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築地から明石町を散歩してきました。<br />明石町は、中央区築地の隣町で、今では聖路加国際病院関連の建物群が目立つていますが、江戸時代には大名の屋敷があった場所です。<br />また、明治期には外国人居留地になっていたので、この場所に教会が造られ、キリスト教系の学校も開設されました。<br />周辺に各学校の「発祥の地」の記念碑がたくさんありました。

築地周辺ぶらぶら散歩

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2019/09/28 - 2019/09/28

27位(同エリア1289件中)

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83

ローマ人

ローマ人さん

築地から明石町を散歩してきました。
明石町は、中央区築地の隣町で、今では聖路加国際病院関連の建物群が目立つていますが、江戸時代には大名の屋敷があった場所です。
また、明治期には外国人居留地になっていたので、この場所に教会が造られ、キリスト教系の学校も開設されました。
周辺に各学校の「発祥の地」の記念碑がたくさんありました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
5.0
交通
4.5
同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩

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  • 東京メトロ築地駅に到着。

    東京メトロ築地駅に到着。

  • 出口の目の前は、地下を東京メトロ日比谷線が走っている「新大橋通り」です。<br /><br />道路を右方向に進むと「築地場外市場」、「国立がん研究センター」、「朝日新聞本社屋」があります。<br />道路の向こうには「築地本願寺」の特徴的な建物がわずかに見えています。

    出口の目の前は、地下を東京メトロ日比谷線が走っている「新大橋通り」です。

    道路を右方向に進むと「築地場外市場」、「国立がん研究センター」、「朝日新聞本社屋」があります。
    道路の向こうには「築地本願寺」の特徴的な建物がわずかに見えています。

  • 「新大橋通り」を「新富町」方向に進み、途中で右折して「聖ルカ通り」に入ります。

    「新大橋通り」を「新富町」方向に進み、途中で右折して「聖ルカ通り」に入ります。

  • 「聖ルカ通り」を100メートルくらい進んだところにあるのが「暁橋」跡です。<br /><br />この場所は、現在は公園になっていますが、かつては築地川が流れていました。<br />「暁橋」は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興事業として1927年(昭和2年)3月に竣工し、長さが約31mあったそうです。<br />築地川が1971年(昭和46年)に埋め立てられた際に、橋は撤去され、その記念碑が建てられています。<br /><br />写真中央の青空が見えている方向に「築地本願寺」があります。

    「聖ルカ通り」を100メートルくらい進んだところにあるのが「暁橋」跡です。

    この場所は、現在は公園になっていますが、かつては築地川が流れていました。
    「暁橋」は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興事業として1927年(昭和2年)3月に竣工し、長さが約31mあったそうです。
    築地川が1971年(昭和46年)に埋め立てられた際に、橋は撤去され、その記念碑が建てられています。

    写真中央の青空が見えている方向に「築地本願寺」があります。

  • 「暁橋」跡にある交差点を渡ったところに、聖路加国際大学と聖路加国際病院旧館があります。<br /><br />「聖路加」は、「聖ロカ」とばかり思っていましたが、「聖ルカ」と呼ぶのが正しいそうです。

    「暁橋」跡にある交差点を渡ったところに、聖路加国際大学と聖路加国際病院旧館があります。

    「聖路加」は、「聖ロカ」とばかり思っていましたが、「聖ルカ」と呼ぶのが正しいそうです。

  • この敷地の一角に「都旧跡 浅野内匠頭邸跡」の石碑が建っています。

    この敷地の一角に「都旧跡 浅野内匠頭邸跡」の石碑が建っています。

  • この場所には、江戸時代に播州(現在の兵庫県)赤穂藩浅野家5万石の敷地8,500坪の広大な上屋敷がありました。<br /><br />播州赤穂藩3代当主の浅野内匠頭長矩は、歴史的事件として歌舞伎や人形浄瑠璃の演目「忠臣蔵(仮名手本忠臣蔵)」で有名です。

    この場所には、江戸時代に播州(現在の兵庫県)赤穂藩浅野家5万石の敷地8,500坪の広大な上屋敷がありました。

    播州赤穂藩3代当主の浅野内匠頭長矩は、歴史的事件として歌舞伎や人形浄瑠璃の演目「忠臣蔵(仮名手本忠臣蔵)」で有名です。

    浅野内匠頭邸跡 名所・史跡

  • 浅野内匠頭長矩は、1667年(寛文7年)にこの屋敷で生まれ、それから34年後の1701年(元禄14年)に、江戸城中松之廊下で吉良上野介に脇差(小刀)で斬り付ける「刃傷沙汰」を起こします。<br /><br />内匠頭は即日切腹、浅野家は御家断絶となり、この上屋敷も没収されました。<br />一方の吉良上野介は「処分なし」との裁断が、後日、「喧嘩両成敗」ではないかと批判を浴びることになります。<br /><br />「忠臣蔵」は、旧浅野家の家臣たちが主君の仇を討つために、翌年の元禄15年12月に本所(現在の東京都墨田区)の吉良邸に討ち入ったことを題材にしています。

    浅野内匠頭長矩は、1667年(寛文7年)にこの屋敷で生まれ、それから34年後の1701年(元禄14年)に、江戸城中松之廊下で吉良上野介に脇差(小刀)で斬り付ける「刃傷沙汰」を起こします。

    内匠頭は即日切腹、浅野家は御家断絶となり、この上屋敷も没収されました。
    一方の吉良上野介は「処分なし」との裁断が、後日、「喧嘩両成敗」ではないかと批判を浴びることになります。

    「忠臣蔵」は、旧浅野家の家臣たちが主君の仇を討つために、翌年の元禄15年12月に本所(現在の東京都墨田区)の吉良邸に討ち入ったことを題材にしています。

  • 「聖路加国際病院」の敷地に入ってみます。<br /><br />「聖路加国際病院」は、1902年(明治35年)に米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラー博士により設立された、キリスト教のプロテスタント系団体の日本聖公会につながる学校法人「聖路加国際大学」が運営する病院です。<br />名誉院長として、メディア出演や本の出版などで知られる日野原重明博士が就任していたことが知られています。

    「聖路加国際病院」の敷地に入ってみます。

    「聖路加国際病院」は、1902年(明治35年)に米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラー博士により設立された、キリスト教のプロテスタント系団体の日本聖公会につながる学校法人「聖路加国際大学」が運営する病院です。
    名誉院長として、メディア出演や本の出版などで知られる日野原重明博士が就任していたことが知られています。

  • 左の建物が本館、右の建物が新館、奥の高い建物が「聖路加タワー」です。<br />

    左の建物が本館、右の建物が新館、奥の高い建物が「聖路加タワー」です。

  • 「聖路加国際病院」旧館です。<br /><br />建築時の昭和初期には、かなりモダンな建物だったのでしょうね。

    「聖路加国際病院」旧館です。

    建築時の昭和初期には、かなりモダンな建物だったのでしょうね。

  • 旧館入口の右側のには、定礎石があります。<br /><br />徳川宗家16代当主の徳川家達の揮毫による「神の栄光と人類奉仕のため」との訳語が書かれています。<br /><br />礎石表面にある12の丸い穴は、太平洋戦争中に軍部より敵国との関係性を疑わせるので「文字を消せ」と強制されたために、仕方なく薄い石板を釘で打ち付けた跡なのだそうです。

    旧館入口の右側のには、定礎石があります。

    徳川宗家16代当主の徳川家達の揮毫による「神の栄光と人類奉仕のため」との訳語が書かれています。

    礎石表面にある12の丸い穴は、太平洋戦争中に軍部より敵国との関係性を疑わせるので「文字を消せ」と強制されたために、仕方なく薄い石板を釘で打ち付けた跡なのだそうです。

  • 敷地内に小さな洋館があります。

    敷地内に小さな洋館があります。

  • この建物は「トイスラー記念館」です。<br /><br />建物の手前には池も造られています。

    この建物は「トイスラー記念館」です。

    建物の手前には池も造られています。

    トイスラー記念館 名所・史跡

  • 「トイスラー記念館」は、1933年(昭和8年)隅田川畔の明石町19番地に「聖路加国際病院」の宣教師館として建設されました。<br />鉄筋コンクリート2階建て一部木造の西洋風住宅で、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物だったそうです。<br />1989年(平成元年)に解体工事が行われ、1998年(平成10年)3月にこの場所に移築復元されたのだそうです。<br /><br />建物の外観はハーフティンバー風の意匠で、外部に柱や梁などを表現した造りです。室内は伝統的なチューダー・ゴシック風のデザインで、1階玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装を持ち、階段廻りも特徴的なデザインです。<br />室内は伝統的なチューダー・ゴシック風のデザインで、1階玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装を持ち、階段廻りも特徴的なデザインだそうです。

    「トイスラー記念館」は、1933年(昭和8年)隅田川畔の明石町19番地に「聖路加国際病院」の宣教師館として建設されました。
    鉄筋コンクリート2階建て一部木造の西洋風住宅で、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物だったそうです。
    1989年(平成元年)に解体工事が行われ、1998年(平成10年)3月にこの場所に移築復元されたのだそうです。

    建物の外観はハーフティンバー風の意匠で、外部に柱や梁などを表現した造りです。室内は伝統的なチューダー・ゴシック風のデザインで、1階玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装を持ち、階段廻りも特徴的なデザインです。
    室内は伝統的なチューダー・ゴシック風のデザインで、1階玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装を持ち、階段廻りも特徴的なデザインだそうです。

  • 正面から見た「トイスラー記念館」です。

    正面から見た「トイスラー記念館」です。

  • 屋根付の玄関が特徴的です。

    屋根付の玄関が特徴的です。

  • ドアの上部に、英文で書かれた「トイスラー記念館」の銘板があります。

    ドアの上部に、英文で書かれた「トイスラー記念館」の銘板があります。

  • 「トイスラー記念館」入口前の向かって右側には、トイスラー博士の顕彰碑があります。

    「トイスラー記念館」入口前の向かって右側には、トイスラー博士の顕彰碑があります。

  • 「トイスラー記念館」入口前の向かって左側には、銘板と3つの石があります。

    「トイスラー記念館」入口前の向かって左側には、銘板と3つの石があります。

  • 銘板によれば、この3つの石は「アメリカ公使館跡石標」なのだそうです。<br /><br />アメリカ公使館は、初代公使ハリスにより1859年(安政6年)に現在の港区元麻布の善福寺に開設され、1874年(明治7年)「築地外国人居留地」内に公使館を新築したのだそうです。<br />1890年(明治23年)に、現在アメリカ大使館がある港区赤坂に移転しましたが、公使館跡地には「小松石」の石標が8個残されたそうです。<br />そのうちの3個がこの場所に設置されているのだそうです。<br /><br />石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されています。

    銘板によれば、この3つの石は「アメリカ公使館跡石標」なのだそうです。

    アメリカ公使館は、初代公使ハリスにより1859年(安政6年)に現在の港区元麻布の善福寺に開設され、1874年(明治7年)「築地外国人居留地」内に公使館を新築したのだそうです。
    1890年(明治23年)に、現在アメリカ大使館がある港区赤坂に移転しましたが、公使館跡地には「小松石」の石標が8個残されたそうです。
    そのうちの3個がこの場所に設置されているのだそうです。

    石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されています。

  • 「星」の石標です。

    「星」の石標です。

  • 「白頭鷲」の石標です。

    「白頭鷲」の石標です。

  • 「星条旗」の石標です。

    「星条旗」の石標です。

  • 最初の「聖路加国際病院」入口まで戻ってきました。

    最初の「聖路加国際病院」入口まで戻ってきました。

  • 「築地江戸前散歩」の案内図がありました。<br /><br />案内図に書かれている「歴史と文化の散歩道」を歩いてみます。

    「築地江戸前散歩」の案内図がありました。

    案内図に書かれている「歴史と文化の散歩道」を歩いてみます。

  • 案内図から直ぐの歩道の脇に「女子学院発祥の地」の記念碑があります。<br /><br />女子学院は、1870年(明治3年)にジュリア・カロゾルスにより築地居留地に設立されたA六番女学校に始まるキリスト教主義の学校です。<br />*女子学院HP(学校の沿革)より

    案内図から直ぐの歩道の脇に「女子学院発祥の地」の記念碑があります。

    女子学院は、1870年(明治3年)にジュリア・カロゾルスにより築地居留地に設立されたA六番女学校に始まるキリスト教主義の学校です。
    *女子学院HP(学校の沿革)より

    女子学院発祥の地 名所・史跡

  • この記念碑は、創立130周年記念事業として、前年の1999年(平成20年)に設置されました。<br /><br />実際の「発祥の地」は、旧築地居留地6番という別の場所だったのですが、その場所には既存の建物があるので、「学校法人聖路加看護学園」の厚意により敷地内のこの場所に設置されたのだそうです。

    この記念碑は、創立130周年記念事業として、前年の1999年(平成20年)に設置されました。

    実際の「発祥の地」は、旧築地居留地6番という別の場所だったのですが、その場所には既存の建物があるので、「学校法人聖路加看護学園」の厚意により敷地内のこの場所に設置されたのだそうです。

  • 「女子学院発祥の地」の記念碑の隣にあるのは、「聖路加」のシンボルマークです。

    「女子学院発祥の地」の記念碑の隣にあるのは、「聖路加」のシンボルマークです。

  • 「歴史と文化の散歩道」を進んで行くと、道路の右脇に「日本近代文化事始めの地」があります。<br />副題に「慶應義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」とあります。<br /><br />この場所には、江戸時代に豊前(現在の大分県)中津藩の江戸屋敷があり、中津藩医だった前野良沢が杉田玄白らと日本最初の本格的西洋解剖書「解体新書」(1774年(明和8年)に完成)のゆかりの地、また1858年(安政5年)に福沢諭吉が藩命により蘭学の福沢塾(後の慶応義塾)を開いた地でもあります。

    「歴史と文化の散歩道」を進んで行くと、道路の右脇に「日本近代文化事始めの地」があります。
    副題に「慶應義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」とあります。

    この場所には、江戸時代に豊前(現在の大分県)中津藩の江戸屋敷があり、中津藩医だった前野良沢が杉田玄白らと日本最初の本格的西洋解剖書「解体新書」(1774年(明和8年)に完成)のゆかりの地、また1858年(安政5年)に福沢諭吉が藩命により蘭学の福沢塾(後の慶応義塾)を開いた地でもあります。

    日本近代文化事始の地 名所・史跡

  • こちらは「慶應義塾発祥の地」の記念碑です。<br /><br />1958年(昭和33年)、創立100年を記念して建てられました。<br />上に載った本を開いた形をした石には、「学問のすすめ」の一節「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」が刻まれています。<br />

    こちらは「慶應義塾発祥の地」の記念碑です。

    1958年(昭和33年)、創立100年を記念して建てられました。
    上に載った本を開いた形をした石には、「学問のすすめ」の一節「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」が刻まれています。

  • こちらは「蘭学の泉はここに」の記念碑です。<br /><br />記念碑には、「解体新書」の絵図が刻まれています。

    こちらは「蘭学の泉はここに」の記念碑です。

    記念碑には、「解体新書」の絵図が刻まれています。

  • 「歴史と文化の散歩道」を外れて、「聖路加国際病院」の旧館と新館の間の「居留地中央通り」を進むと、旧館の敷地内にU字を逆さにしたような黒い石碑がありました。

    「歴史と文化の散歩道」を外れて、「聖路加国際病院」の旧館と新館の間の「居留地中央通り」を進むと、旧館の敷地内にU字を逆さにしたような黒い石碑がありました。

  • これは「立教学院発祥の地」の記念碑です。<br /><br />1874年(明治7年)、この場所で「立教大学」の前身となる私塾「立教学校」がアメリカ聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教により開校されたのだそうです。<br />「立教大学」は大正7年に池袋へ移転するまで、この地にあったそうです。

    これは「立教学院発祥の地」の記念碑です。

    1874年(明治7年)、この場所で「立教大学」の前身となる私塾「立教学校」がアメリカ聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教により開校されたのだそうです。
    「立教大学」は大正7年に池袋へ移転するまで、この地にあったそうです。

    立教学院発祥の地 名所・史跡

  • 「立教学院発祥の地」にほど近い、歩道の脇にあるのが「立教女学院築地居留地校舎跡(1882-1923)記念碑」です。<br />

    「立教学院発祥の地」にほど近い、歩道の脇にあるのが「立教女学院築地居留地校舎跡(1882-1923)記念碑」です。

    立教女学院 築地居留地 校舎跡記念碑 名所・史跡

  • この記念碑は、2007年(平成19年)11月、学院創立130周年を記念して建てられました。

    この記念碑は、2007年(平成19年)11月、学院創立130周年を記念して建てられました。

  • 立教女学院は、1877年(明治10年)キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣された宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教によって湯島に創立されました。<br />そして、1882年(明治15年)に、この「築地外国人居留地」に移転して、新校舎を建設し、関東大震災までこの地にありました。

    立教女学院は、1877年(明治10年)キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣された宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教によって湯島に創立されました。
    そして、1882年(明治15年)に、この「築地外国人居留地」に移転して、新校舎を建設し、関東大震災までこの地にありました。

  • 右手に「聖路加国際病院」の新館と「聖路加タワー」を見ながら「居留地中央通り」を進みます。

    右手に「聖路加国際病院」の新館と「聖路加タワー」を見ながら「居留地中央通り」を進みます。

  • 正面左に見えてきたのが区立「明石小学校」です。

    正面左に見えてきたのが区立「明石小学校」です。

  • 「明石小学校」前の交差点の一角に、この地が「築地外国人居留地跡」であることを示すものが設置されています。<br /><br />まず目に付くのが「ガス街灯」です。<br />この「ガス街灯」の柱は、コリント風の様式で上部にある左右20センチメートルの腕金や下部に施された帯状の繰り形など特徴的な装飾がみられる鋳鉄製のもので、明治末期ころの「ガス街灯」のもの推定されているそうです。<br /><br />また、ベンチの後ろの「レンガ」は、「イギリス積み」で積まれた「築地外国人居留地時代」のレンガ塀遺構を移設したものだそうです。<br /><br />

    「明石小学校」前の交差点の一角に、この地が「築地外国人居留地跡」であることを示すものが設置されています。

    まず目に付くのが「ガス街灯」です。
    この「ガス街灯」の柱は、コリント風の様式で上部にある左右20センチメートルの腕金や下部に施された帯状の繰り形など特徴的な装飾がみられる鋳鉄製のもので、明治末期ころの「ガス街灯」のもの推定されているそうです。

    また、ベンチの後ろの「レンガ」は、「イギリス積み」で積まれた「築地外国人居留地時代」のレンガ塀遺構を移設したものだそうです。

  • これは、「築地外国人居留地跡」の案内板です。<br /><br />「築地外国人居留地」は、商館が多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていたそうです。<br /><br />1868年(明治元年)11月19日に設定さた「築地外国人居留地」は、1899年(明治32年)に廃止されるまで、文教地区として日本の近代化に多大な影響を与えた一角を形成していたのだそうです。

    これは、「築地外国人居留地跡」の案内板です。

    「築地外国人居留地」は、商館が多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていたそうです。

    1868年(明治元年)11月19日に設定さた「築地外国人居留地」は、1899年(明治32年)に廃止されるまで、文教地区として日本の近代化に多大な影響を与えた一角を形成していたのだそうです。

  • 「ガス灯」の下には、石のベンチが設置されています。

    「ガス灯」の下には、石のベンチが設置されています。

  • ベンチの座面に使われている石は、校舎を立て直した際に、大正16年に建設された「明石小学校」の旧校舎に使われていた花崗岩を再利用したものだそうです。

    ベンチの座面に使われている石は、校舎を立て直した際に、大正16年に建設された「明石小学校」の旧校舎に使われていた花崗岩を再利用したものだそうです。

  • 「明石小学校」の重厚な校舎です。

    「明石小学校」の重厚な校舎です。

  • 小学校と幼稚園が併設されています。

    小学校と幼稚園が併設されています。

  • 「明石小学校」の入口です。<br /><br />ステンドグラスが使われています。

    「明石小学校」の入口です。

    ステンドグラスが使われています。

  • 入口の上部には「明石小学校」の校章が掲げられています。

    入口の上部には「明石小学校」の校章が掲げられています。

  • 「居留地中央通り」を挟んで「明石小学校」の反対側に、「カトリック築地教会」があります。<br /><br />この教会の聖堂は、古代ギリシアの「ドーリア様式」神殿を忠実に模して造られているそうです。

    「居留地中央通り」を挟んで「明石小学校」の反対側に、「カトリック築地教会」があります。

    この教会の聖堂は、古代ギリシアの「ドーリア様式」神殿を忠実に模して造られているそうです。

  • 聖堂は、今年12月まで耐震化工事を行っているとのことで、防護幕で覆われています。<br /><br />門柱は、組になった渦巻き飾りが特徴の「イオニア様式」ですね。

    聖堂は、今年12月まで耐震化工事を行っているとのことで、防護幕で覆われています。

    門柱は、組になった渦巻き飾りが特徴の「イオニア様式」ですね。

    カトリック築地教会 寺・神社・教会

  • 「カトリック築地教会」は、1871年(明治4年)にパリ外国宣教会のマラン神父が鉄砲洲の稲荷橋付近に開いた「稲荷橋教会」がその前身とされ、1874年(明治7年)、築地外国人居留地三十五番・三十六番のこの地に司祭堂と聖堂を立てたのだそうです。<br /><br />1878年(明治11年)には、「ゴシック様式」の聖堂が建てられますが、関東大震災で焼失し、1927年(昭和2年)に「ドーリア様式」神殿を模した現在の建物に再建されたのだそうです。

    「カトリック築地教会」は、1871年(明治4年)にパリ外国宣教会のマラン神父が鉄砲洲の稲荷橋付近に開いた「稲荷橋教会」がその前身とされ、1874年(明治7年)、築地外国人居留地三十五番・三十六番のこの地に司祭堂と聖堂を立てたのだそうです。

    1878年(明治11年)には、「ゴシック様式」の聖堂が建てられますが、関東大震災で焼失し、1927年(昭和2年)に「ドーリア様式」神殿を模した現在の建物に再建されたのだそうです。

  • 残念ながら、工事中のために「ドーリア様式」神殿の建物全体を見ることはできませんでしたが、少しだけですが、ドーリア式の「荘重」な柱を見ることが出来ました。<br />

    残念ながら、工事中のために「ドーリア様式」神殿の建物全体を見ることはできませんでしたが、少しだけですが、ドーリア式の「荘重」な柱を見ることが出来ました。

  • 「カトリック築地教会」前の歩道脇には「暁星学園発祥の地」の記念碑があります。

    「カトリック築地教会」前の歩道脇には「暁星学園発祥の地」の記念碑があります。

    暁星学園発祥の地 名所・史跡

  • 1888年(明治21年)、 カトリック修道会・マリア会の神父等が、「カトリック築地教会(当時は築地司教座聖堂)」で小規模の学校を設立したのが始まりだそうです。<br /> 

    1888年(明治21年)、 カトリック修道会・マリア会の神父等が、「カトリック築地教会(当時は築地司教座聖堂)」で小規模の学校を設立したのが始まりだそうです。
     

  • 記念碑の上部には、「マタイ福音書」の一節が刻まれています。

    記念碑の上部には、「マタイ福音書」の一節が刻まれています。

  • 「明石小学校」から望む「聖路加国際病院」新館と「聖路加タワー」です。<br /><br />逆光です。

    「明石小学校」から望む「聖路加国際病院」新館と「聖路加タワー」です。

    逆光です。

  • 「明石小学校」から望む「聖路加国際病院」旧館です。

    「明石小学校」から望む「聖路加国際病院」旧館です。

  • 屋上の「十字架」が印象的です。

    屋上の「十字架」が印象的です。

  • 下の方の屋根にも「十字架」があります。<br /><br />この十字架は、太平洋戦争中に軍部に強制されて切断されていたのだそうです。<br />旧館の入口にあった定礎石と一緒ですね。

    下の方の屋根にも「十字架」があります。

    この十字架は、太平洋戦争中に軍部に強制されて切断されていたのだそうです。
    旧館の入口にあった定礎石と一緒ですね。

  • 「聖ルカ通り」に戻り、再び「歴史と文化の散歩道」を歩きます。<br /><br />写真は「聖路加国際病院」旧館の裏側です。<br /><br /><br />

    「聖ルカ通り」に戻り、再び「歴史と文化の散歩道」を歩きます。

    写真は「聖路加国際病院」旧館の裏側です。


  • 「歴史と文化の散歩道」を進み、「聖路加国際病院」新館を通り過ぎると「聖路加タワー」があります。<br /><br />「聖路加タワー」は、47階建て(左側)と38階建て(右側)の高低差がある特徴的なデザインのツインタワー構造になっています。<br />建物のすぐ後ろは「隅田川」です。<br /><br />47階建ての棟の3・4階には予防医療センターがあり、その上部はオフィスフロアとして賃貸されていて、38階建ての棟は、下から約4分の3は医療介護付き居住施設の「聖路加レジデンス」で、約4分の1の最上部にはホテル「銀座クレストン」が入居しています。

    「歴史と文化の散歩道」を進み、「聖路加国際病院」新館を通り過ぎると「聖路加タワー」があります。

    「聖路加タワー」は、47階建て(左側)と38階建て(右側)の高低差がある特徴的なデザインのツインタワー構造になっています。
    建物のすぐ後ろは「隅田川」です。

    47階建ての棟の3・4階には予防医療センターがあり、その上部はオフィスフロアとして賃貸されていて、38階建ての棟は、下から約4分の3は医療介護付き居住施設の「聖路加レジデンス」で、約4分の1の最上部にはホテル「銀座クレストン」が入居しています。

  • 38階建ての棟があるこの場所は、かつてアメリカ合衆国の公使館があった場所だそうです。

    38階建ての棟があるこの場所は、かつてアメリカ合衆国の公使館があった場所だそうです。

  • 「トイスラー記念館」の前に置かれたていた石標は、元はここに置かれていたんですね。

    「トイスラー記念館」の前に置かれたていた石標は、元はここに置かれていたんですね。

  • 「歴史と文化の散歩道」を進んで行きます。<br /><br />進行方向右側の風景です。<br />多分、この写真の奥にある建物辺りに、「女子学院発祥の地」の「A六番」の建物があったと思われます。<br />建物の更に奥は墨田川です。

    「歴史と文化の散歩道」を進んで行きます。

    進行方向右側の風景です。
    多分、この写真の奥にある建物辺りに、「女子学院発祥の地」の「A六番」の建物があったと思われます。
    建物の更に奥は墨田川です。

  • 手前の建物の1階には、老舗の和菓子店「塩瀬総本家」の本店がありました。<br />饅頭がおいしいと評判です。<br /><br />1349年(貞和5年)、奈良で創業し、徳川家康の江戸開府と同時期に江戸に移り商売を始めたのだそうです。

    手前の建物の1階には、老舗の和菓子店「塩瀬総本家」の本店がありました。
    饅頭がおいしいと評判です。

    1349年(貞和5年)、奈良で創業し、徳川家康の江戸開府と同時期に江戸に移り商売を始めたのだそうです。

    塩瀬総本家 本店 グルメ・レストラン

  • 「歴史と文化の散歩道」を更に進んで行くと、歩道の傍らに隠れた、四角錘のような特徴的な石碑が見えてきました。

    「歴史と文化の散歩道」を更に進んで行くと、歩道の傍らに隠れた、四角錘のような特徴的な石碑が見えてきました。

  • これは「女子聖学院発祥の地」の記念碑です。<br /><br />「女子聖学院」は、1905年(明治38年)にアメリカのプロテスタント教派ディサイプルス・オブ・クライスト派から日本に派遣されていた女性宣教師、バーサ・F・クローソンにより「女子聖学院」神学部として「築地外国人居留地」で設立され、1907年(明治40年)に北区中里に移転しました。

    これは「女子聖学院発祥の地」の記念碑です。

    「女子聖学院」は、1905年(明治38年)にアメリカのプロテスタント教派ディサイプルス・オブ・クライスト派から日本に派遣されていた女性宣教師、バーサ・F・クローソンにより「女子聖学院」神学部として「築地外国人居留地」で設立され、1907年(明治40年)に北区中里に移転しました。

    女子聖学院発祥の地 名所・史跡

  • 更に進むと、歩道の左側に石碑があります。

    更に進むと、歩道の左側に石碑があります。

  • これは「青山学院記念の地」の記念碑です。

    これは「青山学院記念の地」の記念碑です。

    青山学院記念の地 名所・史跡

  • 「青山学院」は、米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としています。<br /><br />1874年(明治7年)、ドーラ・E・スクーンメーカーによって麻布に創設された「女子小学校」が「救世学校」を経て、1877年(明治10年)に「築地外国人居留地」に移転してきて「海岸女学校」と改称して「青山学院」の基礎となったのだそうです。

    「青山学院」は、米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としています。

    1874年(明治7年)、ドーラ・E・スクーンメーカーによって麻布に創設された「女子小学校」が「救世学校」を経て、1877年(明治10年)に「築地外国人居留地」に移転してきて「海岸女学校」と改称して「青山学院」の基礎となったのだそうです。

  • 「青山学院記念の地」の記念碑の少し先にあるのが「佃大橋」です。<br /><br />「歴史と文化の散歩道」は、橋の下の道路を渡って右に曲がっています。

    「青山学院記念の地」の記念碑の少し先にあるのが「佃大橋」です。

    「歴史と文化の散歩道」は、橋の下の道路を渡って右に曲がっています。

  • 道路の突き当りは墨田川で、「佃大橋」の歩道に上がる階段があります。<br /><br />「歴史と文化の散歩道」は、この階段を上がって「佃大橋」の対岸まで続いています。<br />

    道路の突き当りは墨田川で、「佃大橋」の歩道に上がる階段があります。

    「歴史と文化の散歩道」は、この階段を上がって「佃大橋」の対岸まで続いています。

  • ここには「佃島渡船」の石碑があります。

    ここには「佃島渡船」の石碑があります。

    佃島渡船の碑 名所・史跡

  • 「佃大橋」が架かっていなかった頃は、ここが渡船場だったとのことです。<br /><br />石碑は、1927年(昭和2年)に「手漕ぎ渡船」を廃止した記念として建立刺されたのだそうです。<br />「佃島渡船」は1964年(昭和39年)8月の「佃大橋」の完成によって廃止されました。

    「佃大橋」が架かっていなかった頃は、ここが渡船場だったとのことです。

    石碑は、1927年(昭和2年)に「手漕ぎ渡船」を廃止した記念として建立刺されたのだそうです。
    「佃島渡船」は1964年(昭和39年)8月の「佃大橋」の完成によって廃止されました。

  • 墨田川の堤防に上がってみると、そこは「墨田川テラス」です。<br /><br />墨田川の向こうは、「佃大橋」の左側が「佃」、右側が「月島」です。

    墨田川の堤防に上がってみると、そこは「墨田川テラス」です。

    墨田川の向こうは、「佃大橋」の左側が「佃」、右側が「月島」です。

  • 「佃大橋」と反対側を見ると、「大川端リバーシティ21」の超高層ビル群と「中央大橋」が見えます。<br /><br />いい眺めです。

    「佃大橋」と反対側を見ると、「大川端リバーシティ21」の超高層ビル群と「中央大橋」が見えます。

    いい眺めです。

  • 「居留地中央通り」に戻ってきました。<br /><br />マンションの敷地の一部に「ガス街灯」が置かれています。

    「居留地中央通り」に戻ってきました。

    マンションの敷地の一部に「ガス街灯」が置かれています。

  • 高さ3.4メートルで鋳鉄製のこの「ガス街灯」の柱は、以前この場所に在った「中央区立第二中学校」に設置されていたものだそうです。<br /><br />台座の石も、かつて「中央区立第二中学校」の階段で使われていた「白御影石」なのだそうです。

    高さ3.4メートルで鋳鉄製のこの「ガス街灯」の柱は、以前この場所に在った「中央区立第二中学校」に設置されていたものだそうです。

    台座の石も、かつて「中央区立第二中学校」の階段で使われていた「白御影石」なのだそうです。

  • 「居留地中央通り」を「明石小学校」に向かって更に進んで行くと、「ハート」のような可愛らしい形をした石碑が見えてきました。

    「居留地中央通り」を「明石小学校」に向かって更に進んで行くと、「ハート」のような可愛らしい形をした石碑が見えてきました。

  • これは「雙葉学園発祥の地」の記念碑です。<br /><br />1872(明治5)年 サンモール修道会(”幼きイエス会”の前身)の宣教師がフランスより来日し, 横浜で布教と教育慈善活動を開始。 1875(明治8)年に、この地に雙葉学園の前身の「築地語学校」を開校したのだそうです。

    これは「雙葉学園発祥の地」の記念碑です。

    1872(明治5)年 サンモール修道会(”幼きイエス会”の前身)の宣教師がフランスより来日し, 横浜で布教と教育慈善活動を開始。 1875(明治8)年に、この地に雙葉学園の前身の「築地語学校」を開校したのだそうです。

  • 「雙葉学園」の「雙葉」は,“ふたば葵”という植物の名から採ったということで、記念碑のデザインは「ハート」ではなく「双葉」だったんですね。<br /><br />記念碑には、フランス語で「SIMPLE DANS MA VERTU FORTE DANS MON DEVOIR Berceau de Futaba1909」と、日本語で「徳に於ては純真に 義務に於ては堅実に 雙葉学園発祥の地 明治四十二年」と刻まれています。<br /><br /> 1909年(明治42年)は、「雙葉高等女学校」がこの地で創設された年のようです。

    「雙葉学園」の「雙葉」は,“ふたば葵”という植物の名から採ったということで、記念碑のデザインは「ハート」ではなく「双葉」だったんですね。

    記念碑には、フランス語で「SIMPLE DANS MA VERTU FORTE DANS MON DEVOIR Berceau de Futaba1909」と、日本語で「徳に於ては純真に 義務に於ては堅実に 雙葉学園発祥の地 明治四十二年」と刻まれています。

    1909年(明治42年)は、「雙葉高等女学校」がこの地で創設された年のようです。

    雙葉学園発祥の地 名所・史跡

  • 更に進んだ「明石小学校」にほど近い場所に、茶色の石碑があります。<br /><br />これは「東京中学院発祥の地」の石碑です。<br />2009年(平成21年)に、学校法人「関東学院」の創立125周年記念として建立てられたそうです。

    更に進んだ「明石小学校」にほど近い場所に、茶色の石碑があります。

    これは「東京中学院発祥の地」の石碑です。
    2009年(平成21年)に、学校法人「関東学院」の創立125周年記念として建立てられたそうです。

    東京中学院発祥の地 名所・史跡

  • 碑面に「1895年9月10日,ここ築地居留地42,42番地で 米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立した。関東学院教育の源流はここに発する」と刻まれています。<br /><br />側面には「人になれ 奉仕せよ」とあります。<br />「東京中学院」は、 アメリカのバプテスト(キリスト教プロテスタントの一教派)が設立した男子校で,1895年(明治28年)に開校し、1899年(明治32年)に新宿区市谷左内町に移転するまでこの場所にあったのだそうです。

    碑面に「1895年9月10日,ここ築地居留地42,42番地で 米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立した。関東学院教育の源流はここに発する」と刻まれています。

    側面には「人になれ 奉仕せよ」とあります。
    「東京中学院」は、 アメリカのバプテスト(キリスト教プロテスタントの一教派)が設立した男子校で,1895年(明治28年)に開校し、1899年(明治32年)に新宿区市谷左内町に移転するまでこの場所にあったのだそうです。

  • ぶらぶら散歩を終えて、東京メトロ築地駅の近くまで戻ってきました。<br /><br />昼食を、立ち食いの「すし兆」でいただきます。<br />ちょうどお昼時ということもあって、混んでいましたが40分くらい待って入ることができました。<br />この店はネタが新鮮でとても美味しいので、立ち食いでも、待ってでも食べたいと私は思っています。<br />今日も美味しくて満足しました。<br /><br />ここまでご覧いただきありがとうございました。

    ぶらぶら散歩を終えて、東京メトロ築地駅の近くまで戻ってきました。

    昼食を、立ち食いの「すし兆」でいただきます。
    ちょうどお昼時ということもあって、混んでいましたが40分くらい待って入ることができました。
    この店はネタが新鮮でとても美味しいので、立ち食いでも、待ってでも食べたいと私は思っています。
    今日も美味しくて満足しました。

    ここまでご覧いただきありがとうございました。

    築地 すし兆 グルメ・レストラン

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