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恵那での中山道・大井宿見学の後、昨日からの懇親会メンバーで、車で岩村城に向かいました。お城はすでに見学した人もいて、専ら城下町を散策しました。岩村城下町には、幕末の哲人の佐藤一斎の箴言が各所に掲示され、その精神を今に伝えていました。

2019秋、恵那での定例懇親会(4/6):岩村城下町散策、佐藤一斎の箴言、木村家、天正疎水

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2019/11/25 - 2019/11/26

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旅行記グループ 2019秋、恵那での懇親会

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

恵那での中山道・大井宿見学の後、昨日からの懇親会メンバーで、車で岩村城に向かいました。お城はすでに見学した人もいて、専ら城下町を散策しました。岩村城下町には、幕末の哲人の佐藤一斎の箴言が各所に掲示され、その精神を今に伝えていました。

交通手段
JRローカル 自家用車

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  • 『中山道大井宿の駅前の近代化』のタイトルがあった、平成24年(2012年)8月に設置された恵那市教育委員会名の説明パネルの紹介です。右上の図面が、文化11年(1814年)の絵図、その下の写真が大正から昭和の初めにかけての駅前光景です。近代化に一番影響があったのが鉄道駅の出現だったようです。

    『中山道大井宿の駅前の近代化』のタイトルがあった、平成24年(2012年)8月に設置された恵那市教育委員会名の説明パネルの紹介です。右上の図面が、文化11年(1814年)の絵図、その下の写真が大正から昭和の初めにかけての駅前光景です。近代化に一番影響があったのが鉄道駅の出現だったようです。

  • 『中山道』の文字が記された除夜灯風の案内標識の光景です。各所で見かけましたが、これもその一つです。木造の案内標識の上に、銅葺屋根の外観を持った鋭角的な屋根が乗せられていました。

    『中山道』の文字が記された除夜灯風の案内標識の光景です。各所で見かけましたが、これもその一つです。木造の案内標識の上に、銅葺屋根の外観を持った鋭角的な屋根が乗せられていました。

  • 『中山道』の文字が記された除夜灯風の案内標識のズームアップ光景です。右向きの矢印で『大湫宿』、左向きの矢印で『大井宿』が記されていました。中山道は、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道で、69箇所あるその宿の表示です。

    『中山道』の文字が記された除夜灯風の案内標識のズームアップ光景です。右向きの矢印で『大湫宿』、左向きの矢印で『大井宿』が記されていました。中山道は、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道で、69箇所あるその宿の表示です。

  • 名前:『カワラナデシコ(河原撫子)』<br />分類:ナデシコ科ナデシコ属の多年草<br />分布:日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布。<br />その他:濃い赤色の花です。

    名前:『カワラナデシコ(河原撫子)』
    分類:ナデシコ科ナデシコ属の多年草
    分布:日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布。
    その他:濃い赤色の花です。

  • 名前:『カワラナデシコ(河原撫子)』<br />分類:ナデシコ科ナデシコ属の多年草<br />分布:日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布。<br />その他:『ヤマトナデシコ(大和撫子)』の別名を持ちます。濃い朱色の花です。

    名前:『カワラナデシコ(河原撫子)』
    分類:ナデシコ科ナデシコ属の多年草
    分布:日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布。
    その他:『ヤマトナデシコ(大和撫子)』の別名を持ちます。濃い朱色の花です。

  • 名前:『カワラナデシコ(河原撫子)』<br />分類:ナデシコ科ナデシコ属の多年草<br />分布:日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布。<br />その他:純白の花です。

    名前:『カワラナデシコ(河原撫子)』
    分類:ナデシコ科ナデシコ属の多年草
    分布:日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布。
    その他:純白の花です。

  • 名前:『カワラナデシコ(河原撫子)』<br />分類:ナデシコ科ナデシコ属の多年草<br />分布:日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布。<br />その他:ピンク色の花です。いずれも緑樹帯のような花壇で咲いていました。

    名前:『カワラナデシコ(河原撫子)』
    分類:ナデシコ科ナデシコ属の多年草
    分布:日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布。
    その他:ピンク色の花です。いずれも緑樹帯のような花壇で咲いていました。

  • 恵那市の観光案内地図の光景です。中央下部にJR恵那駅が記された、北向きが下側になる地図です。この地図にも、江戸時代に築かれたクランクになった道路が緑の線で記されていました。

    恵那市の観光案内地図の光景です。中央下部にJR恵那駅が記された、北向きが下側になる地図です。この地図にも、江戸時代に築かれたクランクになった道路が緑の線で記されていました。

  • 歩道に設置されていた、カラーのマンホール蓋の光景です。同心円模様の中央が恵那市の市章です。『市章は、昭和29年公募により決定したもの。 この市章は、図案化されたエナであり、太陽と飛翔する鳥を表現し、翼の6枚の羽は、合併した六つの市町村を表している』と紹介されていました。また市の花の『ササユリ(笹百合)』も描かれているようでした。

    歩道に設置されていた、カラーのマンホール蓋の光景です。同心円模様の中央が恵那市の市章です。『市章は、昭和29年公募により決定したもの。 この市章は、図案化されたエナであり、太陽と飛翔する鳥を表現し、翼の6枚の羽は、合併した六つの市町村を表している』と紹介されていました。また市の花の『ササユリ(笹百合)』も描かれているようでした。

  • JR恵那駅前付近にあった『恵那峡』の観光案内のパネルの光景です。今回の旅行では、このパネルに記された『恵那峡グランドホテル』も宿泊場所の候補に挙がっていました。

    JR恵那駅前付近にあった『恵那峡』の観光案内のパネルの光景です。今回の旅行では、このパネルに記された『恵那峡グランドホテル』も宿泊場所の候補に挙がっていました。

  • 中央奥に見えているのが、『恵那山』のようです。『恵那山(えなさん)』は、長野県阿智村と岐阜県中津川市にまたがる、木曽山脈(中央アルプス)の最南端に位置する、標高2,191 メートルの山です。日本百名山および新・花の百名山に選定されています。北東にある富士見台高原の真下を、中央自動車道の恵那山トンネルが通り、北山麓には中山道の馬籠宿と妻籠宿があります。

    中央奥に見えているのが、『恵那山』のようです。『恵那山(えなさん)』は、長野県阿智村と岐阜県中津川市にまたがる、木曽山脈(中央アルプス)の最南端に位置する、標高2,191 メートルの山です。日本百名山および新・花の百名山に選定されています。北東にある富士見台高原の真下を、中央自動車道の恵那山トンネルが通り、北山麓には中山道の馬籠宿と妻籠宿があります。

  • 頂にかかる雲が張れた時の恵那山の光景です。先程とは、少し場所を変えての撮影だったようです。馬籠で生まれ育った島崎藤村(1872~1931年)が、幼少時代に眺めていた山であり、小説の『夜明け前』で描かれています。『夜明け前』が『中央公論』に連載され始めたのは、1929年(昭和4年)4月でした。古くは『胞衣山』と呼ばれ、『舟覆伏山(ふなふせやま)』の呼び名もあります。

    イチオシ

    頂にかかる雲が張れた時の恵那山の光景です。先程とは、少し場所を変えての撮影だったようです。馬籠で生まれ育った島崎藤村(1872~1931年)が、幼少時代に眺めていた山であり、小説の『夜明け前』で描かれています。『夜明け前』が『中央公論』に連載され始めたのは、1929年(昭和4年)4月でした。古くは『胞衣山』と呼ばれ、『舟覆伏山(ふなふせやま)』の呼び名もあります。

  • 平成10年(1998年)4月、岩村町の岩村本通りは商家の町並みとして、岐阜県で3番目、全国では48番目に国(文化庁)の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました。その説明看板の光景です。岩村の保存地区は、城下町の町家地区として形成された町の形態と近代の発展課程を伝える町家群が周辺の環境と一体となった東濃地方の商家町として、特色ある歴史的景観を良好に伝えています。

    平成10年(1998年)4月、岩村町の岩村本通りは商家の町並みとして、岐阜県で3番目、全国では48番目に国(文化庁)の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました。その説明看板の光景です。岩村の保存地区は、城下町の町家地区として形成された町の形態と近代の発展課程を伝える町家群が周辺の環境と一体となった東濃地方の商家町として、特色ある歴史的景観を良好に伝えています。

  • 『凡そ教は外よりして入り、工夫は内よりして出づ』の佐藤一斎の金言です。岩村ライオンズクラブが寄贈した、岩村城下町の案内図入りの石標でした。原文は『内よりして出づるは、必ず諸(こ)れを外に験(ため)し、外よりして入るは、当(まさ)に諸れを内に原(たず)ぬべし』と続きます。要約すれば、内外の知識や考えを検証することの大切さを教えているようです。幕末の哲人・佐藤一斎(1772~1859年)が著わした『言志後禄』の中の5条の金言です。一斎の門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがいます。

    『凡そ教は外よりして入り、工夫は内よりして出づ』の佐藤一斎の金言です。岩村ライオンズクラブが寄贈した、岩村城下町の案内図入りの石標でした。原文は『内よりして出づるは、必ず諸(こ)れを外に験(ため)し、外よりして入るは、当(まさ)に諸れを内に原(たず)ぬべし』と続きます。要約すれば、内外の知識や考えを検証することの大切さを教えているようです。幕末の哲人・佐藤一斎(1772~1859年)が著わした『言志後禄』の中の5条の金言です。一斎の門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがいます。

  • 石標に記された『身には老少有れども而も心には老少無し、気には老少有れども而も理には老少無し』の教えは、『須(すべから)く能く老少無きの心を執りて、以て老少無きの理を体すべし』と続きます。要約すれば、『万古に不変の老少の無い道理を体得しなくてはならない』ことの大切さを教えています。『言志四録』は、『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録(てつろく)』の全四巻を総称したものです。内容は学問、思想、人生観など多義にわたり、修養処世の心得が1133条にわたって書かれた随想録です。箴言(しんげん)集と呼んだ方が適切かもしれません。箴言の原語のメシャーリームは、『比喩』や『格言』の意を持ちます。『ソロモンの箴言』などが有名です。

    石標に記された『身には老少有れども而も心には老少無し、気には老少有れども而も理には老少無し』の教えは、『須(すべから)く能く老少無きの心を執りて、以て老少無きの理を体すべし』と続きます。要約すれば、『万古に不変の老少の無い道理を体得しなくてはならない』ことの大切さを教えています。『言志四録』は、『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録(てつろく)』の全四巻を総称したものです。内容は学問、思想、人生観など多義にわたり、修養処世の心得が1133条にわたって書かれた随想録です。箴言(しんげん)集と呼んだ方が適切かもしれません。箴言の原語のメシャーリームは、『比喩』や『格言』の意を持ちます。『ソロモンの箴言』などが有名です。

  • 岩村の観光案内所の出入口光景です。今回は立寄りませんでしたが、各種の資料が用意されていた記憶です。日本百名城巡りの時に、バスツアー以外にも、個人旅行でも立寄った記憶があります。入口に『岩村城』の表示がありました。建物の正式名称は、『ふれあいの館』のようでした。

    岩村の観光案内所の出入口光景です。今回は立寄りませんでしたが、各種の資料が用意されていた記憶です。日本百名城巡りの時に、バスツアー以外にも、個人旅行でも立寄った記憶があります。入口に『岩村城』の表示がありました。建物の正式名称は、『ふれあいの館』のようでした。

  • 『木村家住宅』のタイトルがあった説明看板の光景です。木村邸は江戸時代中期から末期に栄えた問屋で、藩の財政困窮のたびに御用金を調達してその危機を救いました。このため、藩主より特別な存在として認められ、藩主自身が幾度となくこの木村邸を訪れたといわれています。この話は専任のガイドさんからもお聞きしました。

    『木村家住宅』のタイトルがあった説明看板の光景です。木村邸は江戸時代中期から末期に栄えた問屋で、藩の財政困窮のたびに御用金を調達してその危機を救いました。このため、藩主より特別な存在として認められ、藩主自身が幾度となくこの木村邸を訪れたといわれています。この話は専任のガイドさんからもお聞きしました。

  • 『木村家住宅』の内部光景です。江戸時代当時、藩主が領民の家を訪れるなどということは異例なことだったとされます。藩主出入りの玄関・表通りに面した武者窓・上段の間・欄間・茶室は、江戸時代の町家としての様式を至る所に留めていて、城下町の歴史を偲ばせてくれます。写真は、問屋時代に番頭さん当たりの席があった場所かもしれません。『長火鉢』等の表示がありました。

    イチオシ

    『木村家住宅』の内部光景です。江戸時代当時、藩主が領民の家を訪れるなどということは異例なことだったとされます。藩主出入りの玄関・表通りに面した武者窓・上段の間・欄間・茶室は、江戸時代の町家としての様式を至る所に留めていて、城下町の歴史を偲ばせてくれます。写真は、問屋時代に番頭さん当たりの席があった場所かもしれません。『長火鉢』等の表示がありました。

  • 『木村家住宅』の内部光景の紹介が続きます。立派な金庫らしいものも置かれていました。木村家の先祖は、愛知県拳母(ころも:現・豊田市)の出身の藩士で、岩村藩に招聘されて、問屋職となり、初代・森重時代からから岩村藩の財政に寄与してきたことが表の看板にも記されていました。

    『木村家住宅』の内部光景の紹介が続きます。立派な金庫らしいものも置かれていました。木村家の先祖は、愛知県拳母(ころも:現・豊田市)の出身の藩士で、岩村藩に招聘されて、問屋職となり、初代・森重時代からから岩村藩の財政に寄与してきたことが表の看板にも記されていました。

  • 1階から見上げた、二階方面の光景です。明り取りの天井から光が射し込んでいました。木村家は、しばしば岩村藩の財政窮乏のとき御用金を才覚して救い、岩村藩駿河領(静岡県)の水害や西美濃領(大垣市他)の麦の凶作の時の救済事業に尽力し、天保5年(1834年)の江戸藩邸類焼の時は、復旧に多額の金品を用立てるなど歴史に残る事業の多くに活躍したとされます。

    1階から見上げた、二階方面の光景です。明り取りの天井から光が射し込んでいました。木村家は、しばしば岩村藩の財政窮乏のとき御用金を才覚して救い、岩村藩駿河領(静岡県)の水害や西美濃領(大垣市他)の麦の凶作の時の救済事業に尽力し、天保5年(1834年)の江戸藩邸類焼の時は、復旧に多額の金品を用立てるなど歴史に残る事業の多くに活躍したとされます。

  • かつての木村家の台所のようです。現在も展示用にお櫃などが並べられていました。木村家の代々の当主は、文化人との交流が多く、八橋売茶翁も当家に長く逗留し、八代目・知周は佐藤一斎とは特に交流が深く、知周の墓石の碑文は一斎先生が記しています。岩村藩主もしばしば当家を訪問していて、玄関、座敷、書院、庭等は木村家特有の文化と風流が今も生きています。これらは、後ほど紹介します。

    かつての木村家の台所のようです。現在も展示用にお櫃などが並べられていました。木村家の代々の当主は、文化人との交流が多く、八橋売茶翁も当家に長く逗留し、八代目・知周は佐藤一斎とは特に交流が深く、知周の墓石の碑文は一斎先生が記しています。岩村藩主もしばしば当家を訪問していて、玄関、座敷、書院、庭等は木村家特有の文化と風流が今も生きています。これらは、後ほど紹介します。

  • 囲炉裏端の光景です。『囲炉裏(いろり)』は、居炉裏とも表記され、『比多岐(ひたき)や『地火炉(ぢかろ)』とも呼ばれました。各地方にもそれぞれ異なる呼び名もあります。伝統的な日本家屋で、床を四角く切って開け灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のことです。主に暖房・調理目的に用い、数える際には『基』を用います。

    囲炉裏端の光景です。『囲炉裏(いろり)』は、居炉裏とも表記され、『比多岐(ひたき)や『地火炉(ぢかろ)』とも呼ばれました。各地方にもそれぞれ異なる呼び名もあります。伝統的な日本家屋で、床を四角く切って開け灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のことです。主に暖房・調理目的に用い、数える際には『基』を用います。

  • 土蔵などに用いられる、ナマコ壁(生子壁、海鼠壁)の光景です。日本伝統の壁塗りの様式の一つで、壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法です。目地の盛り上がった形がナマコ(海鼠)に似ていることからの呼び名です。潮風や台風などの自然災害に強く、土壁や板壁よりも耐火性に優れています。

    土蔵などに用いられる、ナマコ壁(生子壁、海鼠壁)の光景です。日本伝統の壁塗りの様式の一つで、壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法です。目地の盛り上がった形がナマコ(海鼠)に似ていることからの呼び名です。潮風や台風などの自然災害に強く、土壁や板壁よりも耐火性に優れています。

  • いまでは見かけることが少なくなった、人力で組み上げる井戸の光景です。井戸には覆いがしてありあ㎡したが、滑車や釣瓶(つるべ)は、見学用に残されていました。『釣瓶(つるべ)』は、『釣る瓶』とも表記されます。話は少し脱線しますが、人気落語家に『笑福亭鶴瓶(1951~)』さんがいますが、文字は違うものの『釣瓶』をイメージした芸名とされます。『鶴瓶』という高座名が付くまでの経緯については、1982年の著書などで本人が説明されています。

    いまでは見かけることが少なくなった、人力で組み上げる井戸の光景です。井戸には覆いがしてありあ㎡したが、滑車や釣瓶(つるべ)は、見学用に残されていました。『釣瓶(つるべ)』は、『釣る瓶』とも表記されます。話は少し脱線しますが、人気落語家に『笑福亭鶴瓶(1951~)』さんがいますが、文字は違うものの『釣瓶』をイメージした芸名とされます。『鶴瓶』という高座名が付くまでの経緯については、1982年の著書などで本人が説明されています。

  • 竹を半割か、四ツ割に割にしたものかと思いましたが、小さめの竹をそのまま編んだ覆いでした。その上に置かれていた1組の釣瓶の光景です。師匠の笑福亭松鶴から、『なんやお前は、井戸のつるべのタガが抜けたみたいなとこあるし、という理由で「鶴瓶」の名を与えられた』とする説と、『鶴之(つるゆき)』と『鶴瓶』の二つの名前から選ぶよう言われ、『鶴瓶』を選んだとする説があるようです。

    イチオシ

    竹を半割か、四ツ割に割にしたものかと思いましたが、小さめの竹をそのまま編んだ覆いでした。その上に置かれていた1組の釣瓶の光景です。師匠の笑福亭松鶴から、『なんやお前は、井戸のつるべのタガが抜けたみたいなとこあるし、という理由で「鶴瓶」の名を与えられた』とする説と、『鶴之(つるゆき)』と『鶴瓶』の二つの名前から選ぶよう言われ、『鶴瓶』を選んだとする説があるようです。

  • 『天正疎水』のタイトルがあった、岩村町教育委員会名の説明立札の光景です。『天正3年(1575年)、岩村へ入城した川尻秀隆は、城下町形成のために居住地を貫流する四本の水路開削を計画しました。これは、最も南側を流れる水路で、今日に至るまで生活疎水として、大きな役割を果たしてきた』、と解説されていました。

    『天正疎水』のタイトルがあった、岩村町教育委員会名の説明立札の光景です。『天正3年(1575年)、岩村へ入城した川尻秀隆は、城下町形成のために居住地を貫流する四本の水路開削を計画しました。これは、最も南側を流れる水路で、今日に至るまで生活疎水として、大きな役割を果たしてきた』、と解説されていました。

  • 屋敷内を流れる、かなりの水量があった『天正疎水』の光景です。先程の立札に記されていた、四本の水路のうち、一番南側の水路です。岩村川左岸を東から西へ通じる道路を中心に、左右それぞれ2本づつ、4本の水路が開削されました。

    屋敷内を流れる、かなりの水量があった『天正疎水』の光景です。先程の立札に記されていた、四本の水路のうち、一番南側の水路です。岩村川左岸を東から西へ通じる道路を中心に、左右それぞれ2本づつ、4本の水路が開削されました。

  • この屋敷を専門とする説明者の方がお見えになりましたので、運よく詳しい話を、私たちのグループだけでお聞きしながら、建物内部も見学することができました。手入れが行き届いた中庭の光景です。

    この屋敷を専門とする説明者の方がお見えになりましたので、運よく詳しい話を、私たちのグループだけでお聞きしながら、建物内部も見学することができました。手入れが行き届いた中庭の光景です。

  • 『数寄屋造り』の意匠部分のズームアップ光景です。数寄屋と呼ばれる茶室が出現したのは安土桃山時代であり、もとは小規模で、多くは四畳半以下の茶座敷を『数寄屋』と呼びました。座敷を荘厳する書院造が確立された時代でしたが、茶人たちは格式ばった意匠や豪華な装飾をきらい、そこで好まれたのが軽妙洒脱な数寄屋でした。

    『数寄屋造り』の意匠部分のズームアップ光景です。数寄屋と呼ばれる茶室が出現したのは安土桃山時代であり、もとは小規模で、多くは四畳半以下の茶座敷を『数寄屋』と呼びました。座敷を荘厳する書院造が確立された時代でしたが、茶人たちは格式ばった意匠や豪華な装飾をきらい、そこで好まれたのが軽妙洒脱な数寄屋でした。

  • 『数寄屋造り』の意匠が各所にあった建物の2階光景です。オーナーの方の好みで、各所に洒脱なデザインが採り入れられたと、案内の方から教えて戴きました。この後紹介する2階に登る木の階段一つにも、なにかと工夫が凝らされていました。室内には、各種の衣装や道具類も展示されていました。

    『数寄屋造り』の意匠が各所にあった建物の2階光景です。オーナーの方の好みで、各所に洒脱なデザインが採り入れられたと、案内の方から教えて戴きました。この後紹介する2階に登る木の階段一つにも、なにかと工夫が凝らされていました。室内には、各種の衣装や道具類も展示されていました。

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