2019/04/19 - 2019/04/19
567位(同エリア1419件中)
belleduneさん
- belleduneさんTOP
- 旅行記839冊
- クチコミ134件
- Q&A回答177件
- 1,382,716アクセス
- フォロワー62人
2012年の5月末に、青森空港からレンタカーで、空港近くにある安藤忠雄設計の国際芸術センター、十和田湖、十和田市美術館、八甲田山、十二湖巡りなどを2泊でしたことがあります。弘前市内に泊まって、市内の建築を歩いて見て周り、青葉になった弘前城公園で地元の方とお話ししたりとのんびりしたことが思い出されます。その時は、本丸の天守は現在の移動前の前の場所にあり、下乗橋から撮った写真があります。
今回、東北の桜を見るために、かなりの距離を移動し、疲れましたが、満開近くのところもあり、まだまだ蕾の桜もありましたが、日本全国各所で、其々に素晴らしい景色を見せてくれます。
弘前城の桜もまだでしたが、公園内の植物園へ行き、梅、桜や色々な木々や花が楽しめました。この植物園は、1日いても飽きないところですね。
表紙の桜は、ヤブザクラで、マメザクラの変種だそうです。葉と花がマメザクラよりやや大形です。
- 旅行の満足度
- 4.5
PR
-
先ず、本丸の天守へ上ります。100年振りの石垣修理のため平成27年8月~10月に天守を本丸の内側(北西)に約70m曳家してあります。この移動時の作業をテレビで見ました。
この写真右端に見えているのが、古木のマツ科ウラジロモミ(ダケモミ)があります。ウラジロモミとモミはよく似ていますが、若枝が無毛で、葉の先が若木でも2裂しないのがウラジロモミジです。 -
明治29年、石垣が崩壊した後の時写真。この時石垣の上にあった天守を棟梁・堀江佐吉が指揮して、曳家工事を行なっています。本丸東面の石垣は、築城時には一部「築掛」(つきがけ)の状態でした。この部分に石垣が築かれたのは、築城から約80年後の元禄年間でした。その後、文化6年(1809)、現存する3層の天守再建に伴う天守台石垣の修築を経て、この写真の明治27、28年に天守台付近の石垣崩落が起こりました。
-
曳家の位置がよく分かります。
-
この枝垂桜が一番早く咲いていました。ニュースによると、24日は満開になりました。
-
天守から見た岩手山。
-
今はまだ蕾の桜も満開になる、大勢の人で賑わうでしょう。
-
この程度の蕾でした。
-
二の丸の枝垂桜の写真がありました。平成23年の大雪で根元から折れてしまいました。翌年1月に主幹の3分の1を切り、立て直しています。
-
所々に少しだけ咲いた桜がありました。
-
南内門から植物園へ
弘前城は津軽を統一した津軽為信が計画し、2代藩主信枚が着手し、慶長16年(1611)に完成しました。この南内門もその時に完成しています。 -
1階正面の柱にケヤキ板を使い、化粧として鏡板が貼り付けてあります。当初は、本瓦葺でしたが、文化年間に銅瓦吹きに変えています。
-
中濠に架かる杉の大橋から見た桜はまだ蕾です。
-
満開になると、こんな具合です。大きな看板がありました。
-
やっと植物園に来ました。先ず最初に梅園に咲いている満開の梅から
-
-
「龍眠」という野梅系の梅だそうです。
-
奥に辰巳櫓が見えています。
-
「道知辺」という梅
-
-
-
マンサク科のヒュガミズキ
-
薄墨桜
-
オオヤマザクラは、紅紫色の花です。
-
-
エドヒガン
-
-
-
-
フジザクラ(マメザクラ)または「おかめ」
-
-
-
-
-
何の花か分かりませんが、地面から20cm~30cmのところに、生えています。白い花チューリップのように細長く綺麗でした。植物図鑑で調べたのですが、載っていませんでした。
-
どなたかご存知の方はお教えください。
-
カバノキ科の榛(ハシバミ)
-
ヤマザクラ
-
-
-
ミズキ科のサンシュユ
-
広い植物園なので、取り敢えず桜を目指して歩いています。
-
コヒガンザクラは、エドヒガンとマメザクラの雑種で、淡紅色の花をつけています。
-
-
ユリ科の「桃源」は、ホトトギス属の園芸品種で、花は白く、花被片の先が紫色を帯びています。
-
高さがあるため、寄って撮れませんでした。
-
マンサク科のトサミズキ
-
-
木蓮の白、ピンク、トサミズキの黄色と重なり合った色が青い空に映えています。
白い花は、マグノリア”ワダズ・メモリー”で、コブシとタムシバの交配種とのこと。 -
マグノリア『デイバ』で、モクレン科のマグノリア・ステレンゲリの園芸品種です。
-
モクレン科のベニコブシは、シデコブシの変種。全体に小型で、花は紅色。
-
-
-
植物園から帰る頃、この杉の大橋辺りの桜は少し花が開いているような気がします。
-
明治~大正の修復以降、崩落せず、現状を保っていた東面石垣でしたが、昭和58年(1983)5月の日本海中部地震後の調査で、石垣が膨らんでいて、このままだと石垣崩壊が起こるということが分かり、明治~大正の修理から約100年振りの大修理が現在行われています。
-
調査の結果、平成23年8月に石垣解体修理の方針が決定し、翌年、東面石垣南端(天守台)から北へ約100m、天守台石垣南面約17mの範囲と確定されました。計画予定表によると、今年2019年中に完成となっていました。
-
石垣が膨らんでいる様子を図解してありました。
-
天守と傍の枝垂桜の大樹が見えます。帰って来てから、満開の桜のニュースを見ましたが、やはり満開の桜が綺麗でした。混み具合と道路の渋滞は想像がつきますが...
-
空撮のもの
上段の赤い囲みは、間知石積で、大正4年の修復工事の際に、崩落箇所に新たに入れた盛り土を抑えるために積まれた箇所です。
下段の赤い囲みは、帯コンクリートで、大正4年の修復工事時に、根石付近の基礎を補強するために、敷設された箇所です。この写真の右手に柱穴列があります。元禄年間の石垣城築足の際に、作業用足場などを立てた柱の痕跡ではないかと考えられています。 -
前の写真の右側です。赤い丸印は、次の写真の箇所です。
-
井戸の遺構
江戸前期から近現代の井戸跡。直径約6mの掘削範囲があり、東壁を石積み(長さ約5m、高さ5,8m)で、北、西壁を土塁板で押さえ、中央に二重の井戸枠(外枠約1,8m、内枠約1,2m)を据えています。外枠と内枠の間には砂が詰められているという。 -
-
東面石垣の図ですが、一番上の茶色の線部は、元禄年間に信政が積み足した石垣範囲と推定されます。その下の赤い線部は、『本丸天守閣石垣崩落の図』にみる石垣の崩落・亀裂範囲です。その下の赤い線部は、崩落「十間半」=約19mで、その続きの赤い線部は、亀裂「六間」=約11mとなっています。
-
写真の続木ですが、左の黒い矢印部分は、赤い点線部分を指していて、石垣の膨らみが約1mある部分を示しています。次の右手の黒い矢印は、蛇口(排水口)の箇所。その右手の黒い矢印は、慶長築城時の出角の残存部を指しています。
-
江戸前期の石垣
東面石垣の内部から「出角」が検出されました。築城当時の石垣築掛けの北端部で、当時背面盛り土を抑えていたもの。元禄年間の石垣築足の時に、総石垣にすることで役目を終え、そのまま埋められていたそうです。 -
排水遺構
本丸内の雑排水を内濠へ排出するための施設で、元禄年間の石垣築足の際に、築造されたもの。蛇口(水面から高さ約5m)から西側の盛り土斜面に沿って、石が組まれています。長さ約10m、高低約4,8m。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
belleduneさんの関連旅行記
弘前(青森) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
65