1975/01/08 - 1975/01/09
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tadさん
「1974年初のヨーロッパ」は、ウィーンでウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートと、ウィーン国立歌劇場でオペレッタ「こうもり」を見た後、1975年の元旦の夜、イタリアに向かった。フィレンツェとローマでミケランジェロを中心に見た後は、スイスに移動し、冬のマッターホルンを眺め、それからドイツに入ってきた。向かったのはベートーヴェンの生誕の地、ボンだ。べートヴェンの所縁の地はウィーンで既に見てきた後なのだが、どうしても、ボンの生誕の家だけは訪問しておきたかった。
ベートーヴェンは1770年12月16日ボンで生まれ(2020年の今年は生誕250年記念の催し物が各地で計画されていたが、Coivid-19のため多くは中止になっている。)、家庭的にはかなり苦労した。16才で音楽修行のためウィーンに旅立つが、母危篤の報で、ボンに戻り、またボンで苦労していたが、ロンドンからウィーンに戻る途中のハイドンに出会い、その才能を認められウィーンに再び行く。それからは、1827年3月26日ウィーンで死ぬまで、ボンに戻ることはなかった。ハプスブルク家を中心に中部ヨーロッパの中心地となっているウィーンで、ベートーヴェンはまずピアニストとして認められ、それから作曲の才能を認めらるようになる。難聴になり苦労は増したが、それでも、ベートーヴェンの革新的な芸術が認められていった。宮廷のお抱え作曲家ではなく、独立した芸術家として、貴族などとも対等に接していき、知的な理解者や大ファン達がいた。op.1-3というピアノ・トリオ曲を出版しようとしたとき、師のハイドンは、まだ一般には理解されないだろうと出版に反対したほどだ。確かに、作品1の3は、今聞いても、それまでのハイドンやモーツァルトのような穏やかな作品ではない。
ウィーンのベートーヴェンについては、旅行記でも何度も触れてきたが、ボンのベートーヴェンの生誕の家とベートーヴェン広場の彼の像を見ることが、この時、ローマからドイツまで戻った理由だ。これで安心して私の初のヨーロッパ旅行は締めくくれたのだ。
一枚目の写真は、ボンのベートーヴェン広場の像。
(2020年9月18日記す。)
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ベートーヴェンの生誕の家。
中にも入ったが、写真はない。勿論、ベートーヴェンの関連書籍は高校生時代からたくさん読んでいたので、内容は頭に入っていた。現場を確認しただけだ。当時はまだ大したコレクションは展示していなかったが、後に、ドイツ側がかなり投資して買い集めたようだ。ただ、当時、ボンの町は、ベートーヴェンの才能に相応しい対応はまったくしていない。すべてはウィーンで与えられたものであると言って間違いない。だから、この時一度、ボンを訪問したので、その後は再訪する必要を感じてはいない。
若い時、特に高校3年生の肺結核で入院中にベートーヴェン研究書や伝記類を読み始めていたのだが、それらも含め、退職後、多くを再読し、さらに別の出版物も加えて読んでいった。それらの簡潔な感想文はアマゾンのレヴューにかなり書いている。やはり、私としてはシンドラー、ロマン・ローラン、セイヤー、それに日本人では属啓成著のものが敬意をもって書かれており、優れていると思う。酷いのはリヒアルト・ワグナー著の「ベートーヴェン詣で」という著だ。ベートーヴェンの才能にかなわないとみて、我田引水の論を書いているが、もっとも、ワグナーが若い時の著で、後には後悔した内容だろう。ベートーヴェンより後の作曲家の多くは、彼の壁を越えようとした戦いでレベルを上げていったと思う。競争の少ないドイツの地方都市に住んでいたのでは、ウィーンにいるような高い水準の音楽活動には当時触れる方法はなかったのだ。シューベルト、ブラームスを始め、ブルックナー、マーラーなどは、その点、ベートーヴェン、モーツァルト、ハイドンなどと同様、ウィーンで鍛えられることになった。
ベートーヴェンの使用した楽器類やオリジナルの楽譜や手稿などは、かなり散らばっており、オークションでも、とてつもない価格がついている。ベートーヴェンの交響曲などの手書き楽譜だと一曲で何億円の世界なのだ。私は各地で、それぞれ貴重な展示を見てきたが、一番気軽に本物が無料で見れるのはロンドンの大英図書館の二階にある特別展示室だろう。ベートーベンの家 博物館・美術館・ギャラリー
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上の写真をズームアップ。
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次に行ったのがすぐ隣り町のケルンだ。
ケルン大聖堂
このケルンに住むMartinaというペン・フレンドとは高校生時代から英文で長くやりとりしていたが、2013年に家内とツアーでケルンを再訪した時、そのベン・フレンドとそれぞれ連れ合いも連れて再会した。そのあたりの話は次の旅行記に書いた:
https://4travel.jp/travelogue/10832372
ただ、この初のヨーロッパ旅行前後は文通は途絶えており、この時も連絡しなかった。今でも、バースデイ・カードなどが来る。今ならEメールなどでやりとりは簡単だが、当時は航空郵便で時間も費用もかかった。ただ、家内ともども再会した時、驚いたのは私の英文手紙をすべて、アルバムに記録してあったことだ。
高校生時代には結構自由に英文を書いていたようだ。私の家は貧しくて、塾などにも行ったことがなく、英語は独習だったが、それがよかったのかもしれない。あえて白状すれば、NHKラジオ英会話とNHKラジオ英語ニュースは毎日聞いていた。後は自分で英単語をコンスタントに記憶し続けた。高校3年生ごろには、一応、ヘミングウェーやスタインベックなどの原書を自分で読んでいたものだ。外国語は必要ならほぼ自分で学べるという妙な自信が今でもある。、ちゃんと留学できなかったから、そう突っ張っているのかもしれないが。。。ケルン大聖堂 寺院・教会
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ケルン大聖堂
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真冬のケルン大聖堂の上に上がる。誰もいなかった。塔の上で、番人のおじさんがジャスミン・ティーをご馳走してくれた。
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ケルン大聖堂の上から撮影。
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ケルン駅。ここからライン川沿いにハイデルベルク駅まで移動する。
途中でライン川の景色を列車から楽しんだ。後に1979年に来た時は舟でライン川下りを楽しんだものだ。ケルン中央駅 駅
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コブレンツ。
ここでモーゼル川と合流している。あの酸っぱいワインを思い出す。 -
ライン川
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ライン川
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ライン川
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ライン川。
1979年に舟でライン川下りをした時は、こういう古城で、ワイン祭りに参加したことがある。 -
ライン川
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ライン川
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これはローレライの岩。
これは観光地としては三大がっかりの候補だろう。
日本だと、これが天の岩戸だと言われる類のもの。ローレライの岩 自然・景勝地
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ローレライの岩。
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船の通行税を取った関所だったところ。Pfalz.
プファルツ城 城・宮殿
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ライン川
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ハイデルベルク到着。ネッカー川にかかる古橋。Alte Brucke
ハイデルベルク その他の料理
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ハイデルベルク城
Schloss Heidelberg -
ハイデルベルク
Heidelberg
この街には家内ともう一度行っているが、そういえば、この写真の近所の楽器店で、バロック音楽用の楽器、ブロックフレーテ(リコーダー)を一本購入した。10本くらい取り出してくれて、ベスト・ワンを選んだ。Moeckの一番高価なローズウッド製の笛だ。勿論今でも持っている。日本の楽器店の半額くらいで購入できた。勿論バロック音楽の楽譜もかなり購入したが、どの曲だったかは記憶がない。なにしろ、毎回、ヨーロッパに行く旅にバロック音楽の楽譜を探しては持ち帰っていたから。。実質、この地方では初演となっている曲も多いだろう。 -
ミュンヘン新市庁舎前。
この写真のミュンヘンは、1974年12月28日、ウィーンから来て、一泊し、ミュンヘン国立歌劇場の公演、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」を見た時のもの。この翌日、インスブルックとザルツブルクを回って、年末にウィーンに戻ったのだった。ユーレイルパスがあると、自由に動けたものだ。体力もあったし、当時は夜行列車を利用してホテル代も浮いたのだ。
これで初のヨーロッパ旅行のシリーズは終わるが、日本からアラスカのアンカレッジ経由のフライトについては、別に書くことにしたい。今は経験しないルートだからだ。ミュンヘン新市庁舎 建造物
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