2019/07/17 - 2019/07/20
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Indianal Jobsさん
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2018年10月スタート 世界一周 ヨーロッパ編
ポーランドの首都ワルシャワから南下してクラクフへ
クラフクから現地ツアーで出かけてた負の世界遺産観光 アウシュヴィッツ編まとめです
7/17 ワルシャワ蜂起博物館 午後 列車でクラクフ移動
7/18 現地ツアーに参加してアウシュヴィッツ日帰りツアー
7/19 旧市街地観光
7/20 移動日(チェコへ)
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アウシュヴィッツ‐ビルケナウ博物館はクラクフから約70km クラクフ駅東口のバスターミナルからバスが出ているので公共交通機関を利用して個人で行くことが可能ですが10時以降はガイドツアーでしか入場できない&そのガイドツアーは夏中いっぱいで予約不可
ということでてっとり早くクラクフからの現地ツアーに参加して出かけました
GetYourGuideサイトで予約したガイド観光アウシュヴィッツツアーで参加費は1人50USD 満員御礼の大型バスでクラクフを7:00出発アウシュヴィッツとビルケナウツアー (クラクフ発) 体験・アクティビティ
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08:30 現地に到着 まだ8時半過ぎというのに既に沢山の観光客 ツアー開始まではトイレに行ったりインフォメーションで日本語のガイド本 24PLD(約700円)を購入 トイレは有料で1回2PLD
注意事項としては身分確認のためのパスポートが必要、収容所の中には小さなハンドバック(30cm×20cm)しか持ち込めません ※大きな荷物は有料のクロークに預けるオシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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インフォメーションは長蛇の列 予約なし難民の列? 公式サイトの予約状況はかなり先までいっぱいでしたが当日キャンセル狙いの観光客かもしれません
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駐車場には各地からのツアーバスが沢山 混雑しているとは聞いていましたが想像以上の観光客でオーバーツーリズムを実感 繁忙期は入場制限が一層厳しくなっていくかもしれません
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イチオシ
09:00 ガイドと合流して1940年5月に設立されたアウシュビッツ第一強制収容所からツアー開始
ガイドのマイク音声を拾うヘッドホンを装着して適時説明を聞きながら進みます
収容所入口はARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)のスローガンが掲げられたゲート
Bの文字が逆さ文字というのはこのスローガンが嘘だと分かっていながら作らされた収容者のささやかな抵抗という説明もありますが、当時はこれが標準の書体だったとのコト -
厳重な有刺鉄線フェンスで囲まれた収容所内へ
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まずは第4棟から
ヨーロッパ全土からこの地に送られてきた理由はアウシュヴィッツがヨーロッパの中心で鉄道網の関係で輸送しやすかった為 -
アウシュビッツに送られた人数 約130万人
その内 約110万人がユダヤ人
残り20万人は非ユダヤ人のポーランド人、精神障害者、ローマ人、同性愛者、ソビエト捕虜 -
殺害された方々の遺灰が入った慰霊モニュメント
アウシュビッツで収容された130万のうち殺された人の数は110万人 -
ハンガリーから輸送されてきたユダヤ人の写真 ナチスドイツが国家を挙げて取り組んだ民族浄化の最大の被害者がユダヤ人
アウシュビッツに送られた国別の収容者はハンガリーからが一番多く 426,000人 ポーランド 300,000人、フランス 69,000人と続きます -
ガス室の模型 ガス室にぎっしり詰め込むほど早く窒息死する為、シャワーを浴びるという嘘で手を挙げたまま入室を強要されました
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毒ガスとして使用されたツィクロンBの空き缶 広い地下室に大勢の人間が押し込まれた後この缶が天井窓から投下され、20~30分で絶命したそうです
ガス缶展示室の隣、5号室には女性の髪の毛で作られた絨毯の展示(撮影禁止)があります 髪の毛だけで2トンもの量が押収されました -
続いて第5棟
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何百もの義足… 貨車で移送された者で労働に適さないと判断された障害者はガス室に直行となりました
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移住先での生活の為に持参した鍋やポットの調理具は使われることなく全て押収
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大切な物を詰め込んだろうカバン… こちらも到着時に押収
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子供の服… 言葉がありません アウシュヴィッツに送られた子供の数は232,000人
何人の子供が殺されたかはっきり分かっていませんが 1944年10月10日の1日だけで 800人の子供たちがガス処刑されたという記録があります -
イチオシ
おびただしい量の靴
アウシュヴィッツ‐ビルケナウ財団によって保存されているこれらの在庫は
80,000足以上の靴
3,800個のスーツケース
40kg以上のメガネ
460本の義足と義手
2tの髪の毛
12,000個の調理具
570着の囚人服
260本のタッリート(ユダヤ人の礼拝用ショール)
40m3の調金属製品を溶かして作った塊
6000点の美術品(内2000点は収容者たちが収監中に製作したもの)
開放前にドイツ軍が証拠隠滅を図っている為、収容者から押収された荷物のほんの一部に過ぎません -
第7棟
藁が敷かれただけの粗末な寝床
収容所ができた最初の数か月は床に敷かれた藁や藁布団の上に折り重なるように寝ていたそうです -
収容される前は普通の生活を送っていた人々 特にこれといった罪を犯したわけではありません
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収監所内トイレ 元ポーランド兵の宿舎を利用しているのでビルケナウ収容所より遥かにましですがプライベートはありません
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屋外の様子
敷地内の様子 こんな天気の良い日に来てしまってすみません という気持ちになってしまいます
冬はさぞ寒かっただろうに… -
第10棟と11棟の中庭にある死の壁と呼ばれる収容者が銃殺された場所 11棟で裁判を受け、死刑判決が下されると直ちにここに連行され処刑されました
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集団絞首台 同時に12人の絞首刑を行える特別仕様だそうです 見せしめの為に1943年7月に建てられたもの
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点呼番小屋 収容者は毎日朝と夕方 広場に集められ点呼を取られます 悪天候時・冬の極寒時も例外ではなく、点呼時に衰弱と判断されたものはそのままガス室に送られることもありました
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ガイド時間の都合上、見学しなかった棟もありましたが十分過ぎるぐらいのボリュームでした
第6棟と第11棟は訪れていません… -
電流が流されていた有刺鉄線
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逃げようとした収監者の数は928人、内 成功した人は196人 多くは逃げようとした際に射殺され、捉えられた者・手助けした者は処刑されました
第二の収容所ビルケナウに比べここの収容施設が立派なのはドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を流用した為 2階建ての兵舎はもともと700人収容で考えられていましたが実際の収容者は1,200人に上っています(全体の収容人数は平均で13,000~16,000人、多い時で20,000人)
マンザナー日系人強制収容所の敷地面積の10分1に満たない敷地に倍の人間が収容されていました -
ガス室へ
最後は数多くの人が処刑されたガス室へ ビルケナウ収容所のガス室はドイツ軍が証拠隠滅の為に爆破してしまい見学できる唯一のガス室(但し、オリジナルではなく復元されたもの) -
ガス室は全部で7ヶ所 この第一収容所に1ヶ所 第二強制収容所に4ヶ所、 収容所の外で農家を改造したガス施設が2ヵ所(白い家、赤い家)
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ガス室内 言葉がありません…
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ドイツ軍は効率良く処刑できる方法を研究し、ガス室での大量処刑に至りました 僅か32分間で800人を処刑できたといいます
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1日で340人の死体を焼くことができたとされる焼却炉
ワシントンのホロコースト博物館の見学時より遥かに堪えました -
イチオシ
11:30 第一収容所を後にして約3km離れたアウシュビッツ第二収容所 ビルケナウ見学開始 1941年10月から運用された収容所で約9万人を収容した最大の収容所にして
ユダヤ人根絶に特化した絶滅収容所ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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ランぺ(降車場)
ヨーロッパ全土から貨車で移送されてきたユダヤ人が降りたつランぺ(降車場) 強制収容所内まで延びるこの鉄道引込み線は1944年5月に完成しました
窓のない貨車にすし詰め状態に乗せられ、ここで初めての外の景色を見る事ができました どんな気持ちでこの景色を見たのか想像すらつきません
水も与えられなくここに到着するまでに亡くなる人も少なくなかったそうです -
イチオシ
進入門を見る 復路利用することのない終着地
1945年に解放された収容者の数は僅か7,000人 内300人以上が子供でした
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利用された貨車 残された記録写真はほとんどがモノクロ写真ですが当時は今以上に空も緑も美しかったハズ・・・
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イチオシ
広大な敷地にレンガの煙突だけが墓標のように立ち並びます
この広い空をどんな気持ちで見上げていたのでしょう? -
進入門から約800m先にある犠牲者追悼碑公園
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“ ヨーロッパ各地から 主にユダヤ人を中心に男女、子供を問わず150万人がナチスによって殺害されたこの地を 絶望的嘆きの場所 そして人類に対する警告の地としよう Auschwitz-Birkenau1940-1945 ”
記念プレートは収容されていた強制移住者が使っていた23の言葉で 23枚のプレートが設置されています -
記念碑の近くには証拠隠滅の為に破壊されたガス室、焼却炉の残骸を見る事ができます
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ガス室は証拠隠滅の為にドイツ軍が故意に破壊しました
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1943年 SS収容建築部が作成した資料にはアウシュヴィッツ、ビルケナウの一日の焼却能力は5つの焼却炉を合せ4756死体とありました
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遺灰を捨てていた場所の1つ まだ遺灰が残っているそうで鎮魂の碑が建てられています
殺害された遺体を処理する係は選ばれた収容者からなるゾンダ‐コマンダと呼ばれる特命労働隊が行いました 同じユダヤ人同胞としてどんな想いだったのか… -
続いて収容者たちが暮らしたバラック棟へ
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ガイド付では最後の見学場所となるバラックで収容者が収監された様子を体感することができます
当時300棟あったバラック ほぼ完璧な形で残っているのは、約60棟 -
イチオシ
バラック内 アウシュヴィッツの収容所とは違い急ごしらえで建てられた建物で床は水平を失い、造りはお粗末
ベッドと呼ぶには程遠い3段の寝棚があり1段で5~7人が使用しました -
粗末な天井 照明はなく明り取りがあるだけ
暖房設備はありましたが室内の大きさと気密性の悪さから十分な暖を取ることができませんでした
冬の極寒時はマイナス10度を下回る気温 木板の寝床に数人で毛布一枚… 冬に訪れたら少しは辛さが理解できるかもしれませんがそれは平和の時代のほんの一瞬に過ぎません -
B1a地区 16号棟には子供が書いた絵が残されていました
アウシュヴィッツへ移送されてきた14歳未満の子供はすぐにガス室に送られていましたが1943年中期以降ここに収容されるようなりました
当時の子供達はどんな気持ちでこの絵を描いたのでしょう?
アンネの日記を書いたアンネ・フランクもここに収監されました(アンネは姉と共にベルゲン・ベルセン強制収容所に移送され、発疹チフスで死亡) -
洗面台 開設期間はマンザナー日系人収容所とあまり変わりませんが同じ収容所でも天と地ほどの差がありました
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厨房棟
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収容所内で生まれた新生児とその母親をフェノール注射で殺害したとされるバラック
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電流が流された有刺鉄線と看守小屋
フェンスの向こうに広がる景色をどんな思いで眺めていたのでしょう?
アウシュヴィッツ収容所の第4棟にはジョージ・サンタヤーナの言葉がありました
Those who cannot remember the past are condemned to repeat it.
過去を覚えられない者は、 過去を繰り返す運命にある
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アウシュヴィッツ収容所
戦後70十年以上が経過しました悲劇が起こった正にその現場 当時の様子は想像すらできませんが、博物館見学とは全く違う衝撃を受けました
楽しい見学場所とは言えませんが戦争・平和・人間の残虐性について深く考えさせられとても有意義な一日となりました
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