2019/06/19 - 2019/06/28
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tono202さん
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春国岱の木道を歩いた後、やってきたのはここです。
ここで駅逓を通じて道東の歴史を私も考えてみようと思うのです。
木道で脚力を鍛え感性を磨き、駅逓で知力を高める。
老いても己の「全面発達」を図ろうとする姿勢を失わない私です。
配偶者の呟きは・・
歩いて疲れたから、どこかで座って休みたいだけやろ・・・・
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やって来たのは別海町の旧奥行臼駅逓所。
黒と白のデザインが粋です。
「最近開業したペンションです」といわれても、ああそうですかと応えそうです。
これが駅逓として使われてきた建物だそうです。 -
この建物を戦後に撮影した写真です。
Q1 駅逓とは何なのでしょうか?
A. 江戸時代の宿場制度は明治 5 年(1872) に廃止されますが、北海道では「本陣」から「旅籠屋」 へ、さらに「駅逓」と名前を変えながら残ります。そして、入植者の目的地までの「宿」や公官庁の通信施設として利用されます。
「官設駅逓所取扱規程」(1895)には、駅逓取扱人(宿主)に一定の資格を定めて月額 10 円以内の手当てを支給することや、駅舎の構造、 間取り、 仕様、 取扱い方法がなどが細かく決められています。 -
また牧場、畑、駅舎の面積も規定され、馬は 10 頭以内を常備することと記されています。ここでは3頭だったようです。その馬舎が敷地内には残っています。人が住めそうなくらい立派です。
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内陸部への入植が進につれて駅逓の重要性は増し、設置数も増えます。
道東の別海でも明治 43 年 (1910) 9 月 15 日に、この奥行臼駅逓所が開設されます。 隣の駅逓所は別当賀駅逓所 (現根室市別当賀) と別海駅逓所 (現別海町本別海)でした。ここからはそれぞれ 5 里 15 町、3 里 18 町の距離です。 -
「根室に通じる辺境・最果てのルート」と思っていました。
しかし、この地図を見て別の視野が開けてきました。
ここは、千島列島へつながる道のスタート地点だったということが見えてきます。
当時の根室は、千島の島々が「ヒンターランド」だったのです。 -
奥行臼駅逓所の駅舎は、駅逓取扱人の山崎藤次郎の自宅がそのまま使われ、官馬 3頭が配備されたようです。
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駅逓は国の史跡に指定され、近年解体修理が行われ、建設当時の形に復元されています。
この駅逓の主人山崎藤次郎に興味が湧きました。少し、調べてみましょう。
彼は新潟県出身で明治 23 年(1890) に北海道根室町に移住し、薪炭業を営んでいたようです。その後、牧畜の将来性に目を付けて明治 36 年(1903) に、ここへ移住してきます。 当初は牛を飼っていましたが、 1910 年に牛の価格が暴落します。そのため 20 頭の牛すべてを売って牝馬と入れ替え、 馬の繁殖に専念するようになります。 駅逓所を開設したのは、この年です。彼にとってはまさに転換点の年でした。 藤次郎の繁殖改良した馬は、軍馬としても高値で売られるようになり、 馬の数が増やし、隣接地を購入し、 180 万坪の放牧地、 20万坪の牧草地、 200 頭を超える馬を抱える大牧場に成長していきます。
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彼は根室で薪炭業を営んでいた頃から屋号 「山ト」 を用いていました。
ここでも、牧場や後に駅逓所から衣替えした旅館にもこの屋号が用いられて山ト牧場、 山ト旅館と呼ばれます。広大な土地と数多くの馬を持つ山崎藤次郎は 「大和の殿様」 とも言われ、 昭和 15 年 (1940)に亡くなるまで、 地元では尊敬を集めていたようです。例えば、奥行臼の小学校が彼の屋号から取って大和小学校となり、 駅逓所のすぐそばに作られた神社も大和神社と呼ばれているのをみても分かります。
その後、山崎家 3 代目の山崎藤作は後に別海村の村長から北海道議会議員となり、 4 代目の山崎正隆も北海道議会議員になっているようです。 -
大正時代のゆがみのあるガラスと、ともされたランプ。
いい空間が作り出されています。
山崎牧場の発展に合わせるように、 駅逓所の建物も増築を重ねていきます。
最初は桁行 4 間半であった平屋の自宅兼駅逓所は、 6 間半に増築されます。
さらに大正 9 年 (1920) には、 寄棟二階建の 「北棟」 が増築されます。 この「北棟」 は現存し、 駅逓制度全盛期の姿を今に伝えています。 -
ここはランプのガラスが集められた小部屋。
ここで奉公の少女たちがランプを磨いたそうです。
小さな手の方がガラスの仲間で磨くのに適していたと教えてくれました。
寒い日に白い息を吹きかけながら、ランプを磨く少女の姿が見えてくるような気がしてきました。 -
駅逓には、道の高級官僚たちが視察や転勤で泊まることもあったようです。
この部屋が一番格式の高い部屋だそうです。 -
大正 13 年 (1924) に殖民軌道根室線が開通し、 さらにより内陸部への入植が進んだため、 奥行臼駅逓所はその必要性が薄れます。その結果、昭和 5 年 (1930) に別当賀駅逓所とともに廃止されます。しかし、駅逓所としては廃止されたものの、 山崎藤次郎はその駅舎を 「山ト旅館」 としてそのまま旅館業を続けます。むしろ駅逓所時代よりも賑わいを見せたといいます。
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駅逓所廃止後も、 山崎藤次郎の子孫が酪農業を代々引き継いでいったため、駅逓の建物だけでなく、 広大な放牧地や馬小屋、 推定樹齢 500 年と言われる別海町指定文化財 「オクユキウスの大楢」 などの樹木や景観、道路跡など、駅逓所時代のものが数多く残っています。国の史跡に指定されるのもうなづけます。
北海道の近代以前の古い建物は残っていません。
それだけに、このような歴史的な役割を果たした近代の建物を残していくことは、大切なことだと改めて思います。 -
やって来たのは奥行臼駅跡です。
線路が残されているため列車がやって来そうな気もしますが廃線です。
昭和 8 年 (1933) には省線標津線が開通し、 奥行臼にも駅が設置されます。そして駅周辺には多くの建物が建ち並び「駅前通り」が作られます。 -
残された奥行臼駅です。
昭和 38 年 (1963) には奥行臼を始点とする村営軌道が開通します。
しかし、モータリゼーションの波に呑み込まれわずか 8 年で廃止となります。
昭和 50 年 (1975) には大和小学校も廃校となり、さらに平成元年 (1989) にはJR標津線も廃止され、 この旧奥行臼駅逓所周辺にあった民家や商店などは現在は姿を見ることはできません。 -
ちなみに「奥行臼」 とは、 アイヌ語の 「ウコイキウシ Ukoikiushi」 からきているようです。その意味は 「争闘セシ処」というのです。
「根室ポロモシリ村ノアイヌ 厚岸アイヌト戦ヒシ処」であったといいます。
つまり根室と厚岸の両アイヌ勢力の決戦場だったのです。
両勢力の接近点であった地帯なのでしょう。 -
駅逓でボランテアガイドの方から「山﨑藤次郎の牧場が200万坪」と聞いて驚いていると、「この付近はそのくらいの規模の牧場は多いですよ。私の牧場もそのくらいです」と簡単におっしゃるので見に行くことにしました。
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目指すは新酪農村の展望台。
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車を停めると人懐こい牛が近寄ってきて出迎えてくれます。
「この見える範囲があんたの牧場な?」と聞くと
「そうや も~ 向こうに見える牧場まで私のテリトリや も~」
と応えてくれました。 -
恐るべし道東の牧場
これは道東の光の部分・・・・
光があれば影があるというのが歴史の眞實・・
され道東の牧場の影とは・・・
それはまたの機会に
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