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  去る2019年11月に、母校の三丘会館で 「三国丘高校ソフトテニス(旧 軟庭)部創部70周年記念式典」 が行なわれ、参加してきた。 会は盛大で、男女半々 80名あまりの参加者があつた(テニスコートの場所は 以前とは変わっており、正門前にあった 仲間と飲食時などによく利用していた「三國屋」は すでに閉鎖されていた)。 ここでは、今までに滞在した開発途上の国々での活動状況と 長年に亘り親しんできたテニス との関わりについて、当方の思い出を振り返りながら述べる。 <br /><br />* この度のロシア(プーチン政権)からの絶え間ない侵攻(特別な軍事作戦)で 多くのウクライナ人が避難しているポーランドや、先年 国軍による突然のクーデターにより 民主政権が覆されたミャンマー(NLDのアウンサンスーチー女史 拘束 等) から来日した両国民を歓待したこともあり、両国の現状から眼を離せない 。 つい先日、50年ぶりに公開された映画 「ひまわり」(ソフィア・ローレン/マルチェロ・マストロヤンニ競演で 当時ソ連領だったウクライナで撮影されたイタリア映画)を懐かしく視聴した。 一方 地球温暖化という現況や 地震,台風,火山噴出等の自然災害による状況(天変地異)に対して、夢を持ってポジティブに(前向きに)捉えていきたい と考える。<br />  <br />   また 我が長岡京市内には、本能寺の変 で織田信長を討った明智光秀と その娘 ガラシャ ゆかりの施設がいくつかあり、毎秋 「ガラシャ祭り」 が盛大に行われる(宝塚時代の娘が 2年続けて ガラシャ役で参加させてもらったことがあった )。 長岡京市は 日本有数のタケノコの産地で、4月~5月に採れる白タケノコから作られる刺し身の味は格別。 なお 長岡京は、桓武天皇時に 平城京が平安京に移る間の 784年から10年間 日本の首都だった。<br />   今は近辺で 爽やかな青紫色の「カキツバタ」が咲き誇っており、心癒される思いである。<br />   からころも 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ <br />    (在原業平;伊勢物語) !! ]<br />                                                                          ー2022年 5月ー

開発途上の国々での活動余滴 と テニス

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1971/10/01 - 2018/10/26

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タケ

タケさん

去る2019年11月に、母校の三丘会館で 「三国丘高校ソフトテニス(旧 軟庭)部創部70周年記念式典」 が行なわれ、参加してきた。 会は盛大で、男女半々 80名あまりの参加者があつた(テニスコートの場所は 以前とは変わっており、正門前にあった 仲間と飲食時などによく利用していた「三國屋」は すでに閉鎖されていた)。 ここでは、今までに滞在した開発途上の国々での活動状況と 長年に亘り親しんできたテニス との関わりについて、当方の思い出を振り返りながら述べる。

* この度のロシア(プーチン政権)からの絶え間ない侵攻(特別な軍事作戦)で 多くのウクライナ人が避難しているポーランドや、先年 国軍による突然のクーデターにより 民主政権が覆されたミャンマー(NLDのアウンサンスーチー女史 拘束 等) から来日した両国民を歓待したこともあり、両国の現状から眼を離せない 。 つい先日、50年ぶりに公開された映画 「ひまわり」(ソフィア・ローレン/マルチェロ・マストロヤンニ競演で 当時ソ連領だったウクライナで撮影されたイタリア映画)を懐かしく視聴した。 一方 地球温暖化という現況や 地震,台風,火山噴出等の自然災害による状況(天変地異)に対して、夢を持ってポジティブに(前向きに)捉えていきたい と考える。

また 我が長岡京市内には、本能寺の変 で織田信長を討った明智光秀と その娘 ガラシャ ゆかりの施設がいくつかあり、毎秋 「ガラシャ祭り」 が盛大に行われる(宝塚時代の娘が 2年続けて ガラシャ役で参加させてもらったことがあった )。 長岡京市は 日本有数のタケノコの産地で、4月~5月に採れる白タケノコから作られる刺し身の味は格別。 なお 長岡京は、桓武天皇時に 平城京が平安京に移る間の 784年から10年間 日本の首都だった。
今は近辺で 爽やかな青紫色の「カキツバタ」が咲き誇っており、心癒される思いである。
からころも 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(在原業平;伊勢物語) !! ]
  ー2022年 5月ー

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  • [旧軟庭コートがあった場所(現 硬庭コート)]

    [旧軟庭コートがあった場所(現 硬庭コート)]

  • [現 正門前]

    [現 正門前]

  • [明治校舎 正門(大阪府立堺中学校 時)]

    [明治校舎 正門(大阪府立堺中学校 時)]

  • [50年ぶりに公開された映画 「ひまわり」 のポスター]<br /><br />  ソフィア・ローレン/マルチェロ・マストロヤンニ競演で 当時ソ連領だったウクライナで撮影されたイタリア映画。<br />見渡す限りに広がる一面のひまわり畑を背景にした映画を 4月に鑑賞し、ひと昔前の感慨に浸った。<br /><br />* 2月に ロシア(プーチン政権)により始まったウクライナ侵攻は、未だに終結の兆しが見えない。<br /><br />

    [50年ぶりに公開された映画 「ひまわり」 のポスター]

    ソフィア・ローレン/マルチェロ・マストロヤンニ競演で 当時ソ連領だったウクライナで撮影されたイタリア映画。
    見渡す限りに広がる一面のひまわり畑を背景にした映画を 4月に鑑賞し、ひと昔前の感慨に浸った。

    * 2月に ロシア(プーチン政権)により始まったウクライナ侵攻は、未だに終結の兆しが見えない。

  • [ミュージカル「ガラシャ」のポスタ-]

    [ミュージカル「ガラシャ」のポスタ-]

  • [海外滞在位置図]<br /><br />  1942年6月 大阪市大正区で誕生。 戦時中に口ずさんでいたのは 「若鷲の歌」(通称 予科練の歌→若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 …♪ -作詞 西条八十 ,作曲 古関裕司ー)らしい。 幼少時には 近くの尻無川を渡る無料の渡し舟があり(現在も稼働中)、自転車とともに乗って 向かい側へよく遊びに行 ったものである。 小学5年時に、当時の堺市の南側にあった泉北郡高石町(現在の高石市)の府営住宅に引っ越した。 転入した村立の取石小学校は 中学校と運動場が共有で、校長が夫婦同士、春秋の農繁期になると 数日間休校となり、また 各集落にはダンジリがあって、秋のお祭り時には 賑やかに引き廻す,運動会時には 村中の人たちが集まって 弁当を囲む という のどかな環境だった。 当時はハーモニカに興じており、学校では器楽部に所属。 当時 ランドセルはあまり普及していなかったようで、父が戦時中に使っていた 国防色(黄土色?)の肩掛けカバンで通学していた。 進学した高石中学校は 海のすぐそばにある大きな博物館跡で、教室の真中に複数の太い柱がデーンとあった。 小さい時から太陽の下で遊ぶのが好きだったので クラブは野球部に所属し、海際の運動場のすぐ横に 米進駐軍の家族が住むきれいに整備されただだっ広い芝生群があった。 ファウルボールがよく垣根を越えて中に飛びこみ、覚えたての英語(英語に興味があったので、毎日 英文日記をつけていた)で 子供たちに投げ返してもらったりした。 朝夕に砂浜を走りまわって 練習に励んだ。 テニスとの出会いは、中学2年生のときに 軟式庭球(現 ソフトテニス)部に入ったことで、校庭内にネットが張られた砂混じりのコートで  毎日 日が暮れるまで練習していた。 海は自宅から歩いて行ける距離にあったので、夏休みには毎日のように泳ぎに行って 貝を取っていた。 海に川が流れ出している所では、放課後にアサリを掘り出して、食べ終った弁当箱に詰めて 持ち帰ったものである。 堺市内の三国丘高校(旧 大阪府立堺中学校)に入学後も 軟式庭球部に所属(後衛)して、年中 練習・試合に明け暮れた。 練習後、重い鉄製のローラーを引っ張って コートを敷き均すのが日課だった。 体育の時間には、大阪府内随一の堺刑務所の高い塀の周りを、畑で作業する収容者たちの姿を横目に見ながら 走っていた。 2年生時には、学校の行事の「海での10km の遠泳」を泳ぎきり、「和歌山までの6時間半以内での60kmのウォーキング大会」で 二番で走ったことあった(終盤の 府県境の孝子-キョウシ-峠での5kmほどは ほとんど歩いたが)。 受験期の3年生の一学期には、授業を休んで 軟式庭球の大阪府の大会に参加(欲が無いせいか こういう時に限って勝ち進む;担任の先生にはその旨ことわっていたが、何故か 数学の女教師に「何を考えているのか?」 と叱られる)。 また 高校の同期生たちが20数年前に立ち上げた 月に一回ほど「山歩きの会」に参加して、近畿周辺の山々を次々に歩き続けて 旧交を温めている。 「テニス会」の発起人の1人にもなった。 一浪して入学した京都の大学では、入学式の数日前に軟式テニスコートを訪れて、何の迷いも無く 則 入部手続きをした(ポイントを決めるのは後衛よりも前衛だと分かり 前衛に転向)。 教養部では、年中 練習や各地での試合に明け暮れたおかげで 複数の数学の単位を落とし、学部ヘ行ってから 後輩たちと一緒に再授業を受ける ということになった。 また、安保闘争に端を発する全共闘による大学紛争で 大学が封鎖され 試験が中止されたりした際にも、試合が近付いている と言って 中へ入れてもらい、コートでテニスを継続した。 ESS(英会話クラブ)にも所属して、信州等での合宿を楽しんだ。 先輩たちを含んでの学科内での「比叡山登山競争(校門前から頂上まで)」では、二回生の時に 一時間弱の三位で完走。 学部や大学院では さすがに練習量は減ったが、風邪をひいた時には 直すんだ と言い訳をして、コートに足を運んだりしていた。 夏休み等には高校を訪れて、後輩たちとテニスを楽しんだ。 高校や大学での合宿体験が懐かしい。 在学中、初めて人工衛星で地球を一周したソ連(現 ロシア)のガガーリンが来学(ハラショ ハラショ ガガーリン …♪ の歌で歓迎),ソ連ブームもあって ロシア語に興味を持ち 単位を取得した(授業の初めには ロシア民謡 「バイカル湖のほとりで」をロシア語で歌うのが通例だった)。  学部では「探査工学研究室」に所属。 大学院の修士課程時の夏休みには、日本海沿いの列車と青函連絡船を乗り継いで、北海道/士別での一カ月間の 電気探査 による銅鉱床探査に参加した(インドネシアからの留学生を含め4~5人で)。 終了後、宿泊先の農家(4km四方に隣家無し,NHK TVを観るのと たまに用意してもらえる羊肉のジンギスカン焼きを食べるのが 唯一の楽しみだった)で入手したビニール布を持って、旭川~摩周湖~網走~根室~苫小牧~札幌等を10日間ほど 屋外で泊まり続けた(道中 乗り合わせたバス内で、発表されて間もない森繁久彌 作詞,作曲,歌の「知床旅情」を 外国人が歌っているのを初めて耳にし、帰郷後 レコードを購入)。<br />大学のソフトテニスOB会では、毎年1月2日に現役学生たちを含めて 初打ち会を催すのが  恒例となっている。<br />大学や大学院では奨学金を受け、また 授業料は無料だった。 テニスの練習や試合の合間をぬって、家庭教師他のアルバイトを続けて 実家に現金を仕送りしていた。<br />   <br />  1968年に大学院の工学研究科 修士課程を修了後 就職した総合建設コンサルタント会社では、土木技術者として 海外を含め(復帰前の沖縄?,リビア,インドネシア,台湾等に滞在) さまざまなプロジェクトの計画,調査,設計,施工監理業務などに携わった。同社には あいにく軟式庭球部は無かったので(硬式はあった)、野球部に所属し ピッチャーを志望した。 二年目には 大阪府の設計会社部門の大会で優勝(優勝戦とのダブルヘッダーであった準決勝戦で ノーヒット・ノーランを達成)したが、グアム島への新婚旅行日と重なって、近畿大会は残念ながら欠席。<br />1970~71年に 現地踏査,土質調査を目的として、特別のビザを獲り 米ドルを持って 数回に亘り 復帰直前の沖縄を訪れた。 滞在中 ときの琉球政府他の担当者や琉球大学の先生たちと協議して 各種資料を入手した(とくに 沖縄本島南部に広く分布する島尻層群の土質工学的性質に関しては、当時 不明の点も数多く残されていて、地下水を含め 「沖縄の地盤」 と題する報告を 土木学会誌 に投稿)。 分厚いT-ボーン・ステーキを格安で食べられることが いつも楽しみだった。 車の通行変更(右側→左側通行)の実施状況を眺めていたことを 覚えている。 石垣島の西方にある竹富島に渡り、持っていると幸福が訪れる という星砂(有孔虫の殻)を採取した。 復帰後(1972年5月15日)も 依然として本土と沖縄との間に横たわる断層はぬぐうべくもなく、沖縄のことをより深く学び 正しく理解したうえで、その開発に参加することの必要性が 痛感された(今年は復帰から50年目に当たるが、復帰後の沖縄にも 一度行ってみたいところ!!)。 <br />

    [海外滞在位置図]

    1942年6月 大阪市大正区で誕生。 戦時中に口ずさんでいたのは 「若鷲の歌」(通称 予科練の歌→若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 …♪ -作詞 西条八十 ,作曲 古関裕司ー)らしい。 幼少時には 近くの尻無川を渡る無料の渡し舟があり(現在も稼働中)、自転車とともに乗って 向かい側へよく遊びに行 ったものである。 小学5年時に、当時の堺市の南側にあった泉北郡高石町(現在の高石市)の府営住宅に引っ越した。 転入した村立の取石小学校は 中学校と運動場が共有で、校長が夫婦同士、春秋の農繁期になると 数日間休校となり、また 各集落にはダンジリがあって、秋のお祭り時には 賑やかに引き廻す,運動会時には 村中の人たちが集まって 弁当を囲む という のどかな環境だった。 当時はハーモニカに興じており、学校では器楽部に所属。 当時 ランドセルはあまり普及していなかったようで、父が戦時中に使っていた 国防色(黄土色?)の肩掛けカバンで通学していた。 進学した高石中学校は 海のすぐそばにある大きな博物館跡で、教室の真中に複数の太い柱がデーンとあった。 小さい時から太陽の下で遊ぶのが好きだったので クラブは野球部に所属し、海際の運動場のすぐ横に 米進駐軍の家族が住むきれいに整備されただだっ広い芝生群があった。 ファウルボールがよく垣根を越えて中に飛びこみ、覚えたての英語(英語に興味があったので、毎日 英文日記をつけていた)で 子供たちに投げ返してもらったりした。 朝夕に砂浜を走りまわって 練習に励んだ。 テニスとの出会いは、中学2年生のときに 軟式庭球(現 ソフトテニス)部に入ったことで、校庭内にネットが張られた砂混じりのコートで 毎日 日が暮れるまで練習していた。 海は自宅から歩いて行ける距離にあったので、夏休みには毎日のように泳ぎに行って 貝を取っていた。 海に川が流れ出している所では、放課後にアサリを掘り出して、食べ終った弁当箱に詰めて 持ち帰ったものである。 堺市内の三国丘高校(旧 大阪府立堺中学校)に入学後も 軟式庭球部に所属(後衛)して、年中 練習・試合に明け暮れた。 練習後、重い鉄製のローラーを引っ張って コートを敷き均すのが日課だった。 体育の時間には、大阪府内随一の堺刑務所の高い塀の周りを、畑で作業する収容者たちの姿を横目に見ながら 走っていた。 2年生時には、学校の行事の「海での10km の遠泳」を泳ぎきり、「和歌山までの6時間半以内での60kmのウォーキング大会」で 二番で走ったことあった(終盤の 府県境の孝子-キョウシ-峠での5kmほどは ほとんど歩いたが)。 受験期の3年生の一学期には、授業を休んで 軟式庭球の大阪府の大会に参加(欲が無いせいか こういう時に限って勝ち進む;担任の先生にはその旨ことわっていたが、何故か 数学の女教師に「何を考えているのか?」 と叱られる)。 また 高校の同期生たちが20数年前に立ち上げた 月に一回ほど「山歩きの会」に参加して、近畿周辺の山々を次々に歩き続けて 旧交を温めている。 「テニス会」の発起人の1人にもなった。 一浪して入学した京都の大学では、入学式の数日前に軟式テニスコートを訪れて、何の迷いも無く 則 入部手続きをした(ポイントを決めるのは後衛よりも前衛だと分かり 前衛に転向)。 教養部では、年中 練習や各地での試合に明け暮れたおかげで 複数の数学の単位を落とし、学部ヘ行ってから 後輩たちと一緒に再授業を受ける ということになった。 また、安保闘争に端を発する全共闘による大学紛争で 大学が封鎖され 試験が中止されたりした際にも、試合が近付いている と言って 中へ入れてもらい、コートでテニスを継続した。 ESS(英会話クラブ)にも所属して、信州等での合宿を楽しんだ。 先輩たちを含んでの学科内での「比叡山登山競争(校門前から頂上まで)」では、二回生の時に 一時間弱の三位で完走。 学部や大学院では さすがに練習量は減ったが、風邪をひいた時には 直すんだ と言い訳をして、コートに足を運んだりしていた。 夏休み等には高校を訪れて、後輩たちとテニスを楽しんだ。 高校や大学での合宿体験が懐かしい。 在学中、初めて人工衛星で地球を一周したソ連(現 ロシア)のガガーリンが来学(ハラショ ハラショ ガガーリン …♪ の歌で歓迎),ソ連ブームもあって ロシア語に興味を持ち 単位を取得した(授業の初めには ロシア民謡 「バイカル湖のほとりで」をロシア語で歌うのが通例だった)。 学部では「探査工学研究室」に所属。 大学院の修士課程時の夏休みには、日本海沿いの列車と青函連絡船を乗り継いで、北海道/士別での一カ月間の 電気探査 による銅鉱床探査に参加した(インドネシアからの留学生を含め4~5人で)。 終了後、宿泊先の農家(4km四方に隣家無し,NHK TVを観るのと たまに用意してもらえる羊肉のジンギスカン焼きを食べるのが 唯一の楽しみだった)で入手したビニール布を持って、旭川~摩周湖~網走~根室~苫小牧~札幌等を10日間ほど 屋外で泊まり続けた(道中 乗り合わせたバス内で、発表されて間もない森繁久彌 作詞,作曲,歌の「知床旅情」を 外国人が歌っているのを初めて耳にし、帰郷後 レコードを購入)。
    大学のソフトテニスOB会では、毎年1月2日に現役学生たちを含めて 初打ち会を催すのが 恒例となっている。
    大学や大学院では奨学金を受け、また 授業料は無料だった。 テニスの練習や試合の合間をぬって、家庭教師他のアルバイトを続けて 実家に現金を仕送りしていた。

    1968年に大学院の工学研究科 修士課程を修了後 就職した総合建設コンサルタント会社では、土木技術者として 海外を含め(復帰前の沖縄?,リビア,インドネシア,台湾等に滞在) さまざまなプロジェクトの計画,調査,設計,施工監理業務などに携わった。同社には あいにく軟式庭球部は無かったので(硬式はあった)、野球部に所属し ピッチャーを志望した。 二年目には 大阪府の設計会社部門の大会で優勝(優勝戦とのダブルヘッダーであった準決勝戦で ノーヒット・ノーランを達成)したが、グアム島への新婚旅行日と重なって、近畿大会は残念ながら欠席。
    1970~71年に 現地踏査,土質調査を目的として、特別のビザを獲り 米ドルを持って 数回に亘り 復帰直前の沖縄を訪れた。 滞在中 ときの琉球政府他の担当者や琉球大学の先生たちと協議して 各種資料を入手した(とくに 沖縄本島南部に広く分布する島尻層群の土質工学的性質に関しては、当時 不明の点も数多く残されていて、地下水を含め 「沖縄の地盤」 と題する報告を 土木学会誌 に投稿)。 分厚いT-ボーン・ステーキを格安で食べられることが いつも楽しみだった。 車の通行変更(右側→左側通行)の実施状況を眺めていたことを 覚えている。 石垣島の西方にある竹富島に渡り、持っていると幸福が訪れる という星砂(有孔虫の殻)を採取した。 復帰後(1972年5月15日)も 依然として本土と沖縄との間に横たわる断層はぬぐうべくもなく、沖縄のことをより深く学び 正しく理解したうえで、その開発に参加することの必要性が 痛感された(今年は復帰から50年目に当たるが、復帰後の沖縄にも 一度行ってみたいところ!!)。

  • [だんじり祭]<br /><br />  高石だんじり祭のカレンダー表紙(平成24年ー2012年ー度版)。

    [だんじり祭]

    高石だんじり祭のカレンダー表紙(平成24年ー2012年ー度版)。

  • [リビアにて] <br /><br /> 1980年に 最初に海外赴任した北アフリカのリビア(砂漠の入口部でセメント工場建設)は、一般の情報が身近にはほとんど無くて、在日大使館(当時は「リビア人民事務所」と呼ばれていた)に問い合わせても 日本人は居なくて 要領不明状態だった。 たまたま従兄が パレスチナに造詣の深い当時の参議院議員(田中角栄派)山口(大鷹)淑子さん(往時の女優 李香蘭ーリコウランー;佐賀県出身で中国で育った。ご主人が外交官で、結婚当初はビルマー現 ミャンマーーのヤンゴンで暮らしていたとのこと/「誰も書かなかったアラブ」の著書あり)の秘書をしていたので、参議院会館にある部屋を訪ねた。山口さん本人は不在だったが、リビアの種々の資料のコピーをもらい、またときのカダフィ大佐の伝記(フランス語版)を借りたり出来た。後日 山口さん自筆の在リビア日本国大使宛てへの紹介状も受け取った(現実には使うことはなかったが…)。 国土の9割が雨のほとんど降らない砂漠地帯で、カダフィ大佐(定礎式に来現)率いる厳格なイスラム圏。 私服の秘密警察等 いつも誰かに監視されている という感じがあり(ホテルのロビーで短パンをはいていた同僚が、外に居た秘密警察員に注意されたこともあった)、反米一色の国のため 街中では 数字を含めてアラビア語しか通じない。 また 入国審査は異常なほど厳重をきわめ、1ケ月にもおよぶ断食(ラマダン)も体験した。 宿舎から10kmほど離れた現場へは 仮の運転免許証を発行してもらい、自分で車を運転して通っていた(右側通行なので 舗装道路で左折する際には いつも緊張を強いられた)。日本の常識とは全くかけ離れた 特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、以降の海外滞在の貴重な原点となった。    また、政府間契約で近くの病院に勤務し 同じホテルに宿泊していたポーランド人の医者や薬剤師たちとも 切手交換が縁で 知り合いになり、部屋でお茶をよばれながら談笑したり 慣れないアラビア語を学ぶことは諦めて ポーランド語を習ったり、休日にはよく彼らの車に載せてもらって 一緒に近くの地中海へ泳ぎに行ったりもした(ビーチは遠浅で 水は暖かく泳ぎやすい。ちなみに イスラム圏のリビアには 水泳という慣習は無い)。 彼らが大阪や京都の名は知らなくても 広島・長崎の名前を知っているのには、以外な感じを受けたものである。 おかげで帰途、彼らの家族を訪ねて 敬虔なカトリック教徒が大部分を占める 当時社会主義国だったポーランドへ寄らざるを得なくなり、彼らとはその後40年以上 お互いに 家族同志の付き合いをすることになる。 現在、家族会員として 「日本ポーランド協会」の運営を長年に亘りお手伝い中(ポーランド人の留学生たちと話すのが楽しみ ← ポーランドには 古くから日本語教室が普及しており、彼らはきれいな日本語を話す)。

    [リビアにて]

    1980年に 最初に海外赴任した北アフリカのリビア(砂漠の入口部でセメント工場建設)は、一般の情報が身近にはほとんど無くて、在日大使館(当時は「リビア人民事務所」と呼ばれていた)に問い合わせても 日本人は居なくて 要領不明状態だった。 たまたま従兄が パレスチナに造詣の深い当時の参議院議員(田中角栄派)山口(大鷹)淑子さん(往時の女優 李香蘭ーリコウランー;佐賀県出身で中国で育った。ご主人が外交官で、結婚当初はビルマー現 ミャンマーーのヤンゴンで暮らしていたとのこと/「誰も書かなかったアラブ」の著書あり)の秘書をしていたので、参議院会館にある部屋を訪ねた。山口さん本人は不在だったが、リビアの種々の資料のコピーをもらい、またときのカダフィ大佐の伝記(フランス語版)を借りたり出来た。後日 山口さん自筆の在リビア日本国大使宛てへの紹介状も受け取った(現実には使うことはなかったが…)。 国土の9割が雨のほとんど降らない砂漠地帯で、カダフィ大佐(定礎式に来現)率いる厳格なイスラム圏。 私服の秘密警察等 いつも誰かに監視されている という感じがあり(ホテルのロビーで短パンをはいていた同僚が、外に居た秘密警察員に注意されたこともあった)、反米一色の国のため 街中では 数字を含めてアラビア語しか通じない。 また 入国審査は異常なほど厳重をきわめ、1ケ月にもおよぶ断食(ラマダン)も体験した。 宿舎から10kmほど離れた現場へは 仮の運転免許証を発行してもらい、自分で車を運転して通っていた(右側通行なので 舗装道路で左折する際には いつも緊張を強いられた)。日本の常識とは全くかけ離れた 特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、以降の海外滞在の貴重な原点となった。 また、政府間契約で近くの病院に勤務し 同じホテルに宿泊していたポーランド人の医者や薬剤師たちとも 切手交換が縁で 知り合いになり、部屋でお茶をよばれながら談笑したり 慣れないアラビア語を学ぶことは諦めて ポーランド語を習ったり、休日にはよく彼らの車に載せてもらって 一緒に近くの地中海へ泳ぎに行ったりもした(ビーチは遠浅で 水は暖かく泳ぎやすい。ちなみに イスラム圏のリビアには 水泳という慣習は無い)。 彼らが大阪や京都の名は知らなくても 広島・長崎の名前を知っているのには、以外な感じを受けたものである。 おかげで帰途、彼らの家族を訪ねて 敬虔なカトリック教徒が大部分を占める 当時社会主義国だったポーランドへ寄らざるを得なくなり、彼らとはその後40年以上 お互いに 家族同志の付き合いをすることになる。 現在、家族会員として 「日本ポーランド協会」の運営を長年に亘りお手伝い中(ポーランド人の留学生たちと話すのが楽しみ ← ポーランドには 古くから日本語教室が普及しており、彼らはきれいな日本語を話す)。

  • [ポーランド人家族4人が来日(2009年)]  <br /><br />  2009年には 小さい子供連れの若いポーランド人家族4人が来日し、* 京都太秦映画村や金閣寺,嵐山,天竜寺他を数日間案内し、和食も賞味してもらった(和式旅館に宿泊 /長女の名前はMaya-マヤ-で、ポーランドでもTV放映されていた 日本のアニメ 「みつばちマーヤの冒険」 から採った とのこと)。<br /><br />  1982~83年に プラント施設建設のため一年間余り滞在した インドネシア・スマトラ島北端のアチ ェでは、現場に隣接した箇所に アメリカの建設業者が設置した広大なパイオニア・キャンプ(世界の各地から集まった建設担当者やその家族等が 当方を含め1,000人ほど居住)内には学校や映画館,プール,テニスコートーここでは軟式テニスを楽しんだ-,スーパー・マーケットそれに散髪屋等も含めて 種々の施設があって、キャンプ内で自活出来るようにな っていた。 各国の独立記念日などの行事がしょっちゅうあるので、ダンスパーティー等にも積極的に参加して、欧米人やカナダ人,オーストラリア人,ニュージーランド人たちの家族とも親しくなり、よく彼らの家を訪れ お茶をよばれて談笑したりした。 毎週日曜日には、近くの町行きのバスが運行される。 テニスのラケットや運動着等を含めて種々の日用品が売られていて 重宝した。また、キャンプ生活者を募って 日曜日にはよく 近くにあるジャングル内で催された10kmほどのクロスカントリー(ハッシュ)に参加して、途中で 村民と覚えたてのアチェ語で会話を交わしたりして楽しんだ(ジャカルタから来たインドネシア人に アチェ語の通訳をしてあげたこともあった ; 帰国前に家族を呼び寄せた時には、カナダ人が キャンプ内の一軒家を用意してくれ 楽しく過ごせた)。  <br />  1986年には 数回にわたり、台湾の最南端にある墾丁(ケンディン)国家公園での開発業務に携わった。 2015年に 思い立って、現地で知り合った台湾人たちに再会すべく、家内と二人で 10日間あまり台湾を訪れた。業務時に知り合った知人(1995年の関西淡路地震時には、心配して 我が家に電話をしてくれたり、逆に 台湾南部が地震で被害を受けた際に マスクを送付したところ、大層感謝された)が家族共々歓待してくれた。 また現地で協働していた台湾人の娘さん(大の宝塚歌劇ファンで、観劇のため友人と二度来日。  私事ながら、当時長女が宝塚歌劇団の月組に在籍していたので、宝塚公演と東京公演を案内した)たちとも、台北で久し振りに再会した。 台湾でも宝塚歌劇は人気があり、彼女たちは日本語が話せた。 彼女は天海祐希(月組)のファンとかで、ちょうど娘の東京公演は天海祐希のトップ舞台であり、彼女のために天海祐希のポスターを入手することが出来た。 その後 彼女(本名は 何芃ーホー ポンー であるが、本人は 芃 という名前が気に入らず Bonnie と称していた)は結婚し、子供の件で 時々台北から東京を訪れ、東京に住んでいる我が娘と会食をしたりして 交流を続けている。 台湾には、銘茶,カニ肉入り小籠包,日本では高価なカラスミ,マンゴーが載ったかき氷,夜市での臭豆腐 等々 美味しい飲食物がいっぱいあり、行く度に堪能している。 家内は軽度のひざ痛で 「障碍者手帳」を持っていて、台湾では 鉄道や美術館等ほとんどの公共施設が 付き添い者を含めて大幅な割引料金に(時には無料に)なるので、重宝した。

    [ポーランド人家族4人が来日(2009年)]

    2009年には 小さい子供連れの若いポーランド人家族4人が来日し、* 京都太秦映画村や金閣寺,嵐山,天竜寺他を数日間案内し、和食も賞味してもらった(和式旅館に宿泊 /長女の名前はMaya-マヤ-で、ポーランドでもTV放映されていた 日本のアニメ 「みつばちマーヤの冒険」 から採った とのこと)。

    1982~83年に プラント施設建設のため一年間余り滞在した インドネシア・スマトラ島北端のアチ ェでは、現場に隣接した箇所に アメリカの建設業者が設置した広大なパイオニア・キャンプ(世界の各地から集まった建設担当者やその家族等が 当方を含め1,000人ほど居住)内には学校や映画館,プール,テニスコートーここでは軟式テニスを楽しんだ-,スーパー・マーケットそれに散髪屋等も含めて 種々の施設があって、キャンプ内で自活出来るようにな っていた。 各国の独立記念日などの行事がしょっちゅうあるので、ダンスパーティー等にも積極的に参加して、欧米人やカナダ人,オーストラリア人,ニュージーランド人たちの家族とも親しくなり、よく彼らの家を訪れ お茶をよばれて談笑したりした。 毎週日曜日には、近くの町行きのバスが運行される。 テニスのラケットや運動着等を含めて種々の日用品が売られていて 重宝した。また、キャンプ生活者を募って 日曜日にはよく 近くにあるジャングル内で催された10kmほどのクロスカントリー(ハッシュ)に参加して、途中で 村民と覚えたてのアチェ語で会話を交わしたりして楽しんだ(ジャカルタから来たインドネシア人に アチェ語の通訳をしてあげたこともあった ; 帰国前に家族を呼び寄せた時には、カナダ人が キャンプ内の一軒家を用意してくれ 楽しく過ごせた)。
    1986年には 数回にわたり、台湾の最南端にある墾丁(ケンディン)国家公園での開発業務に携わった。 2015年に 思い立って、現地で知り合った台湾人たちに再会すべく、家内と二人で 10日間あまり台湾を訪れた。業務時に知り合った知人(1995年の関西淡路地震時には、心配して 我が家に電話をしてくれたり、逆に 台湾南部が地震で被害を受けた際に マスクを送付したところ、大層感謝された)が家族共々歓待してくれた。 また現地で協働していた台湾人の娘さん(大の宝塚歌劇ファンで、観劇のため友人と二度来日。 私事ながら、当時長女が宝塚歌劇団の月組に在籍していたので、宝塚公演と東京公演を案内した)たちとも、台北で久し振りに再会した。 台湾でも宝塚歌劇は人気があり、彼女たちは日本語が話せた。 彼女は天海祐希(月組)のファンとかで、ちょうど娘の東京公演は天海祐希のトップ舞台であり、彼女のために天海祐希のポスターを入手することが出来た。 その後 彼女(本名は 何芃ーホー ポンー であるが、本人は 芃 という名前が気に入らず Bonnie と称していた)は結婚し、子供の件で 時々台北から東京を訪れ、東京に住んでいる我が娘と会食をしたりして 交流を続けている。 台湾には、銘茶,カニ肉入り小籠包,日本では高価なカラスミ,マンゴーが載ったかき氷,夜市での臭豆腐 等々 美味しい飲食物がいっぱいあり、行く度に堪能している。 家内は軽度のひざ痛で 「障碍者手帳」を持っていて、台湾では 鉄道や美術館等ほとんどの公共施設が 付き添い者を含めて大幅な割引料金に(時には無料に)なるので、重宝した。

  • [アリさん家族と(1983年)]<br /><br />  インドネシアからの帰途 マレーシアのペナン島で アリさん(大学院の同じ研究室に居たインドネシアからの留学生で、修士論文は漢字混じりの日本語で作成。帰国後は マレーシアのイポーにあるスズ鉱業会社に勤務中で 奥さんはカナダのトロント大学の大学院出のインドネシア人)と久し振りに再会し、双方の家族も含めて談笑。

    [アリさん家族と(1983年)]

    インドネシアからの帰途 マレーシアのペナン島で アリさん(大学院の同じ研究室に居たインドネシアからの留学生で、修士論文は漢字混じりの日本語で作成。帰国後は マレーシアのイポーにあるスズ鉱業会社に勤務中で 奥さんはカナダのトロント大学の大学院出のインドネシア人)と久し振りに再会し、双方の家族も含めて談笑。

  • [ポズナニ(ポーランド)を家族で訪問 ]<br /><br />  2000年12月から翌年1月にかけて3週間ほど、家族旅行で 真冬のバルト海沿いのドイツ,ポーランド,ロシア,エストニア,フィンランドを周回した。 大晦日の夕刻に着いたベルリンでは、着陸前に ライトアップされたブランデンブルク門の上を旋回するサービス飛行があった。 ポーランド西部にあるポズナニでは、新年が明けたばかりだったが、旧知の現地人に いつものように美味しいポーランド料理(赤カブ・スープ-バルシチ Barszcz- 等)をご馳走になり、数日間泊めてもらい、旧交を温めることが出来た。  ロシアのサンクトペテルブルクでは、バレーの殿堂マリインスキー劇場で「ジゼル」を特別席で鑑賞したり、ロマノフ朝時代の王宮跡のエルミタージュ美術館で ダ・ヴィンチやラファエロ他の諸作品をゆっくりと観て廻ったりした(買い物や路を訪ねたりする時に、大学で単位を採ったロシア語が役立った)。 また 中世の面影を濃く残しているエストニアのタリン(旧市街は UNESCO の世界遺産に登録)では 、先生に連れられた小学生たちに2回すれ違う(お誕生日会の帰りだろうか、手に手に黄色い風船を持ち、鼻のてっぺんを黒く塗ったり、ヒゲを描いたりしている)。 小さなソリに子供を乗せて引っ張って歩く 家族の姿もよく見かけた。

    [ポズナニ(ポーランド)を家族で訪問 ]

    2000年12月から翌年1月にかけて3週間ほど、家族旅行で 真冬のバルト海沿いのドイツ,ポーランド,ロシア,エストニア,フィンランドを周回した。 大晦日の夕刻に着いたベルリンでは、着陸前に ライトアップされたブランデンブルク門の上を旋回するサービス飛行があった。 ポーランド西部にあるポズナニでは、新年が明けたばかりだったが、旧知の現地人に いつものように美味しいポーランド料理(赤カブ・スープ-バルシチ Barszcz- 等)をご馳走になり、数日間泊めてもらい、旧交を温めることが出来た。 ロシアのサンクトペテルブルクでは、バレーの殿堂マリインスキー劇場で「ジゼル」を特別席で鑑賞したり、ロマノフ朝時代の王宮跡のエルミタージュ美術館で ダ・ヴィンチやラファエロ他の諸作品をゆっくりと観て廻ったりした(買い物や路を訪ねたりする時に、大学で単位を採ったロシア語が役立った)。 また 中世の面影を濃く残しているエストニアのタリン(旧市街は UNESCO の世界遺産に登録)では 、先生に連れられた小学生たちに2回すれ違う(お誕生日会の帰りだろうか、手に手に黄色い風船を持ち、鼻のてっぺんを黒く塗ったり、ヒゲを描いたりしている)。 小さなソリに子供を乗せて引っ張って歩く 家族の姿もよく見かけた。

  • [タリンからヘルシンキへ]  <br /><br />   タリンからバルト海の流氷を眺めながら 船で向かった(船内でカラオケあり/何故か「GEISHA」という名前のチョクレートが売られていた)フィンランドのヘルシンキでは、暖かいトナカイの焼き肉を味わった。 タリンは物価が安いので、ヘルシンキからビザを採って バルト海を渡り買い物に来る人たちが多く居る とのこと。

    [タリンからヘルシンキへ]

    タリンからバルト海の流氷を眺めながら 船で向かった(船内でカラオケあり/何故か「GEISHA」という名前のチョクレートが売られていた)フィンランドのヘルシンキでは、暖かいトナカイの焼き肉を味わった。 タリンは物価が安いので、ヘルシンキからビザを採って バルト海を渡り買い物に来る人たちが多く居る とのこと。

  • [プノンペン(カンボジア)での宿舎]  <br /><br />  定年退職後には、それまで培ってきた技術や知識,経験を 積極的に開発途上国に移転することで、かの国の発展(人づくり,国づくり)に寄与でき、かつ自分の専門が現地で活かせる悦びを実感することができる との思いで、JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)に応募して、カンボジア(王立の教育機関で土木工学指導;2003~2005年/2004年には ネパールでのセミナーに参加)および南部アフリカのマラウイ(ダイヤモンド探査指導 および 宝石類や非金属鉱物の調査と それらの同国経済への利用・発展への提言;2006年~2009年)に 計4年半ほど赴任した。 カンボジアでは、2年間 プノンペンで一軒家を借りて(メード2人と銃を持ったガードマン2人 それに運転手付きの車を雇い)家族と共に生活し、カンボジア人にとって心の拠りどころといわれる アンコール遺跡を取り上げて、配属先の学生たちに 「アンコール遺跡と土木工学」 というテーマで ビデオCDを教材にしたところ、非常に好評だった。 当校の電気・電子工学科に比べ入試競争率が圧倒的に高い土木工学科の生徒たち(中でも何故か女生徒の割合が多い)に対して、アンケート調査を実施した。質問内容は、なぜ土木工学科を選択したのか?、将来どういう職業に就きたいか? ということで、前者については「カンボジアの発展に役立てることができる」、「給料の良い職を得やすい」、後者については、「土木技術者や土木工学の指導者」、「地方でなく、都会で職に就きたい」 等々であった。男生徒が現実的なのに対して、女生徒は「信じられない何かを作り出すことができる」、「有名な土木技術者になりたい」等 あこがれを描いて夢想的な(?)回答が多かった。法制度をはじめインフラの整備が極端に遅れている同国では、教師にとっては給料が安くて(当時の月給は20から30 USドル)副業に頼らざるを得ないので、本業に専念する時間がなかなか取れない、また生徒たちにとっては、卒業しても適切な就職先がない(知り合った現地の建設会社や設計会社等を紹介したりしたが) 等々の大きな課題を抱えていた。 測量実習や土質試験実習はまだよいとしても、埃だらけになりながら 炎天下で男生徒に混じってレンガ積み実習やタイル張り実習に励んでいる女生徒の姿を見ていると、何とかしてやらねば…という気持ちにかられたことであった。 毎年シエムリアップで開催されている アンコールワット国際ハーフマラソン(五輪メダリストの有森裕子さん支援)にも SV仲間と誘い合って参加し、幾つかのアンコール遺跡群の中を走って(終盤に 観光客を乗せた象に追い抜かれたりしたが)、良い気分転換となった。 休日には、近くのホテルのコートで テニスを楽しんでいた。

    [プノンペン(カンボジア)での宿舎]

    定年退職後には、それまで培ってきた技術や知識,経験を 積極的に開発途上国に移転することで、かの国の発展(人づくり,国づくり)に寄与でき、かつ自分の専門が現地で活かせる悦びを実感することができる との思いで、JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)に応募して、カンボジア(王立の教育機関で土木工学指導;2003~2005年/2004年には ネパールでのセミナーに参加)および南部アフリカのマラウイ(ダイヤモンド探査指導 および 宝石類や非金属鉱物の調査と それらの同国経済への利用・発展への提言;2006年~2009年)に 計4年半ほど赴任した。 カンボジアでは、2年間 プノンペンで一軒家を借りて(メード2人と銃を持ったガードマン2人 それに運転手付きの車を雇い)家族と共に生活し、カンボジア人にとって心の拠りどころといわれる アンコール遺跡を取り上げて、配属先の学生たちに 「アンコール遺跡と土木工学」 というテーマで ビデオCDを教材にしたところ、非常に好評だった。 当校の電気・電子工学科に比べ入試競争率が圧倒的に高い土木工学科の生徒たち(中でも何故か女生徒の割合が多い)に対して、アンケート調査を実施した。質問内容は、なぜ土木工学科を選択したのか?、将来どういう職業に就きたいか? ということで、前者については「カンボジアの発展に役立てることができる」、「給料の良い職を得やすい」、後者については、「土木技術者や土木工学の指導者」、「地方でなく、都会で職に就きたい」 等々であった。男生徒が現実的なのに対して、女生徒は「信じられない何かを作り出すことができる」、「有名な土木技術者になりたい」等 あこがれを描いて夢想的な(?)回答が多かった。法制度をはじめインフラの整備が極端に遅れている同国では、教師にとっては給料が安くて(当時の月給は20から30 USドル)副業に頼らざるを得ないので、本業に専念する時間がなかなか取れない、また生徒たちにとっては、卒業しても適切な就職先がない(知り合った現地の建設会社や設計会社等を紹介したりしたが) 等々の大きな課題を抱えていた。 測量実習や土質試験実習はまだよいとしても、埃だらけになりながら 炎天下で男生徒に混じってレンガ積み実習やタイル張り実習に励んでいる女生徒の姿を見ていると、何とかしてやらねば…という気持ちにかられたことであった。 毎年シエムリアップで開催されている アンコールワット国際ハーフマラソン(五輪メダリストの有森裕子さん支援)にも SV仲間と誘い合って参加し、幾つかのアンコール遺跡群の中を走って(終盤に 観光客を乗せた象に追い抜かれたりしたが)、良い気分転換となった。 休日には、近くのホテルのコートで テニスを楽しんでいた。

  • [プノンペンでの生活]   <br /><br />  プノンペンには フランス料理,インド料理 ,ロシア料理,メキシコ料理,ベトナム料理 等 各国の料理が 手頃な値段で賞味できた。 また 日本料理店も少なからずあって、中でも 香川県出身の日本人が営む和食店の 讃岐うどんの味は忘れられない。 日用品買い出しのため タイのバンコクや ベトナムのホーチミンには よく出かけた。

    [プノンペンでの生活]

    プノンペンには フランス料理,インド料理 ,ロシア料理,メキシコ料理,ベトナム料理 等 各国の料理が 手頃な値段で賞味できた。 また 日本料理店も少なからずあって、中でも 香川県出身の日本人が営む和食店の 讃岐うどんの味は忘れられない。 日用品買い出しのため タイのバンコクや ベトナムのホーチミンには よく出かけた。

  • [プノンペンの北朝鮮レストラン]  <br /><br />  家の近くにあった北朝鮮レストラン 「平壌(ピョンヤン)」 にはよく出掛けた(来客がある度に案内)。 ウエイトレスたちによる喜び組の踊りや楽器演奏等 それに日本語でのカラオケやダンスもできる。 ユッケ-生肉-が安くて美味しかった。 彼女たちは基本的に敷地内で生活していて、外出は認められていない とのことで、もちろん国の体勢や生活状況等に関する話しをすることは もってのほか。 <br />今も所用で 毎年のようにプノンペンを訪れている。<br /><br />  また カウンターパートを伴って、ネパールで開催されたJICA主催の自然災害削減セミナーに参加して、カンボジア恒例の“洪水被害の実態および対応策等”について報告するとともに、地元の地質学者たちの率いる 野外セミナー にも参画して、万年雪を戴く八千m級のヒマラヤ山系が、インド大陸移動による造山運動によって 未だに隆起しつつある ということを実感した。 任国外旅行では ニュージーランドの氷河や温泉、オーストラリア西海岸部のパース周辺 等を訪れて 気分転換を図った。 帰国後 家族旅行で韓国を訪れた際には、板門店ツアーに参加して 北朝鮮の雰囲気を味わった。

    [プノンペンの北朝鮮レストラン]

    家の近くにあった北朝鮮レストラン 「平壌(ピョンヤン)」 にはよく出掛けた(来客がある度に案内)。 ウエイトレスたちによる喜び組の踊りや楽器演奏等 それに日本語でのカラオケやダンスもできる。 ユッケ-生肉-が安くて美味しかった。 彼女たちは基本的に敷地内で生活していて、外出は認められていない とのことで、もちろん国の体勢や生活状況等に関する話しをすることは もってのほか。
    今も所用で 毎年のようにプノンペンを訪れている。

    また カウンターパートを伴って、ネパールで開催されたJICA主催の自然災害削減セミナーに参加して、カンボジア恒例の“洪水被害の実態および対応策等”について報告するとともに、地元の地質学者たちの率いる 野外セミナー にも参画して、万年雪を戴く八千m級のヒマラヤ山系が、インド大陸移動による造山運動によって 未だに隆起しつつある ということを実感した。 任国外旅行では ニュージーランドの氷河や温泉、オーストラリア西海岸部のパース周辺 等を訪れて 気分転換を図った。 帰国後 家族旅行で韓国を訪れた際には、板門店ツアーに参加して 北朝鮮の雰囲気を味わった。

  • [マラウイでのダイアモンド探査] <br /><br />   一方 マラウイでは単身赴任だったが、地元の鉱山局職員と共に 鉱物調査のためほぼ全国を踏査して廻った結果、宝石類を含む非金属鉱物資源等は大きな可能性を秘めていることが分かり、政府の計画的かつ継続的な資金援助,系統だった鉱産物の賦存・採掘調査の必要性や、密輸入等を防止するための法制度の見直しと遵守 等の改善すべき課題を提起した。 また ダイアモンド探査では、事前にダイアモンド王国 ボツワナの地質調査所を訪ねて 磁気探査等の探査方法と結果の解析手法を入手し、マラウイの山中で 現地の地質調査所の職員たちと何度かテント生活をして、彼らの日常生活の一端を体験した。 はるかに水平線を臨む壮大なマラウイ湖(かのリヴィングストンが「星の湖」と称えた)や、毎年 9~11月に鮮やかな紫色の花を付けるジャカランダの姿 は忘れられない。 ここでは、収集した各種宝石類の原石を含むマラウイ鉱物の 「標本箱」および「鉱物図鑑」 を作成・提出した。<br />  国連のWFP(世界食糧計画)のFight Hunger(「世界中の貧しい児童に食料を」というキャンペーン)で、往復8km余り(約3時間)のWalkingに参加したが、残念ながら 日本人は他に見掛けなかった。

    [マラウイでのダイアモンド探査]

    一方 マラウイでは単身赴任だったが、地元の鉱山局職員と共に 鉱物調査のためほぼ全国を踏査して廻った結果、宝石類を含む非金属鉱物資源等は大きな可能性を秘めていることが分かり、政府の計画的かつ継続的な資金援助,系統だった鉱産物の賦存・採掘調査の必要性や、密輸入等を防止するための法制度の見直しと遵守 等の改善すべき課題を提起した。 また ダイアモンド探査では、事前にダイアモンド王国 ボツワナの地質調査所を訪ねて 磁気探査等の探査方法と結果の解析手法を入手し、マラウイの山中で 現地の地質調査所の職員たちと何度かテント生活をして、彼らの日常生活の一端を体験した。 はるかに水平線を臨む壮大なマラウイ湖(かのリヴィングストンが「星の湖」と称えた)や、毎年 9~11月に鮮やかな紫色の花を付けるジャカランダの姿 は忘れられない。 ここでは、収集した各種宝石類の原石を含むマラウイ鉱物の 「標本箱」および「鉱物図鑑」 を作成・提出した。
    国連のWFP(世界食糧計画)のFight Hunger(「世界中の貧しい児童に食料を」というキャンペーン)で、往復8km余り(約3時間)のWalkingに参加したが、残念ながら 日本人は他に見掛けなかった。

  • [マラウイ人の食事]   <br /><br />  彼らの主食は、メイズという白トウモロコシの粉を加熱して練り合わせた「シマ」ーそれ自体は味がほとんどないーで、魚や肉,野菜などをおかずにして食べる

    [マラウイ人の食事]

    彼らの主食は、メイズという白トウモロコシの粉を加熱して練り合わせた「シマ」ーそれ自体は味がほとんどないーで、魚や肉,野菜などをおかずにして食べる

  • [マラウイでの情景]

    [マラウイでの情景]

  • [ヴィクトリアの滝(ザンビア) 訪問]  <br /><br />  任国外旅行では、ザンビアの世界遺産 ヴィクトリアの滝(高さ≒108m,幅≒1.7km),野生動物の王国で 人類発祥(数100万年前)の地とされるオルドヴァイ渓谷のあるタンザニア,ダイアモンド王国 ボツワナ,南アフリカのケープタウン周辺でのアフリカペンギンの営巣地や クジラが子育てにやって来るハマナス それに アフリカ大陸最南端のアグラス岬 等を訪れた。<br />  <br />

    [ヴィクトリアの滝(ザンビア) 訪問]

    任国外旅行では、ザンビアの世界遺産 ヴィクトリアの滝(高さ≒108m,幅≒1.7km),野生動物の王国で 人類発祥(数100万年前)の地とされるオルドヴァイ渓谷のあるタンザニア,ダイアモンド王国 ボツワナ,南アフリカのケープタウン周辺でのアフリカペンギンの営巣地や クジラが子育てにやって来るハマナス それに アフリカ大陸最南端のアグラス岬 等を訪れた。

  • [チーターの兄弟と(ボツワナにて)]

    [チーターの兄弟と(ボツワナにて)]

  • [アフリカ大陸最南端のアガラス岬にて(南アフリカ)]<br /><br />  水平線の彼方には 南極大陸がある。<br />手前の標識には、「左 インド洋,右 大西洋」の表示あり。

    [アフリカ大陸最南端のアガラス岬にて(南アフリカ)]

    水平線の彼方には 南極大陸がある。
    手前の標識には、「左 インド洋,右 大西洋」の表示あり。

  • [ウイグル族の踊り 他 (新疆ウイグル自治区にて)]<br /><br />  2010年には、中国人の学者につけてもらったという 当方の名前 「羌(中国名 チン ; 戦国時代の五胡十六国の五胡の一つ)」 の由来をたどるべく 敦煌や新疆ウイグル自治区を含めての中国シルクロード紀行に赴いた。<br /> <br />*敦煌の資料館では 係員から 近くに羌族の集落がある 等の説明を受けたが、時間が無くて 現実に訪れることはかなわなかった (娘に 敦子 という名前をつけるほど 以前から敦煌には憧れがあり、一度は行ってみたい と思っていた) 。

    [ウイグル族の踊り 他 (新疆ウイグル自治区にて)]

    2010年には、中国人の学者につけてもらったという 当方の名前 「羌(中国名 チン ; 戦国時代の五胡十六国の五胡の一つ)」 の由来をたどるべく 敦煌や新疆ウイグル自治区を含めての中国シルクロード紀行に赴いた。

    *敦煌の資料館では 係員から 近くに羌族の集落がある 等の説明を受けたが、時間が無くて 現実に訪れることはかなわなかった (娘に 敦子 という名前をつけるほど 以前から敦煌には憧れがあり、一度は行ってみたい と思っていた) 。

  • [サウジアラビアにて(2005年)]<br /><br />  また サウジアラビア,ベトナム,ミャンマーに土木技術者として、さらに、中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダで 南スーダンからの難民支援に携わり、自動車検査員養成事業の現地代表として、今世紀初めにインドネシアから独立した 東ティモールにも滞在した。

    [サウジアラビアにて(2005年)]

    また サウジアラビア,ベトナム,ミャンマーに土木技術者として、さらに、中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダで 南スーダンからの難民支援に携わり、自動車検査員養成事業の現地代表として、今世紀初めにインドネシアから独立した 東ティモールにも滞在した。

  • [アウン・サン・スーチーさん(ミャンマーにて)]<br /><br />  2013年から14年にかけて6ケ月あまり滞在したミャンマー(旧 ビルマ ; 我々の年代の者にとって ビルマといって先ず思い浮かぶのは、第二次世界大戦中のインパール作戦での 日本兵をモデルとした 竹山道雄原作の児童向けの小説で、市川崑監督によって2回映画化された 「ビルマの竪琴」 それに タイとの国境近くにあるカンチャナブリでの 日英軍の攻防を描いた映画 「戦場に架ける橋」ー主題歌;クワイ川マーチーだろう)では、日麺両政府による経済特区開発プロジェクトに携わった。 時の大統領や副大統領 それに日本の経産省他の政府関係者の視察が相次ぎ、NHK TVの取材等もあって、両国の期待の大きさがうかがわれた(同国は 功徳を信じる敬虔な上座部仏教徒の多い多民族国家 ; 2021年2月1日 ミャンマーで 国軍が突然クーデターを起こし、アウン・サン・スーチー国家顧問らが拘束されて、国民民主連盟-NLD-の政権が覆された。 以降 各地で大規模な人民デモや不服従運動が続いており-国軍の発砲により多数の死者も発生-、インターネットや報道機関等の情報規制もなされている とのことで、早期の真の民主化を祈るばかりである)。<br />

    [アウン・サン・スーチーさん(ミャンマーにて)]

    2013年から14年にかけて6ケ月あまり滞在したミャンマー(旧 ビルマ ; 我々の年代の者にとって ビルマといって先ず思い浮かぶのは、第二次世界大戦中のインパール作戦での 日本兵をモデルとした 竹山道雄原作の児童向けの小説で、市川崑監督によって2回映画化された 「ビルマの竪琴」 それに タイとの国境近くにあるカンチャナブリでの 日英軍の攻防を描いた映画 「戦場に架ける橋」ー主題歌;クワイ川マーチーだろう)では、日麺両政府による経済特区開発プロジェクトに携わった。 時の大統領や副大統領 それに日本の経産省他の政府関係者の視察が相次ぎ、NHK TVの取材等もあって、両国の期待の大きさがうかがわれた(同国は 功徳を信じる敬虔な上座部仏教徒の多い多民族国家 ; 2021年2月1日 ミャンマーで 国軍が突然クーデターを起こし、アウン・サン・スーチー国家顧問らが拘束されて、国民民主連盟-NLD-の政権が覆された。 以降 各地で大規模な人民デモや不服従運動が続いており-国軍の発砲により多数の死者も発生-、インターネットや報道機関等の情報規制もなされている とのことで、早期の真の民主化を祈るばかりである)。

  • [「OISHII SUSHI(おいしい寿司)店」]<br /><br />  旧首都ヤンゴンにある「OISHII SUSHI(おいしい寿司)」という店名の寿司店の店長は 10数年日本で修行してきたミャンマー人で、にぎる職人も 注文を取る女性たちも全てミャンマー人。 にぎりや天ぷら,みそ汁をはじめとする数十種類のメニューがあって、日本の半額ぐらいで食べられる。 いつもミャンマー人の家族やカップルで賑わっており、壁には 黒木瞳のカレンダーが架かっていた。

    [「OISHII SUSHI(おいしい寿司)店」]

    旧首都ヤンゴンにある「OISHII SUSHI(おいしい寿司)」という店名の寿司店の店長は 10数年日本で修行してきたミャンマー人で、にぎる職人も 注文を取る女性たちも全てミャンマー人。 にぎりや天ぷら,みそ汁をはじめとする数十種類のメニューがあって、日本の半額ぐらいで食べられる。 いつもミャンマー人の家族やカップルで賑わっており、壁には 黒木瞳のカレンダーが架かっていた。

  • [ミャンマー人カップルが旅行で来日(2015年)]<br /><br />  ミャンマー滞在時の業務仲間で、ヤンゴン・インターナショナルマラソンにも一緒に参加した若いミャンマー人カップルが  2015年に旅行で来日した際には 、お茶会(彼らが通常 寺社で長時間お祈りする時は 横座り-男女で逆方向-するが、長い間正座していたのは 驚きだった)や 祇園甲部歌舞練場での「都をどり」(曽根崎心中 の場面が理解出来なかったよう),お好み焼きやたこ焼き それに和食等 日本の文化や風習を体験してもらう のと同時に、当方がアルバイトをしている小学校の学童保育生たちとの交流会に参加してもらい(ミンガラーバーこんにちわーで迎えられ、歌やけん玉,折り紙,あやとり他で歓待された。逆に 保育生たちには、ミャンマーの子供たちの生活の様子や、ミャンマー語のあいさつを教えたり、ロンジーー伝統の男女腰巻きーの着方やタナカー日焼け止めの頬塗りーの実演を見せたり、同時に保育生たちにタナカを付けてあげたりして)、予定時間を大幅に上回る 楽しいコミュニケーションの場を持つことが出来た(男性の方は、父親の仕事の関係で 小学校1年生から4年生まで東京で過ごしていた とのことで、きれいな日本語を話す。学童保育生との交流では ちょうど同じ学年の生徒たちだったので、ひどく懐かしく感じたと言っていた。また、女性の方ーThwe Thwe テュエ・テュエーから後に受け取ったメールでは、学童保育生たちは純真な心を持っていて、外国人に対して順応性があり 楽しかった と言っていた。彼女は分かりやすいイギリス英語を話す。滞在中に興味を持ったのか 印鑑がほしい と言われ、後日 ミャンマーを訪れる人が居たので 手渡しを依頼した)。 ミャンマーの子供たちは、男子はサッカー,女子は縄跳び等で遊んでいるそうで、また休みの日には塾へ行くことが多く、特に英語に力を入れているとのこと(ちなみに ミャンマー人の識字率は90%を超えている;義務教育制度と寺院教育の普及が原因)。そのあと100均のダイソーを訪れたところ(ヤンゴンにもダイソーがあって 160円相当均一の商品が売られているが、品物が限られているので、ここ日本ではでは 品数の多さに戸惑ったとのこと)、小さい鯉のぼり等の買い物を楽しんでいた。ヤンゴンに滞在するこのカップルは 帰国後結婚し、その後 男子が生まれた とのことで、出来れば両親とも一緒に日本を訪れたい というメールが入っている。 銀行での現金引出しや 街中での酸素ボンベを求めての長い行列 等々 先の見えないウイズコロナ禍と 今回の国軍によるクーデター事件 でどうなるか ? 気になるところ(現在 このカップルとは メール連絡が取れないまま)。 <br />*「Japan Rail Pass」という 新幹線(「のぞみ」を除く)等 鉄道・路線バスが日本全国 どこでも乗り降り自由で利用できる特別乗車券(日本国内では購入不可)があるので、ヤンゴンでの取り扱い場所を予め教えてあげておいたところ、この旅では安く利用出来た と感謝された。<br />

    [ミャンマー人カップルが旅行で来日(2015年)]

    ミャンマー滞在時の業務仲間で、ヤンゴン・インターナショナルマラソンにも一緒に参加した若いミャンマー人カップルが 2015年に旅行で来日した際には 、お茶会(彼らが通常 寺社で長時間お祈りする時は 横座り-男女で逆方向-するが、長い間正座していたのは 驚きだった)や 祇園甲部歌舞練場での「都をどり」(曽根崎心中 の場面が理解出来なかったよう),お好み焼きやたこ焼き それに和食等 日本の文化や風習を体験してもらう のと同時に、当方がアルバイトをしている小学校の学童保育生たちとの交流会に参加してもらい(ミンガラーバーこんにちわーで迎えられ、歌やけん玉,折り紙,あやとり他で歓待された。逆に 保育生たちには、ミャンマーの子供たちの生活の様子や、ミャンマー語のあいさつを教えたり、ロンジーー伝統の男女腰巻きーの着方やタナカー日焼け止めの頬塗りーの実演を見せたり、同時に保育生たちにタナカを付けてあげたりして)、予定時間を大幅に上回る 楽しいコミュニケーションの場を持つことが出来た(男性の方は、父親の仕事の関係で 小学校1年生から4年生まで東京で過ごしていた とのことで、きれいな日本語を話す。学童保育生との交流では ちょうど同じ学年の生徒たちだったので、ひどく懐かしく感じたと言っていた。また、女性の方ーThwe Thwe テュエ・テュエーから後に受け取ったメールでは、学童保育生たちは純真な心を持っていて、外国人に対して順応性があり 楽しかった と言っていた。彼女は分かりやすいイギリス英語を話す。滞在中に興味を持ったのか 印鑑がほしい と言われ、後日 ミャンマーを訪れる人が居たので 手渡しを依頼した)。 ミャンマーの子供たちは、男子はサッカー,女子は縄跳び等で遊んでいるそうで、また休みの日には塾へ行くことが多く、特に英語に力を入れているとのこと(ちなみに ミャンマー人の識字率は90%を超えている;義務教育制度と寺院教育の普及が原因)。そのあと100均のダイソーを訪れたところ(ヤンゴンにもダイソーがあって 160円相当均一の商品が売られているが、品物が限られているので、ここ日本ではでは 品数の多さに戸惑ったとのこと)、小さい鯉のぼり等の買い物を楽しんでいた。ヤンゴンに滞在するこのカップルは 帰国後結婚し、その後 男子が生まれた とのことで、出来れば両親とも一緒に日本を訪れたい というメールが入っている。 銀行での現金引出しや 街中での酸素ボンベを求めての長い行列 等々 先の見えないウイズコロナ禍と 今回の国軍によるクーデター事件 でどうなるか ? 気になるところ(現在 このカップルとは メール連絡が取れないまま)。
    *「Japan Rail Pass」という 新幹線(「のぞみ」を除く)等 鉄道・路線バスが日本全国 どこでも乗り降り自由で利用できる特別乗車券(日本国内では購入不可)があるので、ヤンゴンでの取り扱い場所を予め教えてあげておいたところ、この旅では安く利用出来た と感謝された。

  • [日本文化の紹介]  <br /><br />  これらの開発途上国では、業務の合間を見つけて 現地の大学や専門学校等で、持参していた写真や舞妓の踊りの動画,ポスターなどを使って、日本の文化や風習などの紹介にも努めた(天皇の男系世襲制度の話しをした時に、それはおかしい という意見のあったのが印象的)。<br />  また、「アワテズ,アセラズ,アナドラズ そして アキラメズ」 という教訓と 「自分の身は自分で守る(予防)」 という課題を学んだ。 <br />開発途上国に滞在していると 毎日のようになんらかの発見が有り(それがまた楽しみでもあるが)、長期間 外国人と共に生活するとなると、時にはリフレッシュメント(気分転換)が不可欠となる。 現地人の結婚式に招かれたり、マラソン大会やテニスの試合に参加したり、地元の大学等でのイベントに出席したり、また任国外旅行に出掛けたりした。休日には、趣味のパソコン・ミュージックに興じて 時の経つのを忘れるほどのこともあった。頻繁に生じる停電や断水 それに時間感覚の違いや 賄賂要求,役所でのたらい回し 等に悩まされたり、時には日本語に飢えることもあったが、日本語の挨拶や応対方法(ただいま-おかえりなさい 他)を教えるなどして、地元住民の気さくで人なつっこいふるまい、それに何よりも 子供たちの純真な目と 屈託の無い笑顔には 随分癒やされた。 <br />いずれの業務でも、現地人との日頃の挨拶や簡単な会話(買物や乗り物の値段交渉 等)は それぞれの現地語で対応するようにして 彼らに親しみを感じてもらったが、実際の業務での主体は英語で、コミュニケーションや日常業務に特に支障が出るようなことは無く、また危ない目や疾病に罹ったことも皆無で、業務は滞りなく遂行できた。<br />  なお、我が日本は 彩り豊かな四季(春夏秋冬)に恵まれている という有難さを 改めて認識した。 舟木一夫の「高校三年生」「修学旅行」「学園広場」の3部作が懐かしい。

    [日本文化の紹介]

    これらの開発途上国では、業務の合間を見つけて 現地の大学や専門学校等で、持参していた写真や舞妓の踊りの動画,ポスターなどを使って、日本の文化や風習などの紹介にも努めた(天皇の男系世襲制度の話しをした時に、それはおかしい という意見のあったのが印象的)。
    また、「アワテズ,アセラズ,アナドラズ そして アキラメズ」 という教訓と 「自分の身は自分で守る(予防)」 という課題を学んだ。
    開発途上国に滞在していると 毎日のようになんらかの発見が有り(それがまた楽しみでもあるが)、長期間 外国人と共に生活するとなると、時にはリフレッシュメント(気分転換)が不可欠となる。 現地人の結婚式に招かれたり、マラソン大会やテニスの試合に参加したり、地元の大学等でのイベントに出席したり、また任国外旅行に出掛けたりした。休日には、趣味のパソコン・ミュージックに興じて 時の経つのを忘れるほどのこともあった。頻繁に生じる停電や断水 それに時間感覚の違いや 賄賂要求,役所でのたらい回し 等に悩まされたり、時には日本語に飢えることもあったが、日本語の挨拶や応対方法(ただいま-おかえりなさい 他)を教えるなどして、地元住民の気さくで人なつっこいふるまい、それに何よりも 子供たちの純真な目と 屈託の無い笑顔には 随分癒やされた。
    いずれの業務でも、現地人との日頃の挨拶や簡単な会話(買物や乗り物の値段交渉 等)は それぞれの現地語で対応するようにして 彼らに親しみを感じてもらったが、実際の業務での主体は英語で、コミュニケーションや日常業務に特に支障が出るようなことは無く、また危ない目や疾病に罹ったことも皆無で、業務は滞りなく遂行できた。
    なお、我が日本は 彩り豊かな四季(春夏秋冬)に恵まれている という有難さを 改めて認識した。 舟木一夫の「高校三年生」「修学旅行」「学園広場」の3部作が懐かしい。

  • [「世界で暮らす」お話し会 と 「長岡京市民大学」 に参画] <br />  <br />  在日中は、居住市内の小学校で学童保育指導員のアルバイトを続けており、滞在した国々で入手した現地語版の日本の漫画本(ドラエモンやワンピースなど)をそれぞれの教室の図書室に寄贈したり、同時に 各種宝石類の原石やアンモナイト等の化石を見せたりしながら紹介する 「世界で暮らす」 と題するお話し会を 継続的に実施中(我が国とはひと味もふた味も異なる 海外の様子や外国語に興味を持ってもらうため)。 「同じ地球なのに、いろんな暮らし方や文化があることを知って びっくりした」とか、「色々な宝石の原石を触れてよかった」、…… の感想があり、大いに楽しんでもらい また重宝されている。 いきいきセカンドライフを実践する 中高年者対象の「長岡京市民大学」にも参画し、滞在した開発途上国の様子や 学んだ教訓などを紹介して、好評を博している。<br /><br />  海外では、時間があると リフレッシュメント(気分転換)を兼ねてよくテニス(硬式がほとんどだったが…)を楽しんだ。 幸いにも、開発途上の国々に滞在中も、病気にかかったり 落ちこんだりすることは無く、安全かつ安心に過ごせたのは、飽きもせず テニスを長年続けたことによって、身体的に 肩,腕,腰,足などが強く鍛えられる と同時に、精神的に 心も大きく鍛えられたから と自負している次第である。<br /><br />  開発途上国に関しては 以前から大きな関心と好奇心,興味を持っている。 現地に入り込んでの草の根的な模索活動を通じて、そこの実情に見合った被支援者の?助努力を促すような要件を見出し 、確実に効果のある支援を実施する という行動が必要かつ大きな課題だと考える。これまで培ってきた知識やインフラ整備等の実体験を踏まえて、今後ともさらなる支援,協力活動 それに情報発信 を続けたい と思っている。<br /><br />座右の銘 ; 可能な限り 自分の足で歩いて、眼で見て、耳で聴いて、鼻で嗅いで、手で触 ってー時には口で舐めてー、体験として確かめる<br />

    [「世界で暮らす」お話し会 と 「長岡京市民大学」 に参画] 

    在日中は、居住市内の小学校で学童保育指導員のアルバイトを続けており、滞在した国々で入手した現地語版の日本の漫画本(ドラエモンやワンピースなど)をそれぞれの教室の図書室に寄贈したり、同時に 各種宝石類の原石やアンモナイト等の化石を見せたりしながら紹介する 「世界で暮らす」 と題するお話し会を 継続的に実施中(我が国とはひと味もふた味も異なる 海外の様子や外国語に興味を持ってもらうため)。 「同じ地球なのに、いろんな暮らし方や文化があることを知って びっくりした」とか、「色々な宝石の原石を触れてよかった」、…… の感想があり、大いに楽しんでもらい また重宝されている。 いきいきセカンドライフを実践する 中高年者対象の「長岡京市民大学」にも参画し、滞在した開発途上国の様子や 学んだ教訓などを紹介して、好評を博している。

    海外では、時間があると リフレッシュメント(気分転換)を兼ねてよくテニス(硬式がほとんどだったが…)を楽しんだ。 幸いにも、開発途上の国々に滞在中も、病気にかかったり 落ちこんだりすることは無く、安全かつ安心に過ごせたのは、飽きもせず テニスを長年続けたことによって、身体的に 肩,腕,腰,足などが強く鍛えられる と同時に、精神的に 心も大きく鍛えられたから と自負している次第である。

    開発途上国に関しては 以前から大きな関心と好奇心,興味を持っている。 現地に入り込んでの草の根的な模索活動を通じて、そこの実情に見合った被支援者の?助努力を促すような要件を見出し 、確実に効果のある支援を実施する という行動が必要かつ大きな課題だと考える。これまで培ってきた知識やインフラ整備等の実体験を踏まえて、今後ともさらなる支援,協力活動 それに情報発信 を続けたい と思っている。

    座右の銘 ; 可能な限り 自分の足で歩いて、眼で見て、耳で聴いて、鼻で嗅いで、手で触 ってー時には口で舐めてー、体験として確かめる

  • [台湾とポーランドからの賀状] 

    [台湾とポーランドからの賀状] 

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