2013/09/06 - 2013/09/13
81位(同エリア209件中)
パンダ番長さん
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- 旅行記55冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 10,161アクセス
- フォロワー2人
トルコ旅行の4日目。パムッカレからコンヤ経由でカッパドキアへの旅程。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
PR
-
<パムサーマルホテルの朝>
朝、目覚しが鳴る前の4時50分頃に目が覚める。もう少しで目覚しが鳴るので2度寝を止め、ベッドから出て、顔を洗う。少し寝不足なのか頭が重い感じがするが、特に薬を飲む程ではない。
5時になり、アザーンと呼ばれるイスラム教の朝の礼拝を促す呼びかけの声がホテル街に流れる。
非常に大きな音なので、目覚し時計やモーニングコールが無くてもこの呼びかけの声で起こされただろう。昨晩からベランダに干した水着などを取り込む。
ベランダに出るとさすがに山が近い為か、朝の冷え込みが厳しい。昼間は日本と然程気温は変わらないが、朝はかなり寒い。
水着などを旅行カバンに詰め、最終の整理を行う。
5時30分に部屋にモーニングコールが掛かり、その後、旅行カバンを部屋前に出す。
少し部屋で寛いでいたが、そのまま再び寝てしまいそうになるので、早々に部屋を出て、ホテル内を散策する事にした。昨日入った屋外温泉の横辺りを散策する。昨日はホテルに到着したのが夜であったので、ホテルの周りの様子が良く判らなかったが、丁度ホテルの裏手にも大きな道があり、更に山の方に向かい延びている。
また、その前にはホテルの駐車場らしきところもあり、多くの車が止まっていた。
ホテル内には我々の宿泊した棟以外にも多くの棟が横並びで建っている。
ホテルの敷地が大きいので全てを確かめるまでは出来なかったが、見えているだけでも我々の宿泊棟を含め、4つは確認出来る。
時刻が6時15分頃になり、一旦部屋に戻り、リュックなどの旅行カバン以外の荷物を持ち、レストランに向かう事にした。昨日、朝食時間は6時20分頃からと聞いているので、もう大丈夫であろう。
昨日の2階レストランに行くと、既に同ツアーの人達数人が席に着いている。尾道から来た3人組も既に昨日と同じ場所に座っている。私もその場所に行き、朝の挨拶を行う。 -
まだ誰も料理は取りに行ってない様で、一緒に席を立ち、料理を取りに行く。
昨晩の夕食時とは違い、今朝は野菜類が多く、オリーブを使った漬物の様なものも数種並んでいる。また、チーズ類やヨーグルト類などの乳製品も豊富に置かれている。
料理らしきものは少なく、ソーセージをトマトソースで煮込んだものなど3種類しかない。
その中から以下の様なものを皿に取る。
<9月9日 パムサーマルホテルでの朝食>
①ソーセージのトマトソース煮
②ハム(2種類)
③チーズ
④トマト
⑤ヨーグルト(蜂蜜掛け)
⑥パン(2種類)
⑦オレンジジュース/チャイ
朝食としてはこれくらいの種類で充分の様に思えるが、エドレミットのアドリナデラックスホテルの朝食が豪華な料理類だったので、少し見劣りする感はある。
ここでもオリーブの漬け物らしきものが数種置かれていたが、見た目正直なところ、美味しそうには見えないので、ここでも手を付けなかった。
非常に簡単に朝食を済ませる事となった。ここのパンも美味しいと感じるものでは無かった。
この旅行で本当に美味しいトルコのパンに出会う事が出来るのか、疑問である。 -
早々に食事を終え、チャイを飲みながら、尾道の3人組と歓談する事となった。この朝食では各々の仕事の話になる。藤本おじさんは島の中の左官や大工仕事を一手に請け負っている様だ。
藤本おばさんは島の中の世話役の様な事とされていると言う。岡崎おばさんは専業の農家。
私の事も簡単に説明を行い、仕事では広島などにも行く事を話した。すると、是非近くに来た時は島の立寄って欲しいと言ってくれた。
7時を過ぎたところで、全員でレストランから出て、1階のフロントロビーのソファに移動する。
まだ、集合時間には10分程あるが、もう殆どの人が集まっている。
その事を溝田さんが確認すると、ツアーの全員に、「皆さん、少し注目して下さい!もう少ししたらバスに乗り込みますが、その前に各組の方を代表して1人の方にくじを引いて頂きます。そのくじには、アルファベットが書いてありますので、引いたアルファベットを私に報告下さい。このくじは今日の宿泊先のカッパドキアの洞窟ホテルの部屋割りです。洞窟ホテルですので、一つ一つの部屋の大きさなどが違いますので、不公平感を無くす為に皆さんにくじを引いて頂きます。ご了承下さい!」と言う。
そう言うと、みんなの部屋のキーの回収を始める。
それから少しロビーで待ち、予定よりも早く、バスに乗り込む事になった。
その際に先程言われたくじを引き、そのくじのアルファベットを確かめる。私は“H”であった。
その事を溝田さんに報告し、バスに乗り込む。
今日の座席は最後方の座席から一つ前の座席に陣取る事にした。最後尾の座席には尾道の3人組の人達が座られた為である。ここなら話し易い。
全員が乗り込んだ事を確認し、バスが走り始める。時刻は7時25分前である。
今日もかなりの距離を移動する事になる。ほぼ1日中バスに乗る日程である。 -
<コンヤまでの道程でのハプニング>
バスがホテルを出て、パムッカレのホテル街のメイン通りに出ると、ナムックさんが、「はい!皆さん。ギュナイドゥン!おはようございます。トルコ語は覚えましたか?」と昨日と同じ挨拶で始まる。
そして、「今日は少しおさらいも兼ねて、トルコ語を勉強しましょう!」と言う。
「まずは、“かわいい”は何でしたか?“かわいい”はジジ、“おじさん”は何でしたか、“おじさん”はババ、ジジババは“かわいいおじさん”です。覚えていますか?」と聞く。
更に、「今日は基本的なトルコ語をお教えします。まずは“水”はスー、“ありがとう”はサオルン、“こんにちは”はメルハバ、“山”はダー、数字の“1”はビル、“2”はイキ、“3”はユチ、“4”はドルト、“5”はベシ、“10”はオンです。覚えましたか?」と続ける。
そんなに簡単には覚えられない。とりあえず、サオリンとメルハバは覚えて置く事にした。
そして、今度は景色の話に移る。「バスの左手のほぼ正面に見えている山が“ババダー”と呼ばれる山です。日本語では何ですか?」と質問が出る。先程教えたトルコ語についての質問である。
確かに前方には山地の様に山々が連なっている。
“ババ”はおじさんで、“ダー”が山であるから、“おじさん山”である。その事を答えると、満足そうに、「そうです。日本語では“おじさん山”という事になります。」と話す。
バスは昨日、結構式で何回か、道を封鎖された村に差し掛かった。
ここでもナムックさんは更に、「皆さん、村の屋根に注目して下さい。屋根の上に瓶が乗っているのが見えますか?」と言う。確かに家屋の屋根の幾つかにはガラスの瓶が置かれている。
それもそのガラス瓶はまちまちである。
みんなが頷くのを確認し、更に「この瓶が乗っている理由は判りますか?」と続ける。
みんなが首を傾げている事に満足気に確認した後、「この瓶の乗っている家は独身の女性がいる家を表しています。また、乗っている瓶も様々でしょう?これは、イスラム教に信心深い女性のいる家は緑色、教育をしっかり受けている女性のいる家は文字が書かれたものを置くなど、それぞれに意味があるのです。」と教えてくれる。
「また、昨日は非常に多くの結婚式の場に遭遇しましたが、イスラム教では結婚式は、金、土、日曜日の3日間で行う事が決められています。」と続ける。
「昨日も目撃しましたが、トルコ人はイスラム教徒ですが、宗教的制限を気にしない人はお酒を飲みます。」と言う。
また、「トルコで多い名前もイスラム教に関するものが多く、多い名前は、男性では、“オスマン”、“モハメッド”、“アリ”、女性では、“マリア”、“ファーティマ”、“アイシェ”などです。女性は大体平均すると、23~24歳くらいで結婚します。男性は徴兵制がある為に少し時期が遅い人は居ますが、大体30歳くらいまでに結婚する人が多いです。因みに私は30歳を過ぎていますが、まだ独身です。」と言う。
この様なナムックさんの話を聞いている間に、バスは既に村を抜け、幹線道路を走り始めている。
先程は正面に見えていた“おじさん山”の山地が今度は右手に見える方向にバスは走っている。
更にナムックさんの話は続く。
「トルコでは殆どがお見合い結婚です。その際に女性が男性に対し、トルコ珈琲を出しますが、その珈琲が不味いと嫌がっていると言う意思表現です。ですから、女性は断りたい時は不味い珈琲を出すのです。親戚などの結婚祝いは金製品と決められています。現金は殆どありません。これはトルコでは銀行にお金などを預ける習慣がなく、財産は金など身に着ける物で持っている人が多いです。」と言う。
「また、嫁入り道具は全て結婚する女性が揃えます。その嫁入り道具を結婚1週間前にお披露目します。その善し悪しで結婚する男性が幸せになるか、不幸になるのかを親戚一同が噂をします。現在のトルコ共和国は一夫一妻制ですが、オスマントルコ時代は一夫多妻制でした。」と続ける。
暫らくすると、左手の丘の上に遺跡らしきものが見えて来た。
すると、ナムックさんが、「左手の丘の上に注目して下さい。遺跡の様なものが見えると思いますが、これもローマ時代の遺跡ですが、まだ未発掘の遺跡です。しかし、発掘すると昨日見て来たエフェソスの遺跡よりも規模が大きな遺跡になるのではないかと言われている遺跡です。」と教えてくれる。
名前も言っていたが、“ローディキア遺跡”と聞こえたが、地図や旅行ガイドなどには載っておらず、詳細は不明である。時刻は既に8時を廻っている。
更に10分程走ると、デニズリの町が右手に見えてくる。
幹線道路はこの町を迂回する様に造られている様で、町中には入らない。
ここでナムックさんがデニズリの町の説明が始まる。ナムックさんの説明を要約すると以下の様な内容である。
デニズリは、緑豊かな渓谷に囲まれた肥沃な土地が広がり、多数の温泉もあり、大勢の観光客が訪れるスポットであったが、近年、温泉資源の枯渇が顕著化してきて、一部の温泉では入浴が制限されているそうだ。また、交通の要衝であり、世界遺産のパムッカレ観光の拠点となる街である。産業はテキスタイル(織物)が盛んな町だと言う。
バスはその町を迂回する様に進み、数分で町を通り過ぎた。
それから更に30分程走ると、ナムックさんが、「この先に塩の湖が左手に見えてきます。この湖はアジギョル湖と言い、昨日も塩田湖でフラミンゴを見ましたが、ここもフラミンゴが見られる湖として有名です。今日はどうでしょうか?」と言う。
また、この辺りにも多くの果実の木々の畑が見えていたが、ナムックさんが、「丁度、今はザクロの実が収穫の時期ですので、次の休憩所ではザクロのフレッシュジュースを売っているかも知れません。」と思いだした様に話す。
そして、左手にナムックさんが言う湖が見えて来た。湖と言っても、それ程大きなものでは無かった。
その湖に沿い、道が続き、暫らく湖を見ていると、フラミンゴの群れが湖の道に近い所に羽を休めているのが見えて来た。
その湖も1分足らずで過ぎ、再び単調な景色に変わる。 -
9時を過ぎる頃になると、左右は見渡す限りの小麦畑となる。
この景色の中を暫らく走ると、溝田さんが、もう直ぐすると、休憩所に到着すると言う。休憩所があるのはディナールという町である。
9時20分頃にバスは道路脇にあるドライブインに入る。ここが休憩場所である。店の名前は、“ANATORIA”と書かれた看板が店の中央入口上に見える。
ここでの休憩時間は15分である。出発予定は9時35分頃だ。 -
トイレには行かず、先程ナムックさんが言っていたザクロジュースを売っていないかを探す。
すると、丁度、ドライブインのトイレの手前に外にカウンターを設け、フレッシュジュースを売るコーナーがある。そこに行くと、ありました!ありました!ザクロがテーブルに山盛りに置かれており、それを搾っている。
丁度、ザクロの実の上部を少しカットした状態で、それを搾り機に切った上部を下にセットし、上から押さえ付ける様に搾っている。2~3個で少し小さめのガラスコップが一杯になる。
同じツアーの人達も興味津々の様で、何人かは既にコーナーに並んでいる。私も列に並び順番を待つ。ザクロジュースは5トルコリラである。色は淡い紅色のジュースである。
ザクロジュースを受け取り、店の表廊下に並ぶテーブルの一つに着き、飲む。
味は少し酸味もあるが、淡い甘みもあり、飲み易い。少し種も混じっているので、底に残る。
飲み終えて、席を立ち、少しドライブインを散策する。
丁度、トイレの反対側の端に小さな土産物屋がある。そこに入り、何か土産物になるものはないかと探すが特に珍しいものも無く、見るだけで店を出る。
表廊下に沿う様にショーケースが並ぶ。その中にはサンドウイッチなどが見える。日本で有名な“サバサンド”もある。これには興味が湧くが、購入し、食べている時間もない。
早々にバスに戻る。既に数人の人がバスに乗り込んでいた。
程なく、全員が乗り込み、溝田さんが全員乗り込んだ事を確認し、バスが出発する。 -
ナムックさんが、「皆さん、ザクロジュースは飲まれましたか?どうでしたか?美味しかったですか?」と聞く。前に座っていた数人が、「美味しかった!」と答えたのか、満足そうに頷き、ここでトルコでのイスラム教について話し始める。ナムックさんが話した内容を要約すると以下の様な内容である。
トルコのイスラム教徒はスンニ派が多い、これとは対照的にイランではシーア派が多いそうだ。
また、礼拝の際のお清めは、まず口を3回、鼻を3回、顔を3回清める。その後、小指を使い、耳内を、そして右手、左手、右足、左足を洗った後、お祈りをすると言う。朝は15分程お祈りを行うのが、日課なのだと言う。
モスク(ジャーミー)は“集まる場所”という意味で、トルコ国内には約87,000か所のモスクがあり、イスタンブールだけでも約3,400か所あると言う。その殆どの建設・修復は寄付で行われるそうだ。
また、有名な断食月の“ラマダン”は9日間で、この間は休みになるそうだ。
バスは峠の上り坂に差し掛かった。
ナムックさんが、「この辺りは良質の大理石が出る場所で、所々に石の切り出し場が見えると思います。」と教えてくれる。すると、峠の頂上付近に差し掛かると左右に石切り場が見えて来た。階段状に石を切り出した面が見える。
その切り取られた面も非常に綺麗な石が見えている。本当に良質な石の様だ。 -
下り坂に入ると、ヘアピンカーブの道が続く。ここでアクシデントが起こった。下り坂でバスが急ブレーキを踏んだ。座っていたが体が大きく前に傾く。
また、丁度席の前の棚に置いていたカメラがその際に棚から落ち、運悪く、その前にあるバスの降車用階段の下まで落ちた。2m以上落下したのである。
慌てて、カメラを回収し、確認する。カメラ本体外観は異常がない様に見える。
但し、カメラのレンズフードが割れていた。シャッターは切れる。画像も撮れる。問題無さそうである。
心配して、尾道からの藤本おじさんが、「カメラは大丈夫?」と聞いてくれた。「何とか大丈夫そうです。」と答えた。その後もテストの為に数枚撮る。一応、撮れるので安心した。
峠を下ると景色が一変し、木々の少なく、荒涼とした風景に変わる。
収穫を終えた小麦畑などが拡がるが単調な景色である。所々に固まった集落が見える。必ず見える建物はモスクである。村によっては2つモスクが建っている村もある。
時刻は10時40分を過ぎた。休憩所を出てから、もう1時間近く経過した。
先程、落としたカメラが気になり、何度か風景を撮るが、どうもおかしい?何がどうおかしいのかが判らないが何かしっくり来ないが、画像は撮れる。
何枚か撮ると気が付いた。撮れた画像が液晶画面で見えているものよりも少し上にずれている。やはり壊れている。しかし、画像は撮れるので、これからの写真は構図に注意し、撮るしかない。
依然、外は単調な景色が続いている。丁度、収穫も終わった畑だらけで、薄茶色の大地が続く。
溝田さんが、「この先のチャイと言うところで昼食を取ります。もうあと30分程で到着します。」と言う。
まだ、お腹は空いていないが、この単調な景色からは解放されたい気分である。カメラで撮るものも見当たらない。その様な景色を眺めていると少し眠くなって来た。その内にいつの間にか寝てしまった。
昼食場所に到着して、溝田さんが「皆さん、それではこのドライブインで昼食を撮ります。今日の昼食は鶏肉のケバブです。」と言う声で目が覚めた。
時刻は11時40分頃である。今日は少し早い昼食である。 -
<昼食場所“OZKAN”>
バスを降りると、ドライブインの大きなアーチ状看板が目に入る。看板には“OZKAN”と書かれている。ドライブインにはガソリンスタンドや大きな売店も併設されている。
レストランは一番奥の方にある様だ。手前の売店脇の道を抜け、奥に進む。
レストランは大きな円形の建物でサーカス小屋の様な造りの建物である。その中央部には食器類が置かれ、そこから放射状にテーブルが並んでいる。
そのテーブルのひとつにみんなで座る。 -
私は尾道の3人組の人達と一緒に一番奥の窓際の席に座る。テーブルには既にパンが置かれている。溝田さんが飲物を聞きに席を廻る。我々4人も各々飲物を注文する。
私はチェリージュースを注文する。飲物を注文すると直ぐにまずは生野菜のサラダが一人一人に配られる。そして、最初の料理としてスープが出て来た。
その後出て来た料理は以下の様な内容である。
<チャイ郊外での昼食>
①鶏肉のスープ(タウク・チョルパス)
②生野菜サラダ(人参/紫キャベツ/レタスなど)
③チーズ入りクレープ(ギャズレメ)
④チキンのケバブ(タウク・シシ)
⑤松の実入りライス(サーデ・ピラウ)
⑥焼きトマト
⑦フルーツ(メロン)
⑧飲物(チェリージュース)
鶏肉のスープは鶏肉と獅子唐、米が入ったスープである。
獅子唐が入っていたので、少しピリ辛のスープであるが、味はマイルドで飲み易い。 -
チキンのケバブは香辛料が効いているが、少しパサパサとし、日本の鶏肉に比べ、味気がない。
チーズ入りのクレープは肉料理には非常に合う。
パンはここでもそれ程美味しいものでは無かった。
最後にデザートのフルーツは、このレストランの放射状に並ぶテーブルの中央部分の食器類置き場の近くに纏めて置かれており、そこへ各自取りに行く。メロンは非常に熟れている。
メロンが最も美味しかったのが残念である。飲物代として5トルコリラを支払う。
早々に食事を終え、多くの人がこのドライブインの散策やトイレに立った。
私はメロンが美味しく、それを暫らく夢中で食べていたが、既に尾道の3人組の人も席を立ったので、食事を終え、トイレに向かう。
ここのトイレは有料ではないが、今迄のドライブインの中でも最も大きく、清潔である。
トイレを済ませたが、まだ集合時間までに時間があるので、ドライブイン内にある店に入る。
集合時間はバスに12時30分である。
ドライブインの敷地内には幾つもの店があるが、入った店は土産物店ではなく、所謂雑貨屋の様な店であった。食器、お菓子類など色々なものが並ぶ。
食器や調理器具などは土産物になりそうな物もある。お菓子類はバス内で食べる事が出来ないので、購入する訳にはいかない。
おもちゃなどもあり、トルコ特有のおもちゃがないかと探すが、これと言ったものは無かった。トルコではミニカーなどが人気なのか、目立つところに置かれていた。
暫らく、この店で品物を見ていたが、別の店も見に行く事にした。
丁度、今いる店の前にも店がある。この店は土産物店の様である。入ると、トルコの定番のお菓子の“ロクム”などが並んでいる。食べ物類が多い。チャイ、珈琲、ワイン類やラクというトルコのお酒なども置かれている。
また、人形類なども並ぶ。こけしの様な人形類やイスラム教徒をモチーフにした人形、民俗衣装などを着た人形などが置かれている。
この店内も暫らく見ていたが、集合時間も近づき、バスを探す。
この土産物店の直ぐそばに数台の観光バスが止まっているが、その1台が我々のバスで、既に数人の人がバスの周りに集まっていた。
溝田さんもナムックさんもバスの前で話をしている。溝田さんにバスを確認し、乗り込む。
既に何人かの人が乗り込んでいた。尾道の3人組も座席に着いている。
岡崎おばさんが、「土産物で良い物があった?」と聞かれたが、「特に興味を引く物はありませんでした。」と答え、座席に着く。
時刻は12時30分前である。もう集合時間である。
私に続き、続々とバスにみんなが乗り込んで来た。
12時30分過ぎには全員が乗り込んだ事を確認し、バスが出発する。 -
<再び、コンヤへの道程>
これからコンヤと言う大きな町を目指し、再び走り始める。暫らくはチャイの町中を走っていたが、所々に建物(工場や倉庫など)の上にロバに乗った男性のモニュメントが見える。
何度も同じ様なものが出て来たので、非常に気になった。すると、ナムックさんが、このモニュメントについて説明を始めた。
「皆さん、町の建物の上にロバに乗った男性のモニュメントがあるのに気がつきましたか?あれはホジャと言う人でトルコの童話の中の人です。ユーモアと機知に飛んだ言葉(とんち話)で人々を楽しませた人物として書かれていますが、実在の人物とも言われています。ひとつ、ホジャの物語を紹介します。」と言い、続けて童話を話し始める。
「満月とホジャという話ですが、ある日ホジャが井戸に水を汲みに行きました。その井戸を覗くと井戸の中に綺麗に満月が見えました。ホジャは満月が井戸に落ちたと思い、直ぐに助けてやるぞ!と言い、バケツを投げ込み、おもっきりバケツを引き上げましたが、その際にバケツの縄が切れ、ホジャは後に転倒し、痛いと思った際に空を見上げるとその空に満月が輝いていました。そしてホジャは、“ああ神様、酷い目にあいましたが、お月様を助ける事ができました”と言いました。この様にユーモアに溢れる言葉を残した人物として童話などに書かれています。このホジャはこの辺りの出身と考えられています。」と教えてくれる。
そのモニュメントが見える建物なども無くなり、再び単調な風景に変わる。
そこから、この単調な風景の中を30分以上バスが走る。時刻は13時45分頃になり、ナムックさんがもう直ぐ、コンヤの町だと言う。
更に15分程走ると、町並が見えて来た。ここが、コンヤの町である。時刻は14時を過ぎた。
ここで再びナムックさんがこのコンヤの町について話し始める。
「このコンヤの町はかなり古い時代から存在する町で、アケメネス朝ペルシャやアレクサンダー大王時代を経て、ローマ帝国に組み込まれ、その際はイコンヤ(ギリシャ語でイコニア)と呼ばれ、初期キリスト教の舞台のひとつの町となりました。その後、イスラム教のセルジューク朝に占領され、アナトリアの中心的な拠点となり、最盛期には中央アジアで起こったイスラムの神秘主義教団であるメヴラーナ教の創始者であるルーミー(メヴラーナ)が定住、ここを起点に布教を行ないました。このメヴラーナ教はトルコを代表するイスラム宗派です。これから、このメヴラーナ教に関する博物館に立寄ります。また、現在のコンヤはこの様な宗教学校など大きな大学が多く、アナトリア地方の中心的な町であり、学問の町としても有名になりました。また、コンヤはトルコで最も町の面積が広い町で、日本の京都と姉妹都市です。」と説明をしてくれた。
その説明を聞いていると、バスの走る道の右手に電車の線路が見えて来た。
すると、ナムックさんが、「このコンヤの町にはトラムが走っています。トラムとは路面電車です。」と教えてくれる。
少しこの線路に沿って走ると、トラムが走って来た。白のボディに赤い線が上下に入った車輛である。 -
暫らく、そのトラムと並走する様にバスが走っていたが、トラムは駅で停車し、バスと離れてしまった。
更にコンヤの町を走る。非常に整然と建物が並んでいるので、ゴミゴミした感じがなく、洗練された町である。この光景を見る限り、非常に古い町とは思えない。
14時30分頃に右手に大きなモスクが見えて来た。これがこれから見学するメヴラーナ博物館となっているモスクである。その前の道路脇でバスが停車する。
溝田さんからここでバスを降りると言われ、慌てて準備を行い、バスを降りる。
この辺りが入口なのか、バスを降りると多くの車が周りに停車されている。
その先の塀の一部に門の様なところがある。ここから敷地内に入る様だ。
ナムックさんについて、その中へ進む。 -
そして、中に入ると広場の様なところがあり、その左手にチケット売り場らしきところが見える。その広場の一画で集合する様に言われ、ここで暫らくナムックさんの入場手続きを待つ。
ナムックさんの入場手続きも済み、その奥にある小さな入口から施設内に入場する。まずは博物館に向かう様である。
ガイドブックでは、この敷地内には博物館の他にも僧院、修業場、モスク(ジャーミー)などがあり、総面積は6,500m2もあると書かれている。
細い通路の様なところを抜けると、博物館の入口前の広場に出る。
ここで再び集合し、この博物館での注意点の説明をナムックさんが始める。「この博物館に入る時は土足厳禁なので、入口に置かれている靴にビニールカバーを付けて入って下さい。また、中は写真撮影禁止ですので、ご了解下さい。カメラのカバーがある方はそれを付けて下さい。
それでは入口に向かいます。」と言う。
そして、入口前には大きな木箱内に青いビニールの靴カバーがあり、それを靴に付ける。 -
ここでナムックさんから詳細な説明がないので、このメヴラーナ博物館に関して簡単な説明を加える。
この博物館はメヴラーナ教の創始者であるメヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミーの霊廟で、その霊廟は外から見えていた瑠璃色の円筒形の建物の真下にある。
このメヴラーナ教はイスラム神秘主義の一派で、旋舞教団として有名である。この旋舞は、コマのように回って踊るセマー(サマーウ)という儀式である。
博物館内に入ると、中にはアラビア文字で書かれた文書などのプレートなどで多く飾られている。コーランの内容が記されたものであろうか?また、その奥には多くの棺が並んでいる。
ナムックさんが博物館内の中央付近で立ち止まり、ここでやっと霊廟の説明を始まる。
「この霊廟にはメヴラーナが埋葬されており、メッカの方向を向いて埋葬されています。また、ここに並ぶ棺はメヴラーナ教の先生や弟子のものです。実際には、この棺の下に土葬されています。また、棺の上に置かれているターバンで大きなもの(緑色や白色のもの)は先生、小さなものは、弟子の棺です。頭上に見えるガラスの鉢は蝋燭を入れるものです。」と説明をしてくれる。
また、更に進み、大きな絨毯が敷かれた場所に差し掛かると、「この絨毯の模様は町により、模様が違います。絨毯はこの場所でお祈りする際に敷き、その上に座り、お祈りをしました。」と言う。
また、博物館の中央ドームの広い部屋に出ると、「この壁に掛かった文字は、一つがアッラー(イスラム教の神)を、もう一つがモハメッド(ムハンマドやマホメットなどと呼ばれるイスラム教の開祖)と書かれています。」と言う。
見るとドームの白い壁に金背景の四角の額の様なものに、アラビア文字が書かれたものが掛かっている。
この広い部屋の中央付近の展示ケースには、モハメッドの顎鬚が展示されていた。
また、このドーム中央のこの広場で、セマーと言う神秘の旋舞を行っていたと言う。
その旋舞は真ん中に先生が座り、その周りを弟子達が右手を上に、左手を下にし、目は白眼をむいて
廻っていたそうだ。そのドーム中央の広場から更に進むと出口の手前に祭壇の様なものがあり、その前の床より一段高い場所にお祈り場所が設けられている。
これで博物館内の見学は終了で、博物館内から出て、靴カバーを木箱に戻し、再び博物館前で集合する。
ここでナムックさんが、「これから少しの時間、自由行動とします。集合時間は15時15分にします。集合場所はその先に見える出口を出たところにします。宜しいですか?」と言う。先程通った入口からの狭い通路の横に出口が見える。
「ここにはまだ、修業場や当時の修業の様子を再現した僧院などがあります。」と教えてくれる。「それでは解散します。集合時間は厳守下さい。」と言う言葉でみんなが解散する。
私はまず、修業場を見学する事にした。丁度、博物館の右手前に建っている建物である。
その中に入ると、実物代の人形で当時の修業の様子やセマーの旋舞の様子、当時の修業場での生活などが再現されている。 -
土産物などを販売しているところは見つけられなかった。
その後、博物館前に建つ僧院を見学する。
僧院には、小さな区切られた部屋が並び、その部屋には当時の修業僧が使用していた品々が展示されている。
食器類やコーランの写本、各種楽器、999個の珠を連ねた数珠などが展示されていた。 -
僧院を見て廻ると、僧院はL字型の建物に部屋が配されている。
狭い部屋が多く、数人が入ると一杯になるので、中を確かめながらの見学である。
観光客も多く、互いに譲り合いながらの見学であった。 -
その後、少し博物館前の広場の中央に建つ水場で休憩をする。
すると、イスラム教徒の人が手や足を洗う姿が見つけた。ナムックさんに教えて貰った通りのお浄めを行っていた。
信心深い教徒なのであろう。
少し早いがもう見るところもなく、出口を出て集合場所に向かう。
出口を出ると、溝田さんと既に何人かの人が集合していた。
まだ、集合時間まで時間があるので、溝田さんにお願いし、ここで記念写真を撮って貰う。
最初に撮って貰ったものは、先程、バス内でカメラが落下した事による不具合で、液晶画面で見えているよりも少し上にずれる事を教え、再度、少し下目に意識し、焦点を合わせて貰い、撮って貰い、今度は上手く撮れていた。 -
その際に保険でカメラの修理を行う為に事故証明の発行をお願いした。
集合時間前に全員が揃い、バスに向かい歩き始める。
丁度、メヴラーナ博物館の横に大きなモスクが建っている。
このモスクはセリミエ・ジャーミーである。このモスクと博物館の間を抜ける。
そしてセリミエ・ジャーミー前で再度、溝田さんにお願いし、記念写真を撮って貰う。
今回は時間の関係でセリミエ・ジャーミーの見学はないが、このモスクも立派なモスクで、外壁などを見る限り、非常に歴史を感じさせるモスクである。
その横を抜け、先程バスを降りた通りに出る。通りに出た辺りに既にバスが来ていた。
その場でバスに乗り込む。時刻は15時30分過ぎである。 -
<シルクロードでカッパドキアへ>
バスが走り出し、これから今日の最終目的地であるカッパドキアに向かう。
バスが走り始めると、ナムックさんが、「今からこれらの簡単な予定を話します。まず、この後1時間半程でトイレ休憩を行います。その後、カッパドキアに移動し、カッパドキアの到着は18時30頃を予定していますが、ホテルに入る前にトルコ石専門店に立寄ります。トルコ石専門店の見学は自由です。行きたくない人はそのまま先にホテルに向かいます。みなさん、それまでにトルコ石専門店に立寄るかは決めておいて下さい。宜しいですか?」と言う。
その後、暫らく、コンヤの町中を走っていたが、直ぐにまた単調な景色の郊外に出る。
しかし、少し景色が変わって来た。この辺りには畑などが少ない。
何も耕作されていない土地が目立つ。
すると、ナムックさんが、「この道は昔のシルクロードです。この道沿いには昔からのキャラバンサライが沢山あります。キャラバンサライとはシルクロードを旅する商人達の宿泊施設(隊商宿)の事です。また、このアナトリア地方は、雨が少ないので耕作には適さず、主に放牧で生計を立てています。この地方の人達は自給自足出来る人達が多いのです。この地方の人達は男性は男性カフェに、女性は家で家事と、娘がいる家庭は娘の嫁入り道具を造る事が日課です。夏は気温が40℃近くまで上がり、冬には雪も降る場所です。」と教えてくれる。
また、「この辺りの人達の楽しみは、最近はテレビです。」と付け加える。 -
ここで問題が出る。「このシルクロードを行き来した隊商は一日どれくらい移動したと思いますか?中国の西安からトルコのイスタンブールまでどのくらいの日数が掛かったと思いますか?また、どの様なものを東から運んで来たと思いますか?」と質問が出る。この事は良く歴史問題などでも出るので私は知っているが、まずは私が答えてはいけないと言われているので、黙っている。
すると、誰も答えないので、「1日に約30km移動しました。西安からイスタンブールまで1年程掛かりました。商品としては勿論名前の由来となっているシルク(絹)、中国の陶器類、紙、中央アジアの香辛料などです。」と先に答えをナムックさんが話す。
また、「キャラバンサライもほぼ、この距離の間隔で設けられています。」と続ける。
更に、「ここでトルコの風習について少しお教えします。トルコとギリシャの風習は非常に似ています。それは元々オスマントルコ帝国時代に出来たものです。トルコの義務教育は小学校が6年、中学校が4年、高等学校が2年で、日本とトータル年数は一緒ですが、少し内訳が違います。また、トルコでは割礼式があります。割礼は判りますよね?」と言う。誰も答えないが、みんな判っている。
更に、「トルコでは、この割礼式は小学校へ上がる前か小学校の低学年で行います。」と付け加える。
バスからの景色は相変わらず単調な景色が続く。山の様なものが見えない単調な景色である。
途中に幾つかのキャラバンサライが道路から少し離れた場所に見えていた。
時刻は16時半を過ぎた。ナムックさんがもう少しで休憩場所に到着すると言う。
更に15分程走ると、道を逸れ、右手に曲がる。ここがキャラバンサライ(隊商宿)のひとつである、スルタンハン・ケルヴァン(キャラバン)サライである。
町の入口付近に高い城壁の様なもので囲まれた建物が見える。これが昔の隊商宿なのだそうだ。
このケルヴァンサライは、中央アナトリアが貿易路として栄えた時代、隊商の宿泊所として建てられたものである。昔の雰囲気をよく伝える建物で、入口を入ると中庭になっており、中央に礼拝堂がある。 -
周囲を取り囲む城壁の様に見えるのは回廊式の建物で、食堂やハマムや宿泊場所などが設けられているそうだ。
しかし、ここの見学は行わず、ここでは休憩のみである。
この隊商宿の前にある店前にバスは停車する。トイレ休憩場所はこの店の様だ。
店の名前は“Sultan Cafe Restaurant”である。時刻は16時45分頃である。
バスを降り、まずはトイレに入る。ここも無料である。意外に無料でトイレを使用出来るところが多い。
あるいは、日本人のツアーではこの様な場所選び、トイレ休憩場所にしているのであろうか?
トイレを済ませ、店内を見学する。この店は土産物で一杯である。特に刺繍製品が多く、バック類などが豊富に展示されている。店の外にも大きな刺繍布地のボストンバッグが並んでいた。
そのバッグ類を見ていると、店員のおじさんが流暢な日本語で話し掛けて来た。
「この刺繍のバックは安いよ!種類も多いよ!これは日本円で千円よ!」と一つの小さめのリュック状のバッグを見せる。
そのバッグも魅力的ではあったが、私が興味を持ったのは、三角錐状の少し大き目のバッグである。
そこで、「これは幾らですか?」と聞くと、「これは2千5百円。」と言う。
ここからが交渉である。ディスカウントを要求すると、2千3百円と言うが、それでは買わない旨を伝える。暫らく交渉していたが、単品ではそれ以上ディスカウントして貰えそうに無かったので、「先程の小さなリュック状のバッグと三角錐状のバッグと合わせて、2千5百円にして!」と言うと、困った顔をして、「3千円!」と言うので、私が、「2千8百円なら購入する。」と言うと、それで渋々OK貰った。
安く買えたかどうかは不安であったが、これで支払いを行う。
日本円が2千円しか無かったので、端数の8百円は16トルコリラ支払いを行う。
これで満足し、バスに戻る事にした。まだ、数人の人は店先で土産物を物色している。
何人かの人に、「何を買ったの?」と聞かれ、買ったバックを見せる。
17時過ぎにバスに戻り、バスが出発する。ここで土産物を購入した人は少ない様だ。 -
また、単調な景色の中をバスが走るが、少し走ると前方少し右手に大きな山が見えて来た。
この辺りからはその山の形が富士山の様に見える。何と言う山なのかを地図を見て確認しようとすると、ナムックさんが、「前方にハサン山が見えて来ました。300万年前の噴火で出来た山で、高さは3,268mです。その形は見る方角により違いますが、こちらからは日本の富士山に似ている事からトルコ富士と呼ぶ日本の人もいます。」と教えてくれる。
本当にここから見る山の形は富士山にそっくりである。
頂上付近に雪を頂いていれば、そっくりであるが、雪はない。
肉眼で見るとはっきりと判るが、カメラで撮ると、移動しているバス内からの撮影でもあり、靄がかかった様な画像になり、納得いく写真は撮れなかった。
更に少し走ると、前方に大きな工場らしき建物が見えて来た。社章などからベンツの工場である。
トルコには自動車メーカーの工場が非常に多い。日本の自動車メーカーでもトヨタ、日産、ホンダなども工場を持っているはずだ。ここで、自動車に関し、ナムックさんが話し始める。
「トルコでは日本の車検制度の様なものはありません。また、税金も自動車を購入する最初の時に税金を支払えば、それでOKです。但し、近年は30年を超える車はダメになりました。」と言う。
工場を過ぎると、町が現れた。アクサライの町である。この辺りではかなり大きな町である。
アクサライはアナトリア地方を横断するシルクロードの重要な中継地点として、数世紀に渡り、栄えた町である。カッパドキア周辺の都市では最大の町である。 -
アクサライの町を過ぎると再び単調な景色に変わり、茶色の景色に変わる。
本当に何もないところに道路が続く。時刻は18時前になった。
すると、左手の奥に小さなキャラバンサライが見えて来た。トラバンサライと言うらしい。
この辺りは一面が放牧地の様で、時折、放牧されている羊が見える。
また、所々に小麦畑だと思われるところはあるが、今はその小麦も栽培されていないので、確かめるすべがない。良く見ていると、畑に小さなかぼちゃの様なものが栽培されているのが見える。
ナムックさんに聞くと、「そうです。あれはかぼちゃです。しかし、日本の様にかぼちゃ自体を食べるのではなく、あのかぼちゃは種を食べる為に栽培されているものです。」と教えてくれる。
するといきなり、左右の畑の中にゴロゴロと岩が現れ始める。今迄は岩などがない景色が続いていたが、景色が一変した感じである。もう、カッパドキアに入ったのであろうか?
因みに日本人の多くはカッパドキアと聞いてもトルコの町の名前の様に思っている人が多いと思うが、カッパドキアはトルコの地方の名前で、アナトリア高原の火山により出来た大地ある。
日本では近畿地方の様な感じである。
カッパドキアは、“美しい馬の地”を意味するペルシャ語に由来する。
カッパドキアの絶景は気が遠くなるほどの長い年月を掛けて造られたと考えられている。
1万年以上も昔、この辺りは森や塩分を含んだ湖が広がっていた。また、多くの火山があり、やがてその火山の噴火による溶岩や火山灰が降り積もり、その後、雨による侵食などを経て現在のような絶景が生まれたと考えられているのである。
この地は歴史的には鉄の文化で強勢を誇ったヒッタイト帝国の本拠地であったとされている。
岩などが見え始めると、前方に町が見えて来た。 -
カッパドキアの中心的な町のひとつであるネブシェビルの町である。
時刻は18時20分頃である。
もう夕暮れ時になっている。まだ、日が暮れるまでには時間はありそうだが、もう日が暮れてもおかしくない時間である。
この町の建物は色がみんな同じである。薄いカーキ色の建物が多い。見ると、石積みの建物が多い。 -
ナムックさんが、バスが止まった際に話す。「右手のマンションを見て下さい。石積みになっていますね!この石は火山灰を含んだ石灰岩です。この地方の家はこの様な石灰岩の石積みの家が多いのです。」と説明してくれる。
バスは暫らく、ネブシェビルの町を走っていたが、直ぐに町を抜けるとカッパドキア独特の奇岩がところどころに見えて来た。その中を更に15分程走ると、再び町の様な一画に入る。
店などの看板を見ると、この辺りがギョレメと言う町の様だ。
更に、この町を抜け、左右に大きな岩が張り出す様に迫る道を抜け、丘を越える。
もう、辺りは暗くなっている。すると、前方に少し建物が建つところが見えて来る。その手前に交差点があり、そこをバスが曲がったところでバスがある建物の敷地内に入った。
ここが、トルコ石専門店である。トルコ石専門店の名前は“AGAD”である。 -
<トルコ石専門店見学>
バスが停車し、溝田さんが、「先程、ナムックさんが言いました様にトルコ石の店の見学は自由です。行きたくない人はこのバスに残って下さい。私と共に先に宿泊ホテルに移動します。しかし、買わなくても見るだけでも話のネタにはなると思いますので、見学する事をお勧めします。それでは見学される方はバスを降りて下さい。」と言う。
私はトルコ石を購入するつもりはないが、とにかく見学だけする事にした。
バスを降り、この店の人が出迎え、中に入る様に促す。中に入ると玄関ホールには何もない。ここで一旦集合し、店の人が流暢な日本語でこのトルコ石専門店の説明を始める。
「この店は国営の店でトルコ石専門店です。特にアナトリアで産出したトルコ石を中心に販売を行っています。皆さんに見て頂くだけでも結構ですので、気軽に見学して下さい。ここで少しトルコ石について説明を行います。トルコ石は英語では“ターコイズ”と言い、トルコ石の名前の由来はフランス語から来ています。良質のものは貴重で、12月の誕生石でもあります。嘗てペルシャと呼ばれていた現在のイラン周辺は、古代からのトルコ石の主要な産地で9世紀以降トルコ系王朝が興亡を繰り返した場所が最も有名な産地でした。最初にヨーロッパに認識されたトルコ石は、トルコ人の国のものであった事から、トルコ石と呼ばれる様になりました。現在もトルコ石のトルコでの産出量は然程多くはありませんが、良質なものが出ます。それではトルコ石を見て頂きます。中央の扉に進んで下さい。」と言う。
我々がその扉の前に行くと、扉が開く。
扉の向こうはショーケースの並ぶ部屋になっている。その中に移動する。
中に入るとまた、「ここには様々なトルコ石が展示されています。色なども多種に渡ります。皆さん見て頂き、気にいったものがありましたら店員に声を掛けて下さい。それでは各自自由に見学下さい。」と言い、各店員に指示を出している。
ここで各自解散し、思い思いトルコ石を見て廻る。トルコ石は瑠璃色の宝石である。色は、少し緑がかったものや水色がかったものなどが主で、石の一部に茶色部分が入り、模様があるものもある。
石の輝きなどは他の宝石に比べ、見劣るが色合いは非常に綺麗な石である。
丁度、豆粒大の綺麗な瑠璃色のトルコ石が展示されていたので、店員に「これで価格はそれくらいするものなのですか?」と日本語で聞くと、流暢な日本語で、「これですと、日本円で20万円程します。」と答えてくれた。
20万円もするの!と心の中では思いながら、「もっと手頃な価格のものはあるのですか?」と再び店員に聞くと、「予算はありますか?」と聞き返された。
私が再び、「数万円くらいかな?」と答えると、別のショーケースの前に案内される。そのショーケース内には先程とは違い、かなり小ぶりの石が並ぶ。
そして、「この辺りの石ですと3万円前後のものになります。」と教えてくれる。
基本買う気がないので、勧められても見るだけである。
その後も様々なショーケースを見て廻るも、余り興味が湧かない。
海外旅行をすると、必ずと言って良い程、宝石を購入して帰ったが、帰ると後悔する事が多かった。今回は絶対買わないと決めて来た。
以外と長く、このトルコ石の店にいた。
途中、私は出されたチャイを飲み、他のツアーの人達がトルコ石を購入する様子を見ていた。母娘の2人組は、幾つかのトルコ石を購入していた。
19時20分過ぎになり、全員でトルコ石専門店を出る。
店の前でナムックさんと一緒に暫らくバスが来るのを待つ事になった。周りをみれば、この辺りは新しい建物が多い。最近開発された地区の様だ。
夜になり、少し寒くなって来た。19時30分前になり、店前にバスが到着した。急ぎ、バスに乗り込む。
ナムックさんによれば、ホテルまではまだ10分程掛かると言う。
バスは再び、先程のギョレメの町の方面に戻り、ギョレメの町内で方向を変える。今日我々が宿泊するホテルがあるのは、このカッパドキアのユルギュップと言う町(と言うよりは村か)である。
ナムックさんの言う通り、10分程で町内に入った。この町はホテルが多いのか、観光客向けの店などが通りに並ぶ。店が並ぶ通りの先の坂の途中でバスが止まる。
ここでバスを降りると言う。ここからは歩いてホテルまで行くのである。
バスを降りると、石畳みの坂で、横には小さなモスクがある。その反対側には急な階段がある。ホテルはこの階段の上である様だ。旅行カバンなどは既にホテルに運ばれている。
既に真っ暗になっている。電灯に照らされた石階段は段差もまちまちで非常に歩きつらい。
それでも数分歩くとホテルの玄関に到着した。今日の宿泊ホテルはテメンニ・エヴァホテルである。 -
<テメンニ・エヴァホテルでの夕食と夜>
ホテル内に入り、玄関ロビーに集合し、今日の部屋割りが溝田さんから言い渡される。
今朝のくじで、部屋割りは既に決まっている。
各自、溝田さんから部屋の鍵を受け取る。私の部屋は127号室である。
部屋の鍵を渡され、同時に今後の説明メモが渡され、それを基にこれからの予定などの説明を始める。
また、明日の朝のイベントとして、熱気球の体験の紹介が行われる。
しかし、溝田さんはこの熱気球はツアーのオプションではなく、また案内は行うが、進めない旨を言う。もし、どうしても参加する場合は誓約書を書いて頂いたものを提出頂く事になるそうだ。
最近、熱気球の事故などが起こり、日本のツアーでは余り推奨をしていないのである。参加される人は夕食後に溝田さんに依頼を行う様に言われた。
食事は20時にこの玄関ロビーに集合である。もう余り時間はない。時刻は19時50分過ぎである。
部屋に荷物を置く程度である。早々に一旦解散し、各自部屋に向かう。
私の部屋は別棟である。玄関を出て、別棟に移動する。
別棟の入口には門があり、その中に建物がある。私の部屋は3階である。 -
部屋の入口には旅行カバンが置かれていた。部屋の前はテラスになっている。部屋は火山灰を含んだ石がむき出しの部屋である。
ベッドの上に荷物を置き、再びホテルの玄関ロビーに戻る。時刻は20時である。
まだ全員が集まっていないが、溝田さんに2階のレストランに上がる様に言われ、フロント脇の階段で2階へ上がる。 -
2階に上がると4人掛けや6人掛けのテーブルが並び、30人程度が座れる。その一つのテーブルに座り、みんなが揃うのを待つ。
5分程で全員が揃う。勿論、一緒にテーブルに着いているのは尾道からの3人組である。溝田さんから今日のメインは魚料理であると説明される。まずは飲物の注文を聞かれ、杏ティーを頼む。
その後、直ぐに一品目の料理が出て来る。豆料理である。 -
以下、料理として以下のものが出て来た。
<9月9日 テメンニ・エヴァホテルでの夕食>
①白インゲン豆の煮込み(クル・ファスルエ)
②生野菜サラダ(人参/紫キャベツ/紫玉葱)
③クリームシチュー
④鱒のフライ(アラバルク・タワ)
⑤松の実入りのライス(サーデ・ピラウ)
⑥チョコレートクリーム
⑦パン
⑧杏ティー
最初に出て来た白インゲン豆の煮物は定番の料理だと言う。
通常はライス(ピラウ)の上に乗せて一緒に食べると美味しいそうだ。だが、最初に出て来たので、そのまま食べてしまう。次にスープが出て来た。これはクリームシチューに似たスープである。
メインデッシュは、“鱒のフライ”である。これも定番の料理で、内陸部で良く食べられる料理のひとつなのだと言う。ライスはこれも定番の松の実の入ったライスである。
最後にデザートにチョコレートクリームが出て来た。
これと言って美味しいと思うものはここでも無かった。
あえて言えば、メインデッシュの、ますのフライがまあまあである。トルコでは全般的に魚料理の方が美味しい。
最後に杏ティーを飲みながら、尾道の3人組と歓談する。
特に百島での生活について話をしてくれた。非常にのんびりとした生活で、憧れる生活である。
また、このホテルの部屋の話になる。私の部屋の様子を話すと、他の人の部屋とは全然違う様だ。
朝のくじ引きの意味がここで判った。部屋により、当たり外れの差が大きいのである。
尾道のおばさん達の部屋は私の部屋よりもかなり広い様で、逆に尾道の藤本おじさんの部屋は、私の部屋よりもかなり狭い様だ。
尾道の藤本おじさんの部屋は私の下の2階で、おばさん達の部屋は更にその下の1階である。
20時50分頃になり、徐々に食事を終えた面々が席を立ち、部屋に戻って行った。 -
我々も21時前には席を立ち、部屋に戻る。
部屋に戻り、まずは旅行カバンから部屋着を取り出し、着替える。そして。部屋の設備の確認を行う。
まずは洗面台で水、お湯の確認を行うが、水を少し出したところで、水が出なくなった。
蛇口を一杯に捻るが出ない。再度、出ない事を確認し、溝田さんの部屋に電話をし、その事を告げる。
暫らくすると、溝田さんとホテルの人が部屋に来て、確かめてくれる。
聞くと、下の元栓が閉まっていた様でそれを開けて貰ったそうだ。ホテルの人が水とお湯が出る事を確認し、溝田さんと共に部屋を出て行った。
再度、念の為に確認するが、今度は水もお湯も大丈夫である。
先にシャワーを浴びる事にした。奥の部屋に洗面台とトイレ、ユニットバスがそれぞれ別々にある。
ユニットバスは部屋の隅のコーナーに沿う様に設置されており、扇形の浴槽である。
シャワーでもお湯が出る事を確認し、髪と体を簡単に洗い、浴槽を出る。
暫らく、髪が渇くまで部屋で寛ぐ。
スマホにメールが来ている事に気がつき、確認を行うと、会社の同僚の芳田さんからのメールであった。何かと思い、確認すると、最初に“大丈夫ですか?”と書かれた文章から始まっている。
何が“大丈夫”なのかと思い、読み進めると、今日、カッパドキアで日本人女性観光客が殺された事件が大々的に報道されていると言う内容であった。その為に“大丈夫ですか?”との文章で始まっていたのである。
しかし、この報道や情報は全然知らなかった。特に観光制限される事もなく、今日の観光は終了した。明日でも溝田さんに確認の必要がある。
多分、今日の段階では溝田さんもナムックさんも何も知らなかったのではないか?
髪が渇くと、部屋着のまま、部屋の前のテラスで少し涼む。さすがに夜になると少し、寒い。涼むという気温では無かった。しかし、夜景は神秘的である。
このホテルのテラスからは丁度、ユルギュップの村のほぼ全景が見え、家々やホテルの灯りで幻想的な風景である。
やはり外は寒いので、早々に部屋に戻る。時刻は22時10分過ぎになっている。
明日はこのカッパドキアの1日観光であるので、必要なものだけをリュックに詰める。旅行カバンの整理も兼ね、荷物の選別を行う。また、今日購入した土産物などを旅行カバンに入れる。
少し早いが、荷物の整理などが済むとベッドに潜り込み、寝る体制に入る。
ガイドブックなどで明日の観光場所などを確認していたが、23時過ぎには寝てしまった。
今回はここまで! 明日はカッパドキア観光。
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