2017/09/30 - 2017/10/03
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2017年10月、ミラノ訪問。個人的には確か3回目の訪問のときのもの。旅の目的は、サッカー観戦、そして「最後の晩餐」。今はコロナウィルスで大変な時だけど頑張ってほしい。
この旅行記は2日目。今回の旅行の大目的、「最後の晩餐」とサッカー観戦です。
※ミラノ訪問2回目(2016年9月)の旅行記は以下でドゥオーモ中心です。
https://4travel.jp/travelogue/11400058
1日目
ブレラ絵画館(Pinacoteca di Brera) ※詳細は別の旅行記で。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア(Galleria Vittorio Emanuele II)
ミラノのドゥオーモ(Duomo di Milano)
2日目
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Santa Maria delle Grazie)
サンマウリツィオ教会(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
帝マクシミアヌス時代の宮殿(Palazzo Imperiale di Massimiano)
アンブロジアーナ図書館(写真撮影禁止)
Biblioteca Pinacoteca Accademia Ambrosiana
スフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)
ロンダニーニのピエタ美術館(Rondanini Pietà Museum)
ミラン戦サッカー観戦(サンシーロ。Stadio San Siro)
3日目
スカラ座(Teatro alla Scala)
ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)※詳細は別の旅行記で。
ノヴェチェント美術館(Museo del Novecento)
※詳細は別の旅行記といいたけど、近代芸術はあまり興味ないから、迷っています。
サン・ロレンツォ大聖堂(Basilica San Lorenzo Maggiore)
サンテウストルジョ教会(Basilica di Sant'Eustorgio)
ナヴィリオ地区(Naviglio)
4日目
サンタンブロージョ教会(Basilica di Sant'Ambrogio)
パヴィア修道院(Certosa di Pavia) ※写真禁止
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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
地下鉄でCadorna FNまで行き、そこから徒歩で、外観が特徴的なサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に到着。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(イタリア語: Chiesa di Santa Maria delle Grazie)は、イタリア・ミラノにあるカトリック教会の聖堂である。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐は、敷地内の修道院にある食堂の壁画であり、ユネスコの世界遺産(レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院)に登録されている。(Wikiより) -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
1296年、アルノルフォ・デ・カンピオの設計により大聖堂を取り壊して着工し、ジョット、フランチェスコ・タランティらが造営主任をつとめる。以降、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァがドミニコ修道院と教会の建設を指示し、建築家グィニフォルテ・ソラーリによって長い年月をかけ1469年にゴシック様式で完成した。教会のアプス(内陣の半円後陣)は、新公爵によってスフォルツァ家の霊廟として改築することが決定し、1492年以降、ドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)により改築されたものとされる(明白な証拠はない、という指摘もある)。当時ブラマンテはミラノに居住しており、教会の歴史書のなかにも一度登場している。レオナルドと8歳年上のブラマンテは同時期にミラノに滞在していた。レオナルドの手記にも理想の教会堂のスケッチが残されており、両者の交流があったことが考えられる。
教会は第二次世界大戦中に連合軍の空襲を受け、大きな被害を受けた。『最後の晩餐』の前には土嚢が積み上げてあったため、かろうじて被害を免れたという。
この教会の外観と内観は全く違っており、内観には全く地縁的特色が見られないのに対し、外観はロンバルディア地方の慣例に従った郷土色の強いものとなっている。(Wikiより) -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazieサンタ マリア デッレ グラツィエ教会 寺院・教会
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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
正面入り口前の広場から。西ヨーロッパの教会の入り口は西側に作られ、東に主祭壇を置く。ちなみに「最後の晩餐」は教会内になく、昔の食堂にあり、左側の白い建物から入る。 -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
それがこの建物。「最後の晩餐」の見学は、予約制であり、時間毎に中に入る人数も滞在時間も限られる。保管環境を考えてのこと。 -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
時間があったので、教会の中を見学。(ミサが終わったあとに)サンタ マリア デッレ グラツィエ教会 寺院・教会
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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
その後、予約時間がきて、少人数で入場。一旦、控室みたいなところで待機。展示を見て予習。「最後の晩餐」のあるホールでの滞在時間は15分程度だったと思う。
これは、教会の見取り図。上が東側。中央に中庭があり、右に教会、お目当ての「最後の晩餐」は下側(西側)にある。「CENACOLO」(食堂)と描かれたところ。 -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
第二次世界大戦時の1943年8月15日、アメリカ軍の空爆により半壊した食堂。屋根が落ち、中庭側にあたる東側の壁が倒壊している。上の写真の奥が「最後の晩餐」がある壁。修道士たちにより壁の前に土嚢が壁の前に積まれている。下の写真は、「最後の晩餐」のある壁と反対側の壁。ここには「磔刑図」が描かれているが、見るも無残な姿。 -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
いよいよご対面。
奇跡の絵画と呼ばれる所以のひとつは、フレスコ技法(漆喰が乾く前に顔料を載せる。つまり漆喰と絵が一体化する)ではなく、乾いた漆喰にテンペラで描かれており劣化しやすく、過去の劣悪な環境や第二次世界大戦での空爆にもかかわらず、現代まで残っていたことにある。 -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
17世紀には絵の下部中央部分に食堂と台所の間を出入りするための扉がもうけられ、その部分は完全に失われてしまった。17世紀末、ナポレオンの時代には食堂ではなく馬小屋として使用されており、動物の呼気、排泄物によるガスなどで浸食がさらに進んだ。この間、ミラノは2度大洪水に見舞われており、壁画全体が水浸しとなった。(Wikiより)
この絵が描かれた当時の別の画家による模写があり、そちらでは切り取られる前の様子が分かる。
画像データ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Leonardo_da_Vinci_%281452-1519%29_-_The_Last_Supper_%281495-1498%29.jpg -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
一点透視図法の消失点は、中央にいるキリストの右のこめかみの位置にあり、修復時の洗浄作業によってこの位置に釘を打った跡が見つかった。釘を打ち、そこから糸を張ってテーブル、天井、床などの直線を描いたと考えられている。(wikiより) -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
この構図では12人の使徒はイエスを中央に、左右に3人ずつのグループで描かれている。写真は左側のグループ。右から、ヨハネ、ペテロ、ユダ。
ユダはキリストの言葉に驚き、のけ反っている。右手には裏切りの報酬の銀貨の入った小袋をもっている。ただし、マタイによる福音書では、イエスを引き渡した後で銀貨を受け取ることになっている。左手は無意識のうちか、イエスの伸ばした左手の先のパンを取ろうとしており、裏切りを暗示している。
ペテロはユダの背後で刃物を持っており、これは後でイエスが捕えらえるときに追手のひとりの耳を切り落としたとされていることを意味している(『ヨハネによる福音書』)。ヨハネはイエスが愛しておられた物として若者、女性のように描かれる。この主題のときにはイエスの胸元に寄りかかっている様子が描かれることがあるが、ダヴィンチは、ペトロから耳打ちで質問を聞いている場面を描いている。
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イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。 (ヨハネ13:23-26、新共同訳)
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ヨハネは「最愛の弟子」と表現されているが、ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』では実はこのヨハネは女性の「マグダラのマリア」であり、イエスの子供(女性)を宿し、男性を権威の根源とするカトリック教会は彼女の存在を否定した為、その子孫はキリスト教から匿われた。聖杯はマリアの子孫のことで実はその子孫は。。。そのマリアの墓は。。。
日本語/伊/英語
ユダ/Guida/Judas
ペテロ/Pietro/Peter
ヨハネ/Giovanni/John -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
イエスの右側のグループ。左から、トマス 、大ヤコブ、フィリポ。トマスが右手の指を1本突き立てているのは、「裏切り者は1人だけですか」とイエスに問い掛けている姿と解釈されている。ヤコブは、驚いたように両手を広げているがその視線はパンに伸ばしたイエスの手を見守っている。
日本語/伊/英語
トーマス/Tommaso/Thomas
大ヤコブ/Giacomo Maggiore/James the Greater
フリッポ/Filippo/Philip -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
「最後の晩餐」の反対側の壁には、「磔刑図」が描かれている。 -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie -
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Santa Maria delle Grazie
大聖堂方向に次の目的地、サンマウリツィオ教会まで歩きます。 -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
もともと修道院併設の教会だったので、見かけは至って地味なのですが、中が凄い。壁一面にフレスコ画が描かれています。右は考古学博物館。 -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
ミラノで最も重要なベネディクト派元女子修道院。修道院自体は1798年まで使用されていた。この教会の起源は8~9世紀で現在の教会の様相は1500年代の再建によるもの。内部にはレオナルド派のフレスコ画と、ベルナルディーノ・ルイーニの作品が残ります。縦長の建物は、大きく2つのエリアに分けられ、写真の手前の部屋は、信者が入ることができたエリアで、奥の別の部屋は、修道女のみが入ることができた部屋になります。
公式WEBでは360度の様子が見れます。↓
https://download.comune.milano.it/turismo/milano360/chiese/sanmaurizio/interno/サン マウリッツィオ教会 寺院・教会
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サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
このベルナルディーノ・ルイーニ(Bernardino Luini)の作品は「ミラノのシスティーナ礼拝堂」と称される。フレスコ画が壁一面を色とりどりに彩り、聖人らの生涯を伝えるだけでなく、芸術家のパトロンでもあったベンティヴォーリョ家の肖像画も見て取れます。ベンティヴォーリョ家の娘たちの4人がサン・マウリツィオ修道院に入り、そのうち一人は修道院長となりました。(公式WEBサイトより) -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore) -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
「ノアの箱舟」
つがいの動物立ちが船に乗り込むところ。 -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
「最後の晩餐」
この構図ではユダが右手前に。ヨハネはイエスに肩にもたれかかっています。ペトロはイエスから左に3番目の黄色の服。テーブルの上の右手にはやはり刃物が。 -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore) -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore) -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
こちらがもうひとつの部屋。修道女が集ったところ。
360度の画像はこちら↓
https://download.comune.milano.it/turismo/milano360/chiese/sanmaurizio/aulamonache/ -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore) -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
この教会の看板に描かれている女性はどこにいるのだろうと探していたら、この絵に描かれていました。 -
サンマウリツィオ教会
(Chiesa di San Maurizio al Monastero Maggiore)
教会で最も有名なものの一つがパイプオルガン。1554年製作の作品。
そんな歴史的なオルガンの音色を聴く機会として、9月の音楽イベントがあります。 -
Imperial Palace of Maximian
Palazzo Imperiale di Massimiano
皇帝マクシミアヌス時代の宮殿
ミラノが西ローマ帝国の首都であった、皇帝マクシミアヌスの時代に建てられた宮殿の跡。3-4世紀。 -
Imperial Palace of Maximian
Palazzo Imperiale di Massimiano
皇帝マクシミアヌス時代の宮殿 -
Santa Maria alla Porta
Chiesa di Santa Maria alla Porta
ローマ時代の遺構の横にある教会。正面。 -
Santa Maria alla Porta
Chiesa di Santa Maria alla Porta
教会の説明。その後ろの道路標識が気になる。 -
Santa Maria alla Porta
Chiesa di Santa Maria alla Porta
1652年に教会を立て直した際に古い教会の壁に再発見された壁画。建物を建てたが、第二次世界大戦で損壊、だが奇跡的に壁画は無事だった、今では教会の横の屋外に。
アンブロジアーナ図書館を目指し歩きます。 -
Cripta di San Sepolcro
サン・セポルクロ教会
教会横がアンブロジアーナ図書館。だが、入り口はどうも反対側にあるらしい。サン セポルクロ教会 寺院・教会
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アンブロジアーナ図書館・美術館
Biblioteca Pinacoteca Accademia Ambrosiana
ここにはレオナルド・ダ・ヴィンチの「音楽家の肖像」とカラバッジョの「果物籠」がある。中は写真撮影禁止の為紹介はここまで。訪問した時にはダ・ヴィンチ直筆の寄稿、メモが沢山展示してあった。ダ・ヴィンチが描いた唯一の男性の肖像画、「音楽家の肖像」(1485)。未完とされているがほぼ完成している。手にした楽譜の内容まで読み取れる距離でみることができるのは感動。カラバッジョの「果物籠」(1596)はリアルすぎ。
「音楽家の肖像」
https://www.wikiart.org/en/leonardo-da-vinci/portrait-of-a-musician-1485
「果物籠」
https://www.wikiart.org/en/caravaggio/basket-of-fruit-1596-1アンブロジアーナ絵画館 博物館・美術館・ギャラリー
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Cordusio広場(コルドゥジオ広場)
アンブロジアーナ図書館・美術館を出てから、スフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)を目指す。コルドゥジオ広場には地下鉄駅がある。ここから、スフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)まで一直線の目抜き通りがある。コルドゥージオ駅 駅
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通りのはるか向こうにスフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)が見える。
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スフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)前のCairoli Castello駅周辺。
ランナバウトの中央に建つのはジュゼッペ・ガリバルディの銅像。
ジュゼッペ・ガリバルディ(イタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)は、イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家である。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。
1860年、千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャ王エマヌエーレ・ヴィットーリオ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく、余生をカプレーラ島で送った。(Wikiより)カイローリ駅 駅
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Cairoli Castello駅周辺
ミラノにはレトロな路面電車が走っている。 -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzescoスフォルツェスコ城 城・宮殿
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スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
ここには美術館、博物館が集まっている。全部見ていると時間がない。正面入り口から入って左手にお目当てのピエタ美術館がある。行列ができていたので、最後尾に並ぶ。 -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
ロンダニーニのピエタ美術館
Rondanini Pietà Museum
ミケランジェロ(1475-1564)は全部で4体の「ピエタ」の彫刻作品を残している。ピエタ(Pietà、慈悲などの意)は聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである。
ミケランジェロが制作した4作品の通称と制作年、現在の収蔵場所は以下の通りである。ただし完成したのは『サン・ピエトロのピエタ』のみ。(この辺は何かレオナルド・ダ・ヴィンチに似ている。)
『サン・ピエトロのピエタ』1498 - 1500、サン・ピエトロ大聖堂
『フィレンツェのピエタ』1547年? - 、フィレンツェ、ドゥオーモ博物館
『パレストリーナのピエタ』1555年? - 、フィレンツェ、アカデミア美術館
『ロンダニーニのピエタ』1559年 - 、ミラノ、スフォルツァ城博物館
とりわけ『サン・ピエトロのピエタ』は、他の芸術家によっても同じ題材で数多く作られたピエタと比較しても肩を並べるもののない傑作であり、これによってミケランジェロの名声は確立された。(Wikiより)ロンダニーニのピエタ美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
ロンダニーニのピエタ美術館
Rondanini Pietà Museum
ロンダニーニのピエタ
ミケランジェロの第4のピエタ、彼が生前最後に手がけたこの大理石彫刻は、1952年にミラノのスフォルツァ城博物館に収蔵されるまでローマのロンダニーニ邸の中庭に置かれていたことから、『ロンダニーニのピエタ』と呼ばれる。視力を失いながら手探りで制作を続けたといわれる本作はミケランジェロの遺作となった。
『ロンダニーニのピエタ』に最初に取り組み始めたのは、『フィレンツェのピエタ』とほぼ同時期であったらしいが、ミケランジェロは一度作業を中断して晩年(1559年頃)に至ってから再開し、晩年の素描や自分の墓に飾るつもりであった『フィレンツェのピエタ』と同様、みずからの死の予感や宗教的霊感を強く抱きながら制作に取り組んだ。腰が曲って頭を上げることすらままならず、さらには視力を失いながらも手探りで鑿を振るい、病に倒れる前日まで制作を続けたと伝えられている。本作において、ミケランジェロは再び「死せるイエスを抱く聖母マリア」という最初のピエタの構想に回帰する。左側に立っている棒状のものは、最初の構想にあったイエスの右腕がそのまま残されたものである。つまり作業が中断された時点ではイエスはもっと前屈みになっており、これからマリアを彫り出すための大理石の塊を背負うような形になっていた。作業の再開にあたってミケランジェロはイエスの前半身を打ち砕き、後ろの塊から改めてイエスを掘り出していったのである。
幽霊のようでみすぼらしくさえあるマリアとイエスは、ミケランジェロの初期のスタイルに代表されるような理想的な像からはかけ離れており、ルネサンス彫刻というよりはゴシック彫刻のやせ細った像との類似がしばしば指摘されている。
この像を後ろから見ると、マリアがイエスを抱いているというよりも、イエスがマリアを背負っているかのように見える。これはイエスを亡くして悲しむマリアをイエスの霊が慰めている様を表現するために、両義的な解釈が可能となるようミケランジェロが意図したのだといわれている。(Wikiより) -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
ロンダニーニのピエタ美術館
Rondanini Pietà Museum -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
ロンダニーニのピエタ美術館
Rondanini Pietà Museum -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art
Lombard sculptor, Stone tablet bearing symbols of the Evangelists
12世紀初め -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Museum of Ancient Art
Francesco Napoletano 1470-1501
MADONNA LIA, Milano, Castello Sforzesco
c1495
どことなく画風がダヴィンチに似ています。 -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Lombard craftsmanship in the project of Antonio Averulino, also known as il Filarete, Portal of the Banco Mediceo, Candoglia marble, circa 1464 -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
Agostino Busti known as il Bambaia, Statue of a reclined Gaston de Foix, Carrara marble, 1517-1522 -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco -
スフォルツェスコ城
Castello Sforzesco
さて、試合開始に間に合うよう、サンシーロに移動です。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
ミラノの本拠地とする2つのクラブ、ACミラン、インテルミラノの本拠地。スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァが現在の正式名称だが、ミラニスタはもともとの名前で地名に由来するサン・シーロと呼ぶ。(1980年、インテルとACミランの両チームに所属した名選手ジュゼッペ・メアッツァが亡くなったことを受け、所有権を持つミラノ市がその業績を称えて、スタジアムの正式名称を旧称の「サン・シーロ」から「ジュゼッペ・メアッツァ」とした。インテル側は、「ジュゼッペ・メアッツァ」と呼ぶのに対し、ACミラン側は、メアッツァの在籍年数は2年のみなどの理由で「サン・シーロ」と呼んでいる。)
今日は、ミラン対ローマの試合を見に来ました。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
みんなぞろぞろと。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
早々たるレジェンドのユニフォームが並ぶ。
バッジオのものが欲しいが。デビッド・ベッカム(32)も晩年にアメリカに渡った後にレンタルでミランにいたことがある。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
とりあえず、腹ごしらえ。
ビールから。「ナストロ・アズーロ」(Nastro Azzurro)
イタリアのビール醸造会社ペローニ社(Birra Peroni)の主力ビール。1846年にロンバルディア州のヴィジェーヴァノで創業され、2016年時点ではアサヒグループホールディングス社の傘下(知らなかった!!)となりローマに本拠地を置く。
ペローニ社の主力商品はアルコール度数4.7%のペールラガー「ペローニ」と、度数5.1%のプレミアムラガー「ナストロ・アズーロ」である。「誰でも手軽に飲める」をコンセプトに低価格路線を採っているため、味もそれなりという批判もあるが、ピッツァのようなファーストフードには合うこともあって、イタリア国内のビール消費量ではトップクラスである。(Wikiより) -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
食べ物の方は、匂いと見た目で判断。「それ頂戴」と指さしで。美味しい。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマジュゼッペ メアッツァ スタジアム(サンシーロスタジアム) スタジアム・スポーツ観戦
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Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
試合前のセレモニー。カフーがいる!
セレモニーの理由は分からないが、両チームに馴染みのある選手。
カフーは、2000-1年シーズンのローマのスクデット獲得に貢献(中田がいたとき。チームメイトだった)、さらに、その後、ミランに移籍し、2003-4年にさらにスクデットを獲得。ミランの最後の全盛期に活躍、2006-7シーズンにはUEFAチャンピョンズリーグも優勝した。ミランはこの大会では7回優勝しており、レアルマドリードの13回に次いで2番目に多い。思わず、「最後の全盛期」と書いてしまったが、今では、文字通り過去の栄光であり、ミラニスタとしては肩身が狭い。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
さらに、カフーは、ブラジル代表として、ワールドカップの決勝に3年連続(1994年、1998年、2002年)で出場し、アメリカ、日韓大会では優勝している。3回、決勝に立ったのはカフーだけ。2002年日韓大会のときにはキャプテン、精神的支柱として活躍。決勝の相手はドイツだった。1998年は母国開催のジダン率いるフランスに敗れた。1994年アメリカ大会では、猛暑の中、イタリアと決勝を戦い、最後は、PK戦で勝利。ロベルト・バッジオの蹴ったボールがバーの上に逸れた。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
2000年代のミランのメンバーは豪華だったなあ。
ほとんど各国の代表クラスだったもの。今は名前もわかりにくい。ジュゼッペ メアッツァ スタジアム(サンシーロスタジアム) スタジアム・スポーツ観戦
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Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
試合開始。ローマも強敵。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
なかなかいい席で観戦。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
試合結果は書きません。。。 -
Stadio San Siro
スタディオ・サンシーロ
ミランvs.ローマ
落胆のうちに帰路につきます。地下鉄は帰る人で混雑。
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