2019/05/18 - 2019/06/02
21位(同エリア45件中)
さいたまさん
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ガダルカナル島において散華された英霊の地を訪れました。
写真は、ソロモン平和慰霊公苑の標識です。
ソロモン平和祈念公苑は、川口支隊の基幹部隊であった歩兵第124聯隊他の部隊が死守したアウステン山一帯の中腹に、設置されています。
本稿は、アウステン山やガダルカナルの飛行場を巡る攻防の中で、川口支隊の行動を、現地の地形とともに振り返ってみて見るものです。
川口支隊の行動の中で、散華された英霊が、苦労したことを掘り下げてみたいいと考えています。
当時の状況は、80年が経過した現在、仔細に把握することは困難ですが、飛行場周辺の川や山地等の地形は、変わっていません。
上空からは、平坦に見えますが、現地に立つと、起伏が厳しい地形です。
雨が降ると、急勾配の坂では、現代の4輪駆動車も登れなくなる経験をしました。やむを得ず、4輪駆動車を残置し、徒歩にて移動せざるを得ないような地形です。車両や大砲を残置して、徒歩で移動したとの記録がありますが、まさにその通りだと、身をもって体験しました。
地形を中心にして、川口支隊の動きを、詳らかにすることを通じ、英霊のご苦労を偲ぶことに努めました。
川口支隊は、一木支隊が全滅した原因や戦闘経緯を十分把握しないまま、戦闘に加入しました。
その中で、戦いの原則の中で最も重要と言われている戦力の集中という大原則に意を払うことに努力が足らなかったような感じを受けています。
しかも、開戦以来の勝利の連続により、米軍等の戦力を軽く見てしまい、過少の兵力をもって、攻撃を実行し、敗退してしまったのです。
敵情に関する情報収集も、十分ではなかったようです。
次いで、大事なことは、部隊としての精神的な団結の力について、十分意を払うことが必要です。
部隊の戦力を、部隊の人員数だけで、戦力として判断することは適切ではないと感じます。
建制と言って、部隊の纏まりに注目する必要があります。歩兵第124聯隊と歩兵第4聯隊という部隊のまとまりを重視しなくてはなりません。特に、聯隊旗を核心としてまとまっている部隊を、軽々に、分割することは、控えねばならないと感じています。
川口支隊の編成では、団結の基礎である聯隊という組織を分割してしまいました。歩兵第124聯隊ばかりでなく、歩兵第4聯隊も、ともに分割されてしまいました。部隊の建制を保つ必要があったのではないかと思われます。
いずれにしましても、現地における地形を見ますと、部隊は、作戦行動ばかりで無く、飢餓とマラリア等で大変な思いをしています。
ガダルカナルにおける実情と教訓を、しっかり理解しなくてはならないと思います。それが、散華された英霊への慰霊の証となることでしょう。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- レンタカー
-
日米の激戦地ガダルカナル島への道は、成田空港から始まりました。
成田空港における日系航空会社の航空機です。
出発までの時間に、成田空港の様子を見るとともに、ガダルカナルの資料に目を通します。成田国際空港 空港
-
ブリスベーン空港の様子です。
ガダルカナル島には、オーストラリア北東部の都市ブリスベーンを経由して、移動します。
ブリスベーン空港で、成田からの航空便から、ソロモン航空に乗り継ぎます。ブリスベン空港 (BNE) 空港
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ガダルカナル島着陸の前に、日米海軍同士が戦った海域を通ります。
多くの艦船や航空機が沈んでいる海域です。
南海の島という印象です。 -
ガダルカナル島のホニアラ国際空港に到着しました。
写真は、ソロモン諸島の航空会社ソロモン航空の機体です。ホニアラ国際空港 (HIR) 空港
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ホニアラ国際空港は、ヘンダーソン飛行場を基盤として、整備されてきました。
ヘンダ―ソン飛行場は、日米の激戦の中で、勝敗を分けた、飛行場です。
飛行場の確保が、すべてを決したと言っても、過言ではありません。 -
ガダルカナル島の戦いの原点は、飛行場の争奪でした。
写真は、日本海軍が、先んじて建設に着手していたガダルカナル島の飛行場の写真です。(日本海軍が建設工事中の写真です。:撮影は、米軍)
滑走路が完成間近の7月31日時点の状況です。
米軍は、飛行場が完成するまで待ち、飛行場が完成した時期、8月7日に、ガダルカナルやツラギ島に上陸し、飛行場を奪取しました。
情報をしっかり、継続的に把握していたことが窺われます。
この飛行場は、現在、ソロモン諸島のホニアラ国際空港として活用されています。ホニアラ国際空港 (HIR) 空港
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飛行場の奪回の任務を有する川口支隊と飛行場を死守する米軍との激烈な戦闘は、飛行場南側の血染めの丘で繰り広げられました。
日本軍は、ムカデ高地を、いったん奪取しましたが、後続が続かず、やむなく下がらざるを得ませんでした。 -
ガダルカナル島の激戦の焦点であった飛行場から、ムカデ高地を見ています。
ムカデ高地は、米国軍から血染めの丘と呼ばれています。
ムカデ高地を巡って、その後も、日米両軍が激しい攻防を続けました。 -
川口支隊が攻撃目標としたムカデ高地(米軍は、血染めの丘とも呼んでいます。)と飛行場の滑走路の位置関係を見ている写真です。
写真右側に、ルンガ川が見えます。
ムカデ高地(血染めの丘)は、米海兵隊の指揮官の名前から、エドソン リッジとも呼ばれてます。
飛行場の滑走路から、約600mの丘です。
日本軍が、この場所まで攻撃してきました。 -
飛行場周辺の地形です。
飛行場の近くには、西側に、標高35m程度の丘がありますが、殆どが平坦地です。 -
飛行場の滑走路周辺の地形は、ほぼ平坦ですが、遠くには、山岳地帯が見えます。
この周辺の地形は、80年前の1941年当時と変わっていないと思います。
正面の奥の山は、アウステン山です。 -
この飛行場を巡って、川口支隊が、夜襲で攻撃を続行しました。
また、その後、第2師団が投入されますが、第2師団も飛行場に、夜間攻撃を敢行しました。
正面の奥の山は、アウステン山です。 -
滑走路のすぐ傍には、標高35m程度の丘があります。
その丘の向こうには、ルンガ川があります。(丘とルンガ川の様子は、次の写真で紹介します。) -
飛行場の小高い丘の東側とルンガ川の様子です。
この写真は、飛行場への着陸直前の機上からの写真です。
写真手前の道路は、空港建物の北側(海側)のから市街地に向かっている幹線道路です。 -
ガダルカナル島の飛行場を巡る川口支隊の戦いは、飛行場西側のマタニカウ川流域が焦点となりました。
マタニカウ川は、写真の下側に見えます。
日本軍が、この地域を確保できれば、砲兵の射撃で、米軍の飛行機の離発着を妨害出きます。 -
飛行場から見えていたアウステン山です。
歩兵第124聯隊が死守していた山です。
飛行場は、写真の左側にあります。 -
写真右側が、マタニカウ川です。
サルの台、イヌの台が、日米両軍の戦いの焦点でした。 -
日本の慰霊碑がある平和慰霊公苑の場所です。(赤色→の先)
歩兵第124聯隊と配属された歩兵第228聯隊が死守していたアウステン山、ギフ高地、シーホース高地が、見えます。 -
マタニカウ川の上流には、ギフ高地、見晴台、イヌ高地等があります。
現在では、民家が建てられていますが、80年前は、民家はなかったようです。
植民地政府の首都機能は、ガダルカナル島の向かい側のツラギ島にありましたので、ガダルカナル島は、ほぼ無人島のようであり、季節的に、他島からの労働者がやってくる程度だったそうです。 -
マタニカウ川を挟んで、日米両軍が激突した場所です。
サルの台、見晴台等が見られます。 -
奥にアウステン山が見えます。
手前の台は、ウマ高地とウシ高地の流れです。 -
川口支隊が移動した舞鶴道の地形です。
上空からは、平坦に見えますが、現地に立つと、起伏が厳しい感じです。
雨が降ると、急勾配の坂では、現代の4輪駆動車も登れなくなる経験をしました。
やむを得ず、4輪駆動車を残置し、徒歩にて移動せざるを得ないような地形です。 -
川口支隊が移動した舞鶴道の地形です。
舞鶴道とは、歩兵第124聯隊の出身地福岡の舞鶴城の名称から付けられた経路の名称です。
いずれにしても、現地では、厳しい地形です。(写真は、機上から撮影したものです。)
ましてや、夜間の移動では、地形が見えず、大変な苦労だったと思います。 -
日本軍が、防御陣地として死守していたギフ高地、シーホース高地、ギャロッピング高地です。
ギャロッピング高地には、「後に続く者を信ずる。」との言で有名になっている若林中尉が死守していました。 -
日本の歩兵第16聯隊が陣地を構築し、守備陣地としていた台です。
聯隊長の堺大佐の名前から、堺台と呼ばれていました。
現在は、堺台の南側に、ソロモン諸島の国会議事堂が建てられています。
写真の台の東側には、砲兵台へ続く一連の高地があります。 -
堺台から砲兵台にかけての地域は、ガダルカナル島の飛行場を砲撃するための砲兵の展開地域でした。
海岸線と山岳地帯の接際部に位置しています。
この場所は、現在、キングソロモンホテルが営業しています。キング ソロモン ホテル ホテル
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砲兵台の北側の地域を巡り、日米の激戦が続けられました。
航空優勢のもと、米軍は、この地域に兵力を集中させ、日本軍を圧迫していきました。
クルツ岬の西側です。(現在、日本人が、北野メンダナホテルで、支配人として活躍しています。)ソロモン キタノ メンダナ ホテル ホテル
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川口支隊の攻撃に際しては、海軍、第17軍そして川口支隊長隷下の歩兵第124聯隊長との間で、意見の衝突がたびたび起こりました。(海軍軍令部の高松宮参謀の手記にも、たびたび、ゴタゴタと言う表現で、言及されています。)
川口支隊長にとって、上級部隊の第17軍参謀長は、陸士の後輩にあたり、直属隷下の歩兵第124連隊長の岡大佐は、陸士の先輩にあたる関係にあります。
軍参謀長には、強く意見具申が言えるが、隷下の岡聯隊長には、遠慮があるのかもしれません。
厳しい旧陸軍内の人間関係でも、人事は、難しかったのでしょう。 -
川口支隊長が固執したと言われている舟艇輸送についての分析があります。
一般的に、戦後の資料には、関係者の記憶、思惑や立場の差異による種々の記述があり、真実を見定めることは、難しい状況です。
しかしながら、ガダルカナル島への各種輸送手段等に応ずる輸送状況を見ると、駆逐艦輸送の成功率は、83%となっていて、損傷を含む損害は予想されるものの、比較的安定した輸送実績が見られます。 -
ガダルカナルの飛行場の東側のルンガ川です。
この川の東岸に、米軍の第5海兵連隊が、海岸方向に対して、布陣していました。
海兵師団としては、飛行場滑走路の北側には、1個大隊の勢力しか配置されておらず、海岸方向への備えが厚く、北側の山地方向への備えは薄く、川口支隊の攻撃方向は、戦術的には、当を得ていたものと判断できます。 -
ルンガ川の上流の地形です。
川口支隊は、密林内で前進経路の維持ができず、各大隊の連携が取れないまま、バラバラに、攻撃発起し、各個に撃破されてしまいました。
川口支隊の各大隊が、同時に攻撃発起していた場合、米軍の火力が分散され、日本軍の攻撃が成功した可能性があります。
川口支隊の攻撃失敗後、第2師団の迂回攻撃は、ルンガ川上流を経由したアウステン山南側からの夜間迂回攻撃でした。 -
ガダルカナルの飛行場は、ルンガ川の流域の西岸にあります。
写真の下側の直線部分一帯が、飛行場です。
密林内で前進方向を見失った川口支隊の一部は、ルンガ川に出て、目標の方角を確認してから、示された目標に向かいました。 -
川口支隊は、一木支隊の攻撃失敗を踏まえ、密林内に入り、夜間飛行場に接近しました。
しかしながら、各大隊とも、前進方向を維持できず、密林内で迷ってしまいました。 -
地図を保有していなかった川口支隊の夜間の密林内の前進は、現在位置の把握も、飛行場への経路も把握が困難であり、徒に、時間ばかり過ぎていきました。
上空からの写真では、平坦のように見えますが、夜間の前進経路上の密林内は、倒木や凹地等があり、直進すら困難な状況でした。 -
川口支隊の主力は、飛行場の南側から北の方向に攻撃し、飛行場南側のムカデ高地を奪取すべく、密林内を迂回しました。
密林内の前進は、夜間のみとして、昼間は、密林内に潜伏しました。
川口支隊の夜襲は、昭和17年9月13日の夜と決定されました。
川口支隊長は、友軍相撃を避ける観点から、日本海軍の艦砲による火力支を断りました。
携行した食料は、2日分しかなく、前進が遅れていた歩兵第124聯隊長が指揮する左翼隊の14日の夜襲の意見具申を採用する余裕がありませんでした。 -
川口支隊は、飛行場を、山側から攻撃しました。
米軍の全般配置は、海岸に向けての配備でしたので、防御陣地の弱点を衝くという観点から見ると、理にかなっています。
しかし、歩兵第124聯隊長指揮する左翼隊との合体を待つことなく、別方向から攻撃させたことは、攻撃部隊の戦力を集中するという原則からは、大きな教訓となる点があります。
歩兵第124聯隊長の指揮する左翼隊の攻撃が遅れ、支隊主力の攻撃に貢献できなかったこと、かつ、米軍の戦力を分散させることが出来なかったことが、残念です。
また、支隊主力の攻撃が、大隊ごとの攻撃になってしまい、バラバラの攻撃となり、統制された戦力の合一が、なさなかったことが、攻撃失敗の大きな原因でした。 -
川口支隊の前進は、敵の航空攻撃等を避けるため、密林内の移動とされましたが、密林内での前進方向の維持ができず、密林内で迷い、命令で示された場所にたどり着けず、徒に時間が過ぎてしまったことが、悔やまれます。
地図も無く、密林内で、磁石のみで前進方向を、適切に保つことが、いかに難しいことかを物語っています。
結果として、各大隊ごとに密林内を右往左往して、迷った挙句、攻撃時間に間に合わなかったことが、大きな失敗の原因でした。 -
ガダルカナル島の戦いで、日本軍は、米軍の圧倒的な航空戦力のもと、米軍の火力を避けるため、密林内に入り、米軍機からの損害を避け、夜間に行動しました。
密林内では、昼間でも、現在位置が判らず、密林内で迷ってしまいます。
当時は、地図も無いため、かつ敵情に関する情報が無いので、進むべき方向の把握ができませんでした。 -
ガダルカナル島の夜間における密林内の天空の見え方です。
木の間越しに、天空が、うっすらと透けて見えます。
9月は、雨期ですので、雨が降っていた場合は、天空は見えないでしょう。 -
ましてや、夜間においては、自分の進むべき方向も解らず、同じ場所を、再度、通ることもありました。
ましてや、川口支隊内の他の大隊同士の、連携も取れなかったとのことです。
このため、総攻撃と言っても、各大隊ごと、バラバラに高下していったとのことです。
とある大隊は、大隊長と大隊本部が、行方不明になり、最先任の中隊長が、大隊を指揮して、攻撃を開始したとの記録が残っています。 -
昼間の前進方向の維持は、実際、難しいのが実態です。
ましてや、夜間における方向維持は、言うべくして大変困難です。
日本の富士山の青木ヶ原のように、時期を有する噴火性火山岩の多い場所では、磁石も、当てになりません。
偏角誤差と言って、地図上の北方向と磁石の北方向が、異なっているのが通常です。 -
昼間であれば、太陽の方向及び時刻から、北の方向を把握することが出来ます。
夜間においては、恒星の方向から北の方角を把握します。
海上にて、自己位置を恒星を用いて、把握するのと同じ原理です。
地球の自転に拘わらず、一定の方向に見える北極星から北の方角と緯度を把握することが可能となります。
川口支隊の将兵が、北の方角と自己位置をどの程度把握していたのか、疑問は尽きません。
しかしながら、将兵の時計は、酷暑、湿気、高温及び塩分の環境下において、すぐさびてしまったという記述があり、時計も活用できなかったのかもしれません。 -
ガダルカナルの丘から水平線を見ている写真です。
水平線からの太陽の見える角度や恒星の見える角度から自らの位置の緯度が把握できます。
水平線までの距離が十分ありますので、海岸線の丘の標高が多少あったとしても、緯度が把握できます。 -
北の方角を、北極星を確認することで、知ることが出来ます。
自分の居る緯度は、北極星が見える角度から知ることが出来ます。
陸地等が見えない広い海洋の中で、自分の位置を把握するための六分儀の原理と同じです。 -
夜間の方向維持は、大変重要です。
方角の確認には、北極星を活用すべきかもしれません。
南半球では、北極星が確認できない場合は、南十字星を利用することで、代替できます。
北極星を利用すれば、自分の居る場所の緯度も、把握できます。 -
南半球の国々では、南十字星が生活上、重要となっていますので、国旗にも描かれています。
南十字星の縦方向の星の幅の、4.5倍をもって、北極星と同じ効果を得ることが出来ます。(北の方向の把握)
川口支隊が密林の中で迷ったことに関して、記録を調べてみたいと考えています。 -
川口支隊が進んだ経路と思しき地形を辿りました。
上空からは、想像がつかない凹地がありました。
夜間、地図も無く、コンパスのみの前進は、大変です。
直進することすら難しく、「地形に流される。」という表現が、実態を表しています。 -
密林内の前進は、大変です。
昼間の平坦地形でも、大変なのに、夜間の中での前進、就中、直進は、困難です。
将兵は、前の者から離れないように進むだけでも大変です。
進路の維持に関する注意は、どの程度できたのでしょうか?
机上の計画と現場の実態との乖離は、大きなものがありました。 -
川口支隊が、実質2個大隊で、ムカデ高地を攻撃し、奪取寸前で、失敗しました。
兵力をしっかり調整し、攻撃した場合の勝敗の推移を、ランチェスターの交戦理論で計算しました。
結論的には、川口支隊が、3個大隊、もしくは4個大隊の戦力を、合一して攻撃した場合、米軍を撃破できたのではないかと予測されます。
ランチェスターの2次則を用いて、日米両軍の残存兵力の推移の計算結果を、グラフで示します。
戦闘に参加した装備品の性能、精鋭度、火力、地形を交換比(兵員1名1名の比率)として纏めて指数化してあります。
交換比=1とは、日米戦闘員が装備の優劣、精強度等を含めて、1:1だと表現しています。交換比:1の他、いずれかが優れている場合を想定し、交換比を変化させています。
2個大隊で攻撃した場合は、実際の結果通り、日本軍が全滅しました。
米軍は、兵力が半減しましたが、血染めの丘として死守する結果となりました。
金原節三業務日誌摘録としての戦後の著書『ガダルカナル』の記述によると、著者は、「9月14日川口支隊は、その1ヶ大隊が敵の飛行場に突入し、敵と白兵戦を演じ、敵軍の配給品等を鹵獲して皈投す。ここにおいて1ヶ大隊でも突入出来たのだから、3ヶ大隊を以ってすれば突破容易なると判断せる」と述懐されています。
大本営からの派遣参謀辻中佐と陸士同期生の田村少佐(青葉第4連隊の第2大隊長)は、1個大隊単独で、飛行場の目前の南側まで進出しました。
しかしながら、後続が続かず、川口支隊としての夜間攻撃は、失敗しました。 -
日本軍が3個大隊及び4個大隊で、しっかり調整し、米軍を攻撃した場合は、米軍の損耗が大きくなり、日本軍が勝利します。(交換比:1の場合)
4個大隊で攻撃した場合、米軍が全滅し、日本軍の損耗は200名程度になる計算結果となりました。(交換比:1の場合)
結論的には、原則通り、戦力の集中が大事だという教訓でした。
川口支隊長が、保有している戦闘力を合一するように努力していたら、歴史は、別の形になっていたかもしれません。 -
川口支隊のボルネオ作戦時の戦い方を、瞥見してみました。
開戦当初の大本営の最も重要な関心事は、インドネシアの油田の確保でした。
大本営としては、パレンバンの石油産出量は、日本の年間消費量の1.6倍もあり、早期に占領することを最優先に考え、航空優勢の確保のため、ボルネオ島のレド飛行場の奪取を企図していました。
川口支隊は、南方軍から、速やかなるレド飛行場奪取を命ぜられましたが、迅速な行動に結びつかず、南方軍は、川口支隊に対して、不信感と焦燥感をもっていました。 -
川口支隊長は、ボルネオ国王との軍政上の交渉を優先し、レド飛行場攻撃は、隷下の歩兵第124連隊長岡大佐に任せてあるとして、早急なるレド飛行場攻撃は、実施されませんでした。
岡大佐は、クチンからレド飛行場間の陸路移動は、敵の破壊活動により、日本軍の攻撃は困難と判断し、南方軍の命令とは別の海上の舟艇移動を採用しました。
ガダルカナル島への移動に際して、艦艇移動と舟艇移動の選択上、上級部隊の命令と相異なる実行の前例が、ボルネオ作戦において、見られたことは、大きな驚きです。 -
ガダルカナルの敗北においては、結果として、川口支隊の総兵力(支隊約4000名+一木支隊先遣隊の残存者+一木支隊第2梯隊)が分散され、実質的に攻撃したのは、2個大隊であり、その攻撃は、同時刻の調整された攻撃ではなく、バラバラの攻撃でした。
第17軍の指示した1個中隊程度との舟艇移動においては、川口支隊の約1/3の2個大隊を分割し、しかも上陸地点が飛行場とは反対側のエスペランス岬になったことは、戦力の集中という原則から、大きく外れる結果となってしまいました。 -
川口支隊は、約1万1千人の米軍に対して、約6千人の勢力をもって攻撃する計画でした。
一般的には、攻者は、防者の3倍の兵力が必要とされていますが、川口支隊は、守備部隊の半分程度にすぎませんでした。
しかも、舟艇移動の部隊は米軍の航空攻撃により、1/3が損害を受け、散り散りに上陸し、部隊としての集結に遅れが生じました。
最も懸念されたのは、歩兵第124聯隊と増援の歩兵第4聯隊が、駆逐艦移動隊と舟艇移動隊に、それぞれ分割され、聯隊固有の建制を保持する配慮がなされていなかったことです。部隊としてまとまった認識が無い混成部隊となっていたのです。
聯隊旗のもとに結集するという、精神的なまとまりを、自ら放棄してしまっている編成は、最も残念なことです。 -
マタニカウ川の西岸にある米軍の記念碑の地図です。
米軍の慰霊碑が、マタニカウ川沿いに存在していることは、このマタニカウ川の地が米軍にとって、大きな意味を持っていたことの証左と考えられます。
この地で戦った日本の歩兵第124聯隊と歩兵第228聯隊の敢闘の裏返しかもしれません。 -
ガダルカナル島の山岳地帯における河川は、急勾配の谷地を形成していますが、海岸付近の平坦地では、ゆっくりした流れとなり、蛇行とともに、扇状地形として発達しています。
ルンガ川もマタニカウ川も、ほぼ同じ感じです。 -
現在でも、ガダルカナル島では、遺骨収集活動が続けられています。
日本軍の遺骨のみならず、装備品や遺品が残されています。 -
ソロモン諸島の国立博物館の前庭の慰霊碑です。
川口支隊の主力部隊であった歩兵第124聯隊の慰霊碑が置かれています。ソロモン諸島国立博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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ソロモン諸島の国立博物館の敷地内には、川口支隊の慰霊碑が置かれています。
歩兵第124聯隊の名前が入っています。
望郷の詩が刻まれています。 -
歩兵第124聯隊の出身地福岡の中央区にある谷公園は、昔、陸軍墓地と呼ばれていました。
その一角にも、歩兵第124聯隊の慰霊碑があります。
ガダルカナルの国立博物館に立てられている慰霊碑と、酷似していますが、左側の碑文が、異なっています。 -
同じ国立博物館の前庭には、日本軍の大砲が置かれています。
マタニカウ川の砲兵台から、米軍の飛行場の使用拒否を狙った大砲です。
十分な弾薬が揚陸されていたら、それなりの活躍ができたのにと、残念に思われます。 -
福岡の谷公園にある歩兵第124聯隊の慰霊碑の碑文です。
ガダルカナル島のルンガ飛行場の争奪に死力を尽くした旨の記述が見えます。 -
ガダルカナル島のアウステン山の防御陣地の核心であったギフ高地を、文字通り死守した歩兵第228聯隊の慰霊碑です。
歩兵第124聯隊の慰霊碑は、ガダルカナル島の国立博物館の前庭にあるのですが、歩兵第228聯隊の慰霊碑を見つけることが出来ませんでした。
写真の慰霊碑は、愛知県の愛知縣護国神社の中に置かれているものです。
歩兵第228聯隊は、ギフ高地、見晴台一帯に布陣していました。愛知県護国神社 寺・神社・教会
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愛知縣護国神社にある歩兵第228聯隊の慰霊碑の碑文です。
歩兵第228聯隊第2大隊は、稲垣少佐以下が、アウステン山のギフ高地において歩兵124聯隊第2大隊とともに、米軍に対し敢闘し、同高地を死守しました。 -
愛知縣護国神社の鳥居と参道です。
ガダルカナル島の遺骨収集が続けられる中、マラリアの病魔と闘い、食するものも無く、酷暑の中、散華された英霊のお気持ちは、いかばかりだったかと想います。
故国に帰れる日を心待ちにしていたと思うと、胸が締め付けられる感じがします。 -
ガダルカナル島における川口支隊の行動について、現地での調査を終え、帰路につきます。
帰路も、ブリスベーン空港を経由地として、乗り継ぎます。
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