2020/01/25 - 2020/01/27
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夏子の探検さん
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も~~お!何処も行かない!行けない!が続き、一時は自粛警察の一員になりそうなほどでした。
おかげさまで?元気ですが・・・年末年始は良いとして、2月3月4月と海外平気でお出かけの方々・・・4月5月でも県をまたいで国内だからとお出かけの方々・・・何考えてんのよ!と言いたいほどだった・・既に6月・・・あ~~あ・・・今日から梅雨です・・・で結局家に居ます。
県をまたいで出かけても良いよ~発令が出されても、私は行けない。
国会で、県をまたぐ移動が、Okに成ったからと、多くの人が観光移動してますが、この時期、今まで我慢してたのに、我慢の限界と、観光や癒しに出かける人多数・・・羨ましいけど、私はその方とは、暫く会いたくないです。(怖いもん)
私は私の親しくして貰ってる80~90代のご夫人と、スポーツクラブでもご一緒出来なくなるから・・・私が保菌してたら、殺してしまうかも・・・
過去の記録で~3月3日から、全国の小中学校が登校禁止に成りました。
正直、未だコロナウイルスの症状が出ていない感染者の方も、どこかに居ると思うので、1月の当時は、中国の方々の入国も禁止には成っていなかった日本。後で調べて知った時は、今更大丈夫なのかしら?と・・・
奈良からの帰宅後、2週間家で待機・・・
若草山の山焼きを知ったのは、確か去年~本当は京都の大文字焼きを見たかったのですが、まずは一人で行ける所から~と・・・まぁ~海外でも一人で行けるようには成りましたが、・・・
行ってみて、当然日本の大きな旅行者さん(クラブツーリズムさん、阪急交通さんなどが、大勢の観光客も連れていたけど、私の予想外に、中国、台湾(言語が似ています)韓国の観光客さんの多い事!!未だ春節で無くても、なんで、こんなに、人が多いの?と思っていました。ただ、この頃、マスクしてる大陸の方も多く(私はコロナ以前から電車でも、どこでも、混んでる場所ではマスク愛用)だから、異国の方々のマスクは?なんで???っては思っていました。帰宅し調べると、12月上旬から、中国で、謎の肺炎と言う文字を見て、え!?!とその時点から怖がっていました。
現在、コロナの発症は、中国では去年8月からだった・・・と言う記事を見て、だろうなぁ~と・・・
結局、家族や、知り合いのご老人達を守りたくて、何処にも行けず、どこにも計画さえ立てられません。(ま~そんな中で、解除されたから、国内ならばと思う、旅人達は、沢山いるようで、宿泊施設の70%は予約客で埋まっていると、これって、怖いです)
私は、未だ行けないです・・・
日本経済の活性化の為には、動いてお金を使って欲しいでしょうが、自分は良くても、周囲に自分がクラスターに成っては不味い意識が強く、
国が良いんだよ!って言っても、観光に来てくれた人が、感染してたら、村も島も、2次感染が始まる・・・
私はだからデキナイ・・・・
人間味の無い人は、勝手にやって下さい。
私はクリスチャンでも有るので、そんな安易な行動は出来ません。
きっともう少し、夏以降かな?まずはワクチン・・・これって来年かなだって・・・自分だけ考えれば、正直大丈夫な気がするが、会社の同僚、スポーツクラブのご高齢のお兄様、お姉さま・・・私のせいで死なせるわけには、行きません。
つまらない、奈良の記録ですが、これが一番新しので・・・
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JR特急 JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- じゃらん
PR
-
私の加入している関東旅好き女子会から「海外行けるぞ~」の報告が来ましたが、
先ずは、ちょっと待って!!
それは、自分だけじゃなく、誰かの命を守る為でも有るので、安易に出かけないで頂きたい!!外務省の「旅レジ」情報入れたら、みんな黙ってしまった。
朝、ホテルの送迎車で奈良駅まで送ってもらい、一応大仏様にご挨拶と思って、歩き始めました。ここは興福寺に登る手前の時計 -
グーグル地図で再度探したけど、名前の無い池~この向こう側はホテル???
ちなみに、日本の外務省HP
お出かけの際は、旅レジ
自分の予定を入れると、他国に居ても、その時居る海外の場所と日本の重要な情報が入ります。こんな時だからこそ、出張で有ったとしても、有効な情報ですので、自分のメルアドを登録しておいて、お出かけください。 -
探したのですが、名の無い池!の前に以降の階段有り~
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此処から興福寺まで登ります。
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗大本山である日本の仏教寺院。南都七大寺の一つに数えられる。寺院本尊は中金堂の釈迦如来であり、南円堂(本尊・不空羂索観世音菩薩〈不空羂索観音〉)は西国三十三所第9番札所となっている。
札所本尊真言(不空羂索観音):おん はんどま だあぼきゃ じゃやでい そろそろ そわか
ご詠歌(南円堂):春の日は南円堂にかがやきて 三笠の山に晴るるうす雲 -
興福寺中金堂???
編集]
東金堂
東金堂内の諸仏
現存する興福寺東金堂は、 室町時代中期の応永33年(1426年)に再建された。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である[11]。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[12]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[13]。
興福寺東金堂は、神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建した。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。東金堂はその後、応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。 -
五重塔
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五重塔婆である[11]。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物( 旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当))に指定[12]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[13]。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては、、東寺五重塔に次いで高い。 -
三重塔も有る
現存する興福寺三重塔は、鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である[11]。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[12]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[13]。
興福寺三重塔は、康治2年(1143年)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建された。治承4年(1180年)の大火による焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられる。 -
脇に中金堂と記載有り
興福寺中金堂( - ちゅうこんどう)は、藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれている。 -
南円堂
興福寺南円堂は、藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のため、弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。現在の建物は寛政元年(1789年)の再建。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。堂は西国三十三所の九番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである(2002年秋、2008年秋、2013年春に特別開扉が行われた)。堂内には本尊である不空羂索観音坐像のほか、四天王立像と法相六祖像を安置する -
東金堂
現存する興福寺東金堂は、 室町時代中期の応永33年(1426年)に再建された。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である[11]。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[12]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[13]。 -
鹿(しか)発見!
7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された『万葉集』では奈良の鹿の歌が詠まれ、このころは純粋に野生の鹿だった[注釈 3]。同時期の767年には春日大社が創建され、その由来で主神の建御雷命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から遷る際に白鹿に乗ってきたとされ、神鹿(しんろく)と尊ばれるようになる[5]。氏社参詣の藤原氏からも崇拝の対象となり、人間が鹿に出会うと神の使いとして輿から降りて挨拶した。これが続いて、鹿もお辞儀の習慣を覚えたという説がある[6]。 -
興福寺
境内は外部と塀などがなく、24時間自由に無料で通行できる。
国宝館、東金堂、中金堂は通年拝観可(それぞれ別々に拝観料を要する。国宝館と東金堂は共通割引券あり)。
北円堂の内部は春・秋などに期日を限って有料公開。
南円堂開扉は10月17日と特別公開時のみ。
仮講堂開扉は仮金堂時代に前例があり、五重塔初層や三重塔初層も過去に特別公開されたことがあるが、今後の公開予定は未定。
毎年5月下旬に、夏の訪れを告げる「薪御能(たきぎおのう)」が行われる。 -
鹿煎餅を欲しがる鹿たち~何も柵越しに頭出さなくても…
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角を切られた跡なんでしょうね・・・なんだか可哀そうだけど、野生ではあるけど、角で仲間同士のけんかや、観光客に襲ったら大変だもんね・・・
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こっちは、子鹿のよう・・・いわゆるバンビ?!?
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興福寺北参道にもウロウロ・・・
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そのまま進むと、奈良国立博物館。今更ですが、入った事無い事に気づく・・・
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今度行こう!
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国立博物館
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奈良氷室神社前の鳥居と鹿
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この時は、大陸方面の方々が、鹿せんべいを購入し、皆さんが上げていたのですが・・・過去には私も鹿せんべいを与えて居ましたが、その度ごとに、なぜか他の鹿にお尻を食べられるので、以降やっていません。
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雨が降ってきても、平気な野生の子達~鹿せんべいを与える観光客が居なくなり、一時は鹿が食糧不足!って記事が有ったけど、昨夜見た記事は、今まで鹿せんべいの食べ過ぎで?鹿達のふんが、コロコロに成らず、おなかを下してた状況だったらしいが、この鹿せんべいを食べなくなった鹿は、今は元気に、コロコロふんだと書かれてて、やっぱり自然は、摂理にかなっているんだろうなぁ~と思った。
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奈良公園に入りました。
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奈良公園の地図がやっと出た!
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鹿達、今は元気らしい!元々は野生の鹿なので、状況に合わせて生きるすべを知っているのだろう。
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あんよが痒いのか?こんな格好するのですね。
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雨が降ってきても、野生の鹿はお構いなし!
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東大寺に向かう!
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せんとくん
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東大寺博物館ですね。
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大仏様の実際と同じ大きさの手が入口に飾られています。
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本展覧会では、「東大寺の歴史と美術」をテーマに展示を行います。奈良時代8世紀の聖武天皇による創建から、平安時代の塔頭の成立と学問の多様化、また、平安時代末から鎌倉時代初期の戦乱を経た後の鎌倉復興、室町時代末から江戸時代にかけての罹災と復興の歴史など、奈良天平の創建から江戸まで連綿と続く長い歴史と、時代ごとに生み出された彫刻・絵画・書跡・工芸等の寺宝の数々をご紹介する博物館だそうです。
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此処から東大寺まで近道
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大門
7~8世紀の東洋の世界は、唐を中心に善隣友好の国際関係が昇華した時代であった。当時の唐朝は道教を信奉したが、同時に仏教も振興し、帰化僧による仏教聖典の漢訳の盛行もそのひとつの現れであり、各地で仏教寺院が建立され、それぞれの国家の安寧と隆昌を祈願させた。
これらの政策が、わが国で聖武天皇が天平13年(741)に、国分・国分尼寺建立の詔を発する範となったことは周知のところである。 -
奈良時代は華やかな時代であると同時に、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代であった。このような混乱の中、神亀元年(724)二月、聖武天皇が24歳で即位し、待ちのぞんでいた皇太子基親王が神亀四年(727)10月5日に誕生する。ところが、神亀五年(728)9月13日、基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折する。聖武帝は、すぐに親王の菩提を追修するため金鍾山寺を建立(同年11月)し、良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させた。
天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。 -
以前は無料だった東大寺大仏殿、いつから有料になったのでしょうか?
しかしまぁ~此処も、中国元でも韓国ウオンにも対応していました。 -
天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。
『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。もちろん、教理の研究と平行して巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い。
天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、延暦八年(789)3月の造東大寺司の廃止まで続行された。
盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる。 -
国家の災害・国難などを消除することを説く『金光明最勝王経』の具現が国分寺の建立となり、さらに発展して、世界に存在するあらゆるものは、それぞれの密接な相関関係の上に成り立ち、平和で秩序ある世界を形成していると説いている『華厳経』の教理の実現が、東大寺の創建につながっていったと言えよう。
当初、紫香楽宮において造仏工事が開始されるが、山火事が頻発し地震の続発などにより、平城京に還ることを決意、天平十七年(745)8月、大仏造顕の工事は金鍾山寺の寺地で再開されることになった。金鍾山寺では、先の「華厳経講説」の後、天平15年(743)正月から3月にかけて『最勝王経』の講讃が、49人の学僧を招いて行なわれるなど、当時の仏教界をリードする活発な宗教活動や研究が行なわれていた。 -
東大寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と言う。
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平安時代にも修理と造営は絶え間無く続けられているが、斉衡二年(855)の大地震によって落下した大仏の頭部は、真如法親王によって修復されたものの、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊した。
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東大寺の伽藍の中央に位置し、境内で最大の建物である。
現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている。 -
ここは、最初に来たのが、高校時代の修学旅行だった。
その時、此処の柱潜りを教わった。
願いをかけて、此処を潜りぬけられれば、成就するとか・・・私はセーラー服で、此処を潜りました((笑) -
今でも、そんないわれが有るのだろうか?
実はこの位置が館内の北東で鬼門に当たり、鬼を通すと言う事で、柱に穴を開けたらしい。 -
言い伝えで、此処をすり抜けると、無病息災や祈願成就、頭がよく成ると言われ、修学旅行の子供達が穴を通る人気の場所になって居ると、書かれて居た。
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今年は子年なのですね・・・実は私はネズミが苦手で、今の結婚前、母子家庭で東京都の都営住宅住まいだった時、ネズミが出まして、夜中に戦ったことも有ります(泣き)
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当時は今年の1月ですから、コロナのこんな時期が来るとは、知らない人が多かった時だったので、合格祈願や、就職祈願や、そんなお願いが多かった・・・
今、その方々は、どうしているのだろう・・・ -
此処で(大仏院内)お守りや、お札を頂くのよね・・・今だったら、コロナにかからないように!なんてお守りも売れたかも…(笑)
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大仏殿参拝へのお願いごと
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しかも治承四年(1180)に、平 重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失した。しかし翌年には、大勧進に任命された俊乗房重源によって復興事業が着手され、鎌倉幕府、特に源頼朝の全面協力を得て、文治元年(1185)に後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」が行なわれた。
重源自身が当時の中国から移入した最新の建築様式大仏様(だいぶつよう)の代表建築である南大門が威容を誇り、運慶・快慶ら慶派仏師集団の造像になる仁王像は、近年解体修理を受け、堂々たる姿を今に伝える。
翌、文治二年に周防国が東大寺造営料所に当てられてから復興事業は着々と進み、建久六年(1195)に「大仏殿落慶供養」が営まれ、東塔も13世紀前半に完成した。こうした復興に伴い、教学活動も活発になり鎌倉時代にも多くの学僧が輩出した。 -
こちらの賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)さまは大仏さまがおられる東大寺大仏殿の外、大仏殿に向かって立つと右手の方にいらっしゃいます。
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釈迦仏の弟子。十六羅漢の一人。神通力をもてあそんだとして釈尊に叱責され涅槃(ねはん)を許されず、釈迦の入滅後も衆生(しゅじょう)の救済にあたった。日本では堂の前に置き、これを撫でると除病の功徳があるという俗信が広まった。
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山焼きが終わった翌日、野生の鹿達は、平地で観光客からもらえるエサも含めて、徘徊していました。
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ごめん・・・見つめられても、今回は、鹿せんべい買う気ないんだ・・・
(ちょっと感染が怖かった) -
東大寺境内は、大仏殿を含む、2月堂3月堂と続きますので、かなり広いです。
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この鳥居を再度くぐります。
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此処からも階段を登ります。
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神社だったかな・・・調べたのですが、だんだn飽きて来て・・・すみません。
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東大寺2月堂~以前この前の芝生場所から、この4トラの仲間達と修二会の行事を見学しました。素晴らしかった!
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旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。アップで!
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2月堂の修二会(お水取り行事)の際に、だったんする修行僧が走る階段
さだまさしの歌う、「修二会」は現場見た時、納得しました。
https://www.youtube.com/watch?v=C-6yiqOErR0 -
私が行った後、2月堂は節分行事などでも、未だ海外の方々にが来てたんですよね。
こんな後手後手の状況は、感染するよね~と今でも思います。 -
二月堂のお清め場所に龍の口
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東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。 -
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3月堂
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この近所にも、大陸系の坊やが・・・鹿が面白くも怖そうにしてました。
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途中歩いて駅に向かうも・・・此処は有難い事に、無料の施設です。
この辺に、きれいなトイレ、暖かいお茶やコーヒーなども無料で頂け、お勧めです! -
さて入口です。
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奥村記念館です。パンフレット~
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ご覧の通り、無料の飲み物(結構凄いと思います)
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館内
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屋上からの展望(昨夜の若草山が焼かれた跡の山肌が見えます)
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屋上からの眺望~高い建物ではないですが、かなり眺望が良い感じです。
特に夏などは、気持ち良さそうですね! -
5月27日にアベノマスクが届いた。今更と思うが、虫やゴミ混入など話題も有り、怖いので、ベランダで開封したが、見た目は大丈夫そうだった…
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我家はマンションで100世帯ほどの集合住宅なので、これでも早く届いたらしい。宛名は無いので、郵便局が配って居るらしいが、同じ市内でも、届いてない場所もまだまだ有った様子。
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給食マスクの大きさの2枚だったが、今は他のマスクが有るので、非常時に…と保存していたが、まさか?昨夜友人からのSNSで、マスクの中にダニが存在と書かれており、顕微鏡で見ると確かに!と有ったので、怖くて再度厳重保管した。
このマスク、届いても使わないからと、役所などに戻す人も多いらしく、老人施設などに、まとめて寄付するとか記事に有ったが、もしもダニが居たら、ほんとに不味いのでは?と思うと怖く成る。
いったい、国税を使い、役に立たないマスクを配るなど、国は何をしているのか?
悲しい国だと思う… -
最終、JR奈良駅に着きました。
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どこ~~も行けないので、四日市のバラの里に行ってきました。(無料は感謝です)
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バラは綺麗ですね?
既に、県を超える移動が許されましたが、悲しいかなと言うか私は名古屋のSNS会などはふだんであれば行って居ますが、オーナーさん達が真面目なのか、取り巻きが良いのか((笑))2グループが見送りに送りに成りました。
なかなか先が読めず、海外なんぞ・・・いつ行けるの?の状態ですが、健康で居れば、また必ず、危なくない時も来るでしょうね♪と信じたいです。
みなさまも、常識有る人達は頑張って!!
~~~~~ありがとうございました~~~~~ -
最後に、合成っぽいですが、若草山の山焼きでした?
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