2019/10/25 - 2020/10/25
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gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
アキテーヌ博物館を中心に、
上品な街ボルドーを回る。
アキテーヌ公国の首府、
貿易の中枢を体感する。
企画展では、フランス人のエスプリに笑わされる。
表紙の写真は、12世紀の彫刻。
琴を演奏する天使のつぶらな瞳に吸い寄せられました。
フランス革命以降の政府
革命政府(第一共和制)
第一帝政
王政復古(ブルボン家 立憲君主)
第二共和制
第二帝政
第三共和制
ドイツ占領 傀儡ヴィシー政権
第四共和政
第五共和政
※第五共和政のみ民主的手続きで移行。
あとは革命、クーデター、外国の侵略による政変。はっきり言って、血みどろです。
異論
七年戦争の講和条約(パリ条約1763)でフランスは大半の植民地を失った。
アキテーヌ博物館の説明では、西インド諸島の植民地を維持するために、北米(カナダとルイジアナ)を割譲したの見解に基づく。
別の見解は、セネガル・インド・北米の割譲はあくまでも懲罰措置に過ぎないというもの。
パリ条約には下記の内容も含まれる。すなわち西インド諸島内で、フランスはドミニカ等の4島嶼を放棄する代わりに、イギリスが戦争中に占領したマルティニーク、グアドループ等の4島をフランスへ返還するという条項。あくまで、西インド諸島内で帰結する調整だとも解釈できる。
講和会議のやり取りの変遷やパリ条約の全文を把握していないので結論は出せないが、当方は後者の地域内調整説が適切だと思われる。
ちなみに、サン・ドマングはパリ条約には巻き込まれなかったが、ハイチ独立という形で喪失する。
- 旅行の満足度
- 5.0
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聖十字架教会。彫刻がきれいです。
Church of the Holy Cross Of Bordeaux 寺院・教会
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蚤の市が楽しいです。
ヴィクトワール広場 広場・公園
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ルネサンス様式の洗練された美しさです。
大鐘楼 史跡・遺跡
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アキテーヌ地方を統括する博物館。
ローマ時代の属州ガリア・アキタニアに由来します。
州都はメディオラヌム・サントヌム(現在のサント)でした。アキテーヌ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
交易
アキテーヌ地方は、大西洋と地中海を結ぶ交易ルート上に位置する。
この交易ルートは青銅器時代には確立されており、鉱石の運搬に用いられた。
一方の地中海沿岸の地域からは、イタリアの陶器皿、エトルリアの金属皿やワインのアンフォラ(注:運搬保存に用いる縦長の陶器。下の地図のイラストを参照)などが運ばれた。
陶器に入ったワインは、イタリア南部のカンパニア産だった。
ワインの産地はワンフォラに刻印された生産者のスタンプ(=生産者名)で容易に識別できた。 -
地図を見ると、
アキタニアでは、金銀銅鉄が産出したことが分かります。
一方、ドイツ沿岸部からは琥珀、
イングランド南部やブルターニュからは錫、
北イタリアやカタルーニャからは金属製の皿、
アンダルシア(スペイン南部)からは(オリーブ)油、
カタルーニャとプロヴァンスと南イタリアからはワイン、
カタルーニャとエトルリア(イタリア中部)とギリシャからは陶器がもたらされたことが分かります。
現代に例えると、工業原料を供給する植民地と、高い技術力で付加価値の高い工業製品等を輸出する宗主国の関係に似ていますね。 -
ボルドーの誕生
2003年に「グランドホテル建設現場」の発掘で、初期鉄器時代の保存状態の良い遺跡見つかることで明らかになった。
ガロンヌ川と古代ガリア時代の都市に挟まれたエリアで、紀元前50-40年ごろの湿地だった地層が現れ、当時の人々が湿地を排水して小さな通りと住居を建設していたことが分かった。
こうした急成長は、ガリア戦争後にガリア中央部からビチュリージュ・ヴィヴィスク(注:ケルト人の一種で、ブルターニュやコンウォール地方で錫の貿易を独占していた民族)が移住してきた結果だとみなされている。 -
グランドテル(英語ではグランド・ホテル)の発掘現場の様子
ローマ時代の都市名は、ブルティガラでした。
ナルボンヌを起点とするアキタニア街道の終着点でした。 -
アキテーヌ公国の紋章
ライオン2頭が間引きされますが、現在のボルドー市の市章にも描かれています。 -
「天使の楽士」
出所不明
元はルーヴル美術館所蔵 現在はボルドー市所有
12世紀 石灰岩
頭上の両翼から、ツィターの一種を演奏している天使だと識別できる。
天使の着ているチュニックは、首周りと袖元が模様で飾られている。 -
「歴史的首都の悪徳」
アジャン(ロット=エ=ガロンヌ県)
12世紀
3人の裸体で左右前面が装飾された歴史的首都(ボルドー)。
その当時、教会によって非難された悪徳の中で、最も頻繁に言及されたのが贅沢と貪欲である。
(写真は、作品へ向かって右面) -
蛇によって表現された乳房を持つ女性という一般的パターンの代わりに、
動物レベルにまで貶められた女性の姿がある。
(写真は、作品へ向かって左面と正面) -
「アブラハムの(捧げた)犠牲」
ラ=ソーブ=マジュール修道院の回廊(ジロンド県)
1220-30年 石灰岩
13世紀前半に再建された回廊は、アンジュー洋式(初期ゴシック建築様式の一つ)で、柱の上部がアーチ状で8又に分かれる。古い様式と新しい様式が繋がる、キーストン的様式である。
作品は、息子イサクを犠牲として捧げるようにという神からのリクエストに応え、短刀を振り下ろそうとしたときに天使が現れ、「わたしはアブラハムの信仰を目にした。代わりに茂みに引っかかっている羊を捧げるように。」との神からのメッセージを伝える場面である。 -
2階は、貿易に焦点を当てた展示。
船、産業、奴隷が大きく関係し、見ごたえのある展示内容。
写真のような帆船で運搬。 -
他のヨーロッパの港と同じく、ボルドー港では奴隷貿易も行われた。
1672年~1837年にかけて500近くの奴隷輸送航海が行われた。
ボルドーにおける奴隷貿易は全フランスの12%で、ラロシェルやルアーブルと同等だが、1700航海に及んだナントには遠く及ばなかった。
奴隷貿易にはボルドーに拠点を置く約180の船主が関係しており、12~15万人のアフリカ人が連れてこられた。
ボルドーの奴隷貿易は1780年以降、急速に伸びた。
アメリカ独立戦争の影響で、植民地との直接取引による利益の減少とアメリカ産小麦との競合により、ボルドーの船主は新たな儲け仕事を開拓する必要が生じた結果である。
アフリカ西海岸で奴隷貿易の競争が激化すると、インド洋にも進出した。 -
奴隷輸送のための航海(1500-1815)
英国のリバプール、ロンドン、ブリストルが圧倒的です。
植民地におけるコーヒー・サトウキビ等の栽培は、
アフリカの黒人奴隷の強制労働によって運営された。 -
奴隷運搬船の船倉。
「商品」を少しでも多く積載するため、隙間なく積み込まれた。
奴隷は鎖でつながれ、食料は与えられなかった。トイレにも行けなかった。
飢えと病気の伴う過酷な航海中に命を落とす者も多かった。 -
奴隷を拘束する道具。
逃亡防止または懲罰目的で使用されます。 -
実際には写真のように使用されました。
奴隷市場(競り)のシーン。
親きょうだいが別々の場所へ売り渡されるのは、茶飯事。
人権は適用されませんでした。
他にも、農場でペナルティを犯した奴隷を折檻する為にも使用されました。 -
西インド諸島では、フランスだけでなく英国、オランダ、スペイン、スウェーデン、デンマークが進出していた(ちなみにポルトガルは南米のブラジルのみ)。
スペイン継承戦争(1702-13)、オーストリア継承戦争(1740-48)、七年戦争(1756-63)の結果、フランスは植民地を喪失した。1763年に、西インド諸島の植民地を取り戻すため、カナダとルイジアナを英国へ割譲した。
英国は独立戦争(1776-83)で、アメリカを失った。
フランス革命で、海外紛争はより複雑になった。革命政府の下、奴隷制は当初フランス植民地で廃止されたが、ナポレオン政権下で復活したからである。 -
西インド諸島
左上はフロリダ半島。その下はキューバ島、中央はエスパニョーラ島、右下にはマルティニーク島がある。最下部は南米大陸。 -
エスパニョール島。
西側3分の1が、仏領サン・ドマング(現在のハイチ)。
フランス革命時には、ヨーロッパで消費されるコーヒーと砂糖の約半分を生産していた。小さな島ながら、稼ぎ頭だった。総勢80万人の黒人奴隷が送り込まれた対価である。
ちなみに、東側3分の2はスペイン領(現在のドミニカ共和国)。 -
マルティニーク島。
七年戦争の講和条約で、カナダと引き換えに取り戻した。
ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの出身地として有名。 -
カナダの地図。
殆どがフランス領。
沖縄本島よりも狭いマルティニーク島を保持するために、イギリスに差し出した。
マルティニーク産の砂糖がいかに金蔓だったかが理解できる。
(異論あり 詳細は旅行記の概要に記述) -
英領アメリカ。アメリカ合衆国として独立する。
その西側は仏領ルイジアナ。ルイ14世に因んだネーミング。
前述のマルティニーク島の近くにある、グアドループ島を保持するために手放しました。フランスがサトウキビ栽培に初めて成功したのは、グアドループでした。 -
左が砂糖、右がコーヒー豆。樽詰して、海を渡った。
-
サトウキビ
茎を煮詰めて、砂糖を作る。
強い甘みが特徴だが、奴隷の汗と血の結晶でもある。 -
カカオの実
果実を乾燥・発酵させてチョコレートの原料となる。 -
中世オリエントの通商路。
■奴隷市場
●宿場
アラブ商人を介して陸路で運ばれました。
黒人奴隷の輸出はイスラム圏までで、
ヨーロッパへ売られることは、ごく稀なことでした。 -
ヨーロッパにおける奴隷貿易の通商路(17-18世紀)
赤線:奴隷制度の北限(ビルバオ~ベネチア)
赤丸:西洋の主要な奴隷貿易都市
黒丸:(西洋以外で)奴隷市の開かれた都市。
黒線:主要ルート
黒塗:奴隷制が顕著な地域
薄塗:奴隷制の存在が認められる地域
フランスは、マルセイユが中枢都市として登場するのみである。
奴隷はロシアにまで連れていかれた。 -
17-19世紀の通商路(インド洋編)
薄茶:アラブ商人のルート
朱色:ヨーロッパ商人のルート
ザンジバル島は中東オマーン王国領、キルワ島はイスラム→葡領
マダガスカル島は仏領。
橙色:インド航路(1729~)マスカリン諸島を中継点とする。
Île de France(フランス島…現在のモーリシャス(島))
Île Bourbon(ブルボン島…現在の仏領レユニオン島)
朱・橙ともに、ヨーロッパ人はアフリカ大陸ではなく、
島を中継点として選んでいるのが興味深い。 -
奴隷の供給元と需要先(1451-1866)
合計12,329,000人が連れ去られる。 -
15,16世紀(276,000人)
供給源はアフリカ西海岸。
供給先は、ヨーロッパ、ブラジル(ポルトガル領)、ラテンアメリカ(スペイン領)。 -
17世紀(1,867,000人)
半数は葡領ブラジル、
残りは英仏西領、
僅かに蘭領とヨーロッパへ。 -
18世紀(6,484,000人)
供給源として東アフリカも加わる。(七年戦争で大陸領土セネガルを喪失したことが影響しているかもしれない)
葡領ブラジル、英領アンティル諸島、仏領アンティル諸島が3大輸出先。
以下、ラテンアメリカ、北アメリカ、蘭領アンティル諸島、デンマーク領アンティル諸島の順番。
アンティル諸島:バハマ諸島を除く西インド諸島。≒西インド諸島としても差し支えない。 -
19世紀(3,702,000人)
半数以上は葡領ブラジル、
以下、ラテンアメリカ、仏領アンティル諸島、北アメリカの順番。
奴隷制自体は、英(1834)、スペインから独立したラテンアメリカ諸国(1851-53)、米(1865)、スペイン領プエルトリコ(1873)、スペイン領キューバ(1886)、ブラジル(1888)まで存続する。
ちなみにフランスは、1820年に奴隷貿易の禁止(その後も密輸はしばらく続く)、奴隷制度自体は1848年の二月革命で第二共和制樹立時に禁止される。 -
ジロンド派
フランス革命政府で内閣を組織するが、山岳派との折り合いがつかず、政争に負ける。ボルドーを県庁所在地とするジロンド県出身者の議員が多かったことが由来。 -
1792年に、急進的な山岳派(ロベスピエール、サンジュスト等)を押さえきれず、
ルイ16世を処刑。おかげで全ヨーロッパ(他国は王政)の軍事的圧力が強まる。
山岳派は1794年に奴隷制を廃止するも、1802年にナポレオンが復活させた。 -
農園での労働力以外に、少数ながら召使としても使用された。
召使は主人およびその家族との感情的絆が生まれることもしばしばで、
農園従事とは雲泥の差があった。奴隷身分から解放されるチャンスにも恵まれた。 -
大規模プランテーション経営者の住宅
右奥が地主の屋敷、左手前が労働者(奴隷)家族の宿舎。 -
異人種間の関係と混血
植民地においてヨーロッパ人女性は、希少な存在だった。特にサン・ドマンク(現在のハイチ)では、白人男性は現地女性又はアフリカ人女性を妻または妾とした。時には無理やり女性を手籠めにした。こうして生まれた子供(混血児)の地位は、法的な結婚関係下の嫡子か婚外の庶子かによって決まった。結婚した夫婦の間に生まれた子供は、父親の身分を継承し、自由人だった。婚外子は、母親の奴隷身分を継承した。
人種的混血だけでなく、文化面でも三者をミックスした独特のものが形成された。音楽、食事、服装だけでなく、宗教面(ブードゥ教、カンドンブレ)にも及んだ。 -
フランソワ・ドミニク・トゥーサン
ハイチ革命の指導者、ハイチ独立の2年前に獄死。
トゥーサン・ルーヴェルチュールとして知られ、1743年にサン・ドマンクで生まれた。1776年頃に解放奴隷となるが、1791年に奴隷たちが起こした反乱に加わる。
フランス革命政府が1794年に奴隷制廃止を宣言すると、彼はフランス側へ寝返る。
1801年にエスパニョーラ島全体を掌握すると、ナポレオンに終身総督の地位を請う。その結果1802年には総統ナポレオンの名代ルクレールが率いる遠征軍に征服され、奴隷制は復活した。
トゥーサンは捕らえられ、フランスのジュー要塞で獄死。息子イサクは、ボルドーで引退生活を送った。 -
貿易は、1804年の(ハイチ独立に伴う)サン・ドマンクの喪失で大きな打撃を受けた。19世紀前半は国際関係を再構築しなければならなくなったが、
19世紀後半(第二帝政・第三共和制下での植民地獲得)では空前の繁栄を経験した。
交通量の増加に対応し、競争力を維持するために、港には河岸沿いのドックや浮きドック、ハンガー(係留場)などが建設された。造船業者は、ニーズに応えるべく、船を改良するための研究開発投資を競い合った。
ボルドーは鉄道路線が集まる拠点となり、フランス南西部をフランス全土・ヨーロッパ大陸の市場と結ぶ存在となった。 -
ピエール橋
1810年、皇帝ナポレオンは石橋建設を決意する。商人ピエール・バルグリ・シュッテンブールはボルドー橋会社を設立。全長486m、7連アーチのレンガ組み石橋を建設し、1822年5月1日に開通した。右岸のバスティード地区は都市・経済圏に組み込まれ、1865年にはボルドー市に編入された。
フランス革命後、自然の要害とみなされたガロンヌ川に橋を架けることが計画、実行されます。 -
今も現役のピエール橋は、200年の歴史。
今も昔も、ここから先は、大型船は航行できません。 -
1860年に敷設されたエッフェル鉄道橋(鉄橋)。
2008年に複々線橋にとって代わりましたが、
産業遺産として現在も架かっています。 -
ボルドーでの貿易は、どんどん増えた。従来からの対アメリカ大陸・北ヨーロッパのみならず、19世紀に獲得した植民地(北アフリカ・サハラ以南・ラテンアメリカ・インドシナ・ニューカレドニア等々)や中国も加わった。
海洋進出と地元(フランス南西部)市場のおかげで、鉄鋼業、食品加工、ワイン製造等の産業化が加速した。大規模な見本市も開催され、地域経済を活性化させた。
蒸気機関の燃料となる大量の石炭が、英国から輸入された。1860年代には、小規模の製油所が幾つか出現した。
大手船会社の運行する路線により、旅客運送も発展した。そして、移民とりわけ南部アフリカ方面への重要な拠点となった。 -
造船業の黄金期
1793-1815年、造船所から次々とフリゲート艦が(私掠船として)旅立った。
19世紀初頭、ボルドーはクリッパー(高速帆船)の一大生産拠点となった。また国内で、河川を航行する蒸気船が最も多く運行する地域だった。
船体は木材から鉄へ、後には鋼鉄へと変化した。スクリュー駆動船(cf.外輪船)は急激に広まった。1875年以降、旅客船貨物船、とりわけ軍用船(戦艦・巡洋艦・駆逐艦)の一大ブームが起きた。
1950年代初頭まで、ボルドーはフランス一の兵器庫と評された。 -
当時の旅客船。
海から80km以上も川を遡ったボルドーに乗り入れました。 -
ボルドー経由、パリ発カサブランカ(モロッコ)行の客船。
ポスターには、所要3日と書かれています。
大型船はセーヌ川を遡上できないので、実際は河口のル・アーブル発です。 -
当時のポスター。
ブラジル行きはアフリカ西部経由、
インドシナ行は、コロンボ、シンガポール、サイゴン、ハイフォンの順に寄港します。 -
ボルドー~ブラジル間、速達便を売りにしたポスター。
岸壁から岸壁へ、乗り換えなし。との謳い文句が。 -
食品加工業は、原料供給地(地元と海外植民地の耕地)に依存している。
古典的なものは、砂糖精製だ。
缶詰・ビスケット・チョコレート・酒類いずれも小規模の工場で製造された。オリベビスケット、トブレチョコレート、レーデル缶詰といったブランドの製品が生産されるようになった。
4つの製油工場で、増え続けるセネガル産ピーナッツを加工していた。
多くの酒製造者と取引者が、食前酒とラム酒(植民地の黒砂糖を原料とした蒸留酒)をパリや海外へ販売して、利益を得ていた。 -
オリベビスケットのポスター
-
航空宇宙産業も欠かせません。
写真はアエロスパシエル(現在はエアバスに統合)社製のロケット。 -
無料ゾーンでは企画展が。
テーマはサーフィン。 -
かわいいですね。
-
パンナム(パンアメリカン航空)のポスター。
ジェット機で行くハワイ とのキャッチコピーが。
世界を変えたボーイング707型機のローチンカスタマーとして、当時の業界を席巻しました。後にはジャンボジェット機の開発を後押しし、ローチンカスタマーとなりました。
clipperは三本マストの高速帆船のことでしたが、20世紀後半は主にジェット機を指すようになりました。迅速な乗り物を指す言葉です。 -
後半は雲行きが怪しくなり、風刺好きの国民性に応える展示ばかり。
さぁ、波乗りに行こう!
七月革命を描いたドラクロワの名作「民衆を導く勝利の女神」も、パロディに。 -
アメリカの核兵器外交を風刺するシリーズ。
世界秩序の維持という神から託された使命を引っ提げて、大陸間弾道ミサイルで各国を波乗り遊説するブッシュ大統領。
神の名のもとに好き放題のアメリカに、フランスだって核を持っているぞ!とやっかんでいる気持ちもちらほらと。 -
公約の核軍縮を投げ出して、週末を満喫するオバマ大統領。
ネイティブが発音すると、
Yes,we canとYes,week endは
ほとんど区別がつきません。
更に深読みすれば、画面で嘆いているNYの自由の女神像は、建国100年を祝ってフランスがプレゼントしたモニュメント。ため息をつく自由の女神=フランスという上から目線とも、解釈する余地がある。 -
博物館を後にします。
アキテーヌ門 史跡・遺跡
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ボルドーの司教座のある教会。
とても立派です。サンタンドレ大聖堂 寺院・教会
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横には巨大な塔が。
さすがは大都市。ペイ ベルラン塔 建造物
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大きな教会。東方系でしょうか
サン・スラン大寺院 寺院・教会
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ローマ時代の競技場。
街中にしっかりと残っています。Palais Gallien 史跡・遺跡
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ボルドー版、銀座中央通り。
サント カトリーヌ通り 散歩・街歩き
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女神たちがファサードに!!
大劇場 建造物
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観光案内所。ここの地図は秀逸。観光前に手に入れたかったです。
観光案内所 (ボルドー) 散歩・街歩き
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要塞の跡地です。
カンコンス広場 広場・公園
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博物館で勉強した石橋。
この後、ワインを堪能します。次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11687525ピエール橋 建造物
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