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真田城(さなだじょう、神奈川県平塚市真田1-14-1)跡地は平安時代末期において相模国三浦半島を本拠とする豪族三浦義継(みうら・よしつぐ、1067~1159)の四男が同国西部(現在の小田原市東部付近)豪族の中村宗平(なかむら・そうへい、生誕不詳)娘を妻とし、宗平より与えられた岡崎郷を名字とした岡崎四郎義実(おかざき・しろう・よしざね、1112~1200)の嫡男である眞田與一義忠(さなだ・よいち・よしただ、1155~1180)の居城といわれ、区画整理を終えたと思われる高台から北方の湿地帯を経て丹沢山系が展望できる曹洞宗の万種山・天徳寺(てんとくじ)となっています。<br /><br />三浦氏と中村氏はいずれも桓武平氏の出自ですが源義朝(みなもと・よしとも、1123~1160)に仕えてきた譜代郎党で、義朝没し源氏勢力衰退し平氏が牛耳る武士世界となって共に冷遇され、加えて本来から経済力指標となる稲作耕地に恵まれない自然環境に置かれていました。<br /><br />その中で現状打開策として三浦・中村氏を代表とする諸氏は平氏に追従して相模国の国衙を支配していた大庭氏を東西から挟撃することを画策し、中村氏はまず宗平息子の土肥実平(どい・さねひら、不詳~1191)を小田原西方の湯河原・早川に、実平弟である宗遠(むねとう、1128?~1218)を土屋にそれぞれ配すことになります。<br /><br />次に宗平の娘婿となった義実に北部の岡崎郷に、更にその子義忠を北西部にそれぞれ配し相模国中央の穀倉地帯に進出する機会を窺います。<br /><br />当時の相模における政治的情勢は圧倒的に平氏の支配が強く、この威光を背景に中央部の豊かな水田を広く有する大庭景親(おおば・かげちか、不詳~1180)に対し丘陵地多く耕地が少ない三浦氏並びに中村氏等はこの肥沃地進出を実現させるべく、治承4年(1180)、伊豆配流中の貴種源頼朝を旗頭として伊豆挙兵に至ります。<br /><br /><br />天徳寺境内に配された眞田與一義忠を祀る祠堂の脇には下記の如く紹介されています。<br /><br />「眞田城址と天徳寺の由来<br /><br />眞田與一義忠公は三浦義継の四男岡崎城主、岡崎四郎義実の嫡子であり、その居城が眞田城である。<br /><br />治承四年(1180年)八月二十三日夜、源頼朝伊豆挙兵の折石橋山にて<br />俣野五郎の家臣長尾新五・新月のために討ち死に。二十五才であった。<br /><br />一説に義忠公はこの時、痰が喉につまり討たれたことにより、喘息・痰咳の神(眞田明神)として崇められている。<br /><br />後、天正年間岐阜天徳寺七世義翁盛訓(ギオウセイクン)禅師義忠公の菩提を弔うため天徳寺を造立する。」<br /><br />

相模平塚 肥沃な相模平野進出をもくろむ三浦・中村氏らが宿敵大庭氏攻略網の一環として配した『真田城』訪問

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2019/06/02 - 2019/06/02

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滝山氏照

滝山氏照さん

真田城(さなだじょう、神奈川県平塚市真田1-14-1)跡地は平安時代末期において相模国三浦半島を本拠とする豪族三浦義継(みうら・よしつぐ、1067~1159)の四男が同国西部(現在の小田原市東部付近)豪族の中村宗平(なかむら・そうへい、生誕不詳)娘を妻とし、宗平より与えられた岡崎郷を名字とした岡崎四郎義実(おかざき・しろう・よしざね、1112~1200)の嫡男である眞田與一義忠(さなだ・よいち・よしただ、1155~1180)の居城といわれ、区画整理を終えたと思われる高台から北方の湿地帯を経て丹沢山系が展望できる曹洞宗の万種山・天徳寺(てんとくじ)となっています。

三浦氏と中村氏はいずれも桓武平氏の出自ですが源義朝(みなもと・よしとも、1123~1160)に仕えてきた譜代郎党で、義朝没し源氏勢力衰退し平氏が牛耳る武士世界となって共に冷遇され、加えて本来から経済力指標となる稲作耕地に恵まれない自然環境に置かれていました。

その中で現状打開策として三浦・中村氏を代表とする諸氏は平氏に追従して相模国の国衙を支配していた大庭氏を東西から挟撃することを画策し、中村氏はまず宗平息子の土肥実平(どい・さねひら、不詳~1191)を小田原西方の湯河原・早川に、実平弟である宗遠(むねとう、1128?~1218)を土屋にそれぞれ配すことになります。

次に宗平の娘婿となった義実に北部の岡崎郷に、更にその子義忠を北西部にそれぞれ配し相模国中央の穀倉地帯に進出する機会を窺います。

当時の相模における政治的情勢は圧倒的に平氏の支配が強く、この威光を背景に中央部の豊かな水田を広く有する大庭景親(おおば・かげちか、不詳~1180)に対し丘陵地多く耕地が少ない三浦氏並びに中村氏等はこの肥沃地進出を実現させるべく、治承4年(1180)、伊豆配流中の貴種源頼朝を旗頭として伊豆挙兵に至ります。


天徳寺境内に配された眞田與一義忠を祀る祠堂の脇には下記の如く紹介されています。

「眞田城址と天徳寺の由来

眞田與一義忠公は三浦義継の四男岡崎城主、岡崎四郎義実の嫡子であり、その居城が眞田城である。

治承四年(1180年)八月二十三日夜、源頼朝伊豆挙兵の折石橋山にて
俣野五郎の家臣長尾新五・新月のために討ち死に。二十五才であった。

一説に義忠公はこの時、痰が喉につまり討たれたことにより、喘息・痰咳の神(眞田明神)として崇められている。

後、天正年間岐阜天徳寺七世義翁盛訓(ギオウセイクン)禅師義忠公の菩提を弔うため天徳寺を造立する。」

同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 私鉄
  • おおね公園<br /><br />大根川に隣接するおおね公園から高台に位置する天徳寺を遠望します。

    おおね公園

    大根川に隣接するおおね公園から高台に位置する天徳寺を遠望します。

  • 大根川<br /><br />秦野市と平塚市の市境を流れる大根川は真田城を護る外堀の役割を果たしています。

    大根川

    秦野市と平塚市の市境を流れる大根川は真田城を護る外堀の役割を果たしています。

  • 大根橋

    大根橋

  • 天徳寺通路<br /><br />天徳寺の山門と道路を繋ぐ階段が見えます。

    天徳寺通路

    天徳寺の山門と道路を繋ぐ階段が見えます。

  • 天徳寺正門

    天徳寺正門

  • 天徳寺寺標

    天徳寺寺標

  • 六地蔵

    六地蔵

  • 天徳寺山門

    天徳寺山門

  • 平成門(山門)石標<br /><br />平成門の傍らには門名を刻した石標が建っています。

    平成門(山門)石標

    平成門の傍らには門名を刻した石標が建っています。

  • 天徳寺参道<br /><br />山門からは落ち着いた雰囲気を漂わせる参道が本堂に繋がっています、

    天徳寺参道

    山門からは落ち着いた雰囲気を漂わせる参道が本堂に繋がっています、

  • 天徳寺本堂<br /><br />正式には萬種山天徳寺と称する曹洞宗の寺院で、天徳元年(957)に美濃国にて創建、その後掛川に遷り天正14年(1586)真田城跡を寺域として造立となったようです。<br /><br />

    天徳寺本堂

    正式には萬種山天徳寺と称する曹洞宗の寺院で、天徳元年(957)に美濃国にて創建、その後掛川に遷り天正14年(1586)真田城跡を寺域として造立となったようです。

  • 扁額<br /><br />天徳寺の寺号である「天徳圀華長運禅寺」と揮毫された扁額が掲示されています。<br />

    扁額

    天徳寺の寺号である「天徳圀華長運禅寺」と揮毫された扁額が掲示されています。

  • 天徳寺参道<br /><br />本堂より平成門(山門)方向を眺めます。

    天徳寺参道

    本堂より平成門(山門)方向を眺めます。

  • 天徳寺境内<br /><br />訪問時には参詣客見えず端正に管理されていました。

    天徳寺境内

    訪問時には参詣客見えず端正に管理されていました。

  • 天徳寺境内

    天徳寺境内

  • 真田学校跡石碑<br /><br />境内の墓地寄りには「真田学校」の石碑が建っています。

    真田学校跡石碑

    境内の墓地寄りには「真田学校」の石碑が建っています。

  • 「真田学校跡の碑」説明板

    「真田学校跡の碑」説明板

  • 真田学校跡標石

    真田学校跡標石

  • 天徳寺境内

    天徳寺境内

  • 天徳寺本堂扁額

    天徳寺本堂扁額

  • 墓地入口

    墓地入口

  • 墓地<br /><br />高台に配された墓はきれいに区画され、墓地の北端からは丹沢山系が望まれます。

    墓地

    高台に配された墓はきれいに区画され、墓地の北端からは丹沢山系が望まれます。

  • 丹沢山系<br /><br />

    丹沢山系

  • 新興住宅街<br /><br />眼下には区画整理を経て立ち並んだ住宅地群が広がっています。

    新興住宅街

    眼下には区画整理を経て立ち並んだ住宅地群が広がっています。

  • 天徳寺本堂<br /><br />墓地南端より農地を経て天徳寺本堂裏側を望む。

    天徳寺本堂

    墓地南端より農地を経て天徳寺本堂裏側を望む。

  • 墓地西端<br /><br />竹林に覆われている墓地西端を南から捉える風景は区画整理されたばかりでなんとも味気ない様相です。<br /><br />

    墓地西端

    竹林に覆われている墓地西端を南から捉える風景は区画整理されたばかりでなんとも味気ない様相です。

  • 墓地西端<br /><br />反対に墓地西端を北から南にかけて望みます。

    墓地西端

    反対に墓地西端を北から南にかけて望みます。

  • 真田尊神輿<br /><br />境内には真田與一義忠神輿保存会による真田尊神輿が設置されています。

    真田尊神輿

    境内には真田與一義忠神輿保存会による真田尊神輿が設置されています。

  • 真田與一公姿絵<br /><br />神輿を収納する小屋内部には與一の姿絵が掲示されています。

    真田與一公姿絵

    神輿を収納する小屋内部には與一の姿絵が掲示されています。

  • 真田與一と家人の姿絵<br /><br />與一の両側には従僕の陶山文三と腰巻文六の姿絵が掲示されています。

    真田與一と家人の姿絵

    與一の両側には従僕の陶山文三と腰巻文六の姿絵が掲示されています。

  • 真田與一義忠廟所(真誠堂・與一堂)<br /><br /><br /><br />

    真田與一義忠廟所(真誠堂・與一堂)



  • 真田與一義忠墓所

    真田與一義忠墓所

  • 「真田城址と天徳寺の由来」説明板

    「真田城址と天徳寺の由来」説明板

  • 鐘楼と梵鐘

    鐘楼と梵鐘

  • 真田与一公園展望<br /><br />天徳寺の眼下には区画整理された敷地が公園として配されています。

    真田与一公園展望

    天徳寺の眼下には区画整理された敷地が公園として配されています。

  • 「真田与一公園」標板

    「真田与一公園」標板

  • 「真田与一公園」説明板

    「真田与一公園」説明板

  • 真田與一公園東端<br /><br />公園敷地の東端は空堀の名残を思わせる側溝が南北に施されています。<br /><br />

    真田與一公園東端

    公園敷地の東端は空堀の名残を思わせる側溝が南北に施されています。

  • 真田与一公園全景

    真田与一公園全景

  • 天徳寺遠景<br /><br />真田与一公園の向こうには天徳寺が確認されます。

    天徳寺遠景

    真田与一公園の向こうには天徳寺が確認されます。

  • 真田与一公園東端側溝

    真田与一公園東端側溝

  • 真田与一公園東端側溝(接近)

    真田与一公園東端側溝(接近)

  • 竹林内部景観

    竹林内部景観

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