらず、「The Warm Heart of Africa(アフリカの温かい心)」という別称を持つ。<br /> *2 国連のWFP(世界食糧計画)のFight Hunger(「世界中の貧しい児童に食料を」というWalk the World)で、往復8km余り(約3時間)のWalkingに参加。参加者はざっと200人あまりだったが、他に日本人は見掛けなかった。<br /><br /> ジコモ(ありがとう) !!<br /><br />  <br /><br />

    [ダイヤモンド探査他でアフリカ・マラウイに滞在(2006~09年)]

    モー二(こんにちわ) !!

    JICAのシニア海外ボランティアとして、南部アフリカ・マラウイの地質調査所他に所属。 ダイアモンド探査に際しては、事前にダイアモンド王国 ボツワナ の地質調査所を訪れて、磁気探査等による探査方法・解析要領 等の実施資料を入手し、山中で現地の地質調査所の職員たちと何度かテント生活をしながら、決して満足とは言えない食事(白いトウモロコシを団子状に蒸した「シマ」が彼らの主食)等 彼らの日常生活の一端を体験した。 日本人は当時、公用業務の場合は入国ビザ不要だった。
    *1 マラウイは アフリカ大地溝帯に位置する内陸国で、国土はほとんど高原上にある。 アフリ カで三番目に大きいマラウイ湖が大きな面積を占める(世界自然遺産に登録;口の中で子供を育てる というカワスズメの仲間が遊泳)。 マラウイ湖西岸に沿って地震帯および Hot spring-温泉-が点在)。 1964年にイギリスから独立以来 対外戦争や内戦を経験しておらず、「The Warm Heart of Africa(アフリカの温かい心)」という別称を持つ。
    *2 国連のWFP(世界食糧計画)のFight Hunger(「世界中の貧しい児童に食料を」というWalk the World)で、往復8km余り(約3時間)のWalkingに参加。参加者はざっと200人あまりだったが、他に日本人は見掛けなかった。

     ジコモ(ありがとう) !!



  • [マラウイの宝石類(2006~09年)]<br /><br />   地元の鉱山局職員と共に 鉱物調査のためほぼ全国を踏査して廻った結果、宝石類を含む非金属鉱物資源等は大きな可能性を秘めていることが分かった。 しかしながら、これらの当国経済発展への利用を考える前に、改善すべき問題点も幾つかあることが判明した。 ヘルメットやメガネ無しで、のみやハンマー等を使って手掘りに頼っている,現場へのアクセス道路も劣悪である,また、これらの原石はほとんど国内で加工されることなく そのまま周辺のザンビアや南アフリカそれに英国他に輸出され、逆に研磨等のなされたルース(裸石)が輸入されている というのが現状で、マラウイの経済発展にはメリットが無い,また、埋蔵量200万トン以上とも目されるリン鉱石の鉱脈がありながら、加工技術が無い,投資者が居ない 等の理由で,当国の肥料工場では南アフリカからまるまる輸入した原料を使っているという現実がある。<br />その対応策として、政府の計画的かつ継続的な資金援助,系統だった鉱産物の賦存・採掘調査の必要性や、密輸入等を防止するための法制度の見直しと遵守等の改善すべき課題を提起した。<br />現場で採取した宝石の原石を含むサンプルを整理して 鉱物標本箱を作り、また当国産出の鉱物図鑑を作成して、現地ヘ渡して来た。 当国の一般の人たちへの案内書(ガイドブック)や 子供たちの学校での教材にでもなれば……と考えた。 当プロジェクトは第一段階が終ったばかりで、ことに宝石類の取り引きについては 文字どおりアンダーグラウンドの世界で、踏み込むのが困難な部分もある と思われるが、機会があれば、これまで培ってきた当地での貴重な経験・知識と人脈を活かして、今後とも何らかの形で携わっていければ‥‥と思った次第である。<br />	<br />

    [マラウイの宝石類(2006~09年)]

    地元の鉱山局職員と共に 鉱物調査のためほぼ全国を踏査して廻った結果、宝石類を含む非金属鉱物資源等は大きな可能性を秘めていることが分かった。 しかしながら、これらの当国経済発展への利用を考える前に、改善すべき問題点も幾つかあることが判明した。 ヘルメットやメガネ無しで、のみやハンマー等を使って手掘りに頼っている,現場へのアクセス道路も劣悪である,また、これらの原石はほとんど国内で加工されることなく そのまま周辺のザンビアや南アフリカそれに英国他に輸出され、逆に研磨等のなされたルース(裸石)が輸入されている というのが現状で、マラウイの経済発展にはメリットが無い,また、埋蔵量200万トン以上とも目されるリン鉱石の鉱脈がありながら、加工技術が無い,投資者が居ない 等の理由で,当国の肥料工場では南アフリカからまるまる輸入した原料を使っているという現実がある。
    その対応策として、政府の計画的かつ継続的な資金援助,系統だった鉱産物の賦存・採掘調査の必要性や、密輸入等を防止するための法制度の見直しと遵守等の改善すべき課題を提起した。
    現場で採取した宝石の原石を含むサンプルを整理して 鉱物標本箱を作り、また当国産出の鉱物図鑑を作成して、現地ヘ渡して来た。 当国の一般の人たちへの案内書(ガイドブック)や 子供たちの学校での教材にでもなれば……と考えた。 当プロジェクトは第一段階が終ったばかりで、ことに宝石類の取り引きについては 文字どおりアンダーグラウンドの世界で、踏み込むのが困難な部分もある と思われるが、機会があれば、これまで培ってきた当地での貴重な経験・知識と人脈を活かして、今後とも何らかの形で携わっていければ‥‥と思った次第である。

  • [布に描かれた絵(2006~09年)]<br /><br />  マラウイの人たちは 何でも頭の上に載せて運ぶ(井戸から水を汲みあげた女性たちは、バケツ一杯に入れた水を頭に載せて一滴もこぼさずに 坂道を登って行く-特殊能?-)/また、臼と杵で トウモロコシの実などを粉にする。<br />

    [布に描かれた絵(2006~09年)]

    マラウイの人たちは 何でも頭の上に載せて運ぶ(井戸から水を汲みあげた女性たちは、バケツ一杯に入れた水を頭に載せて一滴もこぼさずに 坂道を登って行く-特殊能?-)/また、臼と杵で トウモロコシの実などを粉にする。

  • [マラウイにて(2006~09年)]<br /><br />   9月から2ケ月ほど国中を鮮やかな紫色に染めるジャカランダの花(キリモドキ属;桜のようにチラホラと散るのではなく 塊で落ちて地面が汚れるので、マラウイ人はむしろ迷惑がっている)/ホテルの中庭で盛大に催された結婚披露宴/国民食シマ(トウモロコシの粉を蒸したもの)/女子大学生。<br />*1 滞在地は首都リロングウエから300km以上南に離れており、日本人はおろか白人に出会うことも稀で、周りは黒光りのする黒人ばかりで、その真っ只中にポツンと居る感じだった。 ある時 急にたまらなく日本語を話したくなって、彼らに日本語を教えれば良いのでは…とハッと思いつき、ホテルの従業員相手に日本語の挨拶を教えることにした。レストランのウエイターやウエイトレスたちには、注文した料理を持って来た時に、「どうぞ」-「ありがとう」-「どういたしまして」というやりとりや、レセプションの女性たちには、「行ってきます」-「行ってらっしゃい」,「ただいま」-「お帰りなさい」等の日常挨拶や日本語の数字の言い方も教えた。いずれも関西訛りのアクセントの日本語になっていたかも知れないが、こちらが思う以上に 早く正確な発音で覚えてくれた。 彼らと毎日これらを使ってやりとりすることで、随分気が楽になった。<br />*2 何と言ってもマラウイは、サバンナの雄大な自然に恵まれているうえに 治安も良いので、休みの日にはカメラ片手に周辺を歩き廻るのを楽しみにしていた。ことに8月から10月にかけて国中に咲き誇るジャカランダの花の鮮やかな紫色は忘れられない。奇妙な形をしたバオバブの樹も至る所で見られ、道路をゆっくりと横断するカメレオンを車の前窓から眺めることもあった。ちょうどホテルで停電時に、満天の星空のもとでだだっ広い芝生の中庭に乱舞する無数の蛍の群れにも感動した。 サバンナの真っ只中で360°地平線より上の天空にひしめき合う無数の星を眺めた経験も忘れられない(天然のプラネタリウム?)。<br />*3 子供の教育支援に尽力し、非営利団体「Child AFRICA」を立ち上げている歌手Misiaがマラウイに来訪 → JICAを通じて Child AFRICA と記されたT-シャツを受け取った。   <br />     ☆彼女は 今年の東京オリンピック開会式で 日本国歌「君が代」を歌った。<br />

    [マラウイにて(2006~09年)]

    9月から2ケ月ほど国中を鮮やかな紫色に染めるジャカランダの花(キリモドキ属;桜のようにチラホラと散るのではなく 塊で落ちて地面が汚れるので、マラウイ人はむしろ迷惑がっている)/ホテルの中庭で盛大に催された結婚披露宴/国民食シマ(トウモロコシの粉を蒸したもの)/女子大学生。
    *1 滞在地は首都リロングウエから300km以上南に離れており、日本人はおろか白人に出会うことも稀で、周りは黒光りのする黒人ばかりで、その真っ只中にポツンと居る感じだった。 ある時 急にたまらなく日本語を話したくなって、彼らに日本語を教えれば良いのでは…とハッと思いつき、ホテルの従業員相手に日本語の挨拶を教えることにした。レストランのウエイターやウエイトレスたちには、注文した料理を持って来た時に、「どうぞ」-「ありがとう」-「どういたしまして」というやりとりや、レセプションの女性たちには、「行ってきます」-「行ってらっしゃい」,「ただいま」-「お帰りなさい」等の日常挨拶や日本語の数字の言い方も教えた。いずれも関西訛りのアクセントの日本語になっていたかも知れないが、こちらが思う以上に 早く正確な発音で覚えてくれた。 彼らと毎日これらを使ってやりとりすることで、随分気が楽になった。
    *2 何と言ってもマラウイは、サバンナの雄大な自然に恵まれているうえに 治安も良いので、休みの日にはカメラ片手に周辺を歩き廻るのを楽しみにしていた。ことに8月から10月にかけて国中に咲き誇るジャカランダの花の鮮やかな紫色は忘れられない。奇妙な形をしたバオバブの樹も至る所で見られ、道路をゆっくりと横断するカメレオンを車の前窓から眺めることもあった。ちょうどホテルで停電時に、満天の星空のもとでだだっ広い芝生の中庭に乱舞する無数の蛍の群れにも感動した。 サバンナの真っ只中で360°地平線より上の天空にひしめき合う無数の星を眺めた経験も忘れられない(天然のプラネタリウム?)。
    *3 子供の教育支援に尽力し、非営利団体「Child AFRICA」を立ち上げている歌手Misiaがマラウイに来訪 → JICAを通じて Child AFRICA と記されたT-シャツを受け取った。
    ☆彼女は 今年の東京オリンピック開会式で 日本国歌「君が代」を歌った。

  • [任国外旅行でヴィクトリアの滝 探訪(ザンビア/ジンバブエ;2006年)]<br /><br />  ザンベジ川中流部の ザンビアとジンバブエの国境に位置するヴィクトリアの滝は、アメリカのナイアガラの滝,イグアスの滝とともに世界三大瀑布と呼ばれ、世界遺産に登録されている(高さ≒108m,幅≒2km)。 現地では、モーシ・オワ・トゥーニャ(Mosi-oa-Tunya;雷鳴のする水煙)と呼ばれている。<br /><br />  *訪れたのは渇水期(常時は 飛び散る水しぶきで 写真も撮れないほどと<br />     か)で 水量は極端に少なかったが、モーターハンググライダー(Microlight)での空<br />     中からの勇壮な眺めを満喫し、スリル満点の爽快な良い思い出となった。<br />

    [任国外旅行でヴィクトリアの滝 探訪(ザンビア/ジンバブエ;2006年)]

    ザンベジ川中流部の ザンビアとジンバブエの国境に位置するヴィクトリアの滝は、アメリカのナイアガラの滝,イグアスの滝とともに世界三大瀑布と呼ばれ、世界遺産に登録されている(高さ≒108m,幅≒2km)。 現地では、モーシ・オワ・トゥーニャ(Mosi-oa-Tunya;雷鳴のする水煙)と呼ばれている。

    *訪れたのは渇水期(常時は 飛び散る水しぶきで 写真も撮れないほどと
    か)で 水量は極端に少なかったが、モーターハンググライダー(Microlight)での空
    中からの勇壮な眺めを満喫し、スリル満点の爽快な良い思い出となった。

  • [ボツワナ/タンザニア 探訪(2006年/2008年)]<br /><br />   マラウイでの任国外旅行で、ダイアモンド王国 ボツワナ(チーターの兄弟と,ミーアキャット)/野生動物の王国 タンザニア(氷河を頂くキリマンジャロ山,車の影で休む雄ライオン)ヘ。<br /><br />* タンザニアには、人類発祥の地とされる「オルドヴァイ渓谷」があり、約180万年~<br />170万年前のものと思われる「猿人」と「ヒト」の化石が発掘されている。<br />

    [ボツワナ/タンザニア 探訪(2006年/2008年)]

    マラウイでの任国外旅行で、ダイアモンド王国 ボツワナ(チーターの兄弟と,ミーアキャット)/野生動物の王国 タンザニア(氷河を頂くキリマンジャロ山,車の影で休む雄ライオン)ヘ。

    * タンザニアには、人類発祥の地とされる「オルドヴァイ渓谷」があり、約180万年~
    170万年前のものと思われる「猿人」と「ヒト」の化石が発掘されている。

  • [南アフリカ 探訪(2007年)]<br /><br />   マラウイでの任国外旅行で、南アフリカヘ(アフリカ大陸最南端のアガラス岬,ペンギン &amp; ホエール・ウォッチング,ケープタウン 他)。

    [南アフリカ 探訪(2007年)]

    マラウイでの任国外旅行で、南アフリカヘ(アフリカ大陸最南端のアガラス岬,ペンギン & ホエール・ウォッチング,ケープタウン 他)。

  • [ウイグル族の踊り手たち(中国 新疆ウイグル自治区・トルファン;2010年)]<br /><br />  ニーハオ 你好 (こんにちわ) !! <br /><br />  2010年には、中国人の学者につけてもらったという 当方の名前 「羌(中国名 チン ; 戦国時代の五胡十六国の五胡の一つ)」 の由来をたどるべく 敦煌(娘には 敦子 という名前をつけるほど、以前から敦煌には興味があり、いつかは行ってみたい と思っていた)や新疆ウイグ自治区を含めての中国シルクロード-絲綢之路-を 二週間あまり訪れた。 敦煌の資料館では、係員から 近くに羌族の集落がある 等の説明を受けたが、時間が無くて 現実に訪れることはかなわなかった。  <br />  <br />   ☆ 往時に思いを馳せる印象深い旅で、改革開放後の目覚ましい中国の発展<br />       振りや、日本の常識とは異なる 中国人の人となりや考え方をかい間見る<br />       よい機会でもあった。<br /><br />  シエシェ 謝謝 (ありがとう) !!<br /><br />

    [ウイグル族の踊り手たち(中国 新疆ウイグル自治区・トルファン;2010年)]

    ニーハオ 你好 (こんにちわ) !! 

    2010年には、中国人の学者につけてもらったという 当方の名前 「羌(中国名 チン ; 戦国時代の五胡十六国の五胡の一つ)」 の由来をたどるべく 敦煌(娘には 敦子 という名前をつけるほど、以前から敦煌には興味があり、いつかは行ってみたい と思っていた)や新疆ウイグ自治区を含めての中国シルクロード-絲綢之路-を 二週間あまり訪れた。 敦煌の資料館では、係員から 近くに羌族の集落がある 等の説明を受けたが、時間が無くて 現実に訪れることはかなわなかった。

    ☆ 往時に思いを馳せる印象深い旅で、改革開放後の目覚ましい中国の発展
    振りや、日本の常識とは異なる 中国人の人となりや考え方をかい間見る
    よい機会でもあった。

      シエシェ 謝謝 (ありがとう) !!

  • [中国にて(2010年)]<br /><br />   絲綢之路=シルクロード=起点群像(西安;西域商人がラクダに乗ったキャラバン隊等の 巨大な石像彫刻が建造されていて、当時の面影を偲ぶことが出来る)/敦煌の街中で見掛けたシルクロード往来の壁絵/砂漠の中のオアシスとして知られる敦煌の砂丘=鳴沙山=の上から眺める月牙泉(漢代から湧き出るこの三日月形の月牙泉は,古来枯れたことが無い と言う)/甘粛省の南側に連なる祁連(キレン)山脈のみで産出される墨玉(ボクギョク)という玉石から加工される 酒泉名産の夜光杯(手にとってみると,ガラスのように透けるほど極薄に削ってあるので、原材料が石とは思えないほど軽い。姿形の小さい杯ほど、強い酒を入れて飲むのが普通 とのこと)/嘉峪関の懸壁長城跡/蘇州の刺繍絵<br />

    [中国にて(2010年)]

    絲綢之路=シルクロード=起点群像(西安;西域商人がラクダに乗ったキャラバン隊等の 巨大な石像彫刻が建造されていて、当時の面影を偲ぶことが出来る)/敦煌の街中で見掛けたシルクロード往来の壁絵/砂漠の中のオアシスとして知られる敦煌の砂丘=鳴沙山=の上から眺める月牙泉(漢代から湧き出るこの三日月形の月牙泉は,古来枯れたことが無い と言う)/甘粛省の南側に連なる祁連(キレン)山脈のみで産出される墨玉(ボクギョク)という玉石から加工される 酒泉名産の夜光杯(手にとってみると,ガラスのように透けるほど極薄に削ってあるので、原材料が石とは思えないほど軽い。姿形の小さい杯ほど、強い酒を入れて飲むのが普通 とのこと)/嘉峪関の懸壁長城跡/蘇州の刺繍絵

  • [ベトナム滞在(2012年)]<br /><br /> シン・チャオ(こんにちわ) !!<br /><br />  首都ハノイの旧市街/女性用帽子(ノンラー)製作中/ハノイ名物「つけ麺(ブンチャ)」/民族衣装アオザイを着た女性(ホーチミンにて)/街中のカラオケ店。<br /><br />   ☆ 火力発電所用地の地盤調査施工監理のため、数回に亘り ベトナムに滞在し<br />       た。 ベトナム人の平均年齢は20才台ということで、あらゆる面で これから<br />       急速に伸びようとする意欲に満ちている風に感じられた。 また、社会主<br />       義国ということを意識することはほとんど無かった。<br /><br />   カムーン(ありがとう) !!<br />

    イチオシ

    [ベトナム滞在(2012年)]

    シン・チャオ(こんにちわ) !!

    首都ハノイの旧市街/女性用帽子(ノンラー)製作中/ハノイ名物「つけ麺(ブンチャ)」/民族衣装アオザイを着た女性(ホーチミンにて)/街中のカラオケ店。

    ☆ 火力発電所用地の地盤調査施工監理のため、数回に亘り ベトナムに滞在し
    た。 ベトナム人の平均年齢は20才台ということで、あらゆる面で これから
    急速に伸びようとする意欲に満ちている風に感じられた。 また、社会主
    義国ということを意識することはほとんど無かった。

    カムーン(ありがとう) !!

  • [刺繍絵(2012年)]<br /><br />  シン・チャオ(こんにちわ) !!<br /><br /> 世界自然遺産のハロン湾/アオザイを着た女性(いづれも障碍者が製作)。<br /><br />  カムーン(ありがとう) !!

    [刺繍絵(2012年)]

    シン・チャオ(こんにちわ) !!

     世界自然遺産のハロン湾/アオザイを着た女性(いづれも障碍者が製作)。

      カムーン(ありがとう) !!

  • [ミャンマー・ヤンゴンに滞在(2013~14年)]<br /><br /> ミンガラーバー(こんにちわ) !!<br /><br />  6ケ月あまり滞在したミャンマー(旧ビルマ)では、日麺両政府による経済特区開発プロジェクト(工業団地造成工事の設計審査および施工監理業務)に携わり、現地技術職員の採用面接を担当したりもした。 ときの大統領や副大統領 それに日本の政府関係者の視察が相次ぎ、またNHK TVの取材等もあって、当該プロジェクトに対する両国の期待の大きさがうかがわれた。<br />多民族国家で、少数派イスラム教徒ロヒンギャへの圧迫や、軍政色が強い憲法 等の問題があるが、同国は敬虔な仏教国で 人々の心根は優しい。 町中では ほとんどの女性や子供たちは頬に白いタナカを付けている。<br /><br />  チェーズーティンバーデー(ありがとう) !!<br /><br />*2021年2月1日 ミャンマーで国軍が突然クーデターを起こし、アウンサンスーチー国家顧<br />   問らが拘束されて、国民民主連盟-NLD-の政権が覆された。<br />   以降 各地で大規模な人民デモや不服従運動が続いており-国軍の発砲に<br />   より多数の死者も発生-、インターネットや報道機関等の情報規制もなされてい<br />   る とのことで、早期の真の民主化を祈るばかりである。

    [ミャンマー・ヤンゴンに滞在(2013~14年)]

    ミンガラーバー(こんにちわ) !!

    6ケ月あまり滞在したミャンマー(旧ビルマ)では、日麺両政府による経済特区開発プロジェクト(工業団地造成工事の設計審査および施工監理業務)に携わり、現地技術職員の採用面接を担当したりもした。 ときの大統領や副大統領 それに日本の政府関係者の視察が相次ぎ、またNHK TVの取材等もあって、当該プロジェクトに対する両国の期待の大きさがうかがわれた。
    多民族国家で、少数派イスラム教徒ロヒンギャへの圧迫や、軍政色が強い憲法 等の問題があるが、同国は敬虔な仏教国で 人々の心根は優しい。 町中では ほとんどの女性や子供たちは頬に白いタナカを付けている。

    チェーズーティンバーデー(ありがとう) !!

    *2021年2月1日 ミャンマーで国軍が突然クーデターを起こし、アウンサンスーチー国家顧
    問らが拘束されて、国民民主連盟-NLD-の政権が覆された。
    以降 各地で大規模な人民デモや不服従運動が続いており-国軍の発砲に
    より多数の死者も発生-、インターネットや報道機関等の情報規制もなされてい
    る とのことで、早期の真の民主化を祈るばかりである。

  • [アウンサンスーチーさんを模したグッズ(2013~14年)]<br /><br />   ヤンゴンの国民民主連盟(NLD)事務所では、種々のスーチーさん関連グッズが販売されている。<br /><br />*1月4日の独立記念日に訪れた際には、党員による演説が行われ ご飯が<br /> 振る舞われていた。 <br />

    [アウンサンスーチーさんを模したグッズ(2013~14年)]

    ヤンゴンの国民民主連盟(NLD)事務所では、種々のスーチーさん関連グッズが販売されている。

    *1月4日の独立記念日に訪れた際には、党員による演説が行われ ご飯が
     振る舞われていた。

  • [ヤンゴン環状鉄道]<br /><br />    ヤンゴンには、一周約3時間(時速20kmほどで、駅の数は38)の格安の環状鉄道があって、市民たちの欠かせない足となっている(日本製の車両が多く使われており、外国人は1 US$/人で 大人気)。<br />

    [ヤンゴン環状鉄道]

    ヤンゴンには、一周約3時間(時速20kmほどで、駅の数は38)の格安の環状鉄道があって、市民たちの欠かせない足となっている(日本製の車両が多く使われており、外国人は1 US$/人で 大人気)。

  • [ウガンダ/東ティモールに滞在(2017年/2018年)]<br /><br />   中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダで、北接する南スーダンからの多くの難民支援(アルバイトで行っている学童保育教室から預かって持ってきていた30着ほどの衣服を 難民の小学生や孤児たちに贈呈(難民たちと実際に接してみると、ごく質素な生活を営みながらも 明るく陽気なふるまいで過ごしているように感じられたのが印象的)。<br />また インドネシアからの独立間もない新興国 東ティモール では、自動車検査員養成事業の現地代表として 事業の総合運営管理に携わった。 <br /><br />*ウガンダの南端部には アフリカ最大の湖「ヴィクトリア湖」があり、ナイル川の原流域<br />となっている。<br />

    [ウガンダ/東ティモールに滞在(2017年/2018年)]

    中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダで、北接する南スーダンからの多くの難民支援(アルバイトで行っている学童保育教室から預かって持ってきていた30着ほどの衣服を 難民の小学生や孤児たちに贈呈(難民たちと実際に接してみると、ごく質素な生活を営みながらも 明るく陽気なふるまいで過ごしているように感じられたのが印象的)。
    また インドネシアからの独立間もない新興国 東ティモール では、自動車検査員養成事業の現地代表として 事業の総合運営管理に携わった。

    *ウガンダの南端部には アフリカ最大の湖「ヴィクトリア湖」があり、ナイル川の原流域
    となっている。

  • [日本文化の紹介;Introduction of Japanese culture]<br /><br />   業務の合間を見つけて、現地の大学や専門学校等で 持参していた舞妓の踊りの動画,雪景色や相撲・地震被害の状況等の写真,寺社等の各種ポスター それに音楽CDなどを使って、日本の文化や風習などの紹介にも努めた(天皇の男系世襲制度の話しをした時に、それはおかしい という意見のあったのが印象的)。<br />

    [日本文化の紹介;Introduction of Japanese culture]

    業務の合間を見つけて、現地の大学や専門学校等で 持参していた舞妓の踊りの動画,雪景色や相撲・地震被害の状況等の写真,寺社等の各種ポスター それに音楽CDなどを使って、日本の文化や風習などの紹介にも努めた(天皇の男系世襲制度の話しをした時に、それはおかしい という意見のあったのが印象的)。

  • [ウクライナ関連資料]<br /><br />   先年 我が長岡京市内で、戦火(ロシアによる特別軍事行動)のウクライナのリビウからポーランドなどを転々として 日本へたどり着いた母娘のお話し会が開かれ、日本での慣れない生活のあり様や ロシアによるウクライナ侵攻に対する悲痛な思い などの説明があった。<br /> 9才の娘さんの伝統楽器「バンドウーラ」を弾きながらの歌が素晴らしく(その演奏状況は、「ウクライナ バンドウーラ アナスタシア」でWeb検索すれば 動画で楽しめる)、ウクライナの情勢を 今後とも充分注視していく必要性が強く感じられた(ウクライナの国旗は、上半分が濃い空色,下半分が黄色に近い黄土色-特産品の小麦 あるいは 国花 ヒマワリ を表している とのこと-)。<br />現在のウクライナの首都は キーウКиїв(旧ソ連領時代は キエフКиев)。<br />

    [ウクライナ関連資料]

    先年 我が長岡京市内で、戦火(ロシアによる特別軍事行動)のウクライナのリビウからポーランドなどを転々として 日本へたどり着いた母娘のお話し会が開かれ、日本での慣れない生活のあり様や ロシアによるウクライナ侵攻に対する悲痛な思い などの説明があった。
    9才の娘さんの伝統楽器「バンドウーラ」を弾きながらの歌が素晴らしく(その演奏状況は、「ウクライナ バンドウーラ アナスタシア」でWeb検索すれば 動画で楽しめる)、ウクライナの情勢を 今後とも充分注視していく必要性が強く感じられた(ウクライナの国旗は、上半分が濃い空色,下半分が黄色に近い黄土色-特産品の小麦 あるいは 国花 ヒマワリ を表している とのこと-)。
    現在のウクライナの首都は キーウКиїв(旧ソ連領時代は キエフКиев)。

  • [レストラン「キエフ」]<br /><br />   2023年10月に、高校時代同窓の「三丘13期の集い」で レストラン「キエフ」(京都祇園四条のロシア・ウクライナ料理店 ; 50数年前に 歌手 加藤登紀子の父親が開業 ー当時 家族で何回も会食ー → その後 彼女の実兄が引き継ぎ中)で会食を楽しんだ。

    [レストラン「キエフ」]

    2023年10月に、高校時代同窓の「三丘13期の集い」で レストラン「キエフ」(京都祇園四条のロシア・ウクライナ料理店 ; 50数年前に 歌手 加藤登紀子の父親が開業 ー当時 家族で何回も会食ー → その後 彼女の実兄が引き継ぎ中)で会食を楽しんだ。

  • [ミャンマー人が来日(2015年)]<br /><br />  ミンガラーバー(こんにちわ) !! <br /><br />   ミャンマー滞在時の業務仲間だった若いミャンマー人カップル(女性はThwe Thwe-トウエ・トウエ)が、旅行で来日した。 お茶会や和食等 日本の文化や風習を経験してもらうのと同時に、当方がアルバイトをしている小学校の学童保育生たちとの交流会に参加してもらい、予定時間を大幅に上回る 楽しいコミュニケーションの場を持つことが出来た(男性の方は、父親の仕事の関係で 小学校1年生から4年生まで東京で過ごしていた とのことで、きれいな日本語を話す。学童保育生との交流では ちょうど同じ学年の生徒たちだったので、ひどく懐かしく感じた と言っていた。また、女性の方から後に受け取ったメールでは、学童保育生たちは純真な心を持っていて、外国人に対して順応性があり 楽しかった と言っていた)。 <br />旧首都ヤンゴンに滞在するこのカップルは 帰国後結婚し、昨年男子が生まれた とのことで、出来れば今年3人で日本を訪れたい というメールが入っている。 <br /><br />* 銀行での現金引出しや街中での酸素ボンヘを求めての長い行列 等々 先の見えないコロナ禍と 今回の国軍によるクーデター事件 でどうなるか? 気になるところ。<br /><br />  チェーズーティンバーデー(ありがとう) !!<br />

    [ミャンマー人が来日(2015年)]

    ミンガラーバー(こんにちわ) !!

    ミャンマー滞在時の業務仲間だった若いミャンマー人カップル(女性はThwe Thwe-トウエ・トウエ)が、旅行で来日した。 お茶会や和食等 日本の文化や風習を経験してもらうのと同時に、当方がアルバイトをしている小学校の学童保育生たちとの交流会に参加してもらい、予定時間を大幅に上回る 楽しいコミュニケーションの場を持つことが出来た(男性の方は、父親の仕事の関係で 小学校1年生から4年生まで東京で過ごしていた とのことで、きれいな日本語を話す。学童保育生との交流では ちょうど同じ学年の生徒たちだったので、ひどく懐かしく感じた と言っていた。また、女性の方から後に受け取ったメールでは、学童保育生たちは純真な心を持っていて、外国人に対して順応性があり 楽しかった と言っていた)。
    旧首都ヤンゴンに滞在するこのカップルは 帰国後結婚し、昨年男子が生まれた とのことで、出来れば今年3人で日本を訪れたい というメールが入っている。

    * 銀行での現金引出しや街中での酸素ボンヘを求めての長い行列 等々 先の見えないコロナ禍と 今回の国軍によるクーデター事件 でどうなるか? 気になるところ。

    チェーズーティンバーデー(ありがとう) !!

  • [祇園・八坂神社にて(Thwe Thweと)]

    [祇園・八坂神社にて(Thwe Thweと)]

  • [祇園甲部歌舞練場での「都をどリ」鑑賞(Thwe Thweと)]

    [祇園甲部歌舞練場での「都をどリ」鑑賞(Thwe Thweと)]

  • [Thwe Thweが再来日]<br /><br /> 2023年7月に、Thwe Thweが  勤めている現地の会社の旅行で再度来日。 22日に京都で再会し、嵐山/錦市場 他を案内した。

    [Thwe Thweが再来日]

     2023年7月に、Thwe Thweが 勤めている現地の会社の旅行で再度来日。 22日に京都で再会し、嵐山/錦市場 他を案内した。

  • [台湾とポーランドから届いた賀状]<br /><br />☆開発途上国での業務に際しては、文化や風習等の違いでつまずきかけた<br />   時も当然あったが、現地の人たちの考えを尊重しながらも 主張すべきこ<br />   とは譲らず、あきらめずに辛抱強く話し合い、思い切ってやってみればそ<br />   れ相当の成果が得られる ということが分かった。 一日にひとつのこと<br />   が出来ればO.K.と割り切って、「アワテズ,アセラズ,アナドラズ そして <br /> アキラメズ」という教訓を学んだ。 <br />    * ともあれ これらの国々で生活するためには、治安と医療-自分の身は<br />        自分で守る(予防)-が問題で、またペットボトルの飲料水が不可欠 という<br />        ことを実感した。 物事を処理する際には、好奇心と集中力を持って <br />        ポジティブ(前向き)に考える ということも学んだ。 <br /><br />   これらの国に滞在していると、毎日のようになんらかの発見が有る(それ<br />   がまた楽しみでもある)が、長期間外国人と共に生活するとなると、時に<br />   はリフレッシュメント(気分転換)が不可欠となる。 現地人の結婚式に招かれたり、<br />   マラソン大会やテニスの試合に参加したり、地元の大学等でのイベントに出席した<br />   り、国内や任国外旅行に出掛けたりした。 休日には、趣味の パソコン・ミュージック<br />   に興じて、時の経つのを忘れるほどのこともあった。 頻繁に生じる停電や<br />   断水 それに時間感覚の違い 等に悩まされたり、時には日本語に飢えること<br />   もあったが、日本語の挨拶や応対方法を教えるなどして、地元住民の気さく<br />   で人なつっこいふるまい、それに 何よりも子供たちの純真な目と屈託の無<br />   い笑顔には随分癒やされた。<br />   いずれの業務も英語が主体だったが、現地でのコミュニケーションや日常業務に特に<br />   支障が出るようなことは無く(それぞれの滞在国の言葉で挨拶をすると、親<br />   密感を持ってくれる ということが分かった)、また危ない目や疾病に罹った<br />   ことも皆無で、業務は滞りなく遂行できた。<br /><br />   開発途上国に関しては以前から大きな関心と興味,好奇心を持っている。 <br />   現地に入り込んでの草の根的な模索活動を通じて、そこの実情に見合っ<br />   た被支援者の自助努力を促すような要件を見出し、確実に効果のある支<br />   援を実施する という行動が必要かつ大きな課題だと考える。これまで<br />   各地で培ってきた知識やインフラ整備他の実施状況,現地人たちとの交流体<br />   験 等を踏まえて、今後ともさらなる支援,協力活動 それに情報発信を続<br />   けたく思っているところである。<br /><br />☆ 座右の銘;可能な限り 自分の足で歩いて、眼で見て、耳で聴いて、鼻で<br />                   嗅いで、手で触って(時には口で舐めて)、体験として確かめる。<br /><br />* ひと言;<br /> 1942年6月に大阪市大正区で誕生(現在79才)。 当時は太平洋戦争中で、日頃口ずさんでいたのは「若鷲の歌」(通称 予科練の歌--ワーカイ チシオノ ヨカレンノー ナーナツボタンハ サクラニイカリー;若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 …(^^♪ -作詞 西条八十,作曲 古関裕而-)らしい(ラジオからしょっちゅう流れていたのだろう)。 家の前に幼稚園があったが 通うことは無く、昼食時によく一人で遊びに行っていて、その度に先生に我が家に連れられて来た とのこと。 小学校では 放課後によく担任の女教師の家を訪れて、紙芝居を作ったりしていた。 当時 尻無川を渡る無料の渡し舟があり(現在も運行中)、自転車とともに乗って 向かい側へよく遊びに行ったものである。 1950年(昭和25年)9月に 死者・行方不明者計500名あまりという暴風雨のジェーン台風で 街中が1m以上に浸水した際には、友達と筏を組んで、浮かんでいる樹木を集めて家に持って帰り 貴重な薪にしたことを覚えている。 小学5年時に、当時の堺市の南側にあった泉北郡高石町(現在の高石市)の府立住宅に引っ越した。 転入した村立の取石小学校は 中学校と運動場が共有で、校長が夫婦同士、春秋の農繁期になると 数日間休校となり、また各村にはダンジリがあってお祭り時には賑やかに引き廻す,運動会時には村中の人たちが集まって弁当を囲む というのどかな環境だった。 当時はハーモニカに興じており、学校では器楽部に所属。 当時 ランドセルはあまり普及していなかったようで、父が戦時中に使っていた 国防色(黄土色?)の肩掛けカバンで通学していた。<br />進学した中学校は 高石町内の海のすぐそばにある大きな博物館跡で、教室の真中に複数の太い柱がデーンとあった。 クラブは野球部に所属し、海際の運動場のすぐ横に 米進駐軍の家族が住むきれいに整備されただだっ広い芝生群があった。 ファウルボールがよく垣根を越えて中に飛びこみ、覚えたての英語で子供たちに投げ返してもらったりした。 朝夕に砂浜を走りまわって練習に励んだ。 2年になると軟式庭球(現 ソフトテニス)部に入り、砂混じりのコートで毎日 日が暮れるまで練習していた。 海は自宅から歩いて行ける距離にあったので、休みには毎日のように泳ぎに行って貝を取ったりしていた。 海に川が流れ出している所では、放課後にアサリを掘り出して、食べ終った弁当箱に詰めて 持って帰ったものである。 また、近所に当時のプロ野球「南海ホークス(現 ソフトバンク・ホークス)」の選手たちが住んでいたので、知り合いを通じてサインをもらってしていた。 軟式テニス(現 ソフトテニス)は中学2年生から続けており、堺市内の府立高校に入学後も軟式庭球部に所属して、年中 練習・試合に明け暮れた。 練習後、重い鉄製のローラーを引っ張ってコートを敷き均すのが日課だった。 体育の時間には、大阪府内随一の堺刑務所の高い塀の周りを、畑で作業する収容者たちの姿を横目に見ながら走っていた。 2年時には、学校の行事の「海での10kmの遠泳」を泳ぎきり、「和歌山までの6時間半以内での60kmのウォーキング大会」で 二番で走ったこともあった(終盤の 孝子-キョウシ-峠での5kmほどはほとんど歩いたが)。 3年の一学期には授業を休んで大阪府の大会に参加(担任の先生にはその旨断わっていたが、何故か数学の女教師に「何を考えているのか?」と叱られる)。 <br />大学では、入学式の数日前に軟式テニスコートを訪れて、何の迷いも無く 則入部手続きをした。 教養部では、年中 練習や各地での試合に明け暮れたおかげで 複数の数学の単位を落とし、学部ヘ行ってから 後輩たちとともに再授業を受ける ということもあった。 2年生からは、ESS(英会話クラブ)に入って 信州に合宿に行ったりした。 安保闘争に端を発する全共闘大学紛争で大学が封鎖され 試験が中止されたりした際にも、テニスを継続。 高石小学校で行なわれた成人式では、東京五輪を控えた大松監督率いる「東洋の魔女」女子バレーボールの苛酷な練習風景(回転レシーブ 等)を撮った映像が披露され、蔭山,岡本,森下の南海ホークス三選手のスピーチがあった(蔭山選手の豪邸が我が家の近くにあり、監督就任直後に急病で死去)。 在学中 初めて人工衛星で地球を一周したソ連(現 ロシア)のガガーリンが来校(ハラショ ハラショ ガガーリン ……の歌で歓迎),ソ連ブームもあって ロシア語に興味を持ち、単位を取得した(授業の初めには ロシア民謡「バイカル湖のほとりで」をロシア語で歌うのが通例だった)。 学部では「探査工学研究室」を選考。 学科内での「比叡山登山競争」では三位で完走。 大学院の修士課程時の夏休みには、日本海沿いの列車と青函連絡船を乗り継いで、北海道/士別での一カ月間の電気探査による銅鉱床探査に参加した(インドネシアからの留学生を含め4~5人で)。 終了後、宿泊先の農家(4km四方に隣家無し,NHK TVを観るのと たまに用意してもらえるジンギスカン焼きを食べるのが 唯一の楽しみだった)で入手したビニール布を持って、旭川~摩周湖~網走~根室~苫小牧~札幌等を10日間ほど屋外で泊まり歩いた(道中 乗り合わせたバス内で、発表されて間もない森繁久彌 作詞,作曲,歌の「知床旅情」を外国人が歌っているのを初めて耳にした)。 就職した建設コンサルタント会社には あいにく軟式庭球部は無かったので(硬式はあった)、野球部に所属し ピッチャーーを志望した。 二年目には 大阪府の設計会社部門の大会で優勝(優勝戦とのダブルヘッダーであった準決勝戦で ノーヒット・ノーランを達成)したが、グアム島への新婚旅行日と重なって、近畿大会は残念ながら欠席。 <br />海外では、時間があると リフレッシュメント(気分転換)を兼ねてよくテニスを楽しんだ。 幸いにも、開発途上の国々に滞在中も、病気にかかったり 落ちこんだりすることはほとんどなく、安全かつ安心に過ごせたのは、飽きもせず テニスを長年続けたことによって、身体的に肩,腕,腰,足などが強く鍛えられると同時に、精神的に心も大きく鍛えられたから と自負している次第である。<br />アフリカや中東,アジア等の通常の旅行者があまり訪れない開発途上国に滞在し、この貴重な交流体験や得た教訓等を 当方のみで持っておくのはもったいない と思い、その都度 中学校や高校それに大学他の多くの友人たちにメールで伝え、それなりの反応があった。<br />

    [台湾とポーランドから届いた賀状]

    ☆開発途上国での業務に際しては、文化や風習等の違いでつまずきかけた
    時も当然あったが、現地の人たちの考えを尊重しながらも 主張すべきこ
    とは譲らず、あきらめずに辛抱強く話し合い、思い切ってやってみればそ
    れ相当の成果が得られる ということが分かった。 一日にひとつのこと
    が出来ればO.K.と割り切って、「アワテズ,アセラズ,アナドラズ そして
     アキラメズ」という教訓を学んだ。
    * ともあれ これらの国々で生活するためには、治安と医療-自分の身は
    自分で守る(予防)-が問題で、またペットボトルの飲料水が不可欠 という
    ことを実感した。 物事を処理する際には、好奇心と集中力を持って
    ポジティブ(前向き)に考える ということも学んだ。

    これらの国に滞在していると、毎日のようになんらかの発見が有る(それ
    がまた楽しみでもある)が、長期間外国人と共に生活するとなると、時に
    はリフレッシュメント(気分転換)が不可欠となる。 現地人の結婚式に招かれたり、
    マラソン大会やテニスの試合に参加したり、地元の大学等でのイベントに出席した
    り、国内や任国外旅行に出掛けたりした。 休日には、趣味の パソコン・ミュージック
    に興じて、時の経つのを忘れるほどのこともあった。 頻繁に生じる停電や
    断水 それに時間感覚の違い 等に悩まされたり、時には日本語に飢えること
    もあったが、日本語の挨拶や応対方法を教えるなどして、地元住民の気さく
    で人なつっこいふるまい、それに 何よりも子供たちの純真な目と屈託の無
    い笑顔には随分癒やされた。
    いずれの業務も英語が主体だったが、現地でのコミュニケーションや日常業務に特に
    支障が出るようなことは無く(それぞれの滞在国の言葉で挨拶をすると、親
    密感を持ってくれる ということが分かった)、また危ない目や疾病に罹った
    ことも皆無で、業務は滞りなく遂行できた。

    開発途上国に関しては以前から大きな関心と興味,好奇心を持っている。
    現地に入り込んでの草の根的な模索活動を通じて、そこの実情に見合っ
    た被支援者の自助努力を促すような要件を見出し、確実に効果のある支
    援を実施する という行動が必要かつ大きな課題だと考える。これまで
    各地で培ってきた知識やインフラ整備他の実施状況,現地人たちとの交流体
    験 等を踏まえて、今後ともさらなる支援,協力活動 それに情報発信を続
    けたく思っているところである。

    ☆ 座右の銘;可能な限り 自分の足で歩いて、眼で見て、耳で聴いて、鼻で
    嗅いで、手で触って(時には口で舐めて)、体験として確かめる。

    * ひと言;
    1942年6月に大阪市大正区で誕生(現在79才)。 当時は太平洋戦争中で、日頃口ずさんでいたのは「若鷲の歌」(通称 予科練の歌--ワーカイ チシオノ ヨカレンノー ナーナツボタンハ サクラニイカリー;若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 …(^^♪ -作詞 西条八十,作曲 古関裕而-)らしい(ラジオからしょっちゅう流れていたのだろう)。 家の前に幼稚園があったが 通うことは無く、昼食時によく一人で遊びに行っていて、その度に先生に我が家に連れられて来た とのこと。 小学校では 放課後によく担任の女教師の家を訪れて、紙芝居を作ったりしていた。 当時 尻無川を渡る無料の渡し舟があり(現在も運行中)、自転車とともに乗って 向かい側へよく遊びに行ったものである。 1950年(昭和25年)9月に 死者・行方不明者計500名あまりという暴風雨のジェーン台風で 街中が1m以上に浸水した際には、友達と筏を組んで、浮かんでいる樹木を集めて家に持って帰り 貴重な薪にしたことを覚えている。 小学5年時に、当時の堺市の南側にあった泉北郡高石町(現在の高石市)の府立住宅に引っ越した。 転入した村立の取石小学校は 中学校と運動場が共有で、校長が夫婦同士、春秋の農繁期になると 数日間休校となり、また各村にはダンジリがあってお祭り時には賑やかに引き廻す,運動会時には村中の人たちが集まって弁当を囲む というのどかな環境だった。 当時はハーモニカに興じており、学校では器楽部に所属。 当時 ランドセルはあまり普及していなかったようで、父が戦時中に使っていた 国防色(黄土色?)の肩掛けカバンで通学していた。
    進学した中学校は 高石町内の海のすぐそばにある大きな博物館跡で、教室の真中に複数の太い柱がデーンとあった。 クラブは野球部に所属し、海際の運動場のすぐ横に 米進駐軍の家族が住むきれいに整備されただだっ広い芝生群があった。 ファウルボールがよく垣根を越えて中に飛びこみ、覚えたての英語で子供たちに投げ返してもらったりした。 朝夕に砂浜を走りまわって練習に励んだ。 2年になると軟式庭球(現 ソフトテニス)部に入り、砂混じりのコートで毎日 日が暮れるまで練習していた。 海は自宅から歩いて行ける距離にあったので、休みには毎日のように泳ぎに行って貝を取ったりしていた。 海に川が流れ出している所では、放課後にアサリを掘り出して、食べ終った弁当箱に詰めて 持って帰ったものである。 また、近所に当時のプロ野球「南海ホークス(現 ソフトバンク・ホークス)」の選手たちが住んでいたので、知り合いを通じてサインをもらってしていた。 軟式テニス(現 ソフトテニス)は中学2年生から続けており、堺市内の府立高校に入学後も軟式庭球部に所属して、年中 練習・試合に明け暮れた。 練習後、重い鉄製のローラーを引っ張ってコートを敷き均すのが日課だった。 体育の時間には、大阪府内随一の堺刑務所の高い塀の周りを、畑で作業する収容者たちの姿を横目に見ながら走っていた。 2年時には、学校の行事の「海での10kmの遠泳」を泳ぎきり、「和歌山までの6時間半以内での60kmのウォーキング大会」で 二番で走ったこともあった(終盤の 孝子-キョウシ-峠での5kmほどはほとんど歩いたが)。 3年の一学期には授業を休んで大阪府の大会に参加(担任の先生にはその旨断わっていたが、何故か数学の女教師に「何を考えているのか?」と叱られる)。
    大学では、入学式の数日前に軟式テニスコートを訪れて、何の迷いも無く 則入部手続きをした。 教養部では、年中 練習や各地での試合に明け暮れたおかげで 複数の数学の単位を落とし、学部ヘ行ってから 後輩たちとともに再授業を受ける ということもあった。 2年生からは、ESS(英会話クラブ)に入って 信州に合宿に行ったりした。 安保闘争に端を発する全共闘大学紛争で大学が封鎖され 試験が中止されたりした際にも、テニスを継続。 高石小学校で行なわれた成人式では、東京五輪を控えた大松監督率いる「東洋の魔女」女子バレーボールの苛酷な練習風景(回転レシーブ 等)を撮った映像が披露され、蔭山,岡本,森下の南海ホークス三選手のスピーチがあった(蔭山選手の豪邸が我が家の近くにあり、監督就任直後に急病で死去)。 在学中 初めて人工衛星で地球を一周したソ連(現 ロシア)のガガーリンが来校(ハラショ ハラショ ガガーリン ……の歌で歓迎),ソ連ブームもあって ロシア語に興味を持ち、単位を取得した(授業の初めには ロシア民謡「バイカル湖のほとりで」をロシア語で歌うのが通例だった)。 学部では「探査工学研究室」を選考。 学科内での「比叡山登山競争」では三位で完走。 大学院の修士課程時の夏休みには、日本海沿いの列車と青函連絡船を乗り継いで、北海道/士別での一カ月間の電気探査による銅鉱床探査に参加した(インドネシアからの留学生を含め4~5人で)。 終了後、宿泊先の農家(4km四方に隣家無し,NHK TVを観るのと たまに用意してもらえるジンギスカン焼きを食べるのが 唯一の楽しみだった)で入手したビニール布を持って、旭川~摩周湖~網走~根室~苫小牧~札幌等を10日間ほど屋外で泊まり歩いた(道中 乗り合わせたバス内で、発表されて間もない森繁久彌 作詞,作曲,歌の「知床旅情」を外国人が歌っているのを初めて耳にした)。 就職した建設コンサルタント会社には あいにく軟式庭球部は無かったので(硬式はあった)、野球部に所属し ピッチャーーを志望した。 二年目には 大阪府の設計会社部門の大会で優勝(優勝戦とのダブルヘッダーであった準決勝戦で ノーヒット・ノーランを達成)したが、グアム島への新婚旅行日と重なって、近畿大会は残念ながら欠席。 
    海外では、時間があると リフレッシュメント(気分転換)を兼ねてよくテニスを楽しんだ。 幸いにも、開発途上の国々に滞在中も、病気にかかったり 落ちこんだりすることはほとんどなく、安全かつ安心に過ごせたのは、飽きもせず テニスを長年続けたことによって、身体的に肩,腕,腰,足などが強く鍛えられると同時に、精神的に心も大きく鍛えられたから と自負している次第である。
    アフリカや中東,アジア等の通常の旅行者があまり訪れない開発途上国に滞在し、この貴重な交流体験や得た教訓等を 当方のみで持っておくのはもったいない と思い、その都度 中学校や高校それに大学他の多くの友人たちにメールで伝え、それなりの反応があった。

  • [我が家周辺の春夏秋冬]<br /><br />また、我が日本は 彩り豊かな四季(春夏秋冬)に恵まれている という有難さを改めて認識した (「折ふしの移りかはるこそ 物ごとにあはれなれ」 兼好法師)。

    [我が家周辺の春夏秋冬]

    また、我が日本は 彩り豊かな四季(春夏秋冬)に恵まれている という有難さを改めて認識した (「折ふしの移りかはるこそ 物ごとにあはれなれ」 兼好法師)。

  • [「JICA近畿シニアボランティアOV会」にて]<br /><br />カンボジアでのSVから帰国後、「JICA近畿シニアボランティアOV会」の世話役として活動。 JICAの国際親善への参加,海外体験発表会の開催,出前講座講師の派遣, JICAのSV志願者に参考情報を提供,機関紙の作成,会員同士の親睦 等々の業務に従事。<br />

    [「JICA近畿シニアボランティアOV会」にて]

    カンボジアでのSVから帰国後、「JICA近畿シニアボランティアOV会」の世話役として活動。 JICAの国際親善への参加,海外体験発表会の開催,出前講座講師の派遣, JICAのSV志願者に参考情報を提供,機関紙の作成,会員同士の親睦 等々の業務に従事。

  • [明智光秀ゆかりの施設]<br /><br />   昨年から今年にかけてNHK TVで放映された大河ドラマ 「麒麟がくる」 の主人公 明智光秀ゆかりの施設 が我が長岡京市近傍に幾つかある。この放映を通して、彼に対する今までのイメージがかなり変わった と思われる。<br /><br />① 勝竜寺城公園 (光秀の三女「玉」-タマ;のちの細川ガラシャーが 信長の仲介で結<br />    婚した細川忠興と新婚生活を送った城郭跡)<br />*毎年11月に、市内で「ガラシャ祭り」が盛大に開催される<br />(ガラシャ辞世の句 ; &quot;散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ <br />人も人なれ&quot;  <br />ーOnly when is it known when to fall in the world, A flower is a <br />flower and a human is a human !!)。 <br />「Mrs.-ミセス-ガラシャ」の和菓子あり。<br />② 恵解山-イゲノヤマ-古墳公園 (乙訓地域最大の前方後円墳-長さ≒130m-で、<br />    主君織田信長を討った光秀軍が 「中国大返し」の豊臣秀吉軍との山崎合戦<br />    時ー天正10年=1582年 6月ーに 本陣を置いたと言われる古墳跡)。<br />    平成26年(2014年)に開園。<br />③ 天王山 (光秀軍との山崎合戦時に、秀吉軍が山麓の山崎に布陣;山頂の標高≒270mで、ハイキング・コースあり)<br />

    イチオシ

    [明智光秀ゆかりの施設]

    昨年から今年にかけてNHK TVで放映された大河ドラマ 「麒麟がくる」 の主人公 明智光秀ゆかりの施設 が我が長岡京市近傍に幾つかある。この放映を通して、彼に対する今までのイメージがかなり変わった と思われる。

    ① 勝竜寺城公園 (光秀の三女「玉」-タマ;のちの細川ガラシャーが 信長の仲介で結
    婚した細川忠興と新婚生活を送った城郭跡)
    *毎年11月に、市内で「ガラシャ祭り」が盛大に開催される
    (ガラシャ辞世の句 ; "散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ
    人も人なれ"
    ーOnly when is it known when to fall in the world, A flower is a
    flower and a human is a human !!)。
    「Mrs.-ミセス-ガラシャ」の和菓子あり。
    ② 恵解山-イゲノヤマ-古墳公園 (乙訓地域最大の前方後円墳-長さ≒130m-で、
    主君織田信長を討った光秀軍が 「中国大返し」の豊臣秀吉軍との山崎合戦
    時ー天正10年=1582年 6月ーに 本陣を置いたと言われる古墳跡)。
    平成26年(2014年)に開園。
    ③ 天王山 (光秀軍との山崎合戦時に、秀吉軍が山麓の山崎に布陣;山頂の標高≒270mで、ハイキング・コースあり)

  • [長岡宮跡]<br /><br />  長岡京は、桓武天皇時に 平城京が平安京に移る間の784年から10年間 日本の首都だった(その規模は 東西4.3km 南北5.3kmで、平城京や平安京にも劣らないくらいの大きさ)。

    [長岡宮跡]

    長岡京は、桓武天皇時に 平城京が平安京に移る間の784年から10年間 日本の首都だった(その規模は 東西4.3km 南北5.3kmで、平城京や平安京にも劣らないくらいの大きさ)。

  • [長岡京市]<br /><br />   京都府の南西部 西京区 および 大阪府の島本町と面する内陸都市で、西山の丘陵地帯からなる自然あふれる地域であって、特に竹林は美しく、平安時代の作品「竹取物語」のモデルは長岡京市である とも言われている。また、長岡天満宮八条ヶ池のキリシマツツジや 光明寺の紅葉の美しさも知られている。<br />なお 長岡京市は有数のタケノコの産地で、獲れたての白いタケノコの刺し身の味は抜群 !!<br /> <br />*光明寺は西山浄土宗の総本山で、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦い時に <br />平家の若武者 平敦盛を討ち取った熊谷次郎直実が開基。<br /><br /> <br />

    [長岡京市]

    京都府の南西部 西京区 および 大阪府の島本町と面する内陸都市で、西山の丘陵地帯からなる自然あふれる地域であって、特に竹林は美しく、平安時代の作品「竹取物語」のモデルは長岡京市である とも言われている。また、長岡天満宮八条ヶ池のキリシマツツジや 光明寺の紅葉の美しさも知られている。
    なお 長岡京市は有数のタケノコの産地で、獲れたての白いタケノコの刺し身の味は抜群 !!
     
    *光明寺は西山浄土宗の総本山で、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦い時に
    平家の若武者 平敦盛を討ち取った熊谷次郎直実が開基。


  • [東京スカイツリー]<br /><br />  高さ = 634m(世界一高い電波塔,基礎底面は三角形), 2012年竣工    <br />     * 設計・監理;日建設計/施工;大林組 <br />

    [東京スカイツリー]

    高さ = 634m(世界一高い電波塔,基礎底面は三角形), 2012年竣工
    * 設計・監理;日建設計/施工;大林組

  • [京都迎賓館]<br /><br />   常時の一般公開(参観)に向けての試験公開に参加して、その一端をかいま観てきた。日本の数多くの伝統技能が細かいところまで活用されていて、外国からの賓客を接待するのに充分な素晴らしい内容 だと感心させられた。<br /><br />① この迎賓館は、海外からの賓客を迎え、日本への理解と友好を深めても<br />    らうことを目的とする国の迎賓施設。<br />② 歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住<br />    居である入母屋屋根と数寄屋造りの外観をいかし、築地塀を巡らせた品<br />    格のある和風の佇まいを創出している。 <br />③ 場所は京都御苑内の御所の東側で、地上1階,地下1階(敷地面積は20,<br />    140m2)。平安時代に権勢を誇ったあの藤原道長の邸宅がこのあたりに<br />    あった という。<br />④ 大工,左官,建具,表具,漆,庭園,石造工芸および竹垣他 京都を代表する伝<br />    統技能を多数活用して建設され、平成17年(2005年)に開館 (設計は㈱日<br />    建設計, 施工は㈱大林組JV)。<br />⑤ 設計のコンセプトは、「現代和風」(外観は木を活用した伝統的日本建築で<br />    あるが、構造は鉄筋コンクリート造り等 最新の技術を用いて快適な滞在を<br />    演出)」および「庭屋一如(庭園と建物が一体となって調和)」とのこと。<br />⑥ 建物の中は、ロビー(随員たちの待合所他)としての部屋「聚楽-ジュラク-の<br />    間」,会議やお茶のおもてなし他に使用される「夕映-ユウバエ-の間」, 洋食の<br />    晩餐会や歓迎式典の会場として利用される「藤の間」, 和食(京料理)を提供<br />    する晩餐室「桐の間」(長さ12mの漆塗り一枚仕上げの座卓)の四つの空間 <br />    および建物の中から景色が楽しめる上記「庭屋一如」の庭園から成る。<br /><br />*明治42年(1909年)、実業家によって東山の麓 八坂神社東側に最初の迎<br />   賓館「長楽館」が建てられた。3階建ての洋館で、今はホテル,レストラン,<br />   カフェとして使われている。<br />

    [京都迎賓館]

    常時の一般公開(参観)に向けての試験公開に参加して、その一端をかいま観てきた。日本の数多くの伝統技能が細かいところまで活用されていて、外国からの賓客を接待するのに充分な素晴らしい内容 だと感心させられた。

    ① この迎賓館は、海外からの賓客を迎え、日本への理解と友好を深めても
    らうことを目的とする国の迎賓施設。
    ② 歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住
    居である入母屋屋根と数寄屋造りの外観をいかし、築地塀を巡らせた品
    格のある和風の佇まいを創出している。
    ③ 場所は京都御苑内の御所の東側で、地上1階,地下1階(敷地面積は20,
    140m2)。平安時代に権勢を誇ったあの藤原道長の邸宅がこのあたりに
    あった という。
    ④ 大工,左官,建具,表具,漆,庭園,石造工芸および竹垣他 京都を代表する伝
    統技能を多数活用して建設され、平成17年(2005年)に開館 (設計は㈱日
    建設計, 施工は㈱大林組JV)。
    ⑤ 設計のコンセプトは、「現代和風」(外観は木を活用した伝統的日本建築で
    あるが、構造は鉄筋コンクリート造り等 最新の技術を用いて快適な滞在を
    演出)」および「庭屋一如(庭園と建物が一体となって調和)」とのこと。
    ⑥ 建物の中は、ロビー(随員たちの待合所他)としての部屋「聚楽-ジュラク-の
    間」,会議やお茶のおもてなし他に使用される「夕映-ユウバエ-の間」, 洋食の
    晩餐会や歓迎式典の会場として利用される「藤の間」, 和食(京料理)を提供
    する晩餐室「桐の間」(長さ12mの漆塗り一枚仕上げの座卓)の四つの空間
    および建物の中から景色が楽しめる上記「庭屋一如」の庭園から成る。

    *明治42年(1909年)、実業家によって東山の麓 八坂神社東側に最初の迎
    賓館「長楽館」が建てられた。3階建ての洋館で、今はホテル,レストラン,
    カフェとして使われている。

  • [ カンボジア,ネパール,マラウイ のポスター他]<br /><br />   JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)として赴任した三国 のポスター他 ; カンボジア語(クメール語)/ヒマラヤのアンナプルナ山系(ネパール)/マラウイの旅行図。<br /><br />

    [ カンボジア,ネパール,マラウイ のポスター他]

    JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)として赴任した三国 のポスター他 ; カンボジア語(クメール語)/ヒマラヤのアンナプルナ山系(ネパール)/マラウイの旅行図。

  • [学んだこと]<br /><br /> 「あわてず あせらず あなどらず そして あきらめず」<br /> 「自分の身は 自分で守る(予防)」

    [学んだこと]

    「あわてず あせらず あなどらず そして あきらめず」
    「自分の身は 自分で守る(予防)」

  • [京都の四季]

    [京都の四季]

  • [建仁寺]<br /> <br />   京都最古の禅寺(臨済宗)で、1202年(建仁2年)に 明庵栄西禅師が開山。<br />江戸時代の大画家 俵屋宗達による二曲一双の「風神雷神図屏風」で有名。 <br />法堂(ハットウ)の天井に描かれた「双龍図」 および 8面の襖からなる「雲龍図」<br />は 水墨画の龍 として知られる。 <br /> <br /><br />

    [建仁寺]

    京都最古の禅寺(臨済宗)で、1202年(建仁2年)に 明庵栄西禅師が開山。
    江戸時代の大画家 俵屋宗達による二曲一双の「風神雷神図屏風」で有名。
    法堂(ハットウ)の天井に描かれた「双龍図」 および 8面の襖からなる「雲龍図」
    は 水墨画の龍 として知られる。


  • [京の台所「錦市場」]<br /><br />   400年もの歴史を誇る「京の台所」錦ーニシキー市場は、100軒以上の店舗が軒を連ね、持ち帰り用の串物を売っている店や、ちょっとしたスペースで気軽に食事ができる店,新鮮な魚介や京野菜といった食材を販売している店など様々ある。

    [京の台所「錦市場」]

    400年もの歴史を誇る「京の台所」錦ーニシキー市場は、100軒以上の店舗が軒を連ね、持ち帰り用の串物を売っている店や、ちょっとしたスペースで気軽に食事ができる店,新鮮な魚介や京野菜といった食材を販売している店など様々ある。

  • [ 栂尾ートガノオー 高山寺]<br /><br />   京都市右京区にある古刹(世界遺産)で、千光祖師 明庵栄西(みんなんようさい) 禅師が開山。 甲乙丙丁4巻からなる「鳥獣人物戯画」には、兎,蛙,猿,鹿 等 擬人化された動物が描かれている。 また 高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られ(栄西禅師が宋から持ち帰った)、毎年 5月中旬に茶摘みが行われる。

    [ 栂尾ートガノオー 高山寺]

    京都市右京区にある古刹(世界遺産)で、千光祖師 明庵栄西(みんなんようさい) 禅師が開山。 甲乙丙丁4巻からなる「鳥獣人物戯画」には、兎,蛙,猿,鹿 等 擬人化された動物が描かれている。 また 高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られ(栄西禅師が宋から持ち帰った)、毎年 5月中旬に茶摘みが行われる。

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