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兵庫と京都の名城巡りです。兵庫の日本百名城の篠山城と、京都の続日本百名城の福知山城を、日帰りでi巡りました。往きは大阪経由で篠山へ、帰りは福知山から京都経由で名古屋に戻りました。

2018春、兵庫と京都の日本・続日本百名城(1/14):篠山城(1):名古屋から篠山口へ、内堀

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2018/05/04 - 2018/05/04

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旅行記グループ 2018年、近畿の百名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

兵庫と京都の名城巡りです。兵庫の日本百名城の篠山城と、京都の続日本百名城の福知山城を、日帰りでi巡りました。往きは大阪経由で篠山へ、帰りは福知山から京都経由で名古屋に戻りました。

交通手段
タクシー 新幹線 JR特急

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  • 域は名古屋から大阪までは新幹線、大坂で福知山線に乗り換えて篠山口までやって来ました。内堀の手前にあった、史跡・篠山城の石標の光景です。篠山城は、篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に、1609年(慶長14年)に徳川家康によって築かれた平山城です。家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じました。

    イチオシ

    域は名古屋から大阪までは新幹線、大坂で福知山線に乗り換えて篠山口までやって来ました。内堀の手前にあった、史跡・篠山城の石標の光景です。篠山城は、篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に、1609年(慶長14年)に徳川家康によって築かれた平山城です。家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じました。

  • 石標の横にあった、『国指定史跡・篠山城址』のタイトルの説明看板のズームアップ光景です。右の図面は二重の堀に囲まれた縄張り図です。外堀の部分に3箇所の馬出しが記されていました。篠山城は、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名の抑えとするのが一番の目的だったようです。

    石標の横にあった、『国指定史跡・篠山城址』のタイトルの説明看板のズームアップ光景です。右の図面は二重の堀に囲まれた縄張り図です。外堀の部分に3箇所の馬出しが記されていました。篠山城は、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名の抑えとするのが一番の目的だったようです。

  • 『国指定史跡・篠山城址』の説明看板の下に設置されていた、『大書院・資料館のご案内』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左手に大書院の平面図と、右手に閲覧上の注意事項などが記されていました。

    『国指定史跡・篠山城址』の説明看板の下に設置されていた、『大書院・資料館のご案内』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左手に大書院の平面図と、右手に閲覧上の注意事項などが記されていました。

  • 先に紹介した案内看板とは、少し離れた場所に設置してあった、『篠山市篠山伝統的建造物群保存地区』のタイトルがあった案内看板の光景です。左側が国選定の保存地区の概要説明、中央が保存地区の平面図、右側が古絵図などによる紹介でした。

    先に紹介した案内看板とは、少し離れた場所に設置してあった、『篠山市篠山伝統的建造物群保存地区』のタイトルがあった案内看板の光景です。左側が国選定の保存地区の概要説明、中央が保存地区の平面図、右側が古絵図などによる紹介でした。

  • 入口に向かって右手方面の内堀光景です。現在地は、かつては内堀の南側に架かっていた表門に通じる橋があった場所のようです。かつての縄張り図には、屋根付きの『廊下門』が記されていました。現在は堀の一部が埋め立てられ、土橋になっていました。左手後方に見えるのは、二の丸石垣になるようです。

    入口に向かって右手方面の内堀光景です。現在地は、かつては内堀の南側に架かっていた表門に通じる橋があった場所のようです。かつての縄張り図には、屋根付きの『廊下門』が記されていました。現在は堀の一部が埋め立てられ、土橋になっていました。左手後方に見えるのは、二の丸石垣になるようです。

  • 入口に向かって左手方面の内堀光景です。篠山城は、篠山盆地中心部の丘陵の『笹山』を築城地と定め、築城の名手・藤堂高虎が縄張を担当しました。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成しました。築城年は、慶長14年(1609年)になります。

    入口に向かって左手方面の内堀光景です。篠山城は、篠山盆地中心部の丘陵の『笹山』を築城地と定め、築城の名手・藤堂高虎が縄張を担当しました。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成しました。築城年は、慶長14年(1609年)になります。

  • 緩やかな上り坂になっていた、大手門までの登城路の光景です。石垣などは昔のままのようでした。敷石を敷いた登城路も昔の儘かも知れません。規格化された、現代の敷石とは異なっているようでした。その前方に、大書院の屋根が見えてきました。

    緩やかな上り坂になっていた、大手門までの登城路の光景です。石垣などは昔のままのようでした。敷石を敷いた登城路も昔の儘かも知れません。規格化された、現代の敷石とは異なっているようでした。その前方に、大書院の屋根が見えてきました。

  • 染井吉野の桜の樹の傍にあった説明立札の光景です。『篠山城跡・桜開花基準木』の表示がありました。篠山市とささやま桜協会の名前による立札でした。敢て、『染井吉野』と記されなくても、桜の開花基準木は気象庁をはじめ、すべて染井吉野です。

    染井吉野の桜の樹の傍にあった説明立札の光景です。『篠山城跡・桜開花基準木』の表示がありました。篠山市とささやま桜協会の名前による立札でした。敢て、『染井吉野』と記されなくても、桜の開花基準木は気象庁をはじめ、すべて染井吉野です。

  • 大きな切石が揃えられた角の部分の光景です。強度だけでなく、体裁も考慮された『算木積』のようでした。『算木積(さんぎづみ)』は、1600年の関ヶ原の戦い以降、慶長10年(1605年)前後に様式が整ったようです。<br /><br />

    大きな切石が揃えられた角の部分の光景です。強度だけでなく、体裁も考慮された『算木積』のようでした。『算木積(さんぎづみ)』は、1600年の関ヶ原の戦い以降、慶長10年(1605年)前後に様式が整ったようです。

  • 同じ石垣の光景です。乱積の『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』でした。『乱積』は、『乱層積み(らんそうづみ)』とも呼ばれ、安土桃山時代以降に用いられました。『乱積』から『布積』への発展段階では、『整層乱積み(せいそうらんづみ)』もあります。この積み方は、大きさの違う長方形の石を使って横目を通さないため、布積より崩れにくいとされます。

    同じ石垣の光景です。乱積の『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』でした。『乱積』は、『乱層積み(らんそうづみ)』とも呼ばれ、安土桃山時代以降に用いられました。『乱積』から『布積』への発展段階では、『整層乱積み(せいそうらんづみ)』もあります。この積み方は、大きさの違う長方形の石を使って横目を通さないため、布積より崩れにくいとされます。

  • 先程より、登り傾斜が大きくなってきたようです。大書院の破風部分が次第に大きく見えてきました。登城路にカーブがあるのは、自然の地形を利用したものかも知れませんが、意図的な効果もあります。万が一、敵に攻め込まれた時、前方を見通しに憎くしたり、軍の侵攻速度を抑える効果があります。

    先程より、登り傾斜が大きくなってきたようです。大書院の破風部分が次第に大きく見えてきました。登城路にカーブがあるのは、自然の地形を利用したものかも知れませんが、意図的な効果もあります。万が一、敵に攻め込まれた時、前方を見通しに憎くしたり、軍の侵攻速度を抑える効果があります。

  • 登城路の脇の『打込み接ぎ』の石垣のズームアップ光景です。この辺りは、水平線を揃えない『乱積』でした。登城路の脇の石垣も、万が一、敵に攻め込まれた時の防御に大切な役割があります。上からは攻め易く、下からは防御し難いためです。

    登城路の脇の『打込み接ぎ』の石垣のズームアップ光景です。この辺りは、水平線を揃えない『乱積』でした。登城路の脇の石垣も、万が一、敵に攻め込まれた時の防御に大切な役割があります。上からは攻め易く、下からは防御し難いためです。

  • 同じく、『打込み接ぎ』の石垣のズームアップ光景です。この辺りは、水平線が揃えられた『布積』でした。『野面積(のづらずみ)』、『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』と『切り込み接ぎ(きりこみはぎ)』の違いは、石の加工度合いによる分類です。

    同じく、『打込み接ぎ』の石垣のズームアップ光景です。この辺りは、水平線が揃えられた『布積』でした。『野面積(のづらずみ)』、『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』と『切り込み接ぎ(きりこみはぎ)』の違いは、石の加工度合いによる分類です。

  • 縄張図を参照しますと、かつて『鉄門(くろがねもん)』があった場所になるようです。石垣は、当時のものがそのまま残っているようでした。縄張図を参照しますと、廊下門を渡った先が『表門』更に『中門』を経由して『鉄門』に至るようでした。堅固な虎口が設けられていたようですが、今は、冠木門です。

    イチオシ

    縄張図を参照しますと、かつて『鉄門(くろがねもん)』があった場所になるようです。石垣は、当時のものがそのまま残っているようでした。縄張図を参照しますと、廊下門を渡った先が『表門』更に『中門』を経由して『鉄門』に至るようでした。堅固な虎口が設けられていたようですが、今は、冠木門です。

  • 本瓦で葺かれた唐風の玄関を持った、『大書院』の入口光景です。大書院は1609年(慶長14年)の篠山城築城と同時に建てられました。1944年(昭和19年)1月に焼失しましたが、2000年(平成12年)4月に再建されました。唐破風の玄関は、創建当時にはなかった建物のようです。

    イチオシ

    本瓦で葺かれた唐風の玄関を持った、『大書院』の入口光景です。大書院は1609年(慶長14年)の篠山城築城と同時に建てられました。1944年(昭和19年)1月に焼失しましたが、2000年(平成12年)4月に再建されました。唐破風の玄関は、創建当時にはなかった建物のようです。

  • 『史跡篠山城大書院』のタイトルがあった立看板の矩形です。三項目に分けて説明してありました。その要旨です。<br />(その1):青山藩の青磁の中心として使用されてきましたが、惜しくも昭和19年(1944年)に焼失しました。<br />(その2):現在の建物は、学術調査を基に、創建当時の江戸時代初期の建物を再建したものです。京都二条城の二の丸御殿に匹敵する格式と規模です。<br />(その3):しあた^質を含めた、充実した資料館を備えています。

    『史跡篠山城大書院』のタイトルがあった立看板の矩形です。三項目に分けて説明してありました。その要旨です。
    (その1):青山藩の青磁の中心として使用されてきましたが、惜しくも昭和19年(1944年)に焼失しました。
    (その2):現在の建物は、学術調査を基に、創建当時の江戸時代初期の建物を再建したものです。京都二条城の二の丸御殿に匹敵する格式と規模です。
    (その3):しあた^質を含めた、充実した資料館を備えています。

  • 唐破風の玄関前付近から眺めた、右手方面の光景です。左手に見えるのは井戸覆いの建物です。井戸は、低い石垣の上に石の囲いが置かれていました。低い石垣には、天下普請を象徴する刻印も見えました。

    唐破風の玄関前付近から眺めた、右手方面の光景です。左手に見えるのは井戸覆いの建物です。井戸は、低い石垣の上に石の囲いが置かれていました。低い石垣には、天下普請を象徴する刻印も見えました。

  • 屋根覆いが付いた、大井戸の光景です。この場所だけでなく、確認はできませんでしたが、複数の井戸が掘られていました。篠山市の公式HPには、『篠山城には、本丸二の丸に3カ所の井戸が作られ、城中の水を賄っていました』としょうかいされていました。補修されたのかも知れませんが、極めて穂存状態の良い囲い石でした、金属製の覆いがありましたが、釣瓶も残されていました。

    屋根覆いが付いた、大井戸の光景です。この場所だけでなく、確認はできませんでしたが、複数の井戸が掘られていました。篠山市の公式HPには、『篠山城には、本丸二の丸に3カ所の井戸が作られ、城中の水を賄っていました』としょうかいされていました。補修されたのかも知れませんが、極めて穂存状態の良い囲い石でした、金属製の覆いがありましたが、釣瓶も残されていました。

  • 覗き込んでみた、『大井戸』の光景です。上部に少し草が生えていましたが、しっかりとした石積が残されているようでした。お城にとっての井戸は、籠城の時の生命線でした。篠山市の公式HPには、『本丸と二の丸南の井戸は掘り抜いたもの、特に本丸の井戸は岩盤をくりぬく大工事で、井戸の上に小屋をかけ、昼夜べつなく雨の日も掘り続けて2年かかった』と紹介されていました。

    覗き込んでみた、『大井戸』の光景です。上部に少し草が生えていましたが、しっかりとした石積が残されているようでした。お城にとっての井戸は、籠城の時の生命線でした。篠山市の公式HPには、『本丸と二の丸南の井戸は掘り抜いたもの、特に本丸の井戸は岩盤をくりぬく大工事で、井戸の上に小屋をかけ、昼夜べつなく雨の日も掘り続けて2年かかった』と紹介されていました。

  • 『移り変わる篠山藩主』のタイトルがあった説明パネルの光景です。篠山城主を務めた、松平三家と青山家の譜代大名四家の出自などの紹介です。篠山は、西国の外様大名を抑える、重要拠点とされました。

    『移り変わる篠山藩主』のタイトルがあった説明パネルの光景です。篠山城主を務めた、松平三家と青山家の譜代大名四家の出自などの紹介です。篠山は、西国の外様大名を抑える、重要拠点とされました。

  • 『篠山城とその城下町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左側が北になる絵図です。大雲川(元・篠山川)を堀として城下に引き込み、土手には竹を植えて敵の侵入を防ぎ、城下を通り街道は鍵やT字に曲げ、城下の出入口には寺院を要塞として置き、家臣団の住居を重層化して守りにされ、一方、経済統制などの発信地として大書院が使われました。

    『篠山城とその城下町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左側が北になる絵図です。大雲川(元・篠山川)を堀として城下に引き込み、土手には竹を植えて敵の侵入を防ぎ、城下を通り街道は鍵やT字に曲げ、城下の出入口には寺院を要塞として置き、家臣団の住居を重層化して守りにされ、一方、経済統制などの発信地として大書院が使われました。

  • 篠山城の縄張り図の古絵図の紹介です。篠山城は、内堀と外堀を有し、内堀内に本丸と二の丸を設け、外堀の外周は1辺約400mのほぼ正方形で、東・北・南の門には馬出を設置して守りを固めていました。二の丸を囲む土塀は所々、屏風折りに外側に突き出していて、狭間の死角を少なくする工夫がされていました。

    篠山城の縄張り図の古絵図の紹介です。篠山城は、内堀と外堀を有し、内堀内に本丸と二の丸を設け、外堀の外周は1辺約400mのほぼ正方形で、東・北・南の門には馬出を設置して守りを固めていました。二の丸を囲む土塀は所々、屏風折りに外側に突き出していて、狭間の死角を少なくする工夫がされていました。

  • 右が初代藩主の『松平(松井)康重の蹴鞠誓詞(複製)』、常陸の国笠間(茨城県)にいたころ、蹴鞠の師匠に出した誓約書の写しです。左は『丹波国篠山城石垣損所絵図(複製)』です。こちらは天保8年(1837年)のものです。石垣が膨らんだり、損傷した箇所が細かく記されています。

    右が初代藩主の『松平(松井)康重の蹴鞠誓詞(複製)』、常陸の国笠間(茨城県)にいたころ、蹴鞠の師匠に出した誓約書の写しです。左は『丹波国篠山城石垣損所絵図(複製)』です。こちらは天保8年(1837年)のものです。石垣が膨らんだり、損傷した箇所が細かく記されています。

  • 『松平(藤井)信吉書状(複製)』のタイトルがあった展示品の光景です。<br />内容:二代藩主・信吉(信義)が、源六という人物に出した病気見舞い<br />現品:上山城管理公社蔵(山形県上山市)<br />時代:江戸時代初期(17世紀)<br />その他:信吉は、徳川家康の甥にあたる、藤井松平家3代当主です。

    『松平(藤井)信吉書状(複製)』のタイトルがあった展示品の光景です。
    内容:二代藩主・信吉(信義)が、源六という人物に出した病気見舞い
    現品:上山城管理公社蔵(山形県上山市)
    時代:江戸時代初期(17世紀)
    その他:信吉は、徳川家康の甥にあたる、藤井松平家3代当主です。

  • 『松平(形原)典信書状(複製)』<br />内容:五代藩主・典信が、父に書き送った近況報告<br />現品:篠山城(個人所有)<br />時代:寛文年間(1661~1673年)<br />その他:典信(のぶのり)は、初代藩主・松平康信の長男として摂津国高槻で誕生

    『松平(形原)典信書状(複製)』
    内容:五代藩主・典信が、父に書き送った近況報告
    現品:篠山城(個人所有)
    時代:寛文年間(1661~1673年)
    その他:典信(のぶのり)は、初代藩主・松平康信の長男として摂津国高槻で誕生

  • 『青山忠高から本郷兵馬当書状(複製)』<br />内容:十代藩主・忠高が、家臣の本郷兵馬に書き送った暑中見舞いへの返書<br />現品:篠山城<br />時代:江戸時代中期(18世紀)<br />その他:

    『青山忠高から本郷兵馬当書状(複製)』
    内容:十代藩主・忠高が、家臣の本郷兵馬に書き送った暑中見舞いへの返書
    現品:篠山城
    時代:江戸時代中期(18世紀)
    その他:

  • 『春日神社旧社絵図写(複製)』<br />内容:城が築かれる前の笹山(篠山)の様子を描いた絵図です。<br />現品:黒岡春日神社(複製:篠山城所有)<br />時代:江戸時代初期以前(推定)<br />その他:中腹に春日神社があります。

    『春日神社旧社絵図写(複製)』
    内容:城が築かれる前の笹山(篠山)の様子を描いた絵図です。
    現品:黒岡春日神社(複製:篠山城所有)
    時代:江戸時代初期以前(推定)
    その他:中腹に春日神社があります。

  • 『二の丸庭園図写(複製)』<br />内容:御殿の廊下も分かる二の丸庭園絵図です。<br />現品:篠山城(複製:篠山城所有)<br />時代:江戸時代(推定)<br />その他:二の丸東南隅にあった庭園図です。

    『二の丸庭園図写(複製)』
    内容:御殿の廊下も分かる二の丸庭園絵図です。
    現品:篠山城(複製:篠山城所有)
    時代:江戸時代(推定)
    その他:二の丸東南隅にあった庭園図です。

  • 『二の丸御殿間取古図(複製)』<br />内容:二の丸の大書院、奥御殿の紹介間取りです。<br />現品:個人蔵<br />時代:江戸時代<br />その他:同種の絵図としては最古とされます。

    『二の丸御殿間取古図(複製)』
    内容:二の丸の大書院、奥御殿の紹介間取りです。
    現品:個人蔵
    時代:江戸時代
    その他:同種の絵図としては最古とされます。

  • 『大名と領地』のタイトルがあった説明パネルの光景です。篠山藩の始まりの頃は、飛び地を含めて5万石、老中を31年余務めた12代の青山忠祐(ただやす)時代に1万石が加増され、そのまま幕末を迎えたと紹介されていました。左下の一覧は、寛文4年(1664年)の藩領と、5万石の内訳です。

    『大名と領地』のタイトルがあった説明パネルの光景です。篠山藩の始まりの頃は、飛び地を含めて5万石、老中を31年余務めた12代の青山忠祐(ただやす)時代に1万石が加増され、そのまま幕末を迎えたと紹介されていました。左下の一覧は、寛文4年(1664年)の藩領と、5万石の内訳です。

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