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2020年11月13日(金)朝の11時半、三井寺の仁王門から真っ直ぐ西に向かって進んでいくと、階段の上に金堂が見える。その階段の手前左側に手水舎があり、立派な龍の口から水が噴き出しているが、なぜかこの龍、檻に入れられている。コロナとは無関係で、暴れ龍の伝説に基づくもののようだが、それに付いては後述する。<br /><br />階段を上がると金堂。中院の中心堂宇で、三井寺の総本堂でもあり、国宝に指定されている。三井寺は1595年に豊臣秀吉により闕所とされ、堂塔が破却された。その際に金堂は比叡山延暦寺の復興の一助として西塔に移築され、釈迦堂とされた。現在の金堂は、三井寺再興を許可した秀吉の遺志により、高台院(秀吉の正室北政所)が1599年に寄進したもの。2月に着工して翌年1600年3月に完成で、この大建築を1年余りで建設しており、その建築技術は素晴らしい。<br /><br />手水舎から階段を上がったところは建物の横で、正面は南側になる。七間四方、入母屋造、檜皮葺の和様仏堂。正面、奥行とも23mを越える堂々とした仏堂で、重厚さのなかに檜皮葺の屋根が軽快で、桃山時代を代表する名建築。<br /><br />堂内は外陣、内陣、後陣に区切られている。撮影禁止なので写真はない。通常公開されている外陣と後陣には大黒天半跏、閻魔様、愛染明王、毘沙門天、地蔵菩薩、尊星王、聖徳太子、宝冠観音、吉祥天、円空仏・善女龍王、不動明王、十一面観音、阿弥陀仏、役小角、不動明王半跏、ニ童子、十一面観音、大日如来像など様々な仏さまが祀られている。円空仏は関西では珍しいもので、一切経蔵の天井から見つかった。火事にならないよう水に縁のある神様・善女龍王の力を借りたく天井に納められたようだ。<br /><br />特別拝観の内陣の中央五間は床を張らず、外陣より一段下げて四半瓦敷きの土間にした伝統的な天台系密教仏堂形式。仏像8体と仏画3点が公開されていた。厨子の中に1300年以上安置されているのがご本尊の秘仏、薬師如来立像。用明天皇の時代に百済より渡来し、天智天皇の念持仏となり、三井寺草創の際に天武天皇が本尊として安置したと伝えられている。釈迦三尊像、阿弥陀如来立像や極楽浄土から人々を迎えにやってくる姿を描いた阿弥陀如来来迎図や南北朝時代の仏涅槃図も普段は公開されていないもの。また、薬師如来立像と脇侍の日光・月光像は普段は別所・水観寺に祀られているもの。<br /><br />金堂正面の左(東)に建つのが鐘楼。近江八景のひとつ、三井の晩鐘で有名な巨大な梵鐘を吊っている。1602年に三井寺長吏・准三宮道澄によって梵鐘とともに建立された。正面一間、側面二間、一重、切妻造。近年まで屋根は瓦葺だったが、修理時における調査の結果、 建立当初は桧皮葺だったことが判明し、桧皮葺に改められた。周囲は、下に腰板を廻らし、上は連子をはめている。国の重要文化財。<br /><br />梵鐘は1602年鋳造。後述する弁慶の引摺鐘の跡継ぎとして豊臣家によって鋳造されたもので、古式を継承しつつも除夜の鐘の百八煩悩にちなんで百八個の「乳」を持つ新様式も取り入れた桃山時代を代表する梵鐘。その音色の美しさから、「音の三井寺」として「姿の平等院」「銘の神護寺」とともに天下の三名鐘と呼ばれている。実際に冥加料300円で鐘を衝くことも出来るが、衝いてない。<br /><br />ちなみに、近江八景は三井晩鐘の他は、石山秋月、勢多夕照、粟津晴嵐、矢橋帰帆、唐崎夜雨、堅田落雁と比良暮雪。江戸初期に寛永の三筆の一人と呼ばれた公卿の近衛信尹(のぶただ)によって紹介されたものとする説が有力。<br /><br />金堂前の広場は2013年末に公開された市川海老蔵主演の映画「利休にたずねよ」の見せ場の一つの北野大茶会のロケ地。見てないわ、この映画。で、そこから左手、金堂の西側奥に建つのは閼伽井屋(あかいや)。1600年に金堂と同じく高台院によって建立された。桧皮葺で、三間二間の向唐破風造。随所に桃山風の装飾を施した優美な建造物で国の重要文化財。<br /><br />閼伽とは水のことで、仏に供える水や花を用意する施設、つまり井戸のこと。格子戸の奥にある岩組からは霊泉が湧出しており、この建物は、この霊泉の履屋として建てられた。この霊泉は天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたことから御井や三井と呼ばれ、それが元となってこの寺は御井寺、次いで三井寺と呼ばれるようになったと云われているが、おかしいだろうってことは以前書いた通り。<br /><br />正面上部の蟇股には左甚五郎作の龍の彫刻があり、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れていたので甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んだという伝説がある(下の写真1)。これと同じ理由で檻に閉じ込められたのが前述した金堂下の手水舎の龍。<br /><br />閼伽井屋の奥、小さな池に石組みがある小さな庭があるが、これは日本最古の庭園だとされる閼伽井石庭。本当に日本最古だと云う歴史的な証拠や裏づけはないが、現存する石庭としてかなり古いものであり、非常に貴重なものであることは間違いない。<br /><br />人、神仏、鶴、亀を表した石組みが配され、それは、中国の伝説で、東海の中にあった仙人の住む地である蓬莱山と云う霊山を形取っているとも考えられている。古代の中国では不老不死を求める神仙思想に基づいた庭園が多く造られており、その思想は飛鳥時代に日本に伝えられ、以降の日本庭園の様式に大きな影響を与えたとされている。小野不由美さんの「十二国記」シリーズを思い出すわ。<br /><br />元々は苔むした石庭らしさに満ちた風情を醸していたそうだが、並んで建つ金堂や閼伽井屋などの建物を守るために、近年、周囲の木々の枝を切り落としたために直射日光にさらされ、苔は絶えてしまったとのこと。<br /><br />閼伽井石庭の奥、北側には熊野権現社。三井寺を再興した智証大師円珍は845年に12年間の籠山行を終え、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、三井修験道の起源となった。それから約150年後の1090年に、当時の三井寺長吏であった増誉が、白河上皇の熊野御幸の先達を勤めた功により、熊野三山検校職に補せられ、以来この職は三井寺長吏の永代職となり、熊野修験を統轄するようになった。この社は熊野権現を祀っており、1159年に三井修験の鎮守神として勧請された。現在のお堂は江戸末期の1837年の再建。<br /><br />金堂の北側には教待堂と智証大師像が並ぶ。東側の教待堂は教待和尚を祀るお堂(下の写真2)。教待和尚は智証大師入山まで当寺を護持していた不思議な老僧で、大師を迎えると、石窟に入り姿を隠したと云う。後に大師はこの石窟上に一宇を建て廟とした。この石窟は今も和尚像を安置する須弥壇の真下にあり、昔から三井寺で僧が出家の際、その落髪を窟内に納める伝統が残っている。その左手には、前方右に金剛界、左に胎蔵界の大日如来像、そしてその奥に智証大師円珍の石像が祀られている(下の写真3)。<br /><br />石像の横の階段の先に見えるのは山内塔頭寺院のひとつの光浄院(下の写真4)。行ってないが、江戸初期に建てられた客殿は国宝で、客殿が南面する池泉観賞式庭園は国の名勝・史跡。<br /><br />閼伽井石庭と熊野権現社の間の坂道を上がるとあるのが霊鐘堂。鎌倉時代後期の古図に現在地と同じ位置に鐘堂が描かれているが、現在の建物は、古鐘堂の古材を用いて1930年(昭和5年)に大改築したもの。堂内には国の重要文化財の霊鐘「弁慶の引摺鐘」として名高い大鐘と「弁慶の汁鍋」が安置されている。<br /><br />弁慶の引摺鐘は三井寺の初代梵鐘。奈良時代の作で、総高199cm、口径123.2cm、重量2250kgあり、東大寺鐘に次ぐ規模を誇る。平安時代の承平年間(931年~938年)に田原藤太(藤原秀郷)が、三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を、三井寺に寄進したとの伝承が残されている。<br /><br />その後、あの弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げたとの伝承もあり、弁慶の引摺鐘と呼ばれる。弁慶は奪った鐘を撞いたのだが、鐘の音が「イノー・イノー(関西弁で帰りたい)」と響いたので、怒って鐘を谷底へ投げ捨てたそうで、鐘に残された傷はこの時のものと云う。ただ、実際には、鎌倉時代の1264年に比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、3年後に幕府の命令により戻されたと云うのが史実らしい。<br /><br />また、この鐘には不思議な力があり、寺に良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、また良いことがあるときには自然に鳴ったそうだ。あと、この日はやってなかったが、ここで引ける鐘みくじは鐘型のお札を水に浸けると番号が浮き出、その番号を伝えるとおみくじと三井寺百景のお札を戴けるものだそうだ。<br /><br />弁慶の汁鍋は寺伝では弁慶が所持していた大鍋で、梵鐘を奪った時に残していったものとされているが、時代が合わず、実際は鎌倉時代に造られたもの。三段に鋳継ぎされた鋳鉄製で、重さは450kg、外口径166.5cm、深さ93cm、口厚1.5cmの大きさがあり、僧兵が用いたことから「千僧の鍋」とも呼ばれている。<br /><br />霊鐘堂の少し上(西)には孔雀舎があるようだがそこには寄らず、霊鐘堂を通り抜けて、そのまま南に進むと一切経蔵。国の重要文化財で、元々は室町初期に山口市の国清寺(現、洞春寺)の経蔵として建てられた。江戸初期の1602年に毛利輝元の寄進により移築された。一間四方だが裳階付きのため三間四方二層に見える宝形造で桧皮葺。外観の花頭窓や波形格子の弓欄間、内部の土間、鏡天井など、典型的な禅宗様経堂。この建築様式のものは三井寺内ではここだけで室町時代に遡る禅宗様経堂の古例として貴重。<br /><br />内部中央には、高麗版の一切経を納める八角形の輪蔵があり、中心軸で回転するようになっている。上部の四方には明層(あかりそう)と呼ばれる採光窓がある。天井は鏡天井で極彩色の絵が描かれていたが、剥落が著しく、現在では何が描かれていたのか、判別が不可能な状態。この天井から金堂に展示されていた円空仏7体が発見された。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4890822914321027&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />唐院に続く

滋賀 大津 三井寺 金堂(Main hall, Miidera Temple, Otsu, Shiga, JP)

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2020/11/13 - 2020/11/13

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旅行記グループ 三井寺

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月13日(金)朝の11時半、三井寺の仁王門から真っ直ぐ西に向かって進んでいくと、階段の上に金堂が見える。その階段の手前左側に手水舎があり、立派な龍の口から水が噴き出しているが、なぜかこの龍、檻に入れられている。コロナとは無関係で、暴れ龍の伝説に基づくもののようだが、それに付いては後述する。

階段を上がると金堂。中院の中心堂宇で、三井寺の総本堂でもあり、国宝に指定されている。三井寺は1595年に豊臣秀吉により闕所とされ、堂塔が破却された。その際に金堂は比叡山延暦寺の復興の一助として西塔に移築され、釈迦堂とされた。現在の金堂は、三井寺再興を許可した秀吉の遺志により、高台院(秀吉の正室北政所)が1599年に寄進したもの。2月に着工して翌年1600年3月に完成で、この大建築を1年余りで建設しており、その建築技術は素晴らしい。

手水舎から階段を上がったところは建物の横で、正面は南側になる。七間四方、入母屋造、檜皮葺の和様仏堂。正面、奥行とも23mを越える堂々とした仏堂で、重厚さのなかに檜皮葺の屋根が軽快で、桃山時代を代表する名建築。

堂内は外陣、内陣、後陣に区切られている。撮影禁止なので写真はない。通常公開されている外陣と後陣には大黒天半跏、閻魔様、愛染明王、毘沙門天、地蔵菩薩、尊星王、聖徳太子、宝冠観音、吉祥天、円空仏・善女龍王、不動明王、十一面観音、阿弥陀仏、役小角、不動明王半跏、ニ童子、十一面観音、大日如来像など様々な仏さまが祀られている。円空仏は関西では珍しいもので、一切経蔵の天井から見つかった。火事にならないよう水に縁のある神様・善女龍王の力を借りたく天井に納められたようだ。

特別拝観の内陣の中央五間は床を張らず、外陣より一段下げて四半瓦敷きの土間にした伝統的な天台系密教仏堂形式。仏像8体と仏画3点が公開されていた。厨子の中に1300年以上安置されているのがご本尊の秘仏、薬師如来立像。用明天皇の時代に百済より渡来し、天智天皇の念持仏となり、三井寺草創の際に天武天皇が本尊として安置したと伝えられている。釈迦三尊像、阿弥陀如来立像や極楽浄土から人々を迎えにやってくる姿を描いた阿弥陀如来来迎図や南北朝時代の仏涅槃図も普段は公開されていないもの。また、薬師如来立像と脇侍の日光・月光像は普段は別所・水観寺に祀られているもの。

金堂正面の左(東)に建つのが鐘楼。近江八景のひとつ、三井の晩鐘で有名な巨大な梵鐘を吊っている。1602年に三井寺長吏・准三宮道澄によって梵鐘とともに建立された。正面一間、側面二間、一重、切妻造。近年まで屋根は瓦葺だったが、修理時における調査の結果、 建立当初は桧皮葺だったことが判明し、桧皮葺に改められた。周囲は、下に腰板を廻らし、上は連子をはめている。国の重要文化財。

梵鐘は1602年鋳造。後述する弁慶の引摺鐘の跡継ぎとして豊臣家によって鋳造されたもので、古式を継承しつつも除夜の鐘の百八煩悩にちなんで百八個の「乳」を持つ新様式も取り入れた桃山時代を代表する梵鐘。その音色の美しさから、「音の三井寺」として「姿の平等院」「銘の神護寺」とともに天下の三名鐘と呼ばれている。実際に冥加料300円で鐘を衝くことも出来るが、衝いてない。

ちなみに、近江八景は三井晩鐘の他は、石山秋月、勢多夕照、粟津晴嵐、矢橋帰帆、唐崎夜雨、堅田落雁と比良暮雪。江戸初期に寛永の三筆の一人と呼ばれた公卿の近衛信尹(のぶただ)によって紹介されたものとする説が有力。

金堂前の広場は2013年末に公開された市川海老蔵主演の映画「利休にたずねよ」の見せ場の一つの北野大茶会のロケ地。見てないわ、この映画。で、そこから左手、金堂の西側奥に建つのは閼伽井屋(あかいや)。1600年に金堂と同じく高台院によって建立された。桧皮葺で、三間二間の向唐破風造。随所に桃山風の装飾を施した優美な建造物で国の重要文化財。

閼伽とは水のことで、仏に供える水や花を用意する施設、つまり井戸のこと。格子戸の奥にある岩組からは霊泉が湧出しており、この建物は、この霊泉の履屋として建てられた。この霊泉は天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたことから御井や三井と呼ばれ、それが元となってこの寺は御井寺、次いで三井寺と呼ばれるようになったと云われているが、おかしいだろうってことは以前書いた通り。

正面上部の蟇股には左甚五郎作の龍の彫刻があり、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れていたので甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んだという伝説がある(下の写真1)。これと同じ理由で檻に閉じ込められたのが前述した金堂下の手水舎の龍。

閼伽井屋の奥、小さな池に石組みがある小さな庭があるが、これは日本最古の庭園だとされる閼伽井石庭。本当に日本最古だと云う歴史的な証拠や裏づけはないが、現存する石庭としてかなり古いものであり、非常に貴重なものであることは間違いない。

人、神仏、鶴、亀を表した石組みが配され、それは、中国の伝説で、東海の中にあった仙人の住む地である蓬莱山と云う霊山を形取っているとも考えられている。古代の中国では不老不死を求める神仙思想に基づいた庭園が多く造られており、その思想は飛鳥時代に日本に伝えられ、以降の日本庭園の様式に大きな影響を与えたとされている。小野不由美さんの「十二国記」シリーズを思い出すわ。

元々は苔むした石庭らしさに満ちた風情を醸していたそうだが、並んで建つ金堂や閼伽井屋などの建物を守るために、近年、周囲の木々の枝を切り落としたために直射日光にさらされ、苔は絶えてしまったとのこと。

閼伽井石庭の奥、北側には熊野権現社。三井寺を再興した智証大師円珍は845年に12年間の籠山行を終え、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、三井修験道の起源となった。それから約150年後の1090年に、当時の三井寺長吏であった増誉が、白河上皇の熊野御幸の先達を勤めた功により、熊野三山検校職に補せられ、以来この職は三井寺長吏の永代職となり、熊野修験を統轄するようになった。この社は熊野権現を祀っており、1159年に三井修験の鎮守神として勧請された。現在のお堂は江戸末期の1837年の再建。

金堂の北側には教待堂と智証大師像が並ぶ。東側の教待堂は教待和尚を祀るお堂(下の写真2)。教待和尚は智証大師入山まで当寺を護持していた不思議な老僧で、大師を迎えると、石窟に入り姿を隠したと云う。後に大師はこの石窟上に一宇を建て廟とした。この石窟は今も和尚像を安置する須弥壇の真下にあり、昔から三井寺で僧が出家の際、その落髪を窟内に納める伝統が残っている。その左手には、前方右に金剛界、左に胎蔵界の大日如来像、そしてその奥に智証大師円珍の石像が祀られている(下の写真3)。

石像の横の階段の先に見えるのは山内塔頭寺院のひとつの光浄院(下の写真4)。行ってないが、江戸初期に建てられた客殿は国宝で、客殿が南面する池泉観賞式庭園は国の名勝・史跡。

閼伽井石庭と熊野権現社の間の坂道を上がるとあるのが霊鐘堂。鎌倉時代後期の古図に現在地と同じ位置に鐘堂が描かれているが、現在の建物は、古鐘堂の古材を用いて1930年(昭和5年)に大改築したもの。堂内には国の重要文化財の霊鐘「弁慶の引摺鐘」として名高い大鐘と「弁慶の汁鍋」が安置されている。

弁慶の引摺鐘は三井寺の初代梵鐘。奈良時代の作で、総高199cm、口径123.2cm、重量2250kgあり、東大寺鐘に次ぐ規模を誇る。平安時代の承平年間(931年~938年)に田原藤太(藤原秀郷)が、三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を、三井寺に寄進したとの伝承が残されている。

その後、あの弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げたとの伝承もあり、弁慶の引摺鐘と呼ばれる。弁慶は奪った鐘を撞いたのだが、鐘の音が「イノー・イノー(関西弁で帰りたい)」と響いたので、怒って鐘を谷底へ投げ捨てたそうで、鐘に残された傷はこの時のものと云う。ただ、実際には、鎌倉時代の1264年に比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、3年後に幕府の命令により戻されたと云うのが史実らしい。

また、この鐘には不思議な力があり、寺に良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、また良いことがあるときには自然に鳴ったそうだ。あと、この日はやってなかったが、ここで引ける鐘みくじは鐘型のお札を水に浸けると番号が浮き出、その番号を伝えるとおみくじと三井寺百景のお札を戴けるものだそうだ。

弁慶の汁鍋は寺伝では弁慶が所持していた大鍋で、梵鐘を奪った時に残していったものとされているが、時代が合わず、実際は鎌倉時代に造られたもの。三段に鋳継ぎされた鋳鉄製で、重さは450kg、外口径166.5cm、深さ93cm、口厚1.5cmの大きさがあり、僧兵が用いたことから「千僧の鍋」とも呼ばれている。

霊鐘堂の少し上(西)には孔雀舎があるようだがそこには寄らず、霊鐘堂を通り抜けて、そのまま南に進むと一切経蔵。国の重要文化財で、元々は室町初期に山口市の国清寺(現、洞春寺)の経蔵として建てられた。江戸初期の1602年に毛利輝元の寄進により移築された。一間四方だが裳階付きのため三間四方二層に見える宝形造で桧皮葺。外観の花頭窓や波形格子の弓欄間、内部の土間、鏡天井など、典型的な禅宗様経堂。この建築様式のものは三井寺内ではここだけで室町時代に遡る禅宗様経堂の古例として貴重。

内部中央には、高麗版の一切経を納める八角形の輪蔵があり、中心軸で回転するようになっている。上部の四方には明層(あかりそう)と呼ばれる採光窓がある。天井は鏡天井で極彩色の絵が描かれていたが、剥落が著しく、現在では何が描かれていたのか、判別が不可能な状態。この天井から金堂に展示されていた円空仏7体が発見された。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4890822914321027&type=1&l=223fe1adec


唐院に続く

  • 写真1 左甚五郎作の龍の彫刻説明

    写真1 左甚五郎作の龍の彫刻説明

  • 写真2 教待堂

    写真2 教待堂

  • 写真3 智証大師円珍の石像

    写真3 智証大師円珍の石像

  • 写真4 光浄院

    写真4 光浄院

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