2019/08/22 - 2019/08/22
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名古屋のmisakoさん
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仁和寺の特別公開、いのしし神社の護王神社に出かけてきました
仁和寺観音堂の障壁画(地獄絵図など)373年ぶりの修復記念で、限定御朱印5種色付き1枚500円で、護王神社の御朱印は手書き御朱印500円、印刷御朱印300円とかでした
護王神社はなぜか300円でなく500円の通常手書き朱印だそうで、印刷御朱印300円がありました
仁和寺
仁和寺は仁和4年(888)に創建された寺院であり、現在は真言宗御室派の総本山です。 境内には五重塔や二王門など江戸時代に建立された建造物が並びます。 同時期に植えられた御室桜は4月中旬に見頃を迎えますが、建物と同様、 当時と同じ姿を現在に伝えています。平成6年には世界遺産に登録されました。
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。
(仁和寺HPより)
仁和寺 P500円 京都府京都市右京区御室大内33
第44回京の夏の旅
観音堂特別内拝拝観料1000円(記念品付き)高校生以下無料
2019年7月17日(水)~9月1日(日)9:30~16:30(16:00受付終了)
金堂・経蔵特別公開拝観料600円小学生300円2019年7月6日(土)~9月30日(月)10:00~16:30(16:00受付終了)※9月2日(月)~9日(月)は拝観休止 9月23日(月・祝)は12時からの公開
限定御朱印5種1枚500円
観音堂秋季特別内拝2019年9月7日(土)~11月24日(日)
護王神社御由緒
護王神社は京都御所の西側、烏丸通に沿いに鎮座する神社で、平安京の建都に貢献された和気清麻呂公(わけのきよまろこう)をお祀りしています。
確かな創建年は伝えられていませんが、もとは洛西の高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていました。
江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。
明治19年(1866)、明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門(はまぐりごもん)前の現在地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座。後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀りました。
その後、崇敬者により境内の霊猪像(狛いのしし)が奉納され、「いのしし神社」とも呼ばれ親しまれています。
主祭神
和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)
和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)
配 祀
藤原百川公命(ふじわらのももかわこうのみこと)
路豊永卿命(みちのとよながきょうのみこと)
(護王神社HPより)
護王神社 P少しあり、近くにコインパーキング40分100円などもあり
京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385
参拝時間:午前6時~午後9時
授与品・ご朱印受付時間:午前9時~午後5時 御朱印500円、印刷御朱印300円
ご祈祷受付時間:午前9時~午後4時30分
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
PR
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仁和寺に着きました
12時なので御室会館で昼食をとろうと -
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御室会館お食事処梵
弁当や定食のご用意がこの日はなく、ゆば丼桜980円 -
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天ざるうどん1200円
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勅使門
Chokushimon
大正2年(1913年)竣工。設計は京都府技師であった亀岡末吉。檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を唐破風、左右の屋根を入母屋造としています。また、鳳凰の尾羽根や牡丹唐草、宝相華唐草文様や幾何学紋様など、細部にまで見られる彫刻装飾は、伝統的和様に亀岡独自の意匠を取り入れたもので、斬新かつ見応えがあります。
(仁和寺HPより) -
中門
Cyumon
重要文化財
二王門と金堂の中間に位置し、五重塔や観音堂といった伽藍中心部に向かう入口ともいえる門。切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門で、側面の妻部には二重虹梁蟇股が飾られています。また、向かって左側に西方天、右側に東方天を安置します。
(仁和寺HPより) -
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観音堂
Kannondo
重要文化財
入母屋造、本瓦葺で前後に向拝が付き、たち(軒までの高さ)の高い建物です。本尊は千手観音菩薩で、脇侍として不動明王・降三世明王、その周りには二十八部衆が安置され、須弥壇の背後や壁面、柱などには、白衣観音をはじめ仏・高僧などが極彩色で描かれています。内部は通常非公開とされ、現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用されています。
(仁和寺HPより) -
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経蔵
Kyozo
重要文化財
寛永~正保年間の建立。宝形造、本瓦葺。正面に両開きの板唐戸、左右に花頭窓を付け、禅宗様で統一されます。
内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置し、壁面には八大菩薩や十六羅漢が描かれます。
内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱が備えられており、その中には天海版の『一切経』が収められています。
(仁和寺HPより) -
経蔵
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金堂
Kondo
国宝
仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂。慶長年間造営の御所 内裏紫宸殿を寛永年間(1624~43)に移築したものです。現存する最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝える建築物として、国宝に指定されています。堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれます。
(仁和寺HPより) -
金堂
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金堂
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御殿内北庭、南庭も初公開中でしたが気づかず拝観しませんでした
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五重塔
Gojunoto
重要文化財
寛永21年(1644年)建立。塔身32.7m、総高36.18m。東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見られない姿が特徴的です。初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられます。
塔内部には大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安置されます。中央に心柱、心柱を囲むように四本の天柱が塔を支え、その柱や壁面には真言八祖や仏をはじめ、菊花文様などが細部にまで描かれています。
(仁和寺HPより) -
御室桜
毎年春、仁和寺は満開の桜で飾られます。金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇ります。その中でも中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があります。古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております。 また、花見の盛んな様子は江戸時代の儒学者・貝原益軒が書いた『京城勝覧』(けいじょうしょうらん)という京都の名所を巡覧できる案内書にも次の様に紹介されています。
「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されております。
そして近代大正13年に国の名勝に指定されました。
(仁和寺HPより) -
護王神社
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本殿が10円札に印刷されていました
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奈良時代・称徳天皇の御代のこと。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧が法王となって絶大な権力を振るっていました。やがて道鏡は、天皇の位も奪おうと考え、「『道鏡を天皇にすれば天下は平和に治まる』と宇佐八幡よりご神託(神様のお告げ)があった」と天皇にウソを言います。
天皇は、ご神託が本当なのか迷いました。そこで、和気清麻呂公を呼び、九州の宇佐八幡へ行って確かめてくるよう命じました。清麻呂公は宇佐八幡へおもむき、ご神前に出て「真意をお教えください」と叫びました。すると、光り輝く宇佐の大神が現れ、「天皇の後継者には必ず皇族のものを立てなさい。道鏡のような無道の者は早く追放してしまいなさい」とご神託を下されました。
清麻呂公は都へ戻り、大神のご神託を天皇に報告しました。野望をくじかれた道鏡は激しく怒り、清麻呂公の足の腱を切った上、大隅国(鹿児島県)への流罪(るざい)としてしまいます。さらには、大隅国へ向かう清麻呂公を襲わせるために刺客を放ちました。
足の腱を切られ、立つことすらできなくなった清麻呂公ですが、皇室を守った大神に感謝するため、宇佐八幡へ立ち寄ることにしました。そして、一行が豊前国(福岡県東部)に至ると、どこからか三百頭ものいのししが現れました。いのししたちは清麻呂公の輿(こし=乗り物)の周りを囲み、道鏡の刺客たちから守りながら、十里(約40km)の道のりを案内してくれたのです。清麻呂公が宇佐八幡での参拝を終えると、いのししたちはどこかへ去っていきました。不思議なことに、清麻呂公の足の痛みは治り、再び歩けるようになっていました。
一年後、称徳天皇の崩御(ほうぎょ=亡くなること)によって、道鏡は関東へ左遷(させん)されます。都へ呼び戻された清麻呂公は、時の天皇の信頼を得て活躍し、晩年まで世のため人のために尽くしました。
清麻呂公の立派な人柄と、彼を守ったいのししのお話は、後世まで語り継がれることとなりました。清麻呂公を祀る護王神社には、狛犬の代わりに狛イノシシが建てられ、今も清麻呂公を護り続けています。
(護王神社HPより) -
和気清麻呂公の波乱の生涯
ご誕生
和気清麻呂公は、天平5年(733)、現在の岡山県和気町でお生まれになり、長じて奈良の都へ上り、朝廷にお仕えしました。
姉君 - 和気広虫姫わけのひろむしひめ
清麻呂公の姉君・和気広虫姫は、早くから宮廷にお仕えし、そのお人柄は「他人の悪口を言うことがない」と天皇からも厚く信頼されていました。天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱の折には、乱に連座した375名の死刑者の減刑を天皇にお願いし、死罪を流罪に改められ、乱の影響で身寄りを失った子どもたち83人を養子として養育されるなど、大変慈悲深い方でした。
道鏡事件
奈良時代末の神護景雲3年(769)、当時法王となり権勢をふるっていた僧・弓削道鏡が、「道鏡を天皇にせよ」という九州・宇佐八幡のご神託があったとして天皇になろうとたくらみます。清麻呂公は称徳天皇に命じられて、そのご神託の真偽を確かめるため宇佐八幡へ赴き、ご神託が偽物であったことを報告。清麻呂公は身を挺して道鏡の野望をくじき、世の中の平安のために活躍されました。しかし、道鏡の怒りを買った清麻呂公は、広虫姫とともに流罪にされてしまいます。
中央への復帰とその後のご活躍
それから一年が経ち、朝廷では称徳天皇の崩御により道鏡は失脚し、光仁天皇によって清麻呂公と広虫姫は許されて都へ呼び戻されました。その後、清麻呂公は豊前守、摂津大夫を歴任するなど、めざましい活躍をされました。
平安京の造営
桓武天皇は、都を平城京から長岡京へ遷されましたが、新しい都造りはなかなかはかどりませんでした。そこで清麻呂公は、淀川上流の葛野の地に新たに都を造営することを天皇に進言されました。桓武天皇はこれを聞き入れ、ここに新しい都を造営し、遷都されました。これが以後千年の都となる平安京、現在の京都です。清麻呂公は造宮大夫として、平安建都にも力を尽くされました。
その他の御事績
清麻呂公は、ほかにも民部省の長官として「民部省例」を整備したり、和気氏の子弟を教育するために、我が国初めての私学「弘文院」の創設に力を入れるなど、晩年まで世のため人のために尽くされました。
清麻呂公は延暦18年(799)、同年卒去された姉君広虫姫の後を追うように薨去(こうきょ)されましたが、その誠実で清廉潔白な人柄は、多くの人々から慕われ、後世まで語り継がれるところとなりました。
(護王神社HPより) -
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拝殿
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幸運の霊猪
鼻を撫でると幸せが訪れると言われています
(護王神社HPより) -
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拝殿
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祈願殿
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社務所前にはミストがでてました
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中門
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和気清麻呂公銅像
平成10年の和気清麻呂公1200年祭を記念して建てられた -
さざれ石
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仁和寺駐車場売店で買ったクリアファイル300円、抹茶だんご12串650円
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護王神社の交通安全ステッカー1個500円
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名神高速道路黒丸PA上り線で買った京都抹茶チョコレートスティック24個1080円、仁和寺観音堂受付で買ったガーゼハンカチ600円
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仁和寺観音堂記念品散華、御室会館お食事処梵で買ったおしるし300円(日付は貸してくださる筆ペンで書いて下さいとのことで自分で書きました)
光孝天皇から宇多天皇が譲り受けた黒猫をかわいがっていたお話
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