2016/01/03 - 2016/01/03
198位(同エリア4961件中)
エンリケさん
この旅行記スケジュールを元に
2015~16年の年末年始のベトナム旅行7日目。
今回の旅の実質最終日はベトナムの首都ハノイの見どころを巡ります。
まず最初は、ホアンキエム湖の近くに立地する国立歴史博物館へ。
フランス植民地時代の1932年に建てられたという越洋折衷様式の建物の中には、ベトナムの先史時代から近代にかけての資料が2階に亘ってコンパクトに展示。
龍の宝物や、仏像、漢字で書かれた書物など、中国の影響の強い北部の王朝の文物があるかと思えば、南部に栄えたチャンパ王国のヒンドゥー教の神々の像もあったりして、ベトナムの文化の多様性、複雑性を改めて感じることができました。
<旅程表>
2015年~2016年
12月28日(月) 成田→マカオ
12月29日(火) マカオ→ダナン→ホイアン
12月30日(水) ホイアン→ミーソン→ホイアン
12月31日(木) ホイアン→ダナン→フエ
1月 1日(金) フエ→
1月 2日(土) →ハノイ→ハロン湾→ハノイ
〇 1月 3日(日) ハノイ→
1月 4日(月) →マカオ→成田
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 徒歩
- 航空会社
- マカオ航空
-
1月3日(日)
ハノイ2日目のこの日は、今回の旅の実質最終日。
限られた時間の中でハノイの見どころを巡ろうと、まずは早朝7時30分、早々に宿を出て、市民が集うハノイで最も有名な湖、ホアンキエム湖(湖還劍)に向かいます。 -
宿を出て5分ほど歩くと・・・緑の公園の中に広々とした湖(池?)が見えてきました。
-
この都会の中にある広々とした湖がホアンキエム湖。
“湖還劍”という漢字名にもあるように、15世紀初頭、中国の明に支配されていたベトナム(大越)において、豪族の一人であった黎利(レロイ、黎朝太祖、在位:1428-33年)がこの湖に住む亀から剣を授かり、明軍を駆逐して1428年に黎朝を創始した後、再び姿を現した亀にその剣を還したという伝説が伝わる湖となっています。ホアンキエム湖 滝・河川・湖
-
黎朝の初代皇帝黎利が亀に剣を返した場所が、湖の中にポツンとある通称“亀の塔”とよばれる建物。
その周りでは、早朝から市民が散歩をしたり、運動をしたりするなど、600年の時を超えた現在でも、多くの人々に親しまれる場所となっています。 -
ホアンキエム湖の周囲はこんなふうにきれいな花壇もあり、緑がいっぱい。
早朝から市民の憩いの場となっていますね。 -
7時50分、ホアンキエム湖の散策を終え、東に進むと、淡い黄色をした西洋風の建物が出現。
フランス植民地時代の1911年に、パリのオペラ座(オペラ・ガルニエ)を模して建てられた、通称“オペラ・ハウス”とも呼ばれる“市劇場”です。
この日は何か行事があるのか、入口では立派なスーツを着た人たちがたむろしていますね。ハノイ歌劇場 劇場・ホール・ショー
-
市劇場を別の角度からパチリ。
劇場の前の道路はラウンドアバウトになっていて、車やバイクが引っ切り無しに走っています。
それにしてもハノイもベトナムの他の都市同様、バイクが多いですね。 -
8時05分、その市劇場のすぐ近くにある、国立歴史博物館に到着。
これまでの海外旅と同様、その国の首都を訪れたらまず国立博物館へ、ということで、今回の旅の初期段階から訪れることを計画していたものでした。
この国立歴史博物館、フランス植民地時代の1910年に建てられたハノイ初の博物館がベースとなり、現在の建物は1932年の建築。
“インドシナ様式”とも呼ばれる越洋折衷の建築様式が特徴となっています。
【国立歴史博物館HP】
http://baotanglichsu.vn/en国立歴史博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
この国立歴史博物館、建物の外にある庭にも歴史的遺物がたくさん。
こちらはハノイのナムジャオ寺(Nam Giao Temple)に伝わる、黎朝後期(1533-1789年)の1679年に造られたとされる石碑。
この頃のベトナムは漢字が支配階級の文字として使われていたようで、石碑の中央には漢字がびっしりと刻まれています。 -
こちらの写真の手前に見えるのは、19世紀の阮朝時代の龍の石像。
こんなふうに屋外でその国の歴史的遺産に親しめるというのもいいものですね。 -
8時15分、入館料40,000ドン=約220円を払って博物館に入館。
内部は、昔ながらの建物にしては意外ときれいで広々とした空間。 -
最初の展示は、“龍”をモチーフにした宝物の特集ということで、まずこちら、真ん中は、黎朝時代の15世紀、ホイアン近郊にある島近くの難破船から発見されたという、龍が描かれた陶磁器。
左は、李朝時代の1057年の製作と言われる、ハノイ近郊のティエンドゥー県で発見された、龍が描かれた部材。
そして右は、黎朝時代の17~18世紀の作品と言われる龍の装飾が施されたテラコッタ製の容器(発見場所不明)。
いつの時代も龍はベトナム人にとって、芸術の主題となっていたのですね。 -
続いてこちらは、2000~2500年前、ハノイの南150kmにあるタインホア省(省清化)辺りで栄えた“ドンソン文化”(文化東山)時代の銅製の槍(左)と胸当て(右上)。
当時の人々にとっての神獣だったのか、いずれも龍とワニが装飾されています。
そして右下は同じくタインホア省で出土した、1~3世紀頃の2匹の龍が装飾された銅鏡。
円形の銅鏡を見慣れている日本人からすれば、四角い銅鏡というのはなかなかユニークですね。 -
こちらはハノイの南東、タイビン省(省太平)の寺院に伝わる黎朝時代の1772年に造られたとされる銅製の鐘。
やはり龍(2つの頭を持った龍は“Pulao”とも呼ばれる)のデザインが施されています。 -
19~20世紀、阮朝の宮廷用に作られたという黄金の龍。
先史時代からつい最近の王朝まで、一貫して龍がモチーフとされているのがすごいところですね。 -
左は19~20世紀の阮朝時代の作品で、銅製の龍の姿をした馬(龍馬?)。
右は15世紀、ホイアン近郊にある島近くの難破船から発見された、羽の生えた馬(ペガサス?)をモチーフとした陶磁器。
ギリシャ神話のペガサスのようなものが描かれているのは、西洋からの注文に基づき製作されたものだからとか・・・。 -
こちらは19~20世紀、阮朝時代の5頭の獅子で装飾された香炉(Incense-burner)。
球で遊ぶ獅子は平和の象徴なんだとか。 -
続いては先史時代のコーナー。
一見しただけではただの石と見分けがつかない様々な石器が並びます。 -
こちらは猿人から現生人類への進化の過程をたどったもの。
単なる“ベトナムの歴史の博物館”というだけではなく、“本格的な博物館”という感じです(笑)。 -
こちらは17~18世紀、黎朝時代のテラコッタ製の作品で、“Chiwen”又は“Kim”という龍によく似た海に棲む生き物。
長い尾で波を起こして雨を降らせる特技をもつことから、中国などでは、火災からの守り神として、昔から屋根飾りによく用いられてきたとのこと。
そういえば日本の城などの屋根を飾るシャチホコも、由来はこの“Chiwen”とか・・・。 -
ハノイの南にあるハナム省(省河南)から出土した、紀元前5世紀頃のドンソン文化の銅鼓。
シルエットといい、上部の模様といい、先史時代のものとは思えないほど精巧な造りです。
・・・そういえば東京国立博物館の特別展「三国志」で見た、広西チワン族自治区から出土した山越族の祭祀道具もこんなかたちをしていましたね。
【東京国立博物館 特別展「三国志」~広西チワン族自治区藤県和平区古竹郷から出土した3~6世紀(三国~南北朝時代)の銅鼓(広西民族博物館)】
https://4travel.jp/travelogue/11677931#photo_link_69008810
この銅鼓を造った民族が現在のベトナムにおける最大民族、キン族(京族)につながっているとのことですが、だとしたら、キン族は紀元前後の時代には中国南部にも勢力圏をもっていたということなのでしょうかね。 -
ベトナム北西の山岳部にあるイェンバイ省(省安沛)で発見された2500~2000年前の銅製の甕。
こちらは奇妙な蓋があることを除けば、ラオス北部のジャール平原に多数存在する古代の石壺によく似ています。
【ラオス紀行(13) ラオス北部のシェンクワン県で発見された古代の石壺(ヴィエンチャンの国立博物館)】
https://4travel.jp/travelogue/11052139#photo_link_40341492 -
ちなみにこの蓋、虫のようなものが付いていると思ってよく見ると、こんな人間の交接像。
甕の内部には火葬された人骨の痕跡があったとのことで、この交接像には葬られる人の生まれ変わりを祈ってというメッセージが込められているのでしょうかね・・・。 -
こちらは陳朝(Tran Dynasty、1225-1400年)時代の銅銭。
ベトナムでは日本など他のアジア諸国と同様、中国の宋銭なども流通したようですが、こちらは“元豊”や“紹豊”など、陳朝の元号が入っているところを見ると、ベトナムオリジナルのものでしょうかね。 -
ベトナム北部のバクニン省(省北寧)の寺院に伝えられている、李朝(Ly Dynasty、1009-1225年)時代の1057年に造られたという阿弥陀如来像(Statue of Amithaba Budda)。
ベトナムは日本と同じく大乗仏教が中心の国で、2世紀前後に中国を経由して伝来したと言われています。
そのため、仏像の姿かたちも日本のものと非常によく似ています。 -
こちらは1126年に造られたと言われる、タインホア省(省清化)の寺院に伝わる石碑。
表面には、李朝がチャンパ王国や中国(北宋)の侵略を打ち破ったことが刻まれているとのこと。 -
こちらは15世紀の黎朝時代の書籍。
全編漢字で書かれており、中国や日本のものと言われても分からないですね。 -
こちらも15世紀、黎朝時代の肖像画。
中国風の衣装を身に着けており、やはり中国のものと言われても分からないかも。 -
こちらは19~20世紀初頭の阮朝時代に使われたという儀礼用の椅子。
皇帝が座ったものなのか、背もたれの中心に龍が刻まれています。 -
17~18世紀、黎朝時代の菩薩像。
こちらも日本のものにとてもよく似ていますね。 -
さて、館内を進んでいくと、巨大な木像が立ち並んでいる一角に。
-
こちらは黎朝時代の1656年に造られた観世音菩薩(avalokiteshvara)。
バクニン省の寺院に伝わるものとのことで、日本の仏像のような繊細さが見て取れます。 -
こちらは16世紀の莫朝(Mac Dynasty、1527-1677年)時代に造られたと言われる巨大なオウム(Parrot)の像。
その大きさやズシリと伝わってくる威厳の有り様から言って、オウムというより“火の鳥”のようです。 -
こちら中央は、17世紀の黎朝時代に造られた儀礼用の家の模型。
右は莫朝時代の1589年に造られたという、フンイェン省(省興安)に伝わる燭台(Lampstand)。
以上でベトナム北部の文物の展示は終わり・・・。 -
以降はベトナム中南部のヒンドゥー王国であるチャンパ王国(192-1832年)の遺物の展示。
こちら、1階からの吹き抜け部分の周囲にあったのは、ベトナム中部ビンディン省(省平定)のチャンパ寺院に祀られていた、12世紀後半のものとされるシヴァ神像。
ウィ~と言っている小島よしおのようにも見えます(笑)。 -
その周囲にはチャンパ王国の様々な石像が。
交流があったのか、表情にはカンボジアのアンコール朝(9~15世紀)の影響が見られますね。 -
こちらは9世紀、クアンナム省(省廣南)のチャンパ寺院を飾っていた砂岩製の“祈る人”。
こうしてみると、ベトナムはまさに、中国文明とインド文明がしのぎを削っていた場所だったのですね。 -
こちらはビンディン省に残されていた12~13世紀頃のガルーダ(神鳥)とナーガ(蛇神)。
ガルーダがナーガを食べているようにも見えます(笑)。 -
クアンナム省のチャンパ寺院を飾っていた、10世紀頃のものと思われる砂岩製のガルーダ。
2頭身の随分とかわいらしいガルーダです。 -
ビンディン省のチャンパ寺院の基礎を形成していた12世紀の獅子の像。
ほとんど欠けることなく、きれいな姿のまま残されていますね。 -
こちらはミーソン遺跡でも見た、ご存知、シヴァ神のシンボルのリンガ。
13世紀のものと伝えられています。 -
こちらは丸っこいチャンパ文字が刻まれたミーソンの石碑。
731年に造られたとのことで、表面にはチャンパ王国の王の事績が刻まれているとのこと。 -
9時45分、以上で2階にわたる国立歴史博物館の見学を終了・・・と思ったら、この部分は“エリアA”とのことで、また別の敷地に“エリアB”があるとのこと。
まだ時間はあるし、せっかくなので“エリアB”にも行ってみることに。 -
ということで、道路を渡ってすぐの場所にある国立歴史博物館の“エリアB”へ。
こちらもまた、クラシックなかたちをした建物となっているところです。 -
10時、“エリアB”の建物の1階から見学開始。
“エリアA”と異なり、こちらは19世紀半ば以降の抗仏運動から、インドシナ戦争、ベトナム戦争を経て、ベトナムの現代に至るまでがテーマとなっているところです。 -
まずこちらは、19世紀半ば、コーチシナ(ベトナム南部)に侵攻していたフランスに対し、融和路線の皇帝トゥドゥック帝(嗣徳帝)に逆らってゲリラ戦を展開した阮朝の官僚、チュオン・ディン(張定、1820-64年)の記録。
ここでもまだ、漢字の文章が見えます。 -
こちらはフランスの侵攻に対して戦った阮朝ハノイ総督のホアン・ディウ(黄耀、1829-82年、左)と、軍人のグエン・フー・ファン(阮友勳、1841-64年、右)の肖像。
彼らはフランスに侵略されっぱなしだった阮朝の中にあって、わずかながらもフランスに抵抗した民族的英雄とされているとか。 -
こちらの写真は1886年、フランス支配に対し蜂起しようとして逮捕されたベトナム人女性たちを撮影したもの。
首枷をはめられた生々しいものとなっていますが、彼女らはこの後、どうなったのでしょうか・・・。 -
こちら、“鎌と槌”を表す共産主義のシンボルマークの下にいるのは、グェン・アイ・クォック(阮愛國)こと若き日のホーチミン(胡志明、1890-1969年)。
彼はフランス支配下のベトナム(フランス領インドシナ)において、1930年にインドシナ共産党を結成し、フランスからの独立と社会主義革命を目指すことになります。 -
こちらがそのインドシナ共産党の旗。
当時の知識人の言語であった漢字が使われており、現代の日本人にとっても理解できるものとなっています。 -
こちらは1941年8月3日、第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏した隙にサイゴンに進駐した日本軍の様子を捉えた写真。
日本軍はベトナム北部にはすでに前年の1940年に進駐しており、この状態は1945年の日本の敗戦まで続くことになります。 -
こちらは1945年8月、日本の無条件降伏後、ベトナム各地でベトミン(ベトナム独立同盟会)を蜂起させ、バオダイ帝(保大帝)を退位に追い込んで阮朝を打倒(ベトナム八月革命)した頃のホーチミン。
この後、日本が降伏文書に正式に調印した9月2日に、ホーチミンはハノイの大広場で大衆集会を開催し、ベトナム民主共和国の独立を宣言することになります。 -
こちらの部屋にはホーチミンの上半身の像が。
ホーチミンは自らの死後、個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んでいなかったそうですが、実際には彼の廟や博物館、像などがハノイを中心にベトナム各地に造られ、ベトナム人民の彼に対する崇拝が進んでいくことになります。 -
この後は1945年9月に独立を宣言した社会主義のベトナム民主共和国と、反共主義によるフランス連合の枠組み維持を目指すフランスとの“インドシナ戦争”(1946-54年)の展示。
第二次世界大戦が終わった後も、ベトナムでは独立や国土の統一を巡り、長い戦争が続いていくのですね・・・。 -
こちらはフランスの植民地政府が使ったというギロチン。
“自由”と“平等”という人類の普遍的権利が認識され、各国に広められたフランス革命ですが、こんなものまで輸出しなくてもいいのに・・・。
所詮は欧米人のための“自由”、“平等”という認識しかなかったということなのでしょうが。 -
こちらはインドシナ戦争における最大の戦いであった、1954年3月から5月にかけての“ディエン・ビエン・フーの戦い”(戰役奠邊府)を撮影した写真。
高校の世界史で学んで以来、その語呂の良さから不思議と覚えている戦いですが、現地ベトナムの人々にとっても、たくさんの写真を博物館の展示につぎ込むほど大事な戦いなのですね。 -
こちらはディエン・ビエン・フーの戦いで使われたフランスのド・カストリー将軍(General De Castories)司令部のトンネルカバーと81mm迫撃砲。
レプリカではなく本物でしょうか・・・。 -
こちらはディエン・ビエン・フーの戦いに勝利したベトナム民主共和国側の様子を撮影したもの。
左下には少数民族の女性たちがベトナム人民軍の勝利を祝っている様子が捉えられています。 -
“北の建設と南の闘争”(Construction in the North and Struggle in the South)と題された、1964年6月30日に印刷されたハノイとサイゴンにおけるプロパガンダポスター。
ディエン・ビエン・フーの戦い後、1954年7月21日に成立したジュネーヴ協定により、ベトナムは北緯17度線を境として、社会主義の北ベトナムと、反共主義の南ベトナムとに分断されることになります。
このポスターはソ連や中国の援助を受け工業化を進めつつある北ベトナムと、(理想的な)社会主義への統一のため、反共主義者との闘争が必要な南ベトナム(解放民族戦線)を対のかたちで表したもの。
右側のイラストにある赤と青の下地に金星が描かれた旗は、1960年に結成された南ベトナムにおける反サイゴン政権、“南ベトナム解放民族戦線”の旗となっています。 -
こちらは1960年、交響楽団の指揮をするホーチミン。
インドシナ戦争が終結し、これで平和になったと思いきや・・・。 -
この後はベトナム戦争のコーナー。
インドシナ戦争終結後、フランスはインドシナ半島から撤退しますが、南のベトナム国では、1955年にゴ・ディン・ジエム(呉廷琰)が阮朝最後の皇帝であった元首バオ・ダイ(保大)を追放してベトナム共和国を樹立。
フランスに代わって米国を後ろ盾とし、共産主義勢力の勝利が予想されていた、ジュネーヴ協定で約束された南北統一選挙を拒否します。
このため、南部の共産主義者らは1960年に“南ベトナム解放民族戦線”を結成、サイゴン政権や駐留米軍に対しゲリラ戦を展開し、後には北ベトナムも巻き込んだ“ベトナム戦争”に突入していくことになります。 -
こちらはベトナム人兵士が川を渡るときなど、移動の際に身に着けていたというノンラー(三角笠)。
ベトナム戦争時の1965年のものということで、まさに我々が想像するゲリラの格好で戦争を展開していたわけですね。 -
こちらはベトナム戦争での兵士たちを撮影した写真。
右下には迫撃砲で戦う女性のゲリラ兵の姿もありますね。 -
こちらは1972年12月末、ハノイにて、米軍の戦闘機の残骸(上部)のそばで花に水をやるベトナム人女性。
これもまた、米軍に対する戦意を高揚させるためのプロパガンダ写真ですね。 -
こちらは1973年3月29日、長期に渡る戦争で米国内における厭戦気分が高まる中、1月27日に調印されたパリ和平協定に基づき、南ベトナムから撤退を開始する米兵を捉えた写真。
これにより、“ベトナム戦争のベトナム化”が図られることになります。 -
1975年3月10日、“ベトナム戦争に米軍の再介入はない”と判断した北ベトナムは、分断された祖国を統一すべく、南ベトナムに対する全面攻撃を開始。
写真は1975年3月26日、北ベトナムによって“解放”されたフエの様子。
3日前のフエ観光時に歩いたチャンティエン橋でしょうかね。
【年末年始ベトナム北中部紀行(6) フエ中心部のフーン川に架かるチャンティエン橋】
https://4travel.jp/travelogue/11677871#photo_link_69144203 -
1975年3月29日、フエ解放の3日後、北ベトナム軍は続けざまにダナンも解放。
まさに“電撃作戦”という感じです。 -
こちらはサイゴン郊外のタンソンニャット(新山一)空港を指し示し、戦車を向かわせる女性兵士。
ベトナム戦争の展示では、ところどころで戦う女性の姿が捉えられていますね。 -
上の写真は北ベトナム軍がサイゴンに迫る中、アメリカ大使館職員がヘリコプターで脱出する様子を捉えたもの。
下は、1975年4月30日、北ベトナム軍のサイゴン突入を受け、降伏した南ベトナム最後の大統領ズオン・バン・ミン(楊文明、Duong Van Minh、1916-2001年)。
彼は北ベトナム軍の作成した原稿による、“米国の傀儡大統領”としての降伏声明をラジオで読み上げ、ベトナム戦争は終結。
これにより南ベトナム(ベトナム共和国)は消滅し、社会主義政権である北のベトナム民主共和国(1976年からベトナム社会主義共和国)が、統一政権としてベトナム全土を統治することとなります。 -
ベトナム戦争の後は、テレビなどの工業製品を展示するコーナー。
生活家電が出てきたり、展示もカラーになったりして、やっと平和になった感がありますね。 -
最後は国際関係のコーナー。
こちらは1950年代の友好国からの贈答品。
書かれている国名はソ連や北朝鮮、インドなど、当時の世界情勢を感じますね。
ちなみに北朝鮮からの贈答品は左から2つ目の、鶴の象嵌が施された漆器(Lacquer Tray)で、その隣がインドからの仏像。
“らしさ”を感じますね(笑)。 -
こちら中央は、ソ連からの贈答品のティーポット。
無骨なかたちが何とも・・・です(笑)。 -
ちなみに博物館の入口前に展示されていたこちらは、1954年にソビエト連邦共産党からベトナム労働党(現共産党)に贈られたという特別な装甲を施した車。
やはり無骨なかたちをしていますね(笑)。
ホーチミンら共産党の面々がこの車を乗り潰した後の1973年にこの博物館に寄贈されたとのこと。 -
以上、約3時間で国立歴史博物館の見学を終了。
2館に亘る博物館でしたが、ベトナムの先史時代から現代にいたるまでの歴史的資料がコンパクトに収められ、ベトナムの国の成り立ちが俯瞰できて、たいへん勉強になりました。
さて、時計を見ると11時。
深夜のフライト時刻まで、残りの時間も引き続きハノイの見どころを巡っていきます!
(年末年始のベトナム北中部旅行7日目後半~ハノイ観光に続く。)
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 川岸 町子さん 2021/05/23 20:36:29
- 黄色
- エンリケさん、おばんでした(*^-^*)
「その国の首都を訪れたらまず国立博物館へ」
今度私も真似してみようと思います。
海外だけでなく、国内でも同じですね。
奈良を訪れた時、立派な建築の国立博物館の前を通り、入ってみたいなと思いました。
最初の市劇場、そして国立歴史博物館、その他の著名な建築物にも、黄色が使われていますよね。
なぜ?って気になりました(笑)
「ハノイのフレンチ・コロニアル建築が黄色い理由」で検索すると、
一説では、黄色はフランス人にとって南方を意味する色。
いわば「色の南方趣味」
壁を黄色に塗ることで、建築家たちは南方の地に立つ建築であることを表現した。
とありましたが、どうなんでしょうね?
ベトナム中南部のチャンパ王国の遺物の展示になると、一気にヒンドゥー色が濃くなるものですね。
北ベトナムの展示が中国の影響が強かったのとは、対照的です。
町子
- エンリケさん からの返信 2021/05/29 20:46:49
- プロヴァンスの色
- 川岸 町子さん
こんばんは。
ハノイ旅行記にご訪問ありがとうございます。
> 奈良を訪れた時、立派な建築の国立博物館の前を通り、入ってみたいなと思いました。
奈良の国立博物館、わたしも入ってみたいですね。
日本は東京だけでなく、奈良や京都、九州にも国立博物館があって、本当に歴史が豊かな国だと感じます。
このコロナ禍で閉鎖を余儀なくされている博物館があるのが悲しいところですね・・・。
> 最初の市劇場、そして国立歴史博物館、その他の著名な建築物にも、黄色が使われていますよね。
> なぜ?って気になりました(笑)
> 「ハノイのフレンチ・コロニアル建築が黄色い理由」で検索すると、
> 一説では、黄色はフランス人にとって南方を意味する色。
> いわば「色の南方趣味」
> 壁を黄色に塗ることで、建築家たちは南方の地に立つ建築であることを表現した。
> とありましたが、どうなんでしょうね?
さすが町子さん、鋭いところにお気付きです。
わたしも昔、フランス南部のプロヴァンス地方を旅したとき、パリなど北方に比べて日射しが強いこともあってか、フランス南部には“黄色”というイメージを持ったところです。
そういえばゴッホがアルルで描いた“夜のカフェテラス”も壁の色が黄色でしたよね。
【アートペディア〜フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェテラス」】
https://www.artpedia.asia/work-caf%C3%A9-terrace-at-night/
> ベトナム中南部のチャンパ王国の遺物の展示になると、一気にヒンドゥー色が濃くなるものですね。
> 北ベトナムの展示が中国の影響が強かったのとは、対照的です。
今回ベトナムを縦断したことで、この地が“インドシナ”と呼ばれている理由が分かったような気がします。
コロナ禍で何でも“リモート”が叫ばれる時代ですが、やはり現地を訪れてこそ、物事を正確に理解できるというものですよね。
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