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2020年11月13日(金)朝の11時過ぎ、京都からJR湖西線の大津京駅で京阪の石坂線、京阪大津京駅に乗り換え、2駅南の三井寺駅に降り立つ。<br /><br />石坂線は正式には石山坂本線で、瀬田の唐橋に近い石山寺駅から比叡山の麓の坂本比叡山口駅までを結ぶ軌道路線。1913年(大正2年)3月に大津電車軌道として大津(現在の浜大津)・膳所(現在の膳所本町)間が開業し、1927年(昭和2年)に琵琶湖鉄道汽船として全線開業、その2年後に京阪が合併した。<br /><br />起終点含む21駅、全長14.1㎞を標準軌、全線電化複線で結ぶ。通常は10分間隔で石山寺と坂本比叡山口を発着駅とする各駅停車が走っている。主に大津市の中心部や市街地を走り、地元大津市民の生活の足になっているほか、沿線には豊富な観光資源を有することから、観光客の移動手段としても利用されている。<br /><br />京阪大津京駅は戦後の1946年(昭和21年)に現在地の約50m南に皇子山駅として開業。南東に先日(2021年2月)に日本新記録でその歴史を閉じたびわ湖毎日マラソンのスタート・ゴールの皇子山競技場がある。開業当時は会社合併で京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)だった。2006年にJR湖西線との乗換の利便を図るために現在地に移転、2018年にはJRの駅名変更(2008年に西大津から改称)に10年遅れて現在の名前に変更した(下の写真1)。<br /><br />三井寺駅は1922年(大正11年)に大津電車軌道が浜大津駅から延伸し、その終着として開業した。その5年後に坂本方面が延伸されている。相対式2面2線のホームの地上駅で、上下線は別々の改札となっている(下の写真2)。<br /><br />駅のすぐ北で琵琶湖と京都を結ぶ琵琶湖疏水を跨いでおり、駅から疏水沿いに山側に進み、大津と敦賀を結ぶ北国海道の北国橋を右折し北に進み、大門通を左に折れ西に進む。<br /><br />大門通に入るとすぐに萬徳院の碑がある。萬徳院はかつてはこれから向かう三井寺の塔頭寺院だった。室町時代、応仁の乱の起こる2年前に、比叡山延暦寺西塔の衆徒によって京の本願寺が焼き討ちされる。寛正の法難と呼ばれるこの事件で、その後浄土真宗発展のいしずえを築く本願寺第八世・蓮如は京を追われ、叔父であった萬徳院の住職を頼りこの地に逃れ、本願寺再興の策を練ったそうだ。現在の萬徳院は単立寺院となり、仏縁があって千葉・船橋の地で釈迦寺として興隆し、ここは関西本院となっている(下の写真3)。<br /><br />大門通をそのまま西に進むと、信号のある交差点に園城寺町の案内板があり、そのまま先が三井寺の案内がある(表紙の写真)。ややこしいが、三井寺は通称で、正式名称は長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)。天台寺門宗の総本山で、ご本尊は弥勒菩薩。2015年には「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財として日本遺産に認定されている。<br /><br />社伝によると、飛鳥時代の終わりに近い686年、壬申の乱(672年)で大海人(おおあま)皇子(第38代天智天皇の弟で後の第40代天武天皇)に敗れた大友皇子(天智天皇の子で後に第39代弘文天皇を追号された)の菩提を弔うため、皇子の大友与多王(よたのおおきみ)が建立。与多王が自らの田園城邑(じょうゆう:屋敷のこと)を投げ打ち寺の建立を発願したことから、天武天皇が「園城」という勅額を与え、そこから園城寺と呼ばれるようになったと云う。<br /><br />三井寺と呼ばれるのは、この寺に涌く霊泉が天智天皇・天武天皇兄弟や天智天皇の娘で叔父の天武天皇の皇后となった第41代持統天皇の産湯として使われたことから御井(みい)の寺と云われていたものが転じたと云われる。ただし、この地に都を移したのは天智天皇で、667年。すでに後に持統天皇となる鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)も二十歳を過ぎており、このお三方は当然遷都前の飛鳥生まれで、話は合わない。<br /><br />ちなみにこの地に置かれた近江大津京は壬申の乱後に天武天皇が再び飛鳥に遷都し、わずか5年しか存在しなかった。園城寺も没落していき、創建時に遡る遺物は現在はほとんど残っていない。<br /><br />平安時代に入って、平安中期の859年に園城寺初代長吏に就任した智証大師円珍が天台別院として中興し、東大寺、興福寺、延暦寺と共に本朝四箇大寺の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担うようになる。<br /><br />円珍の死後、比叡山では円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、993年に円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入った。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分された。延暦寺との対立抗争は激化し、比叡山の宗徒による園城寺の焼き討ちは大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上ると云う。<br /><br />平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、その後源氏など武家の信仰も集めた。平安末期の1180年には平家の焼き討ちも受けるが、鎌倉幕府により1216年に再興される。南北朝時代に入ると源氏の足利氏を支持したが、今度は1336年に南朝方の焼き討ちを受け金堂が炎上した。室町時代には幕府に保護される。<br /><br />戦国時代には織田信長と良好な関係を構築維持し、比叡山焼き討ちの本陣となった。豊臣秀吉とも当初は良好な関係であったが、1595年に理由は不明だが、豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所を命じられるが、3年後に再興を許可され、秀吉の死後の1599年に高台院が金堂を寄進し再建を果たした。<br /><br />明治維新後の1873年(明治6年)には北院の大半を陸軍用地として接収され、一部を残して北院は廃絶した。また、明治以降は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年に天台寺門宗と名称を改めたうえで天台寺門宗総本山となった。平安時代から戦国時代までで合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上しているが、苦難を乗り越え、その都度再興されてきたことから、園城寺は不死鳥の寺と称されている。<br /><br /><br />仁王門から境内に入るが、続く

滋賀 大津 三井寺(Miidera Temple, Otsu, Shiga, JP)

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2020/11/13 - 2020/11/13

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旅行記グループ 三井寺

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月13日(金)朝の11時過ぎ、京都からJR湖西線の大津京駅で京阪の石坂線、京阪大津京駅に乗り換え、2駅南の三井寺駅に降り立つ。

石坂線は正式には石山坂本線で、瀬田の唐橋に近い石山寺駅から比叡山の麓の坂本比叡山口駅までを結ぶ軌道路線。1913年(大正2年)3月に大津電車軌道として大津(現在の浜大津)・膳所(現在の膳所本町)間が開業し、1927年(昭和2年)に琵琶湖鉄道汽船として全線開業、その2年後に京阪が合併した。

起終点含む21駅、全長14.1㎞を標準軌、全線電化複線で結ぶ。通常は10分間隔で石山寺と坂本比叡山口を発着駅とする各駅停車が走っている。主に大津市の中心部や市街地を走り、地元大津市民の生活の足になっているほか、沿線には豊富な観光資源を有することから、観光客の移動手段としても利用されている。

京阪大津京駅は戦後の1946年(昭和21年)に現在地の約50m南に皇子山駅として開業。南東に先日(2021年2月)に日本新記録でその歴史を閉じたびわ湖毎日マラソンのスタート・ゴールの皇子山競技場がある。開業当時は会社合併で京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)だった。2006年にJR湖西線との乗換の利便を図るために現在地に移転、2018年にはJRの駅名変更(2008年に西大津から改称)に10年遅れて現在の名前に変更した(下の写真1)。

三井寺駅は1922年(大正11年)に大津電車軌道が浜大津駅から延伸し、その終着として開業した。その5年後に坂本方面が延伸されている。相対式2面2線のホームの地上駅で、上下線は別々の改札となっている(下の写真2)。

駅のすぐ北で琵琶湖と京都を結ぶ琵琶湖疏水を跨いでおり、駅から疏水沿いに山側に進み、大津と敦賀を結ぶ北国海道の北国橋を右折し北に進み、大門通を左に折れ西に進む。

大門通に入るとすぐに萬徳院の碑がある。萬徳院はかつてはこれから向かう三井寺の塔頭寺院だった。室町時代、応仁の乱の起こる2年前に、比叡山延暦寺西塔の衆徒によって京の本願寺が焼き討ちされる。寛正の法難と呼ばれるこの事件で、その後浄土真宗発展のいしずえを築く本願寺第八世・蓮如は京を追われ、叔父であった萬徳院の住職を頼りこの地に逃れ、本願寺再興の策を練ったそうだ。現在の萬徳院は単立寺院となり、仏縁があって千葉・船橋の地で釈迦寺として興隆し、ここは関西本院となっている(下の写真3)。

大門通をそのまま西に進むと、信号のある交差点に園城寺町の案内板があり、そのまま先が三井寺の案内がある(表紙の写真)。ややこしいが、三井寺は通称で、正式名称は長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)。天台寺門宗の総本山で、ご本尊は弥勒菩薩。2015年には「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財として日本遺産に認定されている。

社伝によると、飛鳥時代の終わりに近い686年、壬申の乱(672年)で大海人(おおあま)皇子(第38代天智天皇の弟で後の第40代天武天皇)に敗れた大友皇子(天智天皇の子で後に第39代弘文天皇を追号された)の菩提を弔うため、皇子の大友与多王(よたのおおきみ)が建立。与多王が自らの田園城邑(じょうゆう:屋敷のこと)を投げ打ち寺の建立を発願したことから、天武天皇が「園城」という勅額を与え、そこから園城寺と呼ばれるようになったと云う。

三井寺と呼ばれるのは、この寺に涌く霊泉が天智天皇・天武天皇兄弟や天智天皇の娘で叔父の天武天皇の皇后となった第41代持統天皇の産湯として使われたことから御井(みい)の寺と云われていたものが転じたと云われる。ただし、この地に都を移したのは天智天皇で、667年。すでに後に持統天皇となる鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)も二十歳を過ぎており、このお三方は当然遷都前の飛鳥生まれで、話は合わない。

ちなみにこの地に置かれた近江大津京は壬申の乱後に天武天皇が再び飛鳥に遷都し、わずか5年しか存在しなかった。園城寺も没落していき、創建時に遡る遺物は現在はほとんど残っていない。

平安時代に入って、平安中期の859年に園城寺初代長吏に就任した智証大師円珍が天台別院として中興し、東大寺、興福寺、延暦寺と共に本朝四箇大寺の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担うようになる。

円珍の死後、比叡山では円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、993年に円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入った。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分された。延暦寺との対立抗争は激化し、比叡山の宗徒による園城寺の焼き討ちは大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上ると云う。

平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、その後源氏など武家の信仰も集めた。平安末期の1180年には平家の焼き討ちも受けるが、鎌倉幕府により1216年に再興される。南北朝時代に入ると源氏の足利氏を支持したが、今度は1336年に南朝方の焼き討ちを受け金堂が炎上した。室町時代には幕府に保護される。

戦国時代には織田信長と良好な関係を構築維持し、比叡山焼き討ちの本陣となった。豊臣秀吉とも当初は良好な関係であったが、1595年に理由は不明だが、豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所を命じられるが、3年後に再興を許可され、秀吉の死後の1599年に高台院が金堂を寄進し再建を果たした。

明治維新後の1873年(明治6年)には北院の大半を陸軍用地として接収され、一部を残して北院は廃絶した。また、明治以降は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年に天台寺門宗と名称を改めたうえで天台寺門宗総本山となった。平安時代から戦国時代までで合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上しているが、苦難を乗り越え、その都度再興されてきたことから、園城寺は不死鳥の寺と称されている。


仁王門から境内に入るが、続く

  • 写真1 京阪大津京駅

    写真1 京阪大津京駅

  • 写真2 三井寺駅

    写真2 三井寺駅

  • 写真3 萬徳院

    写真3 萬徳院

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