2019/04/06 - 2019/04/06
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たびたびさん
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この旅行記スケジュールを元に
信玄公祭りは、甲州軍団の武者行列がメイン。ただ、これは昼過ぎからになるので、その前に、武田神社から甲府市内の信玄ゆかりのスポット巡りと甲府城。甲府は郊外も含めて、もうあちこち回ってたはずでしたが、意外にそうでもなかったような。甲府を少しなめていたことに気がつかされた感じです。
ちなみに、甲府城ですが、別名は舞鶴城。武田信玄のいた戦国期から、甲府が甲斐の中心地となったのですが、居城である館は今の武田神社のあたり。躑躅ヶ崎にありました。そして、甲府城が作られたのは武田氏が滅亡した後、豊臣系大名の浅野長政父子の時代。大阪方からすると徳川家康を牽制する要所として重視されたのですが、江戸時代に入ると親藩の城という位置づけ。そもそも、江戸と交付を結ぶ甲州街道は江戸城陥落の際は、徳川将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたといういわくつきです。
一時、例外的に柳沢吉保が城主となったことでも知られますが、ただ、甲府市民のアイデンティティはやっぱり信玄。想像するに、江戸時代でももしかしたら、そうした空気があったかもしれせんね。
さて、信玄公祭りは、甲府では一番の祭り。1000人以上の参加による世界最大の武者行列、甲州軍団出陣が最大の見どころ。赤備えの騎馬武者隊から始まって、「風」「林」「火」「山」それぞれの諸隊が気勢を上げて行進します。今年の信玄公役は山下真司。若手俳優の山本勘助。コンテストで選ばれた湖衣姫が脇を固めます。
そして、アナウンスされるそれぞれの隊の紹介は、武田二十四将を紹介するものなのですが、かなり気合の入った詳しい内容。それぞれに物語があって、まさに信玄の言うところの「人は石垣、人は城」。戦国精強だった武田軍の姿を想像して、思わず胸が熱くなりました。
ただ、出陣の始まりは夕方からなので、写真を撮るにはちょっと暗くなってしまう。カメラ好きにはそこはちょっとマイナスかなと思います。
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甲府駅に到着しました。
甲府祭りに合わせて、駅の構内ではパネル展。 -
武田家の歴史、武田信玄の活躍をまとめています。
有名な話が多いのですが、武田信玄の正室、三条夫人。信玄の母、大井夫人あたりは馴染みがなかったかな。ちょっと知識が広がりました。 -
甲府駅改札を出て北側に向かってすぐのクリスタルアース。ちょっとしたスペースの奥の方にあるアート作品です。山梨はジュエリーの産地。それに因んで、クリスタルを使って地球を現したものなんですが、大きさもさほどでもないし、あんまり目立っていはいないかも。まあ、何かがあるなというくらいです。
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セレオ甲府で、ちょっと何かないかなあ。
ちなみに、この商業施設、駅前の山交百貨店と併せて駅周辺の賑わいの中核です。
ただ、甲府市のオールド市街はやっぱり岡島百貨店から春日モールの辺り。駅周辺で甲府の街を理解したような気持ちになるとそれは違います。 -
清月で、一番人気の甲州レーズンをいただきました。サクッとしたサブレなんですが、これに挟んだクリームと干しブドウの干しブドウは大粒のピオーネ。これはびっくりするくらい豊かな味わい。これ以上のものはちょっと考えられないくらいの仕上がりです。
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さて、甲府祭りまではまだ時間があるので、街歩きは武田通りから。この通りは、甲府駅北口から武田神社に向かう一本道。始めは都会的な市街の通りですが、神社に近づくと美しい桜並木が目立ってきます。ゆるい坂道を3キロ弱。私は歩いて行きましたが、30分に一本のバスもあって、どっちで行ってもいいと思います。
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甲府駅の北側は、武田神社へ向かう武田通りがメインストリートですが、その通りにはお店とかはなし。対して、武田通りの西側に並行して走る朝日通り商店街はお菓子屋さんやパン屋さんがそこそこあって、観光客にもそこそこ楽しめます。これは、イルクルソーレというジェラート屋さん。こうしたしゃれた店があるのも、特徴かなと思います。
イルクルソーレは、朝日通り商店街の中ほど。おしゃれな店構えのジェラート屋さんです。お店のお勧めでラズベリーをいただきました。酸味や香りがストレートに伝わってきて、ガツンとくるインパクト。逆にここまで何も手を加えないかなあという感じもしなくはありませんが、長く愛される味というのはこういうことなのかもしれません。 -
こちらでは、お店のお勧めでラズベリーをいただきました。酸味や香りがストレートに伝わってきて、ガツンとくるインパクト。逆にここまで何も手を加えないかなあという感じもしなくはありませんが、長く愛される味というのはこういうことなのかもしれません。
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さらに進んで。これは、石坂屋。朝早くから開いている和菓子屋さん。もともとはお餅屋さんということで、やっぱりそっち系が得意のよう。
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豆大福をいただきましたが、餡子もいいけど、しっかり存在感のある豆が印象的。お餅の柔らかさとの対比がグッドです。
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さらに、こちらは富士アイス。ビルインの今川焼のお店で、洋菓子のスローライフと隣り合わせです。
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あずきの今川焼をいただきましたが、うーん。正直、イマイチかな。この手のお店は、むしろ、すごくおいしいというのが基本。そこからの個性が問題なんですが、普通というのでは寂しいような気がします。
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隣りのスローライフは、洋菓子屋さん。看板商品は色鮮やかなマカロンです。
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いただいたのは、一番人気というショコラのマカロン。かじった直後はココアみたいないい香り。あとからミルクチョコの軽やかな味わいが追い付いてきて、うーん。なかなか完成度高いです。おいしくいただきました。
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そのはす向かいは、ベーカリー ハチ。地元では人気のパン屋さん。皆さん大量買いしていきますね~
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いただいたのは、リンゴのパン。しっくりした歯ごたえに果実の香りがほんのり。ちょっとお菓子にも近いようなパン生地もいいバランス。納得のうまさでした。
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さて、武田通りに戻って、だんだん武田神社の方に近づいてきましたね。
並木の桜が見ごろを迎えていて、いい感じです。 -
武田神社に到着して、こちらかぶとやは、神社の目の前にあるお土産物屋さん。お土産物屋さんはこの一軒しかないのですが、ソフトクリームや甘酒とか、お焼きとか。ここには何でもあって、この店があればもう十分といった感じ。ここ限定のカステラのお菓子もおいしいです。
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武田神社は、久しぶりですねえ。甲府駅からだらだらと緩やかな上りの大通りを行った先。気分的には30分くらいかかる感じかな。
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ここは、武田信玄の館のあった躑躅ヶ崎。
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イチオシ
明治以降も、神社建立の機運はあったのですが、日露戦争後の神社に軍国守護神を求める流れが起きたことで建立が具体化。
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大正天皇の即位記念に武田信玄に従三位が追贈されたことで建立が実現されました。
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甲陽武能殿は、武田神社に備えられた能舞台です。この日は、信玄公祭りで、ここでも琴の演奏の発表会の準備が始まっていました。建物は新しいとまではいいませんが、まだまだしっかりしているし、こうしたイベントにも映える造りです。
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そして、武田神社宝物殿へ。武田家ゆかりの品といっても、武田家は滅びているので、残っているものは限られるというのが正直なところ。前回の印象でも、少し薄い記憶しかありません。
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ただ、その中でも目にとまったのは甲陽軍鑑に関する展示。甲陽軍鑑は、江戸時代に入ってからブームとなったことなどが紹介されていて、信玄が戦った戦地の地図屏風なども今回は面白く拝見しました。
それと、キレ味がすごいので痛くなく死ねるという大井夫人の懐刀の迫力。これは相変わらずです。ちなみに、大井夫人は武田信玄の母。信玄に追放された信玄の父、信虎には従わず、甲斐にとどまりました。 -
武田氏館は、躑躅ヶ崎館と呼ばれた館。甲斐を統一した信玄の父、武田信虎が築きました。現在の武田神社の境内も館跡に建っています。ただ、その遺構がそれらしく保存されているのは、武田神社の境内を東側に出たところ。石垣の囲みや土塁などを見ることができます。
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イチオシ
一帯は武田氏館跡として国の史跡に指定されていて。
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この石垣もいいですが、
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やっぱり、先ほどの空堀と土塁とかにより迫力があるように思います。
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武田神社から、山梨県護国神社に回ります。武田通りの途中から護国神社の参道に向かう入口があります。
神社は白い鳥居から狛犬、石灯籠も巨大。本殿に向かう石段もしっかりと整備されていて、なかなかの構えです。 -
また、桜の花がちょうど見ごろを迎えていて、公園のような雰囲気もあるように感じました。
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続いての円光院は、武田信玄が定めた甲府五山のひとつであり、信玄の正室三条夫人の菩提寺です。
本堂に続くまっすぐな石段があって、 -
高台の見晴らしのいい位置に建っていました。
さて、三条夫人の墓は本堂の裏手。 -
説明には三条氏の墓とありましたが、これが三条夫人の墓ですね。石の柵の囲いがあって、すぐにそれと分かります。
ちなみに、三条夫人は武田信玄の正室。左大臣、三条公頼の次女で、「西方の一美人」と言われたほどの美人だったようです。
子は、武田義信、海野信親と恵まれますが、義信は謀反に関わった罪で幽閉、死去。信親は盲目だったということ。どっちにしても、武田家は滅びますが、この墓は大事に守られてきたことが窺えました。 -
そこから、今度は武田信玄公墓へ。円光寺から山裾古の道を辿って訪ねましたが、道案内の石柱が要所要所に立っているし、道案内の表示板もあって、分かりやすいです。
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イチオシ
桜の花が満開で、全体としては美しい公園といった感じ。ちょっとした屋根の建物の先に立派な墓石が建っていました。
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イチオシ
続いては、信玄の父、武田信虎の墓へ。
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こちらは、大泉寺の境内奥。
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ちょっと境内社のような独立した一角に信虎を祀るような格好の社と裏手に回ると石塔が建っていました。なかなか手厚い対応。けっして疎かにはされていないことが分かりました。
信玄に追放されたことで少し評価が下がる信虎ですが、ライバルを討ち甲斐国を統一したのは信虎。躑躅ヶ館も建てているし、武田家の中興の祖であることは厳然とした事実でしょう。 -
さて、甲府駅に戻ってきて、そろそろ昼飯にします。
きりは、甲府駅北口からすぐの人気のそば屋さん。予約したグループが何組かいたり、かなり賑わっていました。 -
私は、そばと鳥のもつ煮のセットをいただきましたが、そばのシャキッとした味わいが印象的。
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イチオシ
メニューを見ると魚の料理なんかも普通にたくさんあったりして、かなり幅広い対応。そんなところも人気の秘密なのかなと思います。
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駅前北口広場ではイベントが始まっていました。
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これは、岡崎から応援に駆け付けたパーフォーマンスチーム。
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家康と信玄。まあ、縁は浅くはないですからね。
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ただ、私はここから甲府城をチェックします。
意外に小さな城なんですが、いろいろあるんですよね。 -
甲府駅の南口から甲府城に向かって、
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一番近い口の坂を上った先が稲荷曲輪。甲府城の中では一番広い芝生の広場です。ここからそのまま天守台の方に上って行けますが、この一帯も気持ちのいい場所。桜が満開で、ここでお花見をする人も多いようです。
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稲荷櫓は、稲荷曲輪の端っこ。端正な姿が美しい櫓です。
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城の鬼門に位置していて、平成16年に復元されたものなので、歴史的なものではありませんが、これがあることで城の雰囲気がぐっと増す。甲府城は天守閣がないし、そういう意味でもこの建物は重要かな。中は簡単な展示室になっています。
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二重の石垣は、稲荷櫓から数寄屋曲輪に入って、その石垣の裏手。
現在の石垣の下にもうひとつ石垣があって、その二重の構造がむき出しになっています。発掘調査によって発見されたようですが、これを見ると今の石垣がいかにしっかりしたものかがよく分かる。甲府城は大きさはイマイチなんですが、こうしたところにちゃんと手がかけてあるということです。 -
庄城稲荷跡は数寄屋曲輪から天守台を望む石垣の手前。城内に祀られていた稲荷神社があったところです。城の守護のために祀られたものでしょうが、城ではよくあること。ここだけが特別ということでもないと思います。
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数寄屋櫓跡は、城の東側。稲荷曲輪から続くのが数寄屋曲輪なので、その一角にあるのかと思ったのですが、数寄屋櫓跡は、その一段下のエリア。稲荷櫓は復元されていますが、はこちらは復元されていないので、対比できたりできないのがちょっと残念です。
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稲荷曲輪門は、稲荷曲輪から鍛治曲輪、自由広場の方に向かう門。石垣と石垣の狭いところにハマるように造られた高麗門。これも復元された建物で、木の感じとかは確かに新しい。黒い鉄鋲の縁取りがシャープなデザインになっています。
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稲荷曲輪門は出ずに、本丸に向かいます。
アスファルトの坂になっていて、ちょっと味気ないですが、それはそれとして。。 -
本丸櫓跡は、稲荷曲輪から城の一番高い天守のエリアに入る入口。稲荷曲輪を見下ろす位置に説明板がありました。石垣がしっかり残っていますが、それにしても櫓が建てられるようなスペースではない。ここを見て、櫓が建っていたのを想像するのはちょっと難しいかと思います。
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甲府城の暗渠は、本丸櫓跡のい続き。ここにも説明板がありました。暗渠は、石垣や盛り土が雨水で流れて傷んだりしないように造られたもの。石垣の下に小さな穴が開いていて、そこから水が流れて行くようになっているのだと思います。
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イチオシ
さて、これが天守台。天守閣はありませんが、どこからでもこの天守台は見えるので、やっぱりここが城の象徴ですよね。
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石垣を組んだ台の上は通路のようになっていて、
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言ってみれば、すべてが展望所。
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甲府市内を360°すべて眺めることができます。
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天守台と並んで目立つのは、恩賜林謝恩碑。ペンシルのようにすっくと建っていて、今ではすっかり甲府城の特徴ある景観の一つとなっています。
ちなみに、甲府では明治40年の大水害など水害が多発。これに対し、明治天皇より山梨県内の御料地の下賜が行われたことに対する感謝の意味で建てられたものだとか。碑の下は四方から見上げることができますが、下から見上げてもあまり格好よくはないですね。遠くから見るべき碑だと思います。 -
鉄門、銅門跡は恩賜林謝恩碑の脇。天守台の向かい側。
銅門の方は復元はされていませんが、石段のところにそれらしい礎石が残っていて、なかなか力強い。 -
鉄門の方は復元されていて、甲府城の門の中では一番立派。内部の公開もされています。二つの門がどのような関係だったのか。
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イチオシ
枡形のような位置関係にはあるのですが、少し離れているのでそうでもないような。もう少し説明がほしいところです。
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鉄門から自由広場の方に下っていくと、中の門跡。石垣と石垣に囲まれた場所。たぶん、この場所もかつては石段になっていたんだと思いますが、それを坂にしてしまったことで門の跡が分からなくなっているような気がします。
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そこから武徳殿を過ぎて、
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内松陰門は、城の北西側にある門。屋形曲輪と二の丸をつなぐ門で、明治の初めまで残っていたものを平成11年に復元したのだそう。美しい高麗門で、鉄鋲の黒い縁取りのデザインは、規模はこちらが大きいですが、稲荷曲輪門と似ています。
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坂下門跡は、中の門跡をさらに降りた場所。この門も鍛治曲輪と天守曲輪を繋ぐ門の一つだったはずですが、今はかつての姿を想像するのは難しい。石垣の立派さで、門も立派だったんだろうなあと想像するので精一杯かと思います。
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恩陽林記念館は、鍛冶曲輪門から城内に入ってすぐ。恩陽林というのは、明治の末、山梨の度重なる大水害に対し、明治天皇が下賜された御料地のこと。現在は県有林となっているようですが、それを記念する建物。昭和28年に完成。立派な建物です。
信玄公祭りの期間中でしたが、甲州寺子屋という講演会が行われていました。 -
鍛冶曲輪門は、鍛冶曲輪と楽屋曲輪をつなぐ門。明治初めまで残っていたものを平成8年に復元したそうです。主門と脇にくぐり戸が付いていて、防御に徹しただけの門とは違うような。その分、少し穏やかな印象となる門だと思います。
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甲府城の南正面の遊亀橋を渡って、城外へ。
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ここからだと天守台とか甲府城の全景がバッチリ眺められます。橋自体は木造でさほどの大きさではありませんが、両側にはお堀も眺められるし、橋には気楽な雰囲気もあるでしょう。
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遊亀橋を渡って左手すぐ。お堀端に建つのが庄城稲荷大明神。城内にあった稲荷神社ですが、今ではここに移されたよう。甲斐源氏の祖一条次郎忠頼がここに館を構えた際守護神として祀ったというのが始まり。ちっぽけな神社ですが、歴史を持っています。
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自由広場に戻ってきて、屋外の特設ステージでは元気いっぱいのパーフォーマンス。
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この手のパーフォーマンスだと、よさこいがお馴染みなんですが、この創作ダンスもいけてます。
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踊りも歌もあって、気分がスカッと晴れました。
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自由広場の周辺ももう少し。
小田切謙明の石碑は、自由広場の天守側の端っこ。かなり立派な石碑です。
ちなみに、小田切謙明は明治時代に活躍した地元の自由民権運動家。明治になって、山梨からは甲州財閥とも呼ばれた多くの実業家を輩出したり、独特の人材が生まれていますが、その流れにもある人物。明治以降、世の中の動きに敏感だった山梨の空気が感じられる石碑だと思います。 -
これは石切り場跡。自由広場から天守の方に少し坂を上ったところに、ごつごつした石、岩がかたまってむき出しになっています。甲府城の石垣の石を切り出していた場所というのですが、ここはほとんど城内。石を切り出すと逆に妙なところに穴が開いてしまうようことにもなりかねない。一部の石だったとは思います。
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水溜跡は、その先。小さな井戸のような跡が残っているだけですが、中では金魚が泳いでいました。
城は籠城する際の水の確保は生命線。こうした水溜や井戸といった施設は死活問題にかかわるものでしょう。いろんな工夫があった城という理解でいいと思います。 -
甲府城の線刻画というのは、石垣の石におまじないとして書かれた絵のこと。稲荷櫓の横の石垣の前にその説明板がありました。石の端っこのようなところに鳥の絵を描いたものとかが示されていましたが、実際に探そうと思ってもかなり難しい。しばらくそれらしい絵を探しましたが、見つけられませんでした。難しいです。
さて、甲府城はここら辺で終わりにして。。 -
市街の方に戻ったら、武者行列の参加者ですね。
かなりの人数が城の方に向かっているところでした。 -
イチオシ
県庁広場にもキャラクターとか
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これは信玄公ご一行。行列に備えて、待機していました。
ただ、行列の出発は夕方から。まだまだかなり時間は先なんですけどね。 -
その前に、こちらでもいくつかチェック。
山梨県議会議事堂は、旧本庁舎である山梨県庁別館とともに昭和5年に竣工した戦前の建物。外壁に愛知県産のタイルを貼ったという鉄筋インコンクリート造りの建物は今でも十分美しい外観。古びた感じはほとんどしません。 -
中に入ると一転、今度はいかめしい重厚な雰囲気もあって、これもちょっと楽しめます。
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そして、山梨近代人物館は、山梨県庁旧館の二階。入口からしてちょっとレトロな雰囲気です。
山梨県出身で日本の近代化に貢献した人物たちを紹介する内容ですが、一番印象的なのは甲州財閥と呼ばれる人たち。若尾逸平、雨宮敬次郎を筆頭に明治中期から昭和初期にかけて鉄道や電力などで活躍。東武鉄道の根津嘉一郎や国際興業の小佐野賢治も名前を連ねていて、なかなか華麗じゃないですか。展示内容からは、時代の流れを読んだ甲州人独特の感性がなみなみならぬものであったことが窺えました。 -
やまなしプラザは、山梨県庁の南側。甲府駅から平和通りを歩くとすぐに大きな建物が見えてきます。
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一階の山梨ジュエリーミュージアムが一番の見どころですが、宝飾品の販売コーナーも併設されていて、たくさんの会社が売り場を出していてちょっと壮観。プレゼントの企画もあったり、たくさんの観光客で賑わっていました。
ところで、山梨は宝石の産地であり、その加工産業が発達してきた歴史があります。ジュエリーミュージアムでは、その宝飾品の数々を展示するとともに、技術の高さをビデオ等で解説。クリスタルを磨く技術とかあまり考えたことがありませんでしたが、なるほどねという感じ。透明感のある仕上がりだと逆にガラス細工にも見えてしまうのですが、そういうものではないこともよく分かりました。 -
そのまま、平和通りを甲府駅南口へ。
この甲府市のメインストリート沿いには、ほうとうの人気店の小作や鳥もつの奥藤本店もあるんですよね。 -
さて、武者行列までの間。平和通りでは、自転車競技が行われていました。
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少し下り坂の通りを一気に駆け降りる集団は、なかなかの迫力。なんか、自転車競技にぴったりの通り。あまりにもはまっていて、これも痛快でした。
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と。
武者行列の時間が近づいてきましたよ~
神輿を先頭に -
ゆるキャラチーム。
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信玄公ご一行様。
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山車もはさんで、
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いよいよですね。
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イチオシ
あれれ、騎馬軍団です。
赤い甲冑も恰好いいですね。 -
駅前から
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平和通へ向かいます。
これで気分が一気に高まりますよ~ -
甲州軍団の先頭もやってきましたね。
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騎馬軍団も戻ってきて、
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これは信玄の親衛隊。
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広場の前に陣取って、
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二十四将の諸隊を迎えます。
以下、祭りのパンフレットからの引用です。
風の1番隊
横田備中守高松~武功で34枚の感状を貰った弓矢巧者~ -
伊勢国出身の浪人であったが、武田信虎に召し抱えられ騎馬30騎、足軽100人を率いる足軽大将となった。信虎・信玄二代の重要な作戦のうち、34度に参加し・そのため全身に31ヶ所の疵痕があったと伝わる。天文19年(1550)、信玄が村上義清の属城戸石城(上田市)を攻略に失敗し退却する際、高松は、殿軍をつとめ、村上軍の追撃を一身に受けて戦死した。
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風の2番隊
飯富兵部少輔虎昌~信玄の信頼厚い赤備隊の猛将~ -
武田家の譜代家老で、山県昌景の実兄。信玄の父信虎と対立し挙兵したこともある反骨の人であった。信虎追放後は信玄を支え、信濃国内山城(佐久市)、塩田城、室
賀城(上田市)の在番や城主を歴任し、村上義清や上杉謙信の侵攻に備えた。信玄の嫡男義信の傅役となるなど重用されたが、義信と信玄が対立すると、虎昌は義信を庇い、責任を一身に背負って自刃したという。 -
風の3番隊
武田刑部少輔信廉 -
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風の4番隊
真田弾正忠幸隆~六連銭の旗印、城攻めに知略を発揮~
真田氏は、信濃国小県郡を中心に発展した滋野一族の支流で、幸隆は名族海野氏の出身といわれる。天文10年に・信玄の父信虎に攻められ、海野棟綱らとともに上野国に亡命したが、同15年までに信玄に臣従し、信濃経略で活躍した。後に出家して一徳斎と号した。晩年は上野国経略に専心し、岩櫃城、白井城などを攻略し、武田氏の上野国西部制圧を確実なものとした。天正2年に病没した。 -
風の5番隊
三枝勘解由左衛門尉昌貞~行政官僚としても手腕を発揮~
三枝氏は、古代以来の甲斐土着の豪族で、鎌倉時代に入って、甲斐源氏の勢力下に入った。父土佐守虎吉とともに、信玄に仕え、昌貞は奥近習に抜擢され、その後、
足軽大将となり騎馬30騎、足軽70人を預けられた。昌貞の武勇に、感心した山県昌景が、腰刀と山県姓を与え、山県善右衛門と名乗らせたという。天正3年の長篠の戦いでは、姥が懐砦を守備し、酒井忠次軍と戦って戦死した。 -
風の6番隊
馬場美濃守信春~上杉謙信の動きを監視した合戦巧者~
甲信国境の豪族教来石氏(武川衆)の出身で、天文15年(1546)に信玄に抜擢され、馬場氏の名跡を継いだという。川中島の戦いでは、山本勘助とともに「啄木鳥の戦法」を立案し、信玄に献策した。永禄5年より、信濃牧之島城に在城し、海津城の高坂弾正とともに上杉謙信の監視を行った。長篠の合戦では、勝頼を逃がすため殿軍を担って奮戦の末戦死した。その活躍は、織田方も称賛した。 -
林の1番隊
小山田左兵衛尉信茂~軍事的に重要な役舗を果たした知将~
小山田氏は・武田家の一門衆(御親類衆)の待遇を受けた名族。中津森(後に谷村)に館を構えて、都留郡を支配した曇族。信茂は、兄弥三郎信有が、永禄8年(1565)
8月に病没したため家督を相続し、信玄。勝頼二代に仕えた。勝頼時代には武田信豊とともに武田氏を支え、上杉氏との同盟交渉では中心的役割を果たした。武田氏滅亡後、職田軍に捕らわれ、処刑された。 -
林の2番隊
穴山玄蕃頭信君~御親類衆の筆頭として手腕を発揮~
信君の生母は信玄の姉南松院殿・正室は信玄の昼女見松院殿である。信君は、今川氏とも親交が深く、信玄の今川攻めに際しては、今川家臣の調略を担ったという。
長篠の合戦で、山県昌景が戦死したため・駿河江尻城主に就任し、織田・徳川氏に降伏し、武田氏の再興を夢見たが、本能寺の変に巻き込まれて死去した。 -
林の3番隊
内藤修理亮昌秀~軍略家として優れた西上野支配の譜代家老~ -
林の4番隊
土屋右衛門尉昌続~信玄・勝頼二代にわたった側近
西郡の豪族金丸虎義の次男で、金丸平入郎と称していた。信玄の奥近習六人に選抜され、永禄4年て1561)9月の川中島の戦いでは、本陣の信玄を守り奮戦したことか
ら、名族土屋氏の名跡を与えられた。元亀元年(1570)に右衛門尉に任官され、100騎を預かる侍大将に取り立てられた。天正3年(1575)の長篠の合戦で戦死した。 -
林の5番隊
武田典厩信繁~教養と学識の高い信玄の補佐役~ -
林の6番隊
一条右衛門大夫信龍~優秀な武士を召し抱えた「伊達者」~ -
信虎の7男(実は8男)。信玄の異母弟。武田氏の一門衆(御親類衆)として、100騎を率いた。信龍は、常日ごろから、武具の手入れや更新を怠らず、諸国の浪人の中か
ら、逸材を召し抱えるよう、心懸けていた。天正10年の武田氏滅亡の際には、本拠地上野城に籠城して徳川家康と戦い、信就とともに市川で処刑されたと伝わる。 -
ここでちょっと水入り。
いつの間にか、信玄公を演じる山下真司さんがいたようで。。
今度は、 塩野瑛久さんが演じる山本寛助に交代。 -
信玄の暗殺をもくろむ間者を成敗します。
ちらりと見えるだけですが、かなりのイケメンですね。ふーん。 -
ここからは、信玄の家族たち?
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大井夫人は
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尼姿。
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三条夫人に
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今度は湖衣姫ですね。
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武者行列の中でも、特にこの湖衣姫は、湖衣姫コンテストで選ばれた栄えある大役。皆さんの注目度は抜群です。
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さて、再び。。
火の1番隊
原隼人佑昌胤~地理感覚に優れた領域支配の行政官僚
信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられたといわれ、また信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担ったとされる。昌胤は地理に精通し、初めての場所でも方角を見失わなかったと伝わる。天正3年の長篠の戦いで山県とともに左翼を担当し、徳川軍と激戦の末戦死した。 -
火の2番隊
高坂弾正忠昌信~海津城代として信濃統治の一翼を担う
高坂弾正は石和の大百姓春日大隅の子で、信玄に見いだされて近習となり、足軽大将に抜擢、永禄3年(1559)ごろ海津城代に任命されるなど、異例の出世を遂げた。
長篠の戦いで、同僚の多くが戦死したことに衝撃を受け、信玄の言行や行動哲学などをまとめた書物を書き上げた。これが『甲陽軍鑑』の原本とされる。その後、上杉景勝と勝頼の同盟交渉役に就任したが、実現しないまま病没した。 -
火の3番隊
真田源太左衛門尉信綱~合戦の先頭で武勇抜群の信州先方衆 -
真田幸隆の嫡男。信玄の命により、父幸隆とともに上野国白井城を攻略し、同じころ、上野国岩櫃城代にも任ぜられ、上杉謙信の南下に備えた。信玄晩年の合戦には、ほとんど参加しており、その功績により、元亀3年には信濃の武士で、唯一、200騎という最大の兵力を与えられた。天正3年(1575)の長篠の戦いでは、弟昌輝とともに、勝頼を逃がすために奮戦して戦死した。
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火の4番隊
山県三郎右兵衛尉昌景~行政・外交・軍事面の中心的人物
武田家の譜代家老飯富氏の出身で、虎昌の弟。信玄の側近、奉行として活躍した。信玄の命により、名門山県氏の名跡を継ぎ、処刑された兄虎昌の配下をはじめとす
る100騎を預かり、譜代家老に連なった。昌景の部隊は装備を赤で統一していたことから、「山県の赤備え」と呼ばれたという。駿河江尻城主(静岡市)に就任し、織田・徳川氏と対峙した。長篠の合戦では、徳川軍と激戦を展開し戦死した。 -
火の5番隊
甘利備前守虎泰~剛勇で名をはせた治国の最高責任者
武田氏の譜代家老で、板垣信方とともに両職という最高職に就任していたとされる重臣。甘利氏は、甲斐源氏の支流にあたり・武田氏を支えて活躍した。武田信虎・信玄二代に仕え・100騎を率いる侍大将でもあった。武田信虎追放時には・板垣とともに信玄擁立に尽力した。天文17年2月、信玄が村上義清と戦い、初めての敗戦を喫した上田原の合戦で板垣とともに戦死した。 -
火の6番隊
小幡山城守虎盛~36度の功名・41カ所の手傷
小幡虎盛は・遠江国出身の浪人で、父日浄とともに武田家に仕官し、騎馬15騎、足軽75人を預かる足軽大将に任じられたという。信虎・信玄二代の重要な作戦のほとんどに参加し、永禄3年(1560)に信濃海津城が完成すると、高坂弾正を補佐役として在城した。虎盛は、川中島の合戦の直前に病没した。「よくみのほどを
しれ」と子息に遺言したという。 -
山の1番隊
小幡豊後守昌盛~17度の合戦で17の功名を立てた武芸達者~
小幡虎盛の息子。父の死後、自ら希望して信玄の旗本となった。馬の名手で、敵状視察に赴き敵に追われても決して捕まることがなかったという。武田氏滅亡の際は、病気のため、勝頼に従うことができず、甲府善光寺門前で暇乞いをしてまもなく死去した。信玄・勝頼の事績を描いた、『甲陽軍鑑』の編者小幡景憲は、昌盛の3男である。 -
山の2番隊
多田淡路守満頼~夜襲が得意で「火車」鬼を打ち取った豪傑
多田淡路守は、美濃出身の浪人・仮名は三八郎といい、多田三入と略称されることが多い。足軽大将に任命され、信虎以来、数多くの合戦に参加し、感状をもらうこと29度に及び、そのため全身に27ヶ所の疵痕があったという。信濃虚空蔵砦を警固していた時に、現れた鬼を退治したとの伝説がある。満頼の死後は、息子多田新
蔵が後継者となったが、長篠の戦いで戦死したと伝わる。 -
山の3番隊
板垣駿河守信方~文武両道に秀でた北条氏との折衝役
武田氏の譜代家老で、両職という最高職に就任していた重臣。甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。天文10年の武田信虎追放の際には、甘利・飯富らの宿老を説得し、信玄擁立を果たしたという。信玄が、同11年に諏訪頼重を滅ぼすと、上原城(諏訪市)で占領地の統治にあたった。天文17年2月、信玄が村上義清と戦い、初めての敗戦を喫した上田原の合戦で戦死した。 -
山の4番隊
秋山伯耆守虎繁~織田信長との交渉役を務めた譜代家老
秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄である。天文15年(1546)に侍大将に抜擢され、大島城などの城代を歴任、伊那の土豪春近衆を配下に置き、織田・徳川氏を監視した。元亀3年(1572)、信玄が西上作戦を開始すると、虎繁は美濃に侵攻し、遠山景任未亡人(織田信長の叔母)の守る岩村城を奪取した。長篠敗戦後、織田信忠軍に包囲されて降伏し、岐阜で処刑された。 -
山の5番隊
原美濃守虎胤~鬼退治で有名な渡辺網に例えられる剛勇者
下総国千葉氏の一族原氏の出身。信虎に仕える。部下10人で100人分の働きをするといわれ、武田家から賜った感状は38通、全身の傷痕は53ヶ所に及び、鬼美濃と恐れられたという。天文20年には信濃国平瀬城主に任命された。信玄の出家とともに剃髪し、清岸と号した。永禄4年(1561)、信玄が信越国境の上杉方の拠点割ケ
岳城を攻めた際に重傷を負い、川中島の戦いには参加できなかった。 -
山の6番隊
山本勘助晴幸~他国の情報と軍法の知識で功績 -
三河国牛窪出身の浪人で、隻眼となり、片足も不自由になったという。天文12年(1543)、板垣信方の推薦で、信玄に召し抱えられ、足軽大将となる。内政、軍略、築城術に関する信玄の諮問に答え、さまざまな意見を具申する軍師として、重用された。永禄4年(1561)の川中島の戦いで、上杉謙信撃滅の秘策として、「啄木鳥の戦法」を進言するが失敗し、責任を痛感して、乱戦の中に身を投じて戦死した。
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そして、最後は再び親衛隊。
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イチオシ
山下真司さん演じる信玄公の勝鬨で最後を締めます。
エイエイオー。エイエイオー。 -
信玄を守る騎馬武者隊とともに
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駅前広場を出発していきました。
なるほど。。
武田信玄の神話的な活躍はすごいですが、甲州軍団は、二十四将それぞれにドラマがあるのがまたすごいところ。信玄の強さを信じて、自らの命を投げ出す戦いに明け暮れる。最後は滅びることになったとしても、その生き様を思うと今でも胸が熱くなるような気がします。
二十四将を解説するアナウンスが会場に響き渡って、その雰囲気もまたこの祭りの独特な醍醐味かなと思います。 -
甲府市内には有名なほうとうのお店があちこちあるのですが、今回は、あれこれ考えず、セレオに入った郷土料理 信玄でほうとうをいただきました。
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ここは、信玄餅で有名な桔梗屋さんがやっているんですね。ほうとうには見事なカボチャの塊りがごろんと入っていてちょっとびっくりでしたが、全体としてはあっさり系。ほどよい出汁味の効いたほうとうでした。
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