2019/03/03 - 2019/03/06
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kuritchiさん
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この旅行記のスケジュール
2019/03/05
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2018年のNHK大河ドラマは鈴木亮平さま(実は大フアン♪)主演の「西郷どん」
毎週日曜日の放送をとても楽しみにしていたkuritchi♪
ずーーっと「西郷どん」を求めて鹿児島に出かけたかった!!
そして、、お休みが取れる様になった3月、、
やっとkuritchiのCangoxinaへのひとり旅です♪
※ Cangoxina ※
Cangoxina(ポルトガル語)は16世紀のヨーロッパの地図でジパングの入口鹿児島のこと、、
「西郷どん」でもCangoxina(カステラの紙に記されていた)が要所で何度も登場しましたね、、
引き続き「西郷どん」の跡を巡ります、、
【 3日目 後半 】
◎武西郷屋敷跡(西郷公園)
◎城山
西南戦争(西南の役)薩軍本営跡・城山展望台・
西郷洞窟・西郷隆盛終焉の地・私学校跡など
◎西郷隆盛像・小松帯刀像
◎赤鶏炭焼 大安
≪鹿児島サンロイヤルホテル泊≫
【 最終日 】
◎南洲神社
◎うなぎの末よし
Cangoxinaうまかっ~♪ 「西郷どん」を訪ねて、、 ①
~~霧島神宮&古宮址・霧島温泉・霧島神話の里公園・日当山西郷どん村 編~~
https://4travel.jp/travelogue/11471064
Cangoxinaうまかっ~♪ 「西郷どん」を訪ねて、、 ②
~~ 龍門司坂・加治屋町・ちりめん・しらす専門店 凪・さかな酒場 半魚人 ~~
https://4travel.jp/travelogue/11475037
Cangoxinaうまかっ~♪ 「西郷どん」を訪ねて、、 ③
~~ 桜島・仙巌園・我流風ラーメン・むじゃき白くま・両棒(ぢゃんぼ)餅 ~~
https://4travel.jp/travelogue/11480573
Cangoxinaうまかっ~♪ 「西郷どん」を訪ねて、、 ④
~~ 武西郷屋敷跡・城山・南洲神社・赤鶏炭焼 大安・うなぎの末よし ~~
https://4travel.jp/travelogue/11480573
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
【 3日目 】
天文館でランチを終え、、市電に乗って鹿児島中央駅まで戻ります、、
(市電も『キュート』利用可)天文館通電停 駅
-
武西郷屋敷跡(西郷公園)
鹿児島中央駅から徒歩10分、、
kuritchiはどうしてもこの場所を訪れてみたかったのでした、、
西郷隆盛は大久保利通達と明治維新を成し遂げ、新しい政府を作ったものの 西郷隆盛は鹿児島に帰り、この地 武に屋敷を構えます、、
新しい政府は戊辰戦争の英雄西郷隆盛を求め、弟従道にも働きかけられ、西郷どんは再び上京、、
大久保利通や岩倉具視、木戸孝允達が欧米へ使節団として出かけている間
西郷達は「学制の制定」「徴兵令の布告」「地租改正条例の布告」など
留守内閣として役割を果たしました、、
しかし、、大久保利通達が帰国後、韓国への西郷隆盛派遣を巡って西郷隆盛達と対立、、
(大久保利通は あれほど留守時には何も決めるな!と言ったのに、、という思いだったのでしょう、、)
結局西郷隆盛は辞任、下野、、
結果、政治家・軍人・官僚600名余りが西郷隆盛に追随、下野することとなりました、、
特に下野したものの多くが薩摩出身者だったので、大久保利通にとっては不都合極まりない事だったでしょう、、
(西郷どんは弟従道には新政府に残る様伝えていました)
もう、、政治には関わり合うつもりのない西郷どんは
この地に戻り、「武村の吉」と名乗り、
農業に勤しみ、13匹の犬を連れ猟や日当山温泉などに湯治に出かけて過ごすのでした、、
(西郷どんは禁門の変の戦いで足を負傷・その傷などの為の湯治)
西郷どんはこの時期、戊申戦争で亡くなった(弟・次男吉二郎も戊辰戦争で亡くしている)人々のお参りもしていたと言います、、
大きな犠牲を払い、、
願っていた維新の時代になったものの、
自分たちの思い描いていた理想の社会にはまだまだ遠い現実、、
でも、、自分はもう出来る事はやり切った、、
そんな思いが西郷どんの中にあったのではないでしょうか、、、西郷武屋敷跡 名所・史跡
-
武西郷屋敷跡(西郷公園)
当時新政府の高官たちは豪華な屋敷を建て、
豪勢な暮らしをしていた中、、
西郷どんはむしろ質素な暮らしぶりでした、、
明治8年に訪れた市庄内藩士によると、、
囲い(塀)は柴垣、細い門の柱に小さな木札「西郷吉之助」とあり、
右手は物置でここに犬が繋がれ、左手は土間、玄関なし いつも庭の方からまわって座敷に入る
座敷の前の庭には大きな松が45本あるのみで、遠く市街地を越して桜島を望み 絶景なり、、
室内にはワシントン・ナポレオン・ネルソンなど西洋銅版画の額が掛けられたのみで、床飾りもなしともあります、、
また、沖永良部島の島流しの時に知り合った川口雪蓬(西郷どんの書の師でもあった)とも同居、近隣の若者の教育を受ける機会を与えています、、
西郷どんの畑を耕し、犬と狩りに行き、大きな松の木々と桜島の絶景が自慢の質素ながらも穏やかな暮らしぶりだった事がよくわかりますね、、
2度の島流しにあい、幕末から維新まで走る抜けた西郷どんは本当はこんな穏やかな生活がしたかったのではないのでしょうか、、
私学校の学生達の騒動がなかったら(西南の役は不満分子による最後の内戦なので起きるべくして起きた戦いなので、いずれは起きていた)
西郷どんはこの様な一薩摩人として生涯を終えたいたかも知れませんね、、西郷武屋敷跡 名所・史跡
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武西郷屋敷跡(西郷公園) 徳の交わり
公園の一画に「西郷隆盛と菅実秀(庄内藩家老)対談座像」があります、、
これは、戊辰戦争で新政府軍と戦い敗れた庄内藩に対して西郷隆盛が下した寛大な処分・西郷どんの人となりに感服した家老の菅実秀が
この武の西郷屋敷を訪れ、語り合った(教えを請う)場面を再現しています、、
後に菅実秀が中心となり西郷どんの教えがまとめられ「南洲翁遺訓」が編纂されました、、
http://www.meijiishin150countdown.com/topics/discovery/5483/西郷武屋敷跡 名所・史跡
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武西郷屋敷跡(西郷公園)
現在は西郷公園になっており、西郷どんが暮らしていた面影が偲ばれるものと言えばこの井戸のみ、、
明治6年(1873年)からの約4年間
この屋敷での生活の朝夕の洗面、行水などはもちろん、庭先の盆栽、花園への散水や敷地の畑への給水も全てこの井戸の水が使われたそうです、、西郷武屋敷跡 名所・史跡
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武西郷屋敷跡(西郷公園)
今はもう、西郷どんが自慢に思っていた45本の松も残っていません、、
西南の役で屋敷は消失、、
(妻いとと11人の家族は西郷どんが西南の役で出陣した後は
西別府の西郷野屋敷へ移っていました)
西郷従道が屋敷を再建しましたが、その屋敷も第二次世界大戦の空襲で再び消失してしまいます、、
地元の人達もなんとかこの屋敷跡をもっと西郷どん所縁の場所として残したいそうなのですが、なかなか事情が許さないとのこと、、
kuritchiは再び鹿児島中央駅まで戻り『カゴシマシティビュー』に乗り
次の目的地 城山へ向かいます、、西郷武屋敷跡 名所・史跡
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『カゴシマシティビュー』を城山で降車、、
これから西郷どんに所縁のあるところを
『カゴシマシティビュー』も利用しながら巡ります、、
城山停留所 → 西南戦争(西南の役)薩軍本営跡 → 城山展望台 →
城山停留所 →(シティビュー)→ 西郷洞窟 → 敬天愛人の碑のあるトンネル → 西郷隆盛終焉の地 → 私学館跡 → 鶴丸城跡 → 西郷隆盛像城山(鹿児島市) 自然・景勝地
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イチオシ
西南戦争(西南の役)薩軍本営跡
城山ドン広場から細い道を上っていくと、、
『明治十年戦役(西南戦争・西南の役)薩軍本営跡』の碑が苔むした中に佇んでいました、、
もう、、この時点で涙腺が弱くなっています、、
明治10年(1877年)に私学校生たちの火薬庫襲撃がきっかけとなって起きた西南の役、、
西郷隆盛という維新のカリスマを担いで東京を目指して進むものの
熊本の田原坂での官軍との厳しい戦いなど、
約5万人とも言われるの官軍の前にジリジリ追い詰められ、西郷隆盛が指揮を執った宮崎の和田越の決戦で敗れた西郷軍は解軍。
約300人余り(500人ともいわれています)で可愛岳(標高728m険しい地形の山)を越え「山岳部踏破」最後の戦いの地城山に入ります、、
この時9月1日、、
2月の雪の降る中 龍門司坂を出発してから半年が過ぎていました、、
この西南の役で西郷隆盛は末弟西郷小兵衛を亡くし、
一緒に参戦していた長男(愛加那・とぅま 息子)菊次郎も和田越の決戦で重傷を負い、西郷隆盛の弟従道の元に投降しています
(大河ドラマ「西郷どん」で菊次郎を担いだのは西郷どんになっていましたが、実際担いだのは従者熊吉・ドランクドラゴン塚地武雅さん)西南戦争 薩軍本営跡の碑 名所・史跡
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西南戦争(西南の役)薩軍本営跡
城山の奥まったところのこの場所で西郷軍(薩軍)の本営が置かれていました、、
鶴丸城は山城(城山)と麓の居館からなる城で、
廃藩置県後の明治7年に本丸(現歴史資料センター黎明館)が消失
出丸跡は私学校となっていました、、
城山はまさに西郷どん達にとってはホームグランド、、
死を覚悟した面々には願ってもない最後の戦場だったことでしょう、、西南戦争 薩軍本営跡の碑 名所・史跡
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薩軍本営跡から遊歩道を てくてく、、
城山の標高は107m、、
江戸時代に入り、藩主島津家久は麓に鶴丸城を築きましたが、
この城山は立ち入り禁止となり、
クスノキやシイの巨木が茂る自然の姿の残る城山公園(国の史跡・天然記念物)となっています、、
時間があれば、このクスノキやシイ、シダの茂る遊歩道をもっと散歩したかったなぁ~♪
これは、、次回訪問時の宿題としましょう、、城山(鹿児島市) 自然・景勝地
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イチオシ
城山展望台
多分、、西郷どんも眺めたであろう、、同じ 桜島♪
< この桜島を目にしたくて鹿児島にやって来た気がする、、>城山展望所 名所・史跡
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イチオシ
城山展望台
まわりには大きなクスノキもあって、、
暫し、、たたずむkuritchi、、城山展望所 名所・史跡
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城山バス停から次の目的地「西郷洞窟」までは『カゴシマシティビュー』で、、
(『まち巡りバス』でも行けます)
どちらも「西郷洞窟」 → 「城山」 → 「西郷洞窟」と「西郷洞窟」には2度停まるので城山を先に訪れるか、西郷洞窟を先に訪れるか選べます、、 -
西郷洞窟は道路に面しているので、バスの中からも見えます、、
本日、、西郷洞窟前を通るのは3度目、、
(1度目は午前中に仙厳園へ向かう時、2度目は午後城山へ向かう時)
何度前を通っても涙目になってしまうkuritchiです、、
現在は西郷洞窟は2つしか残っていませんが、
当時は洞窟は11個あったと言われているそうです、、
西郷どんは最後の5日の前、暫く 近くの民家で寝泊まりしていたそうで、
さすが人気&尊敬を集めていた西郷どん、、
鹿児島の人々も西郷贔屓~♪西郷洞窟 名所・史跡
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西郷隆盛洞窟
180㎝ 109㎏の西郷隆盛が最後の5日間を過ごしたのはこの小さな洞窟なのだと驚きの念を持っていましたが、
現在は2m程の奥行しかありませんが、作られた当時は4mほど奥行があったのだとか、、( 約8畳?)
洞窟の風化が進んでしまい、現在は2つ、しかも小さくなってしまっているのだそうです、、
11の洞窟に西郷隆盛はひとりで、そして下位の者たちは何人かでシェアして居たのだそうです、、
<その5日間、、西郷隆盛は何を思って過ごしていたのでしょうか、、>
いきり立つ私学校生たちに
「おはんらにやった命、おいの身体は差し上げもうそう」と西南の役の真ん中に飛び込んだ西郷どん、、
もう思い残すことはないと 静かに過ごしていた様な気がします、、
そして、いよいよ9月24日の政府軍の最後の総攻撃が迫ってきます、、
城山総攻撃の前夜には今まで響いていた大砲の音も静まり、薩軍はわずかに残った食料などでささやかな宴が行われていたそうです、、
そんな時、城山を何重にも取り巻いている政府軍からショパンの「葬送曲」とヘンデルの「マカベウスのユダ」(表彰式でよく演奏される演目)の曲が演奏されたと言われています、、
政府軍の中にも西郷どんを慕うものも多く、西郷隆盛を称え、尊敬の気持ちの表れだったのでしょうか、、西郷洞窟 名所・史跡
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西郷隆盛洞窟
1877年(明治10年) いよいよ9月24日 早朝、、
西郷隆盛、桐野利秋・桂久武・村田新八・別府晋介・辺見十郎太(薩軍きっての猛将)達40名はこの西郷洞窟の前に集まり、兵士300名と共に最後の戦いに向かいます、、
(この時、足に重傷を負っていた別府晋介は駕籠で移動していました)
kuritchiも これから 西郷どん達と同じ様に
「西郷洞窟」から岩崎口へ向かって歩きます、、西郷洞窟 名所・史跡
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城山から下りて行きます、、
現在はJRの線路やトンネルが出来ていますが、、
この辺りが西郷隆盛達が下りて行った岩崎谷のはず、、
政府軍の鉄砲の玉が飛び交う中を谷を下り、岩崎口を目指して進んで行く西郷軍、、
目指すその場所にはこの戦いの終焉が待っているのです、、
-
岩崎谷のJRのトンネルには「人愛天敬」の文字が掲げられています、、
「人愛天敬(けいてんあいじん)」は西郷隆盛が好んだ言葉で
天を敬い人を愛すること、、 -
そして、、 西郷隆盛終焉の地です、、
-
西南戦争(西南の役)薩軍本営跡、城山展望台、、
西郷洞窟と てくてく、、
西郷隆盛終焉の地までやって来ました、、
kuritchiは現在の道をてくてく、、
西郷隆盛終焉の地まで 約600m 時間にして約10分、、
(しかし、実際の西郷隆盛が自決した場所は
西郷洞窟から約300mのほど下った場所だったと記録に残っています)西郷隆盛終焉の地 名所・史跡
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イチオシ
西郷隆盛終焉の地
その階段を上ると、、
大きな木に守られる様に、、西郷隆盛終焉の地の石碑があり、、
その時の西郷隆盛一行を思うと、、自然と涙がこぼれ落ちてきます、、西郷隆盛終焉の地 名所・史跡
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西郷隆盛(南洲翁)終焉の地
西郷洞窟を出発した一行は、まず桂久武が被弾し斃(たお)れ、
政府軍の鉄砲の玉がびゅんびゅん飛び交う中 次々と斃(たお)れていく薩軍の兵士達、、
そして、遂に西郷隆盛も股と腹に被弾し、歩けなくなります、、
西郷どんの有名なひと言「晋どん、もうここらでよか」、、
そして、皆がひざまずいて見守る中、西郷隆盛は襟を正し、跪座し(正座ではなく前かがみになりながら座る作法)(天皇の居る)東に向かって拝礼、、
駕籠で追いかけてきていた別府晋介が駕籠から下り、拝礼が終わると
「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯、、
この城山での別府晋介の役目は西郷隆盛の首を取られない様に介錯すること、、
(「佐賀の乱」の中心人物だった江藤新平は処刑された上 さらし首にされた)
別府晋介は役目を果たし、その場で切腹、、
西郷隆盛の最期を見届けた桐野利秋・村田新八・辺見十郎太達は
再び岩崎口を目指し突撃、、
私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、 自刃、刺し違え、あるいは戦死したのでした、、
銃撃や砲弾の音が静かになった頃には薩軍約350名が全滅、、
午前4時に砲撃で始まった最後の戦いは数時間で終焉の時を迎えました、、西郷隆盛終焉の地 名所・史跡
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イチオシ
私学校跡
kuritchiは 坂道を てくてく、、
西郷隆盛終焉の地歩くこと500m 約5分、、「私学校跡」に到着、、
kuritchiには約5分の道も鉄砲玉が飛び交う中をくぐり抜ける兵士たちには「私学校」までの距離は大層長かったことだったでしょう、、
<この木々は私学校設立の時も西南の役の最後の戦いも全てを見ているのですね、、>私学校跡 名所・史跡
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私学校跡
1874年(明治6年)下野した西郷隆盛は、
一緒に官職を辞して帰郷した多数の青年に仕事を与える為に
そして、若者の教育の為に 時の県令の大山綱良の協力も得、鶴丸城旧厩跡に私学校を設立します、、
(「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校)
特に「幼年学校」は明治維新に功績を挙げたものに与えられた賞典禄によって設立されました
(西郷隆盛が二千石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石、大久保利通も千八百石)
「銃隊学校」と「砲術学校」は篠原国幹、村田新八がそれぞれ指導にあたりました、、
(桐野桐秋は翌年作られた吉野開墾社を指導)
設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされています、、
1876年(明治9年)末頃は県内のすべての郷内に設立され、136の分校を持ち
多くの青少年たちが学んでおり、逆に薩摩の中で大きな勢力となっていったのです、、私学校跡 名所・史跡
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私学校跡
その大きな勢力となった私学校生達の火薬庫襲撃がきっかけで始まった西南の役、、
西郷隆盛達が鹿児島に戻り、最後の戦いの場となり、その塀には銃弾の弾痕が今でも残っています、、
(鹿児島県の記念物・史跡に指定)西南戦争の銃弾跡 名所・史跡
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私学校跡
「私学校跡」の石垣は西南の役当時の被弾の跡をよく残し、、
その跡からは厳しい戦いであった事が伝わってきます、、西南戦争の銃弾跡 名所・史跡
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イチオシ
「私学校跡」から「鶴丸城」の面影を残す場所へ向かいます、、
私学校跡 名所・史跡
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江戸時代、島津家が築いた鶴丸城には元々天守閣がありませんでした、、
城山の下には島津氏の櫓やぐらを持たない居城・平城、、
それと、薩摩の思想で
「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」とあります、、
人こそが守りの要、、
4人にひとりが武士だった薩摩藩ならではの思想なのかも知れません、、
本丸の北東部にある鬼門除けの「隅欠(すみおとし)」
右の角が落ちているのがわかられるでしょうか、、 -
鶴丸城は廃藩置県後、明治6年に本丸を火災で消失
また明治10年の西南の役の際に二の丸も焼けてしまいました、、
現在「御楼門」建築を計画中 だそうで、、(上)
御角櫓(おすみやぐら・左下)も計画中の様です、、鶴丸城跡 (鹿児島城跡) 名所・史跡
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こんな感じの石垣、、
いかにも南国らしい気がする、、、 -
石垣に沿って、、 てくてく、、
< やっぱり 石垣はいいなぁ~♪ > -
西郷隆盛銅像
< 我ながら、、「西郷どん」尽くし?(笑) >
でも、、ここはバスの車窓からも見られるのですが、じっくり見たくって、、
交差点に陸軍大将の制服姿で威風堂々とした西郷どん♪
< やっぱり、この姿の西郷どんが一番しっくりする、、 >西郷隆盛銅像 名所・史跡
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西郷隆盛銅像
西郷隆盛没後50年を記念して作られた
城山を背景に高さ8メートルの堂々とした西郷隆盛像♪
大きな目で日本の行く末を見据えてくれている、、(^^
鹿児島市出身の彫刻家で 渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作した大作!
kuritchiが西郷どんフアンだとわかると、、
地元の人に「西郷隆盛像見た? あれが本物の西郷隆盛だよ!」って、、
kuritchiもそう思います(^^西郷隆盛銅像 名所・史跡
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西郷隆盛像の次は、、小松帯刀像
西郷隆盛より8歳年下で、大久保利通より5歳年下、、
育った場所が篤姫が生まれた今津島津家の領地の近くだったこともあり、
篤姫とは幼馴染だったそうです
大河ドラマ「篤姫」では小松帯刀(肝付尚五郎・小松家に養子に入る前)を演じたのが瑛太さん・「西郷どん」では大久保利通を演じています)
小松帯刀は維新の十傑のひとり
27歳の若さで薩摩藩の家老となり、
坂本龍馬と交流を持ち、亀山社中の設立を後援したり、
西郷隆盛を流刑から戻す様に大久保利通と島津久光に働いたのも小松帯刀であり、
薩長同盟に至っては京都の小松邸にて締結、、
また、徳川慶喜による大政奉還を成功させたのも帯刀
西郷隆盛や大久保利通の維新への動きを
導き支えていたのが小松帯刀だったのです、、
明治の時代に入り、能力を見込まれて益々の活躍が期待されていた中
病に倒れ、1870年(明治3年)に36歳の若さで亡くなってしまうのでした、、
小松帯刀がもう少し長生きをしてくれていたら、明治の時代は変わっていたかも、、
西郷隆盛と大久保利通との大きなすれ違い、亀裂も生じなかったかも知れません、、
本当に惜しい人材でした、、
この帯刀の姿は、15代将軍徳川慶喜が諸大名を集め『大政の奉還』をすべきかを問うた時に薩摩の城代家老帯刀が「大政を奉還すべき」と他藩に先駆けて記帳した様子を表しているそうです、、
最寄の市電乗り場(朝日通駅)まで歩いて、
朝日通駅→(市電2系統)→鹿児島中央駅→(ホテルのシャトルバス)→
ホテルまで戻ります、、小松帯刀像 名所・史跡
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鹿児島サンロイヤルホテル
この日は沢山歩きました(笑)
それに、市電や『カゴシマシティビュー』もよく利用しました、、
ホテルのお部屋からきれいな桜島の夕日を期待したのですが、、
考えてみたら桜島は鹿児島市の東側にあるのできれいな夕日は無理(^^;
この日は良いお天気の筈だったのですが、午後からどんどん雲が出てきて、、
全く色づくこともなく日が暮れてしまいました、、鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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今回の旅は鹿児島の美味しいものを出来るだけいただこうと自分なりに調べたつもり、、
1日目 ランチ:黒豚の館でかごしま黒豚のロースとんかつ
夕食 : 旅館での鹿児島黒毛和牛付和食会席
2日目 ランチ : ちりめん・しらす専門店 凪 三色丼(ちりめん・まぐろ・うに)
夕食 : さかな酒場 半魚人 地元ならではのお魚+
3日目 ランチ : 鹿児島ラーメン我流風
さて、、この旅の最後の夕食、、
お魚にするか、、それとも、、お肉??
でも、、おひとり様なので 豚のしゃぶしゃぶは難しいしなぁ、、
色々悩んだ結果、、
天文館の「赤鶏炭焼 大安」へ、、
大人気店なので絶対に要予約!
この日は平日でしたが、全員予約のお客さん、、
kuritchiが帰る9時頃でも予約のお客さんのみ入店可でした、、赤鶏炭焼 大安 グルメ・レストラン
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赤鶏炭焼 大安
まずは、、生ビールを頼み、、
「鶏の皮サラダ」
お客さんのほぼ100%が頼むメニュー、、
「ちゃんと 一人分用にするから大丈夫だよ!」、、
千切りキャベツの上にカリッと揚げた鶏の皮、そして海苔が乗っているいるだけなのですが、、
< 美味しい~~~♪ >
自家製お酢が また バッチリ♪ 合う~♪ 合う~♪
これで一人分?! 全部食べられるかなぁ、、と思ったのがウソみたいに
< ペロリ~♪ (笑) >赤鶏炭焼 大安 グルメ・レストラン
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赤鶏炭焼 大安
普段、、鶏肉のたたきは苦手なのですが、、
「赤鶏刺し」
これも、、これで一人前です、、
おろしにんにくをたっぷり付けて、、
そして、、特製タレも漬けて、、
< まいう~~~~♪ >
この鶏のたたきもお客さんの100%が頼むメニュー
鶏肉の甘みと歯ごたえがまた、、美味しい♪
また、、ビールが 進む!(笑)赤鶏炭焼 大安 グルメ・レストラン
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赤鶏炭焼 大安
そして、、こちらもお客さんの100%が頼む、、
「赤鶏もも焼き」
こちらも、、一人前、、
もも焼きのこりこりした歯ごたえ、、
そして、噛めば噛むほど味が出てくる、、
< 美味しい~~~♪ >
見たところ、、強火でころころ 一口大のもも肉を焼いて塩を振っただけなのですが、、
全然違うのです、、
香ばしさに、、、歯ごたえ、、旨味が何とも言えない、、
kuritchiも余りの美味しさに生ビールと一緒にペロリと完食~♪赤鶏炭焼 大安 グルメ・レストラン
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赤鶏炭焼 大安
折角だから、、焼き鳥もいただいちゃおうかしら、、
(左から) ずり、つくね×2(タレ) 皮 もも
調子に乗って頼んじゃいましたが、最後の2本が食べられない、、
(持ち帰りにしてもらって、ホテルのお部屋で真夜中に缶ビールと一緒にいただいちゃいました、、)赤鶏炭焼 大安 グルメ・レストラン
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お腹もいっぱい、、& すっかりいい気分~♪
目の前にTAXIさんは居るし、、 えいっ! ホテルまでTAXIで戻っちゃいましょう!
予定では、この後もう一軒〆でとんこつラーメン!でした、、
(随分無茶な計画を立てていたものですね(汗))
かくして、、 kuritchiは肥満ロードまっしぐら、、(^^; -
【 最終日 】
朝から、、雨模様、、、
お天気予報通り(涙)
でも、、雨の桜島も なかなか幻想的でいい感じ♪
(プラス思考ですね、、)鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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鹿児島サンロイヤルホテル朝食
1階 カフェレストラン「トリアン」
洋食メニューも、、鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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鹿児島サンロイヤルホテル朝食
1階 カフェレストラン「トリアン」
和食やサラダも、、
(右上)2種類の焼き豚も美味♪鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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鹿児島サンロイヤルホテル朝食
1階 カフェレストラン「トリアン」
(左上) 自家製鹿児島知覧茶豆腐
(左下) 茶碗蒸し
(右上) オーダーで作ってもらえるオムレツ
(右下) 出汁巻き玉子とスクランブルエッグ鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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鹿児島サンロイヤルホテル朝食
1階 カフェレストラン「トリアン」
1日目はメニューいろいろの中から選んでいただいたので
2日目は気に入ったおかずを少し&鶏飯(けいはん)をいただきます♪
サンロイヤルホテルの朝食 種類も豊富だし、美味しい~♪鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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さて、、本日最終日、、
関西へ戻るANA便は鹿児島夕方発の便を予約しています、、
でも、、今日はまだ雨の降りがひどくないのですが、
段々強い降りになってくる予報、、
< さて、、今日はどうしますか、、 >鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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桜島も今日は 噴火煙 もくもく、、
鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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イチオシ
それでも、、桜島の姿を目に焼き付けながら、、
荷物をまとめ、、鹿児島サンロイヤルホテル 宿・ホテル
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ホテルをチェックアウトして(荷物はホテルに預けず鹿児島中央駅のロッカーに)
鹿児島中央駅までホテルのシャトルバス
↓↓↓
鹿児島中央駅からシティビューバス鹿児島中央駅 駅
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ザビエル滞鹿記念碑 の前を通り、、
ザビエル滞鹿記念碑 ザビエル公園 名所・史跡
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西郷隆盛銅像の前も通り、、
西郷隆盛銅像 名所・史跡
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西郷どんを巡る旅の総仕上げ、、 南洲神社・南洲墓地へ、、
南洲公園入口バス停で降車、、
南洲公園入口バス停より徒歩5分、、
南洲公園として、南洲神社・南洲墓地・西郷南洲顕彰館、、
駐車場有
バス停から少し歩き、、長い階段を上り、、南州神社 寺・神社・教会
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南洲神社
岩崎谷で戦死した西郷隆盛以下40名がこの地浄光明寺跡で山縣有朋らの立ち会いの元で検屍が行われ、葬られました、、
当時の鹿児島県令大山綱良も西郷軍に協力したかどで逮捕され、西南の役終了後 長崎で斬首されています、、
(名目は官費を西郷軍に渡した為)
その大山綱良もこの南洲墓地に埋葬されています、、南洲神社 寺・神社・教会
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南洲墓地
階段を上ると、、宮崎、熊本、大分から集められたお墓があり、
その数の多さにに圧倒されると同時に如何に大変な戦いだったのかを実感、、
西南の役が終了し、城山(岩崎谷)で亡くなった西郷隆盛をはじめとする40名がここに仮埋葬され、
その2年後、有志によって鹿児島市内の5カ所に仮埋葬された遺骨をこの場所に改葬、
更に6年後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨を集め、現在2023名が眠っています、、
憤懣遣る方無い士族たちによる新政府に対する不満ゆえの最大の反乱、、
まさに、「命もいらず 名もいらず」、、南洲墓地 名所・史跡
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南洲墓地
西郷軍の幹部と言われる40名は少し高台のこの地でまだ指揮を執っているかの様に葬られています、、
真ん中に西郷隆盛、左右を最期まで西郷隆盛を守った篠原国幹や桐野利秋、村田新八が並びます、、南洲墓地 名所・史跡
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南洲墓地
※ 西郷隆盛 ※
亡くなって150年以上経ちますが、その激動の人生とその人柄ゆえ人をひきつけ続ける西郷どん、、
西郷隆盛の遺体も検屍後、毛布に包まれ、木櫃に入れられて、ここ浄光明寺跡に仮埋葬されました、、
享年49歳、、
西郷隆盛の首も戦闘終了後に発見され、検分の後に身体と一緒に手厚く葬られたそうです、、
政府軍が戦いが終わった後に西郷隆盛の首を見つけた時、政府軍の兵士たちは西郷隆盛の首に向かって礼をしたと伝えられています、、
明治天皇は西郷隆盛を大層気に入っており、亡くなった事を従道から聞くと
「西郷を殺せとは言わなかった」と嘆かれたといいます、、南洲墓地 名所・史跡
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南洲墓地
墓碑の字は沖永良部島で島流しの時に知り合った川口雪蓬(せっぽう)によるもの、、
現在も地元鹿児島でバツグンの人気を誇る西郷どん、、
現在もお花が絶えることがありません、、南洲墓地 名所・史跡
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西郷隆盛の横を固めるのは篠原国幹、、
※篠原国幹※
西郷軍の一番大隊長の篠原国幹は熊本城、田原坂の激戦を戦い
西南の役が始まって間もない3月の戦いで
政府軍の射撃手に前線で戦っているその姿を狙われ、命を落としました、、
燃え立つような赤い裏地のマントと腰に輝く銀装刀に身を包み、静かに身振りで指示を与える指揮官だったそうです、、
藩校造士館きっての秀才にして、武道文武両道を極めた武士でした、、
戊辰戦争ではその戦いぶりにその名を轟かせた人物、、
明治6年西郷の下野に伴い薩摩に戻り、村田新八・桐野利秋達と共に私学校設立、篠原国幹は「銃隊学校」の指導にあたりました、、
享年42歳
因みに西郷隆盛の末弟西郷小兵衛は一番大隊一番小隊長でした、、南洲墓地 名所・史跡
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※村田新八※
西郷どんと同じ加治屋町出身。
年少の時から西郷隆盛に兄事し、
西郷どんの2度目の島流しの時に(西郷どんは沖永良部島)村田新八も 喜界島に流されます、、
(西郷どんが赦免された時に喜界島へ寄り新八も一緒に鹿児島へ連れ帰ります)
明治2年(1869年)鹿児島常備隊が作られた時に砲兵隊長に任命され、
岩倉具視欧米視察団にも加わります、、
言わば薩摩の出世株、、
ところが欧米視察から帰国後、西郷隆盛が下野したと聞き、新八も辞職して鹿児島へ帰ってしまいます、、
新八に大きな期待を寄せていた大久保利通は新八の帰郷を聞き茫然としたと言われています、、(勝海舟も大久保利通に次ぐ傑物と称し”惜哉”と語っています)
それほど、優秀な存在だった村田新八、、
薩摩へ戻った新八は桐野利秋・篠原国幹達と私学校を創立し、「砲隊学校」「幼年学校」の指導にあたります、、
美術を愛し、また音楽を好み、西南の役に参戦した時でもアコーデオンを離さなかったとか、、
又大変なオシャレさんで、西南の役でもシルクハットにフロックコート姿で戦っていたそうです、、
西南の役では薩軍二番大隊長として従軍
最後の戦いでは西郷隆盛が被弾し、別府晋介の介錯で西郷隆盛の自決を見届け、
私学校の一塁に籠もって交戦後 自決、、
享年42歳南洲墓地 名所・史跡
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西郷隆盛の反対側の横を固めているのは桐野利秋(中村半次郎)
※桐野利秋※
剣、特に居合には定評があり、幕末の京都であの新選組からも『人斬り半次郎』(最初の名は中村半次郎)と恐れられていました、、
(実は政府の密偵を暗殺したのが唯一の暗殺)
幕末になると、家老小松帯刀から引き立てられ、西郷隆盛など藩の重臣からも重用されるようになり、
戊辰戦争では西郷隆盛にその働きぶりを評価され、城下一番小隊隊長に抜擢、、
西郷隆盛が静岡で山岡鉄舟との会談の時やその後の江戸での勝海舟との会談にも立ち会ったと言われています、、
上野の彰義隊との戦いにも参戦しますが、その後一刀流の剣客・鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ、1人を斬り撃退したが、左手中指と薬指を失うこととなります、、
勇敢ぶりが有名ですが、官軍代表として会津藩降伏後の城の受け取り役を務めた時、会津戦争で敗れた会津藩士に男泣きし、親身に接していたとも言われ
後に松平容保(会津藩最後の藩主)から人を介して宝刀を贈られました、、
明治2年に鹿児島常備隊が作られた時に第一大隊の隊長、
明治4年には廃藩置県の為西郷隆盛と一緒に上京、御親兵(後に近衛師団)入り
そして、陸軍少将となります、、
明治6年に西郷隆盛が辞任下野すると、桐野利秋も辞任、薩摩に戻る、、
(その時桐野利秋は陸軍少将・陸軍裁判所所長を兼任 正五位)
私学校設立時に篠原国幹・村田新八達と一緒に設立、
桐野利秋は翌年つくられた「吉野開墾社」を指導して、率先して開墾事業に励みます、、
剣術だけでなく、実は読み書きに充分な教養があったとも言われています、、
(漢詩は苦手だったとも、、 )
いとこの別府晋介とは大層仲が良かったそうです、、
西南の役では西郷軍の総指揮官にして四番大隊長、、
西郷隆盛の最期を見届けた後桐野利秋は戦い続け、私学校の一塁に籠り、最後は額に銃弾を受けて絶命、、
激戦をくぐり抜けてきた桐野利秋の身体には多くの銃弾創や刀創が残っていたそうです、、
また洒落者(しゃれもの)としても有名で、
陸軍少将時代は金無垢の懐中時計、フランス製の軍服、そして、フランス製の香水を身に着けていたそうです、、
城山で戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたと言われています、、
享年40歳
大河ドラマ「西郷どん」で大野拓朗さん演じる桐野利秋もとっても素敵でしたね♪南洲墓地 名所・史跡
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※別府晋介(景長)※
戊申戦争にも参戦、、
分隊長として、白河城攻防戦、棚倉・二本松戦で戦い、会津若松進撃にも参戦し勇戦、
征韓論の折に西郷隆盛に命じられ韓国を2ヶ月内定、、
明治6年に西郷隆盛が下野すると別府晋介も陸軍少佐を辞職し、薩摩に戻ります、、
西南の役では西郷軍の六番・七番大隊連合指揮長、、
と言っても六番・七番大隊連合は一番装備が古く、人数も少ない独立隊、、
可愛嶽を突囲して九州南部山岳を踏破して鹿児島へ戻る時も戦いで足に重症を負い歩ける状態ではなく、山駕籠での移動、、城山での最後の決戦時も駕籠で移動していました、、
その別府晋介の大切な務めは西郷隆盛の介錯と西郷隆盛の首を政府軍に奪われないこと、、
別府晋介は大任を果たすと、その場で自害、、
桐野利秋とはいとこ同士で兄弟以上に仲が良かったと言われています、、
享年31南洲墓地 名所・史跡
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別府晋介(景長)のお墓の右横が弓の名手桂久武のお墓、、
(写真撮り漏らしです、、m(__)m)
※桂久武※
名家日置島津家当主の島津久風の五男。長兄は島津忠義の主席家老島津久徴。
次兄は「西郷どん」でも登場したお由羅騒動で犠牲となった赤山靭負(沢村一樹さん)
「西郷どん」で桂久武を演じたのはスピードワゴンの井戸田潤さん。
斉彬の死の直後、桂久武は大島守衛方・銅鉱山方に左遷され、その頃に奄美大島流刑中の西郷どんと再会・親交を持ちを持ちます、、
左遷から復活した林久武は在藩家老として同じく薩摩藩の家老であった小松帯刀と同様 西郷隆盛の武力討幕論を支持し「薩長同盟」など維新への道を開いていきます、、
西郷隆盛とは終生心の通じ合った友でもありました、、
西南の役には不参加を表明していた筈が西郷どんの出陣を見送りに行った際に、家人に刀を取りに帰らせ、そのまま従軍、、
物資の運搬などを担う大小荷駄隊本部長を務めます、、
最後の戦いまで西郷隆盛と共にしますが、岩崎谷にて政府軍の流れ弾に当たり斃(たお)れてしまいます、、
享年48歳南洲墓地 名所・史跡
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南洲墓地には2023名が葬られていますが、、
その中でkuritchiが気になったのが 小倉壮九郎
※小倉壮九郎※
実兄は東郷平八郎、、
日露戦争で連合艦隊司令長官として指揮を執り、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させた英雄です、、
東郷平八郎、小倉壮九郎共に加治屋町生まれ、、
小倉壮九郎は明治6年に陸軍大尉を辞任して下野、、種子島区長を務める、、
西南の役では三番大隊九番小隊長として従軍、、
城山の最後の戦いで城山にて自決、、享年35歳
東郷兵八郎は明治4年~同11年までイギリスに海軍士官として官費留学中で
帰国途中に西郷隆盛が西南の役を起こし自害した事を知り
「もし、私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだそうです、、
この他にも
※辺見十郎太※
戊辰戦争は薩摩藩二番小隊長として東北戦争で活躍、、
明治6年に西郷隆盛が鹿児島へ下野すると、辺見十郎太も西郷に従い下野、、
私学校でも力を尽くし、宮之城郷の区長も務めます、、
西南の役では薩軍三番大隊一番小隊長として従軍
薩摩三番大隊一番小隊長として熊本城攻撃のときに活躍し、
雷撃隊大隊長となります、、
勇敢な薩軍の中でも特にその武勇ぶりは飛びぬけており、
弾雨の中を先頭切って突撃する辺見を見て皆 勇気づけられたと言います、、
また、仲間からの信頼も厚かったそうです、、
城山での最後の戦いでは、西郷隆盛の自決後に別府晋介と刺し違えて亡くなったとも、政府軍に突撃し戦死したとも伝えられています、、
享年29南洲墓地 名所・史跡
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南洲神社
西郷隆盛(南洲翁)を祀った参拝所、、
http://nansyu.starfree.jp
明治13年(1880年)南洲墓地の隣に参拝所が設けられ、
大正11年(1922年)「南洲神社」として無格社に認定されます、、
現在の建物は昭和20年(1945年)戦災で焼失し、その後再興されたもの南洲神社 寺・神社・教会
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南洲神社
中には西郷隆盛像や「人愛天敬」の額が収められています、、
(直筆「人愛天敬」は西郷南洲顕彰館所有の様です)
西郷隆盛は(号 南洲)漢詩を好んで書き、多くの漢詩が残っています、、南洲神社 寺・神社・教会
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南洲神社の一画には昭和14年に当時東京市から贈られた
江戸城無血開城で江戸が戦火から免れた事への感謝の常夜灯があります、、
(左)
西郷隆盛とも交流のあった勝海舟の歌碑にも心打たれます、、
(右上)
ぬれぎぬを干そうともせず
子供らがなすがまにまに 果てし君かな
西郷隆盛は南洲神社 寺・神社・教会
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南洲神社
この日は朝からしとしと雨が降り始め、、
どんどん雨が激しくなっています、、
お天気がよかったら桜島も見えますが、、
今日はこの通り、、南洲墓地 名所・史跡
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西郷南洲顕彰館
西郷隆盛の資料などが展示されている「西郷南洲顕彰館」へ、、
貴重な資料・遺品が収められたいます、、
ガイドさんも懇切丁寧に説明&質問に答えてくれました(^^
(館内写真不可)
色々なエピソードも語っていただき、あっという間の1時間半滞在(^^
興味深かったのは、武士とは亡くなる時には前のめりの体勢であるべき!
両手を広げ、寝転んでの最期はあり得ない、、
切腹の時も必ず前屈みの体勢になる、、とのこと、、
< なーーーるほど、、 >
確かに大河ドラマ「西郷どん」の脚本家は史実を歪めて表現されていたので、
???と思う事も多かったけれど、、
地元の人達にそれはおかしい!と許せなかったのでしょうね、、
地元の人あるある、、その1
やはり、地元鹿児島では大久保利通は人気がない、、
地元の人あるある、、その2
西郷従道はもちろん、西郷隆盛のいとこ大山巌(政府軍の指揮官として城山に立て籠もった西郷隆盛達を追い詰めた)の事は悪く思っていない、、
(特に大山巌は西郷隆盛を攻め滅ぼした事を気にしてその後一度も鹿児島に帰省しなかったと言われていますが、、)西郷南洲顕彰館 美術館・博物館
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南洲神社
雨がまた一段と大粒になってきてしまいました、、(涙)
西郷さんたちを追い詰め亡くならせてしまった事への
悲しみの雨なのでしょうか、、南洲神社 寺・神社・教会
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南洲公園入口のバス停前に立派な石垣がり、、
この石垣が今和泉島津家本邸跡、、
今和泉島津家はあの天璋院篤姫の実家であり、天璋院篤姫生誕の地でもあります、、
現在は石垣と門しか残っていませんが、(私有地)
バスを待っている間、、
その激動の時代に思いを寄せるのも良いかも♪今和泉島津家本邸跡 名所・史跡
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バスに乗ってやって来たのはまたまた天文館♪
< 天文館にやって来たら何か美味しいものがある~♪ >
この頃(1時PM過ぎ)が一番雨風が強く、、傘は差すどころか、ずぶぬれ状態、、
実は、、南洲墓地で撮影をしていてカメラが雨で濡れて湿気てしまい、
レンズがすっかり曇ってしまった状態になっていました、、(涙)
なので撮影はカバンの中に入っていたiPhoneで、、天文館商店街 名所・史跡
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うなぎの末よし
それでも、、まだ頑張りますよ~!
だって、、「西郷どん」フアンとしては まだ絶対にいただきたいものが残っているんですもの!!
それは、、 うなぎ~♪
「西郷どん」達が楽しそうに&美味しそうに食べていた うなぎ♪うなぎの末よし グルメ・レストラン
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うなぎの末よし
うな重 松 (4切れ+肝入り味噌汁)
うな重 竹 (3切れ+肝出汁の味噌汁)
うな重 梅 (2切れ+肝出汁の味噌汁)
使われている うなぎは大隅半島産なのだとか、、
<贅沢~~~♪>
< う~~ん 悩むーーーー!!! >
悩んだ末 4切れは多いよねぇ~~で
うな重 竹 (3切れ+肝出汁の味噌汁)、、
やってきた うな重は2段重ね♪
1重目にうなぎ そして、2重目にご飯、、
自分で温かいご飯にうなぎをのっけていただきます~♪
< なるほど、、香ばしくって 美味しい~♪ >
タレも余り甘からず、、流石は創業80年余りの老舗のお味~♪
??? これだったら、松 4切れもイケた?(笑)
これは、、家族にも買って帰らなくっちゃと、、3人分のうなぎをお土産用に購入♪
今晩も うなぎ丼(自宅では丼)なので、、まあ良しとしましょうか(笑)
大満足で、、 今度は市電で鹿児島中央駅に戻ります、、うなぎの末よし グルメ・レストラン
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後は、、鹿児島空港へ行くだけ、、
鹿児島中央駅からは地下道を通り、、
鹿児島中央ターミナルビル1階から空港行きのバスに乗車します、、
予定所要時間 約40分
南国交通
https://nangoku-kotsu.com/ashuttle/kagoshima/
鹿児島市内~空港行きバス時刻表
https://nangoku-kotsu.com/wp-content/uploads/pdf/apo/koj-apo2019.pdf南国高速バスセンター (バスターミナル) 乗り物
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一番のお土産は うなぎの末よしで購入したお持ち帰りの鰻のかば焼き
&
鹿児島空港の売店で購入した きびなご(冷凍)
ダンナには大好評♪でしたが、、
義父(鰻が大好物!)は、、『ちょっと違う、、』って顔をしていましたっけ、、(笑)
今回の旅は「西郷どん」中心で主に鹿児島市内まわりましたが、、
まだまだ美味しいもの(いただきたいもの)が沢山あるCangoxina(カゴシマ)♪
< 絶対に また 訪れたいなぁ~~♪ >
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旅行記グループ
Cangoxinaうまかっ~♪ 「西郷どん」を訪ねて、、
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旅行記グループ Cangoxinaうまかっ~♪ 「西郷どん」を訪ねて、、
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