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2020年11月13日(金)お昼の12時半頃、三井寺の南院に到着。十八明神社横の結構長い石段(下の写真1)を登ると札所伽藍と呼ばれる広場に出る。中心になるのが観音堂で、西国三十三所観音霊場の第14番札所として知られる。後三条天皇の病気平癒を祈願して平安時代の1072年に西方の山上、華ノ谷に創建された。当初は聖願寺や正法寺という名前であったが、室町時代の1481年に現在地に移された。<br /><br />現在の観音堂は江戸初期の1686年に焼失した後、1689年に再建されたもの。桁行9間、梁間5間の重層入母屋造、本瓦葺。お堂の左手には水子地蔵尊が祀られている。ご本尊は智証大師作と伝えられる重文のの如意輪観世音菩薩像で、33年に一度しか開帳されない秘仏。堂内には本尊の脇侍である愛染明王像(重文)、毘沙門天像が安置されており、また、本堂再建の様子を描いた絵馬が多数奉納されている。県の指定有形文化財。<br /><br />観音堂前の広場の北東、崖にせり出して建つのが観月舞台。懸造の舞台で、江戸末期の1849年に建立されたもの。琵琶湖疏水、大津市街、琵琶湖の景観を眺望できる。滋賀県の指定有形文化財。<br /><br />観月舞台の横に建つのが百体観音堂。江戸時代中期の1753年に建立されたもので、滋賀県の有形文化財。堂内中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像、その左右に西国三十三所観音霊場の本尊像、堂内の左右には坂東三十三箇所と秩父三十四箇所の本尊が安置されており、合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれている(下の写真2)。<br /><br />写真では見難いが、正面入り口の右手に大津絵「鬼の寒念仏」の絵馬が掲げられている。大津絵は逢坂関の西側に位置する近江国追分を発祥の地とし、東海道を旅する旅人たちの間の土産物や護符として、江戸時代を通じて東海道大津宿の名物だった。<br /><br />観音堂前の水子地蔵尊の前に手水屋と絵馬堂が並ぶ。共に大津市の有形文化財。絵馬堂は江戸後期の1802年に再建されたもので、観音霊場として絵馬の奉納が多いことに対応するために建てられた(下の写真3)。<br /><br />この他、絵馬堂の北側に1819年再建で、世継ぎ地蔵を祀る大津市の有形文化財の地蔵堂や、観音堂の北側に1814年再建で、滋賀県の有形文化財の鐘楼もある。鐘楼には元々は「童子因縁之鐘」と呼ばれる鐘が釣られていた(太平洋戦争中の金属類回収令によって供出された)。この鐘の鋳造の際に、当時の僧たちが大津の町々を托鉢行脚したそうで、とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」と云われたと。ところが梵鐘が出来上がると不思議にもその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がっており、 その日にかの富豪の子供三人が行方不明になったと・・・ ああ、怖~<br /><br />手水屋と絵馬堂の間をさらに奥に進むと石段があるが、これを登ると展望台がある。陽光を受けてきらめく悠然たる琵琶湖が眼下に広がり、大津市街を一望できる。この時は真っ赤な紅葉越しに大津市の北部、皇子山競技場などが見えた。桜の季節にも来たことがあるが、桜と札所伽藍、大津の町、琵琶湖も素晴らしかった。松尾芭蕉や正岡子規など、多くの文人もここから見晴らす琵琶湖の景色を愛したと云われている。<br /><br />このエリア、真っ赤何色付いた紅葉の隣に滋賀県警察官忠魂碑があるが、1911年(明治44年)に建てられたもの。高さ3.35mある。その右手には大きく「大津そろばん」と大きく横書きされ、手前にそろばんの大きな玉が一つある碑。全国珠算教育連盟が1975年に建立した大津そろばんの碑。<br /><br />「そろばんと云えば大津、大津と云えばそろばん」と全国に名を馳せた大津そろばんを記念した碑。大津そろばんは逢坂関から京都側に下った大谷、追分町付近を起源とする。江戸初期の1612年、この追分町の住人片岡庄兵衛は、長崎奉行に随行して長崎に赴き、明人からそろばんの見本と使用方法を授かって帰郷する。庄兵衛は工夫研究を重ね、中国式そろばんの大きさ、組み方、珠の形状などを日本人に適するように改良し、大津そろばんを完成させた。庄兵衛は幕府より「御本丸勘定所御用調進」を命ぜられ、以来、明治の初めまで約三百年「大津そろばん」の名声は全国的に広められた。<br /><br />しかし、三百年の繁栄を誇った大津そろばんも、明治になると鉄道敷設のため、業者が最も密集していた地域が強制的な立退きに合い、壊滅的な打撃を受ける。さらに機械化の波が押し寄せ、対応するゆとりもないそろばん業者はやがて完全に消滅してしまった。と云うような話が背景にはあるそうだ。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4895544373848881&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />さらに中院東部に戻るが、続く

滋賀 大津 三井寺 南院 (Nanin, Miidera Temple, Otsu, Shiga, JP)

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2020/11/13 - 2020/11/13

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旅行記グループ 三井寺

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月13日(金)お昼の12時半頃、三井寺の南院に到着。十八明神社横の結構長い石段(下の写真1)を登ると札所伽藍と呼ばれる広場に出る。中心になるのが観音堂で、西国三十三所観音霊場の第14番札所として知られる。後三条天皇の病気平癒を祈願して平安時代の1072年に西方の山上、華ノ谷に創建された。当初は聖願寺や正法寺という名前であったが、室町時代の1481年に現在地に移された。

現在の観音堂は江戸初期の1686年に焼失した後、1689年に再建されたもの。桁行9間、梁間5間の重層入母屋造、本瓦葺。お堂の左手には水子地蔵尊が祀られている。ご本尊は智証大師作と伝えられる重文のの如意輪観世音菩薩像で、33年に一度しか開帳されない秘仏。堂内には本尊の脇侍である愛染明王像(重文)、毘沙門天像が安置されており、また、本堂再建の様子を描いた絵馬が多数奉納されている。県の指定有形文化財。

観音堂前の広場の北東、崖にせり出して建つのが観月舞台。懸造の舞台で、江戸末期の1849年に建立されたもの。琵琶湖疏水、大津市街、琵琶湖の景観を眺望できる。滋賀県の指定有形文化財。

観月舞台の横に建つのが百体観音堂。江戸時代中期の1753年に建立されたもので、滋賀県の有形文化財。堂内中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像、その左右に西国三十三所観音霊場の本尊像、堂内の左右には坂東三十三箇所と秩父三十四箇所の本尊が安置されており、合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれている(下の写真2)。

写真では見難いが、正面入り口の右手に大津絵「鬼の寒念仏」の絵馬が掲げられている。大津絵は逢坂関の西側に位置する近江国追分を発祥の地とし、東海道を旅する旅人たちの間の土産物や護符として、江戸時代を通じて東海道大津宿の名物だった。

観音堂前の水子地蔵尊の前に手水屋と絵馬堂が並ぶ。共に大津市の有形文化財。絵馬堂は江戸後期の1802年に再建されたもので、観音霊場として絵馬の奉納が多いことに対応するために建てられた(下の写真3)。

この他、絵馬堂の北側に1819年再建で、世継ぎ地蔵を祀る大津市の有形文化財の地蔵堂や、観音堂の北側に1814年再建で、滋賀県の有形文化財の鐘楼もある。鐘楼には元々は「童子因縁之鐘」と呼ばれる鐘が釣られていた(太平洋戦争中の金属類回収令によって供出された)。この鐘の鋳造の際に、当時の僧たちが大津の町々を托鉢行脚したそうで、とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」と云われたと。ところが梵鐘が出来上がると不思議にもその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がっており、 その日にかの富豪の子供三人が行方不明になったと・・・ ああ、怖~

手水屋と絵馬堂の間をさらに奥に進むと石段があるが、これを登ると展望台がある。陽光を受けてきらめく悠然たる琵琶湖が眼下に広がり、大津市街を一望できる。この時は真っ赤な紅葉越しに大津市の北部、皇子山競技場などが見えた。桜の季節にも来たことがあるが、桜と札所伽藍、大津の町、琵琶湖も素晴らしかった。松尾芭蕉や正岡子規など、多くの文人もここから見晴らす琵琶湖の景色を愛したと云われている。

このエリア、真っ赤何色付いた紅葉の隣に滋賀県警察官忠魂碑があるが、1911年(明治44年)に建てられたもの。高さ3.35mある。その右手には大きく「大津そろばん」と大きく横書きされ、手前にそろばんの大きな玉が一つある碑。全国珠算教育連盟が1975年に建立した大津そろばんの碑。

「そろばんと云えば大津、大津と云えばそろばん」と全国に名を馳せた大津そろばんを記念した碑。大津そろばんは逢坂関から京都側に下った大谷、追分町付近を起源とする。江戸初期の1612年、この追分町の住人片岡庄兵衛は、長崎奉行に随行して長崎に赴き、明人からそろばんの見本と使用方法を授かって帰郷する。庄兵衛は工夫研究を重ね、中国式そろばんの大きさ、組み方、珠の形状などを日本人に適するように改良し、大津そろばんを完成させた。庄兵衛は幕府より「御本丸勘定所御用調進」を命ぜられ、以来、明治の初めまで約三百年「大津そろばん」の名声は全国的に広められた。

しかし、三百年の繁栄を誇った大津そろばんも、明治になると鉄道敷設のため、業者が最も密集していた地域が強制的な立退きに合い、壊滅的な打撃を受ける。さらに機械化の波が押し寄せ、対応するゆとりもないそろばん業者はやがて完全に消滅してしまった。と云うような話が背景にはあるそうだ。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4895544373848881&type=1&l=223fe1adec


さらに中院東部に戻るが、続く

  • 写真1 札所伽藍への石段

    写真1 札所伽藍への石段

  • 写真2 百体観音堂の観音像

    写真2 百体観音堂の観音像

  • 写真3 奥からの札所伽藍

    写真3 奥からの札所伽藍

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