2019/10/02 - 2019/10/02
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frau.himmelさん
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2019秋旅は今回で最終回です、なんて先日フランクフルト編で終わったはずなのに、まだ未練たらしく続きを書いております。
2年前の秋旅は70歳を越えたシニア夫婦の二人旅、体力的にも観光名所をバタバタ回るのは疲れるから、美術館や博物館をのんびりと鑑賞する旅にしよう、と言う予定でした。旅行記の方は一連の流れは終了しましたが、美術館・博物館はポツンポツンと書き残しがあります。気が向いたときにそれらを見つけ出して、備忘録として書き綴りたいと思います。
さて、表題の「Little BIG City」って知っていますか?ですが、「その1」「その2」は終わっておりますので、今回はその3「現代歴史編」です。
1933年のヒトラーが台頭した第三帝国、第二次大戦突入、ベルリン陥落、分断されたドイツ、壁の崩壊、ドイツ統一・・、など目まぐるしい激動の歴史を駆け抜けてきたドイツ、私の年齢から言っても年代が重なるところもあり、大変興味がある分野でした。
例によって、勘違い間違いなどありましたら、ご指摘くださるとうれしいです。
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1929年の世界恐慌の翌年、1930年9月にドイツでは総選挙がありました。そしてナチス党が大躍進しました。
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1933年には、ナチ党党首ヒトラーはヒンデンブルク大統領より首相指名を受け、一党独裁体制を確立します。
1月30日、ヒトラーの政権掌握を祝って光の祭典が開催されました。
◇◆青い光に包まれた展示が多く、現場で直接見る分にはとても幻想的で美しいのですが、写真となると大変見難いですね。ご容赦を。 -
煌々と輝く松明を捧げ持つ突撃隊員、親衛隊員がブランデンブルク門を通って延々と行進しました、
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ブランデンブルク門にはハーケンクロイツの旗が誇らしげにはためいています。
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沿道を埋め尽くす熱狂した市民たちは、何度も何度も「ハイルヒトラー!」と叫び、片手を突きだす敬礼で祝っています。
ワイマール共和国が滅びた夜でした。 -
ヒトラーの松明行列からひと月ほど経った1933年2月27日の夜、帝国議事堂に火の手が上がりました。
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消火にあたる消防自動車・野次馬。
現場にはヒトラーもゲッペルスもゲーリンクも早い段階で駆けつけたそうです。 -
議事堂に火をつけたとして逮捕されたのは、オランダ人の共産党員マリヌス・ファン・デア・ラッペでした。
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ヒトラーはこれを共産党によるナチ党への挑戦ととらえ、共産党員狩りに乗りだします。
ゲッベルスは4000人以上の共産党員の逮捕を命じます。 -
ヒトラーの政権掌握後、ダッハウを皮切りに各地に強制収容所が設置されました。
そしてユダヤ人や反ナチ、政治犯、シンティ・ロマ、犯罪者など次々に収容しました。
収容所の周りにはニュートラルゾーンを設けて、高電圧の鉄条網を張り、逃亡しようとゾーンの中に入ると即刻射殺されました。 -
1933年5月10日、ナチスの思想に適さないもの、ナチスにより退廃的とされた25000冊以上の「非ドイツ的」書物がベーベル広場で焼かれました。
その中にはカール・マルクス、エーリッヒ・マン、ケストナーなどの書物。
またユダヤ人であるハインリッヒ・ハイネや妻ヴァイゲルがユダヤ人である劇作家ブレヒトの作品なども焚書の対象となっていました。 -
1936年はヒトラーが威信をかけたベルリンオリンピックが開催されました。
ヒトラーはプロパガンダとして、全世界に、統一されたドイツを誇示したかったのです。したがってオリンピックの期間だけ反ユダヤ主義と人種差別主義を隠していました。
ところが、アメリカ人の黒人選手オーエンスが四冠に輝き、「オリンピックのヒーロー」となりました。
それが面白くないヒトラーはオーエンスとの握手を拒否したと言われています。
なお、オーエンスはベルリンオリンピックで、スポーツメーカー「アディダス」のシューズで4冠を達成したことで、「アディダス」の宣伝に寄与しました。
◇◆ところどころにブルーの案内板が設置され、説明がしてあります。 -
反ユダヤ主義を掲げるナチ党がドイツ第1党になったことで、ドイツのユダヤ人は激しい迫害に晒されることになります。
1938年11月9日夜、ドイツ各地でユダヤ人の住居や店舗、シナゴーグなどが襲撃され放火されました。
このことは「水晶の夜」または「ポグロム11」と呼ばれます。 -
暴動を実行したのは突撃隊(SA)。その裏にはヒトラーやゲッベルスがいました。
この事件によりユダヤ人に対する迫害に拍車がかかり、ホロコーストへと一気に突き進みます。
「水晶の夜」とは割れたショーウィンドウなどのガラスが月光に照らされて水晶のようにキラキラと輝いていたことより、ゲッベルスが名付けたとされています。 -
そんな中、ユダヤ人の子供たちを救ったユダヤ人女性教師がいました。
ベルリンで様々な手立てを施して、ユダヤ人の子供のための学校を設立したレオノラ・ゴールドシュミットです。
彼女は水晶の夜の後、イギリス大使館と掛け合い、80人のユダヤ人生徒と数名の教師と共にイングランドへ脱出することに成功しました。
この教師のことは、数年前にBSドキュメンタリーで「迫害に立ち向かったユダヤ人教師」という番組でやっていましたね。 -
そして、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされます。
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最初の方こそヒトラー率いるドイツ軍は、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのですが、その後は連合軍に進撃され、1945年4月にはソ連赤軍によりベルリンは包囲されました。
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炎上するベルリンの街。
◇◆背後の炎は映像技術で写し出されるものですが、大変迫力があります。 -
カイザーヴィルヘルム教会も空爆により破壊されました。
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ソ連赤軍や連合軍が刻一刻とベルリンに迫る中、敗戦を悟ったヒトラーは地下壕に引き篭もりました。
そして、1945年4月30日、前日結婚式を挙げたエファ・ブラウンと共にこの壕で自殺しました。
ヒトラーが最後の105日間を過ごした総統の地下壕もあります。 -
ヒトラーとエファの遺体は、ヒトラーの生前の指示を受けた兵士によってガソリンをかけて焼却されました。
その後、ネオナチの聖地になることを恐れエルベ川に散骨されました。 -
宣伝相ゲッペルスはヒトラーが死亡したことを確認し、地下豪で妻と6人の子供と共に服毒自殺しました。
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1945年5月2日、ソ連赤軍はベルリンを制圧し、ライヒスタークの上に赤旗を掲げた(写真は資料より)。
そして5月8日、ドイツの無条件降伏。 -
破壊されたベルリン。
果てしなく続く廃墟、うず高く積み上げられた瓦礫・・・。
多くの犠牲者と甚大な被害を出しました。 -
荒廃した廃墟のベルリン。
戦死した夫や息子、捕虜となった男性に代わって瓦礫を片付けるのは女性たちの仕事だった。
彼女たちはトゥリュマーフラウ(瓦礫女)と呼ばれました。 -
その頃、ポツダムでは、アメリカ、イギリス、ソ連の3か国首脳が集まって、大戦後の戦後処理問題が話し合われていました。
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ポツダム会談の空白をぬって、英のチャーチル首相は瓦礫の街となったベルリンを視察しました。
そこで彼が見たものは、「壊れた建物よりも、戦争で生きる目的をなくした老人・女性・子供たちのうつろな目が強く印象に残った」と。 -
ポツダム会談後ベルリンは2つに分断されることが決まりました。
西側は米英仏の分割統治になり、東側はソ連が統括することに。
ところが、戦後復興は西側と東側で大きな格差が生まれるのです。
取り残された東側を統治するソ連にとっては面白くありません。
そこで、1948年6月24日、ソ連は西ベルリンに入る陸路を全て封鎖して、生活物資などの供給網を断つ作戦にでました。
○テンペルホーフ空港:2008年の閉鎖までテンペルホーフ空港はベルリンの3つの国際空港の一つでした。 -
それに対抗して米空軍が行ったのは、史上最大の大空輸作戦です。
孤立した西ベルリン市民の命を救うため、飛行機で生活物資や燃料などを夜昼となく輸送しました。なんと、西ドイツから西ベルリンへの空輸作戦の回数は、27万7000回に達するそうです。
なお下のパネル中の「Rosinenbonber」とは、パイロットたちが、輸送機の窓から手作りのパラシュートにつけてお菓子やキャンディーを落としてくれること。閉鎖された西ベルリンの子供たちの喜ぶ顔が見えるようです。
ついに、西側の物量作戦の前に屈したソ連は、1949年5月11日にベルリン封鎖を中止しました。 -
封鎖が解除された1945年5月23日、アメリカ・イギリス・フランス連合の西ドイツ(BRD)と東ドイツ(DDR)と二つの国に分かれました。
しかし西と東の格差は広がるばかり・・・。
西側の中心だったクーダム(クアフュルステンダム)の賑わい。
遊園地やツォーパラストが見える。 -
西側の繁華街クアフュルテンダムの地下鉄。
入り口でピアノを弾いているのはだれ? -
老舗カフェー、クランツラーでは伝統的なユニフォームをつけたウェイトレスが、待たせることなく飲み物を運んでくれる。
長らくベルリン国際映画祭のメイン会場だった「ツォーパラスト」。 -
行列ができているお店。
ショーウィンドーには色とりどりの商品が飾られています。
西ベルリン市民は、西側資本主義の自由な空気、潤沢な物質、それに文化など入ってきて、豊かな生活を謳歌していました。 -
なぜかここにドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラスが。
彼は1959年に発表した「ブリキの太鼓」で一躍有名作家の仲間入り。
場面は「ブリキの太鼓」の主人公の少年と父親でしょうか。
ギュンター・グラスは、2006年に第三帝国時代、ナチスの党員だったことをカミングアウトして大きな波紋を呼びました。
ノーベル賞を自主返還すべきとの意見も出ました。 -
この頃はまだ普通に通行できましたので、東から西へ通勤している人も大勢いましたし、東ベルリンの人は魅力的な西ベルリンに行くのは楽しみでした。
しかし、東ドイツの政治体制に不満を持つ人々の西ドイツへの大量流出や、頭脳流出などが相次ぎ、東ドイツ政府は危機感を抱いていました。 -
その頃、DDRのウルブレヒト書記長は西側のジャーナリストに何食わぬ顔でこう答えていた。
「あなた方は東ドイツがベルリンに壁を造るとでも思っているのですか。私は全く知りません」と。
1961年6月15日のことでした。 -
それから2か月後です。
8月13日に、DDRは東西ベルリンの境界線上に突如壁を造り始め、東西ベルリンの通行を禁止しました。 -
西ベルリンをすっぽり取り囲むように張りめぐされたベルリンの壁。
その長さ155㎞、高さは3mもあります。 -
ベルリンの壁建設直後の1961年8月15日、最初に有刺鉄線を飛び越えて西側に亡命した国境警察官。
有名な場面ですね。 -
1961年8月13日のベルリンの壁建設に伴い、最も大きな悲劇を生んだのがこのベルナウアー通りです。
ベルナウアー通りは、ベルリン分断の象徴的な場所なのです。
1つの住宅街が2つに分断されたベルナウアー通り。
窓から飛び降りて逃げようとする人を救助シートを広げて待っている西側の消防隊員。 -
またロープを伝って逃げる人など、封鎖初日は比較的簡単に亡命することができました。そこで東ベルリン政府は、西側に面する窓という窓や入口は全てレンガで封鎖しました。
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境界線上にあった窓が全てレンガで塞がれたベルナウアー通りの建物。
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それでも飛び降りて逃亡する人が後を絶たないため、住民を強制的に立ち退かせ、建物ごと爆破してしまいました。
そして壁の間に緩衝地帯を設け、有刺鉄線を張り巡らせたり獰猛な犬を放ったり、また銃を持った人民警察が厳重に見回っていたりしました。
壁によって引き裂かれた西側の人々が、東側の家族や友人に手を振っている。
小さな子供を高い台に乗せて少しでも顔が見えるようにと工夫している姿に涙を誘われます。 -
ベルナウアー通りの境界線上に存在していた和解教会。
ネオゴシック様式の美しい教会でしたが、1961年閉鎖され、その後1984年に監視の邪魔になるとして爆破されました。
壁が崩壊する4年前のことでした。
(下の写真は爆破された和解教会の塔・壁の展示より) -
それでも東ベルリンの人々はあの手この手で命がけの逃亡を企てます。
地下にトンネルを掘って脱出した人々。
トンネルは何本も造られました。その中にはアメリカのテレビ局が費用を負担して、その模様を米国のテレビ番組で放映されたものもありました。 -
ワイヤーロープを東側の屋根に取り付け、それにリールを通し、支援者が待つ西側に逃亡した家族。
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熱気球で逃亡した人々も。
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建物の壁にいろんな方法で逃亡した人々の映像が、字幕とともに映し出されます。
1975年エアマットでエルベ川を渡って逃亡した人・・など。 -
結婚式を挙げた西ベルリンの若夫婦が、壁の外から東ベルリンに住む両親に結婚の報告をしている。
結婚式であっても東ベルリンの住民は参列できなかった。 -
東西分断の境界線上にはいくつかの国境検問所が置かれました。
一番有名なのはチェックポイントチャーリーですね。
こちらはアメリカ側の検問所。
チェックポイント・チャーリーは、外国人および外交官、西側連合国軍の関係者が徒歩または自動車で通行するための検問所でした。 -
チェックポイントチャーリーで、1961年10月、検問所を間にアメリカの戦車とソ連の戦車が睨みあったのです。
あわや一触即発、このままいけば米ソ戦争の勃発か!という場面でした。 -
ここにも面白い仕掛けがありますね。
ドイツのシンガーソングライター、ヴォルフ・ビーアマン(右側の○印)。東独にいながらにして東独批判の詩作をし、公的活動と出版を禁止されるが、以降も創作活動を続け、ついに市民権を剥奪され西側に逃亡しました。
右側の○印の白いタキシードは誰だろう。 -
時系列的にはあいませんが、ここで東ベルリンの施設を。
シュタージ。
東ドイツの国家保安省の秘密警察、そして諜報機関でした。
世界最大の秘密警察国家だった東ドイツのシュタージ、東ドイツ市民の180人に一人が秘密警察職員、またシュタージに情報を流していた公認の密告者が延べ60万人もいたそうです。
何と東ドイツ人口の1割以上が秘密警察関係者だったそうです。
すごいですね。 -
東ベルリンのアレクサンダー広場付近。
手前の壁はマリエン教会、中央の給水塔みたいなものは実は工事中のベルリンテレビ塔(1969年完成)。
ちなみにテレビ塔は、東ドイツが西ドイツに対して力を誇示するものだったのです。
そしてその向こうはデパート(現在のカウフホフ)、右の高層建築は当時のホテル・シュタット・ベルリン(現在のパークイン・ラディソン・ベルリン)。
ソ連の息がかかっているものはすべて巨大ですね。 -
アレクサンダー広場のマリエン教会。
右端の○印はかって存在したレーニン像(1992年に撤去)。
芸が細かいですね、既に撤去されたこんな像まであるとは。
それを写真の中から探し出す私も凄い!(笑・自画自賛)
さて、教会前に集まっている人は? -
1964年、マルチン・ルーサー・キング牧師がマリエン教会で「ベルリンの壁」の演説をしました。
「神の元では東も西もない。壁の両側にいるのは共に神の子、その事実は誰も消すことはできない」と。 -
一方西ベルリン。
戦禍に遭ったクーダムのカイザーヴィルヘルム教会は、戦争を警告する記念碑としてそのままの姿で残されました。
新教会はベルリンの壁が築かれた1961年12月にモダンなガラス張りで完成しました。 -
旧教会はその姿から「虫歯」、新教会塔は「リップスティック」、八角形の新教会堂は「コンパクトケース」とあだ名で呼ばれています。
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教会の下では結婚式を挙げています。
ちなみに左端で新郎新婦が丸太をノコギリで切る作業は、ドイツの結婚式の習慣だそうです。
西ベルリンは何につけても明るいですね。 -
さて、ブランデンブルク門。
ブランデンブルク門はベルリン市街戦で廃墟となりました。
門のちょっと先に東西の境界線が引かれましたが、門自体は東ベルリンのものとなりました。
門は東ベルリン政府によって修復され、門に飾られているヴィクトリアの持つ杖はそれまでの鉄十字紋章からオリーブの枝に変えられた。 -
ブランデンブルク門の前を行進する東ドイツの兵士たち。
門のすぐ前に壁があり、西ベルリンです。 -
どこか北の将軍様の軍隊を思わせる共産主義式行進。
マンホールから顔を出して写真を撮っているのはパパラッチ?
ここにも事実がありました。
彼の名はカール・アウグスト・フォン・ハレ。
西ドイツの建築学者、彼は下水道ルートを伝って、東から西へ逃亡する人を手助けしました。 -
そして壁のすぐ先、実際は6月17日通りの先に見えるのは西側のジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)、そのてっぺんには黄金のヴィクトリア像。
その向こうに見えるのはソヴィエト戦争記念碑。 -
ジーゲゾイレの下ではスタントマン「地獄のドライバー」、フレディ・ヴィンターがハラハラする演技を披露しています。
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西側の6月17日通りにソヴィエト戦争記念碑があります。
その中央には巨大なソ連兵士の像、そして大砲や戦車が飾られていて周りを威圧しています。
でもなぜに西側にソ連の記念碑が?
実はここは飛び地なのです。 -
この場面はミニチュアの造り物と言えども有名ですよね。
ここは西ベルリン市の市庁舎が置かれていたシェーネベルク市役所です。
ここに1963年6月26日、アメリカのケネディー大統領が訪れました。ベルリンの壁が築かれて、この先西ベルリン市民にとっては、自分達の運命がどうなるのか、不安を抱えていた時代でした。 -
ケネディーは市庁舎のバルコニーから、集まった45万人の西ベルリンの市民を前に演説しました。
"Ich bin ein Berliner." 私もベルリン市民だ!。
これを聞いた西ベルリン市民は喜びました。自分たちは西側世界から決して見捨てられないのだ、と。
この5ヵ月後のことです。1963年11月22日、ケネディー大統領は銃弾に倒れました。" -
再びベルリンの壁付近の様子を。
壁により遮られた東と西。
こちら側は東、壁の手前には足を踏み入れることができない緩衝地帯。
監視塔では国境警備兵が目を光らせている。
壁の向こう側は西側。子供たちが楽しそうに遊んでいる。
全く雰囲気が違う西と東。 -
位置関係を確認します。
右側の監視塔と壁。
こちらが東、向こうが西。
矢印の高層ビルを覚えておいてください。
すみません、私、こういうのを見て謎解きするのが好きなのです(笑)。 -
境界線の中央には「止まれ!国境 通行禁止」と書かれた黄色い警戒板。
その横を車(トラバント?)で東から西に通り抜けようとしている人、もしかして車のエンジン室には人が隠れている?
こちらでは、犬さえも絶対通さないぞ!と3人がかりで応戦している国境警備兵。 -
西側に目を向けると・・・。
この場所はさきほど高層ビルがあった場所。
メディア王アレックス・シュプリンガー氏が、出版社の社屋を敢えて壁の近くに建てたその場所です。
テレビの撮影か新聞の取材か、あちこちにカメラを持った人。
木の傍で両手を広げている紳士が社主のアレックス・シュプリンガー氏か? -
ここはベルリン・ドイツ・オペラ。
当時西側にあった唯一のオペラ劇場。
ウンターデンリンデン通りにあるオペラ歌劇場は東ベルリンのものでした。 -
1967年6月2日、ベルリン・ドイツ・オペラでイラン国王のドイツ訪問歓迎が開催されるはずでした。
そこへそれに抗議する約3000人の学生デモが起きました。
そのさ中、ベルリン自由大学の学生ベンノ・オーネゾルクが警官に撃たれ犠牲となったのです。 -
犠牲となったベンノ・オーネゾルクを介抱する女性。
左端はオーネゾルクを射殺したベルリン警察の私服警官。
オーネゾルクの死は西ドイツの学生運動家に大きな衝撃を与え、西ドイツ全土で学生運動が燃え広がった。 -
ベンオ・オーネゾルクの死に抗議した学生運動家のルディ・ドゥチュケ。
東ドイツで生まれた彼は、若いころより学生組織で活動し、東独の再軍備を批判したり、兵役を拒否するなど東独政府より睨まれていた。
ドゥチュケはベルリンの壁が築かれる1日前に西ベルリンに亡命した。亡命直後よりベトナム反戦運動や環境問題などで学生運動の重要人物であった彼は、暗殺者に狙われ銃弾を浴びせられます。 -
そこで糾弾されたのは、新聞や雑誌で「反学生運動キャンペーン」を起こしていた、西ドイツのメディア王アクセルシュプリンガー社。
数千人もの学生デモ隊が「シュプリンガーは殺人者だ!」「ビルト(雑誌)も一緒に引き金をひいた殺人者だ!」と口々に叫びながらシュプリンガー社に押し寄せました。 -
話があっちこっち飛びます(笑)。
1960年代後半、親たち世代が造り上げた価値観を否定する自由奔放な若者たちが現れた。
彼らは長い髪をして、ロックに熱狂し、マリファナを吸い、サイケデリックな格好をして共同生活を始めた。 -
東側では兵士が銃を構え行進する世界、先進的な音楽は禁止されていた。
西側では資本主義の恩恵を受け、経済・文化、音楽、すべてがあった。
東側の若者は自由な文化に渇望していた。 -
クロイツベルクのハインリッヒ広場、ドイツのサブカルチャーの本拠地です。
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「ザ・エルツテ」。
ベルリン出身の有名なパンクロックバンドのグループ。
クロイツベルクのハインリッヒ広場で初コンサートを開いた。 -
[SO36」。
クロイツベルク・ハインリッヒ広場にある有名なパンクロッククラブ。
あのデビット・ボウイやイギー・ポップ(私は知りません)などもここで演奏したそうです。
入り口に立っているのはデビット・ボウイ? -
何かにつけ西ドイツと張り合ってきた東ドイツ。その東ドイツに英雄が現れました。
1978年8月26日、ジグムント・イエーンがドイツ初の宇宙飛行士としてソ連のソユーズ2号に搭乗したのです。
彼は「グッバイ・レーニン」にも出ていましたね。
上の円形の写真、宇宙旅行士とテレビ塔が写っています(見にくいですが)。
当時のDDRの2大自慢できるもの、ってことでしょうか?。
下の写真はベルリン一のカレーヴルストの有名店「コノプケ」。
お店の前の立札にも「ジグムント・イエーン」のことが。 -
このキンキラキンの巨大な建物はホーネッカーの電気商会と言われていた共和国宮殿です。
1976年に完成し、東ドイツの政治と文化の中心となりました。 -
1983年10月には西ドイツのロックスター・ウド・リンデンベルクが共和国宮殿でのライブ開催を許可されました。
しかし彼は、東ドイツ政府から歌わないようにと事前に申し渡されていたにも関わらず、彼自身の有名な曲「パンコウ区行きの特別列車」を歌いました。
これはホーネッカー書記長を痛烈に皮肉った曲でした。 -
"DDR最後の記念式典
1989年10月7日、東ドイツ建国40周年記念式典がソ連のゴルバチョフ書記長を招いて大々的に開催されました。 -
共和国広場で軍隊パレードが行われ、謁見しているホーネッカーや、ソ連のゴルバチョフ首相。
この式典で、東ドイツの体制死守を主張するホーネッカーに、ソ連でペレストロイカを推し進めていたゴルバチョフは、「今世界は変わりつつある」と冷淡な態度を見せ、これがホーネッカー失脚に結び付きました。
下の写真中央がホーネッカー、その左隣がゴルバチョフ。 -
1989年10月9日のライプチヒの月曜デモに始まった東ドイツ政府への抗議行動は全国に飛び火し、11月4日首都ベルリンでも百万人以上の大規模デモが起こった。
俳優やアーティストも声を上げました。
ドイツの映画俳優ヤン・ヨーゼフ・リーファースはテレビ中継されているアレキサンダー広場で50万人の人々を前にしてスピーチをしました。
その2日後の11月9日、ベルリンの壁は崩壊しました。
そしてその1年後の1990年10月3日、東西ドイツ統一が為され、「ドイツ」という国名に変わったのです。 -
煌々と輝いているビルは、ドイツ最大のメディア企業アクセルシュプリンガー社。
分断時代は、新聞や雑誌などで打ち出す政治的主張に抗議して、幾度となく左翼や学生運動家たちのデモ隊がシュプリンガー社ビルに押し寄せました。
アクセルシュプリンガー社は、分断のドイツから現代ベルリンへの移行を西ドイツ各地に忌憚なく伝えてきました。
電光掲示板は1990年、イタリアでのワールドカップで西ドイツが優勝した時の新聞の紙面。 -
こちらは2009年3月、アメリカのオバマ大統領が初めてドイツを訪問してメルケル首相と抱き合っている報道。
オバマは大統領在任中に6度もドイツを訪れているそうです。
2009年3月にはケールでドイツとフランスの国境を徒歩で横切ったそうです。6月にはブーヘンヴァウト強制収容所を訪れています。
なんか私と同じようなことをやっているなぁ(笑)と親近感を覚えました。 -
1933年からのヒトラー恐怖政治、戦争突入、敗戦、ドイツ分断、ドイツ統一、そして現代。
まだ私の記憶に新しい時代のせいか、大変濃密な歴史勉強をいたしました。 -
それらを見続けてきたブランデンブルク門のライトアップを最後に「little big city」を後にします。
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お腹が空いたのでアレクサンダー広場を見おろすデパートのレストランに入りました。
窓の下を見て、一瞬まだLittle Big Ctyのジオラマを見ているような錯覚に陥りました。
おりしもアレクサンダー広場では「ベルリンのオクトーバーフェスト」が開催されていました。 -
このアレクサンダー広場に、1989年11月4日、50万人以上の群衆が詰めかけてドイツ統一を求めてデモを行ったのですね。
あれから30年の月日が経ち、ミニカーみたいな黄色い路面電車が走り、世界時計の横には日本の「ユニクロ」がお店を展開しています。
もう壁はどこにも見当たりません。 -
私たちも、量り売りのレストランで、不足しがちなお野菜を山のように皿に盛って、ビールと共に遅い昼食にします。二人で23ユーロ。
「リトル・ビッグ・シティー」。
コロナが収まってまたベルリンに行く機会があったら、もう一度行ってみたい博物館です。 -
◇◆参考
館内地図
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この旅行記へのコメント (6)
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- mistralさん 2021/10/13 20:24:12
- 力作のフィナーレで。
- himmelさん
こんばんは。
2019年のドイツ旅をLittle BIG City の精巧に作られたジオラマで
現代史をまとめ上げられた!
まさにフィナーレを飾るにふさわしい力作の旅行記ですね。
たった一度のベルリン訪問で、私もかつてまとめようと試みましたが
舌足らずのままで終わりました、、、
himmelさんの厚みのある知識、幅広いご経験からまとめられた旅行記は
さすが、読み応えがありました。
それにしてもジオラマは細部にまでこだわって作り込まれていて、その細部を
見つけられるhimmelさんの知識が上をいきますね。
このところコロナウィウスの勢いは失速してきていますが、
このまま姿を消してくれるのか、それとも再び爆発する機会を窺っているのやら、
現代の人類の叡智をもってしても、ウィルスとの攻防戦の行方は
先行きがまだ見えてきていませんね。
一体いつになったら安心して旅立てるのでしょうか。
このところ体力、気力ともに衰えてきて心配になります。
mistral
- frau.himmelさん からの返信 2021/10/14 22:59:44
- Re: 力作のフィナーレで。
- mistralさん、こんばんは。
緊急事態宣言が解除されて、日に日に人出が戻りつつありますね。久しぶりに東京駅の人ごみに触れてそれを感じました。そして第6波の心配をしている私たち・・・。世の中がコロナに合わせた生活に慣らされていくのを感じます。
いつもコメントありがとうございます。
mistralさんにそう言っていただくと、嬉しいとともにお恥ずかしい限りです。
>その細部を見つけられるhimmelさんの・・・。
そうそれなのです!。その細部なのです。
mistralさんにそれを読み取っていただけたことが何よりうれしかった。
ドイツの歴史の大筋の流れは、皆様もよくご存じのことですから特段珍しくもないことなのですが、私が興味を持ったのは、その歴史の流れの中に隠されていた枝葉の出来事、ほんとに良くできていました。
今回調べながら、え~あんなこともこんなことも~と、すっかりのめりこんでしまいました。
ジオラマと侮るなかれ、ミニチュアと侮るなかれ、でした。
それにあのジオラマ歴史館は、子供たちも楽しく見学するものだからと、ナチスドイツにつきものの、ユダヤ人のホロコーストなどの残忍な部分はなかったことも、とても印象が良かったです。
コロナですぐには海外に行くのもままならない世の中ですが、そんな中でmistralさんはご自分のご趣味の(ご専門ですね)建築関係で、素晴らしい旅行記を出していらっしゃいますね。
いつも足跡ばかりですみません。
himmel
-
- ベームさん 2021/10/12 16:25:29
- お疲れさまでした
- himmelさん、
もうhimmelさんの旅行記はお目に掛かれないと思っていましたが、素晴らしい隠し玉を持っておられましたね。
ドイツ旅行の中でずっとヒトラーのナチ体制、戦後東独のホーネッカー体制の闇を発表してこられたhimmelさんの集大成ですね。敬意を表します。
全国的にコロナが収まりつつあるようで、私も動き始めようかなと思っています。案だけは作ってあります。長期間の蟄居生活で足が言うことを聞くかどうかです。
himmelさんはまだ海外に食指が動きますか。外国に自由に行ける日はいつ頃になるのでしょうね。
ベーム
- frau.himmelさん からの返信 2021/10/12 23:11:54
- RE: お疲れさまでした
- ベームさん、お久しぶりです!
私のほうこそ、ここのところベームさんの旅行記にお目にかかれなくて寂しく思っておりました。
でも、時々旅行記を書く際にお邪魔しては、いろいろと参考にさせていただいていました。
ベームさんに集大成・・・、と言っていただいて、あそうだ!と、自分で言うのも何ですが、ストンと腑に落ちました。
今回の旅行記を書きながら、自分のいろんな旅行記を引っ張りだしては、ドイツの現代史について今まで結構多くの旅行記を書いているなーと、改めてビックリしておりましたので。
ここのところ、コロナが落ち着いて、ベームさんもようやくお出かけになるお気持ちになられましたか。
ベームさんのことですから、いろんな緻密な計画をお立てになっていらっしゃるのでしょうね。早く拝見したいです。
そうなのですね、私もまだ海外に行く夢は捨ててはおりません。
でも本当に、足が・・体が・・、ですね。自由に海外に行けるのは何時ごろになるのでしょうね。
体力が落ちて来たらツアーでも、とは思うものの、やっぱり個人で自由に、行きたいところで食べたいものを観たいものを・・、に慣れてしまったら、それもね〜、という気になってしまいます。
お互いに、いつまでも行きたいところに行けるように、健康管理には気を付けましょう。
ありがとうございました。
himmel
-
- Mugieさん 2021/10/12 08:25:31
- とても勉強になりました
- 昔、世界史の授業で習いましたが、現代史は駆け足でなんだか消化不良でした。
詳しい説明でとてもわかりやすかったです。
すごくすっきりしました。
学生時代にベルリンの壁が崩壊して、社会人になってから、ベルリンに行った時は、旧東西の面影がまだ残っていて、町の雰囲気が違うのに驚きました。
特に鉄道。西側はきれいでモダンな列車なのに東側はボロボロでした。
チェックポイントでいろんな方法で西に脱出したのを見て驚いたのも印象に残ってます。
ベルリンの壁の一部を記念に買いましたが、いつのまにか無くしてしまったのが残念です。
ムギー
- frau.himmelさん からの返信 2021/10/12 22:27:17
- Re: とても勉強になりました
- ムギーさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
>詳しい説明でとてもわかりやすかったです。
ムギーさんにそんなに言っていただくと恥ずかしくて穴に入りたいです(笑)。結構いい加減なことを書いていますので。
でもドイツの現代史は私の好きな分野です。
ベルリンが好きで飽きもせずよく訪れるのも、多様性のあるベルリンの歴史に触れてワクワクしたいから。
やっぱり今でも西と東、雰囲気は何となく違いますよね。
私はどちらかと言うと、現代的な西側より、しっとりした感じの東側が好きなのですけど。
それから、ベルリンの壁の欠片・・・、夫が買ってきたのが今でも家にありますが、どうもあれ、ニセモノっぽくて・・・(笑)。
コロナもここのところ大人しくなってまいりましたので、お嬢様たちと、どこぞへお出かけになる計画をお立てになっていらっしゃるのでは?。
早くでかけたいですね。
himmel
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