2018/05/04 - 2018/05/04
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旅人のくまさんさん
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兵庫の日本百名城の篠山城と、その城下町を見学した後、次は京都の続日本百名城の福知山城です。日帰り旅行で2箇所を計画しました。戦国時代、畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じ、丹波国を平定した光秀は篠山城を築きました。
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル
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JR福知山線の篠山口駅から、乗換なしでやって来た福知山駅です。駅の数は九つだけで、あっという間に到着しました。駅からは、城下町跡を歩いて福知山城に向かいました。こちらも分かり易いほぼ1本道でした。福知山城は、1579年に丹波を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主としました。明智秀満は、異説に従弟(明智光安の子)ともされますが、真偽のほどは分かりません。
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市街化した、城下町跡の光景です。この後、福知山城にかかわりが深い、明智光秀(生年不詳~1582年)について紹介しておきます。光秀は、織田信長に見出されて重臣に取り立てられましたが、本能寺の変を起こして主君を自害させました。直後に中国大返しにより戻った羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れました。信長を討ってから僅か13日後に亡くなり、『3日天下』とも呼ばれます。
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市街化した城下町跡の街並み光景です。光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流の明智氏の出身です。通称は十兵衛、雅号は咲庵(しょうあん)、官途は日向守です。朝廷から惟任(これとう)の姓を賜り、『惟任光秀』とも呼ばれます。妻は妻木煕子、子には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)等がいます。 光秀の紹介は、一旦保留します。
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『ヤマボウシ(山法師)』
ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属
原産地:日本・中国・朝鮮半島
花期:5月~7月
その他:よく似たハナミズキは、アメリカからの外来種です。 -
『ヤマボウシ(山法師)』
ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属
原産地:日本・中国・朝鮮半島
花期:5月~7月
その他:よく似たハナミズキは、アメリカからの外来種です。 -
イチオシ
『ツツジ(躑躅)』
ツツジ科ツツジ属
分布:主にアジアに広く分布
花期:春
その他:最も樹齢の古い古木は、800年を超え1,000年に及ぶようです。 -
『ツツジ(躑躅)』
ツツジ科ツツジ属
分布:主にアジアに広く分布
花期:春
その他:別株らしい、白い花のツツジも交じっていました。 -
『海の京都』や『お城とスイーツの街・福知山』のキャッチフレーズが記された、まだ新しい立看板の光景です。ネット検索してみましたら、『城下町として栄えた福知山には、昔からある和菓子だけでなく、おいしい洋菓子店もたくさんあります』として、色々な有名店や、人気のスイーツが紹介されていました。
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福知山市役所の市庁舎光景です。福知山市は、人口7万7千人ほどの中堅都市です。明智光秀の紹介に戻ります。領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もあります。江戸時代の文楽『絵本太功記』や歌舞伎『時桔梗出世請状』をはじめ、後世、小説・映画・TVドラマなど、様々に取り上げられてきました。
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本通りから眺めた、脇道の光景です。光秀の生年は、信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳とされます。ただし、後世の史料によるものとして、江戸時代中期の『明智軍記』等による『享禄元年(1528年)説、江戸時代初期の寛永年間の『当代記』による永正13年(1516年)説や、『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から天文9年(1540年)以降とする説もあります。
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アパートのような建物越しに見えてきた篠山城の天守です。生地にも諸説あります。岐阜県可児市広見・瀬田(旧・明智荘)の明智城とする説、近江国出生説、岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説等を含めて、出生地とされる地域は6箇所あります。青年期の履歴にも不明な点が多くあります。
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林の先に姿を現してきた、篠山城の天守光景です。光秀は、美濃国の守護・土岐氏の一族で、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされます。その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えました。これには、傍証となる書状が残されています。
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福知山市のマンホール蓋の紹介です。右上に福知山城、下にデカンショ踊りが描かれたデザインでした。デカンショ踊りは、『デカンショデカンショで半年暮らす
あとの半年寝て暮らす』などの歌詞も全国的に有名です。篠山城の見学の後で、城下町の博物館で、デカンショに関する展示も目にしました。 -
通路脇の石垣ですが、立派な切込み接ぎの石積でした。光秀の話に戻ります。足利義昭は永禄11年6月(1568年7月:『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請しました。2回目の使者も細川藤孝でしたが、信長への仲介者として光秀が史料に纏まった形で初めて登場します。
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福知山城の関連施設らしい建物が見えてきました。『細川家記』には、『信長の室家に縁があってしきりに誘われたが、大祿を与えようと言われたので、かえって躊躇している』と紹介しています。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘しています。
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天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や興福寺多聞院主の英俊の『多聞院日記』には、『光秀は元は細川藤孝に仕える足軽・中間であった』と記していますが、これは両者の地位に大きな差があったということで、当時には何らかの上下関係があったようです。
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光秀の信長への仕官の初祿は、『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としています。これは雑兵ら約百人を率いて10騎位で闘う騎馬(うまのり)の身分とされ、通説となってきました。しかし、信長公記等を著した、太田牛一の『太田牛一旧記』では、『朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて』と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣と記述しています。
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『福知山城』のタイトルがあった説明看板の光景です。内容は『福知山市強度資料館へのご案内』でした。その後光秀は、義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11年9月(1568年10月)の義昭の上洛に加わりました。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)があり、防戦する義昭側に光秀もいて、『信長公記』への初出となります。
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光秀は、永禄12年(1569年)4月頃から、木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行ったようです。同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突し、信長が突如として岐阜に戻ってしまいました。そして永禄13年(1570年)正月、信長は義昭の権限を規制する『殿中御掟』を通告しました。
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『殿中御掟』の宛先は、光秀と日蓮宗の朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返しています。同日、信長名で『禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ』との触れが全国の大名に出されました。続いて同年3月(1570年4月)、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられました。
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元亀元年4月(1570年6月)、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際、池田勝正隊3000人を主力に、秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功しました。元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣しました。
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イチオシ
天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役だった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、同年6月(1582年6月)早朝に出陣しました。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれます。軍勢には『森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ』として京都へ向かったとされます。一旦、光秀の紹介は終了します。
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『城壁の光と影を知る桔梗 八重』の文字が記された俳句紹介の立札です。この俳句の詠み人も時期も分かりませんでしたが、『キキョウ(桔梗)』は明智家の家紋ですから、推測ですが光秀を例えた現代か近代の俳句のようです。
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『福知山城』のタイトルがあった、福知山市が設置した説明看板の光景です。『 城郭研究の権威、東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の復元設計による二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守閣の様式をよく表わしています』等の説明文がありました。
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イチオシ
福知山城の天守光景です。城郭構造は『連郭式平山城』に分類され、昭和61年(1986年)に外観復元された天守は、『複合・連結式望楼型』です。元禄12年(1699年)の築城時の姿を再建したもののようです。
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横から眺めた、『銅門(あかがねもん)番所』の建物光景です。一時期、天守台に置かれていたようですが、天守の再建に伴い、現在地に移されたようです。
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『福知山城石垣の転用石』のタイトルがあった説明立札の光景です。五輪塔、宝篋印塔をはじめ、石仏、石臼、灯篭などが転用石として使われ、再建時の発掘調査で、500個余りが使用されていたことが紹介されていました。
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福知山城石垣の転用石の展示光景です。五輪塔や宝篋印塔などがたくさん転用されたようです。この展示は、石垣再建時に利用できなかった部分が纏められたものかも知れません。
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福知山城石垣の転用石の展示光景です。転用石が多く使われた石垣としては、この福知山城のほかに、奈良県の大和郡山城の例が、先ほどの説明立札に紹介されていました。大和郡山城では、平城京の羅城門の礎石らしいものが確認されています。
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かなり年月が経った石碑の光景です。とりあえず撮影し、あとで読み取る積もりでしたが、当てが外れてしまいました。断片的に『寄(?)國祝』、『開け道』、『の元(之)』などが読み取れただけでした。
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