2019/03/06 - 2019/03/06
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AandMさん
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コレヒドール島は小さな島ですが、マニラ湾の入り口にあるため、スペイン統治時代(1565-1898年)からマニラ防衛や商船の通関などで、重要な役割を果たしています。米西戦争を経てフィリピンが米国統治(1898-1946年)になった時に、この島は米軍によって砲台を備えた要塞になりました。
通関施設や要塞のままであれば、島はそれほど注目を浴びないと思いますが、第2次世界大戦の際に日本と米国軍の間で、島を舞台に極めて激しい戦闘が行われました。開戦直後の1942年に日本軍がこの要塞島を攻めて占領しましたが、1945年には米軍の反攻で奪還されました。1942年の戦闘に敗れて、米軍司令であったマッカーサーが島の波止場からオーストラリアに撤退しています。大戦末期1945年の米軍反攻で徹底的に攻撃され、島を守っていた約6700人の日本兵の中で生き残ったのはわずか50人だったそうです。二度にわたる島の攻防で、米軍やフィリピン軍にも沢山の戦死者が出ています。
現在でも、戦時中に使われた砲台と大砲、弾薬庫、兵舎などがそのまま残されています。日本、米国、フィリピンの慰霊碑なども建設されています。コレヒドール島は、大戦直後の状態が保存された戦争遺跡です。
マニラを訪問した際に、コレヒドール島日帰りツアーがありましたので参加しました。破壊された施設や多数の機銃痕が残る砲身などから、当時の戦闘の激しさが想像されました。多くの若者の命が失われたことを知って現地を見学すると、戦争がもたらす悲劇を感じさせられます。
ヨーロッパで古代ローマやギリシャの戦跡を沢山見学しましたが、戦争に纏わる悲哀をあまり感じませんでした。今回のコレヒドール島見学では、日本が関与した70年程前の戦争であったことから、亡くなられた方々に対する追悼の念と悲哀を感じました。
戦争の無い平和な時代、自由に旅行できる幸せを感じさせてくれるコレヒドール島日帰りツアーでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.5
- 交通
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- ジャルパック
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3月6日
日帰りツアーでコレヒドール島を訪れます。朝6時に、ホテル(Pan Pacific Manila)に旅行会社の方が迎えにきてくれました。車で10分程走って、フェリーターミナル(Esplanade Seaside Terminal)に到着しました。 -
ターミナルのサンクルーズ社(Sun Cruses)カウンターで、旅行会社の方が乗船手続きをしてくれました。乗船は7時過ぎです。
サンクルーズ フェリー 船系
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フェリーターミナルに沢山の船が停泊しています。朝が早いので、埠頭には誰もいません。
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乗船しました。チケットに書かれた指定席に座ります。混んでいません。2/3程度の席が空席でした。定刻の7:30amに出航しました。
コレヒドール島まで1時間半ほどかかりますが、その間、太平洋戦争中のコレヒドール島の様子を写した古いムービーが上映されました。ナレーションは英語です。 -
島に到着し、下船します。船会社の方が冷たい飲み物で歓迎してくれました。季節は冬ですが、気温は30℃近いので、日本人感覚では真夏です。
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3台のオープン観光バスに分乗して、島内観光に出発です。
1号車はフィリピン語(タガログ語)、2号車は英語、3号車が日本語で観光案内がなされます。我々は3号車で全部で6名でした。5名以下だと、英語のバスに乗せられるそうですがギリギリで日本語ツアーがアレンジされました。 -
旅行会社のエドさんが日本語で観光案内をしてくれました。エドさんはフィリピンの人で、相当年配の方です。分かり難い日本語ですが、言葉の断片から、何となく内容を理解することが出来ます。
コレヒドール島への出入はツアー企画しているSun Cruses社の船だけのようで、島は戦争遺跡観光に特化されています。港にお店などの施設はありません。 -
舗装された島の道路を、オープン観光バスがゆっくりと進みます。島唯一のホテル(Corregidor Inn)が見えてきました。
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坂道を登ると、船が到着した波止場(Engineer's Dock)が見えました。長閑な光景です。
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島に残された米軍兵舎遺跡(Middle Side Barracks)です。1915年に米軍が建設した大きな兵舎です。エドさん説明では、この建物は日本製セメントで建造され、とても丈夫だそうです。1915年は日米開戦以前ですので、セメントが日本から輸入されても不思議ではありません。
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1941年12月の日本軍の激しい爆撃で破壊され、そのまま放置されています。内部には入れません。脇の道路から見学しました。
マイルロング旧兵舎 建造物
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Battery Wayでは大砲や弾薬庫を見学しました。
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弾薬庫の壁に英文説明プレートがありました。この砲台(Battery Way)は1914年に造られ、設置されている12インチ砲で重さ454kgの弾頭を13km先まで撃つことが出来た、と書かれています。
太平洋戦争初期の1942年12月の日本軍の攻撃で、コレヒドール島の米軍は降伏しています。 -
12インチ砲は、台座が360度回転し、射角も調整可能です。砲動作には、発電機で作られた電力が利用されました。
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先端部から見た12インチ砲です。内部に線条痕が切られていました。この大砲を用いた正確な砲撃で、日本軍は相当苦しめられたのではないか、と思われました。
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弾薬庫から重量のある砲弾を移動するための線路跡も残されています。運び出し用のクレーン装置跡もありました。
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弾薬庫の鉄扉に残されていた銃痕です。コレヒドール島攻撃の際に、日本軍が発射した機関銃痕です。
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Battery Way から300m程の距離にある別の砲台(Battery Hearn)です。1921年に米軍が造ったものです。南シナ海に向けられた12インチ砲で、この島で最大の射程距離27km、454kgの砲弾を撃つことが可能でした。日本軍が島を占領した際に、この砲台が記念写真撮影の舞台に選ばれ、ツアーでもエドさんが当時の写真を見せながら説明してくれました。
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Battery Wayの英文説明プレートです。内容は米軍の立場で書かれています。
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コレヒドール島には、このような砲弾があちこちにありました。弾薬は抜かれていますが、Battery Wayの大砲で使用された 454kg砲弾です。
コレヒドール島 ビーチ
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200mほど離れた所にあるBattery Grubbsです。砲台と弾薬庫遺跡がありました。
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砲身が砲台から取り外されて床に置かれていました。
戦争終了後にフィリピンの泥棒達が、砲身を取り外して切断して売却しようとしたけど、途中で何らかの理由で諦めたため、このような状態になっている、との説明がありました。砲身を良く見ると、途中まで切断された跡が残っていました。 -
Battery Grubbsは1942年に島を占領した後、日本軍が使用しています。
建物の壁に「吉田部隊用」のペンキ文字が残されていました。吉田部隊に所属された兵士の方々は、1945年の米軍反攻の戦闘で亡くなられたようです。傍らにお酒と線香が手向けられていました。 -
兵舎残骸が残っていました。島の中央部にあったMiddle Side Barracksです。損壊が相当進んでいる遺跡です。
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島中央部の高台に、現在も使われている灯台(Corregidor Island Lighthouse)がありました。マニラ湾を出入りする船のため、スパイン統治時代の1853年に最初の灯台が建設されています。現在の灯台は1950年に再建されたもので、灯台の下部は簡略な博物館になっています。現在、灯台電力は太陽光発電パネルから供給されています。
以前は灯台の上まで登ることができましたが、木製階段が白アリ腐食で劣化したため、現在は公開されていません。 -
灯台博物館に最初に建設された灯台の写真が展示されていました。
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灯台への電力供給用の太陽電池パネルです。
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灯台手前にある屋外レストランで昼食を取りました。日陰で涼しい風も通り、なかなか快適でした。
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周囲に美しい花も咲いています。平和の有難みを感じさせられます。
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別料金を払うと、ビールも楽しめます。
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昼食はビュッフェ形式のフィリピン料理でした。スイカとバナナのフルーツもありました。
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灯台がある場所は島の最高地点で、周囲は公園として整備されています。
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美しい花々が咲いています。
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花びらの大きなピンク花です。激しい戦闘があった時は、島の木々や草花は吹き飛び、荒涼たる景観が広がっていたそうですが、戦後70年以上が経過して、島は元の自然な状態に戻りつつあります。
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灯台前の公園に方位標識がありました。東京、サンフランシスコ、マニラまでの距離が書かれていました。この島で戦った日本、米国、そしてフィリピンの兵士達を思って、この標識が建てられたのではないでしょうか。
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日本軍が使っていた機関銃や砲です。米軍の大型で強力な大砲と比べると見劣りがします。乏しい装備で戦闘を戦い抜いたことが想像されました。
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太平洋戦争記念館です。
太平洋戦争記念館 現代・近代建築
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ホールに太平洋戦争にちなむ種々の品々が展示されていました。
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Corregidor Flagと呼ばれる米国旗です。
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銘板説明によると、コレヒドール旗(Corregidor Flag)は1898-1899年の間、この島で掲揚されていた米国旗で、星の数は45です。米国の州数が45であった時代の旗であることが分かります。
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大きな砲弾がありました。戦艦「武蔵」の砲弾だそうです。武蔵はコレヒドール島に近いレイテ沖海戦で沈没しています。最後の戦闘の前に、武蔵の乗員がコレヒドール島に上陸しています。
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日本軍関係の品々で、水筒、飯盒、裁ちバサミ、千人針が展示されていました。
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島中部の北側にある波止場は、コレヒドール島ツアーの見学スポットになっていました。マッカーサー将軍の像が立っていました。
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Lorcha Dockは、1942年に日本軍がコレヒドール島を占領する直前に米軍司令官であったマッカーサーがオーストラリアに向けて脱出した(逃げ出した)波止場です。
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マッカーサー像の台座に"I shall return, 戻ってくる"と書かれていました。ただ、この有名な言葉は波止場ではなく、オーストラリアに到着してから発せられたもと伝えられています。勝者国の将軍の言葉として、脚色されているのではないかとも思います。
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波止場(Lorcha Dock)は米軍が作ったもので、別名マカーサー・ドック(MacArthur's Dock)と呼ばれています。
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波止場にあった船係留機です。錆びていますが、マッカーサーがオーストラリアに向けて脱出した船が、これを利用したと思われます。年月の経過が感じられます。
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日本軍兵士達がが掘った防空壕の跡です。崩れかけた壕が、道路沿いに沢山ありました。兵士達は、大変厳しい状況で戦闘をしていたことが想像されます。
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島東部にある日本平和庭園には観音像が立っていました。太平洋戦争で亡くなったフィリピンと日本の戦没者を慰霊するため、1994年に横浜の方が建立されたものです。世界平和が祈願されています。
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平和公園にも、沢山の砲がありました。これらの砲は海に向けられ、電動ではなく手動で狙いが設定できる構造になっていました。
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砲身に残された多数の弾痕が戦闘の激しさを物語っています。
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戦艦「武蔵」乗組員慰霊碑です。レイテ沖で沈没した戦艦武蔵の乗組員は、米軍との最後の戦闘の前にコレヒドール島に上陸してます。この碑には「戦艦武蔵乗員集結之地、昭和19年10月25日、武蔵会」と記されています。
武蔵記念碑 モニュメント・記念碑
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コレヒドール島戦没者の慰霊碑です。
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平和公園に、亡くなった兵士の名前が書かれたプレートが多数設置されていました。戦没者の身よりの方々が、冥福を祈って、戦後に設置されたものです。20-40代の兵士が、昭和19年から20年にかけて、この地で沢山命を落とされています。
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米軍が1932年に造った防空壕マリンタ・トンネルです。この防空壕は、戦闘が激しくなった時の軍司令部や病院として使われています。長さ253m、幅7.3m、高さ5.5mの主要トンネルの脇に北方向に13、西方向に11の枝トンネルで構成されています。
マリンタ トンネル 建造物
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トンネル見学では、入場チケットが必要です。
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ガイドさんの案内(英語)で、トンネル内に入ります。枝トンネルがある箇所で、説明を受けながら、前に進みます。
マリンタ トンネル 建造物
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米軍が最初にトンネルを利用していた頃の光景が、再現されています。
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トンネル内の米軍オフィスです。
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戦争当時のムービーも上映されますので、当時の様子が分かります。
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日本軍攻撃で負傷した米軍人の多くは、トンネル内にある病院ベッドに収容されました。
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島を日本軍が占領してから、このトンネルは日本軍の指令所として使われています。
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ツアーの最後で、フィリピン国旗が掲揚されました。戦争の苦難を経て、フィリピンが独立したことを象徴する国旗掲揚のようです。
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枝トンネルの一部では崩壊が進んでいました。
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危険なので近づかないように、との掲示もあります。
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マリンタ・トンネルの構成図です。1945年の米軍の反攻で、島を守っていた4000人にも及ぶ兵士がトンネル爆破で玉砕されたそうです。悲惨なことが、このトンネルで実際に起こったことを知ると、暗鬱な気分になりました。
兵士達は、戦士の掟に従って戦闘に参加して亡くなられています。戦没者の霊安らかであることを願うとともに、戦争のない平和な時代が続くことを願わざるを得ません。マリンタ トンネル 建造物
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コレヒドール島ツアーを終えて、波止場(Engineer's Dock)に戻ってきました。
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帰りの船に乗船します。
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船はコレヒドール島を後にして、マニラの波止場に向かいます。
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船からみたコレヒドール島は、木々が茂る熱帯の小さな島です。70年程前に、この島で激しい戦闘があったことは、この長閑な景観からは想像できません。
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この日はツアー参加者が少な目で、船内には多数の空席がありました。帰路は、適当に船内を移動しながら外の景色を眺めることが出来ました。
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船の先頭部から見た景色です。マニラ高層ビルが見えてきました。
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船は出発したフェリーターミナル(Esplanade Seaside Terminal)に到着しました。
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下船して波止場を陸に向かって進みます。
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フェリーターミナルに戻ったのは、4時過ぎです。朝6時から10時間程の日帰りのコレヒドール島ツアーでした。
マニラ湾のクルーズ往復も含めてノンビリした島観光かなと最初は考えていましたが、実際に島を訪問して砲台やトンネルなどの戦跡を巡ると、戦争で亡くなった方々に対する追悼の気持、国の方針に忠実に従って戦った兵士達の苦難、そして戦争のない平和の有難さなどを感じさせられました。少し重めの感傷が残りました。
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